【冒頭試し読み】2020年ブッカー賞候補作、C・パム・ジャン『その丘が黄金ならば』藤井光訳
早川書房では、2020年のブッカー賞候補作、C・パム・ジャンのデビュー長篇『その丘が黄金ならば』(How Much of These Hills is Gold)を7月に刊行しました。
米国では「コーマック・マッカーシーやトニ・モリスンを彷彿とさせる」と評され、オバマ元大統領のおすすめ本にも選ばれた、中国系アメリカ人作家のデビュー長篇です。邦訳刊行後には、「今年ベストの一冊」や「幻想的な文体が美しい」との反響が寄せられています。
翻訳を手掛けるのはアンソニー・ドーア『すべての見えない光』などの訳者である藤井光さん。作中に散りばめられた詩的な表現を美しく翻訳しています。そんな本作の冒頭部分を公開します。
◆あらすじ
ゴールドラッシュが過ぎ去った黄昏のアメリカ。
かつて黄金が埋まっていたこの地を、
今は乾いた金色の草だけが覆っている。
炭坑の町で暮らす中国系移民一家の子供、
11歳のサムと12歳のルーシーは、
明け方に父が亡くなっていることに気づく。
母を数年前に失った二人には、もう居場所はない。
だから町から逃げ出し、父親の亡骸を葬るための旅にでる。
現実的で、協調性を重んじるルーシーと、
奔放で、自らの信念を貫こうとするサム。
二人で始めたはずの旅はやがて、
それぞれにとっての居場所を問うものへと変わっていく──
『その丘が黄金ならば』
第一部 ××62年
金
爸が夜に死んでしまい、二人は一ドル銀貨二枚を探すことになる。
サムは朝になると怒った調子で地面をコツコツ叩いているが、ルーシーは二人で出発する前に話をせねばと思う。沈黙はルーシーのほうに重くのしかかってきて、やがて彼女は屈してしまう。
「ごめん」ルーシーはベッドにいる爸に言う。薄暗く埃っぽい小屋のなかで、父の体を包み込む布だけは細くきれいに伸びている。ほかはどこを見ても石炭で黒ずんでいる。生きているときの爸はその乱雑さには目もくれず、死んだとなると、ひねくれた細い目はそれを越えたところに向けられている。ルーシーをも越えて。まっすぐサムを見ている。せっかちさが束になって丸まったようなサム、大きすぎるブーツをはいて戸口をぐるぐると回る、爸のお気に入りだったサム。爸が生きているあいだは、サムはその言葉のすべてにすがりついていたが、いまは目を合わせようとはしない。そのときルーシーは悟る。爸はほんとうに死んだのだ。
ルーシーは裸足の爪先を土の床にめり込ませながら、サムが聴いてくれるような言葉を探す。何年もの傷の上に祝祷を広げるような言葉を。ひとつだけの窓から射し込む光のなか、埃が亡霊のように浮かんでいる。それを動かす風はない。
なにかが、ルーシーの背筋を突く。
「バン」サムは言う。十一歳、ルーシーは十二歳。媽はよく、ルーシーが水ならサムは木だと喩えたが、サムは姉よりゆうに三十センチは背が低い。見た目は幼く、騙されそうなくらい優しげだ。「もう遅い。死んだよ」サムはふっくらした拳から伸びる指を上に向け、想像上の銃口にふっと息を吹きかける。爸がしていたように。物事にはきちんとしたやり方がある、と爸は言っていて、"でもリー先生が新しい銃は詰まらないから吹かなくていいって言ってるよ"とルーシーが言うと、爸はきちんとしたやり方として娘を平手打ちすることにした。ルーシーの目の奥で星がいくつも破裂し、鋭い痛みの火花が鼻を走った。
ルーシーの鼻はまっすぐには戻らずじまいだった。いま、その鼻を親指でさすりつつ考える。ひとりでに治るのを待つのがきちんとしたやり方だ、と爸は言った。花開いたあざが引いた後、ルーシーの顔を見た爸はさっと頷いた。最初からそうなると思っていたとでもいうように。生意気な口をきくやつには記憶が蘇ってくるものがあるほうがきちんとする。
確かに、サムの茶色い顔には泥がついている。顔に火薬を塗りつけ、本人からすればインディアンが戦に出るときのように見せている。だが、その下にあるサムの顔には傷はない。
今回だけは、爸の拳は布の下でなにもできないままだから──それに、もしかしたら彼女はいい子で、頭が良く、爸を怒らせれば起き上がって拳を振り上げてくると心の片隅で考えているから──ルーシーは普段なら絶対にしないことをする。自分の両手を構えて、指を前に向ける。サムの顎、塗った火薬と幼い肉付きの境目に当てる。別の人であれば華奢な顎だと言うかもしれない。サムがいつも突き出していなければ。
「あんたこそ、バン」ルーシーは言う。無法者のように、サムを扉のほうに押しやる。
太陽が、二人をからからにする。乾季のさなか、もう遠い思い出でしかない雨。二人のいる谷は剥き出しの土で、のたくる小川がそれを二つに分けている。こちら側には炭坑夫たちの貧弱な掘立て小屋、あちら側にはきちんとした壁やガラス窓のついた豪華な建物が並んでいる。そして、それをぐるりと取り囲むのは、金色に焦げた果てしない丘陵。背が高く干からびた草のなかに、金鉱夫やインディアンたちの雑多な宿営地、牛飼いや旅人や無法者たちの小さな集団があり、そして炭坑、さらに炭坑があり、さらにその向こう、向こうと続いていく。
サムは小さな肩を張り、小川を渡り始める。荒涼としたなかで叫び声となる赤いシャツ。
初めて来たとき、この谷はまだ長く黄色い草に覆われ、尾根にはオークの低木林があり、雨の後にはポピーの花が咲いた。三年半前の洪水で、オークの木々は根こそぎ流され、人々の半分は溺れ死ぬか追い出された。それでも一家は留まり、谷の奥の端でぽつんと暮らした。爸はまるで稲妻で裂けた木──中心は死んでいるが、根はまだしがみついている。
そしていま、爸がいなくなったら?
ルーシーは裸足をサムの足跡に合わせ、無言で、唾を無駄にしないようにする。水はずっと前になくなってしまい、洪水の後の世界はどういうわけか渇きがひどくなっている。
そして、ずっと前にいなくなってしまった、媽。
小川の向こうには幅の広い中心街が伸び、埃っぽくちらちら光っている様子はヘビの皮のようだ。見かけだけは立派な店構えがぼんやりと数軒見えている。酒場や鍛冶屋、交易所や銀行や宿屋。人々はトカゲのように陰でだらだらしている。
ジムは雑貨店のなかで座り、台帳にキッキッと書き込みをしている。台帳は店主の体と同じくらいの幅で、体半分ほどの重さがある。この地域のすべての男への貸しを記録しているというもっぱらの噂だ。
「ちょっとすみませんが」ルーシーは口ごもりつつ、子供たちがキャンディーの近くでたむろして、退屈しのぎに飢えた目をしているところを抜けていく。「ごめんなさい、ちょっと失礼」ルーシーは体を縮こませる。子供たちはのっそりと分かれ、腕が何本もルーシーの肩に当たってくる。少なくとも今日は、誰も手を伸ばしてきてつねってはこない。
ジムはまだ台帳にかじりついている。
声を大きくする。「すみません、いいですか?」
十ほどの目がルーシーを刺してくるが、ジムはまだ無視している。この時点で、やめておけばよかったと思いつつ、ルーシーはカウンターの縁に片手を載せ、ジムの目を引こうとする。
ジムの目がさっと上がる。剥き出しの肉で縁取られた赤い目。「手を離せ」鋼鉄の針金のように鋭い声。両手は書くのをやめない。「そのカウンターは今朝きれいにしたばかりだ」
後ろからは、棘々しい笑い声。ルーシーは気にしない。この手の町を何年も転々としてきたのだから、傷つきやすいところはもう残っていない。媽が死んだときのように、ルーシーの腹をえぐって虚ろにするのは、サムの目つきだ。サムは爸のようにひねくれた細目になっている。
ハハ! ルーシーが笑うのは、サムは笑わないだろうからだ。ハハハ! ルーシーの笑い声が二人にとっての盾となり、二人を仲間にしてくれる。
「今日あるのは丸鶏だけだ」ジムは言う。「お前らにやる鶏の足はない。明日出直してこい」
「食べ物はいりません」ルーシーは嘘をつく。もう、口のなかでは鶏の皮が舌でとろける味がしている。精いっぱい背伸びをして、体の両脇で握り拳を作る。そして、欲しいものを言う。
とっておきの魔法の言葉を俺が教えてやる。嵐でできた湖に、媽が持っていた本を投げ入れながら、爸は言った。爸はルーシーを泣き止ませるために平手打ちしたが、手の動きはゆっくりだった。優しげなほどに。爸はしゃがみ、顔から鼻汁を拭うルーシーを見つめた。聽我、ルーシーよ。「つけ払いで」だ。
爸の言葉は確かに、なにかの魔法のように効く。ジムがペンを止める。
「いま、なんて言った?」
「一ドル銀貨を二枚。つけ払いで」ルーシーの背中で、耳のなかで轟く爸の声。爸のウイスキーの息の匂いがする。振り向く勇気はない。もしもシャベルのような両手が肩をがっちり掴んできたら、自分が叫び声を上げるのか、笑い出すのか、逃げ出すのか、どんなに罵られようと離れないくらい全力で爸の首にしがみつくのかはわからない。ルーシーの喉から、暗闇をよじ登って出てくる亡霊のように爸の言葉が転がり出る。「月曜が給料日なんで。少しだけ猶予をもらえたら。嘘じゃなくて」
ルーシーは片手に唾を吐きかけ、その手を差し出す。
間違いなく、ジムはその台詞を何度も聞いたことがある。坑夫たちからも、坑夫たちのさばさばした妻たちからも、虚ろな子供たちからも。ルーシーのように貧しい。ルーシーのように不潔だ。ジムはぶつくさ言いつつも必要な品をよこし、給料日には二倍の利息を請求することで知られている。炭坑で事故があったとき、ジムはつけ払いで包帯を渡したはずだ。ルーシーのように切羽詰まった人々に。
だが、ルーシーとよく似た人はどこにもいない。ジムの視線が彼女を見定める。素足。爸のシャツの布地の切れ端を縫い合わせて作り、似合わない紺色で、汗がしみになったワンピース。ひょろ長い腕、鶏舎の金網のようなごわごわの髪。そして、その顔。
「穀物ならお前らの父さんにつけ払いでくれてやる」とジムは言う。「それから、お前らが食えると思う動物の部位ならどれでもな」唇が上にめくれ、濡れた歯茎がちらりと見える。ほかの人の顔であれば微笑みと言えるかもしれない。「金が欲しけりゃ、銀行に行ってもらってくるんだな」
ルーシーの手のひらの唾は、触れられないまま乾いて固くなる。「あの──」
尻すぼみなルーシーの声よりも大きく、サムのブーツの踵が床を踏み鳴らす。サムは肩を怒らせて店から出ていく。
小さな、サム。だが、牛革のブーツをはいて、大人の男のように大股で歩くことができる。サムの影が、後ろにいるルーシーの爪先を舐める。サムの心のなかでは、その影こそが真の身長であり、体はつかのまの窮屈さでしかない。おれがカウボーイになったら、とサムは言う。冒険家になったら。一番新しい台詞は──有名な無法者になったら。大人になったら。望むだけで世界が思いどおりになると思っている、その幼さ。
「私たちみたいなのを、銀行は助けてくれない」ルーシーは言う。
なにも言わないほうがよかったかもしれない。埃で鼻をくすぐられ、ルーシーは立ち止まって咳をする。喉が波打つ。昨日の夕食を通りに吐く。
すぐに何匹かの野良犬がやってきて、彼女の吐いたものを舐め始める。せっかちなサムのブーツがコツコツ響くが、一瞬ルーシーは躊躇う。サムというたったひとつのつながりを捨てて犬たちと一緒にしゃがみ込み、一滴たりとも渡すまいと闘う自分の姿を想像する。犬たちの生活は、腹と脚だけ、走って食べるだけの生活だ。単純な生活。
ルーシーはまっすぐ立つと、二本の脚で歩く。
「相棒、行けるか?」サムは言う。それは本物の問いかけであり、唾を飛ばして叱りつける言葉ではない。その日初めて、サムの黒い目は細まってはいない。ルーシーの影に守られ、目は大きく見開かれ、そのなにかが溶けかけている。斜めにゆがんだ赤いバンダナがかかる短い黒髪に触れようと、ルーシーは動く。赤ん坊だったころのサムの頭皮の匂いを思い出す──発酵したような、油と太陽の偽りのない匂い。
だが、動いたことでサムに日差しが当たってしまう。目が強く閉じられる。サムは離れる。そのポケットの膨らみ具合から、両手をまた銃のように構えているのだとルーシーにはわかる。
「行ける」ルーシーは言う。
銀行の床板はかすかに光っている。窓口係の女性の髪のような金色。つるつるに磨かれ、ルーシーの足に棘が刺さることはない。サムのブーツのトントンという音は銃声のような剥き出しの鋭さになる。戦化粧の下の首は赤くなっている。
トントン、と二人は銀行のなかを歩いていく。窓口係は睨んでくる。
トントン。窓口係は後ろにもたれる。その背後から、男がひとり現れる。男のチョッキから下がった一本の鎖が揺れる。
トントン、トントン、トントン。サムはカウンターの前で体を伸ばして爪先立ちになり、ブーツの革に皺が入る。それまでのサムは、いつも気をつけた足取りだった。
「一ドル銀貨を二枚」サムは言う。
窓口係の口がひきつる。「まずは確認として──」
「こいつらは口座を持っていない」後ろの男は言いつつ、ドブネズミを見るような目をサムに向けている。
黙ってしまうサム。
「つけ払いで」ルーシーは言う。「お願いします」
「お前らを見かけたことがある。物乞いしてこいと父親に言われたのか?」
ある意味ではそうだった。
「月曜が給料日なんで。ほんの少し猶予をくれたら」嘘じゃなくて、とは言わずにおく。この男が聞いてくれるとは思えない。
「ここは慈善事業じゃない。とっとと家に帰れ、お前らみたいな──」その声が止まった後も少しのあいだ、男の唇は動き続ける。ルーシーが一度見かけた女が、自分以外の力に唇を操られて理解できない言葉を口走っていたときのように。「──物乞いは。保安官を呼ぶ前に失せろ」
恐怖が何本もの冷たい指となって、ルーシーの背筋をゆっくりと下りていく。この銀行員が怖いのではない。サムが怖い。サムの目つきに見覚えがある。寝床で固くなり、細目を開けていた爸のことを考える。その朝、先に目を覚ましたのはルーシーだった。亡骸を見つけ、サムが起きるまで数時間、寝ずに番をしていた。どうにかその目を閉じようとした。爸は死ぬとき怒っていたのだろう、とそのときは思った。いまは、そうではないとわかる。あれは狩人が獲物を見定めるときの目の細め方だった。すでに、それが取り憑いている印が見える。サムの目に宿った、爸の細目。サムの体に宿った爸の怒り。それ以外にも、爸はサムをがっちりと掴んでいる──ブーツ、爸が片手を置いていた肩の場所。この先どうなるのかルーシーにはわかる。爸はあの寝床で日に日に腐っていき、その魂は体からこぼれ出してサムに入っていく。じきに、ルーシーが目を覚ませば、サムの目の奥から爸が眺めてきているのが見えるようになるだろう。永遠に失われるサム。
二人で爸をきっぱりと埋葬し、銀の重みで目を封じなければ。それを銀行員にわかってもらわなければ。ルーシーは懇願する心づもりをする。
サムが口を開く。
「バン」
ふざけるのはやめて、とルーシーはサムに言おうとする。ふっくらした茶色い指を掴もうとするが、その指は妙にぴかぴかしている。黒い。サムは爸の拳銃を構えている。
窓口係は気を失って倒れる。
「一ドル銀貨を二枚」サムが言う声は低い。爸の声の影。
「ほんとうにごめんなさい」ルーシーは言う。唇が上がる。ハハハ! 「ほら、子供ってこんな調子で遊ぶので。お願いですからうちの──」
「リンチされる前に失せろ」男は言う。サムをまっすぐ見つめている。「失せろ。この、汚い、ちびの、中国人め」
サムは引き金を引く。
怒号。銃声。激動。巨大ななにかがルーシーの耳を通り抜けていく感覚。ざらついた手のひらで彼女を撫でていく。目を開けると、あたりは煙で灰色になり、サムは後ずさっていて、拳銃が反動で跳ね返ったせいで頬にできたあざに片手を当てている。男は床に倒れている。今度ばかりは、ルーシーはサムの頬を伝う涙に抗い、サムを二の次にする。這ってサムから離れていく。両耳が鳴っている。指が男の足首に触れる。太ももに。胸に。傷がなく、上下する、完全な胸。こめかみにできたみみず腫れは、後ろに飛びのいて棚に頭を打ちつけたときのものだ。それ以外では男に怪我はない。弾は当たらなかった。
煙と火薬の雲から、爸が笑っている声がルーシーには聞こえる。
「サム」自分も泣きたい気持ちをこらえる。いまは、いつもより強くいなければ。「サムのバカ、寶貝、クソガキ」甘い言葉と苦い言葉、優しさと悪態を織り交ぜる。爸のように。「もう行こう」
女の子が笑ってしまいそうになることがある。それは、爸がこの丘陵の土地に金鉱を探してやってきたということだ。何千人という人々と同じく、この地の黄色い草の、日光を浴びた硬貨のようなきらめきが、さらに輝かしい報酬を約束してくれていると思ったのだ。だが、金を掘ろうと西に来た誰ひとりとして、この地のからからの渇きも、この地が自分たちの汗も体力も飲み干してしまうことも予期してはいなかった。誰ひとりとして、この土地がけちだとは予期していなかった。ほとんどの人は来るのが遅すぎた。富はすでに掘り出され、枯渇していた。水流のどこにも金はない。土から作物は育たない。見つかるものといえば、丘陵のなかに秘められた、はるかに冴えない褒美だった──石炭。石炭では男は富を築くことも、目と想像力を満足させることもできない。とはいえ、家族を養い、ゾウムシに食われた碾き割麦や肉のかけらを口にすることはできるが、それも男の妻が夢を見ることに疲れ果て、息子の出産で命を落とすまでのことだ。それからは、妻を食べさせるためのお金は男の酒代に回される。何カ月も望みをかけ、節約してきた結果は──ウイスキー瓶が一本、見つけられないところに掘った墓が二つ。ハハハ! 女の子が笑ってしまいそうになるのは、爸は一財産を築こうと家族をここに連れてきたのに、それがいま、二人は一ドル銀貨二枚のためなら人殺しもしかねないということだ。
だから二人は盗む。町から逃げ出すために必要なものを奪う。サムは最初は嫌がり、いつものように強情だ。
「誰も傷つけてないだろ」サムは言い張る。
でも傷つけるつもりだったでしょ? とルーシーは思う。「私たちみたいなのが相手だったら、あいつらはなんだって犯罪扱いにする。それを法にしたりする。覚えてないの?」
サムの顎が上がるが、ルーシーには躊躇いが見える。雲ひとつないこの日に、鞭打つ雨を二人とも感じる。嵐が家のなかで吠え、爸ですらなすすべがなかったときを思い出す。
「ぶらぶら待ってるわけにはいかない」ルーシーは言う。「埋葬する余裕もない」
ついに、サムは頷く。
二人は地面に腹這いになり、学校の建物に進んでいく。あっさりと、みんなから言われているとおりのものになる。動物になる。みじめな泥棒になる。ルーシーはこっそり建物を回り、黒板に遮られて見えないはずの場所に向かう。内部からは声がいくつも聞こえてくる。彼らの暗唱には神聖さに近いリズムがある。リー先生が轟くような声で呼びかけ、生徒たちが声を揃えて答える。あやうく、もう少しで、ルーシーも声を上げて加わりそうになる。
だが、入れてもらえていたのは何年も前のことだ。ルーシーが使っていた机は、いまでは新入生二人のものになっている。ルーシーは血の味がするまで頬を噛み、リー先生の芦毛の牝馬ネリーの綱をほどく。最後に、馬用の燕麦で重くなったネリーの鞍嚢も取る。
家に戻ると、必要なものを詰めてくるよう、ルーシーはサムに指示する。自分は外に留まり、物置と菜園をくまなく調べる。家からは──ドスドスという音、ガンガンという音、悲しみと憤りの音。ルーシーは入らない。サムも手伝ってほしいとは言ってこない。あの銀行で、ルーシーが這っていってサムを素通りし、銀行員にそっと触れたとき、目には見えない壁が二人のあいだにできたのだ。
ルーシーはリー先生に宛てた短い手紙を扉に貼る。何年も前に先生から教わった大げさな言葉遣いにしようと苦心する。それが、自分の犯した盗みの証拠よりも強力な証拠になるとでもいうように。うまくは書けない。彼女の殴り書きは端から端まで"ごめんなさい"だらけだ。
サムが姿を現す。巻いた布団、なけなしの食糧、底の深いフライパン、そして媽の古いトランク。そのトランクが地面を引きずられてくる。大人の男の背丈ほども長く、革の留め具はぴんと張り詰めている。どんな形見の品をサムが詰め込んだのかは見当がつかない。それに、馬に負担をかけるわけにはいかない──だが、二人のあいだにある壁のせいで、ルーシーの髪はひりひりする。なにも言わずにおく。しなびた人参を一本サムに渡すだけにする。しばらくは、それが二人のあいだの唯一の愛情だ。和平の印。サムはその半分をネリーの口に、半分を自分のポケットに入れる。その優しさにルーシーは温かい気持ちになる。優しさを向けた相手が馬であっても。
「さよならは言った?」ネリーの背中に縄をかけ、引き解け結びを作っているサムに、ルーシーは尋ねる。サムはぶつぶつ言うだけで、トランクの下に片方の肩を入れて担ぎ上げようとする。その踏ん張りで茶色い顔は赤く染まり、それから紫色になる。ルーシーも肩を貸す。輪の形にした縄のなかにトランクが収まると、ゴト、という音がなかから聞こえるような気がする。
そばにあるサムの顔が、さっとあたりを見回す。黒ずんだ顔、そのなかで剥き出しになった白い歯。恐怖の震えがルーシーを貫く。後ずさる。縄をきつく結ぶのはサムひとりに任せる。
ルーシーは小屋に入って亡骸に別れを告げることはしない。今朝、そのそばで数時間を過ごしたのだから。それに正直なところ、媽が死んだときに爸も死んだのだ。三年半前から、その体はかつての男の抜け殻になっていた。ようやく、二人は爸の幽霊から逃げ切れるくらい遠くへ行くことになる。
ルーシーよ、と爸は言い、足を引きずりつつ彼女の夢に入ってくる。笨蛋。この間抜け。
珍しく機嫌がいい。一番お気に入りの悪態、ルーシーを育てた悪口を使っている。ルーシーは振り返って爸を見ようとするが、首が動こうとしてくれない。
俺になにを教わった?
ルーシーは九九を口にしようとする。口も動こうとしない。
思い出せないのか? いつもひどいもんだな。亂七八糟だ。爸が不愉快そうに唾をぺっと吐く音がする。痛めている脚、そして大丈夫な脚を交互に動かす、不揃いな足音。なにひとつまともにできやしない。ルーシーが大きくなるにつれて、爸はしぼんでいった。食事はたまにしかしない。食べたものも、忠実な老犬のようにつきまとう癇癪に使われるだけに思えた。對。そーだ。さらにぺっという音が次々に、彼女から離れていく。酒でろれつが怪しくなり始める。このちびのうらりりもの。算数に見切りをつけ、爸は小屋を言葉で満たした。媽ならいい顔をしないであろう、豊富な語彙。このぐうたらなろくでなし──狗屎め。
ルーシーが目を覚ますと、あたりはすべて黄金だ。乾いた丘陵の黄色い草は、町から数キロ離れるとノウサギほどの高さで揺れる。風が添える微光は、柔らかい金属にきらめく日光のようだ。ひと晩地面で寝ていたせいで首がずきずきする。
水。爸から教わったのはそれだった。水を煮沸しておくのを忘れていた。
携帯用の瓶を傾けてみる。空っぽだ。水をいっぱい入れたと思ったのは夢だったのかもしれない。でも、違う──夜になって、喉が渇いたとサムが訴えてきたので、ルーシーは川まで行ったのだ。
やわでばかだ、と爸がささやいてくる。あんなに自慢していた脳みそはどこに行ったんだ? 日光は容赦がない。爸は捨て台詞とともに消えていく。あのな、怯えているときは、脳みそなんてきれいさっぱり溶けてしまうんだ。
最初に見つけた、地面に飛び散っている嘔吐物は、暗い蜃気楼のようにちらちら光っている。蠅の塊がけだるげに動いている。さらに点々とした嘔吐物をたどっていくと川に出るが、日の光で見る水は泥っぽい。茶色い。炭坑のある土地の例に漏れず、流出物で汚れている。水を煮沸しておくのを忘れていた。さらに歩いていくと、サムが倒れている。目は閉じ、拳は緩んでいる。低い音を立てる汚れた塊になった服。
今度は、頭がふらふらするほど猛烈な火をおこし、ルーシーは水を煮沸する。水がそれなりに冷めたところで、熱を出したサムの体を洗う。
サムの目がよろよろ開く。「いやだ」
「しーっ。具合が悪いんだから。任せておいて」
「いやだ」サムはそれまで何年も独りで体を洗ってきたが、今回は話が違う。
サムの脚が蹴ってくるが、力はない。ルーシーは乾いて固くなった服を剥がし、息を止めて悪臭に耐える。サムの目は熱で燃えるようで、憎んでいるようにも見える。縄でくくってある爸のお下がりのズボンはあっさり脱げる。両脚の付け根、ズボン下の布が重なるところで、ルーシーの手がなにかに当たる。固く、突き出たこぶに。
ルーシーは妹の股のくぼみから半分になった人参を引っ張り出す。爸がサムに持っていてほしかった体の部位の、哀れな代用品を。
最後までやり終える。手が震えるせいで、洗い用の布が思ったよりも強く体をこすってしまう。サムは泣き言は言わない。見もしない。地平線のほうに向けられた目。現実が避けられないときはいつも、自分は体とは関係ないふりをする。息子を欲しがっていた父親から大事にされた、まだ両性具有的な子供の体。
なにか言ったほうがいいことはルーシーもわかっている。だが、自分には理解できなかった、サムと爸のあいだの同盟をどう説明すればいいのだろう。ルーシーの喉のなかで山がせり上がっていて、それを越えていくことができない。だめになった人参を投げ捨てると、サムの目はそれを追う。
一日中、サムは汚れた水を吐き、さらに三日間熱を出して寝込む。ルーシーが粥になるまで煮た燕麦や、火にくべる小枝を持ってきたりすると、目は閉じている。そうしてゆっくり流れる時間に、ルーシーは忘れかけていた妹の姿をじっくり見つめる。つぼみのような唇、黒いシダのようなまつ毛。丸かった顔が病気のせいで鋭くなり、ルーシーの顔に近くなる──前よりも面長で、やつれ気味で、肌の血色が悪く、茶色というよりも黄色に近い。弱さをさらけ出した顔。
ルーシーはサムの髪を扇のように広げる。三年半前にばっさり刈り込んでから、いまでは耳たぶの下まで伸びている。絹のようになめらかで、太陽のように熱い。
サムが自分を隠していたやり方は素朴なものだった。子供じみていた。髪、泥、戦化粧。爸のお下がりの服と、爸から借りた威張った歩き方。だが、サムが媽の育て方を嫌がり、働くのも町から出るのも爸と一緒にすると言い張っていたときも、それは小さいころからの着飾り遊びなのだろうとルーシーは思っていた。ここまでではないはずだ、と。人参のように、奥深くにあるものを無理に変えようとする努力ではないはずだ。
うまく作ってある。ズボン下の緩くなった布のところを縫って、隠しポケットを作ってある。女の子のお手伝いを拒んだ女の子にしては上出来だ。
サムの下痢は治まり、自分で体を洗えるくらい体力も戻っているが、鼻をつく病の臭いは野営地にまとわりついている。雲のような蠅の群れがいくつもつきまとい、ネリーの尻尾は鞭打つ動きをやめない。サムの誇りは十分に傷ついているので、ルーシーはその臭いについてはなにも言わないでおく。
ある夜、ルーシーは一匹のリスをぶら下げて戻ってくる。サムの好物だ。片足が折れたまま、大慌てで木を駆け上がろうとしていたのだ。サムの姿はどこにも見当たらない。ネリーもいない。ルーシーはくるりと見回す。両手は血まみれで、心臓がカチカチと鳴っている。そのリズムに合わせようと、二頭のトラがかくれんぼをしている歌を口ずさむ。この地域の水流はもう何年も、ジャッカルの一頭も養えないほど浅いままだった。その歌はもっと緑豊かな時代に生まれたものだ。もしサムが怖くなって隠れているのだとしても、その歌なら聞き間違えることはない。二度、ルーシーは茂みのなかに縞模様が見えたと思う。トラちゃん、トラちゃん、と彼女は歌う。後ろで足音がする。来。
影がひとつ、ルーシーの両足を飲み込む。両肩のあいだを押してくる力がある。
今回は、サムはバンと言いはしない。
沈黙のなか、ルーシーの思考はゆっくり下に旋回していく。ハゲタカたちが急ぐことなく風に乗っているように平穏ですらある──もうやってしまったのだから、焦る必要はない。銀行から逃げ出した後、サムはどこに銃をしまっていたのだろう。あと何発の弾が弾倉に入っているだろう。
サムの名前を呼ぶ。
「うるせえ」いやだと言ってから初めて耳にするサムの言葉だ。「ここいらじゃ裏切り者は撃たれるんだ」
ルーシーは自分たちの間柄を思い出してもらう。相棒。
押す力は下に移動し、ルーシーの腰のくぼみに落ち着く。疲れてきたかのように、サムの腕の本来の高さに。
「動くなよ」押す力が消える。「狙いはまだつけてるからな」ルーシーは振り向いたほうがいい。そうすべきだ。だが。お前がどんな人間かわかるか? 爸はルーシーを怒鳴りつけた。サムの左目が李になり、ルーシーの服は見下げたほどきれいなままで学校から帰った日に。腰抜け。肝っ玉のない女の子だ。正直に言えば、その日、馬鹿にしてくる子たちに立ち向かうサムを見ていたルーシーには、サムが勇気から怒鳴っているのかどうかがわからなかった。騒々しく動くことか、ルーシーがしたように無言で立ち、うつむいた顔を唾が流れていくままにすることか、どちらがより勇敢なのだろう。そのときのルーシーにはわからなかったし、いまでもわからない。手綱がぴしゃりという音、ネリーがいななく声がする。ひづめが地面を叩き、その一歩一歩が彼女の素足を震わせる。
「妹を探しているんですけど」
真昼。その集落は二本の通りと十字路があるだけだ。誰もが暑さから逃れて昼寝をしているが、二人の兄弟だけは缶を蹴り、ついには安物の金属が破れる。ここしばらく、兄弟は、一匹の犬、野良犬を見つめ、食料を入れたリュックサックでおびき寄せようとしている。犬は腹を空かせているが、かつて人から受けた殴打を覚えているので用心深い。
すると、二人は顔を上げて彼女を見る。退屈しのぎになる不思議な存在が、風に吹かれてやってきたのだ。
「見かけた?」
最初はぞっとした兄弟は、ルーシーをもっとよく見てみる。面長で背の高い少女、曲がった鼻、高く張った頬の上にある妙な目。その顔をさらに妙に見せる、まったく不恰好な体。つぎはぎのワンピース、肌の下に影を走らせる古いあざ。兄弟の目には、自分たちよりも愛されていない子供が映っている。
見てない、と小太りなほうの少年が言いかける。痩せた少年がそれを肘でつつく。
「見たかもしれないし、見なかったかもしれないな。どんな見た目? お前みたいな髪の毛か?」手が飛び出てきて、編んだ黒い髪を掴む。もう片方の手が歪んだ鼻をねじる。「お前みたいな不細工な鼻か?」いま、二対の手が手首と足首を掴み、彼女の細い目を引っ張ってさらに細くして、頬骨の上でぴんと張った肌をきつくつねってくる。「お前みたいに妙ちきりんな目なのか?」
少し離れたところから、犬はほっとして見つめている。
ルーシーの静かさに二人は戸惑う。太ったほうが、言葉を絞り出そうとするかのように彼女の喉を掴む。そのたぐいの子をルーシーは見たことがある。やるべきことに駆け寄るいじめっ子たちではなく、そのほかの、動きや目つきが鈍かったり、言葉がつかえ気味だったり、のろのろして躊躇いがちだったりする子供たち。憎しみのなかに感謝が混じっている子たち──彼女が変だということで、その子たちは集団に仲間入りできるのだから。
いま、太ったほうの少年がルーシーを見据え、もしかしたら自分で望むよりも長く彼女の喉を掴みながら、どうしようかと悩んでいる。ルーシーは息が苦しくなってくる。いつまで掴まれるのかわからないが、そのとき、丸く茶色い体がその少年の背中にぶつかってくる。太った少年は倒れ、体当たりされて息ができなくなっている。
「手出しするな」登場した子は言う。怒りに燃えた目は細められている。
「やんのかよ、おい?」と痩せたほうの少年はせせら笑う。
震える息をようやくヒューッと吸い込みつつ、ルーシーが目を上げると、サムがいる。
サムは口笛を吹き、オークの木の後ろからネリーを呼び寄せる。馬の背に置いた包みに手を伸ばす。サムがなにを掴もうとしているのか、二人にはわからないだろう。きらりと光る、固く、不純物のない石炭のように黒いものが見える気がする。だがまず、白く丸々としたなにかがトランクからぽとりと出てきて、土埃のなかに落ちる。
頭がくらくらしつつ、ルーシーは考える。米だ。
米のように白い粒ではあるが、どれものたくり、這って動き、迷子になって道を探すかのように外に向かって離れていく。サムは無表情だ。そよ風がそのなかに入り込み、攪拌するような腐臭を運ぶ。
兄弟の痩せたほうが跳ね、金切り声を上げる。蛆虫だ!
気立てがよく、きちんとしつけられたネリーだが、それでも体を震わせ、荒々しい目つきになり、自制もほとんどままならない。もう丸五日も恐怖を背負ってきた末に、その声を合図に逃げ出そうとする。
サムに手綱を掴まれているので、ネリーはさしたることはできない。馬ががくがく動くと、積み込んだ鍋類がガランガランと警報を鳴らす。結び目が緩み、トランクがずれ、蓋がぱかっと開く。腕が一本こぼれ出る。かつては顔だったものの一部も。
爸は半分干し肉、半分沼地のようだ。痩せていた手足は乾いて茶色い縄になっている。股や腹や目といった柔らかい部分は、緑がかった白色の蛆虫だまりで泳いでいる。兄弟はそれを実際には見ない。二人とも、顔だと察した瞬間に逃げ出す。ルーシーとサムだけがまともに見る。なんといっても二人の家族なのだから。そしてルーシーは思う──まあ、ほかに十通りくらいある歪んだ表情のなかで、酒や怒りの化け物じみた顔つきに比べればましなほうかな。背中にサムの視線を重く感じつつ、そこに歩み寄る。そっとした手つきで、支えになっている縄からトランクを下ろす。なかに亡骸を押し戻す。
だが、忘れはしないだろう。
酒よりも、怒りよりも、思い出すのはあのときの爸の顔だ。爸が泣いているのを見て、近寄れなかった。爸の表情は悲しみで溶けていて、善意で触れたらその肉まで溶けてしまうのではないかとルーシーは怖くなった。下にある頭蓋骨を剥き出しにしてしまうのではないかと。いま、その骨がのぞいているが、さして恐ろしくはない。トランクの蓋を閉め、留め具を締め直す。後ろに向き直る。
「サム」声をかけたそのとき、爸の面影でいっぱいの目になったサムの顔も同じように溶けているのがわかる。
「なんだよ」サムは言う。
そのとき、ルーシーは優しい気持ちを思い出す。媽とともに死んだと思っていた気持ちを。
「あんたの言うとおりだった。ちゃんと話を聞けばよかった。埋葬しなきゃ」
自分が直視できると思っていた以上のものを、ルーシーは直視した。あの兄弟たちが怖気づいても、ルーシーは耐えた。あの二人は逃げ、自分たちが想像するものに一生つきまとわれるだろう。目を逸らさなかった彼女は幽霊を消していくことができる。サムへの感謝がせり上がってくるのを感じる。
「あれはわざと外した」サムは言う。「銀行のあの男。ビビらせようと思っただけだ」
汗で光るサムの顔をルーシーは見下ろす。いつも見下ろしてきた。泥のように茶色く、泥のように自在にこねることができるその顔に、妬ましいほどあっさりと感情が形を見せるのをルーシーは目にしてきた。どれだけの感情があっても、恐怖だけはなかった。いま、恐怖が見える。初めて、自分自身が妹に映し出されている。そしてルーシーは悟る。いまが大事だ。校庭でからかわれたときや、銃の冷たい鼻先が当たっていたときよりも、いまこそ勇気を出すときだ。目を閉じる。地面に座り、両腕のなかに顔を埋める。静かにするのがきちんとしたやり方だろうと考える。
ひとつの影が、暑さを和らげてくれる。それを見るというよりも感じる。サムがかがみ込み、迷い、そしてそばに座る。
「銀貨が二枚ないと」サムは言う。
ネリーはもつれた草の塊を噛んでいる。背中から重荷が下りたとなると、もう落ち着いている。その重みはじきに背中に戻ってくることになるが、いまは違う。いまは。ルーシーはサムの手を握ろうと手を伸ばす。土にあるごわごわしたものを、その手がかすめる。あの兄弟たちが捨てていったリュックサックだ。ゆっくりと、ルーシーはそれを振る。チャリン、という音が耳を打ったことを思い出す。手を差し入れる。
「サム」
豚の塩漬け肉の塊、垂れているチーズかラード。飴玉。そして、ずうっと下のほうに、なにかが布でくるまれている。もしルーシーの指が探すところを知らなかったなら、もし自分が金鉱夫の娘ではなく、"ルーシーよ、埋まっているところはわかるものなんだ。なんとなくわかるんだよ"と爸から言われていなかったなら、隠されたままだった。指が硬貨に触れる。一セント銅貨。獣が彫り込まれた五セントのニッケル硬貨。そして、白が泳ぐ二つの目にかぶせ、きちんとしたやり方でその目を閉じさせ、最後の安らかな眠りに魂を送り出すための二枚の一ドル銀貨。(🄫C Pam Zhang/🄫Hikaru Fujii)
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