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書店員・担当編集の心をうるうるさせた『誰死な』の冒頭公開!

ミステリなのに人が死なない、死なせない!?
この常道やぶりの展開に加え、青年と少女が苦難をともにしてゆく——その絆がきらりと光る『誰死な』。

書店員さんからも推す声をいただき、各所から冒頭を読みたいとの声が届くようになりました。

今回は本書の〈温かな〉世界観が伝わる、プロローグと最初の章の書き出しを掲載いたします。


プロローグ

「もし、タイタニック号に乗っていたらなんだけど──」
 遠見志緒(とおみしお)は読んでいた『グランド・バンクスの幻影』を閉じるとそう話を切り出した。
「グランド・バンクス沖で氷山にぶつかって、みんなが海に放り出されるの。その時、もし、自分だけが運よく救命ボートに乗れたら、佐藤くんは溺れてる人も救命ボートに引っ張り上げて助けてあげる?」
 給水塔の陰で彼女の隣に座っていた僕は、校舎の上に広がった青空に浮かぶ羊の形をした雲に思いを馳せていたが、その思考を一旦中断して「そうだね」と答えた。
「でも、タイタニック号には二千人以上の乗組員や乗客が乗っていたのに、救命ボートはその半分しか乗せられない数しか用意されてなかったんだって」
「ひどい話だ」
「そう。だから、手当たり次第にボートに乗せたら、すぐに満員になってしまうの」
「無理してたくさん乗せようとすると、ボートが沈むかもしれない」
「そうだよ。満員になっちゃったらどうする? 助けるのをやめる?」
「やめるよ。それ以上は助けられないってことだから」
「そっか。私はね──」
 志緒は決意のこもった瞳で僕をまっすぐに見る。
「私は、それでも、みんな助けたいって思うの。全員が私に手を伸ばすなら、全員の手を掴んで引き上げたいって」
 僕はその薄茶色の瞳を見返す。あまりに色素が薄くて、彼女の瞳は僕を通り越してどこか遠くを見ているのではないかという気になる。
「それって、君が無理に全員を助けようとしたせいでボートが沈んで、君を含めて助かるはずだった人たちが助からなくなるとしても、そうするってこと?」
 志緒は少し黙ってから答えた。
「今までの私だったら諦めてたと思う。ボートに乗れなかった人が死ぬって分かってても、そういう運命なんだって、助けられないものは助けられないって、ボートの隅っこで耳をふさいで目をつぶったと思うの」
「そうしたって、誰も君を責められない」
「ううん、言いたいのは、そういうことじゃなくて」
 羊から鳥みたいな形に姿を変えた雲が浮かんだ青空を志緒は見上げる。
「私は佐藤くんなら全員助けられるようにしてくれるんじゃないかなって思ったんだよ」
 僕はとても困った顔をした。志緒が見ていれば、右眉と左眉がくっつきそうになるくらい近づいたのが分かっただろう。
「僕が? どうやって?」
「例えば、不思議な力で救命ボートを大きくするとか、たくさんの救助ヘリコプターを連れて颯爽と現れるとか。溺れている人を引っ張り上げて助けようっていう、たった一つのことしか考えられない私に、もっと別の冴えたやり方を見せてくれるんじゃないかって」
 僕は魔法使いでも、ハリウッド映画のヒーローでもない。
 それでも、返答は決まっていた。
「僕にできるなら、そうするよ」
 膝を抱えて座る志緒は嬉しそうに顔を傾け、こちらを見て微笑んだ。
「うん。だからね、佐藤くん。私たちが助けられる人は助けよう」
「それ、すごく当たり前のことのように聞こえるけど」
「だって、当たり前だもの」
「言っておくけど、当たり前のことを当たり前にやるのって難しいよ」
「それでも、私たちは、当たり前のことを当たり前にやろう。その為に、巨大な豪華客船の沈没を未然に防がなくちゃいけなかったとしても」
 それはタイタニック号の沈没になぞらえた、彼女の特異体質の話だった。
 手を差し伸べなければ、死んでしまう人を救おうという、ただそれだけの話。
 
「いい? 佐藤くん。私たちは、親切や優しさや愛で、こっそり世界のネジを巻くの」
 それは、悪くない提案だった。
 
 そういうわけで。
 高校生だった僕たちは、そんなふうに世界のネジを巻くことにしたのだ。



§ 復讐の女神の指輪

 地下にあるアウトドア用品店で練炭を買った。

 私はその練炭で自殺するつもりだ。
 
 本当にそれが、手段として正しいのかはわからない。
 何か他の解決策があるのかもしれない。
 誰かに相談するべきなのかもしれない。
 でも、もういい。もういいのだ。
 悩みを聞いてくれる人なんて、私にはもういない。
 親友だと思っていた彼女も、誰よりも信用していた彼も。

 ──その二人こそが私を裏切っていたのだから。

 明日の午後、彼が家にやってくる。
 来週に迫った私との結婚式の打ち合わせの為である。
 しかし、その時、彼が見つけるのは、変わり果てた私の姿だ。
 目張りテープで密封された浴室に横たわり、婚約指輪を嵌めた手をこれ見よがしに胸において、練炭の入ったコンロを傍らに、永遠に目覚めることのない夢を見ている。そんな私を彼は発見するだろう。
 さぞかしショックを受けるに違いない。
 結婚式の直前に婚約者が自殺してしまうのだから。
 その光景は忘れようとしても忘れられない記憶になるはずだ。
 死んでも、彼の心に居続ける。
 それが、私の考えた彼への復讐だった。

 私は自宅マンションのエレベーターに乗り込み、自宅がある階のボタンを押す。
 買ってきた練炭の袋はそれほど重くなかった。
 まるで、私の命がその程度の重さだと言わんばかりに。

 エレベーターホールを抜けて、通路に入った時、私は思わず「えっ」と声を漏らした。
 私の部屋の前で、外壁の縁に青年が腰かけていたからだ。
 外側に足を放り出した状態で、両手を縁についている。軽く背中を押されただけでも、そこから落ちてしまいそうだ。ここはマンションの六階である。下は植え込みもなく、砂利を敷いた路地があるだけ。さすがに、落ちたらただでは済まないだろう。
「……そこで何をしているの?」
 刺激せぬよう青年から距離を取って立ち止まった私は、そう声を掛けた。
「あ、こんにちは」
 今気付いた、というふうに、青年はこちらを振り向く。
 そして、何でもないことのようにこう言った。
 
「ここから飛び降りようと思うんです」
 
 どうして、と思う。
 どうして、私の部屋の前で?
 どうして、よりにもよって、このタイミングで?
 
「彼女に振られたので」
 
 感情を押し殺したような青年の言葉は、全く冗談に聞こえなかった。



井上悠宇『誰も死なないミステリーを君に』

2018年2月24日発売/井上悠宇/ハヤカワ文庫JA


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