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カミュ『誤解』──戯曲についての翻訳者メモ(岩切正一郎)

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新国立劇場にて上演されたアルベール・カミュの『誤解』(演出=稲葉賀恵、『悲劇喜劇』11月号に戯曲掲載)。新訳を手掛けた岩切正一郎氏による、作品理解を助ける翻訳メモを公開します。

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 アルベール・カミュの『誤解』が、新国立劇場で2018年10月4日から21日まで上演され、私は戯曲翻訳で参加した。演出は稲葉賀恵氏。最初の台本打ち合わせでセリフの口調などの大まかな方向性を決め、「で、どういう演出プランなんですか?」と質問したとき、稲葉さんは、マルタがジャンのいるところで自分の夢を語るときに、奥の壁が突然ガーッと左右に開いてそこに強烈な光が射す、といったことを考えている、と語った。そう言われた瞬間、まだ見ぬその光景が私の脳内に強烈に出現してしまって、一発で彼女のヴィジョンを信頼した。最終的には紗幕を使った素晴らしい演出になった。
 さて、私がこれから書こうとするのは、その演出や演技についてではない。それらについては演劇批評の方が今後お書きになるだろうし、わたしの良くするところでもない。私はちょっとメモを残しておきたいのだ。稽古現場で共有されていた主題と個人的な発見について。
 戯曲の新訳は『悲劇喜劇』11月号に掲載されている。稽古場ではいろいろ修正が入るので、なるべくそれを反映するように努めたけれど、〆切の問題もあって、最終的に現場で使った台本と完全に一致しているわけではない。
 劇場パンフレットに、私も、カミュに詳しい専門家・研究者に混じって寄稿文を書いた。編集サイドから、演劇史のなかの位置づけを、という希望があったのでそれに添って書き、劇の内容には踏み込まなかった。『悲劇喜劇』11月号に内田樹氏もエッセーを寄せられている。
 それらの寄稿はカミュの『誤解』というテクストにこめられている人間のあり方、条件、異邦性、追放のテーマ、といった視点からの「読み」がクローズアップされていて、それぞれに教えられるところが多い。ただ、カミュの思想とは別に、観る側の作品理解のために役に立つもうひとつの知識があって、たぶん文字数の制限のせいだろう、(たぶん)誰も言及していない。そこでそのギャップの埋め合わせも含め、翻訳者の観点から簡単に3点、メモしておきたいと思う。
 稽古の場で共有されていて、プログラムやインタビューや雑誌には載っていない事柄のひとつに、登場人物の聖書的パロディーもしくは暗示の側面がある。十代の終わりに実家を出たまま長いこと外国暮らしをして、20年後に、母と妹が経営する小さなホテルに見知らぬ客を装って戻ってきたジャン。彼は結婚していて、妻の名前はマリア、妹はマルタだ。この名前は、「ルカによる福音書」のマルタとマリアの逸話を連想させる。ある村でイエスを迎えた家にはマルタとマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って彼の話に聞き入っていたけれど、マルタはもてなしの家事に追われ忙しく立ち働いていた。マルタは、「主よ、わたしの姉妹はわたしにだけもてなしをさせています。それを何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と言う。それに答えてイエスはこう言った。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。けれど必要なことはただ一つだけだ。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 ジャンへの愛だけに生きるマリアと、閉ざされた陰鬱な祖国で母と暮らしながら生の喜びを奪われた生活を強いられているマルタは、聖書のこのふたりに重なる。『誤解』のマリアは、愛と義務(もしくは夢)のあいだで選択しなくてはならないジャンが義務を選ぶのを見て、「男の人は、より好きな方を捨てずにはいられない」と言って彼を責める。その彼は第2幕第5場で、眠り薬が入っているとは知らずに、出された紅茶を飲む前、神に「力をお与えください、好きなものを選び、しっかり放さない力を」と祈る。カミュ自身はマルタに自分の思想を投影しているから、生活に追われて「言葉」を聞く機会を奪われている聖書のマルタに共感している部分があるはずだ。(それにマルタはマルタなりに、彼女にとっての良い方、太陽と海の国への憧れを選んでいる)。けれど同時に、選ぶべき良い方、つまり愛をあとまわしにしたジャンと、それを取り上げられてしまうマリアがこうむった喪失と悲痛も浮き彫りにしている。キリストがスパッと切り分けたものに引き裂かれている人間の実存がそこに姿を見せているようなのだ。
 その意味でジャンには人間世界へ遣わされたキリスト的な不遇がある。夫が殺害されたことを知ったマリアはマルタに詰め寄る。そのときのセリフのなかに「あの人は息子だと分かって欲しかった〔略〕あなたたちに幸せをもたらそうと思っていた〔略〕ところがあなたたちは、素晴らしい息子が戻ってきたのを目の前にしながら、正気をなくして何も見えなくなっていた」というのがある。キリストと分からずに神の息子を十字架にはり付けて殺した人間、という構図と重なる部分だ。
 こうした関係性のなかで、マリアは最後に神に救いを求め、そこで登場する年老いた使用人が、その呼びかけにたいして「Non」(嫌です)を宣言する。カミュは、手帖に、老人は神の比喩ではないと記している。老人は戯曲(悲劇)をつらぬく運命なのだ。
 こうした構図は、舞台でそのまま前面に押し出すとまるで宗教劇みたいになってしまうので、そういう側面もありますよね、くらいの感じにしておけばよいのだが、といって完全に無視できるものでもない。
 マルタがマリアへ向かって、「石である幸せ」を勧めるセリフは、カミュの『反抗的人間』のなかにも似た思想が出てくる。ギリシャのエピクロス派に反対する議論で、苦しみを感じないのが幸福、というのなら、人は石になって何も感じないのが一番の幸福なのだ、というくだりだ。けれど沈黙してやりすごすだけの幸福を嫌って、もしより良い生への希望を抱いたら? そこから「人間の不幸は希望から来る」という考えが生まれる。サルトルがドイツ軍の捕虜になっているとき脚本を書いてクリスマスに捕虜収容所で上演した『パリオナ』のなかに次のセリフがある。「神はあらかじめ天使に全てを与えたもうた。石もまた希望することがない。石は恒久不断の現在の中に呆けたまま生きている。しかし神は人間の本性をお作りになったとき、希望と懸念とを混ぜ合わせられたのだ」。東方の三博士バルタザールのセリフだ(石崎晴己『敗走と捕虜のサルトル』(藤原書店)所収)。人間性とは何か、という点で、カミュと強く響き合う部分だ。
 
 稽古を見始めた最初の頃、私が個人的に「そうだったのか!」と気づいたことがある。カミュはその「手帖」に『誤解』では悲劇性と、そして当時のフランス演劇では忘却されている身体性を回復することを目指すと書いている。悲劇性は分かる気がしたものの、この「身体性」というのがテクストを読んでいるだけの私には今ひとつピンと来なかった。それが、稽古が始まって、第1幕第7場の、母親のモノローグを演じる原田美枝子さんの演技を見て、疑問が一気に氷解した。身体とは、ここでは、疲労なのだ。私はつい、動き回る身体、世界を感受する身体、とか、そういった見方で身体性を捉えようとしていたのだが、そこに出現していたのは、老いて、疲れて、重く
て、沈潜していく身体だった。稲葉さんの演出は、そこから、ジャンとの会話を経て、最後には愛へめざめて死へ向かう母の変貌を見せていく道筋を作っていた。この疲れた身体、の基盤のうえで、さまざまな夢と欲望と愛と、そして死が、交錯していくのだった。紗幕が奥へ上げられ広がった空間のなかでマルタを演じる小島聖さんの、手を自分の希望する世界へ、上へと伸ばしていく夢想する身体の美しさが、対照的なコントラストを生み出していた。
 稽古のとき、あまりにも美しかったのでその場で台本にスケッチしてしまった。

※岩切正一郎氏による新訳、カミュ『誤解』は『悲劇喜劇 11月号』に掲載。

岩切正一郎(いわきり・しょういちろう)フランス文学者。国際基督教大学教授。一九五九年生まれ。〇八年、蜷川幸雄演出『ひばり』(ジャン・アヌイ作)と『カリギュラ』(アルベール・カミュ作)の翻訳で、第十五回湯浅芳子賞を受賞。著書に『さなぎとイマーゴ』(書肆心水)、他。訳書に『ジャン・アヌイⅠ ひばり』『アルベール・カミュⅠ カリギュラ』『ジャン・ジロドゥ1──トロイ戦争は起こらない』(以上ハヤカワ演劇文庫)、他。戯曲翻訳に、ベケット『ゴドーを待ちながら』(新国立劇場)、サルトル『アルトナの幽閉者』(同)、ラヒミ『悲しみを聴く石』(シアター風姿花伝)、他。

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