商談にも夫婦ゲンカにも効く! 元FBI交渉人が語る極意とは?『逆転交渉術』(6月5日発売)訳者あとがき公開
クリス・ヴォス『逆転交渉術――まずは「ノー」を引き出せ』を本日、早川書房より刊行します。
著者は、元FBIの人質交渉人。現在はトップ企業へ交渉トレーニングと助言を提供しています。さまざまな誘拐犯やテロリストと対峙してきた著者の技法は、交渉術の本場ハーバードの教授すらも驚かせました。
「人生は交渉である」という著者の言葉のとおり、『逆転交渉術』は、商談から上司の説得、夫婦ゲンカにまで効きます。
その主なテクニックを、訳者の佐藤桂さんが紹介します。
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訳者あとがき
FBIの首席交渉人として、あまたのテロリストや立てこもる誘拐犯らと対峙してきた著者。厳しい現場での経験によって培われた独自の交渉技術を、全米トップクラスのビジネススクールで育まれた理論とすりあわせ、この上なく痛快な交渉術を作りあげた。そのエッセンスを紹介したのが本書『逆転交渉術――まずは「ノー」を引き出せ』である。
そうはいっても普通の人間としては、人質の命をかけた交渉の矢面に立つようなことは、一生ごめんこうむりたい。武装した犯人グループから人質をぶじに奪還するための交渉術なんて、わたしたちの仕事や生活と無関係のはずだ。ところが著者は言う。「人生は交渉である」。ほしいものを手にいれたり、要求を通したりしたいときには、必ず相手がいるからだ。有利に契約を結ぶための駆け引き、昇給のための面談、店頭での価格交渉はもちろん、家庭内のしつけや問題解決まで、人とのやりとりはどれも交渉であり、結果をともなうコミュニケーションである。そうしたやりとりを円滑に運び、最終的に自分の望みをかなえるためのメソッド、それが本書の交渉術だ。著者は、誘拐犯もビジネスマンだと言っている。相手からよりよい条件を引き出すために交渉しているのは同じだからだ。
自分の望みどおりにしたいなら、相手を説得するしかない。これまでの交渉術といえば、『ハーバード流交渉術』に代表されるような、相手に「イエス」と言わせることをゴールに、論理的に問題を解決していくものだった。しかし、本書はその真逆を行く。まずは「ノー」と言わせ、相手の感情に寄り添うことで、そのゴールをめざそうというのである。
「ノー」といったら拒否に決まっている。嫌われ者の「ノー」がどうして不可欠なのか、理詰めの問題解決ではなく感情に焦点を当てることがどうして重要なのか。思わず膝を打つような新しいルールを、ぜひとも知っていただきたい。
本書では、著者が人質交渉人として実際に体験した交渉のエピソードをいくつか紹介している。武装した銀行強盗や南米のゲリラとのにらみ合いの緊迫感、フィリピンのテロリストとの戦いで身にしみた無力感、人生相談ボランティアの苦い思い出など、興味深いストーリーばかりだ。しかも、必ずしもすべてが成功物語ではなく、なかには取り返しのつかない大失敗もあった。
FBI時代の著者には、この「失敗」が許されなかった。失敗すれば人が死んでしまうからだ。そこで、交渉人たちの経験にもとづく感覚的な手法を、必ず機能するツールとして確立させる必要があった。そのために、この「カンザスシティのパトロール警官あがり」の著者は、高名な教授陣やエリート学生らが集まるハーバード・ロースクールへ赴いた。やがて、みずからの交渉術がテロや犯罪の現場だけでなく人生のあらゆる場面で通用することを確信し、そのツールを完成させるにいたったのである。
ツールについては本文中で詳しく解説されているが、印象的なのはこちらの主張を一方的に押しつけないという点で、それは終始徹底している。交渉の流れをたどりながら、おもなものを拾い出してみよう。
まずは〈アクティブ・リスニング〉(積極的傾聴)である。〈ミラーリング〉というテクニックで相手のことばを鏡のように、あるいは鸚鵡返しのように反復し、しばし沈黙することでその先を促す。相手からの信頼を得ながら情報を収集できる、確実な手法だ。またそんなときには相手の心を鎮めるような〈深夜のFMラジオDJの声〉を使う。話の中身だけでなく、声のトーンや表情、身ぶりなどの非言語的なコミュニケーションも大切だからだ。
つづいて、相手の感情をくみとって言語化する〈ラベリング〉によって、こちらが共感を寄せていることを示す。また、相手から非難されそうな点は、事前に洗い出しておいて〈非難の聴取〉によって対処する。先まわりしてこちらが口に出すことで、相手の感情はだいぶ弱められるはずだ。
そして、交渉の進展の鍵として「そのとおりだ」、「ノー」と答えさせることの重要性も説く。実際にはこちらが主導権を握っているのに、やりとりをコントロールしているのは自分だと相手に錯覚させ、安心感を与えるテクニックである。さらには、相手からの要求に対し、「どうしたら」、「どうやって」など、イエスかノーかでは答えられない質問を返すことで、こちらの問題を相手に考えさせるという手法も使う。こうした質問はまさしく〈狙いを定めた質問〉と呼ぶにふさわしい。無理だ、できないと突っぱねるのではなく、直接「ノー」と言わずに穏やかにノーを伝えながら、相手をこちらの思う方向へ誘導できるからだ。たとえば巨額の身代金を要求されたとき、「どうしたらそんなにたくさん用意できるのか」という質問で返せば、誘拐犯のほうが考えをめぐらせ、歩み寄るかもしれない。ところで「どうしたら」、「どうやって」という質問と「なぜ」からはじまる質問は、似ているようで異なる。「なぜ」という質問は、ともすると相手を非難しているように聞こえかねないので、細心の注意が必要だと著者は言っている。
それから、現実の数字や事実ではなく、相手の感情に的を絞ってアンカー(錨)を打ちこむ。アンカーで固定されると、「論理的」で「公正」な事実よりもむしろ「不合理な感情」に左右されざるを得なくなる。感情に働きかけて事実の認識を変えさせる細やかなテクニックには、なるほどとうなずかされる。
ようやく相手に「イエス」と言わせたあとも油断しないこと。「イエス」は確約だけでなく、その場しのぎに使われることもあるからだ。誠実で嘘いつわりのない、実現可能な「イエス」を確保するために、押さえておくべきポイントも詳しく述べている。
ここまで、交渉では相手の話に耳を傾け、できるだけ多くの情報を収集・分析することの重要性を述べてきた。知らなかった情報は引き出して、知り得た情報は吟味する。しかし最後に、まだ隠されている情報を見つけなくてはならない。それが〈ブラック・スワン〉だ。ブラック・スワンとは、そこにあるとは思いも寄らなかった決定的な要素である。表面化すれば、状況を一変させる恐れがある。このブラック・スワンを見つけるにはどうしたらいいか、そのヒントも書かれている。
こうした強力なツールの数々をうまく活用し、著者や教え子たちが交渉に成功した事例も多数紹介されている。車やシャツの値引き、飛行機の座席の確保、希望する部門への異動などは人質交渉よりもずっと身近な例なので、多くの読者に役立てていただけるのではないかと思う。交渉は「ほかの人間を自分のやり方に従わせる技術」だといわれるが、まったくそのとおりだ。たとえば飛行機の座席確保に成功したライアンという男性の作戦は、ぜひ実践したい。ただ怒りにまかせて主張するばかりの人とは、引き出せる結果に大きな差が生まれるのだ。
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『逆転交渉術』(クリス・ヴォス、タール・ラズ、佐藤桂訳、46判並製、定価1800円)は早川書房より刊行中です。