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ミステリ界の巨匠、最高傑作! エラリイ・クイーン『災厄の町〔新訳版〕』飯城勇三氏によるnote版解説 全文公開!

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現在大好評発売中のハヤカワ・ミステリ文庫のエラリイ・クイーン新訳版4部作。それぞれの巻に収録された。クイーン研究家・飯城勇三氏による巻末解説を全冊分順次公開いたします! 原本での真相に触れる部分のかわりに、note版だけでしか読めない新しいトピックをそれぞれ書き下ろしていただきました! 今回はライツヴィルもの第一作にして四部作の始まりである『災厄の町』です!

解説 クイーンの最高傑作

エラリイ・クイーン研究家 飯城勇三    

その刊行──新天地へ


「ある時われわれは、これまで書いた中で最高と自負する作品を書きました。『災厄の町』という題名の本です」──これは、エラリイ・クイーンの片割れであるフレデリック・ダネイが、一九七九年にキャロル大学で講演した際の言葉。つまり、本作は、作者自身がその時点でのベストだと認めていることになります。
 ①災厄の町 ②Yの悲劇 ③Xの悲劇 ④九尾の猫 ⑤エジプト十字架の秘密──これは、アメリカのクイーン研究誌The Queen Canon Bibliophile が一九七一年に行った長篇ランキングの結果で、F・M・ネヴィンズ・ジュニアやJ・L・ブリーンといった熱心なクイーン・ファン十二人が投票しています。つまり、本作は、アメリカのクイーン・ファンが、全長篇の中のベストだと認めていることになります。
 自他共に“最高傑作”だと認める『災厄の町』。しかし、当時の評価は否定的でした。探偵エラリイものを刊行前に(高額の原稿料で)先行掲載してきた高級雑誌が、本作を拒絶したのです。理由は明らかにされていませんが、おそらく、クイーンの人気の高さが裏目に出たのでしょう。
 この時期のクイーンは、本はベストセラーになり、有名雑誌に掲載され、映画化され、漫画化され、ラジオドラマは大人気でした。しかし、その数多いファンがクイーンに期待するものは、「軽妙で卓越したパズル」だったのです。本作のように警視たちレギュラー陣は登場せず、地方都市が舞台となり、殺人がなかなか起きず、重い人間ドラマが展開、となると、雑誌社が二の足を踏むのは当然でしょう。
 しかし、クイーンは妥協しませんでした。一九四二年、高額の原稿料を払う高級雑誌を切り捨て、最初から単行本で出したのです。──まあ、その次の『靴に棲む老婆』は、まさに当時のクイーン・ファンが期待する内容に戻っているのですが。

その魅力──ライツヴィルにようこそ!


 では、クイーンが雑誌社の期待に背いてまで発表したのは、どのような作品だったのでしょうか? 答えは、副題にありました。国名シリーズなどの〈A Problem in Deduction
(ある推理の問題)〉が、本作では〈A Novel〉となっているのです。この単語には、本書のように「長篇小説」という意味もありますが、クイーンの思いは「文学」なのでしょう
(ただし、「文学=非ミステリ」ではありません。ポーのミステリなどは、「文学」と言われていますから)。クイーンは戦後、「国名シリーズのようなパズル小説の時代は終わった」という意味の発言をしているので、この〈A Novel〉には、新たなステージに向かおうとする意気込みが表れているわけです。
 では、クイーンが考える〈Novel〉とは、どのような作品だったのでしょうか? それは──ありふれた表現ですが──「人間を描くミステリ」だと思われます(ただし、その“描き方”は、ありふれてはいません。この点は最後に述べます)。人間を描き、人間関係を描き、人間の起こした事件を描き、事件によって変わる人間や人間関係を描くことが、クイーンのやりたかったことだったのでしょう。実際、本作の登場人物は、誰もが生き生きと魅力的に描かれています。ライト家の女性陣と、国名シリーズの“金持ちお嬢様”を
比べてみれば、違いは明らかでしょう。
 ただし、描写という観点から見て、最も生き生きと描かれているのは、ライツヴィルという架空の町に他なりません。クイーン自身も手応えを感じたらしく、その後も、いくつもの長短篇でライツヴィルを舞台にしています(シリーズ第四長篇『ダブル・ダブル』では、ついに地図が付きました。本書の地図はその流用です)。その中では、過去作の重要人物の「その後」が語られたり、同じ人物が別の役割で再登場したり、町並みが少しずつ変わっていったり、会社の経営者が交代したり、と〈ライツヴィル年代記〉が積み重ねられていくのです。ニューヨークという同じ舞台を用いながら、クイーン家と捜査関係者以外は一人も重複して出て来ない国名シリーズと比べてみれば、違いは明らかでしょう。
 しかし一方で、「『災厄の町』は従来のクイーン作品の延長上にある」という見方も存在します。例えば、一九三六年の『途中の家』には、「都会と田舎」、「優柔不断な男と二人の女」、「エラリイが弁護側に立つ裁判」といった本作と共通するテーマが出て来ますし、新聞記者のエラ・アミティは、本作のロバータのプロトタイプでしょう。また、短篇「見えない恋人の冒険」(『エラリー・クイーンの冒険』収録)や、ラジオドラマ「死せる案山子の冒険」(『死せる案山子の冒険』収録)も、本作の要素のいくつかを先取りしていますし、『Zの悲劇』のペイシェンス・サム(愛称パット)は、本作のパトリシア・ライト(愛称パット)のプロトタイプでしょう。
 ミステリ部分を見ても、本の梱包状態が判明した瞬間に一気に推理が展開される手法は、『オランダ靴の秘密』の書類戸棚のくだりを彷彿とさせます。また、法月綸太郎氏は、評論「一九三二年の傑作群をめぐって」(『複雑な殺人芸術』収録)の中で、本作のプロットが『Yの悲劇』の変形であると指摘しています。
 さて、みなさんはどう考えますか? まったく新しい作風なのでしょうか? それとも、従来の作風を発展させたものなのでしょうか?
 最後に、ファン向けの小ネタを二つ。
〔その1〕ライト夫人の名前「Hermione」は、旧訳では「ハーミオン」となっていましたが、映画の〈ハリー・ポッター・シリーズ〉を観た人なら、本書の「ハーマイオニー」が正しい発音だと気づいたと思います。クイーンの短篇「七匹の黒猫の冒険」(『エラリー・クイーンの冒険』収録)には「ハリー・ポッター」が登場するので、これで、カップルがそろったわけですね。
〔その2〕ジムの姓「Haight」も、旧訳では「ハイト」ですが、本書の「ヘイト」が正しい発音。第21章でロバータが命名したように、この発音は「ヘイト・スピーチ」などの「Hate」と同じなのです。つまり作者は、「ライツヴィルでは“よそ者”は憎悪(Hate)の対象」だと言いたかったのでしょう。


その映画──「この秋、ミステリアス・ラブをあなたに」


 本作は日本で映画化され、「配達されない三通の手紙」という題で、一九七九年に公開されました。監督は野村芳太郎で、脚本は新藤兼人。舞台は山口県の萩に変えられ、エラリイ役の蟇目良は“日本文化を学びに来た日系三世”という設定に変更。他の配役は、佐分利信&乙羽信子(ライト夫妻)、小川真由美=現・眞由美(ローラ)、栗原小巻(ノーラ)、神崎愛(パット)、片岡孝夫=現・片岡仁左衛門(ジム)、松坂慶子(ローズマリー)、
竹下景子(ロバータ)、渡瀬恒彦(カート)と、なかなか豪華です。
 内容は、驚くほど原作に忠実──なのに、驚くほど原作からかけ離れた感じを受けます。これは、二つの大きな要素が変えられているためです。
 一つめは、舞台を実在の町に変えたため、「名士のスキャンダルに牙をむく残酷な町」という原作の重要な要素が使えなくなったこと(題名の変更も同じ理由だったそうです)。原作における裏の主人公“町”が、単なる舞台になってしまったわけですね。
 二つめは、ある人物の脅迫の動機を「金」から「愛」に変えたため、物語がドロドロした男女の愛憎劇になってしまったこと。しかも、原作では簡単に触れているだけの過去の出来事を、わざわざ北林谷栄まで出して延々と描いています。これは、野村監督が松本清張の『砂の器』の映画化でもやった脚色ですが、クイーン作品には合いませんねえ。
 ミステリとしても、最も重要な「本の梱包状態の手がかり」がカット、毒殺の不可能状況を確認する裁判シーンもカット、とあまり誉められたものではありません。
 とはいえ、ライツヴィルものを日本に置き換えるという難題に挑戦した製作者も、クイーンの綱渡りのような危ういプロットを映像化するという難題に挑戦した監督と脚本家も、複雑で深くて二面性のある作中人物を演じるという難題に挑戦した俳優も──ハードルの高さを考慮するなら──そこそこの成果は収めたと言っていいのではないでしょうか。原作を読んでいるみなさんならば、かなり楽しめると思います。映画のパンフレットにも「日本アカデミー賞コンビ、野村芳太郎監督と新藤兼人(脚本)は、昨年『事件』を撮り終えたとき、『第2弾はエラリイものがいいんじゃないか?』と話し合ったのが、この映画の誕生のきっかけとなった」とあるので、少なくとも監督と脚本家は、クイーン・ファンだと思われますから。


その来日──災厄を呼ぶ宝石

 本作の初訳は、《宝石》誌一九五〇年三月号に一挙掲載された妹尾アキ夫訳『災厄の町』。全30章が25章に縮められていて、七割弱の抄訳になっています。添えられた江戸川乱歩氏の解説の中に興味深い一節があるので、引用しましょう。


 妹尾君の筆はこの原作によく合つてゐると思ふ。以前のトリッキイなクヰーンはこの譯者に向かなかつたかも知れないが、「災厄の町」のやうな滋味のある作風は妹尾君にはうつてつけである。恐らく名譯になるだらうと思ふ。


 しかし、残念ながら、妹尾訳は、本作のトリッキイな仕掛けを理解していませんでした。
本書第10章のジムの寝言「妻だ、ぼくの妻、あの女、ちくしょう、憎らしい妻……」を、「ノラの奴、仕様のない奴……」と訳しているのですから。なお、この誤訳は、同年に出た新樹社の〈ぶらっく選書〉に収められた時にも残り、一九五六年のポケミス版で、ようやく修正されました。
 また、本作は、一九六〇年に新潮文庫から『ライツビルの殺人事件』という題でも出ていますが、こちらの能島武文訳では、「私生児をやっつけてやる」と訳されています。おそらく、原文の「bastard(本書の訳は「くそったっれ」)」を直訳したと思われますが、これではミスリードにならないですね。
 最も読まれている青田勝訳は、こういったミスのない立派な訳ですが、原書にポケットブック版を用いているという欠点があります。この版は、(おそらくはページ数を抑えるため)改行を減らしたりして、長さを縮める処理がなされているのですよ。

その舞台――カルガリーのライツヴィル


 二〇一六年、『災厄の町』がカナダのカルガリーで舞台化されました。〈カルガリー劇評家賞〉の最優秀新作脚本部門を受賞したその傑作脚本を書いたのは、ジョゼフ・グッドリッチ。彼は〈エドガー賞〉の最優秀舞台脚本部門を受賞した他、クイーンの熱烈なファンとしても有名で、創作をめぐるダネイとリーの往復書簡集(邦訳は国書刊行会から刊行予定の『エラリー・クイーン 創作の秘密』)を編纂し、クイーンの贋作を書き、クイーンに関するエッセイをいくつも執筆。その一つでは、当初は『フォックス家の殺人』の舞台化を考えていたこと(この作が現在と過去の二つの時間軸を持っている点に惹かれたらしい)や、ソーントン・ワイルダーの舞台劇『わが町』の演出(舞台には机や椅子などしか置かない)を参考にしたことなどを語っています。
 脚本はハヤカワミステリマガジン二〇二一年三月号に訳載。小説と読み比べてみると、原作を尊重しつつもコンパクトにまとめていることがわかると思います。『配達されない三通の手紙』ではカットされた裁判シーンも、しっかりと舞台化されていました。大きな変更は、ロバータの扱いを変えたことくらいでしょうか。みなさんも、ぜひ読み比べてください。