「夢の新薬」を追い求めて――『新薬という奇跡』訳者あとがき
人類を救う特効薬やワクチンはどのように生まれるのか? その舞台裏を描く『新薬という奇跡 成功率0.1%の探求』が刊行されました(単行本時タイトル=『新薬の狩人たち 成功率0.1%の探求』)。
本書の翻訳者であり、医薬品の研究開発に携わったご経験をお持ちの寺町朋子さんによる訳者あとがきを公開します。
『新薬という奇跡 成功率0.1%の探求』
ドナルド・R・キルシュ&オギ・オーガス/寺町朋子訳
ハヤカワ文庫NF
ISBN:9784150505752
定価1,254円(10%税込)
推薦:仲野徹(大阪大学大学院教授)
解説:佐藤健太郎(サイエンスライター)
カバーデザイン:坂野公一(welle design)
■訳者あとがき 「夢の新薬」を追い求めて
生きているあいだに一度も薬と縁がないという人は、おそらくいまい。命を救ったり苦しみを和らげたりと、私たちの暮らしに欠かせない薬。そのような薬の恩恵を受けられるのは、古今の非凡な新薬の狩人(ドラッグハンター)──現代の言葉では新薬探索研究者──が果敢な挑戦をしてきたからにほかならない。本書『新薬の狩人たち──成功率0.1%の探求』(※編注:単行本時タイトル、原題はThe Drug Hunters : The Improbable Quest to Discover New Medicines)は、ベテランのドラッグハンターである著者が、偉大なドラッグハンターたちに焦点を当てながら新薬探索の歴史を綴ったものだ。
薬はどうやって生まれるのだろう? 昔は、植物の根や葉を手当たり次第に口にする試行錯誤が頼りだった。むろん、薬はそう簡単には見つからなかった。では、科学技術が高度に進んだ現代はどうかといえば、創薬の中心的なプロセスは相変わらず試行錯誤──膨大な数の化合物のスクリーニングだ。そのため、新薬の探索はやはりきわめて難しく、「難易度」は有人月面着陸や原子爆弾の設計よりはるかに高いと著者は述べる。しかも、スクリーニングを経てようやく新薬候補が見出されても、それの人間における本当の作用は、臨床試験で人間が実際に試してみるまでわからない。というわけで、総じて創薬は失敗のリスクが高い。新薬開発には10年以上の期間、1000億円規模の費用がかかり、新薬候補が製品化される確率は約3万分の1といわれている。
では、創薬の難しさをドラッグハンターの立場で見ると、どうだろうか。本書によれば、ドラッグハンターが提案した創薬プロジェクトのうち経営陣から資金が提供されるのが5パーセント、そのなかで新薬発売にこぎつけるのは2パーセント。つまり、ドラッグハンターが薬で人間の健康を改善できる見込みはわずか0.1パーセントしかない──本書のサブタイトルはこの数値に由来する。高度な教育を受けて最先端の研究所で働くドラッグハンターの大多数が、全キャリアを通じて新薬を一つも世に送り出せない。ドラッグハンターたちは、そんな厳しい闘いに挑んでいるのだ。
本書ではまずイントロダクションで、新薬探索における試行錯誤の比喩として、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの小説「バベルの図書館」が引き合いに出される。ボルヘスは次のような架空の図書館を思い描いた。無数の六角形の部屋があらゆる方向に無限に連なり、各部屋の棚には、ランダムな文字の組み合わせからなる本がぎっしりと並んでいる。本の中身は一冊ずつちがい、ほとんどはナンセンスだ。しかし、判読できて叡智に満ちた本もごくまれにあり、司書たちがそれらを探して館内をさすらう。ただし、ほとんどの者は、一生かかってもそのような本にめぐりあえない。
製薬企業は、さまざまな構造の化合物からなるコレクションをもっている。それは「化合物ライブラリー」と呼ばれ、大手のライブラリーには数百万種類もの化合物が含まれている。著者は、化合物ライブラリーからスクリーニングによって新薬の種が見出されることを、バベルの図書館で無数の無意味な本から価値ある本が偶然取り出されることに重ね合わせ、ドラッグハンターを司書になぞらえる。
さて、第1章から第5章では、錬金術が盛んだったルネサンス期から近代科学の発展とともに変遷してきた20世紀はじめまでの新薬探索の歴史が示される。かつては、ほとんどの薬が植物から見つかった(これは漢字の「薬」に草冠が使われていることにも表れている)。植物由来の薬からは、最古の部類の薬としてアヘン、次にマラリア治療薬(キニーネ)が取り上げられる。続いて、薬の大量製造時代の先駆けとなった吸入麻酔薬(エーテル)、合成化学による鎮痛薬(アスピリン)、初の設計された薬である梅毒治療薬(サルバルサン)が紹介される。第4章では、ロシュ社やノバルティス社、メルク社といった世界に名だたる製薬企業の多くが、スイスやドイツを流れるライン川沿いにある理由が明かされる。
第6章から第9章では、抗菌薬(スルファニルアミド)のシロップ剤が多くの死者を出した事件を機に、やりたい放題だった薬の開発に規制がかけられるようになった経緯や、近代薬理学の誕生、微生物由来の抗菌薬(ペニシリン)やバイオ医薬品第一号(インスリン)の開発秘話が語られる。
第10章以降の終盤では、疫学研究をもとに開発された高血圧治療薬(チアジド系利尿薬、β遮断薬、ACE阻害薬)、大手製薬企業以外で見出された経口避妊薬(ピル)、まぐれ当たりで生まれた統合失調症治療薬(クロルプロマジン)、抗うつ薬(イミプラミン)の開発物語などを経て、ドラッグハンターの今後が展望される。巻末の原注も大変充実しており、ミートゥードラッグ、アルコールと薬のちがい、薬の虚偽表示問題、開発続行/中止の決断、サリドマイド禍、ノーベル賞に絡む裏話、抗精神病薬開発の難しさなど、多彩なトピックスが盛りこまれている。理解を深めたい読者には、ぜひ本文とあわせて一読をお勧めしたい。
本書に登場する薬をざっとあげたが、著者がドラッグハンターのありのままを伝えたいと意気ごんだだけあり、本書には新薬の探索をめぐる人間ドラマが生き生きと描かれている。たとえば、第3章に麻酔薬としてのエーテルの物語がある。現代人には麻酔なしの手術などとても想像できないが、手術用麻酔薬が生まれてからまだ150年ほどしか経っていない。本書では、手術で初めてエーテルが使われたときの息詰まる場面が切り取られており、麻酔薬が当時の人びとをいかに驚嘆させたのかがよく伝わってくる。
後半では、糖尿病の治療薬インスリンをイヌから初めて抽出したフレデリック・バンティングの物語が目を引く(第9章)。仕事上の不運が重なったせいで、彼は周囲の人間を、自分の手柄を横取りしようとする邪魔者と見なすようになった。そんなバンティングの屈折した人生が浮き彫りにされる。もう一つ、ピルにも触れておきたい(第11章)。ピルの使用率は、日本では欧米にくらべて低いが、ピルは女性の機会を拡大し、社会や経済に大きな影響を与えた。この章では、型破りな一匹狼の化学者や女性解放運動家などの風変わりな面々が織りなした異色のコラボレーションが描き出されており、読み応えがある。
創薬は、人を助けることに結びつく尊い仕事だ。とはいえ、成功が莫大な利益につながる可能性もあることから、その過程では競争、確執、駆け引き、金目当ての思惑、一か八かの賭けなど、いろいろな要素が交錯する。著者はドラッグハンターについて、プロのポーカープレイヤーに似ており、勝負を有利に運べる知識や技術を備えているが運に翻弄されると形容している。その言葉どおり、本書では驚きの展開にいくつも出会えるだろう。
また、業界を内側から知っている著者ならではの記述も読みどころだ。本書には、ドラッグハンターの体を張った取り組みや倫理基準を逸脱した大胆すぎる行動に加えて、著者自身の体験も織り交ぜられている。その一つが、巨額の費用がかかる臨床試験の前に、新薬候補をみずからが服用してみたというエピソードだ(訳者は企業で新薬探索部門にいたころ、同様の話を耳にしたことがある。あくまでも、根も葉もない噂のレベルだったが)。著者は巨大製薬企業の研究姿勢に対する警鐘も差し挟んでおり、命を助けることでビジネスをする、裏を返せば、薬に対するニーズはあっても儲からない分野には手を出したがらないという製薬業界の皮肉な側面も垣間見える。
さて、本書に登場する薬のなかには、活躍中の日本人ドラッグハンターと関係の深いものも多い。2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智北里大学特別栄誉教授は、微生物由来の有用な物質を数多く発見し、抗寄生虫薬・抗菌薬を実用化して毎年数億人を救っている(第8章)。ガン免疫療法として脚光を浴びている抗体医薬「オプジーボ」の生みの親は本庶佑京都大学特別教授だ(第9章)。「スタチン系」と呼ばれるコレステロール低下薬を最初に発見した遠藤章氏(イントロダクション)、高血圧治療薬のカンデサルタン(アンジオテンシン・受容体拮抗薬)の合成研究を牽引した仲建彦氏(第10章)など、企業に所属する研究者も多くいる。
創薬の基盤となる医学や科学の進歩は目覚ましく、iPS細胞、ゲノム編集、人工知能(AI)など、創薬への応用が見こまれる技術が注目を集めている。そのような新技術によって、創薬の合理化や効率化は進むはずだ。それでも著者が指摘するように、新薬の探索でドラッグハンターの創造性が大きな鍵を握るのはまちがいないだろう。生活習慣病向けの薬はひととおり出そろったともいわれるが、ガンやアルツハイマー病をはじめ、治療薬が待ち望まれている病気はたくさんある。現在、研究に邁進しているドラッグハンターたちの成果が見えてくるのは10年以上先かもしれないが、画期的な薬が生み出されることを期待したい。
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本書の文庫化(文庫版タイトル『新薬という奇跡──成功率0.1%の探求』)にあたり、訳者あとがきに言葉を少し加えたい。
約3年前の2018年6月に本書の単行本が刊行されたとき、訳者あとがきの最後にこう書いた。「生活習慣病向けの薬はひととおり出そろったともいわれるが、ガンやアルツハイマー病をはじめ、治療薬が待ち望まれている病気はたくさんある」。これ自体は2021年現在もあまり変わっていないように思えるが、「治療薬が待ち望まれている病気」という点で、当時とは大きく変わったことがある。そう、言うまでもなく、新型コロナウイルス感染症(COVID-19、新型コロナ)が出現したことだ。それによって私たちの社会は様変わりした。今の日常は、3年前、いや、わずか1年半前でも想像すらつかなかったものとなっている。
本書では、新薬開発の歴史をたどるなかで感染症も取り上げており(おもに第8章)、そのなかに、製薬業界は感染症治療薬の開発に後ろ向きになりつつあるという話題がある。薬の開発には膨大な費用がかかるが、一生服用しなければならない生活習慣病の薬や収益性の高いガンの治療薬などとは違い、感染症の薬(抗菌薬や抗ウイルス薬)は基本的に一定期間だけ服用すればよく、ワクチンの使用機会はさらに少ないとあって、利益の面で魅力に欠ける。そのようなことから、製薬企業では感染症分野の優先度が下がってしまったのだ。著者はこうした背景を説明したうえで、感染症の危機が高まりつつあることを指摘し、製薬企業の姿勢に疑問を呈している。そして実際、このたびのコロナ禍は感染症の脅威を世界に突きつけた。
この危機を乗り越えるため、製薬業界は昨年から猛然と動き出した──今こそ、その社会的使命を果たすべきだという声も業界内外から聞こえてくる。その結果、なんと昨年のうちにワクチン(第9章のバイオ医薬品の部類に入る)が開発され、日本でも今年二月に接種が始まった。ただ、ワクチンは感染拡大を抑える切り札とされるものの、それで新型コロナ対策が完了するわけではない。発症の予防から重症化の阻止、厄介な後遺症の治療までが可能になって初めて、この病気はそれほど怖いものではなくなる。
では治療薬の開発状況はどうかと言えば、安全性が確認されている既存薬の転用が先行しており、新規医薬品の開発競争も加速している。特効薬はまだないので、その開発が待たれるところだが、こうした動向について少なくとも言えることは、薬の開発が従来の常識を覆す異例のスピードで進みつつあるということだ。まず、効果の高いワクチンが一年未満で登場した。新薬でも、すでに臨床試験(治験)の終盤に進んで実用化が近そうなものが出てきている。これがいかにすごいかというのは、本書を読んでくださった方々にはおわかりだろう。
現在、第二次世界大戦以降で最大の試練と言われるコロナ禍を前に、医療従事者の方々は最前線で奮闘を続けているが、まさに今、ドラッグハンターたちは世界中の人びとを救うため、創薬に全力で挑んでいる──彼らも、このウイルスとの闘いの最前線にいるのだ。本書で著者は、新薬開発の困難さを強調する一方、次のようにも述べている。「本当に驚くべきなのは、重要な薬を見出すことにおいて、人間がいかに成功を収めてきたかという点だ……私たちは、病気の多くに対する治療薬が見つかると期待できる世の中で暮らしている」。この言葉を、そしてドラッグハンターたちの創造力を信じたい。
2021年4月 寺町朋子