見出し画像

「あいについて語るときに我々の語ること」――『ガン・ストリート・ガール』訳者あとがき【刑事〈ショーン・ダフィ〉シリーズ】

 〈ショーン・ダフィ〉シリーズ最新作にして最高傑作『ガン・ストリート・ガール』は全国で好評発売中です! 今回はシリーズの翻訳者、武藤陽生氏による訳者あとがきエッセイを特別掲載いたします。シリーズファン必読です!

ガン・ストリート・ガール


あいについて語るときに我々の語ること

 大変お待たせいたしました。刑事〈ショーン・ダフィ〉シリーズ四作目をようやく日本の読者のもとに届けることができ、ほっと胸を撫でおろしています。本作はシリーズの転換点ともいえる作品で、訳者は原書を読み終えたあと、猛烈に続きを読みたくてたまりませんでした。
 一作目『コールド・コールド・グラウンド』の有志読書会に呼んでいただいた際、参加者のなかに「ショーンを好きになれない」という方が多かったのですが、そうした意見に対して僕は「どうか四作目まで読んでほしい、きっとショーンの幸せを願わずにいられなくなるから」と言いました。読み終えたみなさんが同じように感じてくだされば、それに勝る喜びはありません。
 四作目が無事に出版された今、「あい」について少しお話ししておきたいと思います。
「あい」は英語の“aye” の音訳で、“Aye, aye, sir”(アイアイサー)の「アイ」でもあります。北アイルランドでよく使われますが、固有の方言というわけではありません。一作目が出版されたあと、「〝あい〟とはいったいなんなのか」という問い合わせが編集部に複数あったそうです。読書メーターやアマゾンをはじめとするインターネット上の読者レビューにもあらかた眼を通していますが、「あい」への言及(苦情)はとても多いと感じています。
 実は『コールド・コールド・グラウンド』に着手した時点で、三作目『アイル・ビー・ゴーン』まで訳すことはほぼ決定していましたが、僕は本作、つまり四作目こそがシリーズの白眉であり、なんとしてもこれを日本の読者に読んでもらわなければならないと感じていました。しかし同時に、多くの日本人にとって馴染みの薄い北アイルランドが舞台であることや、鳴り物入りで紹介されるであろう『アイル・ビー・ゴーン』の密室トリックが、とある有名本格ミステリ作品中のトリックと酷似していることから、最初の三部作は「やや決定力に欠ける」とも感じていました。このシリーズをふつうに訳したら、きっと三作が出版された時点で刊行が途絶えてしまうだろう。でもなんとしても四作目を翻訳したい。そう思いました。
 そんなとき、一介の翻訳者にできることはほぼ皆無ですが、ひとつだけ考えがありました。それが“aye” をすべて「あい」と訳すことだったのです。北アイルランドで多用されるこの方言をシリーズの顔にしたい、翻訳小説多しといえど「あい」を眼にできるのはこのシリーズだけ、「あい」を読みたいというただそれだけのためにシリーズを読む人が出てくる──そんな根拠なき確信がありました。双葉十三郎氏の訳されたフィリップ・マーロウの口癖は「うふう」です。この台詞はだいたいにおいて意味がよくわからないのですが、僕はハードボイルドなマーロウと「うふう(原文ではuh-huh)」のギャップが好きで、「あい」もそんなふうに、いいのか悪いのかわからないけどなんだか癖になる、という台詞として定着してほしいと願っていました。今思い返すと、若気の至りというほど若くはないし、荒唐無稽で独りよがりな使命感に燃えていたな、とも思います。
 最初のうちは拒絶反応が出てくることは想定していました。担当編集者たちの名誉のために記しておきますと、彼らは「せめてカタカナの〝アイ〟にしたら?」「“aye” を全部〝あい〟と訳すとくどいから、半分くらいにしては?」「〝あい〟にルビで“aye” と振っては?」など、さまざまなアイディアを出してくれました。僕はそれらすべての提案を突っぱね、「〝うん〟でも〝ああ〟でも〝へい〟でも〝アイ〟でもなく、絶対に〝あい〟です」と頑なに主張しつづけてきました。
 小説の翻訳はあまりお金にならない仕事です。僕はゲーム翻訳の仕事もしていますが、収入面ではそちらのほうがずっと恵まれています。出版翻訳はどうしてもやりたかった仕事ですが、子供が生まれたばかりということもあり、このまま続けるべきかどうか悩みました。『コールド・コールド・グラウンド』の翻訳依頼を受けたとき、心の片隅に、このシリーズが自分の最後の翻訳小説になるかもしれないという思いがありました。他人から見たら理不尽なほど「あい」にこだわった理由は、そんなところにもあるのかもしれません。
『ザ・チェーン 連鎖誘拐』の解説によれば、マッキンティ氏は小説だけでは食べていけないのでウーバーのドライバーに転身することを考えていたそうですが、氏の境遇が自分に重なり、なんだか勇気づけられました。
 最後になりますが、シリーズを訳す際、大いに警察用語の参考にさせていただいたのが『機龍警察』だったこともあり、月村了衛氏の推薦文をいただけたことは訳者として望外の喜びです。
 続く五作目は本作よりさらにおもしろく、六作目は五作目よりずっとおもしろくなります。本作でより鮮明になったように、このシリーズの真髄は北アイルランドでも紛争でも、もちろん「あい」でもなく、ショーン・ダフィその人なのです。次巻以降もぜひ楽しみにお待ちいただければと思います。
 二〇二〇年九月

【あらすじ】

 富豪の夫妻が射殺される事件が発生した。当初は家庭内の争いによる単純な事件かと思われたが、容疑者と目されていた息子が崖下で死体となって発見される。現場には遺書も残されていたが、彼の過去に不審な点を感じたショーン・ダフィ警部補は、新米の部下と真相を追う。だが、事件の関係者がまたも自殺と思しき死を遂げ……。混迷深まる激動の時代の北アイルランドを舞台にしたハードボイルド警察小説シリーズ、第四弾にして最高潮。

【書誌情報】


■タイトル:『ガン・ストリート・ガール』 
■著訳者:エイドリアン・マッキンティ/武藤陽生訳 
■本体価格:1,300 円(税抜)■発売日:2020年10月 ■ISBN: 9784151833069■レーベル:ハヤカワ・ミステリ文庫
※書影等はAmazonにリンクしています。