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これが、生産性至上社会への抵抗。『何もしない』発売中

大企業が人々の時間と注意を無断で搾取する注意経済(アテンション・エコノミー)がもっとも恐れているもの、それは、私たちが「何もしない」ことだ。

現代アーティストでスタンフォード大学で講師を務めるジェニー・オデルによる『何もしない』(原題:How to Do Nothing: Resisting the Attention Economy) が、10月5日に刊行されました。

本書から、「はじめに」の一部を公開します。

評価

木澤佐登志 推薦
「無為とともに思考/抵抗せよ。「何もしない」を「する」ために、そして世界を変革するために」
・バラク・オバマ年間ベストブック
・ニューヨーク・タイムズ・ベストセラー



はじめに──有用の世界を生きのびる

救出は、連続する破局のなかにある小さな亀裂を手がかりにする。
──ウォルター・ベンヤミン


何もしないでいることほど難しいことはない。人間の価値が生産性で決まる世界に生きる私たちの多くが、日々利用するテクノロジーによって自分の時間が一分一秒に至るまで換金可能な資源として捕獲され、最適化され、占有されていることに気づいている。私たちは数値評価を得るべく自由時間を差し出し、たがいのアルゴリズムと交流し、個人ブランドを維持する。

なかには、実体験のすべてを能率化、ネットワーク化することにエンジニア的満足感を覚える者もいるだろう。とはいえ、刺激が多すぎて思考の流れが維持できなくなるかもしれないというある種の不安は残る。意識からふと消えてしまう前にそのような不安を捉えるのはたやすいことではないが、実のところそれは差し迫った感情なのだ。人生を意義あるものにしてくれるものごとの多くが、偶然のできごとや、妨害、セレンディピティに由来すると、私たちは今でもわかっている。それは、体験を機械的に処理する視点が排除しようともくろむ「なんでもない時間」だ。

すでに1877年に英国の小説家、ロバート・ルイス・スティーヴンソンは忙しさを「生気の欠けた状態」だとして、「ありきたりの仕事に従事していなければ生の実感がおぼつかない、生きながらに死んでいる凡人が巷にあふれている」と述べている。そう、結局人生はいちどきりなのだ。哲学者のセネカは「生の短さについて」という文章のなかで、過去を振り返ると人生が指の間からこぼれ落ちていることに気づく恐怖について述べている。フェイスブックに夢中になって、ふと気づいたら知らぬ間に1時間経っていた誰かさんのことを言っているみたいだ。

記憶をたどってよく考えてほしいのです......ご自分で何を失っているのか気づかぬままに、いかに多くの人間があなたの人生を奪っていったのか。無益な悲しみ、愚かな喜び、尽きせぬ欲望、社交の誘惑にどれだけのものが奪われ、その挙句あなたには人生の時間がほとんど残されていないということを。すでに自分の人生が尽きかけているということが、おわかりですね。

集団的なレベルではその可能性はより高まる。複雑な思考と対話が要求される複雑な時代に生きていることを私たちは自覚している。そのうえさらに、どこにも見つからないはずの時間と空間まで要求される。無限のつながりという便利さは対面での会話の陰影を巧妙に消し去り、その過程で大量の情報とコンテクストが切り捨てられる。コミュニケーションが阻害される、時は金なりの果てしないサイクルのなかで無駄にできる時間などないに等しく、たがいを見つける方法も限られている。

成果ばかりに価値を置くシステム内では芸術の存続が危うくなるという事実を考えると、それは文化にかかわることでもある。テクノロジーの新自由主義的な明白な運命(マニフェスト・デスティニー)とトランプカルチャーの両方に共通する傾向は、陰影があり、詩的で、はっきりとしないものごとに耐性がないということだ。「なんでもないもの」が許容できないのは、それらを利用したり占有したりすることができず、目に見える成果も出ないからだ(そのような文脈に当てはめると、トランプ大統領が米国芸術基金への資金援助打ち切りに躍起になっていたのは意外でもなんでもない)。20世紀初頭にシュルレアリスムの画家、ジョルジョ・デ・キリコは「非生産的」とされる活動がますます受け入れられなくなる将来を予見している。彼はこう書いている。

われわれの時代が物質主義、実利主義に向かいつつある状況を目の当たりにすると......精神の喜びを追求する人たちが堂々と陽のもとに居場所を求める権利を失う社会が到来するという考えが突飛なものではなくなる。作家、思想家、夢想家、詩人、形而上学者、観察者......謎解きに挑んだり、批評の展開を試みたりする人物は時代遅れの存在となって、魚竜やマンモスのごとく地上から姿を消す運命にある。

本書では、そのような場を陽のもとにとどめておくにはどうしたらいいかを考察する。中国には立派な高速道路をも迂回させる、「ネイルハウス(釘子戸)」と呼ばれる立ち退き拒否の家があるそうだが、本書はそのネイルハウスの頑固さにならい、注意経済にたいする政治的抵抗行為としての「何もしない」を実践するためのフィールド・ガイドだ。本書はアーティストや作家だけに向けたものではなく、人生とは手段以上のものであって、それゆえ最適化されないと考えるすべての人に向けて書いた。

私の議論の原動力となっているのは単純な拒絶だ。それは、自分にとっての「今・ここ」や周囲にいる人たちだけではなんとなく物足りないと考えることの拒絶だ。フェイスブックやインスタグラムのようなプラットフォームは、私たちが自然に抱く他人への興味や、年齢に関係なくコミュニティを求める気持ちにつけこむダムのような存在で、人間のもっとも根源的な欲求を乗っ取って欲求不満にさせ、そこから利益を得ている。孤独、観察、シンプルな自立共生(コンヴィヴィアリティ)は、それじたいが目的や結果なのではなく、幸運にもこの世に生を享けた者ならだれもが持つ不可侵の権利だと認識されなければならない。

私が本書で提案する「何もない(nothing)」とは、資本主義的な生産性の観点から見た場合の「何もない」に限定されるという事実が、『何もしない』というタイトルを冠する本がなぜか行動計画らしきものになっている皮肉を説明している。本書では以下の一連の動きに注目してみたい。

ひとつめは、ドロップアウトすること。これは1960年代の「ドロップアウト」とたいして変わらない。ふたつめ、私たちの周囲のモノや人へと横方向に向かう動き。みっつめ、下降して所定の位置に収まる動き。現在のテクノロジーのほとんどが、内省、好奇心、コミュニティに属したいという欲望を釣り上げるための疑似ターゲットを内包するデザインになっているので、油断すると私たちの歩みはことあるごとに妨害される。何らかの逃避に憧れている人がいたら、聞いてみるといい。そもそも「大地に帰る」とはどういうことなのか? 大地とは私たちが今まさにいるこの場所のことでは?「拡張現実」というのは、受話器をもう持ち上げなくてもよくなるということだけを意味するのだろうか? それでは、そういう状態になったときにあなたが対峙するモノ(もしくは人)とはいったい何/誰なのか?

本書は新自由主義的な決定論がはびこる荒涼とした景観のなかに埋もれた、曖昧さと非効率性の源泉を探る試みだ。それは手軽な完全栄養代替食のソイレントが幅を利かせる時代に、四品からなるコース料理を出すようなものだ。だが、何かをやめてみたり、ペースを落としたりすることへの誘いのなかに、読者にいくらか安らぎを見出してほしいと思ってはいるものの、週末限定のリトリートだとか、ただ創造性について論じる本として終わらせるつもりはない。

私が定義する「何もしない」の重要なポイントは、リフレッシュして仕事に戻ったり、生産性を高めるために備えたりすることではなく、私たちが現在「生産的」だと認識しているものを疑ってかかるということだ。私の主張が反資本主義なのはまぎれもない事実であり、時間、場所、自己、コミュニティを資本主義の観点から捉えるよう促すテクノロジーにたいしてはとりわけ警戒している。

それはまた、環境や歴史にかかわることでもある。私は注意の矛先を変え、深めることを提案しているが、そうすれば自分が歴史に人間以上のコミュニティの一員として参与しているという意識が生まれるだろう。社会的視点、エコロジカルな視点、どちらから見ても、「何もしない」の究極の到達点とは、注意経済(アテンション・エコノミー)から私たちの注意を奪還して、それを公的で物理的な領域に移植してやることなのだ。


著者紹介

ジェニー・オデル

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著者写真©︎Ryan Meyer

アーティスト・作家。スタンフォード大学講師。バードウォッチング、スクリーンショットの収集、おかしな電子商取引の解析など「観察」をともなう作品を多く発表し、フェイスブック、インターネット・アーカイブ、サンフランシスコ都市計画局、レコロジーSF(ゴミ収集業者)など多様な団体で招聘アーティストとなった。アメリカ国内のほか、パリ、中国、ドバイなどでも展示が行われている。オークランド在住。

翻訳/竹内要江
翻訳家。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。訳書にホーキンズ『階上の妻』、ムーア『果てしなき輝きの果てに』(以上早川書房刊)、スタンパー『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』(共訳)、梅若マドレーヌ『レバノンから来た能楽師の妻』ほか多数。

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