粘菌コンピュータによる「天皇機関」発明の幕開け。『ヒト夜の永い夢』お試し版
民俗学SFの俊英・柴田勝家氏が、稀代の博物学者である南方熊楠を通して粘菌コンピュータにより稼働する自動人形「天皇機関」発明の顛末を描いた一大昭和伝奇ロマン『ヒト夜の永い夢』。その冒頭を掲載いたします。
天上から花が降り注ぐ。
赤いもの、黄色いもの。極彩色の花々が灰色の空を舞い、地上へと落ちていく。それらは通りを埋め尽くす観衆の頭にも積もっていくが、彼らはそんなものお構いなし、実に楽しげな表情でこちらの進みを見守っている。
我らを乗せた馬車は桜田門を目指していく。窓から身を乗り出して手を振れば、観衆はそれに応えて手を掲げ、旗を振り、何度も何度も我らの名を呼んだ。東京の大通りを彩る奏楽は愉快に、また晴れやか、また朗らか。平安雅楽の旋律と、無数の花弁が私達を導いていく。
横を見れば一人の老人が座っている。眼鏡姿に禿頭の男だ。彼は私の友人であり、この日が訪れたことを何より喜んでいる。
「先生、いよいよ御披露目の日が来たのです」
老人の言葉に大きく頷き、もう一度だけ窓から身を乗り出して観衆に手を振った。晴れがましき場に集う人々は、我らが果たした大研究の登場を待ちわびている。
ヒヒンと嘶き、馬が蹄を打って立ち止まる。
皇宮警察官がこちらに駆け寄り、馬車の扉を開いた。赤絨毯が桜田門へ向かって一直線。そこに足を下ろしつつ、後に続く友人を振り返る。眼鏡の奥には涙一筋、彼の夢見た光景がここにあるのだ。
さらに二台の馬車が止まり、それらからも黒服の男達が降りてくる。いずれも私の友人であり、共に研究を進めた学者達であった。彼らも感極まった表情で、出迎える大衆に手を振っている。
そして喇叭が高らかに鳴り響き、登場の時を告げた。
車列の最後尾より、白装束の力者に担がれた御輿が現れる。貴人を運ぶ葱花輦であった。御輿の四方を覆う黒御簾が、その向こうにいる存在を印象づける。
「あれこそ、我らが研究成果」
その呟きを受け、御輿の御簾が開かれた。人々から驚きの息が漏れ、それは巨大な歓声の波となる。
御輿の中にあるもの、それは人の姿をした人ならざるもの。
切り揃えられた黒髪、瞳には月の如く深い輝き。その唇は芙蓉石に似た淡い赤。真白なる肌には絹の光沢。金襴袈裟を纏い、神聖さを漂わせる少女の偶像。
思考する自動人形──天皇機関であった。
タン、と小太鼓を打つ音が一つ。天皇機関はその音に反応し、顔を上げて腕を前へと伸ばす。タンタン。なおも軽快な音は続き、それに合わせて少女の人形が体を動かし、やがて猫の跳躍するように御輿より外へと飛び出した。
ここで人々の熱狂は最高潮となった。
全き神秘の発露である。少女人形は小太鼓の音色によって複雑な動きを果たし、踊るように赤絨毯の上を進んでいく。それを実現するのは粘菌によって作られた人工の神経回路と演算機。機械でありながら、人間を模倣した存在。
「さぁ、天皇陛下に御披露目をするのです」
隣で友人が叫んだ。
空を覆う花々、天人によって奏でられる音律、民衆の笑顔と声。それらを浴びながら、宮城に向かって伸びる赤絨毯を進んでいく。先頭には舞い歩く少女人形。その弾む後ろ髪を我らが追い、後方から力者と皇宮警察官が続く。
やがて門扉が大きく開かれた。
その先に一人の男が立っている。彼は私に向かって微笑みかけ、嬉しそうに拍手を送ってくれた。
「おめでとう」
それは古い友人だった。かつて海外で出会った親友。
「逸仙」
友人の名を呼んだ。彼は私の言葉に笑みを返す。
「この機械は、人々を導く機関だ」
彼は少女人形の手を取り、共に門の向こうへと進んでいく。この先にこそ真に会うべき方がいる。最も尊く、最も栄えある人。我らは、その人に会う為に研究を続けていたのだから。
「先生、行きましょう」
何人もの仲間達が、私と共に一歩を進んだ。門の向こうへ。光溢れる場へと。
ここで一羽の鳥が飛んだ。
一九二七年:一夜「鯨幕開け」
とても奇異な夢を見た。
夢の中に古い友人がいて、彼が異様な機械を使って人々を煽動するという内容だった。それは人間にも似た機械で、どういう訳か、人々は機械の言うことに従ってしまうのだ。
とはいえ、布団から身を起こした拍子に、その詳細をすっぽりと忘れてしまった。
ふと部屋に積まれた本の山に視線をやった。どうして、こんな奇妙な夢を見たのか、その理由はあの書物の群れの中にある。かつて、その友人が送ってくれた本に、そうした機械についての記述があったのだ。
その友人は、もう二年も前に亡くなっている。ちょうど、今の時分が彼の命日だったはずだから、それを思い出したのかもしれない。
英国留学中に出会った異国の友で、わざわざ地元まで訪ねに来てくれたこともある。しかし、人の交わりにも季節あり。若い頃にはお互い、無二の親友などと嘯く程の仲だったが、年を経るごとに疎遠になり、やがて再会を果たすことなく、彼の方が先に死んでしまった。
人は死ぬのだ。友情などというものも、こうして片方がこの世からいなくなってしまえば、それで終わり。そこから先は、せいぜい夢の中で出会うくらいしか手立てはない。
だから夢を見たのだ。彼と、そして全ての知り合いが総登場するような夢だった気がする。不思議な夢だった。
ふと思索を深めたくなった。敷きっぱなしの煎餅布団を上げることもなく、そのままふらりと縁側へと出る。晩春の頃、庭の花も鮮やかに咲いている。
そう、夢の世界でも花を見た覚えがある。様々な色の花だ。赤いものも、黄色いものもあったが、やはり印象に残るのは薄紫色の花だ。あれは何という花であったか、植物図譜を開いて確かめても良かったが、そもそも己が知らない花なら如何なる図鑑にも載ってはいないだろう。自惚れか。いや、そうではない。古今の植物なら幼き頃から見知っている。我が国にない花でさえ、とうの昔に調べ尽くしたはずだ。そうであるなら、あれは何処にもない花だ。天上の花だ。そればかりは死なねば見ることも能うまい。
庭にカケスが飛んできた。チチッと鳴いて、軒先に吊るした餌箱に頭を突っ込んで米を啄んでいる。
あれも奇妙だ、と思えた。
軒先に菓子の空き缶をぶら下げ、そこに米を入れている。理由を知らぬ者からすれば、不思議なものが置いてあると思うだろう。それは自分が見た、夢の世界の光景と同じでもある。夢の世界の道理は実に奇妙で、どうしてか解らぬ物がそこに平然と置かれている。例えば、台所に便器が置かれている。家の戸口を開けば学校の裏門に繋がっている。米櫃を開ければブリキの玩具が詰まっている。人と同じ大きさのてるてる坊主が、庭の木に何個もぶら下がっている。風に揺れている。それら在り得ざる光景は、夢の中では自明のことなのか、何ら不思議と思うことはない。
あの餌箱も、それと同じことだ。いくら奇妙に見えようとも、その世界ではそれが自明なのだ。何かしらの道理がある。そもそも文化が違う。同じ世界に見えても、夢の世界がこちらと同じように歴史を重ねてきたとは限らない。無限無数の要素を重ねて、文化は多様に変化していく。どこかの世界では、料理を作りながら糞をひるのが道理かもしれない。我らはそれを覗き見た後に、ああ、奇妙な夢だった、などと、こちら側の奇妙極まる世界で言うのだ。
ならば、と思った。
夢の世界で死者に会うというのは、向こうの世界では彼らが生きているだけなのではないか。こっちでは何気ない歴史の流れ、ちょっとした不運で命を落とした者も、別の世界では平然と生きているのかもしれない。奇妙奇天烈に折り重なる世界があって、夢はその中の一場面を覗き見ているだけなのではないか。
では夢の世界の自分とは何者なのだろう。
夢の世界の自分は、今ある自分ではないのだが、夢の中では確かに自分と感ぜられる。夢の中で鏡でも見れば良いのだが、そうでない時は如何にして自分を自分であると信じられるのか。伸ばした腕や脚の形が、なるほど普段扱っているものと良く似ているのなら、それを以て己であると言い表すこともできるだろうが、それが全く別人の手足ならどうだろう。目覚めている今ならば、それを偽物と判じられるだろうが、夢の世界では別人の手足であろうとお構いなしだ。それは自分であるという確固たる認識が先ずあって、そこに付属した人体の部位など何ら意味を持たないのだ。
そも目覚めているとはなんだ。
夢の世界の自分も、そこでは目覚めていると感じていたはずだ。であれば、今の自分が夢の中にはいないと、どうしてはっきりと言えるのだろうか。強いて言うなら、この世界では自分の意思のままに自分の体を動かすことができる。その一点だけが、夢の世界とは違う。
ただ夢の中にあっても、随意に自らを動かせることもあった。過去に数度だけ、夢の中で自分は夢を見ているのだ、と気づいたことがあった。その時の夢は、夢であると気づいてから、夢の中で自由に振る舞うことができた。ただ流れ行くだけの景色に、自らの意思で介入できた。愉快な経験だった。
とすれば、あれは自分の意識の中にいる別の誰かなのだろうか。夢の中の自分──彼と呼ぼう──は、そちらの世界では自らを目覚めていると感じ、全く自由に動ける存在だ。それがある時だけ、こちらの思うがままになる。こちら側が「これは夢であるぞ」と気づき、夢の中で勝手に振る舞い始める。彼にとっては堪ったものではないのだろう。何せ、こちらにとってはいずれ消える夢の世界であることを良いことに、周囲の人間を手当たり次第に殴りつけ、物を蹴り倒し、こちらでは言えないような口説き文句を使って婦女子の方々に言いよった。目に余る乱暴狼藉、破廉恥極まりない。まるで酔漢である。
なるほど、と一つ理解がある。
こちらの世界で時折、魔が差したとでも言うべき行為を働く者がいる。平生の態度からは、おおよそ有り得ないと思える程の犯罪具合である。そうした事件を起こした人間は、後になってこう言うのだ。「何者かに操られていた」と。その何者かとは、すなわち夢の世界で目が覚めた己ではないのか。こちらの世界などお構いなしに、夢の世界の彼は好き勝手に振る舞う。その結果、こちらの世界に残された自分は、その者の責を負わされるのだ。
それは恐怖だな、と思えた。
「あら、お父さん」
ここで声が掛かった。次いで縁側をパタパタと歩く音が聞こえる。妻の松枝だった。
「起きていらしたなら、ちょうど良かったです」
「いや、ちょうど良くない。僕は今、とても深い考え事をしている。朝ご飯なら後でね」
「いえいえ、お客様がいらしたのです。あと、お父さんのご飯はどうせ遅くなると思って、まだ作っておりません」
ふぅむ、と鼻を鳴らして答えた。
「あまり待たせては失礼です。なんといっても、お客様は高野山からいらした、大層偉いお坊さんだそうですから」
今度は、ははぁ、と喉を鳴らして答える。
なんといっても昭和である。
前年に天皇陛下が崩御された。西暦で言えば一九二六年、十二月二十五日のことだった。そして親王殿下が即位した。大正は終わり、新たな元号は昭和となった。
まさしく新たな時代の幕開けである。和歌山の奥地たる田辺に暮らそうとも、浮足立つ俗世の空気は漂ってくる。二月の大喪礼の頃は謹慎したが、それが過ぎれば自身もまた正月のやり直しとでも言うべく、おちゃらけた雰囲気で酒を呷った。しかし、さすがに春四月ともなれば面白おかしいものは薄れる。
いやそれがどうして、ここでまた面白い話を聞けるとは思ってもみなかった。
「つまり、千里眼事件です」
居間に入るなり、その客人はそう言い放った。
客人は禿頭に眼鏡の篤実そうな中年男性であった。歳もさして変わらないだろう。妻に曰く、高野山の偉い坊さんだと言うのだから、胡乱な人物ではないはずだ。しかし、その客人は名乗りもせず、一礼のみ済ませた後、その奇妙な言葉を告げたのだ。
「はてな」
爽やかな午前の風が吹き込む部屋、還暦手前のむさ苦しい男が二人、向かい合って奇妙な話題を肴に緑茶を啜っている。
「ご存知ありませんか? 明治四十三年の公開実験です。御船千鶴子なる女性がクレアボヤンス──、失礼、透視──、いや失礼、なんと伝えればいいか」
「いや、クレアボヤンスで通じますとも。超心理学です。見えないものを見る能力です。霊能力だの降霊会だのなんだの、そういった手合は学びました」
「いや、良かった。つまりですな」
「失礼、その話は長くなりますか?」
と、尋ねれば、男性は頭を一撫で。「なりますな」と笑顔での答え。
「掻い摘んで述べましょう。今より二十年近く前のことです。その御船千鶴子なる女性に透視能力があると噂され、とかく話題となったのです。元は千鶴子も透視能力を民間医療などで用い、周囲の人々から感謝されておったのですが、世はまさに文化開明の明治の御代です。これを科学的に実証しようという話が持ち上がり、帝大の学者や新聞記者などを集めて公開実験を行ったのです」
なるほど、などとここで相槌。
「しかし残念ながら実験は失敗し、御船千鶴子は詐欺師扱いされました。その他、多くの自称超能力者たちも、全てが全て、インチキ呼ばわりされたのです。悲しむべきは、故郷に帰った千鶴子の境遇です。彼女はジャーナリズムという名の暴力に晒され、ついに自ら命を絶ってしまいました。そして御船千鶴子を見出した学者もまた、胡乱な話をする人間と扱われ、学会を追放されました」
「ふむ、それが千里眼事件と。いや申し訳ない。その頃は、僕は既にこの地で暮らしてましてね、どうにも都会の話には疎い」
「いえ、もう何年も前のことです。知らなくても当然です」
禿頭の男性はニンマリと笑った。一段落したと見えて、双方が座卓の上の茶を手に取った。
「さて、随分と興味深いお話をして頂いたが、それがどうして、高野山の学僧の方から聞かされるのか」
「ああ、ですから、私がその学会を追放された学者です」
思わず茶を吹き出した。霧状になったそれが、目の前の禿頭に飛び散る。
「福来友吉と申します。今は高野山大学の教授です」
福来と名乗った男は、自分についた茶の雫をハンカチで拭いながら、面白そうにこちらを見ていた。
「実は以前、貴方のことを土宜法龍師より聞いたのです」
ああ、と肯んじた。三年前に亡くなった知己の名だった。真言宗の法主にして高野山の管長を務めた人物。最も尊敬すべき友であり、彼の思想を読み解くことは何よりも楽しかった。
「あのヒョットコ坊主か」
この物言いに、今度は福来が含んでいた茶を吹き出した。
「よくもまぁ、土宜法主をそんな風に呼べますな。それでこそと言うべきかもしれませんが、いや、私には到底」
「それで、土宜僧正よりの紹介とはどういう了見です」
座卓に置かれた布巾で頭を拭いつつ、この眼鏡の中年男性に問いかける。どうにも値踏みしてしまう。彼の土宜法龍の話を受け、それでなお会いに来るというには、相応の理由があるに違いない。
「いえ、土宜法主は私の境遇を知って、大いに協力して下さったのです。あの方は、宗教を近代的なものとする視座を持っておられました。つまり神秘的なるものを科学的に捉える、私の終生の研究と相通ずる視点です」
ふむ、と一唸り。確かに、土宜法龍という人物ならば、千里眼などという超心理学の分野にも一定の理解を示すだろう。
「私は千里眼事件の失敗を悔やんでいますが、それは未だ世間の研究が進んでいない結果のものであり、千里眼なる能力は確かに存在すると思っているんです」
福来は拳を握り締め、大いに熱弁せんと座卓に乗り出した。
「見えないものを見る。それは、ここではない別の世界を覗き見る能力のことでしょう。人間には聞こえないが、動物には聞こえる音があるように、ごく少数の人間にだけ見える世界があるのです。いくつもある無数の世界を、ほんの僅かに覗き見るのです」
それは、まるで夢の世界だ、と思った。
ふと今朝方の思索を続けてしまいそうになり、頭を振って目の前の福来に意識を戻す。
「私は以前、こういったことを土宜法主に話しました。すると彼は、貴方に会うと良いと仰ったのです」
「はてな、どうしてまた」
「土宜法主は貴方にも千里眼、いや、もっと遠く、もっと広い別の世界を見る能力があると言っておられました。それは貴方が、子供の頃に天狗に攫われ異界に行ったからだ、とも」
そんなもの、と言い返しそうになった。ただの冗談である。子供の頃の話を彼の友人に聞かせた覚えはあるが、どうしてそれをこの眼鏡の学者に伝えたのだろうか。
「どうぞ、異界の話をお聞かせ願いたいのです」
福来は大きく身を乗り出し、ずずいと、顔を近づけてくる。赤く火照った禿頭を晒し、ずり落ちた眼鏡がこちらの額に当たる。
「南方熊楠先生」
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