ガラスの城の約束

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』と同時にアレックス賞を受賞した世界的ベストセラー『ガラスの城の約束』訳者あとがき

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ハヤカワ文庫『ガラスの城の約束』(ジャネット・ウォールズ/古草秀子=訳)は、5月2日(木)発売です。

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『ガラスの城の約束』は、2005年、ヤングアダルト世代にとくに薦めたい大人向けの本に贈られる「全米図書館協会アレックス賞」をカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』等とともに受賞した回想録文学の名作。本書の魅力を訳者が語ります。


                 
訳者あとがき

古草秀子

真実はつくられた物語よりも深い感動をもたらしうる。それこそメモワールを読む醍醐味といえよう。心の奥底に封印してきた過去に向きあうのは、ひどく苦しい作業だ。それが誰にも知られたくない重荷であり、他人の目には悲惨に映る体験であればなおさらのこと。けれど、艱難辛苦を乗りこえて、幸せにたどりついた人間が綴る真実の物語は、読み手の心を強く揺さぶり、深い余韻を残してくれる。

この本(原題はThe Glass Castle: A Memoir)は、コラムニストとしてニューヨークで華やかに活躍していたジャネット・ウォールズが、ずっと秘めてきた特異な生い立ちを、繊細な筆で告白した珠玉のメモワールだ。原書を一読して、ぜひ日本の読者にも読んでいただきたいと感じさせられた作品である。なお、プライバシー保護のため、本人と家族以外の人物の名前や設定については多少改変されている。

2005年3月にスクリブナーから刊行されたハードカバー版は、すぐに『ニューヨークタイムズ』紙の書評で取りあげられた。衝撃的な内容と精緻な描写で話題を呼んだ本書は、数多くのブッククラブでたくさんの読者に感動を与え、『パブリッシャーズ・ウィークリー』『ピープル』『ヴォーグ』『ヴィレッジ・ヴォイス』『シカゴ・トリビューン』など各誌紙にも高く評価された。ペーパーバック版刊行後は好評にさらに拍車がかかり、初版の刊行から14年を経た今でも人々に読み継がれる、まさに特別な一冊となった。

2019年2月時点では世界35カ国で翻訳され、アメリカでの出版部数は350万部を突破したという。ちなみに2018年6月の時点で、『ニューヨークタイムズ』紙ベストセラーリストに421週間もランクインしつづけていた。有名人のメモワールがあまた出版されるなか、一介のコラムニストのメモワールがこれほど多くの人々に愛されているのは、この本が与えてくれる感動の深さ、魅力の大きさによるものにほかならない。

見るからに教養があり洗練された、非の打ち所がない美貌の人気コラムニスト、ジャネット・ウォールズ。じつはそうした外見とは裏腹に、彼女はにわかには信じがたいほど悲惨な生い立ちを隠していた。

ジャネットの家庭はまさに「機能不全家庭」だった。両親は定職につかず、親としての責任は放棄したも同然で、子どもたちはゴミ箱をあさって飢えをしのぐ暮らしを送っていたのだ。

父レックスは、人並み以上の能力を持ちながらも、金を掘りあてるという見果てぬ夢に憑かれて、鉱山の電気工などの職を転々とし、借金をつくっては家族を道連れに夜逃げをくりかえす。いつか大金を手に入れたら砂漠に壮麗な「ガラスの城」のような家を建ててやると約束しながらも、酒におぼれ、暴力をふるう。母ローズマリーは、アーティスト志望で「刺激中毒」を自称し、家事や育児をおざなりにして売れもしない「創作」にかまけてばかり。そんな両親のもと、ジャネットと姉ローリ、弟ブライアン、妹モーリーンの四人のきょうだいは、想像を絶する苦しい生活を強いられる。

わずか三歳のとき、ジャネットは自分で湯を沸かしてソーセージを茄でようとして、皮膚の移植手術を必要とするほどの大火傷を負って九死に一生を得る。バトルマウンテン、フェニックス、ウェルチと流転生活を送るにつれ、一家の暮らしはますます困窮し、給湯設備がないどころか水さえ出ない倒壊寸前のあばら家に住み、凍える冬に石炭も買えず、食べ物を買う金さえなく、子どもたちは学校でクラスメートの弁当を盗み食いしたり、捨てられた残飯をあさったりして生きのびる。

やがてジャネットは、自分たちきょうだいが両親のせいで苦しい生活を強いられているという現実を認識し、なんとかしてそこから脱出しようと決心する。そして、強い意志と努力と創意工夫で夢を実現させる。必死に働いて蓄えた脱出資金を父が酒代に使ってしまうという苦境さえも乗りこえて、まずは姉のローリが高校卒業とともにニューヨークへ出て自活し、ジャネットもそれを追って、雑誌社のアシスタントをして生活費を稼ぎ、奨学金や学資ローンを駆使して名門バーナード・カレッジを卒業する。さらに、姉妹は弟ブライアンと末妹モーリーンもニューヨークへ呼び寄せる。

この本は、虐待の一形態であるネグレクトの被害者である主人公の告白と読むこともできるけれど、ここに描かれているのは、むしろたぐいない絶大なる勇気の記録であり、希望と冒険の物語であるといえよう。読み手は、ウォールズ家の子どもたちが直面するありえないほどの苦難に驚くとともに、彼女たちが過酷な現実に圧倒されてしまうのではなく真正面から向きあって、努力のすえに自力で乗りこえた事実に驚嘆し、さらには、生きる勇気をもらえるにちがいない。

本書は、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』などとともに、2005年度のアレックス賞を受賞した。この賞はヤングアダルトの読者にぜひとも読ませたい成人図書に与えられるものだが、本書はその栄誉にまさしくふさわしい。これから現実の人生を切り開いていく若い人々、とりわけ苦境にある若者に、きっとこの本はなんらかの力を与えてくれるはずだ。さらにいえば、どんな人にも、人生に立ち向かう力をもたらしてくれるだろう。

内容からして、陰惨で後味の悪い本になってもおかしくないところなのに、読後感は不思議におだやかだ。それどころか、淡々とした描写からは、家族への愛情や過去の自分をいとおしむ気持ちが伝わってくる。それは著者の姿勢のせいだろう。家族を苦しめ破滅の道をたどる父親にも、自分の興味ばかり追い求めて親としての責任を放棄する母親にも、著者の表現には激しい非難や恨みはまるでない。すべての判断は読者にゆだねられている。
ウォールズ家の子どもたちの賢さや健気さにひたすら感心するのか、無軌道な両親の仕打ちに怒るのか、決めるのは読者なのだ。

著者ジャネット・ウォールズは1960年4月21日生まれ。MSNBC.com のゴシップ・コラムニストとして活躍していたが、2007年以降は作家としての活動に専念している。2009年にスクリブナーから出版されたHalf Broke Horses: A True-Life Novel は、『ニューヨークタイムズ』紙の「2009年のベスト10冊」の1冊に選ばれた。

本書をもとに『ショート・ターム』のデスティン・ダニエル・クレットンが監督した映画『ガラスの城の約束』は、2017年にアメリカで公開され、大変な好評を得た。強く聡明で繊細なジャネットを演じたのは、『ルーム』でアカデミー賞主演女優賞を受賞したブリー・ラーソン。父親レックスを演じた名優ウディ・ハレルソンの熱演も印象的だ。

現在、ジャネット・ウォールズは作家である夫のジョン・テイラーとともにヴァージニア州の広い農場で暮らしている。言ってみれば、彼女は父レックスが約束して果たせなかった「ガラスの城」を、自分の力で実現したのだ。  

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ハヤカワ文庫『ガラスの城の約束』(ジャネット・ウォールズ/古草秀子=訳)は、5月2日(木)発売です。

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