哲学者と子どもたちによる資本主義の改革は実現可能か? マルクス・ガブリエル『倫理資本主義の時代』書評 by 斎藤幸平
世界的哲学者、マルクス・ガブリエルによる初の「日本書き下ろし」となる著作、『倫理資本主義の時代』(斎藤幸平[監修]土方奈美[訳]、ハヤカワ新書)。刊行直後から各書店でベストセラーとなり、話題を呼んでいます。
「エコ・ソーシャル・リベラリズム」や「最高哲学責任者(CPO)」、「新実在論」などのキーワードが頻出する本書の読みどころは、いったいどこにあるのか? 現代社会が抱える問題に対して、本書はどのような回答を提示しているのか? 本記事では、本書の翻訳監修をつとめた斎藤幸平(東京大学大学院総合文化研究科准教授)さんによる書評を公開します。
マルクス・ガブリエルが掲げる「倫理資本主義」と、斎藤氏が標榜する「脱成長コミュニズム」は、どちらがより今の世界に求められているのか。本書が刊行されたことの意義、そしてその主張の是非についてクリティカルな筆致で迫ります。
マルクス・ガブリエル『倫理資本主義の時代』書評
東京大学大学院総合文化研究科准教授
斎藤幸平
「ロックスター哲学者」マルクス・ガブリエルによるまとまった資本主義についての初めての著作が、日本の読者向けに執筆された書き下ろしとして刊行される。ガブリエルの資本主義論については、これまでもNHKの番組「欲望の資本主義」シリーズで断片的に語られることはあった。ただし、テレビでの発言だけでは、その意図がよくわからないことも多く、緻密な論理展開も不十分だったので、本書の刊行をまずは心から歓迎したい。
さて、本書の主張を一言でまとめれば、私、斎藤幸平の唱える「脱成長コミュニズム」や「エコ・ソーシャリズム」などいらない、なぜなら「倫理資本主義」のもとでの価値創造と「エコ・ソーシャル・リベラリズム」が文明をより豊かにし、持続可能な未来を作ることができるのだから、というものである。
本書がこのような結論にいたるまでの議論は極めて明快なので、実際に本を読んでみてほしい。ここでは、ガブリエルの主張を簡単にまとめておけば十分だろう。ガブリエルによれば、脱成長は人々のインセンティブを削ぎ、社会を停滞させ、貧困をもたらす。さらにコミュニズムは、中央集権的な計画経済によって、市場のみならず、最終的には民主主義を否定する。複雑な現代の社会システムにおいて、画一的な平等を押し付けようとする計画経済は不可能であり、自由を否定することになるというのである。
それに対して、ガブリエルの訴える倫理資本主義は、市場の競争を否定せず、利益追求を肯定する。なぜならそれが社会にとって役立つ新しいイノベーションやテクノロジーをもたらす原動力だからである。こうしたガブリエルの議論自体は、それほど珍しいものではない。社会主義への批判は、ハイエクの『隷属への道』など、昔からあるものだ。また、行き過ぎた新自由主義やグローバリゼーションを修正し、強欲資本主義を立て直すという議論も、海外では、レベッカ・ヘンダーソンやマリアナ・マッツカートらが唱えてきたことであり、日本でも「公益資本主義」や「ステークホルダー資本主義」という形で、ここ数年間、何度も語られてきたことでもある。
では本書の新規性はなにか? 哲学者ガブリエルの議論には、二つのユニークな点がある。まず、成長そのものは悪ではない。だが、社会や環境にとってより良いものを作るために、成長の方向を変更しなければいけない。その役割を担うのが、「最高哲学責任者(CPO)」を中心とした「倫理部門」だというのである。倫理部門こそが、本当に社会にとって役に立ち、持続可能な未来につながる商品作りを先導するとガブリエルは考えるのだ。なにより、AIの急速な発展が進み、プラットフォーム企業が国の法や制度を上回る力を持つようになるなかで、そのような企業内でのブレーキを担う力の存在は、確かに重要性を増しているといえるだろう。
もう一つ、ガブリエルの哲学者としての独自性が見られる、よりラディカルな提案が、普遍性へのコミットメントである。それが、投票権を子どもたちに拡大し、子どもたちの知恵を活用することで、真に普遍的な参政権を実現するという提案である。ガブリエルのモデルにおいて、子どもたちはより良い利益追求の推進力である大胆なイノベーションや道徳的進歩の源泉だとされるのである。とても西洋的な発想かもしれない。
哲学者と子どもたちによる資本主義の改革があれば、(広い意味での)さらなる成長は可能であり、それは私たちの社会を豊かにし、民主主義や自由を守ることにもなる。もしそうならば、間違いなく素晴らしいことだ。
もちろん、私はガブリエルの結論に同意しない。これだけ富の偏在した世界では、倫理資本主義はたんなるやったふりの「倫理ウォッシュ」にしかならないだろう。「最高哲学責任者(CPO)」の多くも買収されて終わりである。また、「今はまだ発見されていない宇宙のエネルギーを活用し、地球の限界を脅かさずに社会のあらゆる部門に再生可能で環境にやさしいエネルギーを供給する」という「スーパーエネルギー社」ができるのはどれだけ先のことだろうか? そもそも、そのような夢のある話を仮定していいのであれば、あらゆる社会問題は解決できることになってしまうのではないか。
現実においては、SDGsはたんなるウォッシュになりさがり、格差や貧困はコロナ禍でますます深刻化していった。ESGも景気が悪くなれば、すぐに大きなバックラッシュに晒されることになった。実際、アメリカでも、資本主義を再構築するというようなヘンダーソンらの試みは、大きな後退を強いられるようになっている。
夢のような技術を待つよりも、もっとプライベートジェットの禁止や、より大胆な富裕税や相続税の導入などを求めるべきではないだろうか。そうした資本主義の強欲さに対するブレーキをかけるには、倫理部門や子どもの投票権だけでなく、さまざまな社会運動や労働運動が必要になるだろう。
とはいえ、ここはガブリエルの主張に対して、全面的な反論を行う場所でもないだろう。そもそも、より良い社会をめぐる問いは、「成長」や「コミュニズム」の定義にもよるし、未来の完全な予測は不可能なので、不毛なすれ違いになりがちである。
そこで、以下では、論理的な問題に絞りたい。一つが方法の問題である。つまり、ガブリエルはドイツ観念論を専門としながら、資本主義観は非弁証法的だという印象を受けるのだ。実際、本書の議論は、マルクスによるプルードン批判を思い出させた。「哲学の貧困」では次のように述べられている。
間違いなく、資本主義には「良い面」と「悪い面」がある。「競争」による「イノベーション」は維持して、「独占」はなくす。「貨幣」による「インセンティブ」は維持して、「格差」はなくす。「成長」による「豊かさ」は維持して、「環境破壊」はなくす。どれもできれば、それは大変素晴らしい。だが、「良い面」と「悪い面」の両者が切り離せないというのが「弁証法」である。だからこそ、その裏表の関係を直視しながら、全く別のものを作り出さなければいけないとマルクスは考えた。もちろん、そのような別の社会も完全に矛盾を解消することにはならないだろう。それでも、まずはこの「良い面」と「悪い面」を切り離せないというアプローチは決定的に重要だと、私は考える。
以上のように、「良い面」を強調するガブリエルの道徳観や社会観の特徴は、近代主義的な進歩観に依拠する「楽観主義」と「普遍主義」である。実際、本書でも自分は「楽観主義者」であると述べられており、道徳における進歩を人類は遂げている事実が強調される。ガブリエルの掲げる「新しい啓蒙」には、スティーブン・ピンカーのような新啓蒙主義との共鳴も見られるだろう。
ただ、本書では、あまりガブリエル自身の哲学と倫理資本主義の関係性が展開されていないので、最後にこの点についてもう少し考えてみたい。
ガブリエルは理論的には、「新実在論」という存在論を掲げており、そこでは、「意味の場」と呼ばれる、事柄が現れる場所が無限にあるという多元論の立場を取る。例えば、同じ「私の右手」も、日常の「意味の場」では執筆を行う器官の一部であるが、生物学の「意味の場」では「神経や細胞」からなり、物理学の「意味の場」では「素粒子のあつまり」として、さまざまに存在するのである。モノだけではない。意味の場が無限にある限りで、人々の道徳や価値観をめぐる無限の多様さも存在する。言ってみれば、無限の存在の肯定と多元主義こそが新実在論の特徴なのである。
こうしたガブリエルの議論を前にして、あまりにも多様なものがすべて存在するのだと肯定するなら、すべてが等しい相対主義になってしまうのではないか、という疑問が度々投げかけられてきた。それに対して、存在するからといって、すべてが等しく良いわけではなく、しばしば明白な事実をもとに、はっきりとした序列をつけ、誤った主張は退けることが可能だとガブリエルは考えている。つまり、誰もが同意するであろう事実や価値観をもとにして、善悪の判断は可能であり、だんだんと人間は道徳的に進歩していく。その結果として、「普遍主義」が達成可能だと考えるのである。
けれども、現在、現実の世界は分断されている。ウクライナ、ガザ、米中関係。そんななかで、日本の読者は、ガブリエルのハマスやイスラエルについての発言に大いなる違和感を覚えてきたに違いない。例えば、山陰中央新報に掲載されたインタビューでは、ガブリエルは次のように述べている。
このような見解に賛同する人は、日本ではそれほど多くないはずだ。この書評を脱稿した時点でガザ地区では3万7000人以上のパレスチナ人が亡くなり、その多くが女性や子どもである。ここに道徳的進歩があるのか。本当に、イスラエルの軍事行動を正当化できるだろうか。むしろ、ガブリエルは「明白な事実」を見誤っているのではないか。つまり、控えめに言っても、ガブリエルの主張は極めてドイツ=イスラエル的な道徳観としてしか映らないのではないか。
このような日本からの批判に応答する形で、本書は第一稿が書き上げられた後、本文と注92にイスラエルへの批判が挿入されている。それでも本文では、イスラエルが「今も自由民主主義陣営のメンバー」であり、イスラエルは「ハマスに対する何らかの軍事行動を正当化できるだけの存亡の脅威に直面している」と述べられている。
この事実は、新実在論そのものを否定するわけではない。ただ、次のような疑問は浮かんでくる。つまり、ガブリエルが念頭に置く資本主義観やその善悪についても、それは普遍的なものではなく、あくまでもドイツ的なものでしかない可能性が出てくるのではないか。なぜ、イスラエルはロシアや中国とは異なり、ジェノサイドを行っても、「自由民主主義陣営のメンバー」であり続け、支援を受け続けることができるのか? 結局、イスラエルの擁護が「自由民主主義陣営」の利益になるからではないか。
本来、普遍主義はヨーロッパ中心主義ではないはずだ。しかし、その普遍主義の理念がヨーロッパ中心主義の隠れ蓑にすぎないとしたら。倫理資本主義の肯定が、帝国主義や植民地主義の温存になるのだとすれば、私は本書を読んだ後にも、脱成長コミュニズムの必要性を、パレスチナの解放とともに声高に訴えなければならないのである。
〈本書の目次〉
〈著者略歴〉
マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)
1980年ドイツ生まれ。哲学者。200年以上の伝統を誇るボン大学の哲学科正教授に史上最年少の29歳で就任。西洋哲学の伝統に根ざしつつ、「新実在論」を提唱し世界的に注目される。スタンフォード大学人文科学センター国際客員研究員などを兼任。NHK Eテレ「欲望の時代の哲学」などテレビ番組にも多数出演する。『なぜ世界は存在しないのか』『「私」は脳ではない』『新実存主義』ほか著書多数。
〈監修者略歴〉
斎藤幸平(さいとう・こうへい)
1987 年生まれ。経済思想家。東京大学大学院総合文化研究科・教養学部准教授。著書に『ゼロからの『資本論』』、『人新世の「資本論」』など。監訳書にガブリエル&ジジェク『神話・狂気・哄笑』(共監訳)。
〈訳者略歴〉
土方奈美(ひじかた・なみ)
翻訳家。日本経済新聞記者を経て独立。訳書にファデル『BUILD』、スローマン&ファーンバック『知ってるつもり』(以上早川書房刊)、アイザックソン『レオナルド・ダ・ヴィンチ』など多数。
〈書籍概要〉
著者:マルクス・ガブリエル
監修:斎藤幸平
訳者:土方奈美
出版社:早川書房(ハヤカワ新書)
発売日:2024年6月19日
本体価格:1,200円(税抜)