ピュリッツァー賞受賞&全世界累計4000万部超の不朽の名作『ものまね鳥を殺すのは アラバマ物語〔新訳版〕』(ハーパー・リー/上岡伸雄訳)「訳者あとがき」公開
早川書房から6月20日、『アラバマ物語』の新訳『ものまね鳥を殺すのは』を刊行します。1960年に刊行後、全世界で4000万部を売り上げ、アメリカ文学を語る上で欠かせないとされている名作です。1962年公開のグレゴリー・ペック主演の映画「アラバマ物語」も良く知られています。本noteでは、発売前に、学習院大学教授の上岡伸雄氏による「訳者あとがき」を公開いたします。
訳者あとがき
本書は日本で『アラバマ物語』として知られてきた小説の新訳である。『アラバマ物語』といえば、グレゴリー・ペック主演の映画を思い出す人も多いだろう。本書はもちろんその原作であり、原題は「ものまね鳥を殺すこと」を意味するTo Kill a Mockingbird である。アメリカの作家、ハーパー・リーによって、一九六〇年に出版された小説だ。
小説を読んだ人、映画を観た人、どちらの印象にも残っているのは、まずスカウトことジーン・ルイーズ・フィンチという女の子の魅力だろう。物語が始まる時点では六歳。母を早く亡くし、父のアティカス、四つ年上の兄ジェムとともに暮らしている。女の子が好むとされるおままごと的な遊びは大嫌いで、着ている服はオーバーオールばかり。男の子とも取っ組み合いの喧嘩をするお転婆娘だ。物語はスカウトの目を通して語られており、その無垢な心が読者の心に響く。また、母親がいない分、父アティカスと緊密な関係を築いており、その親子の愛も感動的な部分である。
物語の始まりは一九三三年、場所はアメリカ南部のアラバマ州、メイコムという架空の田舎町。夏休みになり、スカウトたちの家の近くにディルという、スカウトより一つ年上の男の子がやって来る。両親が離婚したという事情で、夏休みだけ伯母さんの家に引き取られることになったのだ。本好きで想像力豊かな三人の子供たちはすぐに仲良しになり、お気に入りの本の物語を演じたり、さまざまな遊びを考え出したり、ときには騒動を引き起こしたりする。この三人の可愛らしさも作品の魅力だ。
子供たちはやがて、近所に住むブーことアーサー・ラドリーという男をめぐる遊びに熱中するようになる。ブーはある事件を起こした結果、ラドリー家の屋敷に何年も幽閉されており、彼が怪物と化したかのような噂がまことしやかに囁かれているのだ。子供たちは彼をひと目見ようとしたり、彼に手紙を書いて接触を試みたり、彼をめぐる寸劇を演じたりする。そして、父親のアティカスに見つかって叱られる。
物語には一九三〇年代という時代が重要な役割を果たしている。一つは、一九二九年に始まった世界的な大恐慌。これは特に田舎町の農民たちを直撃した。本書のなかでも、スカウトの同級生である田舎の生徒たちの家族が困窮し、お弁当を持って来られない子や、満足に出席できずに毎年一年生を繰り返す子がたくさんいる。アティカスは弁護士として彼らに公平に接しているが、彼の妹であるアレグザンドラ叔母さんは階級意識が強く、下層の農民を「クズ」と呼ぶ。そんな厳然たる階級の存在も物語に影響を与えている。
そして、言うまでもなく、その階級の最下層がアフリカ系アメリカ人たちである。この時代の黒人に対する激しい差別が物語のメインプロットの動因となっている。
物語の中盤、スカウトとジェムは周囲から「おまえの父さんはニガー好きだ」と揶揄されるようになる。最初は訳もわからず怒っていたスカウトだが、やがて事情がわかってくる。トム・ロビンソンという黒人青年が白人の娘をレイプしたという嫌疑で告発され、父アティカスが弁護を担当することになったのだ。一八六五年の南北戦争終結で奴隷制は廃止されたとはいえ、アメリカ南部の白人たちは黒人を二級市民として扱い、徹底的に差別し迫害するシステムを作り上げてきた。そんな時代に黒人が白人女性からレイプの廉で告発されたら、それは死刑宣告に等しい。たとえ白人たちのリンチによる死を免れたとしても、裁判で死刑になる可能性が非常に高いのだ。
ロビンソンにレイプされたと訴えているのは、白人としては最下層のユーウェル家の娘であり、それを目撃したという父親である。証拠としては彼らの証言しかなく、ほかの要素を考慮すると、彼らの証言は信じ難い。しかし陪審員は白人ばかりであり、この時代の南部で白人の陪審員が白人よりも黒人に有利な決定をすることなどまずあり得ない。アティカスはいかにしてその壁を破ろうとするのか。物語の後半はその裁判と、その後に起きた事件を中心として、スリリングに展開していく。
本書の原題は、物語中でアティカスが使う表現から取られている。ものまね鳥は何も害を与えず、ただ楽しく歌っているだけ。だからその鳥を殺すのは罪だ。アティカスはそう言って、ブーを無理やり引っ張り出そうとする子供たちを叱っている。この場合はブーがものまね鳥に喩えられているわけだが、物語の後半では、黒人たちがものまね鳥に喩えられる。白人たちが無力な黒人を虐待したり殺したりすることは、ものまね鳥を殺すのに等しい、と。こうした教訓を子供たちは学んでいくのである。
小説は一九三三年の夏に始まり、一九三五年のハロウィンで終わる。つまり、ディルがメイコムで過ごす三回の夏が中心となっていて、そのあいだに子供たちは少しずつ大人の世界を理解し、成長していく。一九六二年に公開された映画(ロバート・マリガン監督)はそれをもっと短期間の出来事に凝縮し、たくさんの要素や登場人物を省きながら、中心となるトム・ロビンソンの裁判をドラマチックに描いている。映画としては見事な出来栄えで、アカデミー賞ではシナリオを書いたホートン・フートが脚色賞、アティカスを演じたグレゴリー・ペックが主演男優賞を受賞した。スカウトを演じた子役も素晴らしい。まだご覧になっていない方には、視聴をお薦めする。
作者のハーパー・リーについて少し説明しておこう。よく知られているように、スカウトは彼女自身をモデルとしており、父親が弁護士であること、兄がいることなど、リーの家はフィンチ家と酷似している。舞台のメイコムも、彼女の故郷であるモンローヴィルという町がモデルだ。リーはこの町に一九二六年に生まれ、四歳のとき、近所の家で暮らすようになった二つ年上の少年と知り合いになった。これがディルのモデルで、後に作家となるトルーマン・カポーティ。リーはカポーティがノンフィクションノベル『冷血』(In Cold Blood[1966])の執筆に取り組んでいたとき、助手として取材を助けている。
リーは父親と同じく弁護士になろうと考えてアラバマ大学で法律を学び、イギリスのオックスフォード大学にも留学したが、作家になりたいという気持ちを抑えられず、一九四九年、ニューヨークに出て作家修行を始めた。幼馴染のカポーティがすでに作家デビューし、早熟の天才として注目されていたことも、刺激となったようだ。一九五〇年代、彼女はアルバイトをしながら、本書へと発展する原稿を書き進めていった。
この五〇年代という時代も、本書に大きな影を投げかけている。一九五五年、アラバマ州ではバス・ボイコット運動が始まり、マーチン・ルーサー・キング牧師を中心とする公民権運動が盛り上がっていった。それに対する南部の白人の抵抗も苛烈で、黒人に対する暴力沙汰が頻発した。そういう時代だからこそ、リーは故郷を舞台として人種の問題を取り上げたかったのだろうし、それが全米の注目を集めることになったのである。本書は一九六〇年に出版されると、その翌年にピュリッツァー賞を受賞、その次の年に映画化もされて、世界じゅうで大ベストセラーとなった。
リーはその後、第二作を構想していたようだが、結局完成させることはなかった。処女作があまりに成功したゆえの、プレッシャーが大きすぎたためだと考えられている。父親の弁護士業は姉のアリスが継いでおり、彼女は故郷のモンローヴィルで、この姉とずっと暮らし続けた。ところが二〇一五年、死の前年に、彼女の書きためた原稿を編集した形で『さあ、見張りを立てよ』(Go Seta Watchman)という小説が出版された。リー自身もこの出版に承諾したということだが、リーはこのときすでに八十八歳。彼女が本当にこの出版を望んでいたのかについて、疑問を差しはさむ人もいる。
ともかく、『さあ、見張りを立てよ』の内容を簡単に紹介すると、これは本書の時代から約二十年後の物語である。二十六歳になったスカウトがニューヨークからアラバマに帰省するシーンで始まり、その後、南部での人種対立の激化を目の当たりにしていく。人種平等を強く求める黒人たちと、それに激しく抵抗する白人たち。ロビンソンの無実のために闘った父でさえ、ラディカルな改革には抵抗しているように見える。これはいったいどうしたことか。スカウトは葛藤する。そう簡単に差別を撤廃できない南部の白人たちの事情、その複雑な心情も見えてくる。作者が子供だった一九三〇年代と、大人になって本書を書いていた一九五〇年代。『さあ、見張りを立てよ』では、それぞれの時代が生々しく浮かび上がり、時代の変化(あるいは変化の難しさ)を痛感させるのだ。
ちなみに、『さあ、見張りを立てよ』には本書を推敲していく過程で放棄したエピソードが多く含まれており、ところどころ本書と重複する文章もある。そのため本書を訳す上で、とても参考になった。『さあ、見張りを立てよ』も早川書房刊の拙訳があるので、ぜひ合わせて読んでいただけたらと思う。
一つお断わりしておくと、人種の平等を強く訴えている本書だが、差別的として一部の地域で禁止されたこともあった。おもな理由は、黒人に対する蔑称が使われているためである。また、黒人の描かれ方がステレオタイプであるという指摘や、白人の最下層民に対する蔑視などを問題視する声もあった。しかし、こうしたこともすべて時代の産物と言えるだろう。子供のスカウトでさえ(というか、子供だからこそ)時代の雰囲気に染まり、ニガーという言葉を平気で使うし、無意識に黒人を別扱いしているように見えることがある。本書はそういう時代を描いた作品でもあり、子供が偏見に気づかされていく物語なのだ。その点で、語り手が無垢な子供であることにはとても意味がある。翻訳においては、そうした点を考慮して、差別的な用語はできるだけそのまま使っている。
訳者にとって、本書はとても思い入れのある作品である。三十年以上前、大学から大学院時代の恩師である渡辺利雄先生と、数人の仲間とともに読書会で読んだ作品なのだ。まだインターネットもない時代、一九三〇年代のアメリカ南部特有の文化や表現は意外と難しく、紙の辞書で必死に調べたものである。当時は曖昧なままになっていたが、今回インターネットの普及と『さあ、見張りを立てよ』の出版によって解決された問題もいくつかあった。いまは亡き渡辺先生に本書を捧げるとともに、読書会に参加していた仲間たちにも心から感謝したい。
翻訳に当たっては、Grand Central Publishing の版を最初使用したが、これと私が昔読んだPan Books 版とにときどき相違があることに気づかされ、さらにkindle のHarperCollins 版も参照、照らし合わせながら進めていった。また、疑問点については今回も日本映画の字幕製作者であるイアン・マクドゥーガル氏に質問させていただき、その明快かつ詳細なお答えに大変助けられた。心からお礼を申し上げる。最後になったが、早川書房編集部の吉見世津氏には、企画段階から原稿のチェックまで大変お世話になった。記して感謝の意を表したい。
二〇二三年四月