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【試し読み】原尞氏推薦! 次代を担う作家の最高傑作がここに! 伊兼源太郎の警察ハードボイルド『祈りも涙も忘れていた』(8/17刊行)

直木賞作家の原尞氏推薦! 8/17刊行の警察ハードボイルド、伊兼源太郎『祈りも涙も忘れていた』の試し読みを公開します。


序章

 甲斐(かい)さんはこの街、神浜(かみはま)で青春を過ごしていらっしゃるんですなあ。

 あれは、夏の夜の一コマだった。海沿いの国道で赤信号に引っかかった時、普段は無口な運転席の厚野(あつの)にルームミラー越しに話しかけられた。当時、私は二十七歳。青春なんてとっくに過ぎ去り、そんな時代はフィルターだけになった煙草の吸殻や一週間前に吹いた風と同じくらい無意味だと思っていた。
 ゆるゆると首を振り返すと、厚野はにんまりと笑った。
 ──いやいや。青春の真っ只中なんで、気づいていらっしゃらないだけですよ。こうして長年ひとさまを運んでると、ちょっとした人生の目利きになるもので。
 私はいたたまれなくなり、視線を窓の方にやったのを憶えている。街を行き交う誰もが楽しそうに見えたことも。
 あの時と季節こそ違うものの、後部座席から眺める限り、街並みは約二十年前の夏とさほど変わっていない。春の神浜市。車は街の東西を繋ぐ国道を進んでいく。
 右手側には若者向けの小さな店が連なるJRや私鉄の高架下が続き、それ越しに大小様々なビルが見える。ビルの向こうには時折、低い山々も望める。山側に真っ直ぐ延びる県道を横切る際は、古い瀟洒なマンションが坂道沿いに健在なのが確認できた。窓を開けると、左手側の港方面から潮の香りもした。 
 明日四月を迎えるのに相応しい、麗らかな陽気に街は包まれていた。人々は脱いだコートを腕に引っかけ、足取りも軽い。何かの目印のように赤い風船を持つ幼い女の子が、祖父らしき年配の男性と手を繋いでいる。
 記憶には、時間とともに薄れて遂には消える事柄と、日ごとに浮き上がり、徐々に鮮明になる事柄とがある。場合によって、過去は現在であり続ける。
 神浜で過ごした二年間は、いつまでも私の心から離れないだろう。あの二年で、私は真に警察組織の一員となった。
 人も殺した──。

 誰しも一度は死について思考を深める機会があるはずだ。肉親の死、友人の死、ペットの死。私は初めて死について真剣に考えた日を記憶している。小学三年生の初夏だ。"キバチ"という刺さないハチを友人と捕まえにいったのがきっかけだった。
 キバチ獲り。東京都中西部で少年時代を過ごした私と同世代の男なら、大抵誰しもが胸を弾ませた遊びだろう。名前の通り、"キバチ"はずんぐりした体が黄色の毛で覆われ、ふわふわした毛並は小動物を彷彿とさせた。"キバチ"はおおむね五月の連休明けに、私が暮らした公営団地の低い生垣にどこからともなくやってきた。時間を惜しむように低木の細かな白い花の間をひっきりなしに飛びかうのだ。低木はネズミモチという種で、五月の束の間の季節以外、私はいまだ"キバチ"を見た経験がない。
 大学生になると暇を持て余して、図書館で昆虫図鑑をめくった。"キバチ"はコマルハナバチという種のオスで、メスは私たちがマルハナと呼んだ黒い毛の生えたハチだと知った時には驚いた。キバチという別種のハチもいるというのだ。もっとも、面倒なので今でも"キバチ"と呼んでいる。
 花粉にまみれた"キバチ"の姿には胸が躍った。数が少ないことも子ども心をくすぐった。捕まえる方法はいたって単純だった。花粉を集めているところを、さっと手で摑んで終わり。拳状の手を耳元に持っていってモーター音さながらの羽音を聞き、ひとしきり楽しむと逃がすか虫かごに入れ、次の一匹を探した。
 ネズミモチの花には他のハチも集まった。マルハナ、クマンバチ、ミツバチ、時にはスズメバチも。
 あの日も友人二人とキバチ獲りに興じていた。かすかに夕暮れの気配が漂い始めた午後四時過ぎ、友人の一人がマルハナに刺された。
「敵討ちだ」
 もう一人の友人が叫び、靴を脱いだ。彼はそれに両手を突っ込み、ネズミモチの花を勢いよく挟んだ。
 私は何事かと急いで歩み寄った。刺された友人も近づいてきた。敵討ちを宣言した友人は靴底を何度か擦り合わせ、ゆっくりと離した。
 マルハナが無惨に潰れていた。靴底には体液が広がり、黒い残骸がこびりついている。
「二人もやろうぜ」
 私と刺された友人は沈黙した。
「怖いのかよ。意気地なし。だせえぞ」
 敵討ちを宣言した友人が、私たちを揶揄するように声を張り上げた。彼は涙目で、心なしか体も震えていた。私は無言で靴を脱ぎ、それに両手を突っ込んだ。隣では刺された友人も靴を脱いでいた。
 三人がネズミモチの前に立っても、ハチたちは逃げなかった。両腕を構えても、飛び去ればいいのに花粉を集め続けている。
 私は呼吸を止めた。細かな白い花にとまる一匹のマルハナを見つめた。靴底を勢いよく合わせた。ネズミモチの花が散り、足元へ落ちていく。他のハチが一斉に木から離れ、また花に群がった。
 ハチ。潰す。ハチ。潰す。ハチ。潰す。
 マルハナだけでなく、クマンバチやミツバチも殺した。頭の芯が熱くなる反面、腹の底は氷の塊を呑み込んだかのごとく冷えていった。私も友人たちもいつしか靴底でハチが潰れていく感触を楽しみ、三人で笑い声をあげていた。
 一時間後、三人で私の家に引き上げ、十数匹の"キバチ"の羽を捥ぎ、部屋に放した。そんな真似をしたのも初めてだった。虫かごに入れた場合も、必ずネズミモチの近くで逃がしてきたのだ。"キバチ"はよたよたと畳を歩き、タンスの陰、椅子の足元、机の下など部屋のあちこちで力尽きた。最後の一匹が覚束ない足取りで仲間の死骸を避けて進み、わずかに開いた掃き出し窓に到達した。さらにベランダに出ると迷わず縁へ歩み寄り──。
 私が住んだ部屋は五階だった。
 翌日も私たちはキバチ獲りに出かけた。誰も虐殺の続きをしようとは言わなかった。ネズミモチの生垣近くには大量のハチの死骸が転がり、アリが群がっていた。三人とも見ないふりをした。しかし、この光景はしばらく私の頭から離れなかった。授業中も食事中も寝る前も。
 死。それを自分はたやすく生み出せる。死。それは身近にある。死。それが必ず訪れるのなら、命とは何なのか。
 中学に入り、授業でナチスの所業について知った時、自分が手を染めたハチの虐殺を思い返さずにはいられなかった。口実をつけ、弱きものを殺していく感覚を。
 始めるまでは抵抗があっても、いったん始めてしまえば何も思わなくなる。誰もが非情な暴力性を内在させているのではないのか。少なくとも私にはある。
 だから、人を殺せたのだろう。

 二十六歳の春、神浜に──V県警に赴任した。いきなり百人以上の部下ができ、ほとんどの捜査員が私より十歳以上も年長だった。年齢差分の豊富な経験が彼らにはあり、自分にはなかった。今でもふとした拍子に、県警本部の捜査一課部屋で彼らに初めて挨拶をした場面が脳裏に去来する。
「甲斐彰太郎(しょうたろう)と申します。至らない点ばかりですが、よろしくお願いします」
 天井は低く、ヤニで壁が黄ばみ、神棚のあるだだっ広いフロアはしんとした。誰もが訝しげな目つきだった。彼らの反応は想定内で、動じてはいなかった。
 V県警は犯罪認知件数が二十年連続で全国ワーストファイブに入り、好むと好まざるとにかかわらず警官なら誰もが事件や事故に揉まれる。殊に本部の捜査一課には歴戦の猛者のみが集う。かたや私は経験も実績もない若造のくせに、約九割の警官が到達できない警部という階級で、しかも三人しかいない管理官の一人として捜査の指揮を執る立場だった。色眼鏡で見られるのも当たり前だ。珍獣でも見る心持ちだったに違いない。
 巨大な警察組織においても、キャリアはひと握りに満たない。V県警は全国的にも大規模で所属警官は約一万一千人いた。それでも当時在籍したキャリアは私と本部長だけで、多くの警官にとって一度も見かけないまま退職する程度の存在だ。テレビドラマや映画ではキャリアと現場の捜査員との確執が描かれがちだが、本来接点はゼロに等しい。いざ一緒に仕事をするとなると何を話せばいいのか、どう接すればいいのかに戸惑い、値踏みするような態度になるのも無理はない。キャリアの赴任先は捜査二課や公安部が既定路線で、捜査一課への着任もごく稀だ。
 そこに予想外の声があがった。
「くれぐれも邪魔だけはしないで下さい」
 最前列にいた、短髪に白いものが目立つ大柄な中年の男だった。いかにも柔道経験者らしい固太りで、眉間には深い皺が刻み込まれている。
「自分が至らないって認識してるだけマシですがね」
「おい、ナベちゃん」
 私の隣にいた、捜査一課長の大東芳雄(おおひがしよしお)が語気を強めた。大東の鋭い目とこけた頬は独特の威圧感がある。全体挨拶に先だった顔合わせで、先月末に五十歳になったと聞いていた。
「ここにいる全員の心の声を代弁しただけですよ」
「だからさ……」
「邪魔にならないよう心がけます」
 私は二人の会話を遮った。声なきざわめきが室内に走ったのを感じた。
 本心からの発言だった。異動の内示を受けた後、人事係の先輩がわざわざ私の席まできて耳打ちしてくれたのだ。
 ──神浜は大変だぞ。
 多くを語らない分、先輩の本気度も伝わった。あの時、私は腹を括った。捜査ではとにかく足を引っ張るまいと。
「とにかく、なんだ、しっかりやっていこうや」
 私の背後で刑事部長の森谷満(もりやみつる)がぞんざいにまとめた。

 赴任三日目の夜、変死事案が発生した。午後九時に所轄から本部の捜査一課に出動要請が入り、当番日の私が臨場する流れになった。出動要請があっても、即本部の一課が出張るとは限らない。まず管理官のようなしかるべき立場の人間が出向き、変死が他殺かどうかを見極めるのだ。所轄では解決できそうにないと判断すると、本部の捜査一課の投入を決める。
 私は補佐役との臨場になった。
 ──悪く取らないでほしいが、警察であるからには結果は出さないとならん。よって君には補佐をつける。
 赴任初日、大東に事務的に告げられた。恥をかかせまいとする計らいであり、お目付け役──監視の面もあるのだ。捜査に失敗すれば、県警の恥になる。私に不満はなかった。実地経験なんて交番や所轄で多少積んだ程度だった。主に警察庁で書類仕事をしてきた人間に、捜査一課を動かすかどうかをジャッジできるはずもない。
 補佐役は渡辺慎作(わたなべしんさく)。私が挨拶をした際に揶揄を飛ばした男で、捜査一課四係の班長だ。階級は私と同じ警部だが、経験と実績には明らかな差があった。渡辺は十八歳で県警に入り、以来約三十年、多くの現場を踏んでいた。いつも眉間には皺が刻み込まれている。揶揄を飛ばした時、渡辺は不機嫌だったのではなく真顔だったのだ。私と行動をともにする間、四係は大東がじきじきに率いる運びになっている。
 管理官は運転手付きの専用車で県内各地を移動する。現場は県警本部の建つ神浜市内中心部からはやや離れた住宅街で、私は渡辺と後部座席に無言で並んでいた。何を話していいのかわからなかった。実力もないのに地位が上の二十代の若造が、経験豊富で有能な五十歳近い部下と一体何を話せばいいというのか。
 窓の外を過ぎていく繁華街は、大勢の若者や会社員で賑わっていた。
「神浜は好きですか」
 渡辺が不意に尋ねてきた。
「まだ赴任三日です。何とも言えません」
「率直ですな」
「欠点なんですよ」
 普通なら『好きです』と返答すればいい。自分が暮らす街を褒められ、悪い気がする者はいない。捜査員との関係性を構築していかねばならない立場を踏まえれば、『気に入りました』という一言が要る。そう認識しているのに私には言えなかった。
「赴任前、神浜について何か知識はあったんですか」
「幕末に再び国際港になった点と、日本最大の広域指定暴力団が本部を構えるという程度です」
 私の神浜市に対する知識は乏しく、新幹線の新神浜駅で降りると、港街でありながらも山が近い地形に驚くほどだった。もちろん、街について赴任前に一応は調べた。
 山と海に挟まれて東西に長い神浜市は人口約二百万人の政令指定都市で、六つの行政区に分かれている。平安時代に国際港となって発展し、古くから活気に溢れた街だったという。今でも年間を通じて国内外から多くの観光客が訪れ、神浜港のポートツリーや赤レンガ倉庫、同港に近い旧外国人居留地、明治初期に外国人が事務所を構えた坂の上の洋館街は人気スポットだ。
 ただし資料で知るのと、実際に見聞するのとは別次元の話になる。
 赴任二日目、三時間ほど街を車で走ってもらった、県警本部がある神浜市中央区の中心地はこじゃれた繁華街だが、数分西に行くと急に建物の屋根が低くなり、下町の風情を漂わせた。隣の神代(じんだい)区に入ると、夏は海水浴客で賑わう砂浜や海にせり出すような崖など、目を引く自然も多かった。中央区に引き返し、今度は東に進むと浜区と東浜(ひがしはま)区という住宅地があり、山の手の趣が色濃くなった。
 港町らしく、神浜市には色々な国籍の人が暮らしていた。華僑、韓国人、ムスリム、欧米人、南米人。中華街、モスク、教会、各国の料理店なども各地にあり、多様な文化が街に根づき、実に国際色豊かだった。
「では、V県についての知識は?」
「県庁所在地が神浜市で、県内には絵葉書になる優美な城があり、日本有数の工業地帯も抱え、プロ野球の球団やJリーグのチームが本拠地を構え、特産品はキャベツ、タマネギ、栗、神浜牛といったところでしょうか」
「教科書の記述みたいですな」
 的を射た指摘だった。教科書同然の硬い記述が並ぶ、県発行の社会経済白書で仕入れた知識なのだ。私は東京で、V県警の過去数十年の犯罪発生件数や検挙率などが記された統計資料まで読み込んできた。
 会話が途切れ、エンジン音だけがした。これまでも、と渡辺が再び声を発する。
「県警にキャリアの方は赴任されてます。でも管理官のように捜査一課、おまけに第一線の役職での赴任は初めてなんで、誰もが戸惑ってるんです」
「私も戸惑ってますよ」
「やっぱり率直ですな。普通なら自分の弱みは見せない。特に偉い人はね」
「渡辺さんの方が率直でしょう。一応私は上司です。ウチのカイシャで、上司にここまでずけずけ言う人は珍しい」
「偉い人が嫌いなんでね」
「奇遇ですね。私もです」
 含み笑いを交わし合った。笑っても渡辺の眉間に入る皺が消えない。
「もう四十七歳で、出世に興味もない。飛ばされたいのに、なぜだか飛ばされないんですよ」
「本部の捜査一課といえば花形部署でしょうに、離れたいんですか」
「管理官も私くらいの年齢になったら、のんびりしたくなりますよ。かといって、生活のためにも辞めるわけにもいきません」
「のんびりしたいのに申し訳ありませんが、色々とご迷惑をかけるかと」
 渡辺がやおら居住まいを正した。
「失礼を承知で申し上げます。いまの管理官には第一線の警官として経験、実力、勘などあらゆる要素が足りない。いわば青二才なんです。すべてうまくやろうって方が無理でしょう。いい大人は青二才が失敗しても、迷惑とは思いません」
「渡辺さんはいい大人だと?」
「そうありたいと願ってます」
 十五分ほど走り、現場に到着した。古い賃貸マンションの一室で、若い女性が真っ白なシーツが敷かれたベッドに倒れていた。着衣の乱れも、部屋が荒らされた形跡もない。部屋の中央にある木製のテーブルにはワインの空瓶が転がり、中身がたっぷり入った飴の袋もあった。他にも使いかけの口紅、髪の毛が絡まったままのブラシもある。遺留品を目にすると、急に胸が詰まった。被害者は、飴や口紅を残して死ぬなんて頭をよぎりもしなかっただろう。まさに明日、ブラシの毛を掃除しようとしていたのかもしれない。
「外傷は?」と渡辺が先着の鑑識に訊いた。
「首に擦過傷、目に溢血点があります」
 絞殺体の特徴だ。鑑識から離れ、渡辺に話しかけた。
「とりあえず私の見立てを言います。誰かが紐か何かで首を絞めたのは明らかでも、本部が出張るのかは微妙な線でしょう。被害者は若い女性で、乱暴された痕も何か盗まれた形跡もない。交友関係を洗えば、容疑者は自ずと割り出せそうです。一方、初動で容疑者が浮かばなければ長期戦を覚悟しないと。長期戦になると、解決が難しくなるヤマです」
 渡辺はほんの一瞬目を見開き、普段の顔つきに戻った。
「付け足すことはありません」
 私はベッド脇の木製棚に近寄った。上から一段目にはファッション誌や文庫本が無造作に詰め込まれ、二段目にはCDがびっしり並んでいる。スマップ、安室奈美恵、ミスターチルドレン、浜崎あゆみ、スピッツ、ドリームズ・カム・トゥルー。
 とりわけ一枚のCDが私の注意を引いた。
「管理官、何か気になる点でも?」
「ええ、いささか。どっちにしろ鑑取りしますよね」
 捜査では交友関係をあたる「鑑取り」、現場付近を聞き込みする「地取り」、その他を扱う「特命」などに分かれて行う。今回の現場を見る限り、鑑取りが最優先だろう。
「そりゃ、鑑取りは外せないでしょうな」
 渡辺は私の質問の意図を計りかねたのか、低い声で言った。
 私は本棚を指さした。
「このCDの所有者を調べて下さい。部屋に出入りしていた人物でしょう」
 とても被害者の守備範囲とは言えないジャンルの一枚だった。
「ハイドン?」と渡辺が首を傾げる。
「交響曲の父です」
「さすが、高尚な趣味をお持ちで」
「まさか。音楽の授業で一、二度聴いた程度ですよ」
 翌日、犯人は逮捕された。私が目をつけたCDの持ち主だった。犯人の男は『別れ話がもつれて口論となり、カッとなった』というありふれた動機で犯行に及んでいた。
 この一件は私の存在を県警内に広く知らしめた。良かったのか、悪かったのかは定かでない。いや、世間一般の基準で判断すれば悪かったのだ。
 私が人殺しとなる一つの要素となったのだから。

 若さとは失ってみて初めてその重さやありがたみを痛感する。
 ハイヤーのシートに頭を預けた。窓には、老けた私の顔が今も変わらぬ街にうっすら重なって映っている。
 二十年。それなりの時間の塊だ。あの頃、私は若かった。本当に若かった。
 あの日、私は祈りも涙も忘れていた──。

第一章 二〇〇一年八月

 木造二階建ての戸建てが荒々しく燃えていた。辺り一帯に煤のニオイが立ち込め、喉がいがらっぽい。木の砕ける音は消火活動や消防無線のやりとりをかき消すほどだ。
「すごい勢いの火ですね」
 ですな、と渡辺が相槌を打った。
 初めての火事場だった。私は渡辺と並び、消防の放水をいくらか後方から見ていた。シャツやズボンが汗で肌に張りつく一方、額や頬は乾いている。炎で蒸発してしまうのだ。顔全体が焼けるように熱い。熱で皮膚が分厚くなり、数分後には剥がれ落ちていってしまいそうな危機感すら覚える。
 先ほど消防の指揮隊長に話を聞くと、即座に第二出動がかかっていた。第一陣だけでは消し止められないほど、最初から大きな火事だったのだ。
 八月十日。世間は夏休み期間で、午後十時を過ぎているのに野次馬も多い。どの顔も炎に見惚れているかのようだ。
 私は六月から急に捜査一課の放火班も受け持った。放火班を仕切る管理官が病気で長期入院したためだった。
 ──まだ捜査経験は浅いけど、甲斐は案外やりそうだ。
 大東の意向だ。悪い気はしなかった。東京に戻れば官僚として組織を管理する側に回り、こうした実地経験を積めなくなる。私は机上の勉強しかしてこなかった弁護士に、もしもの時に自分の弁護をしてもらいたくない。市民だって捜査の最前線を知らない警官に、治安を託したくないだろう。
 通常、放火は秋から冬にかけて増える。空気が乾燥し、寒さから夜に出歩く人も少なくなるためだ。しかし今夏、この一帯では放火とみられる事案──道端のゴミや郵便ポストのチラシの小火が多発していた。
 放火は放置バイクや郵便ポストのチラシを燃やす程度でも、近隣の家に飛び火する危険性もある重大犯罪だが、犯人逮捕は難しい。物証が乏しく、犯行の瞬間を取り押さえないといけない。
 あちこちでフラッシュが不規則にたかれていた。捜査員が全ての野次馬を撮影しているのだ。犯行現場に戻ってくる放火犯も多い。
「これはこれは管理官」
 岩久保茂(いわくぼしげる)が首筋にハンカチを当て、歩み寄ってきた。捜査一課特殊係放火班の班長だ。顎が細い逆三角形の顔立ちで、両目をぎらつかせ、大きな口の端には微かな笑みをたたえている。どこかカマキリを連想させる容貌だ。
「なんで、ナベさんまで?」
 岩久保が憤然と鼻息を吐いた。
 私は二年でV県警を去る。後釜の管理官は渡辺か岩久保だという。現在、本部捜査一課の班長で警部なのはこの二人だけで、実績的にも申し分ない。岩久保は渡辺の二歳下。常に私のそばにいる渡辺は目障りな存在だろう。親しくなれば、私が人事係や大東に渡辺を後任に推す確率は高くなる。そもそも『火事現場で部外者が口を出すな』という自負もあるに違いない。放火班は職人集団の捜査一課の中でもひときわ特殊な専門部隊だ。岩久保の担当歴は十五年近くになり、火災の知識も深い。もともとは強行犯班にいて、"落としのイワ"という異名を持つほど取り調べでも無類の強さを誇ったそうだ。
 私は二人の会話に割り込んだ。
「見立てはいかがです? 例の連続犯でしょうか」
「さて」岩久保が油断ならない半にらみで、声を落とした。「ガソリンのニオイがします。今晩までガソリンを使った犯行はありませんでした」
 岩久保は明言しなかった。見立てが誤った場合の失点を回避するためか。
「煮え切らねえ奴だな」
 渡辺の声は小さくても冷たかった。私は聞こえないふりをした。バチッ、と炎が爆ぜる音がする。
「自殺の線は?」と私は訊いた。
「断言はできませんが、その線は薄いでしょう」
「チラシやゴミを燃やすのに満足できなくなり、ガソリンを持ち出して家に放火したという見立てですか。犯人の心境がかなり飛躍していますね」
「放火犯は欲求がエスカレートしていくんで、突如、ターゲットがチラシから他人の家に変わってもおかしくないんです。いずれにせよ、今後の調べで明らかになります」
「仮に他人の家に火をつけたくなっても、普通はまず空き家を狙うだろ。事件性があるってはっきり言えよ」と渡辺が促す。
「無理ですね。放火は一般的な強行事件と違って、証拠が少ないんで」
「俺が楽をしてるって言いたいのか」
「二人ともそこまで」私は声量を上げた。「確かに放火班は特殊です。でも、強行犯班が応援に入るケースもあります。渡辺さんの経験や視点も生かすべきでしょう」
「そいつは頼もしい」
 岩久保が顎を引いた。
「ガイシャはボクサーじゃなかったんだろ」と渡辺がぶっきらぼうに聞く。
 ええ、と岩久保は短く応じた。生きながら焼けると人間の体は丸まり、ちょうどボクサーがリングで拳を構える姿に似る。被害者は火に包まれる前に一酸化炭素中毒で死んだのだ。生きながら焼かれるよりマシだったと信じたい。私は岩久保の自殺ではないという読みに合点がいった。わざわざガソリンを使って焼身自殺を図るのなら、頭からかぶって自分に火をつけるのが大半だろう。この場合、焼死体はボクサーポーズになる。
「勝手ながら解剖は明日の朝一番に手配しておきました。もちろん司法解剖で」
 岩久保は『ぬかりなく捜査を進めているので応援は不要だ』と言いたいのだ。変死事案では二種類の解剖がある。行政解剖と司法解剖だ。事件性が高いと、より詳細に遺体を調べる司法解剖が行われる。
「おい、事件性があるとみてんじゃねえか」
 渡辺が切り込むと、岩久保は肩をすくめた。
「大きく構えるのが放火班の捜査では肝要でしてね」
「身元判明はいつ頃になりますか」と私は会話を引き取った。
「さて。消火中の家に住む男性と連絡がとれないのは確かです」
 九割九分、その男性だろうに岩久保はやはり明言しない。
 消防の無線がまた唸り、新たな焼死体の発見を知らせた。岩久保が舌打ちする。
「また焼き鳥か。二体目かよ」
「嫌な言い方しやがって」
 渡辺が吐き捨てた。焼き鳥。焼死体の隠語だ。死者を貶めて聞こえるので、私は使いたくない語句だった。食べ物としての焼き鳥が悪いのではない。
 なおも炎は猛々しく踊っている。夜の底をむさぼり食っているかのようだ。
「帳場を立てないといけなそうですね」
 私は棒読み口調で言った。

 現場を岩久保に任せ、私は渡辺と規制線の外に出て、野次馬の強固な人垣を抜けた。一向に減らない人垣は抜けるのも一苦労で、汗でズボンとシャツがより一層肌に張りついた。微風を浴びるだけでも生き返る心地がする。
 現場を離れると、辺りは静かだった。消防無線や放水の音が遠く近くに聞こえるが、夜の静寂が住宅街を呑み込んでいる。炎の熱も届いてこない。小高い丘の住宅街で、神浜市街が見渡せる。
 空には星が瞬いていた。東京より明らかにその数は多い。星空を見て、かつて自分たちを中心に世界が回っていると信じた人がいた。心情は理解できなくもない。先人たちの大いなる勘違いは、ある真理を教えてくれる。結局、私たちは自分自身を疑った方がいいのだと。
「管理官、どうかしましたか」
「いや、星が綺麗だな、と」
「ほう」渡辺も見上げた。「久しぶりに夜空を見ました。先に公用車に戻ってますので」
 渡辺が遠ざかっていった。
 私はセンチメンタル過ぎるのだろうか。焼死体が二体も発見されたばかりなのに、星を眺めている。
 しばらく夜空を仰ぎ、視線を戻すと、数メートル先に人影があった。こちらを見ている。
 すらりとした、真っ白なワンピースを着た長い髪の女性だ。大きな目が印象的だった。なぜ私を見ているのだろう。声をかけてみるか。放火犯はこの道を通って逃走し、彼女が目撃者という見込みもある。管理官の聞き込みは異例でも、こだわる必要はない。
 近づくと、女性は私ではなく、火事の方向を眺めていた。ますます話を聞いた方がいい。
「すみません」
 おもむろに女性が私と目を合わせた。
「何か」
 女性は私と同世代だった。はっきりした目鼻立ちで化粧っけはなく、角の取れたまろやかなオレンジの香りがし、街灯の光を薄く反射する髪もしなやかだ。百七十五センチの私より身長はやや低い。汗をかいている気配もない。急に自分の汗臭さが心配になったが、声をかけた以上は立ち去るわけにもいかず、警察だと名乗り、火事があった方から逃げてくる者がいなかったかを尋ねた。
「さあ。だいたい、知っていても答えませんよ」
 女性は真顔だった。
「ご協力をお願いします。この付近で放火事件が頻発しているんです。あなたの一言が犯人逮捕に結びつくかもしれません」
「連続放火は新聞で読んで知っています。それとこれとは話が別です。わたしは警察が嫌いなんです」
 毅然とした物言いで、女性の顔色はやはり変わらない。冷たいというのではなく、透明といった印象だ。警察を好きな人間の方が少数派で、普通は関わりあいを避ける。とはいえ、面と向かって警察への嫌悪を言われるのは初めてだった。
「率直ですね」
 私は思わず口に出した。
 女性は一瞬だけ夜空を見上げ、ふっと表情を緩めた。
「もしわたしが何かを知っていて、それを話せば事件が解決するとしても、警察に手を貸すつもりはありません。大きな顔をしていても、何かが起きないと何もできない人たちなので」
 腹は立たなかった。彼女の言う通りだ。警察は起きた犯罪に対処するしかない。国に対する犯罪を未然に防ぐべく動く公安部とて、結局は何かが起きているからこそ、要注意人物なり組織なりを監視対象にする。
 重く湿った夏の風が吹いた。女性の長い髪が潮の香りも混ざった風にそよいでいる。
「お巡りさん、警察の仕事って何ですか」
「大きく言えば、治安維持でしょう」
「誰のために?」
「もちろん市民のために」
 どこか後ろめたかった。言葉とは結局、相手ではなく自分自身に向けられるのだろう。私は高潔な決意を抱いて警察官僚になったのではない。正論を吐いていいほど清潔な人間でもない。中学時代には悪友たちと煙草を吸い、高校時代は酒も少々たしなみ始めた。大学時代は学校にも行かずに三日間ぶっ通しで麻雀をしたり、スーパーマーケットのアルバイトでは廃棄すべき弁当を裏で大量に食べたりもした。
「本気で思ってるんなら、お巡りさんは偽善者ですよ」
「世の中には偽善者も不可欠でしょう。もし世界が聖人君子ばかりになれば、私みたいな偽善者はお払い箱ですけどね」
 また風が吹いた。先刻より強い風で女性の柔らかそうな前髪が持ち上がり、数秒後、額にはらはらと落ちた。女性が髪をかき上げる。
「女は俄然、偽善に興味が出たと憮然と言った」
「え?」
「警官は当然、唖然とした」女性は整った眉を器用に上下させた。「単なる言葉遊びですよ」
「依然、警官は呆然と女を見ていた。ううん、イマイチですね」
「お仕事、頑張ってください」
 女性が背を向け、坂を下り始めた。後ろ髪が一歩ごとに左右に揺れている。
 彼女を見送り、管理官専用車に戻るとエアコンが効いていた。体の表面の汗が冷気で削ぎ落とされていくようだ。渡辺が天井を指さした。
「随分と長く星をご覧になってたんですな。東京と比べると、やっぱり違いますか」
 まあ、と短い返事をし、女性とのやり取りを話さなかった。隠す事柄でもないが、わざわざ人に聞かせるほどでもない。
 県警本部に向け、出発した。住宅街を過ぎ、市の中心部に至ると、渡辺がおもむろに声をかけてきた。
「官舎の住み心地はいかがです」
「独り者には広すぎます。使う部屋は限られてきますよ」
 神浜に赴任した歴代のキャリアが住んできた二階建ての一軒家だ。県警に近く、繁華街にもすぐ出られる一等地にあり、八部屋もある。家族連れにはもってこいでも、二十六歳の若造が暮らす家ではない。
「官舎といえば、若い頃は寮生活が性に合いませんでね」と渡辺が疎ましげに言った。
「だから、ご結婚したとか?」
 警官は概して結婚が早い。結婚して一人前とみなされる傾向もある。辞めづらくする狙いもある。
「ええ、まあ。手痛い失敗だったんでしょうな。結婚で成功したって男を見た憶えもないし。特に警官でね。管理官も結婚には気をつけて下さい。むろん、子どもは可愛いですよ。一人娘でしてね。といってもこんな仕事です。小さい頃は、たまに早く帰宅すると『知らないおじちゃんがいる』ってよく泣かれました。挙げ句、あっという間に思春期になって無視されるんです」
「因果な職業ですよね。お子さんは何をされてるんですか」
「大学を中退して、アメリカに嫁にいきました。当時、まだ二十一歳でしてね。生き急がなくてもいいのにと思いましたが、祝福はしましたよ」
 火災の鎮圧、鎮火の報を待つために捜査一課のフロアに入った。ソファーに寝そべり、週刊誌を読む当直員が一人いるだけだった。当直員が私たちを見て起き上がろうとし、渡辺が手を挙げて制した。
 鎮圧報は午前零時に、鎮火報は三時半に受けた。一般には知られていないが、火災が完全に鎮火されるにはかなりの時間がかかる。
 そのまま県警で朝を迎えた。朝飯を買ってきます、と渡辺は欠伸を嚙み殺して出ていき、コンビニの袋を提げて戻ってきた。私の分はサンドイッチと缶コーヒーだった。渡辺は大きめの紙コップに昆布のおにぎりを入れ、ブラックのホットコーヒーを躊躇なく注いだ。
「何してるんですか」
「コーヒー飯を作ってるんですよ。古い日本人なんでね、朝飯には米が食いたい。でもコーヒーも欠かせない。だったら一緒にしちまえばいい。時間の短縮にもなりますんで」
 渡辺は徹夜明けの眠たげな目で平然としている。
「ベテラン刑事の知恵?」
「いやいや。こんなことをする刑事は、日本広しといえども私だけでしょう。かれこれ十年以上になります」
「うまいんですか」
「まさか。一日の始まりにマズイもんを食わなきゃならん人間ってだけですよ」
 渡辺がコーヒー飯をずるずるとかき込んだ。心なしか、眉間の皺が深くなっている。
 九時、遺体の男女の身元が割れた。六十代の夫婦で、いずれも火傷以外に外傷はなく、夫は一酸化炭素中毒で死亡。妻の遺体はボクサー状態で気管からは煤が検出され、死因は重度の火傷と判明した。ガソリンをかぶった焼死体の特徴はどちらにもなかった。現場付近で小火が頻発している点と遺体の状況やガソリンの撒かれ方などを鑑み、失火の線は低いとみて管轄の神浜中央署四階の大会議室に帳場──捜査本部を立てた。神浜中央署は規模の大きなA級署に位置づけられ、県警本部から歩いて十五分ほどの場所にある。帳場の窓や屋上からは隣接する有名な神社の境内が一望できた。
 初めての捜査会議には大東もやってきた。冒頭、大東は捜査員を鼓舞した。
「妻の方は生きながら焼死した。心中は察するに余りある。迫る炎、炙られる皮膚、何もかもが燃える音、苦しい呼吸、目の前にいるすでに動かない夫。いいか。光景を想像しろ。できるだけ生々しく、リアルに想像しろ」
 大東は数秒の間を置き、息荒く言い連ねた。
「彼女の苦悶や無念を誰が晴らすのか。俺たちだ。俺たちしかいない」
 二十人ほどの捜査員は誰もが鋭い目つきで、仕切り役となる私は彼らをひな壇から見ていた。他の強行犯班は帳場に入らず、特殊係放火班と所轄とが捜査に当たる。実力不足の私ではなく、岩久保が実質的に指揮を執る帳場だ。経験豊富な岩久保がいるので、私がこの帳場に通う間は渡辺も目付け役を外れる。
 捜査会議を終え、官舎に戻ると携帯電話が鳴った。
「何も話せないぞ」と私は開口一番に言った。
「お前からネタを取ろうと足掻くほど、落ちぶれてねえよ。管理官殿」
 相馬祐(そうまゆう)が鼻で笑う声が漏れてきた。大学の同級生だ。私たちは都内の国立大学で法律を学んだ。二人とも司法試験を受けられるほど本腰を入れたわけではない。成績表にはCやDが並び、時折Bがある程度だった。
 相馬は卒業後、出身地の神浜市に戻り、地元紙の神浜新聞社に入った。私は今回の異動内示を受けた時、相馬の顔がまず浮かんだ。記者の友人がいることを県警の誰にも言っていない。相馬も明かしていないだろう。捜査一課の管理官が知り合いなのに他社に特ダネを抜かれれば、同僚に白眼視される。相馬は県警担当──いわゆる"サツ回り"の記者だ。
「今日の火事場で管理官殿も見かけたぞ」
「相馬もいたのか?」
「鑑識のカメラにばっちり写ってるだろうよ。水も滴るいい男がね」
「いい男すぎてズブ濡れだろうな」
 二人の笑い声が重なった。私は久しぶりに声を出して笑っていた。
「で、何の用だ」
「来週の話だよ。焼肉には行けそうか」
「どうだろうな」
 受け取り方によっては、相馬は放火殺人事件の探りを入れてきたとも言える。予定の日までに容疑者が逮捕されれば参加できる。未解決なら、管理官は発生一週間の帳場を抜けられない。
「つれない返事だな」
「俺が行けないとなると、相馬も行けないんだよ」
「早期解決を目指して頑張ってくれ、我らがお巡りさん」
「他人事だな」
「そりゃ、他人事だよ」
 焼肉の件は一カ月前に相馬と決めていた。相馬の親戚が経営する焼肉店が神浜市神代区にある。上質な肉と安さから、かなり繁盛しているらしい。夏は焼肉にビールで決まりだろ、と相馬に誘われたのだ。
「やっぱり捜査の感触を取ろうとしたんじゃねえのか」
 別にどっちでもいい。漏らす気もない。
「まさか。管理官殿は最近聴いてんのか」
「全然。時間がなくてね」
「こっちもだ。俺たちの有り余ってた時間はどこにいっちまったんだ?」
 大学時代、何もしないと決めた日はひたすら何もしなかった。登校もバイトも食事もせず、ただ部屋で横になってぼうっと雲を眺め、夏は窓からの風を浴び、冬は布団に包まる。そんな日が一カ月に数日……いや、十日はあった。陽がいつ落ちたのか気づかないまま、部屋が暗くなっていた時も多かった。
「さあね、どこかに消えてなくなったのか、見知らぬ誰かに引き継いだのか。何にしても、俺も相馬もあんな栄光の日々をもう二度と過ごせないんだよ。帳尻は合ってるのかもな」
「あ? 帳尻?」
「鼠も鯨も人間も、死ぬまでの鼓動の回数は同じくらいって話を知ってるか。のんびり心臓が動いてた分、今は激しく動かす羽目になったんだよ」
「お前は坊さんか。悟りすぎだぞ」と呆れた調子で言った相馬が、急に真剣なトーンになった。「来年か再来年にポールが来日するんだってさ」
「なんで相馬が知ってんだよ」
「ウチの文化事業部が絡んでんだ。極秘で頼む」
「見返りはないぞ」
「だから期待してねえって」
 大学一年の五月だった。一般教養の英会話の講義中、突然相馬が歌い出した。講義では日本語の使用が禁止され、すべて英語で話さねばならなかったのだが、相馬は言葉に詰まり、歌い始めたのだ。相馬は実に気持ちよさそうに歌った。すると初老の英国人女性講師がコーラスに参加しだし、私も加わった。他の学生はぽかんと私たち三人を見ていた。蔑むような目もあった。曲はビートルズの『イン・マイ・ライフ』。私が最も好きな歌だ。同級生では私と相馬以外、誰もビートルズを聴いていなかったらしい。当然だろう。六〇年代ならともかく、九〇年代だった。愛と平和の幻想は消え去り、金と戦争の時代の真っ只中。相馬と私は時代遅れなのだ。
 ビートルズの名曲が縁で、私と相馬は行動をともにするようになった。私はジョン派、相馬はポール派。ジョージも二人と同じくらいに凄いと思う点は一致した。リンゴが欠かせないという点も。
「俺たちの忙しさが、慈悲深き神による帳尻合わせのせいだとしても、音楽も聴けない生活ってどうなのよ」相馬は溜め息混じりだった。「働くって何なんだ?」
「深遠な問いだな。俺たちの手に余る」
 大学四年の秋、女の子に言われたセリフが私の胸の内をよぎった。あれは少しいい雰囲気の仲になった頃だった。
 ──なんで警察に入るの? きつそうじゃん。
 ──若いうちは苦労しろっていうし。
 ──なんで進んで苦労しなきゃいけないの?
 彼女とは結局、それっきりになっている。

 放火殺人事件の発生から十日が過ぎた。判明した事実はいくつかあるが、直接犯人に結びつく証言も物証もない。
 焼死した高齢夫婦は穏やかで恨みを買う性格ではなく、金銭面もクリーンだった。内面を完全に推し量るのは難しいとはいえ、二人には自殺をほのめかす言動もなかった。つまり、早期解決が求められる。怨恨による犯行なら本件で打ち止めになるが、愉快犯による所業なら、犯行が続くと想定すべきだ。放火犯は犯行を重ねる傾向が強い。
 夫が五年前に神浜市内の食品会社を定年退職して以来、二人は庭いじりに没頭する生活を送り、二週間に一度、夫婦揃って中央区内の高級店が並ぶ、"山野(やまの)"というエリアの老舗レストランにいくのを楽しみにしていたという。山野はJRや私鉄の神浜駅から見て山側にあり、洋館街にも近く、訪れる者もきちんとした身なりを強いられるエリアだ。二人も着飾って出かけ、近隣住民によるといつも服が違ったらしい。北海道に暮らす娘夫婦は数年に一度しか両親に会っていない上、電話もあまりしておらず、二人の山野通いすら知らなかった。無理もないだろう。私も実家の現状など皆目見当もつかない。
 この日も収穫のない捜査会議が終わり、捜査員は三三五五、帰宅の途についた。帳場に残るのは宿直の数人を除き、私と岩久保だけだ。
「管理官、どうもすみませんなあ。精一杯、指揮を執ってるんですがねえ」
 含みがありそうだが、私はあえて聞き流し、言った。
「これまで通り、粛々とやっていきましょう」
 今しがたの会議での結論でもある。岩久保が目元を引き締めた。
「真夏の火事となると、嫌でも十二年前を想起しちまいます。私は兵隊の一人でした」
 閉め切った窓の向こうから真夜中なのにセミの鳴き声が聞こえはじめ、帳場の蒸し暑さが一気に増した。県庁の終業時刻と同時に県警の施設のエアコンも止まってしまう。条例で決まっているのだ。窓も開けられない。会話が風に乗り、記者の耳に届くリスクがある。
「あの時は」と岩久保が首を振る。「警官の家から出火したんです。家族は無事だったものの、最後に猫を助けようとした警官が焼死してね。それは仕方ありません。問題なのは出火原因を早々に煙草の不始末にしちまった点です」
「他の火元がありえたと?」
「今となっては定かじゃありません。リビングがよく燃え、窓も割れるほど凄まじい炎だったんです。熱で溶けたガラスもありました。激しい燃え方からして、いきなり大きな炎が生まれた可能性があります。こいつは煙草の火の不始末くらいでは難しい。要するに全く別の原因かもしれないのに、上は捜査を打ち切った。恥の上塗りを避け、蓋をしたんですよ」
「恥? どういうことですか」
「死んだ警官は相当酔ってたらしいんです。居間からジンやウォッカと思しき酒瓶が何本か見つかってます。その酒瓶も溶けていて、砕け散った破片もありました。これまで飲んだ分もあったんでしょうが、マスコミに漏れたら面倒じゃないですか。アル中の警官ってレッテルを貼られるのは目に見えてます。県警も叩かれ、組織にとって大きなダメージになる。あの時に学んだんです。黙って上に従ってたら、本当の仕事はできないって」
「卓見ですね」
「ご理解を賜り、光栄です。では失礼します」
 岩久保の背中を目で追った。どこか意気揚々とし、肩が笑っているようにも見える。
 汗で湿った指で書類を整え、私も帳場を出た。電気の消えた廊下でエレベーターを待っていると、蒸し暑さでめまいがしそうだった。
 エレベーター脇にある階段の下方から声がした。煙草の煙も立ちのぼってくる。この時間なら放火殺人の帳場に入る捜査員たちだ。四階の帳場でも煙草を吸えるが、彼らは居残ってまで吸う気が起きず、かといって仕事後の一服はしたい。そこで三階の自動販売機横にある喫煙スペースに出向いたのだろう。
 エレベーターは三階から二階に下りていた。四階にくるのは数分先か。私は何の気なしに捜査員たちの会話に耳を傾けた。
 ──だから、若造に言ってやったんだ。
 岩久保の得意げな声だった。
 ──さっき二人で話してた時ですか。
 ──ああ。無能野郎ってな。いずれ目に見える形で引導を渡さねえとな。どうせ足を引っ張られるだけだ。二課の先輩も、ずっと東京からの能無しを排除してきた。ここでやらなきゃ、二課の連中に笑われる。負けてらんねえよ。
 さすが班長、と追従の声が上がる。私は肩で息を吐いた。陰口に対してではない。
 ──あ、おい、待て。
 岩久保は吠えるように言い、ったく、と舌打ちを続けた。一階まで下りたエレベーターがようやく二階、三階と上がってくる。
 ──所轄の小僧の分際で生意気だな。いくつか手柄を立てたからって、いい気になってんじゃねえのか。シメとかねえと。
 エレベーターのドアが開き、私は無人の箱に乗り込んだ。三階でもドアが開いた。乗ってきたのは私と同年代で、帳場でも見る顔だった。男は、お疲れ様です、と頭を下げてきた。
「お疲れ様でした。煙草はうまかったですか」
「残念ながら」
「名前は?」
「阿南大輔(あなんだいすけ)です。阿南は阿波踊りの阿に、南北の南です」
「名乗る時、いつも苗字の字解きを付け加えてるんですか」
「今後何度か会いそうな方には。コナンとかハマンとか、たびたび外国人の名前めいた間違え方をされるので」
 一階に到着し、ドアが開いた。阿南はドアを押さえ、私に目配せしてきた。私は目礼して先に降り、振り返った。
「煙草は一人で吸うからうまいんじゃないですかね」
 阿南が心持ち目を広げた。
「管理官のご意見に賛成です」
「多分、我々は警官に向いてないんでしょう。群れたがらないから」
 阿南もエレベーターから降りた。
「管理官と私の性根がどうあれ、仕事は仲良しこよしでやればいいもんでもないでしょう。しかも我々は警官にじゃなく、社会人に向いてないんです。社会不適合者なんですよ」
 違いない、と私は微笑み、話を継いだ。
「仕事とは、働くとは何なんでしょうね」
「これとは言い切れませんけど、誰かの代わりにおのおの厄介事を引き受けてるって面はありますよ。手間暇かけて野菜を作ったり、取引相手を説得したり、小説を発表して酷評されたり、きっちり計算通りに家を建てたり」
「そして我々は放火殺人事件を解決しないといけない」
 赴任前に人事の先輩から受けた耳打ちは、『強行犯班が出動する事件が頻発するから覚悟しておけ』という助言だと認識していたが、岩久保の言動を鑑みると、別の意味だったのか。先輩もはっきりと言及できるはずがない。現地に向かう者を萎縮させる上、万が一、何らかの理由をつけて内示を反故にされれば自分たちの判断を問われる。
 V県警では、岩久保のような腕に覚えのある者に寝首を搔かれかねないのだ。それが県警の気質で、捜査一課も捜査二課も公安部も関係なく、何人ものキャリアが神浜で失脚してきたのだろう。
 無能野郎。評価は事実なので腹立ちはないが、心に期するところはある。若造であっても警察官僚なのだ。無能のままではいられない。
 官舎に帰宅し、着替えずに居間のソファーに座っていると、今夜もインターホンが鳴った。悪名高い、記者たちの夜回りだ。彼らは朝と夜に県警幹部の自宅を訪問し、ネタを摑み取ろうとする。
 ──こっちだって好きで夜回り朝駆けをやってるんじゃねえよ。警察が毎日会見を開いて、包み隠さず全部教えてくれるんなら誰もしないさ。
 以前、相馬がサツ回り記者の本音を友人として教えてくれた。警察が記者に明かす捜査情報はほんのごく一部だ。話す義務もない。今後も夜回り朝駆けは日本から消えないのだろう。
 記者たちの夜回りを次々に受け、特に何もない、と言い続けた。記者を煙にまく常套句だが、事実でもある。私が受け持つ放火殺人事件の捜査に進展はない。
 夜回り攻撃が終わり、居間に戻ると腹が鳴った。夕飯を食っていない。店屋物が続いているため、今晩は帳場で注文を取りにきた捜査員に不要と応じていた。
 冷蔵庫の中は水とビールだけだった。一リットルのペットボトルを取り出し、とりあえず水で腹を膨らませた。カレンダーが目に入る。相馬と焼肉に行く予定は流れたままだ。
 横になると、たちまち眠りに落ちた。

 電話が鳴った。枕元の時計は午前六時を示している。捜査一課の宿直からだった。
「殺しの発生です。手足をロープで縛られた男が神浜港に浮いてました。死後数日が経っているようで、四係が投入されます」
 自分が指揮を執らない事件でも、こうして連絡が入る。今日から夜回り朝駆けの数は減るはずだ。電話を切り、立ち上がってカーテンを開けた。いい天気で、すでに陽射しも強い。
 案の定、朝、官舎に記者は一人も来なかった。遺体発見現場の神浜港や捜査一課長の自宅に向かったのだろう。
 帳場に出た。午前中が何事もなく過ぎ、午後三時、責任者席で届いたばかりの夕刊を開いた。岩久保は遅い昼食に出かけ、帳場には私と内勤班の二人だけで、電話も鳴らない。
 各紙社会面に、今朝連絡のあった殺人事件の記事が掲載されていた。被害者は一週間前から無断欠勤していた神浜市在住の男性税関職員で、三十四歳独身。体には暴行を受けた痕が見られるという。記事では、県警は被害者の交友関係などを慎重に捜査する方針だとある。
 帳場のドアがおもむろに開いた。渡辺だった。
「陣中見舞いです」渡辺は栄養ドリンクが何本も入った箱を内勤班の机に置き、私のもとにやってきた。「どうやら、いい時に来たようですな。岩久保がいない」
「相変わらず率直ですね」
「唯一の取柄ですので」渡辺が私の読む夕刊を一瞥した。「ひどい話です。発表では伏せられましたが、ガイシャは手の指が全て折れ、肋骨も三本ひびが入り、両耳も削ぎ落され、石の錘までつけられてました」
 錘をつけられて水に沈められても、内臓が腐乱してガスが発生し、遺体が浮き上がってくる事例はよくある。遺体の状況からして、暴力団による拷問か制裁か。
「さすがですな、管理官」
「何がです?」
「ヤマを崩す糸口をたちどころに悟ったご様子で」
 私は顔の前で手を左右に振った。
「誰でも察しますよ。ガイシャはマル暴と関わりがあったんですかね」
「現時点で、その線は出てないみたいです。マル暴に動きもありません。他にどんな連中がこんなひどい仕打ちをしないといけないのかが鍵でしょう」
「犯人は遺体が浮き上がることすら計算に入れたようですね」
「ええ、見せしめとして」
 殺人事件の捜査の行く末とは別に気にかかる点がある。
「ところで、渡辺さんにガイシャの状況を聞いた時、私の顔色は変わりましたか」
 内面が表情に出るのはまずい。夜回り朝駆けで記者に気取られるリスクが生じる。
「いえ。大丈夫ですよ。よほど親しくする記者じゃないと、読み取れんでしょう」
「渡辺さんは、なんで読み取れたんです?」
「そりゃ、顔色や声質で相手の胸中を見極める商売──いわば事件で三十年メシを食ってきたんですから」
「失礼しました、愚問でしたね。渡辺さんは帳場に入らないんですか」
 朝、神浜港の事件に四係を投入すると連絡があった。四係の班長は渡辺だ。
「ええ、傍観者です。管理官のお世話係として、『一応本部で待機しろ』と森谷部長の命令です。宙ぶらりんでしてね。四係の兵隊頭は菅原(すがわら)さんなので、任せておけば大丈夫でしょう」
 菅原圭造(けいぞう)はV県警の要とも言える。私は顔を合わす機会を持てていないが、以前、移動中に彼の経歴などを渡辺から聞いた。
 菅原は年次的には渡辺の六期上になる。昇進試験を受けず、階級は警部補のままだが、的確な筋読みと実績から歴代の捜査一課長や刑事部長にも頼りにされてきた。若手の面倒見がよく、身に付けた捜査術をすべて教えるという。そこが一般的な刑事とはまるで違う。
 刑事は激務だ。ひとたび事件が起これば真夏だろうと真冬だろうと休み返上で終日歩き回ったり、一晩中外で張り番をしたりしないとならない。手柄を自分で挙げる──という確固たる自負心がないと、そんな過酷な日々には耐えられない。結果を出すために刑事は試行錯誤を繰り返し、先輩を間近で見て行動を真似て、一人の職人として捜査力を向上させる。それゆえ、捜査術を自ら教える習慣はない。いざ手柄に至る端緒を手に入れても、自分が犯人に手錠をかけられる算段がつくまで捜査会議で明かさないほどだ。県警本部の捜査一課に上がった人間なら、なおさらこの傾向が強い。
 菅原に指導を受けた者たちは各部署の班長などとして活躍し、菅原塾生と呼ばれている。捜査一課長が直々に菅原と組ませる若手を選ぶケースも多いそうだ。 
「早くお会いしてみたいですね。興味深い人です」
「形式上は私の部下ですが、菅原さんには敵いません。一度訊いたんです。苦労して身に付けた捜査術のあれこれを教える時、もったいないとは思わないんですかって」
「菅原さんはなんと?」
「県警全体のレベルが上がれば、結局は自分が楽になる。プロ野球だって超一流の投手が一人いるだけじゃ、チームは優勝できない。二流でも三流でもいいから、投手が何人も必要なんだ。技術や体を鍛えても、超一流の投手になれるのはごくひと握りだろ。それと同じで、自分を超える刑事もそう簡単には出てこないさ──だそうで」
 胸がすくセリフだった。
「ごもっともな見解ですね。神浜は帳場が立つ事件が頻発しますし。ここで揉まれれば、いい刑事になるでしょう」
「キャリアの方には大変な任地ですな」
 私は肯定の意を込め、無言を返した。
「いい刑事がいい人間だとは限りませんがね」渡辺はいささか悪戯めかした口ぶりだった。岩久保を示唆したのだろう。「何にせよ健康第一です。疲れたら飲んでください」
 渡辺は持参した栄養ドリンクの箱に目をやった。私は目礼した。
「お気遣い感謝します。健康と言えば、夜に軽い何かを食える店を知りませんか」
 いくら神浜市が栄えていても、帳場が引け、夜回りを受けた後に食事をするならコンビニ飯か、全国チェーンの牛丼店や居酒屋しか選択肢がない。以前相馬にも同じ質問をした。記者は締め切りを終えた深夜に食事をすることも多いと聞くからだ。自分で探せよ、とすげなくあしらわれた。
「私が知ってるのは異人坂(いじんざか)上の店くらいですね。ちょっとしたバーというか。夜中でも蕎麦が食えます。鶏蕎麦が名物なんです。鴨せいろの鶏バージョンですね」
 異人坂があるのは県警から歩いて十分くらいの場所で、高級店が集まる山野や、観光地の洋館街にも近い。この坂には明治時代、裕福な外国人実業家の多くが事務所などを構えたという。店の場所を詳しく聞くと、私の官舎からもほどよい距離だった。神浜市中心部の繁華街といえば、北は山際から南は港までの間を指す。自転車なら、十五分もあれば南北を縦断できる狭いエリアだ。官舎はちょうど南北の中ほどにある。
「歴代のキャリアの皆さんも色々と苦労したんでしょうな」
 渡辺がぼそりと言った。
「食事に?」
「食事も含めてです」
 私を評した岩久保の陰口を耳にしたのか? どちらでもいい。岩久保と対峙するのは私だ。
 この夜、帳場は早く引け、記者の夜回りを受け終わったのは午後十一時前だった。
 ポロシャツとジーンズに着替え、財布や手帳を入れた鞄を持って官舎を出た。肌に湿気がまとわりつくが、夜風は心地よい。セミの声はしない。つい最近まで真夜中も鳴いていたのに。夏も間もなく終わるのだ。
 いくつかの細い路地を抜け、異人坂を上りきると、坂下から潮風が吹き上がってきた。
 渡辺に教えられた場所には、いかにも神浜らしい建物があった。うろこ壁に囲まれた、ひっそりと住宅街に佇む洋館だ。東西に延びる市道をさらに西へ進めば、いずれ先日の火事現場に出る。
 重々しい鉄門を抜けると、二階のベランダが目についた。白い壁に半円アーチの掃き出し窓、細かな装飾がある手すり。広い庭にはバラが植えられ、ドアまでは芝生が広がっている。思わず玄関ポーチで立ち止まった。飴色の重厚なドアを前にし、開けるのに躊躇いを覚えたのだ。軽く両頬を叩いた。
 ままよ。ドアを開けた。
 金属製の全身鎧が出迎えてくれた。中世の騎士がまとうような鎧だ。右奥に広い空間があり、BGMが流れている。ジャズ。私には縁遠い世界だ。ピアノ、ドラム、ベース、サックス。音があるのに店内は静謐な印象だった。三つあるソファー席にはそれぞれ男女のカップルが、カウンターの右端には男が一人だけ座っている。遠目でも黒革張りのソファーは味が出ていて、テーブルもアンティークだろうと見当がつく。
 私はカウンター席の左端に座った。ドアと同じ、飴色の見事な一枚板だ。
 照明は絞られ、正面の棚に並ぶボトルの文字もかろうじて読める程度だった。日頃いかに強い光に囲まれているのかを痛感する。視線を巡らすと、カウンターの右端に座る男が薄明りの下で熱心に文庫本を読んでいた。
 店内には木製の古いタンスやダーツ、ビリヤード台もあった。どれも使い込まれた風合いで、壁や天井も長い時間だけが刻める趣を宿し、殊に艶やかな柱は自然のタフさとしなやかさが同居している。学生時代、留学先のロンドンでしばしばこんな光景と出会った。
 大学の図書館で見かける古い本を彷彿させる、布地のメニューを手に取った。視界には若い女性店員がカクテルなどをテーブル席に運ぶ姿がちらついている。
 目を上げると、彫りの深い顔立ちの中年男性バーテンダーが近寄ってきた。
「いらっしゃいませ。何になさいますか」
 店の雰囲気によく合う、控え目な声だった。
「ハイネケンと鶏蕎麦を」
「かしこまりました」
 バーテンダーが小気味いい足取りで去っていく。私は煙草に火をつけた。吸いたい時にだけ吸うと決めて以来、久しぶりの煙草だ。一年、いや二年ぶりか。定期的に鞄の中の煙草を買い換えている。買い換えの度に値上がりしている気がする。初めて吸った時は百八十円だったのに、今では二百三十円。四百円、五百円となるのも時間の問題だろう。
 ゆっくり煙草を吸い、味わうように煙を吐く。カウンターの男が文庫本片手に音もなく立ち上がった。目で動きを追うと、男は店の壁際にある立派な本棚の前に立った。慣れた手つきで文庫本を本棚に戻し、別のハードカバーの一冊を手に取り、再び席についた。
 ハイネケンの瓶とよく冷えたグラスが私の前にそっと置かれた。瓶には早くも細かな水滴がついている。私はバーテンダーに本棚の本を読んでいいのかと尋ねた。
「どうぞ。飾りじゃありませんので。貸し出しはしませんが」
 以前、東京のとある街で本があるバーに入った際、手を伸ばすと、たしなめられた苦い経験があった。手短にこのエピソードを話した。
「いけすかん店ですね」
 バーテンダーは眉を顰めた。
 私は煙草を消して、本棚に歩み寄った。国内外の古い文学作品やミステリが並んでいる。吸い寄せられるように一冊の単行本を手に取り、カウンターに戻った。単行本は革表紙を模した装丁で、金文字でタイトルがつづられている。ページを捲るなり、年季の入った本だけが持つ独特の乾いた匂いがふわりと舞った。
 報告書や新聞以外の文字を読むのは久しぶりだ。文字を目で追う楽しさを、すっかり忘れていた。紙の手触りも心地よい。
 小説の舞台は一九五〇年代後半のオーストリアとドイツで、主人公はハイデルベルク出身のバイオリニストを目指す二十歳の青年バスティアン。彼は演奏技術を養うべき貴重な少年時代を第二次世界大戦で失ったものの、バイオリンの道を諦めきれず、ウイーンにやってきていた。ある日、地元ハイデルベルクで、幼馴染メラニーの父親ルドルフの惨殺体が自宅の書斎で見つかる。妻のラリッサが外出中の惨事で、事件発生当時に在宅していたと思しきメラニーは失踪した。警察はなぜかメラニーの捜索に力を入れず、バスティアンはラリッサから娘の捜索を依頼される。そして、メラニーがミュンヘン行きの列車に乗ったという目撃談によって、現地に向かう。そんな冒頭の三十ページを読み終えた頃、食欲を刺激する香りがした。
 目の前に鶏蕎麦が置かれている。うっすらと肉の脂の浮いたつけつゆには、焦げ目のついた五センチほどの長ネギ数本と五センチくらいの鶏肉がいくつか入っていた。丁寧にざるに盛られた蕎麦の量も多すぎず、少なすぎない。
 バーテンダーが目を細める。
「ラマイオリヒの本を手にとった方は久しぶりです。ラマイオリヒ・トミジチ・グヤワフ。舌を嚙むほど言いづらい名前ですよね」
「存在すら知らなかった作家ですが、書名に惹かれて」
『だから、僕は人を殺した』
 かなりきつい書名だ。
「ドイツ系の作家で、凝ってるんでも流麗でもないんですが、いい文章なんですよ。私は好きだなあ。一九五〇年代の作品です」
 驚いた。とても当時の海外小説とは思えない。文章が鮮やかで読みやすいのだ。多かれ少なかれ言葉は時代とともに変化し、個人的には五〇年代の小説は日本人作家の作品でも読みづらい。
 バーテンダーは柔らかそうな布でカクテルグラスを小気味よく磨きだした。
「お客さまだけでなく、もう誰もラマイオリヒのことなんて知りませんよ。日本語に翻訳されたのも、この一冊だけです。私の師匠が好きでしてね。知る人ぞ知る作家だったので『だから、僕は人を殺した』はまったく売れず、ほとんどが返本されて再生紙になったとか。いまさら復刊もない。世界は無名の人間たちで構成されてるんでしょうね」
 世界は無名の人間たちで構成されている。なんだか心に残る言葉だ。
「今の無名うんぬんは、ラマイオリヒの受け売りです」
 バーテンダーは磨き終えたカクテルグラスを頭上の照明にかざした。
 私は本の裏表紙をめくり、カバーの折り返し部分に印刷された作者の顔写真を見た。髪は短く刈り上げられ、細い黒縁眼鏡の奥にある眼は鋭く、薄い唇には冷徹さが滲んでいる。
「思わずこっちの背筋が伸びる、不敵な面構えですよね」バーテンダーは、私が抱いた印象を代弁してくれた。「先ほどは文章がいいだなんて生意気を言いましたが、翻訳なので純粋なラマイオリヒの文言じゃない。だけど、これこそ言葉の本質を表してるんでしょう。言葉は声に出そうが、何かに書こうが、自分から吐き出された途端に自分のものでなくなる。誤解されたり、何も伝わらなかったり、無視されたり。なんにしても、日本語は貪欲ですよね。漢字、ひらがな、カタカナと三種類の文字があり、英語やドイツ語といった他の国の単語もどんどん日本語化してしまうんですから」
「一つだけ確かなのは、ラマイオリヒにとってバーテンダーさんがいい読者だという点です。そこまで言葉について深く踏み込める人は、私の周りにはいません」
 バーテンダーは照れくさそうに口元だけで笑い、カクテルグラスを棚にそっと置いた。
 ソファー席からオーダーが入り、バーテンダーが私の前から去っていく。靴音がジャズによく合っていた。私は本を閉じ、鶏蕎麦に向き合った。
 ひとすすりするなり、喉の奥で唸った。蕎麦は引き締まり、ネギの食感はよく、鶏肉は適度な弾力で肉汁が口に広がる。
 食べ終わると食器類が女性店員に下げられ、バーテンダーが戻ってきた。彼は空のグラスと瓶をちらりと見た。
「お代わりをお作りしましょうか」
「じゃあ、スコッチのロックをお願いします。鶏蕎麦は店のオリジナルですか」
「いえ。伝授された……というか師匠に叩き込まれたんです。本当にお世話になった人でしてね。本を読む楽しさもジャズも教えてもらって。以前は鶏蕎麦も私が作ってたんですが、今は厨房のスタッフに任せてます」
 私とは逆側のカウンターの奥にスイングドアがある。あの向こうが厨房なのだろう。
「ここは古臭い店です。古臭い音楽をかけ、古臭い本を置いている。師匠曰く、人には自分を決定づける時期があるとか。髪型、服装、音楽。その頃に好きになった諸々を、死ぬまで引きずるもんだってね。私は五〇年代に絡めとられたんでしょう。店に立っていると自分が二〇〇一年の夏を生きているだなんて、信じられなくなってきます」
 バーテンダーは滑らかな手つきでスコッチのロックを作り始めた。
 警察官僚になって以来、私は常に現在を生きてきたと言える。現在から己を引き離せる音楽や小説から遠ざかっているのが証左だ。好きで疎遠になったのではなく、目の前の出来事への対処で精一杯だったに過ぎない。きっとどんな職業に就いても、私は今と似た生活状況になったのだろう。仕事とプライベートをきっちり区分けできるほど、器用な性質ではない。
 しばらく本を読み、気づくと午前一時を回っていた。すでに客は私だけだった。酒とジャズでめいめい落ち着いた時間を過ごし、ひっそり去っていく。そんな店なのだ。私は冒頭部分をもう一度読み返し、手帳にも書き写した。
 バーテンダーを呼び、勘定を払った。
「また来ます。続きを読まないと」
「どうぞ。この店について誰かにお聞きになったんですか」
「一見はあまり歓迎されない?」
「いえ。ただ、ふらりと入ってこられる店ではありませんので」
 確かに排他的ではないが、誰もが気軽にドアを開けられる店でもない。私も入る時は気合いを入れた。
「カイシャの先輩に教えてもらったんです」
 警察官は警察をカイシャと呼ぶ。
「そうでしたか」
「いい勉強になりました。どんなドアでも開けてみないと、向こう側に何があるのかはわからないって」
「哲学的ですね」
 笑みを交わし合った。
「古い店なんですか」
「店としてはまだ二十年そこそこですが、建物は元々一九〇〇年代初頭に外国人医師が建てた住宅兼診療所でした。取り壊すと聞きつけた先代が安く買い取り、二階を現代的な住居に、一階を店に改築したんです。私は今も上に住んでますよ」
 バーテンダーは得意げに天井を指さした。
「鎧のある家での生活って、なかなかレアですよね」
「ええ。あれを乗せて走った馬はさぞ大変だっただろうなって、毎晩感心しますよ」
 店名をまだ聞いていない。渡辺も何も言わなかった。看板も目につかなかった。
「ここの名前は?」
「ありません。ただのバーです。洋館のバー。ラマイオリヒの店とでも憶えて下さい」
「まさに、世界は無名の人間たちで構成されている──」
「なるほど、おっしゃる通りですね」
 いってらっしゃいませ。バーテンダーに見送られ、店を出た。街灯の下、私は手帳を開き、書き写した本の冒頭部分を読み返した。

 ほぼすべてのモラルは、ひどくあやふやで信用がおけない。それらは顔の曖昧な大多数が時々の気分ともっともらしい屁理屈で作ったもので、形は往々にして変わる。僕たちはそんな得体の知れぬ怪物が幅を利かせた世界に生きている。僕たちは必死に頭を使って怪物と戦い、傷ついてもなお血を滴らせながら人生を歩まねばならない。真のモラルとは、地を這い、血まみれになった者だけが見出せる一粒の結晶を言うのだろう。
 だから、僕は人を殺した。

 警官がこの文章に惹かれるなんて、職業倫理的にどうなのか。
 我知らず、口笛を吹いた。無意識に出てきた曲は、甲子園を目指した高校三年最後の夏、私が打席に立った時に流れた『突撃マーチ』だった。

 午後一時半、帳場の空気が急に硬くなった。
「そのエリアのコミ、受け持ちは誰だ」
 岩久保は険しい語調で質して、宙を睨みつけた。
 内勤班は全員作業の手を止め、受話器を握る班長を凝視している。たまたま様子を見にきた大東も岩久保を注視していた。むろん私も。
 エアコンの音が響いている。コミとは聞き込み捜査を表す隠語で、この地域独特の言い方だ。警視庁管内では地取りと呼ぶ。
「ふうん」と岩久保は刺々しく呟いた。「伏見(ふしみ)と阿南か」
 阿南──。一昨日の帰り際、署のエレベーターで会った男だ。
 受話器が無造作に置かれると、岩久保、と大東が声をかけた。
「何があった」
「目撃者がいます」
「コミで出なかったのに?」
「情報屋から引っ張ったそうです」
 捜査員は複数の情報屋と繋がっている。本部の捜査一課員なら、抱える数も多いだろう。
「どんな目撃談だ」
「犯行推定時刻の数分前に、あるエリアの住民が不審な男を見たという噂があるとか」
「不審な男の人着などは?」
 大東の声は鋭くなり、面貌も引き締まっている。
「二十代から四十代、黒ずくめの服を着ていた──まだそれだけです」
 あってなきに等しい手がかりだが、捜査会議では出ていないネタだ。日本は英国などと違って、銀行内やコンビニの店頭などを除き、まだ街頭に防犯カメラは設置されていない。
「甲斐、どうする」
 大東が目を合わせてきた。岩久保さん、と私は声を発した。
「当の目撃者は割れたんですか」
「いえ。至急報告してきたと言ってました」
「今の電話は、目撃情報があると思しいエリアを担当する捜査員からの一報ですか」
「別口です」
「コミをかけ直しましょう。目撃のあった一帯に人を送ってください」
「了解です」
 岩久保の口元がやや上がり、笑いを堪えているかのように見えた。それは一瞬の出来事で、岩久保は速やかに真顔に戻り、課員に何か申しつけている。
 大東が他の帳場に出向くために引き上げると、私は長机の席に座る岩久保に歩み寄った。
「情報屋の話は通常、どの程度信用できるんです?」
「天気予報程度には。今まで彼らとお付き合いはありませんでしたか」
「ええ」と私は答えた。
「管理官のようなエリートなら大抵そうでしょうね」
 岩久保が煙草を咥えた。愛飲するフランス製の黒煙草だ。火をつけずとも、独特の強くて甘い香りがぷんと漂ってくる。岩久保が私の足元に目を落とし、上げた。
「今日お召しの靴もぴかぴかですね。見ていると、こちらまで気持ちがいい」
 私は三足の黒い革靴を順繰りに履き、週に一度は丁寧に磨く。それが靴への礼儀だ。だが、今日は朝から生暖かい雨が降り続いている。今朝迎えの車に乗り込むわずかな間でも革靴は濡れ、水滴の跡がついた。岩久保の発言は靴を磨く余裕のある境遇への揶揄ともとれる。私は捜査員たちと違い、外で雨に打たれたり、埃まみれになったりしない。靴を磨く余力もある。
「コミの吉報を待ちましょう」
 そう会話を切り上げ、私は自席に戻り、席を回転させて窓の方に向けた。
 空はどんよりと曇り、雨が止む気配はない。大粒でも小雨でもない、雨らしい雨。頭の中まで湿っていくようだ。
 解せなかった。現場経験の足りない私でも、情報屋とのやりとりを捜査員が決して口にしないことは承知している。捜査員にとって彼らの存在は財産であり、個人同士の付き合いが基本だ。結果的に真実と違う場合はありうるとしても、当たりもつけずに生の素材のままを捜査員が報告するだろうか。そもそも、情報屋が今回のような精度の低いネタを渡してくるケースもまずないのではないのか。
 私は昼食として、内勤班が買ってきたいくつかの菓子パンを選ぶでもなく腹に入れた。
 夕暮れから、街全体を叩きつける豪雨になった。

「なんで聞き漏らしたのか、まずはそこからだ。伏見」
 岩久保がいかにも不機嫌そうに言った。
 十一時。蒸し暑い夜だった。県の条例に従い、エアコンはとっくに止まっている。声は雨中でも風に乗って遠くに飛ぶリスクがあり、記者が聞けば厄介なので窓も開けられない。ブラインドもしっかり下ろしている。
 コミにより、不審な男を見たのは現場近くに住む男性会社員だと特定できた。詳報に入る前に、目撃者の存在を捜査員が知った経緯についてあらためて報告されたところだ。情報屋は又聞きの又聞きという形でネタを耳にし、旧知の捜査員に伝えたという。私はなおも釈然としなかった。情報屋のネタという事情も経緯も、やはり会議で明かす必要はない。
「どうして情報屋にまで言及した?」
 大東がネタを報告した捜査員に尋ねた。私と同じ疑問を抱いたのだ。大東は昼間に岩久保が電話を受けた場にいたので、今晩は捜査会議に出ている。
 ネタを引っ張った捜査員が立ち上がった。岩久保とは長い付き合いの特殊係放火班のベテランだ。
「帳場の皆にも情報の重さを判断してもらうためです。早期解決が求められる事件なので」
 一応の筋は通っている。大東も鼻から息を抜いた。捜査員が座る。今度は阿南と組む、伏見が立ち上がった。
「実は、その会社員の家をコミしたのは阿南一人でして」
「ああ?」岩久保の尖った声が飛んだ。「別行動したのかよ」
 コミでは二人一組で相手の話を聞くのが原則だ。
「インターホンを押した直後、班長から電話があり、緊急事態も想定し、私は電話に出ました。ちょうど家人がドアを開け、応対を阿南に任せるしかなかったんです」
 言い訳がましいが、起こりうる事態で、捜査は臨機応変にすべきだ。状況が整い過ぎているきらいはあるが。
 伏見が粛然と座り、阿南が音もなく立ち上がる。
「私のコミでは、不審な男の話は出ていません」
 阿南の声や表情に硬さはなく、岩久保を直視する眼差しは揺るぎない。
 岩久保が目を剥いた。
「聞き方が悪かったんじゃないのか」
「いえ。きっぱりと『何も見聞きしてない』と言われました」
「じゃあ、ガセだと?」
「現時点ではジャッジできません」
 岩久保が長机に拳を落とし、重たい音がした。
「半人前が生意気言ってんじゃねえッ」
 岩久保の手元から灰皿が勢いよく飛んだ。阿南はそれを鮮やかに手刀で払った。
 灰皿が床を転がり、誰もが息を呑んだまま二秒、三秒と過ぎていく。岩久保が顎をしゃくると、別の捜査員が立ち上がった。渦中の会社員に再度当たった捜査員だ。
「帰宅途中、すれ違った男ならいたと話しています。その男はポロシャツ姿で、時間は犯行推定時刻の約三十分前。証言者は徒歩で自宅に戻る途中、ポロシャツ男とすれ違っています」
「阿南」岩久保が声を張った。「渦中の住民の帰宅時間は聞いてたのか」
「はい。伏見さんにも伝えてます」
「なら、ポロシャツ男の話を引き出せなかったのは、お前が突っ込んだ質問をできなかったからだよ。『何も見聞きしてない』と報告されりゃ、伏見だって聞き直しの判断を下せねえ」
 阿南の顔がかすかに強張った。帳場の蒸し暑さが増していく。 
 いいですか、と私は割って入った。
「昼間の段階ではポロシャツではなく、黒ずくめの男を見たという話でしたよね」
 ええ、と会社員に再度当たった捜査員は答え、続けた。
「情報屋の耳に入るまでに齟齬が生じたのでしょう。誤差の範囲内かと」
「証言者は他にも誰かとすれ違っているはずです。なぜポロシャツの男にだけ言及を?」
「当人でないので何とも言えません。一般的に『ちょっと変だな』という人物に関しては、案外印象に残っているもんです」
 素っ気ない口調だった。岩久保が再び拳を机に落とした。
「てめえのミスだッ」
 阿南は唇を嚙み締めている。
「おい」岩久保が冷ややかに言う。「しばらく捜査から外れろ。内勤だ」
 実質的な戦力外通告。阿南はまだこれからの人間で、将来が潰れかねない指示だ。本部の班長に睨まれたとなれば、能力や人間性を人事係に疑われる恐れが生じる。
「座れ、役立たず」
 岩久保が吐き捨てた。
 シメとかねえと──と岩久保は以前、阿南に毒づいていた。
 私はこの夜、ラマイオリヒの店に行かなかった。そんな気にはなれなかった。数の減った記者の夜回りを受け終えると、シャワーを浴びてベッドに横たわり、あれこれ思案した。
 白紙のままでは何の判断もできない。ただでさえ捜査経験が乏しいのだ。だから、僕は人を殺した。ラマイオリヒの小説のタイトルを何度か頭の中で転がした。
 外では秋の虫が盛大に鳴いていた。

 翌朝、七時に帳場に出ると阿南だけがすでにいて、長机を拭いていた。
「おはようございます」と私から声をかけた。「早いですね」
「眠れなかったので」
「寝苦しい日が続いてますからね」
「敬語はやめて頂けませんか。偉い人の敬語は気味が悪いので」
「世の中に偉い人なんて滅多にいませんよ。役職や階級、肩書きはただの記号です」
 阿南は目を幾分広げ、首をすくめた。
「どっちにしても止めて下さい。管理官がどうおっしゃろうと、薄気味悪さは消えません」
「なら、止めよう。昼から体は空いてるか」
「さあ。内勤が何をするのか知りませんので」
 私は窓の外に目をやった。昨日の雨も上がり、陽射しがたっぷりと注いでいる。今日も暑くなりそうだ。
 自席で報告書を開き、丹念に読み込んでいく。今までも目を通しているが、何度も読み返した。八時を過ぎた頃には帳場に人が集まってきて、岩久保も出勤した。
「管理官、お早いですな」
「寝つけなかったんですよ」
「手痛い失敗をする部下がいると苦労しますよね。ほんと使えない」
 岩久保は聞こえよがしな大声だ。私は阿南を横目で窺った。おとなしく書類を読んでいる。
 二人一組の捜査員が次々に帳場を出ていき、私は新聞を開いた。
 昨日もあちこちで人が死に、誰かの何かが盗まれ、株価は下がっていた。昨日もいつもと代わり映えのない一日だった。言い換えると、どこかの誰かにとっては生活が一変する日で、それが私ではなかった。
 私は誰も座っていない数々のパイプ椅子を眺めた。第一線の捜査員たちは、私以上に他人の生涯について黙考した経験があるだろう。仕事と割り切っている警官も、割り切ると決めた時点で悩んだのは明らかだ。他方、最初から他人について何も感じない人間もいる。そういう者は機械的な捜査に徹せられる面ではもっとも警官に向いていると言えるし、情理を尽くす捜査を求められる面ではもっとも警官に向いていないと言える。
 警官の仕事は事件を解決し、治安を守ること。今の私には何ができるのか、何をしなければいけないのか──。
 阿南が帳場の隅で手持ち無沙汰にしている。元々の内勤班は資料のとりまとめなど、おのおの役割をこなしているが、阿南には電話番以外の仕事が与えられていない。阿南の眼は己の内面を見定めているようだった。感情を心の底で抑え込める性格らしい。
 正午を迎えた。
「岩久保さん、ちょっと出てきます。夜の捜査会議には戻ります」
「随分と長いお出かけですな。どちらに?」
「神浜市内をざっと回ってみます。岩久保さんがいれば帳場は安心ですしね。動きがあれば直ちに連絡を下さい」
「どうぞどうぞ。こちらについてはご心配なく」
 予想通りの返答だ。
「阿南を借ります。管理官専用車は本部に返してますので、運転手代わりに」
「おかげさまで厄介払いできますな」
 岩久保が黄ばんだ歯を剥き出しにした。
 行こう、と私が声をかけると、阿南はすでに立ち上がっていた。
 駐車場に出ると、真昼の強い陽射しで眼球や肌が痛いほどだった。セミが競い合うように鳴いている。昨晩は秋の虫が鳴いていた。日中、秋の虫はどこで暑さをしのいでいるのか。
 阿南が運転席に、私は助手席に座った。
「後部座席に乗らないのですか」
「誰かがドアを開けてくれなかったからな」
 私が冗談めかすと、阿南の口元が緩んだ。
「失礼しました」
「あぶれ者同士仲良くしよう。とりあえず名物でも食おうか。神浜の名物は?」
「牛肉ですかね。あとは元町の中華街と各国の料理とか。車、出しますね」
 阿南がエンジンをかけた。
「当てはあるのか」
「昼からステーキも重いので、洋食でどうかと。旧居留地にあるんです」
「任せるよ」
 所轄署の駐車場を出て、阿南が迷いなく車を走らせていく。
 私は窓を開けた。潮の香りがする、港街らしい風だ。溢れる陽光の下、日傘をさした若い女性が幼い女の子と手を繋いで歩いていた。雨が降る気配はないのに、幼い女の子は真っ赤な長靴を履いている。お気に入りなのだろう。彼女の弾んだ足取りは、こちらの心まで軽くさせた。あの二人のために警察は存在している──という一念すら湧き上がってくる。車は進み、母娘の姿は見えなくなった。
「何を見てたんですか」
 さっきの母娘について簡単に説明した。
「東京じゃ見かけないんですか。どこにでもいそうな親子ですけど」
「どこにでもいるから大切なんだよ。世界は無名の人間たちで構成されている。警察はああいう母娘の生活を守らないとな。見知らぬ人たちのための組織なんだ」
 赤信号で停まった。
「見知らぬ街にはもう慣れましたか」
「神浜は元々見知らぬ街じゃない。私にとっては新しい街というだけさ」
 あの、と阿南の声が低くなった。
「キザだと言われたご経験はありませんか」
「いま、自分でも思った」
「そいつは重症ですね」
 二人で声を出して笑った。

 海沿いの旧外国人居留地には、古い西洋風の建物がそこかしこに残っている。車を降り、私たちは居留地内の石畳の狭い路地に入った。猛烈な陽射しを反射する石畳は濡れたように輝いていた。石畳の両脇には壁に装飾が施されたレストラン、外国製雑貨の専門店などが並んでいる。歩いているうちに汗ばんできて、私は額から流れる汗をハンカチで拭った。緩やかな潮風が路地を吹き抜けていく。
 土産物店の間に、ポルトガルあたりの街角が似合うこぢんまりした洋食店があった。白い漆喰の壁に、鮮やかな青い屋根という外観だ。
「見た目からしていい店だな」
「ええ。青の店と呼んでます。正式な名前は知りません」
 私は頬が緩んだ。ラマイオリヒの店といい、名前のあやふやな店ばかりだ。
 店は混んでいたが、無事に座れた。店内には食器が触れ合う音や話し声が満ち、ニンニクを炒める香りや、デミグラスソースの匂いも漂っている。
 メニューを広げ、私はオムライスを、阿南はハヤシライスを頼んだ。
「オムライスか。もう何年も食ってませんね」
「好きなんだ。子どもっぽいか」
「いえ。子どもが大人になっても、たいして変わりないので。ガキの頃は、大人はもっと大人かと信じ込んでました」
 同感だ。大人がオムライスを食べる光景なんて想像もしなかった。ましてや、警察官僚が食べる姿なんて。
 今までどこで食べたオムライスが一番うまかったのかなど、とりとめもない話をしていると、注文した品がきた。
 オムライスにはワインの風味を活かしたデミグラスソースがたっぷりかかっていた。卵は半熟で、スプーンを入れると、とろりと崩れていく。チキンライスも酸味と胡椒がきいて好みの味だ。グリーンピースなんて久しく口にしておらず、食感が懐かしくさえある。
 私も阿南も五分程度で食べ終えた。警官は概して食べるのが早い。まさに一秒後に出動がかかりかねない。
 一時を過ぎると、青の店から客が引いた。地方都市ならではの光景だろう。東京なら二時過ぎまで多くの店が混み、ランチ難民になる日も多い。
 私たちは食後、夏なのにホットコーヒーを頼んだ。周囲には誰もいない。頃合いだ。
「妙だよな」
「何がですか」
「例の情報屋の一件だよ」
 阿南の顔が引き締まった。
「確かめるぞ。手伝え」
「てっきり慰められるのかと思ってました」
「なんでそんな真似をしなきゃいけない?」
 薄いカップに私が手を伸ばすと、阿南もカップに手を伸ばした。
「上司の役割だからでしょうか」
「気にするな。嫌な奴はどこにでもいる。もういいか」
「投げやりですね」と阿南が口元を緩めた。
 私はコーヒーに口をつけた。喉から胃に熱い液体が流れ落ちていく。
「青二才がひよっこを慰めてなんになる?」
「卓見というか、率直というか、何というか……」阿南は口をつけずにカップを置いた。「なんで私の尻拭いをしようと思われたんです?」
「人助けじゃない」
「では、お節介と言い直します」
「これは自分自身のためさ」
 私はカップをソーサにそっと戻した。阿南が眉を寄せる。
「どういうことですか」
「私は無粋なんだ」
「ますます意味不明ですが……」
「小説のタイトルですら、目の前の現実と重ね合わせてしまう男なんだよ」
「はい? やっぱり意味不明です」
「自分の足元が崩れたら、自らの手で直すしかないってだけだ。私たちのいる世界は、甘ちゃんじゃ生きていけない」
 警察官僚として日々そう実感する。私なりの気構えでもある。いつしか今回のような事態にも鼻が利くようになった。
「阿南も自分のためにやってくれ」
「肝に銘じておきます。何か案はあるんですか」
 ああ、と言下に答えた。昨晩、秋の虫の声を聞きながら講じた。
「今から阿南はタレこんだ男を捜してくれ。捜査経験の乏しい私には無理だ」
「厳しい役目ですね」
 阿南は発言とは裏腹に、力強い光を双眸に宿している。
「私はまず現場付近でコミをかけ直す」
「管理官が? らしからぬ泥にまみれる仕事を?」 
「らしくある必要はないさ」
「なかなかラフなお考え方で」
「乗ってきた車は阿南が使ってくれ。私は本部の車を呼ぶ」
 話が決まると、私は携帯電話を取り出し、本部で待機中の管理官専用車の運転手に現在地を告げた。阿南は先に店を出た。十五分後、迎えの管理官専用車がきた。
「出して下さい。例の放火殺人の現場まで」
 はい、と運転手の前田(まえだ)が発進させた。前田はゆくゆく県警本部の捜査一課に入るだろう、三十手前の若手警官だ。しばらくすると、前田が口を開いた。
「事件に何か進展があったのですか」
「いいえ」
「なぜ現場に?」
「ご存じの通り、私は現場経験が浅い。興味本位で何度も行ってみたくなるんです」
 やけに今日の前田は口数が多い。普段は運転中にほとんど話しかけてこないのに。
 高架下をくぐり、国道を越え、北に走った。前田はルームミラーで何度も私をちらちらと見た。
 ここでいいです、と現場まで三百メートルは離れた坂下で止めた。
 坂の両脇には古い木造の戸建てや趣のあるマンションが連なっている。上っていくと、途中に看板があった。〈見返り坂〉という名前が由来とともに書かれていた。坂上に住む外国人の娘と、坂下の日本人商人の男にまつわる恋の話だった。互いの境遇から結ばれず、坂の中腹で別れ、めいめい見返りつつ歩いていたのが坂名の由来らしい。坂のてっぺんで一息つく、洋館街方面には石畳の歩道が続き、視界を確保するためなのか、坂から数メートルは建造物がなく、樹木や街灯だけになっている。石畳とは別方向の路地に入り、住宅街を進んだ。
 現場の前に立った。壁が焦げ、崩れ落ちた軒先などはそのままだ。割れたガラスや木片を押しのけるように青々とした夏草が早くも伸びている。ガソリンのニオイは消えていても、焦げ臭さは残っていた。辺りに捜査員の姿はない。付近一帯のコミをとっくに終えているためだ。
 隣の家のインターホンを押すと、初老の女性が出てきた。私は聞き込みの定石通り、当時の状況を尋ねた。
「またですか? もう警察の方にはお話ししましたよ」
「時間を置くと、何かを思い出すケースもありますので」
 女性は首を捻った。
「本当に警察? テレビドラマとかだと、警察って二人一組で行動してるでしょ」
 私が身分証を出しても、女性は猜疑心のこもった目つきだった。
「あなた、お名前は?」
「甲斐です。問い合わせて頂いても構いません」
 女性はなおも訝りつつ、口を開いた。
「特に何も」
「不審な出来事もありませんか」
 ええ、と女性が頷く。コミでも、同様の復命があった。
「お隣は、どんなご夫婦でしたか」
「いいご夫婦でしたよ」
 その後も、夫妻が山野のレストランに高い服を着て出かけていたなど、知っている話ばかりで、不審な男の目撃情報もなかった。次の家も、その次の家も新たな収穫は皆無だった。
 いつの間にか一時間が過ぎ、体の芯から喉の渇きを覚えた。炎天下で肌も赤くなっている。広い木陰に入り、近くの自動販売機で買った清涼飲料水を一気に飲み、コミを再開した。
 七軒目だった。
「普段は倹約家で、コツコツ貯めたお金で洋服を買ったみたいですよ。奥さんがおっしゃってました」
 被害者夫婦と同年代の主婦が気の毒そうに語った。取るに足らないこととはいえ、倹約云々のエピソードは今まで捜査会議では報告されていない。
「これまでお宅に伺った捜査員にも、今の内容をお伝えになりましたか」
「ええ。どうでもいいことでも話すよう言われましたので。まさかあんな亡くなり方をするなんてねえ」
 そうですね、と私は言った。
 コミを終え、住宅街を歩いていると陽射しが翳った。歩調を緩めず、頭上を見上げる。空一面に分厚い雲が垂れ込めている。間近でカラスが鳴き、また別のカラスが遠くで鳴いた。
 管理官専用車に戻った途端、大雨になった。重たい雨粒が窓を豪快に叩き、荒々しく流れ落ちていく。ルーフがへこんでしまいかねないほどの勢いだ。雨で滲む窓に目をやった。世界から色が消えていき、夏が洗い流されてしまいそうだった。
 車内はエアコンが効いており、次第に汗が引いていく。私は昼に車から見た、赤い長靴の幼い女の子を思い出した。何も知らないのに、知っているように思える時がある。あの女の子も『今日は雨が降る』と直感的に悟ったのかもしれない。
 私の場合、直感を確定できなければ負けになる。世の中は勝ち負けではない。しかし、社会人は結局勝ち負けではないのか。特に警察官僚の世界は最たる例で、敗北は組織内での死を意味する。偉くなりたいのではない。むざむざ負けたくないだけだ。
「ひどい雨ですね」と前田が言った。
「じきに止む降り方ですよ」
 私は答え、窓の外を眺めた。
 しばらくして雨があがった。コミを再び行うべく車を出て、数メートル進み、カーブミラーに目をやる。前田が携帯を耳にあてるのが映っていた。
 六時までコミを続行したが、特に成果はなかった。足が張っている。明日は筋肉痛に襲われそうだ。
 神浜中央署に戻り、帳場のドアノブを握った時、向こう側から岩久保の怒声が漏れてきた。
 なんで上ってのは役立たずしかいねえんだ。邪魔ばかりしやがって──。
 私はドアノブを握り直した。ゆっくりと開ける。岩久保が明らかな作り笑いを浮かべた。
「いかがでしたか」
「いい街ですね」
 私は自席に着いた。
 八時に阿南が帳場に戻った。打ち合わせ通り、目を合わせてこない。
 今日は九時に捜査会議が始まり、特に進展もなく終わった。会議後に書類を整理していると、岩久保が私の前に立った。神妙な面持ちだ。帳場には大勢がまだ残っている。岩久保の髪や服からフランス製の黒煙草の香りがした。
「管理官、少々いいですか」
「何でしょう」
「荒らすのは今日限りにしていただきたい。お一人でコミしてたそうですね」
 現場に捜査員はいなかったが、大雨の後、車を出ると前田が携帯を耳にあてていた。
 私が返事をしないでいると、岩久保は話を継いだ。
「進展がないので苛つかれたためだと解釈しておきましょう。今後、現場は我々に任せてください。これ以上邪魔されるようですと、しかるべき上の方に言ってご退場してもらわないといけなくなります。管理官にとって、かなり大きな躓きになるのでは?」
 管理官の私が現場でコミするのは異例で、捜査員が現場を荒らされたと憤っても仕方ないが、普通は口に出さない。指摘するにしても、やんわりと仄めかす程度のはずだ。
 岩久保の地金が透けつつある。キャリアにとって、部下を掌握できないというレッテルを貼られる事態は是が非でも避けたい。無能と同義なのだ。この弱みに乗じて私に頭を下げさせ、協力も乞わせたいのか。岩久保にしてみれば、キャリアを従わせたとの箔もつく。
 見方によっては、若いキャリアほど突っかかるのに適した存在はいない。下にも上にも横にも誰にも不満を漏らせないからだ。下に漏らせば、『やっぱりキャリアに現場は仕切れない』と呆れられて誰もついてこなくなる。横に漏らせば足を引っ張られ、上に漏らせば能力がないと見なされる。そして、置かれた環境に音を上げれば昇進レースから脱落する。別に構わない。キャリアともなれば、全国の警官を指揮する立場になる。能力がない人間は早々に消え去るべきだ。組織のためにも、国民のためにも。
「阿南にもコミさせてたんですか」
「彼は別件ですよ」
「そいつは何です?」
「岩久保さん」私は声に力を滲ませた。「別件です。部外者には話せません」
「阿南はこっちのヤマの捜査員です」
「どうせ役立たずなんですよね。内勤といっても何もしていませんでしたし、邪魔されるよりマシでしょう。特殊係放火班は精鋭部隊です。阿南が帳場を抜けても問題ありません」 
 岩久保がこれみよがしに肩をすくめた。
「捜査の妨げにならないのなら、阿南を使っても構いません」
「ご理解どうも」
「つまらん奴で争うのも無益ですので」
「賛成です」
「いい機会なので、一つ現実を申し上げておきます。出過ぎた発言でしょうが、あらかじめお許しを」
 なんですか、と私は促した。
「端的に言って」岩久保の声が急に粘りけを帯びた。「管理官の指揮では手がかりは摑めません。詰めが甘いんです」
「私の方針に岩久保さんも同意しましたよね」
「ええ、お顔を立てなきゃなりませんので、あえて何も申し上げてませんでした。けれど、本質的に私は間違っていた。心を砕くべきなのは管理官の顔を立てる──なんて次元の低い話じゃなく、事件の解決に向けた動きなんだと」
 正論だ。警官が最優先すべきは事件の解決。上司への忖度でも出世でもない。
 帳場に残る捜査員の目がひな壇に集まっていた。岩久保班はもちろん、所轄の人間も話の行く末を、固唾を呑んで窺っている。岩久保は公然と上司を、それもキャリアを批判した。上意下達の警察組織では、ありえない局面だ。だからこその正論であり、実現できる根拠もあるのだろう。こうして踏み込む頃合いを計っていたのだ。岩久保は私に睨まれるくらい何でもない。どうせ私は二年で消える。むしろキャリアに盾突く自分を演出したいのだ。私への批判が大東の耳に入っても、犯人逮捕に結びつけば『事件解決のためには上にも物申す硬骨漢』という評価に繋がり、私は無能なキャリアという評判が確定するだけだ。岩久保は次期管理官の席にも近づける。
 岩久保がもったいらしくかぶりを振る。
「勝手ながら、例の情報屋をもっと洗うよう捜査員に命じました。例の目撃された男ですが、茶色の革靴を履き、急ぎ足だった点が判明しました」
「不審人物を特定できたんですか」
「いえ、情報屋本人が見てたんですよ。動いたと見せかけた労力の分、値を吊り上げようとしたんでしょう」
「妙ですね。まず捜査員が情報屋から不審な男を見た住民がいるらしいという噂を聞いた。仮に住民Aとしましょう。この住民Aを別の捜査員が見つけ出し、ポロシャツを着ていたと聞き出した。住民Aは誰なんです? 情報屋が目撃者当人だというなら、住民Aも情報屋なんですか?」
 岩久保は苛立たしげに口元を歪めた。
「他にも不審な男を見た市民がいただけでしょう。同一人物かどうかは不明ですがね。不審感ってのも所詮、ただの印象なので」
 情報屋は情報の値を吊り上げ、おまけに小出しにしたのか。伝えた曖昧な話から別の目撃証言が出ても、自分が握る情報と重ならなければ追加で金をせしめられる。コミをかけると同時に、情報屋をもっと突っ込むよう命じるべきだった。
「ご自分の指揮について何も思われませんか」
 アンタは無能だ──。岩久保はそう指摘したいのだ。捜査員たちの注目が集まる場で。
 私は深く息を吸った。腹の底が熱かった。
「岩久保さんの指示により、新情報が手に入ったのは事実です。そして、私は新情報に結びつく指示を出せなかった」
 岩久保がおもむろに顎を引いた。顔つきこそ変わっていないが、満足げな様子が態度に見え隠れしている。他の特殊係放火班員の多くにも同じ気配がある。知らぬ間に私は彼らにとって共通の敵になっていたらしい。
 私は熱い息をゆっくりと吐いた。
「ただし、岩久保さんの指示はまだ事件解決の決定打になったわけではなく、私が致命的なミスをしたとも言えません」
「なるほど。では失礼します」
 ひとつ鼻を鳴らし、岩久保が大きな足音を立てて去っていく。特殊係放火班の面々も帳場を出ていった。
 私と阿南は追い詰められたのだ。不審な男を目撃した住民に直接ぶつかりたいが、岩久保の意を汲んだ捜査員の目が光っている。邪魔が入るに違いない。
 窓に歩み寄り、ブラインドの隙間を広げた。曇っていて、夜空には星ひとつ見えなかった。


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