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【試し読み】フランス歴史ミステリ『鏡の迷宮 パリ警視庁怪事件捜査室』冒頭公開!

10月のポケミスは、フランス発の歴史ミステリ、日本初紹介の作家エリック・フアシエによる『鏡の迷宮 パリ警視庁怪事件捜査室』(加藤かおり 訳)です。19世紀の秋のパリを舞台に、若き警部ヴァランタンが奇妙な死の謎を解き明かします。”世界初の探偵”フランソワ・ヴィドックも登場する本作、その冒頭の一部を試し読みとして公開します。

1830年秋、七月革命の熱狂が冷めやらぬパリで、前途洋々たる代議士の息子が、盛大な夜会のさなか、2階の窓から身を投げた。死の直前、その青年は魅せられたように鏡に見入っていたという。父の遺志を継いで化学者から警官に転身したパリ警視庁の若き警部ヴァランタン・ヴェルヌは、突然の異動とともにこの事件の担当を命じられる。元徒刑囚にして元治安局長の探偵ヴィドックの助けを借り、新政権を揺さぶる奇怪な謎を解くため奔走するが……。科学の知見を武器にしたヴァランタンの活躍を描く傑作歴史ミステリ!

エリック・フアシエ『鏡の迷宮 パリ警視庁怪事件捜査室』あらすじ
エリック・フアシエ『鏡の迷宮 パリ警視庁怪事件捜査室』


1 会うは別れの初め

 シャルル10世が追放され、神の恩寵と民衆の意思がルイ=フィリップを〝フランス国民の王〟に押しあげることになった1830年7月のあの熱狂の日々(七月革命を指す)以来、パリは見せかけの秩序すら取り戻せずに苦しんでいた。バリケードが撤去された街路で抗議活動やデモ行進が繰り広げられる一方で、新しい君主が起居するパレ・ロワイヤルに民衆が何週にもわたって連日なだれこむという前代未聞の事態が起きていた。人びとはパレ・ロワイヤルに、まるで風車小屋に立ち入るかのようにやすやすと入りこんだ。人気取りに腐心していた新王ルイ=フィリップは、パリの各所や地方の町から続々と押し寄せる使節団を逐一相手にしなければならない羽目に陥った。日がな一日、数カ月前には目もくれなかった人たちとひたすら握手を交わしつづけた。夕刻になると、パレ・ロワイヤルの庭園内や鉄柵の前に群衆が押し寄せた。そして新王がバルコニーに姿を現わすよう要求し、王が姿を見せると、《ラ・マルセイエーズ》か《ラ・パリジェンヌ》を歌うのを聞くまで居座った。夏の盛りから秋の初めにかけて、パリの街はさながら、厩舎に戻ることを拒み、たてがみを風になびかせながら狂ったように疾走する暴れ馬のようだった。
 そのあと少しずつ革命の熱気が冷めていき、表面上は静けさが訪れた。パリの労働者も職人もすでに二日酔いで、勝利の陶酔のほとんどを奪い取られると、賃下げと労働条件の悪化に象徴されるつましい暮らしに戻っていった。確かに玉座に就く人物は変わったが、大きな変化はそれだけだった。そして少なからぬ人びとがそのことに気づき、苦々しい思いを噛みしめた。消し炭のなかではまだ熾火がくすぶっていた。飛び抜けた眼識の持ち主でなくとも、ちょっとしたきっかけ、ごく些細な理由でふたたび火が燃え広がることは容易に察せられた。
 とはいえ、10月末のこの日の宵は穏やかで心地よく、人びとはゆったり羽を伸ばし、生きる喜びに浸っていた。それらの人びとの筆頭に挙げられるのは、七月革命後の新体制のもとで特権を分け合っていた一部の恵まれた者たちだ。秋の夕暮れの柔らかな日射しに包まれたフォーブール・サン=トノレ街のあちこちで、夜会のざわめきが響いていた。ここはショセ=ダンタン街と並び、名誉と金儲けを重んじる上流ブルジョワジーの縄張りだ。パリ中心部の薄暗い路地に比べると、空気は軽やかで風通りもよく、空も心なしか澄んでいる。高い壁の後ろに控えるファサードには凝った装飾が施され、大きな窓越しに垣間見えるのは、蝋燭を灯したシャンデリアが織りなす夢の世界だ。惨事の訪れを予感させる気配は少しもなかった。ところが……。
 王立マドレーヌ寺院からすぐ近くにあるシュレーヌ通り12番地には、夜の8時過ぎから大型高級箱馬車ベルリーヌ幌付き四輪馬車カレーシユがひっきりなしに乗りつけていた。馬車は蔦に覆われた広壮な車寄せになだれこみ、噴水池をそなえた方形の庭に金融界や財界のお歴々を続々と吐き出していった。その夜、シャルル=マリー・ドーヴェルニュは装いを新たにした自宅のお披露目式を催しており、政界の友人や得意先など、少なく見積もっても100人を下らない招待客が集まっていた。
 城館の主であるシャルル=マリー・ドーヴェルニュは、香辛料と薬の卸売りで財を成した人物だった。数年前、彼は100万フラン近くを投資してオワーズ川のほとりに水力を動力源とする工場を建設した。そしてそこで独自の方法を使ったカカオ豆の焙煎に成功し、薬用チョコレートの製造元にほぼ専売で原料を卸す特権を手に入れた。
 ドーヴェルニュには自分の成功を誇示するだけの理由があった。なにしろ事業は好調で、商売はしっかり軌道に乗っている。しかもついこのあいだ、新政権への宣誓を拒んだ代議士の議員資格剥奪に伴い実施された下院の補欠選挙に出て当選し、政治家としての一歩を踏み出したばかりだ。元来保守派であるはずの彼が最近の政変の恩恵にあずかることができたのは、彼の嘘いつわりない信念によるものではなく、その日和見主義のおかげだった。7月29日の午後、体制転覆をもくろむ者たちの勝利がほぼ確実になると、彼は機転をきかせ、蜂起した民衆のために自身が保有するパリの倉庫を開放し、そこに野戦診療所を設けさせたのだ。このたった1度の思い切った行動は、ほんの小さな貢献にすぎなかった。にもかかわらず、ドーヴェルニュはそれを巧みに利用し、その結果、〝自由権の熱心な擁護者〟という地位を獲得した。こうして彼は、銀行家のジャック・ラフィット(1767~1844。1830年11月に首相に就任)とカジミール・ペリエ(1777~1832。銀行家、政治家)を中心とする内輪のサークルにぎりぎりで滑りこむことができた。この小さな集団を構成するひと握りの確乎不抜な人びとこそ、ブルボン家の流れを汲むオルレアン家の子孫、ルイ=フィリップ(原注:オルレアン家の領袖ルイ=フィリップは歴代の王、ルイ16世、ルイ18世、シャルル10世の従兄弟である)を即位させ、フランスがふたたび革命の騒乱に見舞われるような事態を阻止した立役者たちだった。そうした人物たちにぴたりと付き従うことで、ドーヴェルニュは権力の舞台裏へと続く階段をのぼった。そして有力な競争相手の鼻先で大規模な公共契約をかっさらい、その風見鶏作戦がもたらした最初の果実を手に入れはじめていた。
 そして今宵、シャルル=マリー・ドーヴェルニュはとなりに妻を立たせながら、みずからの成功を心ゆくまで味わっていた。彼は招待客を玄関ホールで迎えると、大理石と金箔がふんだんにあしらわれ、弦楽四重奏曲が流れるひと続きの居間へ案内した。そこではパレ・ロワイヤル地区の高級仕出し料理店〈シュヴェ〉が用意した豪華なビュッフェが整えられていた。招待客たちが思い思いにテーブルを囲んでいる。ご婦人がたは間近に迫った社交シーズンの到来(原注:当時のパリの夜会シーズンは12月から復活祭まで。5月を過ぎると富裕層は田舎に遁世し、都に戻るのは晩秋になってからだった)や、この先催される舞踏会や外出の機会にそなえて注文した新しい衣装について談笑し、懇ろになっている男女や、ブーローニュの森やオペラ座でこのところ目撃されているカップルに関する最新の噂をひそひそ声で交わし合った。一方、殿方の関心は時事問題だった。補助金を大々的につぎこんで経済を再生させようと下院で可決された3000万フランの予算の効果について議論する人たちもいれば、ブルボン家を支持する正統王朝主義者レジテイミストたちに憤っている人たちもいた。正統王朝主義者レジテイミストたちが、「財産を強奪するため最後のコンデ公を殺害させた」として、現王室を構成するオルレアン家を糾弾していたからだ。さらには、先のシャルル10世の治下で首相と大臣を務めた者たちを被告とする裁判の行方を予想し、彼らが命拾いをする可能性は万にひとつもないだろうと推測する人たちも。
 そんななか、プライベートな居室へとつながる大階段のてっぺんで青年がひとり、物憂げな様子で手すりに肘をついていた。服装こそ優雅だったが顔色は青白く、その線の細さは病みあがりか肺病患者を思わせた。彼は目の前で繰り広げられている社交の宴を陰鬱な表情で眺めていた。好きにできたなら、招待客たちの前に姿を現わしたりはしなかっただろう。だが父に、口答えを許さない断固たる口調で命令された。実際、シャルル=マリー・ドーヴェルニュはひとり息子のために壮大な計画を温め、息子の全面的な協力をあてにしていた。ドーヴェルニュにとってこの豪華な夜会は、代議士という彼の新たな身分にふさわしい華麗なやり方で、ある重要な決定をおおやけにする機会となるはずだった。
 ドーヴェルニュの〝計画〟の中核を成すのは、ジュリエットという愛らしい名を持つ17歳の少女であり、さらに言えば40万金フランの持参金だった。ジュリエットはノルマンディー地方の富豪の実業家の末娘で、父親はルーアンからエルブーフにかけての一帯に紡績工場を3カ所以上所有し、きわめて有望な株式を多数保有していた。この縁組が実り多いものであることに疑いの余地はなく、実りはなにもドーヴェルニュ家の子孫繁栄にかぎるものではなかった。代議士になったばかりのドーヴェルニュはひとり息子のリュシアンに、「とにかく第一印象が肝要だ」というメッセージを暗に、だが明確に伝えていた。
 おそらく野暮ったく、会話の種もないだろううぶな田舎娘のために夜会のあいだじゅう騎士役を演じなければならないのか……。リュシアン・ドーヴェルニュはげんなりした。25歳のリュシアンは甘やかされた子どもそのもので、ふらふらと地に足のつかない洒落者の暮らしを送っていた。父はひとり息子の浮薄な態度にいら立ち、選挙が終わると、今後は生活を改めるよう息子に申し渡した。家長の口から出た「生活を改めろ」という言葉の裏には二重の命令があった。つまり、「条件のよい結婚をして身を固めろ」と、「そろそろカカオの相場を注視し、工場のつつがない運営に心を砕け」のふたつである。そのどちらもリュシアンの気を惹くものではなかったが、言いつけに背けば金銭の援助はこれきりだと脅され、しぶしぶ従うよりほかなかった。
 とはいえ、リュシアンには母という頼れる味方がいた。
 ドーヴェルニュ夫人は父親とはちがって息子を甘やかし、夫の不満をよそに、物書きになりたいというリュシアンの夢を後押ししていた。事実、リュシアンは自分には文才があるとうぬぼれていた。文名を手にするまでには至らなかったが少しばかり詩作を試みたあと、最近では筆の力でパリの大舞台の観客を魅了してみせると意気ごんでいた。彼は演劇にすっかり心を奪われ、昨冬、『エルナニ』の初演の大成功に立ち会って以来、ヴィクトル・ユーゴーが憧れの人物となった。抜け目のない母親はこの夜会にユーゴーを招待するべく画策をめぐらし、ひとりだけ文人を招待するのは不自然なため、ほかに何人か高齢のアカデミー会員にも声がけした。
 リュシアンが意を決して招待客のひしめく居間に下りていくことにしたのは、早々に婚約者を厄介払いにし、『東方詩集』や『死刑囚最後の日』を著したこの作家とお近づきになる機会を得るためだった。だが、事はそううまくは運ばなかった。階段を下りたところで、あろうことか、ユーゴー氏が夜会に出向くのを急遽取りやめたと知らされたのだ。たちの悪い風邪を引き、数日、部屋から出られないとのことだった。意気消沈したリュシアンは、まだ短い彼の人生のなかで今宵が最悪の夜になると観念した。そしてそのとき件のジュリエットを紹介された。意外なことに、策略家の父の選択はさほど悪くはなかった。魅力を欠く娘ではなかったからだ。ビロードのような柔らかなまなざしをしたブルネットの娘で、朗らかな声で、「わたし、ロマンチックな詩が大好きなの」と自己紹介した。若いふたりは双方の親にやさしく見守られながら、すぐにラマルティーヌやアルフレッド・ド・ミュッセの詩を朗唱し合った。リュシアンはこの若い娘の魅力に夢中になり、この縁組の唯一の目的が40万金フランの持参金であることをほとんど忘れそうになった。
 惨劇に先立つひとときの様子は、事が起きたあとにさまざまな人の証言を突き合わせて初めて明らかになった。治安局の捜査員たちが集めた情報によれば、夜会の最中、リュシアンは自分の寝室にある自作のソネットを取りに行くため2階に上がったらしい。彼がジュリエットに、「実は自分でもいくつか詩を書いているのだ」と打ち明けたところ、「いくつか読ませてちょうだい」とねだられたのだ。その後の展開は、もっと曖昧で混乱している。下僕のひとりは、夜の10時少し前にリュシアンと2階の廊下ですれちがったと証言した。2階の廊下には、1階の居間のスペースを確保するために雑多な調度品が移動されていた。そのなかには金枠に入ったヴェネツィア製の大きな鏡もあった。鏡は床に直置きされて壁に立てかけられていた。リュシアンは片膝を絨毯につき、異様な目つきで鏡を見つめていた。まるで鏡に映る自分の姿に吸い寄せられているように。「ええ、リュシアンさまはそれはもう、じいっと鏡に見入っておいででした。なにかご入り用なものはございませんか、とお尋ねしたのですが、その言葉も耳に入っていらっしゃらないかのようでした」──のちに下僕は、現場検証にやってきた警官たちにそう語った。
 ジュリエットは麗しのパートナーがなかなか戻ってこないので、ついにドーヴェルニュ夫人にその旨を伝えることにした。手に負えないあの子がまた気まぐれを起こしたのかしら、と心配になった夫人は、ともあれ事の次第を確認し、息子がいないことを夫に気づかれる前に自分で問題を処理しようと考えた。そして玄関ホールに向かったところで階段を下りてきた下僕に出くわしたので、リュシアンを見なかったかどうか尋ねてみた。下僕の話を聞いて彼女は2階にのぼり、息子が確かに片膝をつき、微動だにせずに鏡に見入っているのを目にした。
 不吉な予感にとらわれた夫人は、息子の名を呼んだ。
 愛する母の呼び声に、リュシアンは立ちあがった。そして母のいる側とは反対側の廊下の端に向きなおり、頭の高さで軽く手を振った。最後の別れでもするように。そのあと、少しよろめきながらも決然とした足取りで直近の窓のほうへ歩き出し、窓を開け……静かに虚空に身を投げた。
 ドーヴェルニュ夫人は悲鳴をあげ、つんのめるようにして窓に向かって駆け出した。そしてその不吉な窓を通じて、5メートル下に横たわる息子の遺体を目にした。リュシアンは落下するさい、中庭の噴水を飾る海神ネプチユーンが持つ三叉の矛に胸を突かれていた。詩を綴った紙片が、落ち葉とともにひらひらと力なく宙を舞っていた。

2 偉大なるイエス(グラン=ジエジユ)

 細紐の先で得体の知れない物体が10個ほど、ぶらぶらと揺れている。丸々と膨らんだものもあれば、ほっそりと細長いものもある。色は灰色か、黒に近い濃灰色。物体は空中でくるくると回転し、互いに擦れ合いながら不吉で怪しげな舞踏ジグに興じている。
 踊っているのは、ネズミだ……。
 男がひとり、大きなネズミの剥製をいくつも竿の先にぶらさげ、それを看板代わりに肩に担いで歩いている。おそらくネズミ捕りと猫いらずを扱う行商人だろう。男はユゼス邸をぐるりと囲む壁に沿ってサン=フィアクル通りをゆっくりとのぼった。そしてユゼス邸を通り過ぎたところでようやく街路に面した入り口を見つけ、長い1日の疲れを感じさせる、引きずるような足取りで近づいていった。
 男が万にひとつの幸運を期待して門を叩こうとした瞬間、物陰からいきなり人影が飛び出してきた。哀れな行商人はぎょっとして飛びあがり、ネズミの剥製の蒐集物を取り落としそうになった。
「邪魔だ、あっちへ行け!」
 まだ青臭さの残る声だったが、有無を言わせぬ威厳が感じられた。行商人は思わず1歩あとずさった。「あんまりなお言葉じゃあございませんか?」愚痴っぽく抗議した。「あっしはなんの害もない物売りです。ネズミを捕る罠やら仕掛けやらを売ってるんですよ」
 いきなり現われて行商人を手厳しく叱りつけたのは、23歳の青年だった。足元にまで届く長い縞のズボンに灰色のフロックコートという出で立ちで、山高帽を目深にかぶり、洒落たステッキを手にしている。腰は細いが肩はがっしりと張っていて、眼光鋭い灰色の目が燃え盛る炎のようにきらめいていた。線の細い端整な顔は、独特の痛々しいまでの美を湛え、この世に迷いこんでしまった天使のようだ。少なくとも一見したかぎりは。というのも、目を凝らしてよく見れば、精美な顔立ちのしたに、剣の刃のような峻厳さと揺るがぬ意志が潜んでいるのが感じられるからだ。そしてこの天使が正義の剣を持つ人物で、その全身から発せられるぴんと張り詰めた雰囲気は、獲物を追う野獣のそれだと気づくことになる。
 どんなならず者をもひるませるであろう毅然とした物腰のその青年の名は、ヴァランタン・ヴェルヌ。パリ警視庁風紀局第二課に勤務する警部だ。

(つづきは書籍でお楽しみください)

『鏡の迷宮 パリ警視庁怪事件捜査室』
Le Bureau des Affaires Occultes
エリック・フアシエ  加藤かおり 訳
装幀:水戸部功
ハヤカワ・ミステリ/電子書籍版
2,530円(税込)
2022年10月4日発売