6524年後の未来、巨大ガス惑星で宇宙漁。 『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』プロローグ
3月18日発売の小川一水氏による新作宇宙SF『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』から、作品プロローグにあたる12000字を無料公開。表紙のふたりの物語が始まる数百年前、とある船団での出逢いと別れの物語です。
『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』
著:小川一水
イラスト:望月けい
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──周回者暦一八年
(星十二指腸暦八五四四年)
八〇〇〇メートルの曳き綱を監視している張力計のグラフが、突然ピンと跳ね上がった。
「ヒット」
インシディアス号の、後付けのさまざまな機器でごちゃついた薄暗いブリッジに、まだ若い掌砲長(ガナー)の緊張した声が響いた。船長が落ち着いた口調で聞き返す。
「停滞型竜巻?」
「ノー・メム」
「滞空中の焦粉(ベイク)の顆粒? それとも私たち自身が投下した産業ゴミが引っかかった?」
「ノー・ノー・メム。その種のミスヒットとは張力パターンが全然違う」
アイタル掌砲長が、張力計のグラフを過去の記録と比較しながら答える。
「竜巻ならテンションが周期的にうねるし、粉雲なら鈍い引きが長く続く。こいつは立ち上がりにガツンと来て、その後は小さく震えてる。強いて言うならゴミか噴出物(エジェクタ)が近いが、こいつは妙なうねり方をしてる……」
アイタルが振り向いてニヤリと笑った。
「ノー・データ。っつか、当たりくさいよ」
ブリッジに詰める十数人が、わっと沸き立ちかけたとき、「静かに」と声が上がった。
「アタリは釣りの始まりよ。本番はこれから、釣りあげてナンボよ」
来年四十歳になる女船長、弦道間切(ゲンドー・マギリ)が、こめかみに垂れる黒い巻き髪をもてあそびながら、赤い唇を動かした。
すべてを楽しんでいるかのようなきらめく瞳で、頼りになる部下たちを見渡す。
「全船! 漁獲態勢!」
広大なレンガ色の空を飛行する、四発核融合ロケットの有翼船。そのすみずみまで、これが初めてとなる命令が響き渡った。
「っしゃあ、やるぞ!」「絶対釣り上げてやろ」「ポカすんなよ」
マギリの言葉でメンバーが機器に向き直るのを、従卒の女性士官であるシービー・エンデヴァは、船長席の斜め後ろから複雑な思いで見守った。
──マギリ船長は、むしろ歓声を上げるほうが似合う。ここで「静かに」と諫めるのが、もっとふさわしい人がいた。
あの人がいなくなってからもう一〇年も経つけれど、いまだに一人分の空白が埋められていない……。
そんなことを思ったシービーは、ブリッジの窓を模した船外ディスプレイへ目を向けたが、もちろんそこには、思い出のよすがになるような目印は何も残っていないのだった。
この雲海には、そそり立つ塔もそびえる山もない。雲の下には森も川も島もないし、それどころか海すらない。
あるのは真っ白なアンモニア氷雲のそびえる、広大な水素の空だ。下方に目を転じれば、炭の粉をさっと振りまいたような焦粉の層の下に、アセチレンやらヒドラジンやら硫化物やら燐化水素やらがごった煮になった、深さ二万キロ以上の深淵が横たわっている。
巨大ガス惑星、ファット・ビーチ・ボール。大昔の木星によく似た横縞と大渦の天体の、北赤道ベルトを船は飛行していた。一気圧線からの高度は三〇キロメートル。といっても高度ゼロメートルが定められているのは便宜上のもので、そこが船の出発点ではない。
下から上がってきたのではなく、宇宙空間から降りてきた。
インシディアス号はこの任務のために特殊な改造を施された船だ。これまでの一五年間に軌道上で建造された宙空両用船の多くは、資源となる焦粉をすくい取るための取り入れ口(スクープ)を装備していた。しかし、空気中を漂う焦粉は密度が薄くて、採取する費用で赤字になってしまうこともしばしばだった。
新たな可能性が示されたのは二年前だ。大気中を遊泳する「魚(フィッシュ)」が目撃され始めたのだ。ガス惑星の大気を泳ぐ魚など誰も見たことがなかったが、どうやらそれが目の錯覚や変わり種の雲などではなく、れっきとした固体でできているらしいとわかると、にわかに捕獲の機運が盛り上がってきた。魚の正体を確かめるため、という目的はおまけでしかなかった。
軌道上の数百隻の宇宙船に分乗した運命共同体、五〇万人の「周回者(サークス)」は、生き延びるための資源を求めていたのだ。
一八年前にこの星を回る軌道に乗った時、船団は大きな見込み違いを起こした。通常の星系ではガス惑星に多くの衛星が集まっているものなのに、ここFBBでは石質・金属質の固体衛星がひとつもなかったのだ。
それは船団維持に必要な資源が不足することを意味した。
リサイクルの努力が続けられ、焦粉の発見という朗報もあって、これまではなんとか食いつないできた。しかし、設備や宇宙船そのものの老朽化を食い止めるのは難しかった。今のままの人口を支えられるのは、あとほんの一、二年だと見積もられており、なんとしても固体資源を確保する必要があった。
そんな切迫した時期に、魚が見つかったのだ。
もし、固体の魚をうまく捕獲できれば、何十時間もかけて希薄な焦粉をかき集めるよりも、はるかに効率的に資源を蓄積できる。では、魚を捕獲する方法とは……?
釣りだ。針と糸で釣り上げるのだ。
地球を飛び出し、はるかに六五〇〇年の歳月を経ても、釣りの伝統は人類の文化に残っていた。
インシディアス号は既存の焦粉採集船を改造したのではなく、船団にとって虎の子の巡航戦闘艦を改造した船である。その結果、大出力の四発エンジンと雄大な折り畳み滑空翼を持つ強力な宙空両用船ができあがった。その後部貨物ベイには特製の曳き綱ドラムと、獲物をつかむキャッチャーが取りつけられた。釣り糸はカーボンケーブル、釣り針には、なけなしのチタン材料を鍛造しておごった。餌の選定には議論があったが、焦粉を固めた〝練り餌〟と決まった。釣り場の虫などを餌に使うのは、釣りの常道だ──とは、無類の釣り好きを自称する、元資産家のシンチン氏の意見である。どのみち、FBBにはミミズもゴカイもいないのだから、そのあたりが落ち着きどころだった。
そして、最後の問題──釣り人は、誰がやる?
「テンション増大、六五キロニュートン!」
旧戦闘艦インシディアス号の掌砲長アイタルが、名誉ある釣り手の座に腰を下ろした。この船は主砲の代わりに漁獲装備を積んだのだから、それで敵をしとめるのは自分の仕事だと主張し、周りも認めたのだ。
リールを操作する彼の手腕は、今、ブリッジの全員の前で試されていた。
「六七、六八、七三、六九……!」
「獲物の重さは七トンってところか。でかいね。気が付いて暴れ始めた?」
「みたいですね」
「ずいぶん反応が鈍いな」
「そりゃそうでしょ、この星の魚は一度も釣られたことなんかないんだから」
「そうか、俺たちはこの星で最初の釣り人ってことになるのか」
「史書に載っちゃうな?」
「生きて帰れば、よ! 各部確認!」マギリの声がブリッジに、そしてスピーカーで全船に響き渡る。「後部ベイ、サスペンション強度! リール温度! キャッチャー準備!」
「ロッドサス、ストレス四〇パーです」「リールモーター三四九ケルビン、正常範囲内。ドラグラインの引き出し七九八一メートル、マージン二〇〇〇メートル」「うっす、キャッチャー待機してます」
「リールとキャッチャー、万が一の場合は載荷投棄(ジェッサン)もあるからね。主機関! 翼面!」
「一番・二番・四番、燃焼正常、三番焦粉フィルタのワイプ中……ワイプ済み、正常!」「翼面、異常ありません」
「バルジドーム! 見えてる?」
「見えません。焦粉が濃すぎです」
船体下部と両舷の各部署からのきびきびとした報告に続いて、後部左舷に突出した透明な観測ドームの要員からは、やや申し訳なさそうな返事があった。
「糸の先に一五〇を向けっぱなしですけど、五〇〇〇から先は埋もれて見えません。見えたら即報告します」
「わかったわ──」
「いえ待って、見えた」
見えないと言ったばかりのバルジドームが、マギリの言葉を遮って報告した。
「見えました、焦粉が晴れた! 距離七八〇〇、三チャンネルを見てください──」まくし立ててから、最後にぽつりと付け加える。「何あれぶっさ」
遊弋するインシディアス号の後ろ下方。ドームの一五〇ミリ屈折望遠鏡で取得された映像は、リアルタイムでブリッジにも転送され、即座に複数の同種の感想を呼び起こした。
「うわぶっさ」「不細工」「面白い形だね」「なんだこれ……」
そこに映ったのは、ぎくしゃくと折れ曲がる細長い胴体のあちこちから、いくつもの細い突起が突き出している、黒っぽい色をした魚、のような何かだった。全長は四メートルと言ったところか。
「エダ、これは本物の宇宙生物だと思う──」
言いかけたマギリが、ハッと口をつぐんだ。他の者たちはさりげなく目を逸らす。
「──いえ、パパ・アンリ。これは宇宙生物かしら? 本物の?」
マギリが言い直すと、初老の黒人科学者が空咳をしてから、何食わぬ顔でディスプレイを覗きこんだ。
「生物だと嬉しいね。形が不釣り合い──つまり天地や左右の対称性が崩れているが、片方だけハサミの大きいカニや貝類や、ソルマ星系以北のエジ類など、相称でない生き物は既知圏にもいる。胴と尾の体節構造も認められる。ああ、頭もか。あの左右の小さなくぼみが感覚器官かもしれない。餌を食ったなら口もあるということだろう。これで糞さえ出してくれれば、文句なしに生物だ。むしろびっくりするほど地球種に似ているとすら言える。──もちろん、捕まえてみるまでは、こういう形の機械だという可能性も残るがね」
「ふむふむ、ありがとう。命名! みんな、名前はなんにする?」
マギリが見回すと、チームが空中を見上げてから、口々に叫んだ。
「ツイスティ・ラスカル! 暴れん坊でねじれてるから!」「翼というか、トゲがあるから……ホソトゲウオ?」「奇舞空(チーウーコン)はどうですか」「昏魚(ベッシュ)」「コゲザカナホネ(アレット・ブイリ)でいいでしょ、失敗した焼き魚そっくりじゃない?」
「待って、なんて言ったの? ラデンヴィジャーヤ」
マギリが声をかけたのは、ディスプレイを見つめたままの、船大工の少年だった。声が大きかったというよりは、むしろもっとも小さかったのだが、重要なのは彼が寡黙で(それに彼の職務には無言で遂行できる作業が多いので)、めったに発言権を行使しないということだった。それに気づいて、他の者も口を閉ざした。
「昏魚」そう繰り返すと、少年は振り向いて大人びた澄んだ目を向けた。「ヴェイグな、フィッシュだから。ヴェイグってのは、影とか正体不明なもののこと。さまよっていて、焦点が合わなくて、ぼんやりしているもののこと」
「ベッシュね。呼びやすいわ。焦粉の魚、って響きもある。いいんじゃない? みんな」
マギリが周りに目を向けると、悪くない、といううなずきが交わされた。中には「アレット・ブィリ……」と言っている者もいたが、誰かが彼女を無理に納得させようとしないうちに、ズシンとブリッジが揺れた。
一段高い船長席にいたマギリは転倒しかけて、重力に耐えるための筋密服のアクチュエーターと、そばにいた気が利くシービーに体を支えられる。
「なに?」
「張力、三五〇キロニュートン!」
ブリッジが静まり返った。パパ・アンリが叫び返す。
「三五トン? 何があった?」
「名前のつけっこなんかやってるヒマがあったら、下を見て下さいよ!」
つけっこに参加していなかったアイタルの叫びに、あわててディスプレイに目をやったチームは、驚愕する。針を呑みこんだ昏魚が糸を引いて身をくねらせており──。
その胴体の後ろ半分に、大きさが五倍はありそうな別の個体が食らいついていた。
一匹ではなかった。濃く流れ、薄く流れる焦粉の下方には、無数の影が蠢いているのが見えた。
「あいつらは共食いをするのか!」「まずい、二〇メートルはあるぞ」「後部ベイに入らないんじゃない?」「いや、キャッチャーで吊るしたまま解体すれば──」
ぐるんと大型の昏魚がのけぞり、曳き綱がビンと張って、ぐらぐらと船がさらに揺れた。アイタルが脂汗を浮かべて叫ぶ。
「四〇〇キロニュートン! リールがやばい、五〇〇キロで吹っ飛ぶぞ。船長、どうする?」
「載荷投棄かね?」
パパ・アンリが二つある非常投棄ボタンの片方に手をかけようとすると、マギリが首を横に振った。
「アイタル、ベイそのものの構造強度は、何キロニュートンまで耐えられるの?」
「本体フレームのことを言ってるなら、多分……静荷重で一二〇〇だ。積荷が六〇トン積めて、安全係数が二倍ある」
「そう。で、曳き綱は大型船用継留索だから、もちろん二〇〇トンまでいけたよね。──よし、パイロット、軸線をなるべく獲物に合わせて! それから後部ベイ! 今すぐ本体フレームから曳き綱に補助索を取りなさい。二本、いえ六本!」
「綱を固定したら巻き取れなくなるぞ?」
アイタルが驚いて叫び返すと、マギリはにやりと不敵に笑い返した。
「ええ。でも、ぶっちぎれることもなくなるでしょ? あいつをひっぱり回してやろう」
「やつの体力切れを待とうっていうのか!? いつまで?」
ゲンドー・マギリは、後に周回者最初期の指導者として伝説になる人物だが、その名言のひとつはこのとき不思議そうに口にされた。
「えっ、もちろん最後の一隻になるまでよ。──私たちがそうせずに、あきらめてこの星で滅びる理由がある?」
チュニックとキュロットに動きやすいブーツを履いて、髪を緩く編んだ私服姿の女が、ランチバスケットを片手に、下生えと腐葉土を踏みしめて木立の中を歩いて行く。
シービー・エンデヴァは、小さな陽だまりで足を止めた。長年月の間に崩れて蔦が絡んだという風情の、高い石積みの城壁が、左手と正面にそびえている。行き止まりの手前に、輻式車輪が割れて荷台の傾いた、これも半ば朽ち果てた感じの幌馬車が一台、いっぱいの野花に包まれて止まっている。一頭の馬がその花を食べていた。
森の外れの隠れ家めいたその一角に、シービーは声をかけた。
「マギリ、一次報告はご覧になりましたか」
誰もいないよ、と言わんばかりの沈黙が返ってきた。シービーは歩を進めて幌馬車の後ろへ回り、通りすがりに背中を撫でようとした馬には紙一重でとことこと逃げられ、荷台を覗いて、ボロ毛布にくるまって穴の開いた幌を見上げている女を見つけた。
ここへ来て、その毛布にくるまっているマギリを見るのは、いつも胸に堪える仕事だったが、シービーは無理にそれをやらされているのではなく、それを許されている者なのだった。だから、「よければ」とバスケットを荷台に置くと、あとは背中を向けて待った。
楡の木の枝で小鳥がさえずっている。映像やロボットでない本物の小鳥たちであり、本物の楡の木だ。菜の花を舞う虻も羽音がしている。しかし向こうの泉に逃げた馬は造り物だ。降り注ぐ陽光も。G型母星のマザー・ビーチ・ボールは六億八〇〇〇万キロの彼方にあって、暖まれるほどの光を届けてはくれない。とはいえ、ここが船団でもっとも見事な地上再現施設であることには違いない。
ガス惑星周回軌道上の周回者船団は全体が貧乏で、誰もが認めるリーダーにも大きな公邸を建てることができなかった。その代わりに贈られたのが、遠心貨物船「アイダホ」の一画に造営された、この小さな園だというわけだった。ここに踏み込めるのは一から二四までのコードネームを冠せられた分船団の長と、ほかに気心の知れた数人のブリッジメンバー、つまりシービーたちだけである。
マギリはただの船長ではない。まず第一に、船団長(グレート・チーフ)だ。今回は妙にやる気を起こして、釣り船の船長などを買って出たが、本当ならそんなことをやらせてはいけなかった。能力が足りないからではなく、能力が貴重すぎるからだ。
CC元年から始まった統治の失敗は船団を地獄に引きずり落とした。若く有能で魅力あふれる二人の女の反乱がなければ、きっとそのまま滅亡を迎えただろうとする考えが支配的だ。CC三年、一ツ星航行士だった弦道間切と、爆才エダことルーシッド博士のコンビが、焦粉の採取と資源化の可能性を示し、人々の信望を集め、無法で無計画だった旧指導部を一掃して、周回者船団に秩序と発展をもたらした。
以来一五年。マギリは指導者として、ときに莞爾として優しく、ときに豪腕で苦難を乗り越えて、とにもかくにも五〇万人を牽引してきた。CC八年に博士が世を去ってからも、わずかな服喪の期間を除いて、開明的で発展的な統治の態度を示し続けた。そのカリスマは唯一無二のものだった。だから本当なら、生き残りの数少ない長老連が言うように、彼女は安全なところで待機させておくほうが、ずっと賢明というものだった。
ちょうどこの古馬車の角地のような、安息所で。
けれども、彼女がここを訪れる限り、彼女があのレンガ色の無辺の空を忘れることもない。同じものが二つを結び付けているのだから。マギリはこの先も、無理を押して惑星大気に降りようとするだろう。
シービー・エンデヴァは志願してマギリに仕えている。それに彼女を好いている。だから公私ともに冒険を止めなければならない立場なのだが、しかしマギリがそれを絶対に必要としていることも誰よりも知っていた。だから、自分にとってどんなに苦痛でも、彼女が危険を冒すのを止めることはできないのだった。
やすめの姿勢で待機を続けていると、背後で水筒からコポコポと液体を注ぐ音がして、何これ、と声が上がった。
シービーは背中で答える。
「コーヒーライクです」
「偽物(ライク)?」
「分子プリンターで印刷したコーヒーですよ。成分的には本物と変わらないはずです。モシ氏族の栽培工が試作品を出してきたので」
「本物はこんなに苦くないわよ! ──あれ、本物だから苦いのか? うーん、だったらミルクと砂糖も印刷してほしい」
「マギリが絶賛していたと伝えますね」
そのマギリがバサバサ髪にパンツとブラの半裸の姿でのそのそと出てきて、荷台の端にどっかと腰かけ、寝ぼけ顔でカップのコーヒーをすすった。バスケットのサンドイッチをもぐもぐと頬張る。いつも悪いねと言い、お気になさらず、と一五センチ隣でシービーが答える。
「君もさ、ビー。これ言うの何度目かわからんけど、こんな湿っぽいおばさん構ってないで、もっといい相手とくっつくといいよ。引く手あまたっしょ」
「自発的行動です」
「はあ」
「決して博士の後釜を狙っているわけでも」
「それは嘘でしょ」
「申し訳ありません」
「うん、まあ」コーヒーくさい溜息を吐く。「正直、完璧に助かってる。いつか転ぶかもしれない」
「嬉しいです、期待してます」
そうやって、一〇年。
一五センチの距離感で、ずっとやってきたのが、この二人だった。
「悪いねえ、思わせぶりなことばっかり言ってねえ。もう折れたい、人に甘えたいってしょっちゅう思うんだけど、ダメなんだわ、湧き出るんだわあいつ」
「よく存じてます」
「それわかってくれるのも君だけでねえ」
手の甲で右目を拭うと、唐突にしゃんと背筋を伸ばして、マギリは振り向いた。
「ダダ漏れしすぎたわ本音。で、なんだって?」
「初回報告は見ましたか、と。パパ・アンリとラデンヴィジャーヤが、回収した昏魚の解剖と元素分析を済ませたので。詳細はこれからですが──」
シービーも、たった今の馴れ合いがまるでなかったかのようにきびきびと答える。こういう切り替えも、二人の間では慣れたもの、だった。
FBB大気圏内で四時間半の格闘ののちに初めて昏魚を釣り上げ、衛星軌道へ運び上げてから二日後の、今は午後である。ああはいはいドラフトね見るよこれからと、幌馬車に引っこんだマギリが、シャツを着てズボンを腰にひっぱり上げながら、スケイル片手に再び出てきた。同じように自前の情報板を袖から引き出したシービーが、表示を音読する。
「昏魚の体を主に構成する物質は、炭素、珪素、ゲルマニウムなど炭素族元素と未知のリチウム同位体であり、この四種で全体積の八〇パーセントを占めている──」
「未知のリチウム同位体って、ナニ!?」
「彼が未知だというんだから、本当にわからないんですよ。その物質が極めて軽いおかげで、運動によって飛行できるらしいですね。また他に窒素、酸素、塩素、硫黄、リン、鉄、亜鉛そして当然、大気成分である水素とヘリウムも含まれている。つまり、食用には向かないが、鉱石のような資源物質として見た場合の有用性は極めて高いとのことです」
「泣けちゃうよ。私たちが初めて見つけた地球外生物について、その食性や繁殖ダンスなんかじゃなく、まず原料としての精錬の仕方から考えなきゃならないってのはね。所帯くさいこと……」
昏魚と名付けられた新たな存在について、シービーは手際よくレクチャーしていった。昏魚の成分は非常に奇妙で、地球系ともFBB系とも異なっていること。例の未知同位体が特殊で、核内構造そのものがアルカリ金属の常識から外れているかもしれないこと。ブリーフィングをサボって寝ていたマギリは、要所で適切な質問や適切でないボケなどを返しつつ、昏魚の生命像を呑みこんでいった。
今回の昏魚、従来の採集物だった焦粉、そして大気圏内でごくまれに観測される、噴出物と呼ばれる底層からの上昇岩石には、成分の共通点が見られる。つまり惑星FBBの大気の奥底になんらかの固体構造があると思われるが、通常のガス惑星の深部にそんなものはないはずなので、おそらく外来の別の天体が、この惑星の深部に沈んでいるのかもしれない──。
「外来天体? そういうのが確認された前例ってないよね? ロマンだわあ」
「ちっちゃな氷彗星なんかがぶつかった記録は山ほどありますが」
「そうだけど、言ったらその天体が生命を運んできたのかもしれないんでしょ? やっぱりロマンよ」
「ロマンは後にしてください、他に考えなきゃいけないことが山ほどあるんですから……」
今回のような一本釣りでは採算が取れないので、ラデンヴィジャーヤは大きな袋網を使ったトロール漁を提案していた。密集している昏魚を文字通り一網打尽にすれば大きく収支が改善するはずという目算だが、そのためには巨大な網や強力なエンジンを持つ船が必要で、それらの設備をどうやって整えていくかが議論になっていた。
しかし、シービーがそちらへ話を進めても、マギリはあまり乗ってこなかった。「強力なエンジン? 昏魚の粉でも燃料にしてみたら?」などと見当はずれのことを言うばかりで、新しい産業ができあがるか、それともせっかくの機会をふいにするかというスタッフたちの検討にも、集中しきれない有様だった。
その様子が変わったのは、シービーが仕方なく話を戻してからだった。
「そういえば、パパ・アンリが言っていたんですが、昏魚は奇妙な性質があるらしいですよ」
「これまでの話で、奇妙でないところがあった?」
「まあそう言わずに。これは本当に不思議な話ですから。パパは昏魚の解剖後、あれがなぜあのような体形をしているのか考えるために、地球産の生き物との比較検討を実施したそうです。ディスプレイデスクに昏魚のひれの実物を置いて、その隣や真下にさまざまな既存種の映像を映し出し、輪郭や骨格を比べたっていうんですね」
「ふんふん」
「その際、ちょっとトイレへ行って戻ってきたら、デスクに金魚がいたそうです」
「……は?」
適当に聞き流しかけていたマギリが、ぽかんと口を開けた。
「キンギョ? って西暦時代(アンノ・ドミニ)の?」
「アンノ・ドミニに誕生して、今でもまだポルックス4の湖沼惑星で飼育されている、あの観賞魚の金魚です」
「なんで?」
「わかりません。でも、そのときパパのデスクに表示されていたのは金魚だったそうですよ」
「……昏魚の死体が、キンギョに化けたっていうの!?」
「みたいです。というか、死んでいなかったらしいと」シービーは肩をすくめる。「昏魚って、見た目通りの生き物じゃないんですよ。不定形生物かもしれないって。頭と胴と尾があって、体節があって、感覚器官もあって、って船の上でパパ・アンリがもっともらしく分析しましたけど、どうもあれは見当違いだったかもしれんって言ってました」
「不定形生物……?」
「言葉通り、決まった形がなくて、いろいろ変形する生き物ですね。不定形生物といっても種類があって、地球のアメーバとかイカとか、伝説になっているネコみたいに、その場でくるくると形を変える生き物もあれば、ウナギや粘菌やカブトムシみたいに、成長段階に応じて形を変える生き物もあるそうです。昏魚も必要に応じて姿を変えるのかもしれないと……」
「ふうん……」
うなずきながら聞いていたマギリが、ふと宙の一点を見つめたのは、そのときだった。
「必要に応じて姿を変える……?」
「ええ」
「じゃあ、ラボで変形した昏魚は、どうして変形したの。そこでキンギョになる必要があると判断したから?」
「え? それは……」シービーは面食らう。「わかりません、そもそも判断で変形しているわけでもないと思います。だけど、確かに金魚になる必要は……」
「ない、よね」
振り向いたマギリの瞳には、かつてのある一時期、シービーが二度と見たくないと思っていた光があった。
「同様に、ガス惑星の大気圏で魚になる必要もない。そうじゃない? なるならもっと飛行や滑空に適したもの……コンドルとか、グライダーとか、プテラノドンになる必要性のほうが、大きくない?」
「それも、そうかもしれませんが」
シービーがうなずくと、マギリは、唐突に荷台から飛び降りた。
「確かに不思議な話だったわ。教えてくれてありがとう、シービー」
「マギリ? どこへ行くんですか?」
「ちょっとそこまで」
そう言って古馬車の角地から出ていったマギリが、一〇年ぶりに惑星へ無断降下したとわかったのは、それから間もなくだった。
シービー・エンデヴァは、一〇年前の初の単独降下のことをよく覚えている。周回軌道を回る船団からは、水素を採取するためにシャトルが日常的にFBB大気圏へ降りていたが、シャトルのパイロット養成過程にあった当時十九歳のシービーが、卒業までの七〇〇日の過程をすっ飛ばして緊急的に投入されたのが、その単独降下だった。
任務は極秘で、その目的は逃亡したゲンドー・マギリ船団長の回収だった。同様に投入された口の堅い三〇人のパイロットの中で、彼女が最初にマギリを見つけた。
今、シービーはあのときとまったく同じ、ファット・ビーチ・ボール北熱帯ベルト北端の超巨大高気圧嵐、「左の目玉」の縁へと舞い降りていた。
「聞こえますか、マギリ!」
シービーはレスキュー機の無線機に怒鳴る。
「エンデヴァです、後ろにあと三〇〇機来てます。こちらからはレーダーでばっちり見えてますし、機体の一割は強制捕獲器付きですからね。五〇気圧まで食らいついていって絶対捕まえますよ! 引き返してください!」
三〇〇機というのは本当だった。それどころか、周回者すべてが非常対応に入っていた。リーダーとしてのマギリはまだ必要だ。昏魚捕獲という新たな局面を迎えた今こそ重要だ。
けれどもシービーは、説得しながら無力を感じていた。言っていることが可能なら昏魚はこれらの機体で楽に獲れるはずだが、そうできていないのは成功率がわずか数パーセントしかないからだ。不勉強な一般人ならともかく、船団長のマギリはそれをよく知っているはずだ。
いや、それよりも。マギリが突然降下した理由が、あのときと同じなら、呼びかけたところで──。
焦るシービーの耳に、あるとも思っていなかった返事が届いた。
「昏魚は、どうして魚の形なんだと思う?」
「は?」
昏魚が変形すると教えた時のマギリの返事をそのまま反射するかのように、シービーは間の抜けた返事をする。
「今それが関係あるんですか?」
「誰かが、魚の形を昏魚に教えたんだと思わない?」
「誰かって」
「地球産の魚が好きで、誰よりもそれに詳しくて、それの知識と図鑑とラバストをいつも持ち歩いていて、そのまま事故で下層に落っこちた人が──」
「マギリ!」
シービー・エンデヴァは絶叫する。
「無益です! やめてください! そんなことは考える必要は一ピコグラムもありません!」
「エダが」
シービーの頭の中で、マギリの考えが鮮やかに像を結んだ。
あるいは、マギリの妄想が。
星間生物学一等博士ドライエダ・デ・ラ・ルーシッド教授、きらめくように凛々しい颯爽たる刈り上げショートカット姿で、宇宙一胸を張って生きていた、眼鏡で小柄な白衣の研究キチガイ。小粋と偏屈の権化である彼女は、中層観測中に発生した耐圧船のトラブルでフィリッパ・フットのトロッコ問題的な選択を迫られた際に、妻子と恋人のある二人の男性クルーを無事に帰すために、耐圧殻を載荷投棄させて自分一人だけ深層へ消えるという完璧なふるまいをやってのけた。別れ際の台詞は「あっいーよいーよ、あたし下のほう見るのが楽しみだから!」。二十七歳だった。
マギリにとって、完璧なパートナーの、喪失だった。
誰も(シービーだろうが他の女だろうが)、何も(一〇年の時間だろうが宇宙の摂理だろうが)、それを補填できるものなどありはしないと、五〇万人全員が知っていた。知っていながら、ただ何かしら出所不明の奇跡が起きて、それ以外になにひとつ欠点のない船団長が正気を保ち続けてくれることに、賭けていたのだ。
いま全員が、その底抜けに度し難いギャンブルの結果に、直面していた。
「だとしたらどういうことだと思う?」
赤燐とメタンの渦巻く赤黒い雲の中へ、マギリの機体は先行して突っこんでいく。
「一〇年前、エダが昏魚にものを教えたんだとしたら?」
マギリの機体から届く通信だけはいやに明瞭で、それがシービーの自責に突き刺さる。
「それは、教えるだけの時間があったということにほかならないよね?」
シービーはブースターのスロットルにかけた手を熱病患者のように震わせる。全開にしてしまえば、とにかく心中だけはできる。帰還分を使い果たせば。
「わかる? 想像できる? 想像して。エダはこの底で生きていたのかもしれない。数十分、数時間、数日──ううん、もしかしたら?」
「あり得ません! マギリ、それはない!」
「ただ、帰れないだけだったら?」
FBBの気圧深度一〇〇バール以上、距離にして一〇〇〇キロメートル以深の地点からは、人類はまだ、有人・無人問わずいかなる機材の回収にも成功していない。
足元に彼岸を抱えているのが、周回者なのだった。
死者が赴くところ、帰らずの岸辺が、この巨大な嵐の球形世界の中にある──。
もし、それが、誤りだったら?
「だったら私はあいつを、一〇年間」
嫉妬と羨望の声なき叫びを上げながら、シービー・エンデヴァがスロットルを押しこもうとした瞬間。
レーダー画面がはためき、無線をノイズがつんざき。
雲平線の果てまで続く広大な深層雲を押しのけて、ざわめく紺の群影が躍り上がった。
―――――――――――
そして物語は300年後へ――
『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』
3月18日発売(電子書籍版同時配信)
人類が宇宙へ広がってから6000年。辺境の巨大ガス惑星では、都市型宇宙船に住む周回者(サークス)たちが、大気を泳ぐ昏魚(ベッシュ)を捕えて暮らしていた。男女の夫婦者が漁をすると定められた社会で振られてばかりだった漁師のテラは、謎の家出少女ダイオードと出逢い、異例の女性ペアで強力な礎柱船(ピラーボート)に乗り組む。体格も性格も正反対のふたりは、誰も予想しなかった漁獲をあげることに――。日本SF大賞『天冥の標』作者が贈る、新たな宇宙の物語!