人間の強みである「数学的知性」の7つの特徴とは。『AIに勝つ数学脳』訳者あとがき(水谷淳)
AI(人工知能)の進歩めざましい今、AIを「使う側」に立つために人間にとって必要な思考法とは? 人間ならではの強みである「数学的知性」の特徴とは?
これらの問いに見事に答えてくれるのが、世界的ベストセラー数学者のイアン・スチュアートも「真の知性を希求する叫び声がここにある」と太鼓判を押す話題の新刊『AIに勝つ数学脳』(ジュネイド・ムビーン、早川書房)です。本書の読みどころをぎゅっと凝縮した、水谷淳氏の「訳者あとがき」を全文公開します。
訳者あとがき
水谷 淳
ご存じのとおり、AIの近年の進歩には目を見張るものがある。音声認識や生体認証などはすでに日常生活に完全に浸透しているし、文章や画像の生成、自動運転など、次々と新たな用途が広がりつつある。そのすさまじいパワーを武器に、AIは知的活動の領域を次々に征服し、近いうちに人間の頭脳は無用の長物になってしまうかのようにも思える。AIの圧倒的な力を前に、我々人間は何を誇りにして生きていけばいいのだろう? 本書によれば、それは数学的に考える能力、数学的知性なのだという。数学を駆使する力にかけては、人間はAIを上回っているというのだ。
だが考えてみると、AIの正体はコンピュータプログラム、突き詰めれば数学的なアルゴリズムである。だとすると、AIがもっとも得意とするのは、まさに自身の存在の礎である数学、それを操る能力ではないのか? 膨大なデータを処理して数値をはじき出す能力をめぐって、人間がコンピュータに勝てるとはとうてい思えない。本書で言う数学的知性とは、コンピュータの処理能力とどこがどう違うというのだろう?
数学と聞くとどうしても、学校で四苦八苦した計算問題を思い浮かべてしまう。正確に設定された問題を与えられて、教わったとおりの手順で計算を進め、確定したたった一つの正解を導き出す。それが一般的な数学のイメージだ。ところが本書によれば、それは真の数学ではない。数学とは本来、もっと柔軟であいまいさを含んでおり、創造性や発想力が求められる、血の通った人間的な営みである。それこそが、人間がAIに優る資質、数学的知性なのだという。
人間の強みであるそんな数学的知性を特徴づける七つの要素を、本書は章ごとに一つずつひもといていく。いずれも現在のAIが不得意とするものだ。本書ではそれぞれの要素について、人間の長所と弱点、そしてAIに欠けている点を、具体的な事例を挙げながら掘り下げていく。その際の大きな手掛かりは、数学がいかにして発展してきたか、その歴史から読み取ることができる。人間である数学者が、どうやって問題に取り組み、どうやって新たな数学分野を切り拓いてきたかを探ることで、人間特有の数学的知性の正体に迫れるということだ。
数学的知性を特徴づける要素のうち、最初の五つは、我々人間が数学をどう考えるか、その思考の特徴に関するものである。
一つめは「概算」。おおざっぱな答えを推測する能力である。厳密さが売りのはずの数学に、どうしてそんなものが大事だというのか? 実は人間が数学的な答えを理解する上では、概算の能力が欠かせない。そして正確な計算と大まかな概算とでは、使う脳の回路が大きく異なるのだという。
続く要素は「表現」。数学の概念や答えをどのような形式でどのように表現するか。それは人間が数学的思考を進める上で非常に重要な選択で、AIに任せることはできない。我々が当たり前に使っている位取り数体系も、数ある表現法の一つであって、人間の身体性や思考方法にかなったものだという。
三つめは「推論」。AIは確かに正確な答えをはじき出してくれる。しかし、どんな論理に従ってどんな文脈でその答えを出したかは、けっして説明できない。人間が数学を駆使する際には、推論に基づいて答えを理解し、自分のために役立てることが肝心である。人間特有の考え方の癖を的確に把握しておかないと、AIがそれを増幅して思いもよらない事態に陥りかねないという。
四つめの要素は「想像」。数学は天から与えられるものではないし、AIが新たな数学分野を興すこともけっしてできない。数学は人間が想像力を発揮してゼロから作り上げるものであって、そこに人間特有の思考が関わってくる。かのゲーデルが明らかにしたとおり、数学はどうしても不完全な体系であって、杓子定規な機械的手順で切り拓いていくことはできないのだという。
五つめは「問題」。そもそも問題を立てなければ、数学を進めることはできない。人間は遊び心の中から新たな問題を思いつき、それをどんどん膨らませていく。グラフ理論も確率論も、どうと言うことのない疑問から生まれた。AIに問題を解いてもらいたくても、まずは我々がその問題を考え出さなければ何も始まらないのだ。
数学的知性の六つめと七つめの要素は、実際に我々はどうやって数学に取り組めばいいのか、その方法論に関わっている。
まずは、スピードと思考の深さのバランスを取ること。本書ではそれを「中庸」と表現している。問題を解く速さばかりを重視していると、創造的で有用な答えにはたどり着けない。ときには意識的な思考をオフにして、無意識というものに身を委ねることが大事である。そして自分のスキルに見合った数学の課題に取り組むことで、いわゆるフロー状態に没入し、この上ない喜びを感じられるという。
最後に挙げられるのは、人間と人間、あるいは人間とAIの「協力」である。誰とも関わらずに一人きりで大きな業績を上げた数学者などいない。多様な考え方の人間が集まることで、驚くべき知性が発揮される。そしてここまで示されてきたとおり、人間とAIはそれぞれ異なる強みを持っているのだから、それを組み合わせることでますます威力を発揮するのだという。
本書を通じてもっとも強く感じられるのは、数学はけっして無味乾燥な堅苦しい学問ではないということだ。人間ならではの感情、想像力、思考の癖、発明の才、それらが組み合わさることで築き上げられてきた、非常に人間くさい創造物である。AIも確かに人間によって発明された。しかしそのAIがこのような人間くささを受け継いでいるかというと、けっしてそんなことはない。そこにこそ、我々人間が強みを発揮して、今後も知的活動の主役でありつづける余地がある。そんなメッセージが本書からは読み取れると思う。
最後に著者の紹介を。ジュネイド・ムビーンは、英オックスフォード大学で数学の博士号、米ハーヴァード大学教育大学院で国際教育政策の修士号を取得した。現在はWhizz Education という企業で教育担当取締役を務め、Maths-Whizz という先進的な数学教育プログラムを世界中に提供している。また、『暗号解読』などのベストセラーで知られるサイモン・シンとともに、世界最大の数学サークルparallel(https://parallel.org.uk)を運営している。本書が初の著作である。
詳細は、ぜひ本書でお確かめください(電子書籍も同時発売)。
本文の試し読みも公開中
著者紹介
ジュネイド・ムビーン (Junaid Mubeen)
オックスフォード大学で数学の博士号、ハーヴァード大学教育大学院で国際教育政策の修士号を取得。現在はWhizz Educationという企業で教育担当取締役を務め、先進的な数学教育プログラムを世界中に提供している。また、ベストセラー科学作家のサイモン・シンとともに、世界最大のオンライン数学サークルparallelを運営している。
訳者略歴
水谷 淳 (Jun Mizutani)
翻訳家。訳書にグリビン&グリビン『進化論の進化史』、フランク『時間と宇宙のすべて』、アクゼル『宇宙創造の一瞬をつくる』 (以上早川書房刊)、スチュアート『世界を支えるすごい数学』、テグマーク『LIFE 3.0』ほか多数。
この記事で紹介した書籍の概要
『AIに勝つ数学脳』
著者:ジュネイド・ムビーン
訳者: 水谷 淳
出版社: 早川書房
発売日:2024年2月21日
本体価格:2,800 円(税抜)