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実現しなかったアポロ18号を題材にして宇宙飛行士が描いた、衝撃の改変歴史SFスリラー。クリス・ハドフィールド『アポロ18号の殺人』、中村融氏による解説

ハヤカワ文庫SFより8/3発売のクリス・ハドフィールド『アポロ18号の殺人』(中原尚哉訳)の舞台は、アポロ18号の打ち上げがせまった1973年のアメリカが舞台。ここでピンとくる方もいらっしゃるはず。アメリカNASAによるアポロ計画は、史実ではアポロ17号まで実地されました。歴史改変SFmp本書では、米ソ冷戦下に、軍事目的で最後のアポロ月着陸ミッションとしてアポロ18号が飛び立とうとしています。しかし、その打ち上げ直前、事件が起きて……。
 本書の著者は計3回の宇宙滞在歴をもつ宇宙飛行士クリス・ハドフィールド。「宇宙飛行士について書くのに宇宙飛行士は最適だ」と『プロジェクト・ヘイル・メアリー』著者アンディ・ウィアーに言わしめた本作、SF評論家の中村融さんに、本書の背景と改変歴史SFについて解説していただきました。こちらにその解説を掲載します。

クリス・ハドフィールド『アポロ18号の殺人』

解  説

SF評論家  中村融 

 東西冷戦がたけなわだった1961年5月25日、時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディは、議会で歴史に残る演説をした。「1960年代が終わる前にアメリカは人間を月に着陸させ、安全に帰還させるという目標を達成するだろう」と宣言し、「たやすい道だから行くのではない。困難な道だからこそ行くのだ」と締めくくったのだ。
 じつはすこし前の4月12日、ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンが史上初の有人宇宙飛行を成功させており、アメリカは宇宙開発と、それと表裏一体である大陸間弾道ミサイルの開発において大きく遅れをとったことが明らかになっていた。ケネディは国家の威信をかけて、起死回生の策を打ち出したのである。
 無謀とも思えるスケジュールだったが、アメリカは国をあげてこの事業(アポロ計画)を推進し、1968年12月21日打ち上げのアポロ8号で初の月周回飛行に成功。1969年7月20日にはアポロ11号の月着陸船イーグルが月面に降り立ち、みごと目標を達成した。
 その後、宇宙空間で事故を起こし、奇跡の生還を果たした13号をのぞいて、12号から17号までが月着陸を果たしたが、月到達競争(ムーン・レース)に勝利をおさめると、国民の関心は急速に薄れ、巨額の費用のかかる有人月探査に批判の矛先が向けられるようになった。そして最後の月飛行を終えた17号の司令船アメリカが、1972年12月19日に南太平洋に着水し、計画は終わりを告げたのだった。
 NASAは20号までの打ち上げを予定しており、サターン・ロケットなどの機材を準備していたのだが、これらは月へ向かうことなく、一部は有人軌道実験室スカイラブや、米ソ協調のシンボルとされたアポロ゠ソユーズ共同宇宙飛行に転用された。
 ──というのがわれわれの知る史実だが、この小説のなかでは一九七三年四月にアポロ18号が月へ向かって飛び立つ。とすれば「改変歴史」もの、つまり、われわれとは別の時間線をたどった世界を舞台にした物語ということになる。歴史の分岐点ははっきりしないが、そう遠い時点ではないらしく、作中の世界はわれわれの世界とほとんど変わらない。極端にいえば、幻に終わった米ソの宇宙計画が実現している点だけがちがっている(ただし、ウォーターゲート事件は発生しなかったようだが)。
 作者はアポロ11号月着陸のTV中継を見て宇宙飛行士を志し、じっさいに3度も宇宙へ出たという経歴の持ち主。豊富な知識と経験を基に、ありえたかもしれない18号の飛行計画を準備段階から書き起こし、その詳細を迫真の筆致でつづっていく。さらに、ルノホートをはじめとして、アポロと並行して進んでいたソ連の宇宙計画にも紙幅を割き、その全容を明らかにしている。じつは筆者がいちばん感心したのがこの部分で、さすがにロシアでも訓練を積み、ソユーズ宇宙船に乗ったことのある人はちがう、と思わされたのだった。
 とはいえ、技術一辺倒の小説かといえばさにあらず。宇宙計画の裏面である軍事上の問題を正面からあつかい、米ソの思惑がからみ合うさまを描いて、その読み味は国際謀略小説に近い。ともあれ、他に類を見ない小説に仕上がっていることはたしかだ。本格的な小説としてはこれが第一作というから、元宇宙飛行士という経歴をぬきにしても、注目に値する作家が登場したといえる。
 
 ところで、本書は宇宙開発を題材にした「改変歴史」ものだが、なぜ歴史を変えてまで、われわれの世界では幻に終わった計画を実現させようとするのだろう。
 簡単にいってしまえば、それが「合わせ鏡」となって、宇宙開発の現状を批判的に映しだすからだ。21世紀になっても月に入植地(コロニー)はなく、人間は火星にも到達していない。かつての輝かしい未来はどこへ行ってしまったのか。われわれは、いったいどこでまちがえたのか──こうした疑問に答える手がかりをあたえてくれるのだ。
 1957年10月4日にソ連が史上初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げてから30年以上がたち、宇宙開発が「歴史」の領域にはいりはじめたころから、この種の作品が目立つようになった。先陣を切ったのはアメリカのアレン・スティールだ。歴史の分岐点を1944年に設定し、われわれの歴史より宇宙開発が早く進んだ世界を舞台にして、一連の作品を書きあげた。人類初の月着陸の顛末をつづった「ジョン・ハーパー・ウィルスン」(1989/〈SFマガジン〉1991年9月号に訳載)、アメリカ・ロケット工学の父、ロバート・ゴダードの研究が早期に実を結ぶさまを描いた “Goddard’s People” (1991) の二作で筆ならしをしたあと、長篇 The Tranquillity Alternative (1996) で改変された宇宙開発史を本格的に書き記した。この世界では月面に核ミサイル基地が作られており、その非武装化をめぐってスパイ小説風のプロットが展開される。筆者の知るかぎり、本書にいちばん近い作品だといえる。
 本書と同じく、アポロ計画が続行された世界を舞台にしたのが、アメリカの作家ウィリアム・バートンの短篇「サターン時代」(1995/ハヤカワ文庫SF『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』〔2010〕に所収)だ。改良に改良を重ねたサターン・ロケットでアメリカが着々と宇宙へ進出し、2001年に木星圏へ到達するまでの歴史が、カット・バックの手法で活写されている。
 イギリスのスティーヴン・バクスターは、「改変歴史/宇宙開発」ものの第一人者といえるかもしれない。長短とりまぜて、おびただしい数の作品を書いており、その趣向も多岐にわたる。たとえば短篇「軍用機」(1997/河出文庫『20世紀SF⑥ 1990年代 遺伝子戦争』〔2001〕に所収)は、米ソの宇宙競争が「熱い戦争」を招いた歴史を描いた作品だが、アメリカの宇宙飛行士が月面でソ連の無人探査機ルノホートを破壊する場面からはじまる。
 とはいえ、第一に推すべきは長篇Voyage (1996) だろう。ケネディ大統領が暗殺されず、NASAがアポロ以後の月探査をつづけた歴史線上の世界を舞台に、八六年に行われた人類初の有人火星探査を描いており、そのあまりにもリアルな筆致は、「改変歴史上の世界に実在するノンフィクション」といった観を呈している。ちなみに同書は Titan (1997)、Moonseed (1998) とともに《NASA三部作》を構成する。
 これらの秀作と肩を並べるのが、わが国の佐藤大輔が著した《遙かなる星》シリーズ(1995〜96/現在はハヤカワ文庫JA)だ。1962年のキューバ危機が全面核戦争を引き起こし、アメリカとヨーロッパでは文明が崩壊。かわって超大国となった日本とソ連が独自の路線で宇宙開発を推し進めるという設定で、ひたすら居住空間を宇宙に広げようとする日本の姿勢が問われる。技術的なディテールといい、独特の哲学に裏打ちされた用語といい、世界に誇れるシリーズだが、作者の早逝によって未完に終わったのが惜しまれる。
 このほか『宇宙(そら)へ』(2018/ハヤカワ文庫SF〔2020〕)に代表されるメアリ・ロビネット・コワルの《レディ・アストロノート》シリーズ(2012〜)や、すこし毛色のちがう牧野圭祐の《月とライカと吸血姫(ノスフェラトゥ)》シリーズ(2016〜/小学館ガガガ文
庫)といった作品が記憶に新しいが、これらについては筆者よりも読者のみなさんのほうが詳しいだろう。書名をあげるだけにとどめたい。
 
 最後に作者について簡単に触れておく。
 クリス・ハドフィールドは1959年8月29日、カナダはオンタリオ州のサーニアで生まれた。前述のとおり、アポロ11号の月着陸に感化されて宇宙飛行士をめざし、カナダ空軍のテスト・パイロットを経てカナダ宇宙機関の宇宙飛行士となり、一九九五年と2001年にスペース・シャトルで宇宙へ出たあと、2012年12月にソユーズ宇宙船で国際宇宙ステーション(ISS)へ渡り、翌年五月まで滞在した。このときは司令官を務めるかたわら、積極的にメディアに露出し、歌とギター演奏を披露するなどして世界的な人気を集めた。ISSでレコーディングされた曲は、のちに Space Sessions: Songs From a Tin Can (2015) というアルバムになった。
 2013年7月に宇宙飛行士の職を辞したあとは著作活動にも力を入れ、自伝『宇宙飛行士が教える地球の歩き方』(2013/早川書房〔2015〕)、ISSで撮った写真を集めたYou Are Here: Around the World in 92 Minutes: Photographs from the International Space Station (2014)、絵本『くらやみのなかのゆめ』(2016/小学館〔2017〕)を発表。そして2021年に小説第一作である本書『アポロ18 号の殺人』(原題The Apollo Murders)を上梓した。今後ますますの活躍が期待される。

***

『アポロ18号の殺人』・下
The Apollo Murders
クリス・ハドフィールド
中原尚哉 訳
装画:Yuta Shimpo  装幀:岩郷重力
ハヤカワ文庫SF/電子書籍版
各1,166円(税込)
2022年8月3日発売  

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