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エドガー賞ノミネートの作中作ミステリ『ボストン図書館の推理作家』訳者あとがき公開【3月6日発売】

2023年エドガー賞(アメリカ探偵作家クラブ賞)メアリ・ヒギンズ・クラーク賞にノミネートされた実力作『ボストン図書館の推理作家』が3月6日に発売しました。

米国最大の市立図書館を舞台にしたメタミステリである本書。
こちらのnoteでは、訳者の不二淑子さんによる「訳者あとがき」を公開いたします。

『ボストン図書館の推理作家』
サラーリ・ジェンティル、不二淑子 訳
2024年3月6日(電子版同時発売)

訳者あとがき

 スリランカ出身のオーストラリア人作家、サラーリ・ジェンティルの『ボストン図書館の推理作家』をご紹介しよう。“親愛なるハンナ”という書き出しのメールで始まる本作は、メールと小説原稿が交互に提示されるという、一風変わった構成となっている。

 主人公のハンナは、オーストラリア在住の世界的ベストセラー推理作家だ。そのハンナとメールでやりとりしているのが、米国ボストン在住の作家志望者のレオである。レオは、出版前の小説原稿を読んでフィードバックする“ベータ読者”として、ハンナと長い付き合いがあるものの、彼女と直接会ったことはない。

 ハンナは、レオのメールに書かれた愚痴にインスピレーションを受けて、ボストン公共図書館を舞台にした新作小説を書きはじめる。その作中作のミステリは、ボストン公共図書館の閲覧室で、偶然同じテーブルに座った四人の男女が、突然館内に響き渡った女性の悲鳴を聞く場面から始まる。直後の捜索では、どういうわけか悲鳴をあげた人物(または死体)は見つからないのだが、その件をきっかけに、四人は急速に親交を深めていく。作中作の主人公は、ハンナと同じオーストラリア人のウィニフレッド(愛称はフレディ)。母国で滞在執筆奨学金を受賞し、その特典としてボストンでデビュー作を執筆中の新進作家である。そんなフレディが異国の図書館で出会ったのが、ベストセラー作家のケインと、ハーヴァード大学院生のマリゴールドとウィットだ。大胆にもハンナは、この三人のなかに殺人者がいることを冒頭で明かす。

 一方、熱心なハンナのファンであるレオは、その新作小説の原稿を絶賛しながら、アメリカ英語とオーストラリア英語のちがいを指摘したり、ハンナに必要と思われる情報を提供したりして、献身的な協力を惜しまない。同時に、書きあげた自作小説をエージェントに売り込もうと努力するのだが――。

 作中作という形式自体はめずらしいわけではないが、本作がとりわけユニークなのは、ハンナの物語とフレディの物語が同時進行で進み、ハンナとレオのやりとりに影響を受けて、フレディの物語がどんどん変化していく点だ。たとえば、レオから落ち込んだメールが届くと、ハンナはフレディの物語にレオと同姓同名のキャラクターを登場させて、レオを励ましたりする。フレディの物語はミステリ小説でありながら、本文中には掲載されていないハンナからレオへの“返信”も兼ねているのだ。彼女の小説(フレディの物語)を注意深く読めば、レオに対する返信ではないかと思われる描写がちらほら紛れていることに気づくだろう(レオが気づいて言及しているものもあるし、していないものもある)。

 この作品で省略されているのは、ハンナのメールだけではない。ハンナの物語では新型コロナパンデミックが世界中に拡大し、ロックダウンや国境封鎖などが起こるが、フレディの物語では省かれている。さらに、ある重要な要素も省かれており、その点をめぐって、ハンナとレオの意見の対立が起こる――といった具合に、入れ子構造が非常にうまく活かされている。読者はフレディの物語をメインで味わいながらも、そこで省かれている問題を、省かれているからこそ、じっくりと考えずにはいられなくなるだろう。

 “ミステリ・イン・スリラー”といえるこの小説の、スリラー部分(ハンナの物語)の着想は――謝辞にも書かれているが――同業者からのメールから生まれたそうだ。あるインタビュー記事によれば、サラーリが米国を舞台にした別の小説に取り組んでいたとき、ボストン在住の友人である作家ラリーに、現地情報の助言を依頼したそうだ。彼は快く引き受け、持ち前の卓越した調査能力を活かして、地図やレストランのメニュー、ボストンの街の写真や動画まで提供してくれた。そんなある日、ボストンの彼の自宅から二ブロック離れたところで、殺人事件が起こった。米国の犯罪現場の情報は、推理作家であるサラーリの役に立ちそうだ――そう考えたラリーは、殺人事件現場の動画を(遺体が運び去られたあとに)撮影し、彼女に送った。オーストラリアのサラーリの自宅で、その動画をたまたま一緒に見た彼女の夫は、思わず「調査に役立つからって、ラリーが人を殺したりしなけりゃいいけど」とつぶやいた。もちろんラリーがそんなことはするわけはないが、このアイデアは小説になると閃いたという。

 一方、別のインタビュー記事によれば、ミステリ部分(フレディの物語)の着想は、二〇一九年のオーストラリアの山火事のさなかに生まれたようだ。当時、サラーリの暮らす町は、山火事の被害を受けた。彼女は家族と一緒に、避難住民に貸し出される小さな家に移った。ほかに三家族も、同じように避難を余儀なくされていた。やがて地域住民と協力して過ごすうちに、強い不安を共有することで築かれる、特別な絆のようなものを強く意識したのだという。そこから、人々を同じ部屋に閉じ込めて、得体の知れない悲鳴を聞くという経験を共有させれば、友情が始まるのではないかと考えたそうだ。

 また、この作品は“創作についての物語を創作する物語”でもある。創作を愛する読者にとって、フレディとケインが互いに創作方法について語るくだりは大きな魅力だろう。プロットを立てずに流れに任せて書くというフレディの執筆方法には驚かされたが、これはそのままハンナの執筆方法でもあり、さらに著者サラーリ・ジェンティルの執筆方法でもあるらしい。彼女は自分のことを「極端な“pantser(パンツァー)”だ」と語っている。“パンツァー”とは、“計器ではなく、勘に頼って飛行機を操縦する(fly by the seat of your pants)”ように、プロットを事前に立てず、直感を頼りに執筆する作家を指す。それに対して、ケインのように綿密なプロットを立ててから執筆を始める作家は“プロッター”という。あるインタビューでは、著者は小説を書くことを“すでにそこにある物語を発掘するような作業”と表現し、ストーリーもキャラクターたちも“有機的オーガニック”に生まれてくるのだと話す。さらに、“イギリスの犯罪ドラマ(『バーナビー警部』や『オックスフォードミステリー ルイス警部』など)を見ながら執筆する”という、にわかには信じがたい習慣についても明かしている。

 そんな独特の執筆方法が成り立つのは、著者の経歴や趣味によってもたらされた、創作の引き出しの多彩さがあってこそかもしれない。サラーリ・ジェンティルは、スリランカ生まれ。ザンビアで英語を学び、オーストラリアのブリスベーンで育った。子どもの頃からアガサ・クリスティーを愛読してきたという。やがて天体物理学を学びたくて大学に進んだが、早々に自分には合わないことがわかった。夜空の星を見あげたときに目に映った魔法は、幼い頃に父親が語ってくれた星々の物語のおかげだったことに気づかされたのだ。そこで法学部に転部して法律の学位を取り、卒業後は企業弁護士として働いた。弁護士の仕事には満足していたが、余暇には、半年間ひとつの趣味に没頭しては次の趣味に没頭する“趣味のキルティング”にのめり込んでいたそうだ。牛の妊娠検査法を学んだり、溶接の技術を習得したり――多彩な趣味を遍歴したあと、その一環として小説執筆を始めたとき、ついに天職と巡り合った。とはいえ、専業作家になったあとも多趣味ぶりは相変わらずのようだ。現在、四匹の犬、二匹の猫、二頭のミニチュア馬、二頭のロバ、それに夫と息子たちと暮らすニューサウスウェールズ州の山岳地帯スノーウィー・マウンテンズの農場では、絵を描いたり、黒トリュフの栽培をしたりしている。

 二〇一〇年、子育てと並行して書きあげた“A Few Right Thinking Men”(一九三〇年代のシドニーを舞台にした歴史的推理小説)でデビュー。その主人公――探偵役の芸術家Rowland Sinclair――が活躍するシリーズ十作品や、ファンタジー冒険小説の三部作を含め、十二年間で十五作品を上梓した。二〇一七年に発表された“Crossing the Lines”は、オーストラリア推理作家協会賞(ネッド・ケリー賞)の二〇一六年度最優秀長篇賞を受賞し、米国のPoisoned Pen Press社からも出版された。
著者の十五作目に当たる『ボストン図書館の推理作家』(The Woman in the Library)は、二〇二二年にPoisoned Pen Press社から発売されると、USAトゥデイ紙のベストセラーリストにランクインしたり、アマゾンのBook of the Monthに選ばれたりと好評を博したほか、英国の推理小説ファンの投票で決まるCrime Fiction Lover Awardsの、インド系作家に贈られるBest Indie Crime Novel賞を受賞した。さらに、二〇二三年にはエドガー賞(アメリカ探偵作家クラブ賞)のメアリー・ヒギンズ・クラーク賞にもノミネートされた。
 
 二〇二四年三月には、次作“The Mystery Writer”が刊行される。尊敬する作家と出会って恋に落ちた作家志望の女性が、彼に読んでもらうために自作の原稿を渡した翌日、彼が殺されているのを発見する――というミステリだそうだ。今後の世界的飛躍が楽しみな作家である。

 なお、本書を翻訳するにあたり、早川書房の三井珠嬉氏、外部編集の内山暁子氏、校閲課のかたがたに大変お世話になった。この場を借りて、心より御礼申しあげたい。

二〇二四年二月


◆著訳者情報

サラーリ・ジェンティル 著

オーストラリア在住。作家。スリランカで生まれ、ザンビアとオーストラリアで英語を学ぶ。大学卒業後に弁護士として活躍したのち、専業作家となった。2010年に歴史ミステリA Few Right Thinking Menでデビュー。

不二淑子 訳

英米文学翻訳家 訳書『名探偵の密室』マクジョージ,『毒花を抱く女』イェンナス,『災厄の馬』ブキャナン,『かくて彼女はヘレンとなった』クーニー,『円周率の日に先生は死んだ』ヤング(以上早川書房刊)他多数