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ヴァージニア・ウルフ「病気になるということ」片山亜紀訳③/新訳公開

本記事は、20世紀イギリスの作家ヴァージニア・ウルフによるエッセイ「病気になるということ(原題:On Being Ill)」の新訳の3記事目です。1記事目のリンクはこちら2記事目のリンクはこちらです。

「病気になるということ」 セクション3

 実際、私たちは詩人たちのもとに赴く。病気のせいで、散文が要求してくる長々しい取り組みはごめんだという気分に私たちはなっている。無理なのだ――各章の扉が開くたびに過ぎていく章を見送りつつ新しい章を迎え、自分のあらゆる能力に号令をかけながら推理力と判断力と記憶力を総動員し、そうしてようやく建物の全構造が――アーチが、塔が、胸壁(きょうへき)が――基礎の上にしっかり据えられているのを見届けるというのは。『ローマ帝国衰亡史』はインフルエンザのときに読む本ではないし、『黄金の盃(さかずき)』や『ボヴァリー夫人』も違う。【16】一方で、責任は棚上げ、理性は一時停止という状態になって――誰も病人に評論を書きなさいとか臥(ふ)している人に良識を持ちなさいとか言わないものだから――他の趣味が前面に出てきて、即席で急ごしらえで、ぐっとくるものがほしくなる。私たちは詩人たちの咲かせた花々を盗む。詩の1行ないし2行を折り取り、心の中でそっと開いてみる。

時折、夕方に、
黄昏時(たそがれどき)の草原に群れなす羊たちを訪ねる〔ミルトン『コーマス』〕
身を寄せ合って山々をさすらう
のろまで頑固な風に導かれて〔シェリー『縛めを解かれたプロメテウス』〕【17】


 あるいはハーディの一篇の詩、ラ・ブリュイエールのセンテンス一つに、三巻本の小説に匹敵するくらいの考える材料がある。【18】ラムの『書簡集』をめくれば――散文家の中には詩人として読める人がいる――「私は血なまぐさい時間潰し屋、たったいまもじわじわと潰しにかかろうとしているところ。でもこの蛇、しぶとい」とあり、【19】その面白さは言葉では言い表せない。あるいはランボーの詩集を開くとこんな一節がある。

ああ季節は過ぎていく、ああ城が見える
疵(きず)のない魂など、どこにあるだろう?〔ランボー『地獄の季節』〕【20】


この魅力を理路整然と説明できる人など、いるだろうか? 

 病気のとき、言葉は神秘的な性質を帯びるようだ。私たちは表面の意味以上のものを把握する。私たちは本能的にあれこれを――音や色や、こちらの強勢やあちらの休止を――拾い集める。これらは、言葉というものは想いを伝えるには足りないと知っている詩人が頁のそこかしこに散りばめたもので、拾い集めてみると、言葉では表現できず、理性では説明できないような心の状態を思い起こさせてくれる。病気になると、私たちは不可解なものにかなり囚われる――これはたぶん直立人たちが認める以上に正しいことなのだ。健康なときには意味が音を侵食している。知性が五感を支配している。ところが病気のときには警察も一休み。マラルメやダンの難解な詩【21】や、ラテン語やギリシャ語のフレーズの下に潜りこむと、言葉は香りを放ち、美味しそうな匂いを発する。そのあとで意味を把握することになっても、まずは口蓋(こうがい)と鼻腔(びこう)を使って感覚的に味わっているために、意味はいっそう豊かになっている――これはある種の変わった気配について了解していくのと同じことだ。英語に馴染みのない外国人に比べれば、私たちは不利である。『アントニーとクレオパトラ』【22】の音声について、中国の人たちは私たちよりも多くを知っているに違いない。

 性急さというのは、病気につきものである――私たちはかように無法者である。そしてシェイクスピアを読むときには性急でなくてはならない。これは日頃シェイクスピアを読む際にうたた寝をしているということではない。むしろ充分に覚醒し注意深いのだが、シェイクスピアが有名すぎるせいで、私たちは尻ごみした挙句に退屈してしまうのだ。それにあらゆる批評家があらゆる見解を述べ立てているせいで、こういう作家なのだとにわかに確信を抱いたりもしにくい――そんな確信こそ、たとえ幻想であったとしても偉大な作家を読むときには大いに役に立つもので、途方もない喜びや素晴らしい刺激になってくれるのだが。

 シェイクスピアは古びてきている。ストラトフォードに建てられたシェイクスピア像が落書きを防ぐべく高いところに据えつけられたように、【23】過保護な政府ならシェイクスピア評を書くのを禁止してもいい。こうも数々のシェイクスピア論にうるさくつきまとわれては、こっそり自分で推論を立てたり、余白に書きこみをしたりしたところで、誰かがもう同じことを言った、自分より上手な言い方をしたとわかって熱意も醒めてしまう。ところが病気とは王者のように崇高なものだから、これらすべてを脇に押しのけ、シェイクスピアと自分だけになるようにしてくれる。シェイクスピアの圧倒的な力と、私たちの圧倒的な傲慢さによって障壁は崩れ、眉間(みけん)に皺を寄せることもなくなり、頭の中には『リア王』や『マクベス』【24】が響きわたる。そしてコールリッジその人による評言【25】ですら、はるかかなたでネズミがキーキー鳴いている程度にしか感じられなくなる。

 でもシェイクスピアはもう充分――オーガスタス・ヘア【26】に向かおう。病気のときだってそんな移行は無理だ、『二人の貴婦人伝』の作者はボズウェル【27】の比ではない、と言う人もいるだろう。文学は傑作でないなら駄作がいい、憎むべきは中庸なりと主張したところで、受けつけない人もいるだろう。それならそれでいい。法は平均的な人たちの味方だ。それでも少し熱が出た人にとっては、ヘア、ウォーターフォード、カニングという名前は優しい光沢を放つのである。

 たしかに、最初の100頁はそうではない。こういう大著にはよくあることだが、最初のうち、夥(おびただ)しい数の叔母やら叔父やらが登場するせいで、私たちはもがきながらも挫折しそうになる。私たちは肝に銘じなくてはならない。雰囲気というものがあるのだ。巨匠だって読者をイライラと待たせる。そうしながら来たるべきもの――驚くべきニュースとか、あるいはそういうニュースが一切ないとか――に向けて、読者に心の準備をさせようとするのだ。

 そうやってヘアもたっぷり時間をかける。魅力はじわじわと、気づかないうちに私たちに浸透してくる。次第に私たちは家族同然になるけれど、違和感がつきまとうために完全に家族になりきるわけではない。それでもスチュアート男爵〔シャーロットとルイーザの父〕が舞踏会の途中で急に部屋からいなくなり、次に消息が判明した際には遠くアイスランドにいるとわかったときの家族の困惑を、私たちも分かち合うことになる。パーティにはうんざりしたのだと、男爵は告げる。イギリスの貴族たちも、昨今では知性を取り入れてその素晴らしい独特な精神の純度を下げてしまったが、ここにはそれ以前の彼らの姿がある。パーティにうんざりしたなら遠くアイスランドへ。それから城を建造したいというベックフォード流の情熱【28】が彼を捉える。英仏海峡を越えてフランスの城を運んで来なくてはならない。使用人たちの寝室用にと、莫大な費用を投じて塔や小尖塔を建てねばならない。しかも崩れそうな崖の上に建てたので、落とした箒(ほうき)がソレント海峡を流れていくのを女中は見守ることになる。【29】男爵夫人は動揺するが最善を尽くし、育ちのよい貴婦人らしく、荒廃に抗して常緑樹を植える。

 その間、娘のシャーロットとルイーザは、他に比べようもないほど愛くるしい姿に成長している。鉛筆を手に握り、ふわりとした紗(しゃ)を纏(まと)って、つねにスケッチをしたりダンスをしたり遊び戯れたりしている。二人の姿はあまりはっきりしない。というのもまだこの時点での同書はシャーロットとルイーザの伝記ではなく、一族の伝記、集団の伝記だからである。それは蜘蛛の巣とか網の目のように大きく広がって、あらゆる種類のいとこだとか、扶養家族だとか、古参の使用人だとかを掬い上げる。キャリドン伯爵家とメクスバラ伯爵家の叔母たち、スチュアート男爵家とハードウィック伯爵家の祖母たちはみんな合わせて一群となり、喜んだり悲しんだりクリスマスの晩餐を一緒に食べたりして、老いてなお背筋をまっすぐ伸ばし、カバーを掛けた椅子に座って色紙らしいものから花の形を切り抜く。

 シャーロットはカニングと結婚してインドへ。ルイーザはウォーターフォード侯爵と結婚してアイルランドへ。すると手紙は船足の遅い帆船に搭載され、広大なスペースを行き交うようになる。やりとりにはさらに時間がかかり、手紙の中身はますます冗長になるけれど、ヴィクトリア時代初期の時空には限界などないようだ。信仰を失くしてしまいました、でもヘドリー・ヴィカーズの伝記【30】を読んで蘇りました、叔母たちがお風邪をお召しになりました、でも回復しました、いとこが結婚することになりました――。アイルランド飢饉があり、インド大反乱があった。【31】またシャーロットとルイーザにとって、自分たちのあとを引き継いでくれる子がいないということは、口には出さなかったけれど終始大きな悲しみだった。

 ルイーザはウォーターフォード侯爵とアイルランドの辺境で暮らしていたのだが、侯爵は終日狩りに出かけてしまうので、とても寂しい思いをすることがよくあった。それでも彼女は侯爵夫人としての責務をまっとうし、貧者のもとを訪れ、慰めの言葉を掛けて(「アンソニー・トンプソンさんが正気をなくされた、記憶をなくされたとうかがって、本当にお気の毒に思います。でも、我らの救い主のことだけを信じていればいいとあの方がわかっていらっしゃるなら、それでいいのです」)、そしてスケッチを描きに描いた。何千冊ものノートが、夕べの情景を描いたペン画のドローイングで埋まった。大工が広げた大きな紙に、村の学校のためのフレスコ画をデザインした。【32】生きた羊たちを自分の寝室に引き入れ、狩場の番人に毛布を掛けてモデルにし、何枚も聖家族像を描いたので、しまいにはあの偉大なワッツの目に留まった。ワッツは、ここにティツィアーノと肩を並べるお方が、ラファエロの師匠となるべきお方がいらっしゃいます! と叫んだ【33】が、ルイーザことウォーターフォード侯爵夫人は笑い飛ばした(気さくで温かなユーモアの持ち主だった)。私はただスケッチをしているだけなんです、これまでちゃんと習ったこともありません――私の描いた天使の翼を見てごらんなさい、恥ずかしいくらい未完成じゃありませんか。

 それから父の屋敷が海に落ちかかっているという問題もあり、彼女が引き上げてやらねばならなかった。それに友人たちをもてなさないといけないし、毎日あらゆる種類の慈善を施さねばならない。そうこうしているとウォーターフォード侯爵が狩りを終えて帰宅する。しばしば真夜中に、灯火のもと、彼女はスケッチブックを抱えて侯爵の隣に座り、騎士のような気品を湛えた彼の顔が半分スープ鉢に隠れているのをスケッチした。そしてまた侯爵は馬に乗り、十字軍に馳せ参じる騎士のように堂々とした身のこなしで狐狩りに出た。彼女はいつも彼に手を振っては、これが最期の別れになったらどうしようと考えるのだった。

 そしてその日は来た――冬の朝、馬が転倒し、侯爵は死んだ。彼女は知らせを受ける前からわかっていた。そしてジョン・レズリー卿【34】はいつまでも忘れなかった――葬儀の日、彼が急いで階下に降りていくと、棺を載せた馬車を美しい侯爵夫人が見送りながら立ち尽くしていたことを。そして彼が葬儀に参列して戻ってきたあとも、ヴィクトリア朝中期の重厚なカーテン、たぶんビロード織りのカーテンが、彼女が苦悶しつつ摑んでいたあたりでぎゅっと皺になっていたことを。

〔完〕

訳注

【16】 イギリスの歴史家エドワード・ギボン(1737〜94)による歴史書『ローマ帝国衰亡史』(1776〜88)は、全6巻として刊行された大著。アメリカ生まれの小説家ヘンリー・ジェイムズ(1843〜1916)による『黄金の盃』(1904)と、フランスの小説家ギュスターヴ・フロベール(1821〜80)による『ボヴァリー夫人』(1856)は、いずれも長編小説で緊密な構成を特徴とする。

【17】 ジョン・ミルトンの仮面劇『コーマス』(1634)において「訪ねてくる」のは川の精であり、イギリスのロマン派詩人パーシー・ビッシュ・シェリー(1792〜1822)の詩劇『縛めを解かれたプロメテウス』(1820)において「さすらう」のは雲だが、ウルフはもとの文脈から切り離し、異なる作品の断片をつなげて読むこと(いわゆるカットアップ)に楽しみを見出しているらしい。

【18】 トマス・ハーディ(1840〜1928)はイギリスの小説家、詩人。ラ・ブリュイエール(1645〜96)はフランスの作家で、『カラクテール』(1688)では断章を連ねる形式で人間観察が述べられている。

【19】 チャールズ・ラム(1775〜1834)はイギリスの随筆家。ここでの引用は、友人であった詩人バーナード・バートンに宛てた1829年7月25日の手紙の一節で、自分が時間を持て余していることを嘆いたもの。

【20】 フランスの象徴派詩人アルチュール・ランボー(1854〜91)による詩集『地獄の季節』(1873)の有名な一節。

【21】 ステファヌ・マラルメ(1842〜98)はフランス象徴派の詩人。ジョン・ダン(1572〜1631)はイギリスの詩人、聖職者。メタファを多用した独特な作風で知られる。

【22】 『アントニーとクレオパトラ』(1606)はシェイクスピアの悲劇。古代ローマの政治家アントニーとエジプトの女王クレオパトラの悲恋を描いた作品。ウルフはシェイクスピア劇の中でもとくにこの作品を好んでいたようで、エッセイ『自分ひとりの部屋』でも繰り返し言及される。

【23】 ストラトフォードことストラトフォード・アポン・エイヴォンは、ウォリックシャー州の街で、シェイクスピアの生地。1888年に、同地の公園に彫刻家ロナルド・ガウワーによるブロンズ製のシェイクスピアの坐像が、数メートルの高さのある基礎の上に設置された。

【24】 『マクベス』(1606)はシェイクスピアによる悲劇。将軍マクベスが破滅していく話。

【25】 サミュエル・テイラー・コールリッジ(1772〜1834)はイギリスのロマン派詩人、批評家。評論や講演でシェイクスピアを論じている。

【26】 イギリスの伝記作家オーガスタス・ヘア(1834〜1903)の『二人の貴婦人伝、カニング伯爵夫人シャーロットとウォーターフォード侯爵夫人ルイーザを偲んで』(1893)は、三巻本として出版された伝記。カニング伯爵夫人シャーロット(1817〜61)はシャーロット・スチュアートとして生まれ、政治家チャールズ・カニング(1812〜62)と結婚し、1855年にはインド総督に任じられたチャールズとともにインドに渡った。ウォーターフォード侯爵夫人ルイーザ(1818〜91)はシャーロットの妹。アイルランド貴族であったウォーターフォード侯爵ことヘンリー・ベレスフォード(1811〜59)と結婚し、アイルランド南部ウォーターフォード州の侯爵家の地所で暮らした。姉妹ともに慈善に熱心で、アマチュアの水彩画家として数多くの作品を残した。本エッセイでウルフは『二人の貴婦人伝』のハイライトを紹介するが、誇張したり脚色したりしている箇所もある。

【27】 イギリスの伝記作家ジェイムズ・ボズウェル(1740〜95)による『サミュエル・ジョンソン伝』(1791)は、伝記文学の傑作として名高い。

【28】 ウィリアム・ベックフォード(1760〜1844)は小説家、好事家。ゴシック小説『ヴァセック』(1786)で知られる。ウィルトシャー州にゴシック様式の屋敷フォントヒル・アビーを建てて、ゴシック建築のブームに一役買った。

【29】 スチュアート男爵は、1831〜35年に、ドーセット州の海沿いの高台に広大な屋敷を建てた。この屋敷はハイクリフ城という名前で知られ、現在では一般公開されている。ソレント海峡とは、イギリス南部のワイト島と、イギリス本土のあいだにある海峡のこと(ワイト島はハイクリフ城の南東の方向にある)。

【30】 キャサリン・M・マーシュによる『へドリー・ヴィカーズを偲んで』(1855)は、イギリス陸軍将校へドリー・ヴィカーズ(1826〜55)の伝記で、ヴィカーズがキリスト教徒として回心の体験を経たことが書かれている。彼はクリミア戦争中に若くして戦死した。

【31】 アイルランド飢饉(1845〜51)はジャガイモ飢饉とも。ヨーロッパ全域で起きたジャガイモの疫病の蔓延をきっかけとし、アイルランドを植民地化していたイギリス政府の無策のせいで長期化した飢饉だった。『二人の貴婦人伝』によると、ルイーザは炊き出しなどで積極的に救援活動をしている。インド大反乱(1857〜58)は、イギリスの東インド会社によるインド支配に対する、インドの民衆による反乱のこと。カニング夫妻がインドに渡って約1年後に起きたため、インド総督の任にあった夫のチャールズは反乱の鎮圧と、インドをイギリス政府直轄の植民地にするための手続きに忙殺されることになる。なお、総督夫人であったシャーロットは1861年、イギリスへの帰国を前にマラリアで亡くなり、チャールズは翌年退任して帰国するが、同年中に病死した。

【32】 現在もこの学校の建物は保存され、レディ・ウォーターフォード・ホールとして一般公開されている。建物の内壁を取り巻く彼女の壁画も見ることができる(Lady Waterford Hall ウェブサイト)。

【33】 ジョージ・フレデリック・ワッツ(1817〜1904)はイギリスのヴィクトリア時代を代表する画家。『二人の貴婦人伝』によるとワッツが彼女の絵を評したのは1866年のことである。ティツィアーノ(1485頃〜1576)とラファエロ(1483〜1520)はルネサンス期イタリアの著名な画家。

【34】 ウォーターフォード侯爵の長年の親友で、レズリー卿が結婚してからは家族ぐるみのつきあいをしていた。『二人の貴婦人伝』でたびたび言及される人物である。

*Source: Virginia Woolf, “On Being Ill,” The Essays of Virginia Woolf, Volume 5: 1929-1932, ed. by Stuart N. Clarke (Hogarth Press, 2009).



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