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劇場法施行10年、芸術監督に求められるものとは? 内野儀「メディアとしての現代演劇ーー生活と世界を別の回路でつなぐ」vol.1前編

『悲劇喜劇』22年7月号より、演劇批評家の内野儀氏による連載「メディアとしての現代演劇ーー生活と世界を別の回路でつなぐ」が始まりました。日本社会の現在をうつすメディアとして現代演劇を案内する、必読の論考です。このたび、vol.1「演劇と劇場の公共圏──公共劇場とはなにか」を前後編にわけて全文公開します。(前後編の前編です)


 一年間限定で、本誌に連載をさせていただくことになった。コロナ禍という一種の宙づり状態がつづくなかで、わたしに見えている日本の現代演劇について、今、まとまった論考を残しておきたいと考えたからである。ただし、かつては可能だった小劇場演劇のマップを書くといった力業(※1)はもういまのわたしにはできない。それはわたしの力量の問題でもあるが、この三十年間、自然災害や人災やパンデミックを経験しつつも、量、質ともに拡大・拡張していった日本の現代演劇について、たとえ、小劇場系とジャンルを区切ったとしても、当時のように二次元のマップでなにか生産的なものを示すことはできないと思うからである。
 それよりここでは、あえてテーマ主義でいきたい。いま、わたし自身が考えておきたい六つの個別テーマについて、毎回、取り上げていきたいと思う。
 ただし、連載を通じて、タイトルにあるように「メディアとしての現代演劇」という切り口でいくつもりである。日本社会の現在を構造的あるいは兆候的に映すメディアとして、現代演劇を捉えたいのである。身の回りを含む日常、社会、そして世界で起きていることに対してさまざまなレヴェルで敏感に応答し、今を生きるわたしたちの姿を、あるいは、もしかしたら、未来のわたしたちの姿まで垣間見させてくれるメディアとしての演劇である。わたしたちの生活と世界を思わぬ回路でつないでくれる可能性がある演劇である。
 そのため副題は、「生活と世界を別の回路でつなぐ」とした。テレビ映画のようなマスメディア、あるいは活字メディアやSNSを含むネットメディアと重なりつつも微妙にずれながら、人びとの生活と世界をつなぐ可能性のある別種のメディアとしての現代演劇である。

公共劇場と芸術監督

 さて、第一回の本稿では、公共劇場というテーマを取り上げる。ちょうど今年、二〇二二年は新国立劇場や世田谷パブリックシアターといった首都圏にある公共劇場が開場して二十五年目に当たる。しかも、その多くで芸術監督交代という画期を迎えているのである。KAAT神奈川芸術劇場では、劇作家・演出家の長塚圭史が新芸術監督に(二一年四月から)、世田谷パブリックシアターは、二十年間その職にあった野村萬斎から白井晃へ二二年四月をもって芸術監督が交代。蜷川幸雄亡きあと芸術監督職が空席だった彩の国さいたま芸術劇場では、ダンサー・振付家の近藤良平が二二年四月一日付けで新芸術監督の職に就いた。一方、すでに芸術監督の任にある新国立劇場の小川絵梨子は、その任期の二期目に二二年九月から入る予定、といった具合である。
 そのため公共劇場の芸術監督については、このところジャーナリズムで取り上げられる機会も増え、また、つい先日(二二年四月十九日)、世田谷パブリックシアターでは、新芸術監督の白井の声がけによって、「公共劇場における芸術監督の役割を考える」と題するシンポジウムも開かれた。その席には、上記小川、近藤、長塚も白井とともに参加し、俳優の成河が司会をつとめて、この種のイベントにしては珍しく、芸術監督に予算権・人事権は必要か、という単刀直入な質問が発せられたりもした(※2)。
 二二年はまた、「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律」(いわゆる劇場法)が公布、施行されて十年目にあたっていることも忘れてはならない。劇場法の解説として書かれた根本昭・佐藤良子による『公共ホールと劇場・音楽堂法──文化政策の法的基盤Ⅱ』の「はじめに」によれば、「本法は、劇場、音楽堂等の定義、劇場、音楽等の事業、関係主体の連携と協力、必要な人材の養成と確保等について規定している」(※3)。そのため、公共劇場の問題は、こうした法的側面、もう少し大きい枠組みでは、文化政策の問題として論じることもできる。上記シンポでの成河からの質問にあった芸術監督の予算権・人事権という問題にしても、シンポジウムのタイトルになった「芸術監督の役割」にしても、同様である。
 ただし、本稿の公共劇場への主要な関心は、その言葉を口にした途端、公共や公共性といった言葉、あるいは、これもまた、つい先日、日本語訳が刊行された演劇学者クリストファ・バームによる『演劇の公共圏』(※4)における公共圏といった広がりをもつ問題系が、浮上してくるところにある。つまり、公共劇場を論じるためには、歴史的かつ理論的視座が必然的に要請されるので、ローカルな業界内の話題にとどまれないのである。
 公共性や公共劇場をめぐる歴史的・理念的な議論は、劇場法成立前にもかなり真剣に行われていたようで、たとえばその一例として、伊藤裕夫等の編著で一〇年に出版された『公共劇場の10 年──舞台芸術・演劇の公共性の現在と未来』(※5)がある。本書は当時の理論的・研究的水準の高さを示していてとても興味深いのだが、それからさらに十年以上が経過していることを考え、この間の経緯や変化も考慮に入れながら論を進めたい。
 上記シンポジウムにおける参加者の発言や、すでに芸術監督を務めおえた野村萬斎のWeb論座に掲載された言葉を読むと、「日本独自の」という表現が目立つ。実際、萬斎の記事のタイトルは、「日本文化の中の芸術監督とは」となっている(※6)。つまり、公共劇場が稼働して二十五年、劇場法が施行されて十年で、日本における公共劇場や芸術監督という存在は、「日本独自の」を主張できるほどに、当たり前の存在になったのだ。換言すれば、日本の舞台芸術への公的支援が広く行きわたり、国や地方自治体から税金を財源とする補助金や助成金を使って公演したり、同じ財源によって、公的な劇場を管理経営したりすることが、暗黙の前提になったのである。
 ただし、この前提が、演劇業界の外の人たち、たとえば、近接するテレビ映画業界の人たちだけでなく、劇場に来ない人、舞台芸術に興味がない人たちにまで浸透しているとは思えない。いや、劇場に来る人であっても、その劇場が公共劇場なのかそうでないのかなど、そもそも、さしたる問題ではない可能性が高いと常識的には考えられる。だからこそ、公共劇場は、あるいは、公共劇場ときってもきりはなせない現代演劇の現場にかかわるすべての人は、公共とは何か、公共劇場とは何をするところなのかについて、「日本独自」かどうかはともかく、議論と発信を継続していく必要がある。
 そのため本稿もまた、より幅広い読者層の方々と、こうした演劇界内の前提を(再)確認するために、演劇の公共圏という問題に飛んでしまう前に、公共性について、また公共劇場について、原理的な話からはじめることにしたい。

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※1 「J演劇をマッピング/ザッピングする」、「ユリイカ」七月号、二〇〇五年、青土社、一八三~一九八頁。

※2 なぜそのような質問が発せられるのかというと、今のところ日本では、欧米では当然と見なされがちな予算や人事の決裁権が、公共劇場の芸術監督にはないからである。唯一の例外は、当該シンポジウムでも言及があったように、SPAC/静岡県舞台芸術センター(その傘下に、静岡芸術劇場が含まれる)である。

※3 根本昭・佐藤良子編著『公共ホールと劇場・音楽堂法―文化政策の法的基盤Ⅱ』、水曜社、二〇一三年、n.p. 劇場法について注意すべきことは、劇場法成立時に柾木博行が好意的に評価したように、「民間の劇場も対象となることが明記されたこと」で、「従来の議論から大きく前進した」とも言えることである(柾木博行「特集 公共劇場のあゆみ 序論―これからの歩み」、『シアターアーツ』五二号、二〇一二年、五頁)。なぜ前進と言えるのか柾木は明記していないが、この法律によって、民間劇場にも公的助成を与える法的枠組みが整備されからだと考えられる。

※4 クリストファ・バーム『演劇の公共圏』藤岡阿由未訳、春風社、二〇二二年。原著はChristopher Balme, The Theatrical Public Sphere, London:
Cambridge UP, 2014。なお、著者名はこれまでクリストファ・バームと記されることが多かったが、本書ではクリストファー・バルミである。本論では従来通りの表記を採用する。

※5  伊藤裕夫・松井憲太郎・小林真理編著『公共劇場の10年―舞台芸術・演劇の公共性の現在と未来』美学出版、二〇一〇年。

※6 野村萬斎「野村萬斎ラストメッセージ【上】―日本文化の中の芸術監督とは」(https://webronza.asahi.com/culture/articles/2022032000002.html、「野村萬斎ラストメッセージ【下】―目指してきた劇場のレパートリー」(https://webronza.asahi.com/culture/articles/2022032000005.html)。野村は当該記事で、公共性について、思想的・理論的ではないものの、以下のようなわかりやすいイメージでの説明している。狂言の定型句である「このあたり」に言及しながら、野村はこう言うのである。「『このあたり』も、考えてゆくと、同心円状にどんどん広がっていきます。ここ『世田谷区の三軒茶屋あたり』から発信されたものが、『東京』の人たちに共有され、『日本あたり』に広がり、さらに『アジアあたり』のものとなり、最後は地球全体が、『このあたり』になる。この発想は、とても公共性があるのではないかと考えたわけです。世田谷区の税金や国の助成金など公的なお金を使わせていただく公共劇場は、それをどのように地元と社会に還元するかを考えなければなりません。ですから、地域性と同時代性として、まず、『世田谷あたり』の『今ここにいる人たち』の実情を考える。そしてそれを同心円状に広げて考え、『普遍性』にいたる。そういう発想をしました」というのである。このいわゆる発信型・創造型の公共劇場については、後述する。

***(『悲劇喜劇』2022年7月号より)***

【後編は6月21日(火)公開予定です】


内野儀(うちの・ただし)日米現代演劇、パフォーマンス研究。1957年、京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。学術博士(2001)。東京大学大学院総合文化研究科教授(表象文化論)を経て、2017年4月より学習院女子大学国際文化交流学部教授。著書に『メロドラマの逆襲─〈私演劇〉の80年代』(勁草書房)、『メロドラマからパフォーマンスへ─ 20世紀アメリカ演劇論』(東京大学出版会)、『「J演劇」の場所―トランスナショナルな移動性( モビリティ) へ』(東京大学出版会)他。

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