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早くも大反響のミステリ『真珠湾の冬』 評論家・吉野仁氏の解説を全文公開――「五年にわたる執念が凝縮したかのようなクライマックスは圧巻だ」

エドガー賞受賞の傑作ミステリ『真珠湾の冬』が好評発売中です。本書巻末に収録されております評論家の吉野仁氏による解説を公開いたします。

解説


ミステリ評論家 吉野 仁
  
 ハワイのオアフ島にある真珠湾は、州都ホノルルの西に位置し、アメリカ軍の軍港として知られている。一九四一年十二月八日に太平洋戦争が開戦してから、すでに八十年をこえるときが過ぎており、言うまでもなく、その口火を切ったのは日本軍による真珠湾への奇襲攻撃だった。
 ジェイムズ・ケストレル『真珠湾の冬』は、三部構成になっており、まず第一部では、開戦が迫る十一月末から十二月はじめのハワイを主な舞台とし、惨殺事件の真相を追う本格的な警察小説として展開する。国が大きな戦争へと向かおうとしている緊迫した情勢のなか、異様でむごたらしい殺人が
起こるのだ。事件を担当した警察官ジョー・マグレディは、捜査の一部始終を丹念に語っていくが、やがて激しい時代の波に襲われ、ジョーは否応なしにその激流に飲み込まれてしまう。仕事や生活の基盤としている地元ハワイを離れ、犯人を追い、太平洋を越え遠くアジアへと赴くばかりか、生き残
りを賭けて苦難の日々を送ることになる。小説自体が犯罪者を追う警察ものの枠をこえ、歴史ロマン大作へと転じていくのだ。
 本作は、二〇二二年のアメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)の最優秀長篇賞を受賞した。高い評価を得た理由の第一は、こうしたスケールの大きさだろう。原題はFive Decembers。太平洋戦争開戦の一九四一年から終戦となる一九四五年まで、物語のなかでは、十二月を五つ数えることになる。
歴史的な背景をもとにした警察小説であるばかりか、ホノルル、香港、東京といった地理的な広がりとともに、犯罪、スパイ、恋愛などの要素が色濃く盛りこまれている。
 そしてなにより、主人公ジョー・マグレディがたどる過酷な喪失の日々と、それを取りもどすための闘いの模様が圧倒的な熱量で語られていく。何もかも失い、残っているのは命しかない男ジョー・マグレディの五年にわたる執念が凝縮したかのようなクライマックスは圧巻だ。そして詩情に満ちた
ラストシーンが胸にしみる。まさか第一部を読みはじめた当初、最後にあのような着地点を迎えるとは予想もできなかったものだ(万が一、この解説を本文より先に読んでいる方がいるならば、すぐに最初のページに戻り、物語世界に没入していただきたい)。

 多くの日本人にとってハワイはもっともなじみの深い海外リゾート地のひとつだが、もはや戦前の様子を知る人はほとんどいないだろう。真珠湾攻撃にしても、歴史に関心がなければ細かい事実までは知らないはずだ。本作でまず興味深いのは、一九四一年十一月二十六日から物語の幕が開くことで
ある。ホノルル警察の刑事マグレディは、勤務を終えてチャイナタウンのバーで酒を飲み始めようとしたとき、上司のビーマー警部から呼び出された。この十一月二十六日は水曜日で、感謝祭の前日にあたる。アメリカ人にとっては、家族や親しい人とすごす大切なお祝いの日を翌日に控えていたのだ。
 太平洋戦争の歴史からみると一九四一年十一月二十六日は、アメリカ国務長官コーデル・ハルが、日米交渉におけるアメリカ側の提案、いわゆる「ハル・ノート」を野村・来栖大使へ示した日である。日本とアメリカには時差があるので、日本時間ではすでに二十七日になっていた。それを「最後通
牒」だと上奏したのが東郷茂徳外相であり、日本は開戦へと踏み切ることになったのだ。もっともすでにその前日アメリカ時間で二十五日、日本海軍の機動部隊は択捉島単冠湾から出撃していた。
 話を小説に戻すと、マグレディはオアフ島北側のカハナ湾まで、ホノルル市内から二時間以上かけて車で向い、事件現場に到着すると、そこで凄惨な死体を目にした。納屋のなかで若い男が全裸で梁から逆さに吊され、まっぷたつに切り裂かれた状態で死んでいたのだ。あまりに奇怪な事件である。しかも、その後、マグレディは不審な人物を目に留め、その男と対決したばかりか、もうひとつ、若い東洋人女性の死体を発見することとなる。マグレディは同僚の刑事フレッド・ボールとともに事件の捜査に着手した。
 前半の読みどころは、不可解で残虐な事件に対して、マグレディが相棒と組んで正面から取り組んでいく過程にある。さまざまな手続きや膨大な書類調査、現場検証、証拠採取、追いかけてくるマスコミとの対応など、警察捜査の細かい手順があますところなく描かれている。とくにパッカード・クーペの持ち主を市庁舎に保管されている自動車登録の書類から徹底的に調べ上げる過程などは念が入っている。本格的な警察小説としての形をしっかりとそなえているのだ。
 同時にマグレディの私生活や過去などが徐々に語られていく。マグレディはハワイ育ちではなく、六歳になるまでに、シカゴ、サンフランシスコなど各地を転々とし、大学を卒業したのち陸軍に入隊した。また、彼の人生は、弟トムとの関係が大きく左右していたことなども明らかになる。そして彼は、軍歴の最後であるホノルルの地にとどまり、警察の仕事について五年すぎたところである。
 恋人であるモリーとのなれそめに関しても興味深い。マグレディは、一九三三年十一月に起きた福建事変の目撃者だったり、一九三四年には台湾海峡の対岸にある街、福州で領事館の警護をしていたりするなど、軍隊にいたとき中国に派遣されていたのだ。
 また第二部以降、戦中および戦後まもないアジアやハワイを主な舞台にしているが、国から国へと航空機や船で旅をするのに、現在と比べてはるかに困難を要する時代だったことがうかがえる。こうした移動の手続きもしっかりとごまかさずに描ききっているのだ。戦争の時代ということでいえば、当然、その残酷さ、非情さが強調されているのに加え、ファシズムに対する怒りと批判が大きなテーマとなっているのも本作の重要なところである。
 では、作者ジェイムズ・ケストレルとは、どんな人物なのか。作中におけるアジアへのこだわりは、その経歴からもうかがえる。現在、彼はハワイのホノルルで弁護士を本業としているが、もともと大学卒業後、台湾で子ども向けの英語の教師をしたり、メキシコ料理店を経営したりしていたという。
その後、ニューオーリンズのロースクールに入学するために帰国し、その後ハワイへ移り住んだのだ。世界が新型コロナウィルスによるパンデミックとなる以前は、仕事のために毎年のように香港や東京へ行き来していたらしい。
 なにより『真珠湾の冬』は、およそ新人によるものとは思えない重量級の作品だが、じつは、ケストレルはこれまで本名のジョナサン・ムーア名義でミステリを六作ほど刊行している。そのうちの一作Blood Relations (二〇一九)は、エドガー賞のオリジナル・ペイパーバック部門で最終候補に残った作品で、サンフランシスコを舞台とした探偵小説である。弁護士をクビになり、私立探偵となった男リー・クロウが主人公をつとめている。ここでもチャイナタウンが出てくるほか、中国系の警官も登場するなど、作者らしい面がうかがえる。そのBlood Relationsがエドガー賞の最終候補に残るという評価を受けながら、あらためてジェイムズ・ケストレルという筆名に変えて本作を発表したのは、どうやらセールス上の問題が大きく、版元であるハード・ケース・クライムの意向によるもののようだ。
 こうした『真珠湾の冬』が書きあげられ、出版されるまでの道のりは、本文のあとにつけられた「謝辞」からうかがうことができる。ケストレルの祖父と大叔父は、謙虚で控えめで物静かなオクラホマの農夫で、戦争中の武勇伝を自慢することはなかったという。デイヴィッド・グーディス賞を運営する〈ノワール・コン〉の関連サイトRetreats from Oblivionや書評サイトEvery Read Thingに掲載された著者インタビューによると、彼らは第二次世界大戦中、爆撃機の航空士をしていたというのだ。ケストレルは、二人が亡くなって何年か経ってから、大叔父が航空士をつとめたパイロットのひとりが書いた本を見つけ、彼らが戦争に行き、恐るべき体験をし、功績をあげていたことについて考えさせられたという。戦後、故郷にもどり、農場で働き、ふたたび日常をすごしていったのである。おそらく、このことがマグレディの人物造形に大きな影響を与えたと思われる。
 また「謝辞」の最後に述べられているのは、エージェントが最初の原稿を読み、六万語を削るように促したというエピソードだ。なんでも初稿では、ジョーだけでなく、香港在住のエミリー・カム、そしてウェーク島に駐留するアメリカ海兵隊員という三人の視点で構成され、ぜんぶで七百ページあ
ったという。それをジョーの語りだけで四百ページ強にまとめたのだ。
 もうひとり、本作の版元であるハード・ケース・クライムの創設者チャールズ・アルダイのアドバイスや力添えも大きい。スティーヴン・キングやデニス・ルヘインの賛辞が本の表紙に飾られているなど、この大作を世に送り出すにあたり応援したのだ。ちなみにチャールズ・アルダイは、ミステリ
作家でもあり、リチャード・エイリアス名義による『愛しき女は死せり』(ハヤカワ・ミステリ文庫)の邦訳がある。
 なによりケストレルは、本作のリサーチに三年かけたという。ホノルルの場面は、チャイナタウンを歩きまわったり、州立図書館で古い新聞をマイクロフィルムで読んだりして、インターネットの検索だけではわからないことがらまで調べ上げたのだ。日本については、東京に幾度も取材に行き、戦
前の映像を探して参考にしたという。東京の谷中が登場するのは、この地域が戦争のときに空襲をまぬがれたため、いまでも古い建物があり、戦前の東京の面影を残しているからだ。
 たしかに東京の場面にかぎらず、物語を読んでいると、行ったことのない場所であっても映像が思い浮かぶ箇所が少なくない。ハワイが風光明媚なのは当然としても、香港でエミリー・カムの家がビクトリア・ピークの頂上付近にあったり、東京で暮らす高橋寬成とサチの実家が信州の野沢温泉にあったりするなど、絵になる風景に事欠かないのだ。異様で残虐な犯罪、丹念な警察捜査、正体不明の殺し屋との対決といった重く暗く激しい場面のみならず、ノスタルジックな東洋趣味とあわせて濃厚なロマンスが漂っているのも本作の大きな特徴だ。
 気になるのは、ジェイムズ・ケストレルの第二作だが、先のインタビューによればそのまま本作の続篇とするのではなく、一九六八年を舞台にジョー・マグレディの娘が登場する作品を構想していると語っている。さらなる激動の時代を背景にした大河ロマンへと発展する予感もうかがえる。作者の
これからの活躍がたのしみだ。

◆あらすじ

太平洋戦争迫るハワイ、香港、そして日本。
彼は真実を追い求めた――

1941年ハワイ。アメリカ陸軍上がりの刑事マグレディは、白人男性と日本人女性が惨殺された奇怪な事件の捜査を始める。ウェーク島での新たな事件を経て、容疑者がマニラ・香港方面に向かったことを突き止めたマグレディはそれを追うが、折しも真珠湾を日本軍が攻撃。太平洋戦争が勃発する。陥落した香港で日本兵に捕らえられ、東京へと流れついたマグレディが出会ったのは……。戦乱と死が渦巻く激動の太平洋諸国で連続殺人犯を追う刑事の執念。その魂の彷徨を描く大作ミステリ。解説/吉野仁

【書誌情報】


■タイトル:真珠湾の冬 ■著訳者:ジェイムズ・ケストレル/山中朝晶訳 
■定価:2,200円(税込) ■ISBN: 9784150019860 ■刊行レーベル:ハヤカワ・ミステリ(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)


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