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【冒頭公開】第8回アガサ・クリスティー賞受賞作、待望の文庫化!

『入れ子の水は月に轢かれ』(オーガニックゆうき)ハヤカワ文庫JA

2018年、『入れ子の水は月に轢かれ』(いれこのみずはつきにひかれ)で第8回アガサ・クリスティー賞を受賞し、作家デビューをはたしたオーガニックゆうき氏。もっともっと大きくなるという予感を抱かせる作家、と選考委員から高い評価を得て、その後、第5回沖縄書店大賞準大賞も受賞することになりました。

本書はミステリとして多くの興趣に満ちています。
「マンホール恐怖症」となってしまい、独り沖縄に流れてきた主人公の青年・駿は過去に何があったのか?
月明かりの元で兄を喪い後悔に苛まれる駿が、兄の呪縛とどう対峙していくのか?
水上店舗で店を営む駿だが、嵐の中で店が崩壊してしまうのか?
駿が遭遇した不審死の謎と遺された番号の関係性は?
歴史の裏に潜むCIAやアメリカ軍が不審死とどう絡んでくるのか?
沖縄にはりめぐらされた水路を巡る謎解きは、どんな真相へと辿り着くのか?
ビルドゥングスロマン、クライム・サスペンス、フーダニット――様々な面から楽しむことのできる本書の魅力に触れていただくため、冒頭を掲載いたします。


『入れ子の水は月に轢かれ』冒頭特別掲載

 入れ子の水は月に轢かれ

 第一章 鉄砲水

 一話

 二〇一七年六月二四日(大潮・新月)

 午前十一時。岡本駿(おかもとしゅん)は部屋で一息入れていた。背の高い細身の青年。色白の肌と、細い腕が、黒いシャツから覗いている。穏やかな眼差し(まなざし)が丸い眼鏡の奥に光っていた。
 駿はちゃぶ台に置かれた手挽きミルで豆を挽(ひ)いていた。出来るだけゆっくりと、時間をかけてコーヒーを淹(い)れるのが彼のこだわりだ。狭い借間の床には、掃除道具が並べられている。午後から自分の店の大掃除を始めるのだ。来月オープン予定の『水上(すいじょう)ラーメン』。むつみ橋から南に走る『ガーブ川中央商店街』──通称『水上店舗通り』──、そのほぼ中間に位置する間口一間(いっけん)の小さな店だ。オープンに向けての準備のなか、毎朝の日課である農連市場(のうれんいちば)での買い出しを済ませると、店の三階にあるこの部屋で一休みする。
 ミルが立てる心地よい音を楽しみながら、駿は窓の外を眺めていた。眼下には、水上店舗の二階に架かる商店街のアーケードがある。この半透明の天井からは、店の立ち並ぶ様子がよく見えるのだ。隣の平和通りに比べ見劣りがする水上店舗通りは、どこに看板があるのかすら分からないほど雑然としている。きっと表向きの看板よりも、店主の存在こそが売りなのだろう。相対売り(あいたいうり)のスタイルで商売をする店が多い。
 二階スペースは共有の廊下で横につながっておりほとんどが空き室になっているようだ。だが、比較的むつみ橋に近い北側の店舗は、個性的なテナントで埋まっている。ブティック、骨董屋、画廊、リサイクルショップ……。窓一枚、ドア一枚にも、借り手がいるらしい。雑多に貼られた広告やポスターやアート作品などが、店舗の内外を彩っている。
 商店街は、平和通りの西側に並行して作られている。国際通りに遠いほど客は少なくなり、通りはすっかり寂(さび)れている。『水上ラーメン』の建つ場所まで来ると、ぐっと客足が減る。時折見かける通行人は、気まぐれに散歩をする物好きな観光客くらいだ。駿が自分の店の将来を案じながら、ポットに溜まったコーヒーを注ごうとした時だった。
「おっ! グッドタイミング!」
 相部屋の「健さん」の声が、ドアの向こうから聞こえてきた。部屋から漏れたコーヒーの香りを嗅ぎつけたのだろう、ドタバタと足を速める音が聞こえたかと思うと、ガチャリと扉が開いた。
「おーい、駿くん。俺の分」
 肩幅の広い、切れ長の目のオジサンだ。顎髭をたくわえ、黒のスウェットに黒のニットキャップを被(かぶ)った強面(こわもて)。武骨な印象のせいで初対面の人間からは敬遠されがちだが、底抜けに明るい性格で、愛嬌のある笑顔が特徴的な男である。
 健はワハハと笑いながら部屋に上がると、床にクーラーボックスと釣り竿をどかっと下ろした。健は日がな一日、釣りに通っている。図々しい高齢者で、人の懐に平気で飛び込む節があるが、その人懐っこさからか、彼の言動を不快に思う人はそうそういないという不思議な魅力を持った人物だ。快活なキャラクターから、ここら一帯で彼はちょっとした人気者だった。「健さん」という名前を聞けば、商店街の店主や女将(おかみ)、なじみの客など、みんなが彼のことだと分かるほどだった。
「今日の釣りは、もうおしまいですか?」駿にとってはこの部屋の大先輩、健へのサービスは毎度のことなので、こうした突然の登場には慣れっこだった。健の愛用している水色の大きなマグカップは、すでにちゃぶ台の上に用意されている。随分使い込まれたマグカップで、いくつもの亀裂が入っている。駿は、まず先に淹れたてのコーヒーを真向かいに座る健に差し出すと、残りを自分のコーヒーカップに注いだ。これが二人の流儀だった。
「雲行きが怪しくなったと思ったら、大雨洪水警報が出ていた。高波は命取りになるからね」健はコーヒーをがぶりと一口飲むと、そう説明した。
「そういえば、陽射しが無くなってますね」駿は窓から空を見上げた。さっきまで晴れていた空が黒い入道雲に覆われている。商店街のアーケードは薄墨を流したような色に変わっていた。そのうち降りますね、と言いかけたその時だった。
 いきなり激しい雨が降り始めた。アーケードの天井を打つ雨音が商店街中に響く。あまりの勢いに恐怖を感じ、駿は思わず窓を閉めた。
「うわぁー、こんな凄(すさ)まじい雨、初めてですよ」
「大雨、というより……こりゃまた鉄砲水と言ったとこだな。引き潮の力が加わると川のゴミが海に流れ出るね。明日の川はキレイになってるよ」濡れずに帰還できた余裕なのだろう、健は満足気な顔でコーヒーをガブガブと飲んでいた。
「釣り師はニュースより、まず天候の確認だな、うんうん。便利だねぇ、衛星ってやつは。浜の仲間が帰り支度を始めるから何事かと聞いたら、大雨、雷、竜巻、災害の警報が次々入るんだってね、その、スマホってやつに。俺もガラケーをやめようかな。あ、ミルクもね」健は笑いながら空のカップを駿に差し出した。二杯目をねだっているのだ。注文に応じて、お代わりのコーヒーをテーブルに置いた、その時だった。
 雨音を破り、けたたましいサイレンが鳴り響いた。警察、消防の両方が競いながら、人工的な遠雷を通りにどっと溢れさせている。その大音響は次第に近くまで迫ってきた。やがてサイレンの代わりに、かなりの人数が駆け回るドッ、ドッ、ドッという人工的な地響きになった。明らかに異常事態を告げている。
 駿は急いで窓を開けた。健も身を乗り出し、三階から商店街を見下ろした。アーケードを打つ雨音に加え、商店街の喧騒が聞こえる。いつの間にか野次馬が集まっていた。みなが遠巻きに、警察や消防隊員が駆けていく商店街中央のマンホール点検口を見守っている。
「農連市場から人が流されたってよ!」
「作業員が川に落ちたって、何人も」
「どうやって助けるのねぇ」
「なんで、こんな雨の中で仕事するのよぉ」
「ゲリラ豪雨さ、急に増水したって」
「ウートートゥ、ウートートゥ……」群集の後ろで必死に手を合わせる見知らぬ老婆の姿が、その場の空気の重さを物語っていた。
 健は飲みかけのコーヒーを置くと、すぐさま部屋を飛び出した。駿も異変に対処すべく、健の後を追っていた。二人は三階から一階の通りに出ると、大勢の人だかりを押しのけ前に出た。マンホールを中心に規制線が張られている。消防隊員と警察官たちがマンホールを囲みながら、必死の形相で喚(わめ)き散らしていた。
「ダメです、開きません!」
「コンクリートで塞がれています!」
「マンホールの蓋が開かないはずはないだろ!」
「ツルハシを持って来い!」
「削岩機が無いと無理です!」
「コンクリートブレーカーだ!」
「点検口も開きません!」
「おい! もうそっちへ流れてるぞ!」
 隊員の声はほとんど怒声に近いものだった。騒然とした現場にもう一度、サイレンが鳴り響いた。野次馬の群れが左右に分かれる。掘削機械を運ぶ消防車が健と駿の居る場所に近づいてきた。
「水上店舗のマンホール。半世紀以上前に米軍が造ったものだ……。だれも開け方を分からんよ。ただでさえ老朽化しているし、しかも接着剤でコーティングしてあるんだ。こういう緊急事態に対応不可能……」低い声で健がつぶやいた。それは駿に説明しているようにも聞こえたが、知りうる限りの知識で自分自身を納得させているようにも見えた。
「米軍のマンホール……」真っ青な顔になった駿は、ふらりと建物の壁にもたれかかり、そのままずるりとその場にへたり込んでしまった。
「おい、大丈夫か?」驚いた健が慌てて声をかけてきた。
 駿は口を手で押さえ顔を横に振った。
「そうか、お前、マンホール恐怖症だもんな」困った顔をして、健は熊のような身体をかがめた。
「刺激が強すぎる。部屋に戻ろう」健が脇から背中に腕を回してくる。助け起こそうとしてくれているらしい。
「大丈夫ですよ」駿は健の肩を借りてやっと立ち上がったが、気丈に振る舞おうとした。
「何ですか? マンホール恐怖症って、そんな病気って聞いたことありませんよ」不満気な口ぶりで文句を言い、必死に平静を装った。ふらつく脚を必死に動かす。
「お前みたいにマンホールの夢にうなされたり、マンホールを怖がっている人間、そんなやつが世の中にはたくさんいるらしいよ」
「本当ですか、ソレ」駿は吐き気を堪(こら)えるように口元を押さえながら、もと来た道を歩いた。
「おや、あれ見ろよ」健がある方向を注視する。駿もつられてそこに視線を向けた。自分の店である水上ラーメンの横の路地に、数名の消防隊員が集まっている。大家の宮里(みやざと)夫婦の自宅前である。隊員たちは、全員で足元を確認していた。家の中から、主人の宮里亀吉(かめきち)が現れた。松葉杖をつきながら裏庭を指差して何かを喚いている。どうやら鉢をどけろと指示しているようだった。隊員の一人が庭のプランターを移動させる。
「ん? あそこにもマンホールがあったのか……なんであんなところに?」健は事態の推移を見守っている。
 店の前にトレーラーが止まった。ヘルメットを被った作業員が慌(あわただ)しく足音を響かせ、狭い路地へ駆けていった。後陣だろう、十人は超える屈強な男たちがぞろぞろと大型機械を抱え、宮里家まで運び込もうとしている。
「この通りは消防法違反ばかりのところだから。骨を折るよな……」健は唇を噛んでいる。
 ダ、ダ、ダ、ダ、ダとコンクリートブレーカーの掘削音が唸りをあげ、あたりに細かな破片が飛び散った。そこらじゅうにもうもうと粉塵が舞い上がり、灰色の煙幕となって視界を遮断してしまった。
「あそこで一体、何をしているのですか?」駿は、自分の仕事場の真後ろの騒ぎが気になって仕方がなかった。
「滑り止めのタールと、膠着(こうちゃく)している接着剤を剥がしているのだろう。米軍が設置した古い型だし、鋳物(いもの)マンホールの周りは塞がれているからね」健が説明するのだが、駿にはさっぱり理解できなかった。
「ここら辺の商店街はガーブ川の上に建てられている水上店舗だろう。だから裏庭の、あのマンホールを壊して、川に降りようとしているんだ。どうやら、あそこにヒューム管の出入り口があるらしい」
「ヒューム管って何です?」駿の声はすっかり怯えていた。庭へ出るとマンホールがあるという状況を想像するだけで、彼には耐えられない恐怖だった。
「簡単に言うと、大きなパイプだよ。マンホールと川を繋ぐ水路だ……」作業を見守っている健は、そこで口をつぐんだ。事態の推移を黙って見守るつもりらしい。
 消防隊員たちはマンホールの周辺を砕き、なんとしてでも蓋を開けようとしている。彼らの格闘する姿は、機械の唸り音、コンクリートの粉塵、土煙、灰色と茶褐色に被(おお)われた空気の中で、影となってかすかに確認出来る程度だった。
「開いたぞ!」作業員の一声が、鳴り止んだ機械音の代わりに空気を突き破る。その声は埃まみれの隊員たちへの号砲となった。
「蓋が取れました!」
「ヒューム管に貫通しましたぁ!」
「ロープを降ろせぇ!」
「ライト! 発光器だ!」
 潜水服姿の救助隊員が次々と宮里家前に到着し、マンホールからガーブ川の中へと滑り降りて行った。
「なんと……あんなに大きなマンホールがあそこにあったとはな」健は蓋の開いたマンホールを見つめていた。開いた穴は、大人が潜り込むには充分な広さがあった。
「確か農連から美栄橋(みえばし)まで一キロの長さ……暗渠(あんきょ)はずっと開かずの川……水の流れるトンネル、ボックスカルバートのはずだ……でも開けられる場所があった……しかも、人が出入りできる大きさの構造になっていたとは……」
「健さん、何をぶつぶつ言っているんですか、もう戻りましょうよ」駿はマンホールから川に飛び込んでいった隊員を見てしまい、恐怖の限界に来ていた。
 潜水服を着た男たちがガーブ川に降りてほんの二、三分後、マンホールに続くヒューム管から一人の隊員の声が響いた。
「生存者がいたぞーう!」
「ウォウ!」地下から、川底から、力の漲(みなぎ)る声が円い空洞をつき抜け響いてきた。
 救急車のサイレンが近づいてきた。数名の救急隊員が肩に装備品を担ぎ、足早に宮里家へ向かっていく。生存者の救出部隊だった。


●『入れ子の水は月に轢かれ』内容紹介
那覇のガーブ川の上に建つ商店は風来坊たちの隠れ家で、戦後の不法占拠を経てできた混沌だった。水害で双子の兄を喪った駿は本土から独りこの地に流れつく。駿は老女傑の鶴子オバアと出会い、店を譲り受けるが、最初の客が水死体で発見された。駿が不審に思い調べ始めると、さらなる死の影が……遺された謎の番号、米軍やCIAの不穏な動き、琉球王の伝説が絡み、戦後史の闇が暴かれる! アガサ・クリスティー賞受賞作。

○書誌情報
■タイトル:入れ子の水は月に轢かれ
■著者名:オーガニックゆうき
■定価:1,320円(税込)
■ISBN:9784150315160
■判型:文庫
※書影等はAmazonにリンクしています。




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