英国人ジャーナリストが経験した3・11の「あの時」『津波の霊たち 3・11死と生の物語』プロローグ
2018年に邦訳刊行した『津波の霊たち——3・11死と生の物語(原題:Ghosts of the Tsunami)』は、英国の文学賞「ラスボーンズ・フォリオ賞」や、日本記者クラブ賞特別賞を受賞するなど大きな反響を呼びました。
著者のロイド・パリー氏は、英《タイムズ》紙のアジア編集長・東京支局長を務める在日20年の英国人ジャーナリストで、事件ルポ『黒い迷宮』でも知られています。本書は、2011年3月の東日本大大震災における津波により、74人の児童と10人の教職員が犠牲になった大川小学校の悲劇と、東北の被災地で相次ぐ「心霊現象」の深層に、6年越しの取材で迫るノンフィクションです。この度の文庫版刊行に際して、本書の「プロローグ」を公開します。
プロローグ 固体化した気体
2011年3月11日――。その寒い晴天の金曜日は、私が初めて息子の顔を見た日だった。東京都心にあるクリニックの診察室で、私は小さなスクリーンの画像をのぞき込んだ。隣の診察台の上には、妻がお腹を出して横たわっている。透明なジェルが塗られた卵形のお腹の上に、医者はぴかぴかと光るプラスティックのスキャナーを押し当てる。医者が手を移動させるたび、スクリーン上の画像も切り替わる。
そこに何が映るかはわかっていたものの、小さな生命体がこれほど鮮明に見えることは驚きだった。胎児特有の大きな頭の輪郭(りんかく)、ぴくぴくと震える心臓の心室(しんしつ)と心房(しんぼう)、脳、背骨、それぞれの指。そして、大きな動き――バタバタと動く腕、がくんと蹴り出される脚、こくりこくりとうなずく頭。画像のアングルがさっと変わると、目鼻立ちがはっきりとした幽霊(ゆうれい)のような顔が映り、じつに人間的でチャーミングなあくびをする。私たち夫婦の第2子――のちに男の子だとわかる赤ん坊――がまだ母親のお腹のなかにいて、辛抱強く生きていた。
クリニックの外は晴れていたが、気温は低く強い風が吹いていた。大きな通りは、昼時の買い物客とランチに出かける会社員で混み合っている。私たちはベビーカーを押してカフェに行き、将来の弟が写るぼやけた白黒写真を幼い娘に見せてあげた。
2時間後、私はビルの10階にあるオフィスのデスクのまえに坐っていた。あれが始まったちょうどそのとき、私はいったい何をしていたのだろう? メールを打っていたのだろうか? 新聞を読んでいたのだろうか? 窓の外を眺めていたのだろうか? 私にとってその日は、すでに忘れられない一日になっていた。それまでの数時間について私が記憶しているのは、エコー画面のまえにいた瞬間のことだけだった。そして、受胎と出生の中間地点にいる息子の顔をのぞき込んだときの感覚だけだった。
16年にわたって日本に住む私は、地震についてある程度の知識があった。あるいは、知っていると思っていた。言うまでもなく、これまで充分すぎるほどの地震を経験してきた。事実、私が東京に住みはじめた1995年以降、首都圏だけでも1万7257回の地震が観測された。ちょうど2日前にも、地震が立てつづけに起きていた。そのとき、私は揺れが収まるのを坐ったまま待ち、マグニチュードと震度を確かめてからツイッターでおもしろおかしく報告した。いまでは、それが恥ずかしくてたまらない。
@dicklp
2011年3月9日(水)11:51:51
地震発生!
2011年3月9日(水)11:53:14
震源地は宮城県。東北地域の太平洋沿岸に津波注意報。東京でも少し揺れを感じたものの、体がひっくり返ってしまうほどではない。
2011年3月9日(水)12:01:04
また揺れ……
2011年3月9日(水)12:16:56
@LiverpolitanNYC ありがとう、こちらはみんな元気だよ。揺れは想像するほど激しいものじゃない。
2011年3月9日(水)16:09:39
本日の日本の地震の脅威、最新情報をお知らせします。岩手県で10センチの津波を観測。わが家のキッチンの洗い桶と同じくらいの深さ。
翌日、東北地方の太平洋沿岸の同じ地域を再び強い揺れが襲った。遠く離れた東京にも揺れが伝わる強い地震ではあったものの、震源地近くでも負傷者や大きな被害は出なかった。「水曜日から木曜日の朝までに日本で起きた地震は30回を記録」と共同通信社は伝えた。そのなかには、科学的な計測機器だけが感知できる地下振動だけではなく、強い揺れも多く含まれていた。地震学者たちは、これから1週間ほどのあいだに「大きな余震」が起きる可能性があると警告した。一方で、「地殻活動」は収束していくだろうと予測した。
同じ地域で連続して起きる「群発(ぐんぱつ)地震」は、より強い地震、さらには火山噴火の予兆だと考えられることもある。しかし、災害のまえに不吉な予兆があることは多いとしても、必ずしも何かが起こるわけではない。言い換えれば、ほとんどの群発地震はその規模を増すことなくただ収まっていく。数年前、ある群発地震が富士山噴火の前兆だと噂されたとき、私もこの現象について報道したことがあった。結局そのときは何も起きず、小さな地震がたびたび起き、そのまま揺れは収まっていった。だから今週の地震についても、とりわけ注目したり警戒したりする理由はなかった。
その日、日本ではほかに大したニュースはなかった。とくに、国際的に注目を集めるニュースはゼロ。政治献金問題について中途半端な辞任要求を突きつけられた総理大臣が、辞任を拒否。午後、現職の東京都知事が次の選挙に出馬するかどうかを発表する予定だった。ある通信社の見出しのひとつには「茨城空港開港1周年」の文字。「カルビーが東証一部上場」という見出しもあった。そして午後2時48分、一行の緊急ニュース速報が飛び込んできた――
臨時ニュース 日本で強い地震が発生
私はその1分ほどまえから揺れを感じていた。ふだんの地震のような小さな揺れから始まり、穏やかではあるがはっきりとした縦揺れの振動がオフィスの床に伝わり、それから左右に揺れた。横揺れになると同時に、特徴的な音が室内に鳴り響いた──ブラインドの両端のプラスティックの部品が互いにぶつかり合う無機質な音。同じことは二日前にも起こり、すぐに収まった。それを覚えていた私は、窓ガラスがガタガタと音を立てはじめても椅子に坐ったままだった。
@dicklp
2011年3月11日(金)14:47:52
また東京で地震……
2011年3月11日(金)14:47:59
強い地震……
2011年3月11日(金)14:48:51
16年間でもっとも強い地震……
書類整理棚の引き出しがスライドして大きく開いたころまでに、私の落ち着きとキーボードをタイプする指の動きが失われようとしていた。10階の窓の外に眼をやると、100メートルほどさきのビルの屋上に立つ、紅白の縞(しま)模様のアンテナ塔が見えた。私は自分に言い聞かせた。「あのアンテナがぐらぐらしはじめたら、逃げよう」。そんな考えが頭のなかでまとまっていくうちに、もっと近くにある構造物の異変に気づいた。私がいるビルの別棟が明らかに揺れているのだ。その瞬間、私はデスク下の狭い空間に体を押し込んだ。
のちに読んだ記事によれば、実際に揺れていたのは六分間。しかし揺れのあいだ、時間は不思議な感覚で過ぎていった。ブラインドのカチャカチャという音、ガラスのガタガタという音、そして大きな横揺れが、夢のような非現実的な雰囲気を醸(かも)し出した。小さな防空壕(ぼうくうごう)から這い出るころには、どれくらい穴のなかに隠れていたのかという時間の感覚がほとんど失われていた。恐ろしかったのは揺れそのものではなく、揺れが次第に大きくなり、いつ終わるかわからないということのほうだった。棚の本が床に落ち、パーティションに貼りつけられたホワイトボードがずり落ちていた。12階建てのビル──とりわけ特徴もなく、古くも新しくもなく、頑丈(がんじよう)でも脆(もろ)くもないビル──が、その内側深くから低いうなり声を上げていた。それは、めったに耳にすることのないような音だった。瀕死(ひんし)の怪物が発する最期の一声のような、絶望的な懊悩(おうのう)を思わせる不快なノイズだ。そんな音がしばらく続くあいだに、巨大地震の次の段階に対するはっきりとしたイメージが私の頭のなかにできあがっていった。棚とキャビネットが倒れ、ガラスが粉々(こなごな)に割れ、天井が床に崩れ落ち、床が割れる。そして、宙を落下する感覚と押しつぶされる感覚が同時にやってくる――
どこかの時点で、揺れが弱まっていった。建物のうめき声がつぶやき声に変わり、私の心臓の鼓動も落ち着いていった。ふと、バランス感覚がおかしいことに気づいた。ボートから岸に降りるときのように、揺れが完全に収まったのかどうかを判断するのがむずかしかった。5分が経過しても、ブラインドから垂れ下がるコードはまだ弱々しく揺れたままだった。
室内のスピーカーを通して、中央管理室(東京の大型ビルには必ず設置されている)からのメッセージが聞こえてきた。「建物の構造には問題ありませんので、室内にそのままとどまってください」
@dicklp
2011年3月11日(金)14:59:44
私は無事です。恐ろしいほどの強い揺れ。そして余震。東京湾岸で火災が発生。
***
日本ではどんな理由があろうとも地震対策を怠ることは赦されず、私の小さなオフィスでも推奨される対策をとっていた。壁に重い額縁(がくぶち)を飾るようなことは問題外で、棚やキャビネットはすべて壁や天井にボルトで固定してあった。棚に置かれたものが全体的に少し動き、本が何冊か床に落ちたものの、室内にはこれといった変化は見当たらなかった。部屋のなかでもっとも重いテレビでさえ動いていなかった。日本人の同僚がテレビをつけると、すでに全チャンネルが同じ日本地図の映像を映し出していた。太平洋沿岸の一帯に色がつけられていたが、なかでも「赤」は差し迫った津波の脅威を示すものだった。震源地を意味する×印は地図の右上、本州の北東に置かれている。それは、ここ数日のあいだ地震が群発していたのと同じ場所、「東北(とうほく)」と呼ばれる地域だった。
妻の携帯電話に何度も電話してみた。が、つながらなかった。インフラそのものは被害を免(まぬが)れていたものの、東日本の住人全員がいっせいに携帯電話を使おうとしたせいで回線がパンク状態だった。固定電話を使うと、自宅で1歳7カ月の娘の面倒を見ている女性となんとか話をすることができた。ふたりとも動揺しているが怪我はなく、いまも台所のテーブルの下に避難しているという。その後、やっとのことで妻の電話につながった。彼女は自分のオフィスにいて、床に落ちて割れた写真立てのガラスを片づけているところだった。会話はたびたび中断した。私たちのオフィスは街の別の地域にあり、本震の数分後から始まった余震の揺れに時間差で襲われていたからだ。
エレベーターが停止していたため、私は10階分の階段を下り、ビルの近くにある店舗やオフィスの様子を見にいった。眼に見える被害はほとんどなかった。昔ながらの理髪店のまえにあるサインポールが斜めに倒れていた。それ以外には、ガラス窓にひびが入っているのが一カ所、塗り壁が裂けているのが一カ所。建物から避難してきた会社員たちで通りは混み合い、多くの人が白いプラスティック製のヘルメットをかぶっている。それは、このような事態に備えて日本企業が各社員のために用意しているものだった。街のビル群のはるか奥の東の空に、黒い煙が立ち昇っているのが見えた。石油精製所で火災が発生した場所だった。あとになってから、こんなふうに印象づけようとする人々がいた──地震によって東京じゅうで大混乱が巻き起こり、多くの人が死を覚悟するような感覚を味わった。それは誇張でしかなかった。何世紀にも及ぶ地震の破壊によって発展してきた日本の近代工学と厳しい建築法は、今回の試験になんなく合格した。突然湧(わ)き上がった警戒心のあとには、何時間もの混乱、不便、退屈が続いた。それでも、人々を支配する感情はパニックなどではなく、戸惑い気味の諦観(ていかん)だった。
70万円の花瓶を売る古い陶器店では、皿一枚たりとも割れていなかった。ちょうど通りにいた着物姿の年配の女性グループに話を聞いてみると、近くの新橋演舞場で歌舞伎を観ていたときに地震が起きたという。「大詰(おおづめ)が始まった直後に地震が起きて、客席の人たちが叫び声を上げていました」とひとりが教えてくれた。「でも、舞台上の役者さんたちはまったくためらう様子もなく、演技を続けていました。揺れがすぐに収まるかと思ったのですが、長く続きました。すると観客がみんな立ち上がり、いっせいに出口に詰めかけはじめたんです」。主役を演じる有名な歌舞伎役者、尾上菊五郎と中村吉右衛門は、舞台の中断を詫びて深くお辞儀をしてから袖にはけたという。
@dicklp
2011年3月11日(金)16:26:4
東京都心は混乱も被害もなし。30分ほど銀座を歩いてみたが、窓ガラスが一カ所で割れ、数カ所で壁にひびが入っている程度。
2011年3月11日(金)16:28:56
千葉県の石油施設で火災が一件だけ発生した模様。
2011年3月11日(金)16:40:31
日本の原子力発電所、11カ所が稼働停止。異常は報告されていない。
2011年3月11日(金)17:47:25
数えきれない回数の余震。15回以上だろうか。日本のテレビによると、さきほどの余震は最初の大きな地震とは別の震源地で発生したとのこと。
2011年3月11日(金)18:20:10
東京への電話がつながらなくて困っている方へ──スカイプを使ってください。東京のインターネット環境は問題ないようです。
オフィスに戻ると、私たちはまたテレビをつけた。すでに、潤沢(じゆんたく)な資金を誇る日本の各放送局が飛行機、ヘリコプター、人員を総動員していた。外国のテレビ局もまた、放送中の番組内容を切り替え、日本の状況を繰り返し伝えた。ケーブルニュースのその映像には、悲惨なニュースの裏に隠れたテレビ関係者の欲望がうっすらと見て取れた。私も、自分が勤める新聞社のウェブサイト用の記事を書く準備を始めた。ケーブルテレビ、衛星、インターネット、ファックス、電話を通して送られてくる画像、音、文字による大量の情報を頭のなかで整理しようとしたものの、事実関係はいまだ腹立たしいほど漠然としていた。地震が起こり、収まった。それに対する人々の反応は予想どおりのものだった──首相官邸に対策室が設置され、空港、鉄道駅、高速道路が閉鎖された。だとしても、これまでのところ実際にどんな被害があったのだろう? 石油精製所のほかにも、火災の発生についていくつか報告があった。しかし最初の数時間、地震学者たちは地震のマグニチュードさえ確定できずにいた。東北の海沿いからは、沈黙しか聞こえてこなかった。
死傷者数を特定するのはとりわけむずかしかった。午後6時半、テレビのニュースでは23人が死亡したと報じられた。その数は9時までに61人に増えたものの、真夜中を過ぎてもまだ64人にとどまっていた。通信手段が回復するにつれ、人数が増えることはまちがいなかった。ところが、このような状況下では不合理な悲観論が先行し、想像できうるかぎり最悪の事態を想定する傾向がある。そして最後に、それほど悪い結果ではなかったと安堵(あんど)することがよくあるものだ。
@dicklp
2011年3月11日(金)17:58:43
これまで東京での犠牲者の報告はなし。私の勘では、東北地方で数十人、多くても200~300人の死者といったところだろうか。それ以上の大惨事にはならないだろう。
***
迫りくる津波を空から映した映像はいくつかあるものの、私の頭のなかで何度も繰り返し流れるのは、仙台(せんだい)の南にある名取(なとり)市上空で撮影されたものだ。映像は海ではなく、陸にある焦げ茶色の冬の田んぼから始まる。まるで生きているかのように――茶色い鼻先の動物が、飢えに苦しんで地面をぴょんぴょん跳ねるかのように――何かが一帯を横切って動いていく。その頭は裂けた破片の塊(かたまり)でできており、背中のあたりには何台もの車がぽかりと浮かんでいる。動きつづける胴体から蒸気と煙が湧き上がってくる。その体は水や泥というよりも、固体化した気体のように見える。それから大きな船が現れ、海から数百メートル離れた陸の上を浮かんだまま進んでいく。信じがたいことに、青い瓦葺(ぶ)きの家々がその構造をしっかりと保ったまま、くるくるまわりながら水浸しの畑の上を流れていく。その屋根の上に揺らめくのは、オレンジ色の炎。生き物は道路を川に変え、その川を丸ごと呑み込む。さらに別の畑と道路に襲いかかり、車で混み合った幹線道路や集落のほうへ進んでいく。一台の車が津波から逃げようとスピードを上げる。が、車も人もそのまま波に食べ尽くされてしまう。
それは、これまで日本を襲ったもっとも大きな地震であり、世界の地震史のなかでも四番目に巨大なものだった。この地震によって地球の地軸が17センチほど傾き、日本列島の一部はアメリカのほうに1メートル以上移動した。地震後に発生した津波では、1万8000人以上が死亡。津波の高さは最高で40メートルを超え、およそ50万人が避難を余儀(よぎ)なくされた。福島第一原子力発電所の3基の原子炉で炉心溶融(メルトダウン)が起き、放射性物質がまわりの地域に放出された。チェルノブイリ以来、世界でもっとも深刻な原発事故だった。地震と津波による被害総額は二〇兆円以上にのぼり、史上もっとも損失の大きな自然災害となった。
第二次世界大戦以降、日本における最大の危機だった。この地震はひとりの総理大臣を辞任に追い込み、もうひとりの辞職にまで影響を与えつづけた。津波の被害によって、世界でも屈指の巨大企業数社の製造ラインが停止した。原発事故の余波で数週にわたって停電が続き、数百万人の生活に影響が及んだ。結果として、日本にある残り五〇基すべての原子炉が稼働を停止した。何十万もの人々がデモに参加して通りを練り歩き、反原発を訴えた。福島の事故を受け、ドイツ、イタリア、スイス政府は原子力発電を廃止することを決めた。
原子力発電所のまわりの土壌汚染は何十年にもわたって続く。津波に破壊された集落や町は、二度と再建されることはないかもしれない。被災者たちの心のなかでは、苦悩や不安が増殖していく――この破壊的な出来事の現場から遠く離れたところに住む人々には、それを理解できるはずもない。突如として作物を売ることができなくなった農家の人々が自殺した。電力会社に勤める罪のない会社員たちが嫌がらせや差別の標的となった。眼に見えない毒が空気、水、さらには母乳を通して体内に入り込んでくる、そんな恐ろしい流言飛語が飛び交った。日本に住む外国人にとっては、パニック以外のなにものでもなかった。原発の事故現場から200キロ以上も離れた東京に住む多くの外国人家族、会社員、大使館員がほかの都市へと避難した。
その日の夕方、10階のオフィスのデスクにつく私にとっては、こういった事実のほとんどは未知のものだった。しかし翌朝から、いろいろな事実が少しずつ明らかになっていった。その時点で、私はすでに東京から被災地の海岸に車を走らせていた。それから数週にわたって私は東北にとどまり、津波に襲われた地域を訪ねて北へ南へと移動することになる。なかには5キロほど内陸まで津波が押し寄せた場所もあった。夜の病院を訪れると、ロウソクの火だけが病室を照らしていた。その近くでは、この世の終わりのような雰囲気を補うかのごとく、燃え盛る巨大な石油タンクから空に火柱(ひばしら)が上がっていた。まず津波に呑み込まれ、次に火災に襲われた町を私は目撃した。波に持ち上げられた車が高い建物の屋根に乗っかり、鉄製の外航船が町の通りにぽつりと置かれていた。
用心しながら、私は原子力発電所のまわりの不気味な立ち入り禁止区域にも足を踏み入れた。地面の上には、咽喉(のど)が渇いて死んだ牛が横たわっていた。見捨てられた村々にはペットの犬が群れをなして棲み着き、みるみる凶暴さを増していった。マスク、手袋、帽子付きの防護服に身を包み、私は崩壊した発電所の敷地内にも入った。生存者、避難者、政治家、原子力専門家へのインタビューを繰り返し、日本の当局者による無責任な迷走について日々報道した。私は何十もの新聞記事を書き、何百ものツイートで生の声を届け、ラジオやテレビのインタビューを何度も受けた。にもかかわらず、すべての経験が無秩序な夢のように感じられた。
戦場や災害の被災地で働く者は、しばらくすると冷静さを保つ術(すべ)を身につけることができるようになる。でなければ、この仕事を続けることはできない。死や苦しみの光景に圧倒されていたら、医師、救援隊員、記者の仕事は勤まらない。コツは同情心を保ちつつ、個々の悲劇を自分とは無関係のものだととらえることにある。長年のあいだに、私もこの技術を習得した。私は実際に何が起きたかという事実を知っていたし、それがどれほど恐ろしいことかもわかっていた。しかし頭の奥深くの部分では、恐れを抱いていなかった。
「いきなり、ただ想像しかできないことが起こった――それは今もなお想像しかできない」とアメリカのジャーナリスト、フィリップ・ゴーレイヴィッチは記した。「わたしがもっとも魅了されたのはそこだった。現実にあったにもかかわらず、なお想像しなければならないということが」。この震災で起きた数多(あまた)の出来事はきわめて複層的で、その影響や意味が及ぶ範囲は計り知れないものだった。そのため、私は物語の本質を確実にとらえたと感じたことは一度もなかった。それはまるで、角や取っ手のない不自然な形の巨大な荷物だった。どんな方法を試してみても、荷物を地面から持ち上げることはできなかった。震災から数週のあいだ、哀れみ、戸惑い、悲しみに私は苛まれていた。しかし、それ以外のほとんどのあいだに感じたのは、無感覚な冷静さだった。そして、焦点を完全に見失っているというやっかいな感覚だった。
海岸にほど近い小さな集落で、かつてない悲劇が起きていた――。私がそう耳にしたのは、震災から数カ月たった夏のことだった。大川という名のその場所は、日本の発展から置き去りにされたような深い山々の麓(ふもと)にあった。里山と水田に囲まれ、近くには大きな川の河口があった。私はその鄙びた場所を訪れ、数日、数週にわたって取材を続けた。震災から数年のあいだに、私はさまざまな場所で幾多の生存者と出会い、津波についての多種多様な経験談を聞いた。しかし、私が何度も戻ることになったのは大川だった。その集落にある小学校で、やがて私は想像することができるようになった。
『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』は、全国書店、ネット書店にて発売。