グーグルとの衝突から読み解く「巨大企業の宿命的限界」とは? 『BUILD』楠木建氏解説全文(後篇)
アップル社でiPodと初期のiPhoneの開発チームを率いた伝説のエンジニアが明かすイノベーションの極意とは? 話題の新刊『BUILD 真に価値あるものをつくる型破りなガイドブック』(トニー・ファデル、土方奈美訳、早川書房)より、楠木建氏(一橋大学特任教授)による解説全文を特別公開します。後篇では、著者トニー・ファデルが内側から見たグーグルの実像をもとに、シリコンバレーの巨大企業が抱える根本的な問題を読み解きます。
【解説前篇はこちらで公開中/iPodとiPhoneを生んだ著者が明かす「破壊的イノベーションの真髄」とは?】
解説【後篇】楠木建(一橋大学特任教授)
グーグルの実像
2014年に著者〔トニー・ファデル〕は革新的なサーモスタットで成功したネストをグーグルに売却する。おそらくこれが著者のキャリアを通じて最大の失敗だろう。著者はこの失敗の成り行きを微に入り細に入り具体的に記述している。当事者でなければ書けない迫真のディテールに重みがある。
グーグルといえばシリコンバレーの象徴にしてイノベーションの総本山のような印象がある。そこには創造性にあふれ、機敏で柔軟でオープンで自由闊達な経営があるかのように見える。しかし、著者の見たグーグルは正反対だった。社内のルールと手続きに縛られた硬直的な組織。内向きで場当たり的な意思決定。検索・広告事業から生まれる莫大な収益ゆえの弛緩した管理体制。何よりも、異質なものを受け入れようとしない排他的体質。ネストの買収後の統合は遅々として進まず、グーグルの中でのネストの位置づけは二転三転。結局、著者はグーグルを離れるのだが、実態は放り出されたのに近い。
ネストの創業当初からグーグルはネストに関心を寄せていた。早くも2012年には買収の意向を表明している。ネスト側がこれを断ると、出資を申し出る。ネストにはスタートアップの活気があった。サーモスタットはよく売れていた。先述したように、ネストはサーモスタットを皮切りにスマートホームのプラットフォーム構築を目指して、次々に関連機器を市場化しようとしていた。この戦略の実行には莫大な資金が必要になる。ここに至って著者はグーグルへの売却を決断する。買収金額は32億ドル。スマートホーム事業に5年間でさらに40億ドルを投資する約束をグーグルから取りつけた。資金だけではない。グーグルには最高の人材や技術、強力な販路もある。誰が見ても最高の結婚だった。
しかし、「地獄への道は善意でできている」。すぐに著者は大きな困難に直面する。グーグルの文化はスタートアップのネストのそれとまるで違っていた。グーグルの社員の間には、宿敵のアップル出身者である著者への複雑な感情もあった。著者にしても「グーグルの新入社員がかぶるプロペラ付きの野球帽をかぶる気など毛頭なかった」。文化の衝突がここそこで発生し、頼りにしていたグーグルのリソースが使えない。グーグルストアでネスト製品を売ろうとすると、「無理です、少なくとも一年かかります」。それまで使っていたAWS(アマゾン・ウェブ・サービス)を解約しグーグルクラウドに乗り換えようとすると、「無理です、かえって費用が高くなります」。
財務状況に直接的なダメージも生じた。検索や動画による広告事業で高収益を続けてきたグーグルは異様に高コスト体質で、重い間接費がネストにのしかかってきた。買収前に25万ドルだったネストの社員一人当たりの支出は47万5000ドルに跳ね上がった。グーグルの管理会計上、真新しいオフィスビルや豪華な会議室のコストはもちろん、社員にふんだんに供与される無料のバスや食事やスナックの経費も負担しなければならなかったからだ。PCをグーグルのネットワークに接続する費用は、驚くべきことに1人当たり1万ドル(PCの費用を含まず)だった。
買収から一年後、著者はグーグル創業者のラリー・ペイジのオフィスに呼ばれ、「エキサイティングな全社戦略」を知らされる。アルファベットという持ち株会社の下にグーグルの事業をぶら下げる。つまりは、上場企業としてウォール街のアナリストに説明しやすい経営体制への移行だ。ネストはグーグル事業の一部ではなく、「その他の挑戦」カテゴリーに位置づけられた。
グーグルのリソースへのアクセスは完全に断たれた。グーグルの優秀な社員はネストのプロダクトに興味を持つことはあっても、創業以来のミッションに関心はなかった。状況が厳しくなったらとどまるつもりはさらさらない。「きみたちはグーグルの一部ではない」とテクノロジーチームは手のひらを返した。
アルファベット体制が発表されて24時間後には、設備管理を担当するグーグル・ファシリティーから数百万ドルの本社ビルの請求書が届いた。ついに一人当たりの費用は2.5倍にまでなった。アルファベットへの上納金を軽減してもらおうと交渉しても、「財務会計基準でこうせざるを得ない、上場企業だから仕方がない」というそっけない回答がくるだけだった。
アルファベットはハードウェアでも収益事業があることを投資家に示したかった。当時、スマートフォンやクロームブックなどのグーグルのハードウェア事業はことごとく赤字だった。アルファベットの経営会議は「売り上げ目標を達成していない」とネストの収益化の前倒しを要求してきた。著者に言わせれば、売り上げ目標はグーグルのでっちあげだった。そもそもグーグルストアでの販売で30~50パーセントの売り上げ増を見込んでいたのに、それは頓挫していた。さらに悪いことに、グーグルと一緒になったことで、一部の顧客はネストから離れていった。グーグルのプライバシーポリシーに懸念を抱いたからだ。ネストが顧客に対してグーグルから独立していることを表明すればするほど、グループ内でのネストの評判が悪化する悪循環に陥った。
交渉が行き詰まると、「戦略事業ではなくなった」「コストがかかりすぎる」という理由でアルファベットはネスト事業をあっさりと売りに出した。事ここに至って、著者は退社を決断する。その後、アルファベットはネストの売却を取りやめ、「グーグル・ネスト」として完全にグーグルの中に取り込まれた。アマゾンがネストの買収に興味を示したので、アルファベットの経営陣がその価値を再認識したのではないか、というのが著者の推測だ。
この解説を書いている現在〔2023年4月〕、グーグルは依然としてネスト事業を展開している。著者が開発をリードしたサーモスタットや一酸化炭素報知器「ネスト・プロテクト」だけでなく、防犯モニターカメラやドアロック、警報システム、それらをコントロールする「グーグル・ネスト・ハブ」など幅広いプロダクトがラインナップされている。しかし、数多くのプロダクトやサービスを手がける巨大企業のなかにあって、グーグル・ネストは周辺的な事業にとどまっているように見える。
著者がネストを売却せず、独立した企業として資金や人材を集め、サーモスタットを橋頭堡としてスマートホームのプラットフォームを目指したロードマップを推し進めていったらどうなっていただろうか。もちろん鳴かず飛ばずに終わってしまった可能性もあるが、現在のグーグル・ネストとは相当に異なった企業になっていたのは間違いないだろう。
経営における「分母問題」
本書が描くグーグルとの統合の蹉跌は、言うまでもなく著者の視点に立ったものだ。グーグル(アルファベット)にも言い分はあるだろう。グーグルの立場に立てば、このような成り行きになるのは自然だ。「合理的」と言ってもよい。
シリコンバレー発のビッグテック、メガプラットフォーマー、情報技術の聖地……グーグルを形容する言葉は華々しい。しかし、今となってはグーグルも「普通の巨大企業」だ。できることとできないことがある。グーグルの実像についての著者の率直な述懐は、確立した巨大企業の宿命的な限界──経営における分母問題──を浮き彫りにしている。
グーグルはとてつもなく大きな広告事業を収益基盤としている。規模が大きいだけでなく、広告業は収益性もずば抜けて高い。これが経営判断の「分母」となる。ネスト事業のような新しい投資分野は「分子」に相当する。分母の大きさが分子についての意思決定基準に大きな影響を与える──これが僕の言う分母問題だ。
グーグルのような巨大企業は、あらゆる戦略的意思決定において分母の大きさと豊かさから逃れられない。人間がやる以上、事業機会の評価や投資の意思決定の基準はどこまで行っても相対的なものだ。広告事業から上がってくるカネはあり余るほどある。「カネ持ち喧嘩せず」ならぬ「カネ持ち投資する」で、有望そうな事業を持つスタートアップを高値でバンバン買収する。ところが、超絶規模の分母の上に置いてみると、まるで面白くない。取るに足らないハナクソみたいな商売に見える。しかも(今のところは)たいして儲からない。だからヤル気にならない。
「ユーチューブを除けば、これまでのグーグルの大型買収の大半はおよそ成功とはいえない。買収からほどなくして僕が気づいたように、グーグルは魅力的な獲物が見つかるとすぐに目移りする。ネストに何十億ドルもの大枚をはたいたことなど関係ない。ネストを飲み込んでしまうとすぐにまた空腹になり、次の食事を探し始めた。腹のなかにうまく収まっているか確認する時間も興味もなかった。ネストはすでに前日のディナーに過ぎなかった」──著者は嘆くのだが、これはグーグルに悪気があってのことではない。構造的問題だ。その分母の大きさゆえに、巨大企業はよほどのことでないと「腹のなかにうまく収まっているか確認する」気になれない。ビッグテックというのはそもそも「そういうもの」なのだ。
大きな分母を抱える企業にしてみれば、とにかく分子が大きくないと話にならない。しかし、そんなビッグ・イベントはそうそうない。グーグルやメタにとっての広告事業、アップルにとってのスマートフォン事業に匹敵するような規模の商売はまずない。ある分野で支配的な地位を確立した巨大企業の多くが、うなるほどキャッシュを持っているにもかかわらず、なかなか事業構成を変えられないままズルズル行き、そのうちに頭打ちになり成熟へと向かっていく──そのひとつの要因は経営の分母問題に端を発するメカニズムにある。ものづくりのマネジメントという主題を超えて、本書は企業という生き物の本性についても興味深い洞察を含んでいる。
本書もまた著者のプロダクトのひとつであるだけに、さすがによくできている。「なぜ読者がこの本を必要とするのか」に対する答えがはっきりしているだけでなく、読み手の立場に立った構成が秀逸だ。単純に時間軸に沿った回想ではなく、テーマごとに章を立てたアドバイス集になっている。辞典を引くように、興味ある章から読んでもよい。すべてを読み終わった後も、そのときの読者の問題意識に関連する部分をすぐに読み返せるようになっている。どの章をとっても著者のメッセージは深い。読者はその都度新しい気づきや学びを見つけるだろう。カスタマーである読者の「ジャーニー」を見通している。繰り返し読む価値がある傑作だ。
▶本書収録の解説前篇(iPodとiPhoneを生んだ著者が明かす「破壊的イノベーションの真髄」とは?)はこちらで公開中!
▶記事で紹介した本の概要
『BUILD(ビルド)真に価値あるものをつくる型破りなガイドブック 』
著:トニー・ファデル
訳:土方 奈美
出版社:早川書房
発売日:2023年5月23日
税込価格:2,860円
著者略歴:トニー・ファデル(Tony Fadell)
1969年生まれ。スタートアップ企業ゼネラルマジックで30年にわたるシリコンバレーのキャリアをスタート。2001年iPodの開発責任者としてアップルに入社。2007年にiPod部門シニアバイスプレジデントに就任、また初代iPhoneのハードウェアと基本的ソフトウェアの開発チームを率いる。2010年アップル退社後ネスト社を立ち上げ、AI搭載の「学習する」サーモスタットを開発しスマートホームのエコシステム構築に乗り出す。2014年にグーグルが32億ドルで同社を買収。2016年にネスト退社後、現在は投資・アドバイザリー会社フューチャー・シェイプを率い、約200のスタートアップ企業にコンサルティングとサポートを行っている。本書は初の著書。