悲劇喜劇2019年9月号

劇評『プラータナー:憑依のポートレート』藤谷浩二×嶋田直哉/『悲劇喜劇』9月号より

演劇雑誌『悲劇喜劇』では、毎号、話題の舞台の劇評を対談形式で掲載。このたび、6月から7月にかけて国際交流基金アジアセンターにより上演された『プラータナー:憑依のポートレート』の劇評をnote限定で公開します。
評者は朝日新聞社編集委員の藤谷浩二氏と、明治大学准教授の嶋田直哉氏。


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***以下、本文です***


編集部 藤谷浩二さんと嶋田直哉さんにご担当いただく演劇時評の最終回をはじめます。 まずは、国際交流基金アジアセンター『プラータナー:憑依のポートレート』(東京芸術劇場シアターイースト/原作=ウティット・ヘーマムーン/脚本・演出=岡田利規/セノグラフィー・振付=塚原悠也/出演=ジャールナン・パンタチャート、ケーマチャット・スームスックチャルーンチャイ、クワンケーオ・コンニサイ、パーウィニー・サマッカブット、ササピン・シリワーニット、タップアナン・タナードゥンヤワット、ティーラワット・ムンウィライ、タナポン・アッカワタンユー、トンチャイ・ピマーパンシー、ウェーウィリー・イッティアナンクン、ウィットウィシット・ヒランウォンクン)からお願いします。二〇一八年八月のバンコクで初演し、演劇評論家協会タイセンター(IATC)のIATC Thailand Dance and Theatre Awards 2018 Best Play賞を受賞。パリ、ポンピドゥ・センターでの上演でも反響を呼んだ話題作の日本初演です。



観客に負荷をかけつつ開かれた演劇■

藤谷 タイと日本の国際共同製作で、チェルフィッチュの岡田利規さんがバンコクに行き、タイの俳優とつくった舞台です。原作はタイの第一線で活躍する作家の半自伝的小説。一九九二~二〇一六年のタイの政変や軍事クーデターの頻発、経済成長、国王の崩御といった社会状況が、芸術や自身の性愛と不可分な様を描いている。四時間に及ぶ大作ですが、まずは岡田さんが演劇の作り方をアップデートして、新たな演劇言語を獲得した印象です。非常に面白く観て、強く感銘を受けました。普遍性を志向した意志に貫かれている舞台で、タイ社会を描きつつ日本も照射される。ヨーロッパでも通用するつくりになっています。開かれた演劇の作り方をしている印象でした。


嶋田 事前に渡されるパンフレットを読めば、ある程度登場人物や時系列が分かるようになっています。しかし実際の上演では、登場人物も時系列もあえて未整理な状態にされています。役と俳優の結びつきはばらばらで、複数の俳優が一つの役と物語のナレーションを代わる代わる行います。「あなた」と観客に問いかけるナレーションに、はじめは面喰いますが、次第に物語の時間軸やキャラクター設定が分かってくることで、カオシンの恋愛物語やタイの政治事情が見えてきます。かなり観客に負荷をかける作りになっています。


二人称が生む当事者性と浮遊感■

藤谷 主人公のカオシンという画家は屈折した芸術家生活を送っていて、ある時は社会活動に参画するが、ある時は完全に無関心になる。激しい内省的な気持ちをもつカオシンが、「あなた」という二人称に変換されて、しかもそれを多くの俳優がリレーするように演じていく。これが岡田さんが原作にほどこした最大の仕掛けだったと思います。一人の登場人物を一役に限定しないことで、原作のカオシンという人物を揺るがせる。そして「あなた」とは他の誰でもなくて観ている「あなた」の物語、ともっていく。それがストンと入ってくると、観客でありながら当事者意識が湧いてきて、のっぴきならない話になる。


嶋田 二人称の呼びかけは、最初から最後まで貫かれているのが効果的だった気がします。日本の小説でも二人称の小説はあって、たとえば倉橋由美子『暗い旅』(一九六一)は全編「あなた」という呼びかけですすんでいきます。「あなた」が鎌倉から京都に旅行していく過程を描いた二人称小説です。岡田さんの今回の作品を観て、この『暗い旅』を読んだときの何とも言えない浮遊感を思い出しました。岡田さんの作品も実のところ、二人称「あなた」を一人称「わたし」に変えても物語の展開上は全く問題ありません。しかし、「あなた」という二人称にしたときに出てくる当事者性と浮遊感が、塚原さんの構成する空間とともに、ふわっとしたポエジーを感じさせてくれる。ただの政治的な物語じゃなくて、ポエジーあふれる空間ができあがっていました。


藤谷 私が一番驚いたのは、岡田さんが大きな物語をつむぎだしたこと。全体小説という言葉がありましたが、原作を読むと、時代をとりこみながら人間や芸術、生とは何かにせまっていく。時代のなかで翻弄される人間がうかびあがっていく点で、『プラータナー』は二十一世紀にうまれた東南アジアの全体小説の一つじゃないかと思います。統括プロデューサーでタイ在住経験もある中村茜さんがこの上演を全体演劇と語っていましたが、私も同じイメージをもちました。岡田さんがこれまで得意としてきた、部分をオリジナルな手法で緻密に描くことで深淵な世界を見せる方法ではなく、編年体の大きな人生の物語をまるごとつかんで表現としてさしだしてみせた。
 それがことごとく規格外な表現なのですが、観終わったあとに冷めない余韻がある。カオシンという人物に感情移入して、彼の時間を生きたように感じてしまう。こういう体験を観客に与えるのは岡田さんにとって新たな試みだったと思う。岡田さんが自分の言葉から離れて、他者の物語と向き合ったから生まれた作品だと思います。



新次元を拓いた塚原悠也の振付■

藤谷 二人称とは別のもう一つの仕掛けとして、岡田さんは今回セノグラフィー・振付に塚原悠也さんを迎えました。普段黒子でいるようなスタッフを常時舞台上に出して小道具・照明・音楽の操作をさせ、「これは演劇ですよ」という構造を丸裸にした。人称の仕掛けで舞台上と客席の境目をなくし、虚構性を強調する仕掛けで俳優とスタッフの境目をなくした。
 はじめ、舞台と客席の間にはテープが引いてあり、二つは厳然と分けられていますが、次第に舞台が客席を侵蝕してくる。そうすると、舞台上のタイの社会が、「わたしたち」のことのように見えてくる瞬間がある。その感覚を一幕目で長い時間をかけてお客さんに手渡し、二幕目の激しく強い表現にもっていくというのが、岡田さんの演出プランだったのかなと。
 岡田さんの演劇は言葉と身体で確固たるナラティヴをつくるのが特徴。語り口をどうするか、観客にどう手渡すかにすごくこだわる作家だと思います。今回はウティットの小説を題材にとることで、これまでは自分の感性の中で処理していたものを、違う次元で勝負していた感じがした。過去の作品とは異なる手触りや別の位相の強度があった。それが外国の俳優との共同作業でなされたことに驚きました。


嶋田 ナラティヴの問題で触れたいことは二つあります。一点目は、『三月の5日間』などで、岡田さんが初期からやっている「一つの役を複数の役者が交互に演じる手法」が、まだ有効で新鮮にうつること。二点目は、このような語りの技法は従来のものを踏襲していますが、そこにこれまでになかった身体表現を絡めていくと、全く別次元の表現のありようが浮上してくること。塚原悠也の振付を得て岡田さんは新次元に突入した感じがしました。


藤谷 ここまで激しい身体の接触やキスシーンがでてきたのは、岡田さんの作品でははじめてだと思います。俳優同士の身体性のありかたが、これまでとちょっと違う感じがした。それは演出プランに加え、一つはタイの俳優によるもので、もう一つは塚原さんの振付によるものだと思います。
 タイの俳優に関しては、前に『赤鬼』で野田秀樹さんがタイ人とよいコラボレーションをして、その時からタイの俳優は面白いなと感じていました。ただ「赤鬼」では、野田さんの物語にタイ人たちが入ってきたが、今回は、タイの人たちが自国の物語を語れたのが大きい。自分たちがいま生きている社会の話を、第一線で活躍されている方々が演じられたわけですから。
 塚原さんに関しては本作の大きなファクターだったと思う。特に二幕でセックスを可視化させるために、カオシンと青年を演じる俳優の回りを七、八人の俳優がくんずほぐれつしていくシーン。塚原さんもさらにそこに入っていって、ある種の性的なコンタクトの強さをつくりだしていく。肉体同士が音をたてあいながら、ぐしゃっとひしゃげていくような世界をイメージとして出していく。これまでの作り方と違いますね。それは奇をてらっているわけではなく、ちゃんと岡田さんと塚原さんのなかで整理がついていて、明確なイメージとしてさしだしている。


嶋田 そうですね。一幕の終盤にあって塚原さんが振り付けたシーン──二人がお互いに、ポラロイドカメラで写真をとりあいながら絡まりあって進んでいく場面は、ストーリーの展開から考えると性行為だろうと分かるのですが、印象的なのは、やはりあのなんともいえない身体感覚ですよね。私は最初、総合格闘技のリング上で関節技をきめあっているような感じがしました(笑)。この場面の性行為のイメージは、格闘技の身体性と比較的近いと思います。一幕はこのように二人だけで絡み合っていましたが、二幕はごくごく自然に人が集まってきて、気がついたら七、八人くらいの身体が絡み合って大きな玉のようになっている。見ようによってはデモ行進のようにも思えるし、集団リンチのようにも思えます。そして一幕同様に性行為にも見えてくる。まさしくこれがタイの「群衆」であり、「政治」です。あらゆる身体の「読み取り可能性」が舞台上にのせられた気がして、大変興奮しましたね。


藤谷 カオシンは年をとってから、同性のモデルの若者と性関係を結ばないけど支配するという関係を結ぶ。この関係がまさに、不安定な政治状況の中で生きざるを得ないタイの人々の複雑な生とパラレルに示される。だからこれがデモなのか、セックスなのかがわからない。同時に起こる。小説では順序立てて書いてあるけど、岡田さんは舞台の上で同時発生させた。それは演劇でしかできないことです。岡田さんの脚本の編集能力もふくめて、演劇的な真実を引きだす技が冴えていた。
 四時間は長すぎるのではないかという議論があったけれども、岡田さんとしては、「観客を疲れさせたい」という意図だったと。なぜなら、カオシンが人生に疲れていく話なので。彼は次第に中年になってくたびれていくわけです。だから観客にも肉体的な疲れをともなわせるような演劇にしたそうです。同時代の世界を生きるひとりとして色々なことを思い巡らせ、心地よい疲れの残る観劇でした。


写真はすべて、『プラータナー:憑依のポートレート』(国際交流基金アジアセンター)[撮影:高野ユリカ]


***(「悲劇喜劇」2019年9月号より)***


その他、9月号では、以下の演目を劇評で掲載しています。ぜひお手に取ってみてください。

国際交流基金アジアセンター『プラータナー:憑依のポートレート』
世田谷パブリックシアター×KERA・MAP『キネマと恋人』
イキウメ『獣の柱』
Bunkamura『ハムレット』
新国立劇場『オレステイア』
KAKUTA『らぶゆ』
唐組『ジャガーの眼』
オフィス・コットーネ「改訂版『埒もなく汚れなく』」
新国立劇場『少年王者舘 1001』
ラッパ屋『2・8次元』
加藤健一事務所『Taking Sides ~それぞれの旋律~』
松竹『月光露針路日本風雲児たち』
東京グローブ座『WILD』
文化座『アニマの海─石牟礼道子『苦海浄土』より─』
KAAT神奈川芸術劇場『恐るべき子供たち』
彩の国さいたま芸術劇場『CITY』
音楽座『グッバイマイダーリン★』


●プロフィール

藤谷浩二(ふじたに・こうじ)
1969 年生まれ。1992 年、朝日新聞社に入社。東京本社学芸部・文化部で演劇を担当。デスク・論説委員などを経て、文化くらし報道部編集委員。

嶋田直哉(しまだ・なおや)
1971 年生まれ。専門は日本近代文学、現代演劇批評。博士(文学)。「語られぬ「言葉」たちのために── 野田秀樹『ロープ』を中心に」にて第12 回シアターアーツ賞佳作受賞。国際演劇評論家協会日本センター機関誌『シアターアーツ』編集長。

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