巨匠がみずから語る波瀾に満ちた人生と創作の秘密『地下道の鳩 ジョン・ル・カレ回想録』(3月9日発売)一部無料公開中

 私のこれまでの本のなかで、執筆中に「地下道の鳩(ピジヨン・トンネル)」という仮のタイトルがつかなかったものはほとんどない。タイトルの由来は簡単に説明できる。十代のなかばごろ、父のいつもの派手なギャンブル旅行の道連れでモンテカルロに行った。古いカジノの近くにスポーツクラブがあり、そのふもとの芝地に海を見晴らす射撃場があった。芝生の下には小さなトンネルがいくつも並んで掘られ、海側の崖に出口が開いていた。そのなかに、カジノの屋上で生まれ、囚われていた生きた鳩が入れられる。鳩たちの仕事は、真っ暗なトンネルを抜けて地中海の空に飛び出すことだ──昼食を愉しんだあと、立ったり寝そべったりしてショットガンを構えているスポーツ好きの紳士の標的となるために。弾が当たらなかったり、かすったりしただけの鳩は、その習性にしたがって生まれ故郷のカジノの屋上に戻っていくが、そこには同じ罠が待ち受けている。

 この光景がずっと私の心に焼きついている理由は、私自身より読者のほうがわかるのではないだろうか。

ジョン・ル・カレ 2016年1月  

はじめに

 私は、『寒い国から帰ってきたスパイ』からの収入で建てた小さな山小屋の地下で、机について坐っている。スイスのベルンから鉄道で1時間半ほどの山間の村だ。ベルンは、私が十六歳のときにイギリスのパブリック・スクールから逃げ出してやってきた街で、その後ベルン大学に進んだ。週末には、男女を問わず、たいていベルン市民の多くの学生が南の高地に押しかけ、山小屋に泊まって、スキーを思う存分愉しんでいた。私が知るかぎり、当時の学生は品格があって、男は男、女は女に分かれ、決していっしょになることはなかった。もしそうでない者がいたとしても、私はその一員ではなかった。

 この山小屋は村を見おろす場所にある。窓からはるか上に眼を向ければ、アイガー、メンヒ、ユングフラウといった山々の頂がかすかに見える。なかでも最高の美しさを誇るのがシルバーホルンと、その少し下にある小シルバーホルンだ。つんと尖ったふたつの氷の円錐は、フェーンと呼ばれる南からの暖かい風でときおりくすんだ茶色の岩肌をあらわにするが、数日後にはまるで新婦のような輝きで甦る。

 このあたりの守護聖人として、作曲家のメンデルスゾーン──〈メンデルスゾーンの径〉の矢印が至るところにある──詩人のゲーテ、同じく詩人のバイロンがいる。ゲーテが行ったのは途中のラウターブルンネンの滝までだったが、バイロンはヴェンゲルンアルプまで足を伸ばし、そこが気に入らず、嵐で荒廃した森を見て「私自身と家族を思い出す」と言ったようだ。

 しかし、もっとも崇められている守護聖人といえば、エルンスト・ゲルチュをおいてほかにはない。1930年にラウバーホルン・スキーレースを開催し、村に富と名声をもたらした人物で、本人もスラロームに出場して優勝した。私も若いころスラロームに夢中になったが、能力もないし、生理的な恐怖も克服できなかった結果、当然ながら大転倒するはめになった。調べたところ、エルンストはスキーレースの父となったことに満足せず、スキーのエッジやビンディングをスチール製にするなどの改良もおこなったようだ。スキーヤーはみな彼の恩恵を受けていることになる。

 いまは5月、1週間で1年分の天気を体験できる季節だ。昨日は数十センチの新雪が積もったが、愉しむスキーヤーはひとりもいない。かと思うと、今日は焼けつくような太陽がじかに照りつけ、雪はほぼなくなって春の花々がまた咲いている。日が暮れてきたいまは、灰色の雷雲がナポレオンの大陸軍よろしくラウターブルンネンの谷へ行進するところだ。

 雷雲が通りすぎると、おそらくここ数日吹いていないフェーンが戻ってきて、空からも、牧草地や森からも色が奪われ、山小屋もガタガタ揺さぶられて軋む。フェーンは暖炉の煙を逆流させ、いつだったか雪のない冬の雨の午後に、私がインターラーケンで大枚をはたいて買ってきたカーペットを汚す。谷のほうからは不機嫌な抗議の叫びのように騒々しい音が響いてくる。その間、誰からも指図を受けないベニハシガラス以外の鳥はみな巣に閉じこもる。フェーンが吹くときには、車の運転や結婚の申しこみをしてはいけない。頭痛がしたり、隣人を殺したい衝動に駆られたりしても心配無用。それは二日酔いではなく、フェーンのせいだ。

 この山小屋は小さいわりに、84年の私の人生のなかでかなり大きな位置を占めている。これを建てるまえに私が村にやってきたのは、少年時代の最初のスキー旅行のときだった。トネリコやヒッコリーの板にアザラシの毛皮を貼り、革製のビンディングをつけたスキーをはいて山を登り、すべりおりた。その後、オクスフォード大学時代の恩師でのちにリンカーン・コレッジの学寮長となるヴィヴィアン・グリーンとともに、夏山登山にやってきた。彼はジョージ・スマイリーの内面のモデルだ。

 スマイリーがヴィヴィアンと同じようにスイス・アルプスを愛するようになったのも、この景色に癒やされたのも、偶然ではない。スマイリーが私と同じように、人生を通じてドイツの芸術の女神(ミユーズ)と複雑な関係にあったことも。

 常識はずれの父親ロニーについて、私が長々と言いたてる不満を辛抱強く聞いてくれたのも、ヴィヴィアンだ。ロニーは何度も華々しく破産したが、そのうちの一回で、必要な教育費を手配し、大学を卒業できるようにしてくれたのも、ヴィヴィアンだった。

 ベルンでは、オーバーラントでもっとも古くからホテルを経営している家族の御曹司と知り合った。彼の力添えがなければ、そもそもこの山小屋の建築は認められなかっただろう。当時もいまも、外国人は村の土地を猫の額ほども所有できない。

 生まれて初めて、イギリスの諜報機関とごく初歩的な立場でかかわったのも、ベルンにいたときだった。誰かもわからない相手に、何かもわからない情報を渡しただけだったが。近ごろ、折に触れて考えることがある。もしパブリック・スクールから逃げ出さなかったら、あるいは、もし別の方向に逃げていたら、自分の人生はどうなっていただろう。いまは、のちの人生で起きたことはすべて、イギリスをできるだけ早く飛び出して、母の代わりにドイツの芸術の女神を抱擁しようと決めた若い衝動の結果だと思っている。

 とはいえ、学校で落ちこぼれていたわけではない。それどころか、いろいろなことでリーダーを務め、学校の賞もいくつかもらい、まさに優等生の卵だった。逃げ出すときにも非常に慎重だった。暴れたり叫んだりはしなかった。たんに、「父さんはぼくを好きなようにできるけど、ぼくは二度とここへは戻ってこない」と言っただけだ。しかもそれを、学校やイギリスが原因であるかのように話したはずだ。本当の動機は、なんとしても父の支配下から逃れることだったが、さすがにそうは言えなかった。当然ながら、のちに私の子供たちも同じことをするのだが、私よりはるかにうまく、騒ぎも起こさずに出ていった。

 そうしたことを考えても、もし別の道に進んでいたら人生はどうなっていたかという根本の疑問は解けないままだ。ベルンがなければ、はたして十代のころイギリスの諜報機関から勧誘されて、業界用語で言う・ちょっとしたあれこれ・の使い走りをすることがあっただろうか。当時、モームの『アシェンデン』は読んでいなかったが、キプリングの『少年キム』や、G・A・ヘンティらの愛国的冒険小説は、もちろん読んでいた。ドーンフォード・イェーツ、ジョン・バカン、ライダー・ハガードも害にはならなかった。

 そしてもちろん、まだ大戦の4年後だったから、自分は北半球でいちばんイギリスを愛していると思っていた。私立小学校(プレパラトリー・スクール)時代、われわれ子供は仲間内にいるドイツのスパイを見つけるのがうまくなり、私はとりわけ防諜活動が得意なひとりに数えられた。続くパブリック・スクールは、好戦的な愛国主義に染まっていた。週に二回、部隊と呼ばれる軍服着用の軍事訓練があった。若い教師たちは陽焼けした姿で戦争から戻ってきて、部隊の日には勲章を見せびらかした。ドイツ語教師にとっては謎だらけの戦争だったろう。進路係の仕事は、大英帝国の前哨基地で生涯働く心づもりをさせることだった。学校がある小さな町の修道院には、インド、南アフリカ、スーダンの植民地戦争で銃弾を受けて破れ、愛すべき女性たちが修復した栄えある連隊旗が、ずらりと飾られていた。

 そんな状況だったから、私に大いなる召命が届いたのも驚くにはあたらない。それはベルンのイギリス大使館のビザ担当で、30代のウェンディという女性を通してやってきた。外国の大学で苦闘していた17歳のイギリス人学生は、襟を正して「なんなりとお申しつけを!」と言うほかなかった。

 それより説明がむずかしいのは、私がドイツ文学にここまで魅了された理由だ。あのころ、ほとんどの人にとって「ドイツ」ということばは巨悪の象徴だった。しかし、ベルンへの逃亡と同じように、これが私の人生のその後の道行きを決めることになった。ドイツに惹かれなければ、ユダヤ人難民だったドイツ語教師の強い勧めで、1949年にドイツを訪れることもなかっただろう。廃墟になったルール地方の街を目にすることも、ベルリンで体調をくずして、地下鉄駅の簡易野戦病院で国防軍のマットレスに犬のように伏すことも、掘っ立て小屋に依然として死臭が漂うダッハウやベルゲン゠ベルゼンの強制収容所を訪問することもなく、したがって平静そのもののベルンや、トーマス・マンとヘルマン・ヘッセに戻ることもなかった。むろん兵役の際に占領下のオーストリアで諜報活動にたずさわり、オクスフォードでドイツ文学やドイツ語を学び、イートン校でそれらを教え、下級外交官を装ってボンのイギリス大使館に赴任することも、ひいてはドイツをテーマにした小説を書くこともなかったはずだ。

 若くしてドイツの事物に没頭したことで何を得たか、いまはよくわかる。小さいながら自分の領域を定め、ロマン主義と叙情性を救いがたく発達させ、揺りかごから墓場までの旅路は終わりなき教育だという考え──とうてい独創的な概念ではなく、それ自体疑わしくもあるけれど──に親しむようになったのだ。そして、ゲーテ、レンツ、シラー、クライスト、ビューヒナーなどの戯曲を学びはじめると、その古典的な厳格さと、神経過敏の両方に共感した。こつは、場面に応じてその一方をもう一方の裏に隠すことだと思われた。

 この山小屋は築50年に近づいている。子供たちが大きくなると、毎冬スキーに連れてきた。彼らと最高の時をすごしたのがこの場所だ。春スキーを愉しむこともあった。1967年の冬だったと思うが、映画『トッツィー』、『愛と哀しみの果て』、そして私の好きな『ひとりぼっちの青春』を監督したシドニー・ポラックとここに閉じこもり、私の小説『ドイツの小さな町』の映画脚本について議論を戦わすという、じつに愉快な四週間をすごしたこともある。

 その冬の雪は完璧だった。シドニーはスキーをしたことがなく、スイスに来たのも初めてだったが、バルコニーの横を思い思いにすべっていく幸せそうなスキーヤーたちを見て、我慢できなくなったにちがいない。すぐにスキーをしたいと言いだした。私にすべり方を教えてほしいと言ったが、ありがたいことに、スキー指導者で伝説の山岳ガイドでもあるマーティン・エップを呼ぶことができた。北壁からのアイガー単独登頂をなしとげた偉人である。

 インディアナ州サウス・ベンドから来た一級の映画監督と、スイスのアローザから来た一級の登山家はたちまち意気投合した。何事にも妥協しないシドニーは数日ですぐれたスキーヤーになり、さらにマーティン・エップの映画を撮りたいという情熱を抱いた。ほどなくそれは『ドイツの小さな町』の映画化という情熱にも昇華した。アイガーが運命の女神を演じるのだ。私が脚本を書き、マーティンが本人役で出演し、シドニーがハーネスをつけて上から撮影する。シドニーは彼のエージェントに電話をかけ、マーティンについて話した。ストーリーアナリストにも電話をかけ、マーティンについて話した。完璧な雪が残っていたので、シドニーのエネルギーはそちらに奪われた。夜の入浴後が最高の執筆時間という見解でわれわれは一致していたが、それが事実だったかどうかはともかく、どちらの映画もついに撮られることはなかった。

 その後、驚いたことに、シドニーは、映画『白銀のレーサー』の下調べをしていたロバート・レッドフォードにこの山小屋を貸し出した。残念ながら私自身は彼に会えなかったけれど、以後長いあいだ、村に行くとロバート・レッドフォードの友人という顔をすることができた。

 本書に記すのは記憶にもとづく真実だ。むろん読者には尋ねる資格がある──真実とは何か、そして、穏当に言えば人生の黄昏時に差しかかった作家にとって、記憶とはいったい何なのか。法律家にとって真実とは飾らぬ事実のことであり、そうした事実を発見できるかどうかは別の話だ。一方、作家にとって事実とは原材料であり、親方ではなく、彼の使う道具を指す。作家の仕事はそれを歌わせることだ。もし本物の真実というものがあるとすれば、それは事実のなかではなく、物事の機微のなかにある。

 かつて純粋な記憶などというものが存在しただろうか。疑わしいと思う。いかに自分は冷静で、勝手に飾ったり省いたりしていないありのままの事実に忠実だと信じているとしても、純粋な記憶というのは濡れた石鹼のようにつかみどころがない。少なくとも、生涯を通じて経験と想像を混ぜ合わせてきた私にとっては、そうだ。

 ところどころ適切と思われる箇所では、かつて私が書いた新聞記事から会話や説明を引用している。当時の鮮明な印象が甦って感慨深いし、のちの記憶にそこまでの鋭さはないからだ。たとえば、元KGB議長のワジム・バカーチンについて書いたものがある。また、当初の内容の多くをそのまま用い、多少体裁を整え、説明を足してわかりやすくしたり、最新の情報を加えたりした箇所もある。

 読者が私の作品についてくわしい知識を持っていることは想定していない。むしろなんの知識もないことを前提にしているので、途中に奇妙な説明が入ることがある。しかし、出来事や話を意図的にゆがめて書いた箇所がないことは請け合う。必要に迫られて実名を隠すことはあっても、断じて偽りはない。記憶が定かでない部分については、あえて定かでないと書くよう心がけた。最近出版された私の伝記(アダム・シスマン著のJohn le Carre : The Biography)には、本書のいくつかの話が簡潔に記されている。だから本書では、私自身の声で、できるだけ私自身の感情をこめて書くようにしたい。

 当時はその重要性に気づいていなかった逸話もある。おそらく、おもな登場人物が亡くなったからだ。私は長い人生のなかで日記というものをつけたことがない。あちこちに中途半端な取材メモや、思い出せない会話の書きつけがあるくらいだ。たとえば、レバノンから追放されるまえのパレスチナ解放機構議長ヤセル・アラファトと会った際のメモが残っている。後日、チュニスの白堊のホテルに移った彼を訪ねて、不首尾に終わったときのメモもある。私がチュニスを発って数週間後、アラファトのホテルから数キロ先に宿泊していたPLO司令部の何名かが、イスラエルの部隊に襲撃されて殺された。

 私は権力を持つ人間に引き寄せられた。近づける範囲に彼らがいて、私としても何が彼らを動かしているのか知りたかったのだ。ただ、いま振り返ると、彼らがいるまえでは、せいぜいしたり顔でうなずき、然るべきときに首を振り、緊張をほぐすために冗談を言うだけで、見聞きしたことを理解しようと努めたのは、ホテルの寝室に戻って乱雑なメモを取り出してからだった。

 残っているほかの取材旅行の記録のほとんどは、私個人が作成したというより、現場に入る際に魔除けのように連れていった小説の登場人物が作成したものだ。それらは私の視点ではなく、彼らの視点とことばで記されている。私がメコン川のそばの塹壕で身を縮こまらせ、すぐ上の泥に銃弾が突き刺さる音を人生で初めて聞いたとき、みすぼらしいメモ帳に怒りを書き綴っていたのは私の震える手ではなく、小説に登場する勇敢な従軍記者ジェリー・ウェスタビーの手だった。彼にとっては、撃たれることなど日常茶飯事である。こんなふうに考えるのは自分だけだと思っていたが、ある有名な戦場カメラマンに会ったときに、そうではないことがわかった。彼はカメラのレンズをのぞいて初めて恐怖を感じなくなると私に打ち明けたのだ。

 正直なところ、私が恐怖を感じなくなることはなかったが、彼の言わんとすることはわかる。

『寒い国から帰ってきたスパイ』が大当たりした私のように、運よく早い時期に作家として成功すると、残りの人生にあるのは堕落前と堕落後だけだ。サーチライトに照らされるまえに書いた本を振り返ると、無邪気そのもの。そのあとの本は──気分が落ちこんでいるときには──試練に立たされた男の悪あがきのように見える。「がんばりすぎている」と批評家は声高に言う。私はがんばりすぎているなどと思ったことはない。成功できたのは、自分のなかから精いっぱいのものを引き出そうとしてきたからだと思う。結果が良かろうと悪かろうと、それが私のしてきたことだ。

 そして私は、書くことを愛している。いましていることが好きなのだ。黒雲が垂れこめる5月の早朝、山の雨が窓を激しく伝い落ちているときに、世捨て人のように小さな机についてものを書くことが。傘をさして駅まで走っていく用事はない。《ニューヨーク・タイムズ》の国際版は昼時まで届かない。

 私は気の向くままに書くのが好きだ。散歩しながら、あるいは列車やカフェで思いついたことを書きとめ、家にそそくさと帰って獲物をじっくりと見直す。ハムステッド・ヒースには気に入っている場所があって、よくそこでメモをとる。木立からぽつんと離れたところで枝を広げる木の下のベンチだ。執筆はいつも手書きである。傲慢かもしれないが、何世紀もの伝統がある手書きのほうが性に合っている。私のなかにいる時代遅れの芸術家が、ことばを描くことを愉しんでいるのだ。

 何よりも愛するのは、執筆にあたってのプライバシーだ。だから文芸イベントには顔を出さないし、過去の記録からそうは見えないかもしれないが、できるだけインタビューも受けないようにしている。インタビューなど一度も受けなければよかったと思うことも──たいてい夜だが──ある。まず自分を作らなければいけないし、そうしてできたものを信じなければならない。このプロセスは私の自己認識と相容れない。

 とくに取材旅行の際、現実世界で別の名前を使っていて助かったと思うことがある。ホテルにチェックインするときに、名前が知られていないだろうかと心配しないですむし、逆に知られていないときに、なぜだろうと心配する必要もない。話を聞きたい人にやむなく自分の正体を伝えたときの反応はさまざまだ。まったく信用してもらえないこともあれば、私を秘密情報部の長官に出世させてくれる人もいる。諜報の世界では最下級の役人だったと反論しても取り合ってもらえない──あなたの立場だったら当然否定しますよ、でしょう? そして私が望みもせず、利用もできず、憶えてもいられないような秘密をあれこれ打ち明けてくれる。私がそれを然るべき人物に伝えると思いこんでいるのだ。このまじめだが滑稽な状況については、いくつか例をあげて説明した。

 しかし、こんな調子で過去50年にわたって私の質問攻めに遭った不運な人々──製薬業界や金融業界の中堅幹部から、傭兵や、さまざまな分野のスパイまで──は自制して寛容に接してくれた。なかでもいちばん寛大だったのは、頼りきりの小説家を守ってくれた従軍記者や外国特派員たちで、私のありもしない勇気を褒め、同行を認めてくれた。

 東南アジアや中東に取材を敢行したこともあるが、デイヴィッド・グリーンウェイの助言と先導がなければ、とても実行に踏みきれたとは思えない。彼は《タイム》誌、《ワシントン・ポスト》紙、《ボストン・グローブ》紙の東南アジア特派員で、傑出した経歴の持ち主だ。臆病な新参者がこれほど誠実なスターに連れられて行動すること自体、ありえない話である。一九七五年の雪の降る朝、グリーンウェイはこの山小屋で朝食の席につき、前線を離れて束の間の小休止を愉しんでいた。すると、ワシントンにある彼の事務所からの電話で、クメール・ルージュに包囲されていたプノンペンが陥落寸前という知らせが入ってきた。この村から谷におりる道はない。小さな列車から大きな列車に乗り換え、さらにもう一度大きな列車に乗り換えてチューリッヒ空港に向かうのだ。グリーンウェイはあっという間に登山の装備から従軍記者の薄汚れた服と古いスエードの靴という恰好になり、妻と娘たちに別れのキスをして、駅へと丘を駆けおりていった。私は彼のパスポートを持って追いかけなければならなかった。

 グリーンウェイは、包囲されたプノンペンのアメリカ大使館の屋上から、最後に救出されたアメリカ人ジャーナリストの集団にいたことで有名だ。1981年、私はヨルダン川西岸とヨルダンをつなぐアレンビー橋で赤痢に罹った。グリーンウェイはそんな私を運び出し、しびれを切らして手続きを待っている人々のあいだを抜け、検問所で粘り強く交渉して橋を渡らせてくれた。

 執筆したエピソードをいくつか読み直してみると、そのとき同じ部屋にいたほかの人物を書きもらしていることに気づくが、私のエゴでそうなった場合と、話をぼやかさないためにあえて省いた場合がある。

 まだレニングラードと呼ばれていた街のあるレストランで、ロシアの物理学者にして政治犯だったアンドレイ・サハロフとエレーナ・ボンネルの夫妻と話した。三名の〈ヒューマン・ライツ・ウォッチ〉の担当者の立会いのもとでおこなわれた会見だったが、例によって報道写真家を装ったKGBの部隊が私たちを取り囲み、顔に向けて旧式のカメラのフラッシュを焚くという子供じみた嫌がらせをしてきた。この歴史的な日のことは、ほかの同席者も何かしら書き残しているはずだ。

 二重スパイだったキム・フィルビー(イギリス秘密情報部〔MI6〕に所属し、二十年以上にわたりソ連のスパイとして活動していた。一九六三年にソ連に亡命)の長年の友人で、同僚でもあったニコラス・エリオットがロンドンの私の自宅の客間で、ブランデーグラスを片手に話をしてくれたときには、いまさらながら家内も同席していたことを思い出した。私の向かいの肘かけ椅子に坐って、私と同じくらい彼の話に魅了されていた。

 そう書いていて思い出したことがある。エリオットが奥さんのエリザベスをディナーに連れてきたときだ。じつに感じのいいイラン人の客も同席していて、完璧な英語を話すのだが、ごくわずかな、むしろしっくりくるような言語障害があった。その客が帰ったあと、エリザベスが眼を輝かせてニコラスのほうを向き、興奮気味にこう言った。

「彼がつかえながら話すのに気づいた、あなた? キムそっくりだわ!」

 私の父ロニーに関する長い章は、この本の最初ではなく、うしろにまわすことにした。彼はこの本の冒頭にしゃしゃり出たがるだろうが、私はそうさせたくなかった。さんざん苦労させられた息子の私にとってさえ、ロニーはいまだに大いなる謎だ。母についても同じである。とくに断わらないかぎり、本書の話は新しく書きおろしたものだ。必要と感じた場合には、仮名を使っている。主要人物が亡くなっていて、相続人や譲受人に冗談が通じない可能性もあるからだ。取り上げた話はかならずしも年代順ではないが、テーマに沿って自分の人生に秩序立った道を引こうとしてみた。とはいえ、実際の人生と同じく、その道はとりとめもなく広がることがある。自分にとって思い出にすぎない話も含まれている──それだけで完結した出来事で、何かの方向をはっきりと示すわけでもないのだが、自分にとってはなんらかの意味があるのだ。それらは私を警戒させ、怖がらせ、感動させ、ときには夜中に起こして大笑いさせる。

 時間がたったあとで振り返ると、本書に記したいくつかの出来事は、歴史の小さな一片を現在進行形で目撃したものだったことがわかる。歳をとった人間ならではの感覚だろう。全体を読み返してみると、喜劇になったり、悲劇になったり、どことなく無責任な印象も受ける。理由はよくわからない。ことによると私の人生自体が無責任なのかもしれないが、いまとなっては手の打ちようがない。

 誰の人生でもそうだろうが、私にも決して書きたくないことがたくさんある。私にはふたりの誠実で献身的な妻がいた。どちらにも計り知れないほど感謝していて、謝るべきことも少なくない。私は理想的な夫でも父親でもなかったし、そう見られようと努力することもなかった。愛が訪れたのは、たくさんのあやまちを重ねたあとだった。四人の息子には、こちらが倫理教育をしてもらったようなものだ。ほとんどはドイツでおこなったイギリスの諜報機関の仕事についても、すでにほかのところで他人が不正確に報告していることに、何かつけ加えたいとは思わない。その点、昔の職場に対する古風な忠誠心に縛られているだけでなく、かつて協力してくれた人々への誓約も果たしている。彼らとの秘密保持の約束には、ここまでという期限がなく、子の代、孫の代まで続くと双方が理解している。私たちの仕事は危険でもドラマチックでもないが、従事した者たちには痛々しいまでの内省が課される。彼らがいま生きていようと死んでいようと、秘密保持の約束は続く。

 私の人生には、生まれたときからスパイがついてまわった。C・S・フォレスターに海が、ポール・スコットにインドがあったのと同じようなものだろう。私はかつて親しんだ秘密の世界から出て、われわれが住むもっと広い世界のための・劇場・を作ろうとしてきた。まず想像し、次に現実を探索する。そしてまた想像の世界に戻り、いまここにある机に向かうのだ。

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価格:2,700 円(税込)

原書名:THE PIGEON TUNNEL

ISBN:9784152096746

刊行日:2017/03/09

著:ジョン・ル・カレ

訳:加賀山 卓朗

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