原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第35章
ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。
刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。
本日は第35章を公開。
『そして夜は甦る』(原尞)
35
翌日、私は国電を利用して〈東京都庁〉へ出かけた。都庁の第一庁舎は千代田区丸の内の東京駅から南へ約五百メートルのところにあった。最新のビルを構えたがる公共機関にしてはめずらしく、三十年前に建ったオンボロな八階建の庁舎だった。私は正面右側にある玄関を通って、岡本太郎の壁飾りのある一階のロビーへ入った。芸術だそうだ。私に言わせれば児戯に類するがらくただったが、そんなものを見物に来たわけではなかった。退屈そうな受付の女性に目的の場所を訊ね、エレベーターに乗って中二階で降りた。議会庁舎への連絡通路の見える喫煙所で、錦織警部が待っていた。 「三分遅刻だぞ」と、彼は無愛想な声で言った。
私はコートを脱いだ。
「待てと言った憶えはない」
「黙れ。〈毎日〉の記事は読んだろう」彼は折りたたんだ新聞で私の胸を叩いた。「おまえは、諏訪雅之が記憶を失っていることを知っていて、黙っていたな」
佐伯直樹の特ダネ記事のことだ。〝狙撃者は記憶喪失者〟という見出しで、一面と三面に派手な特集記事が組まれていた。さらに、佐伯と諏訪雅之の出会いから今日までの克明な記録を、怪文書事件の真相を交えて、向こう二週間にわたって連載するという予告もあった。
「知らなかった。だが、たとえ知っていても言わなかった」
彼は怒りを抑えた。「よし、その件はいずれまたにしよう。こっちへ来い」彼はタバコを灰皿にほうり込むと、先に立って、街路に面した通廊の突き当たりの階段を昇って行った。二階への出口に大柄な刑事かSPふうの男が立っていて、錦織に目顔で合図した。私たちは〈総務部〉の表示のある区画を通り過ぎて、〈知事室〉のほうへ向かった。
今朝早く、私は都庁の代表電話の番号をダイヤルして、向坂知事をお願いしますと頼んだ。いたずら電話だろうと疑っている三人の職員が電話を他へまわすたびに、どういうご用件でしょうかと訊ねた。私は三度同じ答えを繰り返し、総務部庶務課から都民広聴課、都民広聴課から行政管理部、行政管理部から特別秘書課にまわされたあげく、錦織警部の「知事に何の用だ?」という怒声を聞く羽目になったのだった。
錦織と私は、〈知事室〉と表示されたパネル壁の仕切りの中へ入った。正面に〈副知事室〉のドアがあり、左右に伸びた七、八メートルの廊下の突き当たりは、それぞれ左が〈特別応接室〉、右が〈知事室〉のドアになっていた。〈副知事室〉のネームプレートにはまだ榊原誠のプラスチックの名札が入っていた。半開きになったドアから、捜査中の五、六名の刑事が白い手袋をはめて動きまわっているのが見えた。
「昨日から、本庁と合同で榊原の自宅やここを捜査しているが、何も出ない」
錦織は廊下を右に進んで、ドアの前で足を止めた。「今朝早く更科修蔵から連絡があって、怪文書事件並びに佐伯直樹監禁の件で、夫人を出頭させると通知があった。成城署が更科邸の前で待機している」
彼が〈知事室〉のドアを開けて中に入ると、またしても廊下だった。廊下の右側は〈特別秘書室〉で、上半分がガラス張りのパネル壁の向こうには、三人の男性職員と四人の女性秘書が机を並べていた。左側はこの建物に入って初めてお眼にかかる漆喰の壁だから、おそらくこの背後に私たちの目的の場所があるのだろう。錦織と私が廊下を進むと、女性秘書の一人が立って、奥のドアから廊下に出て来た。私たちは、これで三度目の〈知事室〉という表示のあるドアの前で顔を合わせた。
「警部さん、こちらが知事とお約束の沢崎さんですか」四十代前半の眉毛の太い女性秘書が確認を取った。錦織は、そうだと答えた。
「おみえになったことをお知らせします。たぶんお食事を終えられた時分だと思いますから」彼女はドアをノックして知事室へ入った。
廊下の奥の窓ガラス越しに、道路の向かいの〈三菱本社〉の真新しいビルの一部が見えた。窓の前に立っている刑事かSPが、錦織と私の中間の一点をそこに不審な人物が立っているとでもいうようにじっと見つめていた。女性秘書が知事の昼食の盆を抱えて、ドア口に現われた。「知事がお待ちです。二時には定例議会が再開されますので、よろしくお願いします」彼女と擦れ違いに、私たちは知事室へ入った。
都知事の向坂晨哉が執務デスクの向こうに立って、私たちを招いた。「さあ、どうぞ。こちらへ」
副知事を失った動揺は全く感じられず、この部屋の主人として一分の隙もない態度だった。私たちは部屋を斜めに進んで、知事のデスクに近づいた。
都知事の執務室としては、予想したより狭くて、質素で、薄暗かった。左の壁の上にずらっと掲げた歴代知事の肖像画がなければ中小企業の社長室といったところで、歴代校長の写真を飾った高校の校長室を連想させた。
「沢崎さんにはお礼を言わなければなりません」と、知事が言った。「あなたのお蔭で、〈東神〉の神谷会長が危うく一命を取り止められたそうですね。それに、例の怪文書事件の真犯人にも自首を余儀なくされたと、ついさっき報告を受けたところです。本当に感謝しています」知事はかすかに眉をひそめた。「警察では、亡くなった副知事の榊原氏を狙撃事件の首謀者として捜査を始めたと聞いていますが、私にはまだ信じられない……容疑事実については、捜査本部長から二、三聞いていますが」
錦織と私はデスクのこっち側に並べた二脚の椅子のそばに立って、知事と向かい合っていた。
「午後の議会では、彼の事故死について野党の代表質問を受けなければならない……沢崎さんから、その件についてお話があるという電話だったので、私としては一つでも多くの情報を得ておきたかったのです」彼は錦織と私の顔に交互に視線を走らせて、言い足した。「もし、沢崎さんが私と二人だけでお話になりたいということであれば、警部には席をはずしていただくようにお願いしますが」
「それはご勘弁願いたい」と、錦織が眉一つ動かさずに言った。「本部長からは、自分が立ち合うということで、この男を知事に面会させてよいという許可を取っております」
「ほう、不思議なことを聞きますね。都知事が都民に面接するのに警官の許可や立ち合いを必要とするなどという話は初めてうかがう」
知事は威厳を回復しようとでもいうように、食事中脱いでいた上衣を椅子の背から取って、さっと腕を通した。一昨日会ったときとは別の、明るさと渋さのミックスした英国製の茶のスリーピースだった。
「残念ですが──」と、錦織が言った。「この狙撃事件には、すでに三件の殺人と一件の殺人未遂が関連していると考えられます。知事のご不快はごもっともですが、自分もこのまま引きさがるわけにはいかないのです」
「しかし、警部──」と、知事は語気を強めた。
「知事」と、私が遮った。「話によっては、警部に確認したいこともあります。警部の同席はむしろ望むところですが」
「そうですか」と、知事は憮然たる表情で言った。「あなたがそうおっしゃるなら。とにかく、どうぞお坐り下さい」
私たちはそれぞれの椅子に腰をおろした。錦織は、私がむしろ彼を部屋から出してくれと言った以上に腹立たしげに、私を睨みつけた。私はそ知らぬ顔で、コートを椅子の背に掛けた。
「お話をうかがいましょう」と、知事が言った。
私は言葉を選んで言った。「狙撃事件の首謀者は副知事の榊原氏ではないようです。少なくとも、知事の弟の向坂晃司氏が関係しておられる」
知事はほとんど表情を変えずに私の顔を見つめ返した。錦織の威喝するような声が聞こえた。「沢崎。おれをこんなことの巻き添えにするな。そういう話はまず署で聞こう」
「警部、心配はご無用です。沢崎さんは、何か大変な勘違いをしておられるようだが、あなたまでが彼と腹を合わせてここへおいでになったとは考えていません。安心して、沢崎さんの誤解をとく手伝いをしていただきたいですね」
錦織は容赦のない声で言った。「探偵。納得の行くように説明しろ」
「神谷会長が意識を失う直前に話してくれた証言によれば、あの夜、私たちが晃司氏の邸にうかがっているあいだにかかって来た電話は、榊原氏に狙撃者・諏訪雅之の身柄を金で引き渡そうとした偽刑事からの電話だった。晃司氏はその電話を都庁からの電話と称して、榊原氏に隣室で受話器を取るように指示しています」
知事は頭を振った。「それだけでは、弟が関係しているという証拠にはならないでしょう。その偽刑事が副知事を電話口に呼び出すために都庁の職員を装って電話をかけて来たのだとしたら、弟としては他に反応のしようがない」
「この事件の首謀者には多額の資金が必要です」と、私は言った。「諏訪雅之への報酬だけでもざっと一億五千万が支払われている。諏訪を追跡していた伊原と奥村と名乗る二人の偽刑事を雇う経費もある。最後に、その奥村という男に諏訪の身柄と引き換えにかなりの金額を要求されているはずです。その男が、命と引き換えにでも手に入れたいほどの金額を支払う能力が、取引の相手にあったと考えていいでしょう。金に縁があるとは思えない警察出身の榊原氏を単独の首謀者と考えるのは、無理があるのではないですか」
「人の財力は見かけでは分かりません。金に縁がありそうな弟より副知事のほうが貧しいという根拠はどこにもない。映画の世界は、見かけよりも内実は苦しいのですよ」
「警部。二人の偽刑事の身許が割れているはずだ。聞かせてもらいたい」
「まだ公表する段階ではない」と、錦織はそっけなく言った。
知事は眉をつり上げた。「公表ですと? 警部、ここは都知事の執務室ですよ。ここで交わされた会話は、あのドアから先へは一歩も出ることはありません。その二人に関して警察が掴んでいることを教えて下さい。それとも、捜査本部長に電話を入れて、許可を取りつける必要がありますか」知事はデスクの上の電話に手を伸ばした。
「いえ」と、錦織が無愛想に答えた。「〈国際映像〉で死体で見つかった偽刑事は本名大庭照雄、三年前までは国際映像の警備係として勤務。佐伯直樹のマンションで見つかった死体は、この大庭の線からようやく今朝になって身許が判明した。本名鄭允泓、同じく三年前に向坂プロを辞めている。この男は助監督、小道具係、大部屋の俳優と何でも屋だったらしい。この二人組が三年前にそれぞれの職場を馘になった理由は、国際映像の撮影所内でのかなり長期にわたる窃盗行為を見つかったからだ。しかも、それを見つけたのは当時テレビ映画の撮影で国際映像を使用していた向坂プロの向坂晃司氏と監督の滝沢氏だった──以上です」
「では、彼らが弟を恨んでいることはあっても、両者が同じ利害で副知事に結びつくと考えるのはおかしいでしょう」
「犯罪者というのは警察に突き出されない以上、あまり人を恨んだりしないものです。怪文書事件の更科女史と曽根という男の関係もそうだった。彼らが晃司氏や滝沢氏を恨んでいたのか、逆に恩を感じる立場にいたのか、一概には断定できませんね」私は錦織を振り返った。「その二人は窃盗の件で逮捕されたのか」
「連中が刑事訴追を受けた記録はない」と、錦織は言った。
私は続けた。「映画畑にいたこの二人と榊原氏を直接結びつけるのは厄介だが、あいだに晃司氏や滝沢氏を置けばつながりは明白になる」
「いつの間にか、滝沢監督まで共犯にさせられている」と、向坂知事が皮肉っぽく言った。
「晃司氏は思い出しましたか。私が預けた写真の男が、八年前の撮影中に拳銃の暴発で人差し指をなくしたオリンピック候補だということを」
「えっ……あァ、そうらしいですね」知事は異物を飲み込んだような顔で言った。「今朝の電話で、そんなことを話していたようです」
「不自然ですね」と、私は言った。「あのとき、晃司氏は諏訪雅之の写真を見て知らないふりをすべきではなかった。射撃のオリンピック候補の指がなくなったというのに、たとえ八年という時間が経過したとしても、その男の顔を忘れるはずがない」
「記憶というのは意外な作用をすることがあります。弟を榊原氏の共犯に仕立てる確証にはなりませんね。そうでしょう、警部?」知事は錦織の返事を待たずに、自信ありげに続けた。「いずれにしても、弟や榊原氏が私を狙撃して利益を得るという話題は、先日すでに十分に検討した上でナンセンスだという結論に達したのではありませんでしたか」
「そんなことを蒸し返しているのではありません」と、私は言った。「あの狙撃事件は、あなたの利益を守るために、あなた自身が実行させたものだ、と言っているのです。首謀者はあなたで、榊原氏、晃司氏、滝沢監督、二人の偽刑事、そして諏訪雅之はあなたの従犯者にすぎない」
向坂知事は大きく頭を振り、苦笑して言った。「何ということを! まるで話にならない。どうやら、私はあなたを過大評価していたようだ。人を策士呼ばわりするにしても、もっと筋道の通る話をしてもらいたいですな」
「そうしましょう。ことの起こりは怪文書事件です。あなたと矢内原候補との選挙情勢はあの事件が発生するまでは五分と予想されていたから、事件は向坂陣営にとってはかなりの打撃だったはずです。スキャンダルの真偽は誰の眼にも明らかだったが、そこが怪文書の怪文書たる所以で、思わぬ不利を招きかねない。選挙に勝つつもりなら何か然るべき手を打つ必要があった。一方、諏訪雅之は去年の暮れに健康を害してアメリカから帰国していた。彼は手術不能の脳腫瘍で短ければ一年の命と診断され、妻子の将来を考えればどんなことをしても大金を掴みたかったはずだ。そのとき、彼には都知事選の状況がその目的を果たすための恰好の手段として浮かび上がった。彼は八年前の旧知である、晃司氏を訪ねた。撮影中の暴発事故のことで、晃司氏に多少貸しがあるようなつもりだったのかも知れない。やがて、知事選を向坂陣営に有利にするための大胆な計画が立てられた」
私は言葉を切って、知事が口を挟まないのを確かめた。
「諏訪雅之があなたを狙撃する。テロ行為の被害者は古今東西を問わず、悲劇のヒーローとして非常な同情を獲得できる。さらに怪文書のヒロインの実弟、溝口宏を事件に捲き込むことで、怪文書事件を画策した連中の動きを封じ、同時に警察の眼をよそに向けさせる。選挙民は二つの事件を同一グループによる陰謀と思って、あなたへの同情を倍加させる。投票前夜の手術であなたは一命を取り止め、選挙の結果はあなたに都知事の椅子をもたらす。計画は見事に成功した──ただし、一点を除いて」
私は知事の眼の中を不安の色がかすめるのを見たと思った。「諏訪雅之に支払われた一億五千万という金額から考えても、彼は狙撃後直ちに自首する手筈になっていたに違いない。半年前に一年から二年と命を限られていた彼にとって、残りの人生を刑務所の中で生きようと外で生きようと、刑の執行を間近に控えた死刑囚であることに変わりはないのだから。自首した諏訪が、八年前の拳銃の暴発事故を向坂兄弟を恨む動機として供述すれば、すべては計画通りで何の問題もなかった。だが、予想もしない手違いが起こった。彼は溝口宏の逃走経路のどこかで姿をくらまし、ついに自首することはなかった。彼が自首しようにもできなかった理由は、〈毎日〉の佐伯氏の記事ですでにご存知ですね? そこから、万全と思われた計画に破綻が生じはじめた」
私はポケットからタバコを出して、火をつけた。錦織警部もつられたようにフィルター付きのタバコをくわえた。
向坂知事はデスクの上の新しい灰皿をほとんど無意識に私たちの前に差し出した。底に東京都のシンボル・マークの入ったガラスの灰皿だった。よそで見かけても何も感じないマークだったが、この部屋の灰皿の底で見せられると、眼の前の椅子に坐った男がこの都市を手中にしている権力者であることを思い出させられた。
知事は微笑した。「小説家である私が聞いてもなかなか巧くできたストーリーだが、一つ致命的な欠陥がありますね。私をよほど蛮勇にたけた人間だと思っておられるようだ。その諏訪という人物の射撃の腕前がたとえ世界一だったとしても、万に一つということがある。知事の椅子を獲得するために拳銃の標的になるなんて、そんな人間がいるはずがない。現にあのときの銃弾は私の心臓からわずか五ミリのところに撃ち込まれていたのですよ」
「誰がそう言っているのです?」と、私は訊いた。
「どういう意味ですか」と、知事は眉をしかめて訊き返した。
「あなたや晃司氏や榊原氏の他に、あなたが銃弾を受けたことを証言する人がいますか」
「しかし──あれは、立川駅前にいたあれだけの人々が目撃していたことですよ」
「現場にいた人たちが果たして滝沢氏の撮影したヴィデオ以上のものを見ることができたかどうか疑問ですね。確かに銃声はした。あなたは転倒した。晃司氏はあなたを抱き起こした。あなたのシャツの胸は赤く染まっていた。現場から不審な車は逃走した──確実なのはそれだけです。あなたの胸部に銃弾が撃ち込まれるところを眼にした者はいない。俳優の晃司氏、監督の滝沢氏、小道具係だった鄭允泓、それにあなた自身も演出や演技のことは熟知しておられる。これだけ映画のスタッフがそろっていれば、あの程度のトリックは何とでもなったはずだ。なかなか良くできた狙撃シーンでしたよ」
「馬鹿な! 証人ならちゃんといます。弾の剔出手術をした椎名医師がはっきり証言してくれるはずだ」
「椎名医師では証人として十分とは言えませんね。彼は向坂家とは十年以上も親交のある人物で、むしろ榊原氏などより遙かに身内的な存在です。私はかねてから疑問に思っていたことがある。狙撃者は、一体なぜ投票前夜の新宿駅前での街頭演説を狙撃現場に選ばず、二日前の立川駅を選んだのかということです。両駅の演説場所や車道の位置を比較すると、むしろ新宿駅のほうが狙撃には適しているように見えるし、劇的な効果も遙かに大きいのに」
「そんなことは狙撃事件の犯人に訊きたまえ」
「あなたにとっては狙撃者が立川駅を選んでくれて、実に好都合だった。狙撃現場から僅か七、八百メートルの距離に椎名医師の経営する〈武蔵野クリニック〉があり、普段は狛江にある本院の〈多摩クリニック〉で診療しているはずの椎名医師があの夕方に限って立川の分院にいてくれた。さらに、狙撃が投票の二日前だったお蔭で、重態から危篤、手術、そして奇蹟的に一命を取り止めたという発表を投票当日の早朝のニュースまでに見事に間に合わせることができた」
「そんな皮肉な見方があろうとは思ってもみなかった……歪んだレンズを通して見るから何もかも歪曲されて見えるんです。だが、私の胸の傷痕を見れば、あなたの偏執的な誤解もとけるでしょう」知事はすでに上衣を脱ぎかけていた。
「いや、待って下さい」と、私は知事を制止した。「私などに傷痕をお見せになっても正確な判断はできない。拳銃の弾を剔出できるほどの医者なら、弾傷らしい傷痕をつけるくらいの手術は簡単でしょう。私を納得させたければ、れっきとした外科医か警察医の鑑定を受けるべきです」
上衣から肩を抜いたところで、知事の動きはぴたりと止まった。彼は上衣の裏のポケットのあたりを見つめていた。そこに反論の糸口が隠されているとでもいうように。
私はタバコの灰を落とした。「狙撃が狂言ではないかと考えるようになったきっかけは、あの日、榊原氏が指摘した二挺の〝ルガーP08〟なのです。私は、現場で回収された拳銃と諏訪雅之が所持している同型の拳銃はどちらかが万一の場合の予備ではないかと言ったが、自分でもあまり納得の行く推測ではなかった。射撃や銃にこだわる人間は、まず自分の手で整備した銃を信じるところから始まるものだ。私は新宿署で溝口宏の転落現場の捜査報告を読ませてもらった。遺体及び遺留品の回収状況を、警部の口から説明してもらいたい」
「何のことだ?」錦織はタバコを灰皿に押しつけた。「報告書は読んだが、別に不審な点はなかったぞ。第一、おまえは誰の許可を得てそんなものに眼を通した?」
「現場の捜索は、溝口が転落した当夜と翌朝の二度にわたって行なわれているはずだ」
「ああ。溝口の遺体と逃走車は当夜直ちに引き揚げられたが、ガードレールに激突したときに運転席のドアが開いてしまったようだ。狙撃に使われた拳銃は、そこから流出した一部の遺留品と一緒に、翌朝再開された川底の捜査で発見されている。そのことか」
私はうなずいた。「諏訪雅之はあくまで一挺の〝ルガーP08〟を携帯し、発砲し、その銃を持って逃走したのだ。狙撃事件を仕組んだ者たちは、諏訪が自首せず逮捕されなかったことを知って驚いたに違いない。逃亡した諏訪の意図が判らないので、とにかく彼を警察の捜査対象から隠し、溝口宏の単独犯行に見せかけることにした。〝ルガーP08〟がもう一挺あったことがその工作を可能にしたのだろう。その銃から発射した弾をあなたの身体から剔出したものとして警察へ届け、その銃を転落現場の川底に沈めた。それを実行したのは警察の事情に通じ、転落現場に近づいても不審を抱かれない榊原氏だと思う。当初の計画では、諏訪のルガーから事前に発射しておいた弾を警察に届ける予定だったはずだ。危ないところで、あなたの身体から剔出した弾に適合する拳銃が現場からは発見できないという、まずい状況は回避できた。こうして、第二の男の存在は佐伯直樹が彼に再会するまでは、誰の視野からも消えてしまった……いずれにしても、剔出されたと称する弾がそういう性質のものなら、狙撃者は実弾を使用する必要はなかったわけだ。実弾が使用されなかったのなら、この事件で最大の利益を得た〝被害者〟を首謀者と考えてもおかしくない。あなたは拳銃の標的になったことなど一度もなく、〝被害者〟ですらないのだから」
「そんな証拠は何もない」と、向坂知事は張りのない声で言った。「すべてはあなたの勝手な想像にすぎない」
私は黙ってタバコを消した。言うべきことはもう何もなかった。錦織がそっけなく言った。「諏訪雅之を拘留すれば、すべては明らかになるだろう」
「その人物は記憶を失くしているという報告を受けていますよ。彼に正当な証言ができますか」と、知事が訊いた。
「然るべき医師の治療を受けさせれば、失われた記憶も戻るはずです」と、錦織は答えた。
「記憶が戻ったとしても、彼が正直な供述をするとは限らないでしょう。第一、それまで彼の命が持ちますか。彼は重病にかかっていて、長い命ではないと聞いたようですが」
錦織と私は顔を見合わせた。「知事。何をおっしゃりたいのです?」と、錦織が訊いた。
知事は私たちをそれぞれ十秒ずつ見すえた。「私は沢崎さんの途方もない仮説を認めるつもりはありません。しかし、その手の面白おかしい説を世間は喜ぶし、それなりの説得力もあるようだ。正直いって、お二人の出方次第では都知事としての私の立場は非常に微妙なものになるでしょう。それは甚だ迷惑です。いや、もし何か確たる証拠があると言うのなら──そんなものがあるはずはないが──私も潔く身を退きましょう。だが、確証がない以上は、そんな仮説をみだりに公表していただきたくないのです」
知事は椅子を立って、身を乗り出した。「何故こんなことをお願いするのか──すべては東京都と都民のためです。決して私個人のためではない。あなた方も現在この世界有数の大都市がどんな危機に瀕しているかご存知でしょう。八年間に及ぶ矢内原都政が東京の財政と都市問題を最悪の状態に追い込んでしまった。住宅、地価高騰、環境の問題、中小企業、雇用の問題、どれを取っても容易ならざる事態に直面していて、今こそ英断を振るわなければ百年の禍根を残すことになる。沢崎さんは、悲劇のヒーローである私に同情票が集まったと言われたが、冗談ではない。東京都民を愚弄してはいけません。彼らは、破綻をきたした東京の将来を私に預けて、是非とも再建してもらいたいと期待しているのです。いや、こんなことはくどくどと言わなくても、お二人はとうに解っておられるはずだ。どうか、東京都民の期待を裏切らせないでほしい……そう、任期の半分、いや、一年でも結構なのだ。波風を立てずに、私に都政を執らせてほしい。それで、万一私が公約違反を犯したり、何の成果も上げられないとしたら、そのときこそ仮説でも疑惑でも公表されるがよろしい。しかし、今は困ります」知事は懇願するような眼で私たちを見た。
「自分は一警官にすぎない」と、錦織が言った。「確証が掴めない以上は、知事にどんな迷惑をかけるつもりもありません。仮説だの疑惑だので騒ぎ立てることはないでしょう」
「警部の言葉は非常に心強い……しかし、それでは十分とは言えないのです。仮に沢崎さんの立てた仮説が正しいとしましょう。それで一体私にどういう罪があると言うのです? 都民の期待をになう知事として、どこが不適格だと言うのです? 選挙はいわば武器を使わない戦いであり、戦略ではありませんか。私は怪文書という敵の戦略に対して、狂言狙撃という戦略で応じたことになるわけだ。そう、あの時点で、もし誰かがそういう戦略を私に持ちかけていたら、私は喜んでその話に乗ったでしょう──事実はそうではないが。一体この程度のことが、政治という舞台の上で非難されるべきことですか。私は選挙違反を犯したわけではないし、誰かを傷つけたわけでもない」
「溝口宏は死亡した」と、私は言った。
「それは私の責任ですか。あなたの仮説では、彼らは狙撃のあと自首する手筈になっていたと言いませんでしたか。だとしたら、逃走の果てに運転を誤って死亡した男の面倒までは見きれませんよ。そもそも、怪文書事件さえ起こっていなければ、溝口という姉弟が登場する必然性もなかったのだし、狙撃事件も起こりえなかったことになる。責めは怪文書の発行者こそ負うべきだとは思いませんか」
向坂知事の言葉はいささか混乱しはじめていた。これまでの人生では、これほどの窮地に立つという経験は一度もなかったに違いない。
「知事、あなた自身の言葉を使えば、あなたは戦略を誤ったのです」と、私は言った。
「誤った?」と、彼は訊き返した。
「そうです。私は政治には関心がないし、選挙を茶番以上のものだと考えたことはない。あなたの言葉では戦略ですか。それをあなたは間違えたのです。諏訪雅之があなたに向けて空砲を撃ったとき、たぶんあなたは勝利への最短距離に近づいていた。だが、逃亡した諏訪雅之が記憶喪失者として戻って来たとき、あなたは勝利の女神に見放されつつあった。しかし、まだ負けではなかった。あなたの負けを決定的にしたのは、大庭と鄭という二人の偽刑事に拳銃を持たせ、諏訪の行方を追わせたことなのです。佐伯直樹のマンションの死体や〈国際映像〉での殺傷事件さえなければ、誰も諏訪雅之から先へは進めなかったでしょう。あるいは彼の病死を最後に、すべてが闇の中に葬られてしまったかも知れない。あの二人の偽刑事を差し向けたとき、あなたは戦略を誤り、勝負に負けたのです」
「いや、それは違う」と、知事は言った。「私は彼らを差し向けたりはしない──いや、しないだろうということだ。たとえ、そういう立場に置かれたとしても、だ。都知事の椅子を守るために人命を奪うなんて、私には考えられない」
錦織と私はどちらからともなく席を立った。これ以上は話してもむだだった。
「まもなく二時です」と、錦織が言った。「議会が始まる時間でしょう。われわれは失礼します」
向坂知事はデスクの背後をまわって、私たちのほうへ近づいた。「待っていただきたい。あなた方には私自身が狙撃事件を計画し、実行したという確証は決して得られないはずだ。そんなむだな努力をしても、お互いに何の利益もない。ここは冷静になって話し合いをすべきときではないだろうか」
錦織は苦々しい顔で知事に背を向けると、出口へ向かった。私は椅子の背に掛けたコートを手に取った。「私は勝負に負けた人間が嫌いではないですがね、知事。自分の敗北に気づかない人間や敗北を認めようとしない人間は、性に合わないのです」私は錦織のあとを追った。
「ちょっと待ってくれ。さっきは一年と言ったが、十カ月でいい。頼む、私に猶予を与えてほしい。一千二百万人の東京都民との公約を果たさなければならない。いや、少なくとも半年あれば、この東京を再建するための三つの重要な決議案を通過させて──」
錦織警部がドアを開けて私を待っていた。われわれは向坂知事の取り乱した声を残して、知事室をあとにした。警部は副知事室を捜査中の刑事たちに適当なところで切り上げるように指示し、自分は本庁に寄ってから新宿署に戻ると告げた。それから、建物の中央にあるエレベーターへ足を運んだ。
満員に近いエレベーターの乗客は、私たちだけを残して中二階で降りてしまった。書類鞄や分厚い書類挟みに詰め込んだめしのタネとしての〝都政〟を手に、議会庁舎への連絡通路のほうへ足早やに去って行った。錦織はエレベーターの一階のボタンをドアが閉まるまで苛立たしげに押し続けた。
「何とかなりそうか」と、私は訊いた。
彼は頭を振った。「連中がおまえの命でも狙ってくれれば、何とかするさ。くそッ、あんな男に投票したかと思うとへどが出るぜ。おまえはどっちに投票したんだ?」
「私は誰にも投票しない。一夜にしてなれる職業は、政治家と売春婦だけだそうだ」
私たちはエレベーターを降りると、挨拶も交わさず、錦織は駐車場のほうへ、私は玄関のほうへ向かった。
事務所に戻って、電話応答サービスのダイヤルをまわすと、伝言が一つ入っていた。「十二時に、三日前の夜、寮まで送っていただいたナイトウユミ様から、〝ありがとう〟、以上です」
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