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【試し読み】夢と希望、絆と情熱に満ちた青春宇宙小説、いよいよ文庫化! 川端裕人『青い海の宇宙港 春夏篇』『青い海の宇宙港 秋冬篇』

7月4日発売の川端裕人『青い海の宇宙港 春夏篇』『青い海の宇宙港 秋冬篇』の試し読みをお届けします。あの日夢見た未来を忘れていない、かつて子どもだったすべての大人に読んでもらいたいと、切実に思っています。(編集部O)

序・スペースポート

 四月だというのにやたら暑い。
 いくら南国だとはいえ、蒸し暑すぎる。おまけにまぶしい。
 多根島(たねじま)の宇宙港は海に面している。別に海に船を送り出すわけではないのに、海に面していた方が格段に有利なのが宇宙港だ。アメリカやロシアには、砂漠や草原にあるものも実在しているわけだが、運用上、東側に広大な太平洋を持つ利点は計り知れない。
 加勢遙遠(かせはると)は、これまで見送ってきた数十機のことを思い起こす。水平線と空との間隙は、地球を覆う大気の薄膜だ。粘りけのある層を突き破って宙(そら)に出(い)でた人工衛星や宇宙探査機は、その後、地球をめぐる低軌道や静止軌道に至り、さらには太陽系探査のために地球圏を脱していった。もっとも、いくらかは最初の薄膜の中で力尽き、深海に眠っているのだが。
 遙遠は、ここで見たすべての打ち上げの軌跡を今も覚えている。打ち上げの時刻や天気、背景の海の色、投入するペイロードや軌道によるロケットの構成や経路の違いなど、多根島宇宙港から海の方向を見るだけで、ひとつひとつが浮かび上がってくる。しばし足を止めて、海と空を見るのはそのためだ。
 海は凪(な)いでいる。太陽の角度によっては翡翠(ひすい)のような青緑色になり、視界を埋める。最初は美しいと思ったが、赴任して三年を超すとさすがに日常の一部になり、あらためて感じるものはない。
 とすると、打ち上げも同じかもしれない。多くを見れば見るほど、いずれすべて重ね合わされてしまい、結果、ホワイトノイズになっていく。それは口惜しい気もするが、だからといってどうすればいいのか遙遠には分からない。
 作業服で額の汗をぬぐい、遙遠は小型ロケット射点の近くにある倉庫の大きな扉に近づいた。日本の宇宙開発史のかなり最初の頃に使われていたもので、今はうち捨てられている。職員ですら、知る者は少ない。
 錆(さび)の浮いた扉は、すでに開いていた。筋になって差し込む光に背を押され、遙遠は薄暗い奥へと足を進めた。
「ゾノさん!」と呼びかけた。
「ここだあ」と声がした。
 倉庫のかなり奥からだ。
「分かるか? こっちだ」
「はい、行きます!」
 遙遠はパレットに載せられたままの荷物の間をぬって、声のする方へ進んだ。
 黄色いヘルメットとその下に白いものがまじる髪が見えた。ゾノさんこと、中園郁夫(なかぞのいくお)が手招いていた。
「これだよな。おまえさんが言う通りだ。懐かしい。わたしがまだ新人だった頃に現役だったやつだ」
「やっぱり、ありましたか!」
 遙遠はゾノさんの脇から体を乗り出して、木枠の中を見た。
 金属のノズルとはっきり分かる部分が、ちょうどこちらを向いて露出していた。末端の開口部の直径は十センチほど。スロートはその半分くらいに細くなっている。隠れている奥の部分には、筒状の燃焼室が連なっているはずだ。最小構成の液体燃料ロケットエンジンである。
「どう考えても前世紀の遺物だよ。たしか川嶌(かわしま)重工業がライセンス生産していたのではなかったかな」
「アメリカの製造元から直接入ってきたやつということも考えられますね。記録は曖昧(あいまい)なんです」
 遙遠は金属のノズルのひんやりした手触りを指先に感じながら、胸にそこはかとない熱を覚えた。別に、蒸し暑い午後だからというわけではなく、この仕事を志した時から、ずっと抱いているものだ。しかし、時々、忘れそうになる。海の色の鮮やかさをなんとも思わなくなるのと同じように。
 余剰品のロケットエンジンが倉庫に眠っているかもしれないと勘づいたのは、偶然だった。宇宙技術歴史館の展示を一新する計画があり、半世紀近く前の記録を確認していたら、納入されたものと使われたものの数字が、時々、合わないと気づいた。さすがに大きなメインエンジンなどは、使われなかったものも含めてすべて行き先がはっきりしていたが、小型の姿勢制御エンジンは数も多く、いちいち把握されていない感があった。そこで、宇宙港で一番キャリアが長いゾノさんに聞いてみた。もしも、残っているとしたらどこだろうか、と。
「しかし、よくこんなものがあると気づいたものだね」とゾノさんは、発見した小型エンジンを撫でながら言う。
「わたしなんかの世代でも、ジンバル使ってエンジン自体を首振りする姿勢制御が普通だから、こんなバーニア・エンジンはとんと頭から消えていたよ。二十世紀の時点でも使いどころがなくなって、そのまま忘れられてしまったのだろうね」
「ロケットの姿勢制御の仕組みのコーナーを作ろうと思ってます。噴射板みたいに超古典的なものと、今も使われてるジンバル、可動ノズルなんかの間、みたいな位置づけですかね。姿勢制御用といっても、独立したエンジンですから、いろいろ見応えもあります」
「そうだね。独立したエンジンだ。小さいからって捨てたもんじゃない。束ねてやれば宇宙も狙える。こういうのを見ると、わたしは、すぐ何かに応用できないかと考えてしまうね。最新の技術とはいかなくても、いろいろ使いどころはありそうだよ」
 ゾノさんが豪快に笑うのに、遙遠は思わずつられながらも、むしろ苦笑した。
「まあ、最新型といえばゾノさんです。今ここでロケットエンジンの開発なんてやってないし、現役のゼータ3シリーズの開発って、ゾノさんの世代が旗を振ったわけじゃないですか。だから、実はそっちが最新なんですよ」
 遙遠は、こういう状況を苦々しく思う。ロケットは新しいようで古い。再任用で今も現場に来ているゾノさんが、ここでロケットを開発した最後の世代なのだ。
「あはは、そうだった。液水・液酸を使って、二段燃焼サイクルやら、エキスパンダーブリードサイクルでの大出力の追究やら、手の込んだことをしてきたのはわたしらの時代だ。そういえば、前代のやつは補助エンジンを使った姿勢制御も、一応、やってたんだよ。ターボポンプを通った一次燃焼後のガスと燃料の水素を合わせて噴いていた。まあ、補助エンジンというよりは、ガスジェットみたいなものだね」
「いいですね。意外に泥臭い。姿勢制御の歴史の展示に、それも取り入れたいです」
「さすがに歴史館の展示にはちょっとマニアックすぎないかね」
「でも、マニアックな方が受けるんですよ。最近、小学生でもよく知っていて、質問攻めなんかされると、こっちがタジタジになりますから」
 ゾノさんは、一瞬、口をすぼめ怪訝(けげん)な表情になった後で、大声で笑った。
「そういうものか。おまえさんを質問攻めにして、うろたえさせる小学生ってな。おまえさん自身、こっちに来た当初、ベテランを質問攻めにして、ずいぶん困らせてくれたもんだ。それが今じゃ、立場が逆かね」
 ゾノさんは、目を細め、壁の向こうの遠くを見た。穏やかながら、憂いも感じさせる表情だ。ゾノさんは、今でこそ笑顔を絶やさない好人物だが、実は往年、鬼軍曹的なチーフエンジニアだったという。
「まあ、なにはともあれ、数十年ぶりのご対面、といきましょう」
「ああ、そうだね」
 遙遠は小型ロケットエンジンのノズルの細くなったスロートの部分に手をかけた。ゾノさんも、一緒に力を込めた。配管もつながっているため、ずっしり重いが、この程度の小型エンジンなら、人間の力で動かせる。
「おやおや、これはどうして、なかなかの保存状態だ」
「展示だけにしとくのはもったいないですね」
 つややかな金属の光沢とゆるやかな曲線のノズルはやはり美しい。これが製造されたのは、パソコンすらなかった時代だ。手計算、さらにトライアルアンドエラーでたどり着いた形状だろう。
 遙遠はノズルと反対側に取り付けられているディスク状の蓋を撫でた。酸化剤を導く流路の部分が、ぽこりと盛り上がっていた。
「LOXドームだね。そこから液体酸素を入れる。おまえさん、燃料の方は、どう流れるか知っているかい」
「燃料って、ケロシン、RP-1ですよね。ええっと、燃焼室に直接噴くんじゃないわけですね。外壁と内壁を貼り合わせる時に螺旋(らせん)状の流路を作っておく。液体燃料を流路にそってめぐらせてエンジンを冷却してから酸化剤と混合。つまり、再生冷却ってことですね。小さいのに手が込んでいる」
「その通りだ。古いながらよくできている。そういう意味じゃ、歴史館にはぴったりの素材だ」
「これ、ゾノさんが言った通り、今も使えるんじゃないですか。どれくらいの推力が出るのかな」
 遙遠は頭の中で大雑把な計算をしつつ、胸の中のそこはかとない熱がさっきよりもくっきりと際立つのを意識した。広報担当者として打ち上げに立ち会う時とは違う、もっと原始的で子どもっぽい熱だ。
 ゾノさんがふたたび目を細めた。
「おまえさん、今の立場じゃ、やはり満足できないんじゃないかね」
「なにを言うんですか。おれは、今の仕事、好きですよ」
「やっぱり、この時代だからこそ挑戦できることが、いろいろあると思うんだがね。他に選択肢がなかったわたしらの頃とは違うんだから」
「いえ、多根島は宇宙に一番近い島です。宇宙開発を現場で支援する仕事には、やりがいを感じます」
 嘘ではない。しかし、百パーセントの本心とも言いがたい。
「まあ、いい。今度、酒飲んだ時にでも、じっくり聞こう」
 ゾノさんは、大きな声で豪快に笑った。


1 宇宙遊学生

「おじゃりもーせ! 宇宙遊学生のみなさん! 多根島によくいらっしゃいました。一年間、一緒に遊んだり、勉強したりできるのを、楽しみにしています!」
 始業式の後、体育館で、続けて行われた全校歓迎式。六年生女子の児童代表が大きな声ではっきりと言い、明るく笑った。きょうだけ全校生徒がつけている大きな名札には、大日向(おおひなた)という文字が見える。その名前の通り、お日様のような笑顔だ。
「多根島は、素敵な島です。世界で一番美しい宇宙港があります。今年も、大きいロケットや小さいロケットがいくつも上がりますので、みなさん、楽しみにしていてください。おうちから離れて不安かもしれませんが、優しい里親さんもいるし、多根南(たねなみ)小学校は、楽しい学校です」
 彼女は、ぺこりと一礼すると、マイクの前を離れかけた。そこから、半歩もどり、もう一度、元気な声を出した。
「あ、あたしのことは、のぞみ、でいいからね。気軽に話しかけてね。よろしく!」
 大日向希実(のぞみ)は、体育館に来る前の朝の教室で、一番目立った子だった。明るくて、活発で、体も大きくて、声もよく出る。希実がいるだけで、教室には本当にお日様がさすみたいだった。誰だってクラスで最初に覚えるのは、こんな子に違いない。
 でも、そんな希実を見て、天羽駆(あもうかける)はむしろ気後れしてしまう。下を向いて小さくため息をつき、どこにいっても、こんなふうに明るい女子っているよなあ、などと思う。
 ほんの十日ばかり前まで、駆は東京の小学校の五年生で、やはりクラスには似たような女子の学級委員がいた。席が近くてよく話しかけてくれたけれど、駆はどちらかというと苦手だった。
 理由ははっきりとは分からない。駆は、なにかもやもやとしたものを体の奥に感じていたから、悩みなんてまったくなさそうな元気でおせっかいなクラスメイトは、それだけで嫌だったかも。「みんな仲良く楽しいクラスにしたい」とか、先生が学級目標にするならともかく、自分は全体のことを気にしている余裕なんてない。居心地が良い場所を探すだけでも一苦労なのに。
 東京から遠く離れた南の島に「宇宙遊学生」として期間限定で転校することにしたのも、気ままにやりたかったからだ。余計なことに気を取られないで、一年間のんびりできると思っていた。なのに、こんなに歓迎されると、面倒くさくなってくる。
 もちろん、この学校は、悪くない。前の学校よりずっといい。
 駆が五年生まで過ごした小学校は全校で千人近い児童がいた。けれど、ここではたったの三十人だ。体育館は同じくらいの大きさだから、席と席の間に余裕があって、ゆったりしていた。駆は人ごみでは息が詰まるので、これは本当によかった。
 ただし! ものすごく蒸し暑い。扉はすべて開け放しているのに、顔にうっすら汗が浮かんだ。まわりを暖かな海に囲まれて、空気そのものが違うとおやじが言っていた。駆は、こういう暑さは嫌いじゃないからいい。きょうはじめて着たシャツの袖で、迷うことなく顔をぬぐった。ハンカチを使えとか注意する人はいない。
 ふいに少し空気が動き、首筋に風が当たった。希実が壇上から戻ってきたのだ。ちょうど駆の隣の席だった。駆に向かって笑いかけ、「ねえ、校長先生の秘密、教えようか?」と言う。
「はあ?」
「校長先生は宇宙人」
「どうして?」
 駆は司会をしている校長先生の姿をまじまじと見た。ぱりっとしたスーツを着ていて、体育館で一番きちんとした身なりをしている。頭ははげているけれど、涼しげな雰囲気の、本当に校長先生っぽい校長先生だ。どう見ても地球人以外には見えない。
「うちの父さんが言ってる。あの先生は宇宙人だって」
「ええ? どうして?」
 希実が返事をする前に、まさにその校長先生がマイクの前で声を出した。
「では、次に、宇宙遊学生のみなさんにあいさつしてもらいましょう。今年は、五人の遊学生が多根南小学校で学びます。六年生が二人、五年生が一人、三年生が二人です。では、みなさん、前に出てください」
 ねえねえ、どこが宇宙人なの? と駆は口を開きかけた。
 でも、希実は駆の背中をぽんと叩いた。
「はやく行きなよ」
 自分で話しかけておいて無責任。おまけにおせっかい! でも、正しい。もうほかの子は席を離れているのに、駆だけが座ったままだった。
 壇上に立ってみると、広い体育館がスカスカなのがよく分かった。席と席の間には、結構、余裕があったし、人がいるのは体育館の前の三分の一くらいまでだ。
 全校児童三十人なのだから仕方ない。それも、五人は地元の子ではなく、親元を離れて来た遊学生だ。それがみんな、前に出てしまったわけだから、児童の並びも歯が抜けたようになっていた。
 自己紹介をしなければならないのに、駆は「宇宙人」だと言われた校長先生をちらりちらりと見た。角度のせいできちんと見えないので、諦めて前に向き直ったら、体育館の壁にかけてある垂(た)れ幕の標語が目に飛び込んできた。
〈多根南から宇宙へ! 空に咲く花になれ!〉
 言っていることも、垂れ幕の大きさもデカかった。同じ言葉が、校舎の上にも掲げられていて、はじめて見た時にはびっくりした。
「では、最初に、天羽駆くん、おねがいします」
 校長先生が言った。
 駆は最後に壇に上がり端にいたので、順番が最初になってしまった。
 宇宙人がどうのとか、気を取られている場合ではなかった!
 でも、慌てたのは一瞬だけで、すぐに持ち直した。どうせ言うことは決まっているのだから。
「はじめまして。六年生の天羽駆です。この一年間、島の暮らしをめいっぱい楽しみたいと思います!」
 だってそれ以上でもそれ以下でもない。この時だけはがんばって元気よく言えば、大人も子どももだいたい満足してくれる。心の中にはもやもやの雲があっても、おもて向きは元気いっぱいじゃないと、まわりの人を心配させてしまう。駆は、心配されるのは嫌だ。
 駆の努力は一応成功していて、母さんはよく「駆は本当に手のかからない子ね」と言っていた。宇宙遊学に行きたい! と伝えた時にも、特に心配はされなかった。
「自分で決めたのなら反対しないよ。駆は本当にロケットみたいね。どんどん飛んでいってしまう」
 寂しそうでもあったけれど、どこかほっとした雰囲気だったのも予想通りで、駆はもっと元気よく続けたのだ。
「島にはたくさん自然があって、いろんな種類の生き物がいるんだって!」
「駆はきっと楽しいだろうね」と母さんは目を細めた。
 実際に、駆は本気で楽しみだった。里親さんになる予定の「おやじ」に手紙を書いたら、「うちの近くにはいくらだってカブトムシがいるぞ」と返事が来て、もっとワクワクした。
「──では、橘(たちばな)ルノートル萌奈美(もなみ)さん」
 校長先生の声で、駆は我に返った。
 同時にざわっと、空気が動いた。
 呼ばれたのは、駆の隣の子だ。さらっとした長い黒髪で、肌はとても白かった。白いというよりも、薄いかんじで、目も茶色だった。
「わたしは、五年生です。宇宙遊学、楽しみで来ました。わたし、わたし……」と口ごもって、なにやら早口に言った。
「みんな、今の分かりましたか」と校長先生。
「英語?」「英語だぜ」とざわざわした中から声があがった。
「フランス語……です」と萌奈美が自分で言った。
「日本語、とくいじゃないです。この前までフランス……いました。今、みんなとなかよくなりたいと、言いました! あと、海が好きです。よろしく、おねがいします」
「はい!」とみんなが返事をした。その中で一番はっきりと聞こえるのは、やはり児童代表の希実の声だ。
「大日向さんと橘さんは、五六年生だから同じクラスですね。仲良くしてください」と校長先生が言ったものだから、希実はさらに大きな声で「はい!」と言った。
 五六年生が同じクラスというのは、駆もここに来て知った。人数の少ない学校では、複式学級といって、一二年、三四年、五六年を同じクラスにすることがあるそうだ。
「五六年の女の子はあたしたちだけだから、仲良くしようね、モナちゃん!」
 萌奈美が大きな声に戸惑って後ずさりしているのに、馴(な)れ馴れしく呼びかけている。やっぱりこういう女子には要注意。
 ただ、もっと注意しなければならないやつがいることに駆はすぐに気づいた。
 校長先生が、「本郷周太(ほんごうしゅうた)くん」と言うと、「おっす!」ともっともっと大きな声がしたのだ。
 駆から萌奈美を挟んだ向こうにいるのが、遊学生のもう一人の六年。がっしりした体格で、駆よりかなり大きい。顔も濃くて厳(いか)つい。でも、目をキラキラさせて、いきなりこう言った。
「六年、本郷周太! 多根南から宇宙へ!」
 それだけだ。壁に書いてある標語をそのまま言うのだから、はきはきと流れるようにしゃべっているようで実は口数は少ない。駆はこういう子をこれまで知らなかった。声が大きい子はたくさんしゃべるし、無口な子は声が小さい。そんなふうに思っていた。でも、堂々として、口数少ないってどういうことなんだろう。
「本郷君も宇宙に興味があるのかな」と校長先生は聞いた。
「だれもが、宇宙港から飛び立てる日が来るッス」
 どこからともなく拍手がわきあがった。なにか自信いっぱいというふうで、みんなが巻き込まれてしまったみたいだ。
 でも、駆は巻き込まれない。心の中の警戒信号機には、黄色のランプが点滅していた。標語を大きな声で言うのって、政治家みたいだ。さっきの希実もそうだけれど、前向きなのに巻き込むのはやめてほしい。駆は自分のペースでしたいことをしたいのだ。
「自分は考えました! 今年の五六年生クラスで、宇宙について勉強する宇宙探検隊をつくろうと思います! それが一年間の計画ッス!」
 一瞬しんと静まったあとで、うぁあと歓声があがった。
 座って話を聞いていた希実が、立ち上がって「すごい! あたしもやる!」と大声で応えた。彼女は、目をキラキラどころではなく、はっきりウルウルさせていた。
「ね、五六年生みんながんばろう!」と希実が言った時、駆はぞくっと背筋(せすじ)が冷えた。
 そうだ、五六年生ってことは、自分も入っているのだ。
 駆はこんなふうに巻き込まれるのが本当に嫌だ。実家から一年、離れたくて、ここなら好きな昆虫やほかの生き物もたくさんいる。そういう理由で自分で決めた。申し込みの時には、「宇宙に興味がなくても別に問題ない」と確認した。「とにかく島でよく学び、よく遊び、一生の思い出をつくって帰ってください」と受付係の人には言われた。
 だから、みんなを巻き込んで宇宙探検隊って……。本当にやめてほしい。要注意人物だったのは、大日向希実ではなく、本郷周太の方だったのだ。
 そんなことを考えていたら、駆はほかの遊学生たち、つまり低学年の子たちがかわいらしく自己紹介するのをすっかり聞き逃してしまった。
 元の席に戻ると希実がさっそく周太をつかまえて「すごいよ! 今年は特別! 忘れられない年になりそう!」と話しかけた。
 校長先生が今度は前に出て、これからの予定について教えてくれた。
「遊学生のみなさんも、地元の子も、きょうから多根南小学校の児童として一緒に学びます。今、大日向さんが言ったように、きっと忘れられない一年になります」
「ロケットは何機上がりますか。ウェブに出ているのと変更はありますか」と周太がさっそく質問した。
「小さいものも含めたら、たくさんですよ。大型機は四機の予定だと聞いています」
「ゼータ3型のフルスラスト構成のものも予定通りですか。メインエンジン三本にブースターもつけたやつです。あと、深宇宙の計画はどうなりそうですか。自分はおもしろい軌道に興味があります」
 周太がたたみかけるように聞いた。無口というのは、あてはまらないとよく分かった。
「来週すぐに宇宙港に見学に行きますから、聞いてみるといいでしょう。みなさん知っていますか。多根南小学校は、世界で一番、宇宙港に近い小学校です。ロケットの射点から十キロほどです。打ち上げが昼間なら、授業中でも校庭に出て見ます。でも、宇宙だけじゃありません、全校行事はいろいろあって楽しいですよ。担任の先生に聞いてください。おじゃりもーせ! すばらしい一年にしましょう!」
「おじゃりもーせ!」と児童たちが声を合わせて、式はおしまいになった。
 
 五六年クラスの担任は、若くて、眼鏡をかけていて、色白な女の先生だ。悪い先生ではないと駆は思った。始業式と歓迎式が終わるとすぐにジャージに着替えるくらいで、細かいことにこだわらない。
 朝の教室で、まずは名前を黒板に書いて自己紹介した時も、気取ったかんじがしなかった。
「田荘千景と書いて、タドコロチカゲ。田んぼのある風景が美しいみたいな平凡な名前です。小学校の先生になって、多根南小学校が二つ目の学校です。ここに来たばかりなのは、遊学生のみんなと同じです。地元の人は、いろいろ教えてね。人数も少ないことだし、居心地のいいクラスにできるといいですね」
 なんとなく眠たそうなのんびりした声は親しみが持てたし、「居心地のいいクラス」というのはいい。「みんな仲良く」「互いに思いやれる」とか、そういうのとは、駆にとっては大違いなのだ。駆だって、居心地よく過ごしたい。でも、仲良しや思いやりを強制されるのは嫌だ。
「ちかげセンセイ!」と萌奈美がたどたどしく呼びかけたのをきっかけに、みんなが、ちかげ先生、と呼ぶようになった。
 歓迎式の後、教室に戻ってから、ちかげ先生は、校長先生が言っていた宇宙港の見学などこれからの計画について説明してくれた。
「ええっと、聞いている範囲で言うと、四月中に宇宙港見学があるわね。それと最初のロケットの打ち上げは、四月後半だそうよ。これは昼間なので校庭から見る、と。あと同じく四月中に、地元特産の『赤米(あかまい)』の田植えがあって、五月には『コイクミ』。四月、五月の行事はそんなところです。夏休み、二学期、年末年始は、もう盛りだくさんすぎて、先生には分かりません」
「コイクミってなんですか」と駆は聞いた。
 コイが、魚の鯉じゃないかと思ったから。だって、通学路の途中にある川には鯉がいる。それをみんなで釣るのだろう。餌(えさ)は練り粉みたいなものを使うのだろうか。
「先生もはじめてだから、大日向さん説明してあげて」
「はい! コイクミのコイは、魚の鯉です!」
 やっぱり! 当たった! 駆はうれしくなった。
「川をせき止めて、水を掻き出して、そこにいる魚やエビを捕まえます。一番大きいのは鯉です!」
 すごい!
 駆は思わず、小さくガッツポーズをしてしまったほどだ。駆にしてみれば、宇宙探偵団とか宇宙探検隊だかよりも、こういうものの方がうれしいのだ。
「あと、今年もニワトリとウミガメと宇宙メダカの飼育、というのがありますね。これも五六年生が中心に責任を持って飼うって。全員がいきものがかりです。ちなみに、先生は生き物は苦手です。みんなががんばってください」とちかげ先生。
 駆は、胸がドクンと強く脈打った。
 全員がいきものがかり! ニワトリは東京の学校にもいた。宇宙メダカは、宇宙でメダカがどう泳ぐかとか実験した時に連れていったやつの子孫だそうだけど、メダカはメダカだ。これも東京の学校の池にいた。ただ、ウミガメだけは違った。普通に学校にいるはずがない生き物だ。
 本当にすごい! 駆は、ウミガメをどうするんだろうかと想像して、その背中に乗ってみたいとか、いろいろ頭に思い描いた。
 やがて、ちかげ先生の話は、クラスの進め方についてに移っていった。五六年生は全員でもたった七人しかいない。六年生は三人で、希実と周太と駆。五年生は遊学生の萌奈美のほかに、地元の子が三人いたけど、みんな男子だった。この七人で居心地よく! というのが先生の話の一番言いたかったことだと思う。
「七人といえば、アメリカの宇宙飛行士で最初の七人になった、オリジナルセブン、みたいッス! 自分ら、多根南小の宇宙探検隊オリジナルセブンになります」
 なぜか周太は、二十世紀の古い宇宙開発の歴史に詳しいのだった。
「ほんとうによく知ってるわねぇ」と先生に感心され、周太はかなり得意げだった。
「自分の父ちゃんは、宇宙飛行士に応募して、いいところまで残ったことがあるッス。月に行ったアポロなんて、すごく詳しいッスよ」と自慢する。
「それはすごいわねぇ。先生もまだ生まれていなかったわ」
 先生すら生まれる前って……人が月に行ったのってそんなに昔のことだったのかとびっくりした。
 学級会が終わり、クラス解散になると、駆は気になっていたことを希実に聞いてみた。
「ねえ、メダカやニワトリ小屋は見たけど、ウミガメってどこで飼うの?」
「ほら、あっちの教室」と希実は窓の外を指さした。
 多根南小学校は一階建てで、長方形の校庭の二方向に建物がある。五六年の教室から少し離れたところで直角に折れて、そこから先は理科室や音楽室などの特別教室だった。そして、特別教室の一番端に「ウミガメ」と書かれた看板があった。もっと先にはニワトリ小屋があるのだが、駆には「ウミガメ」の文字だけがくっきり見えた。
「卵を孵化(ふか)させて、海に帰すんだよ」と希実が言った。
「ええっ、本当?」
 すごく興奮して大きな声を出してしまった。ちょっと恥ずかしくて、うつむいた。
 すぐ近くで、周太が五年生の男子をつかまえて、宇宙港に行ったらなにをするかとか、ロケットの打ち上げはどこで見るかとか話しだしても、駆はウミガメのことを考えていた。その間、駆はとても幸せな気分だった。
 でも、ふと思い出すと、申し訳ないような悲しいような気分になった。母さんや弟の潤(じゅん)は東京にいるのに、自分だけ遠い島にいて、楽しいことを考えているなんて。
「宇宙に行けるっしょ。ここならできるっしょ。島に来られて、おれたちはラッキーなんだぜい」と周太がいきなり肩を組んできた。
 周太は、かしこまると「自分」っていうのに、普段は「おれ」って言うんだ……。
 別にそれがどうしたってわけじゃないけれど、まるでわき上がる雲のようなもやもやが、駆の中でまた大きくなった。
 
 帰り道、一人きりで歩く。
 東京にいる時も、学校にだらだら残るのは嫌いだったから、教室から一番先に抜け出すのは駆だった。でも、家にいるのが好きというわけでもなく、駆はよく寄り道した。母さんは、いろいろ忙しくて、家に帰ってもまだいないことが多かったから、寄り道はたいていばれなかった。いつも、駆は生き物を探して時間を過ごした。春なら蝶がいる公園。夏ならコクワガタがいる屋敷林も知っていた。神社の境内のアリジゴクやハサミムシも好きだった。夢中になって追いかけて、ふと気づくと日が暮れかけていることもあった。
 でも、多根南小学校の始業式があったこの日は、帰り道を急いだ。里親さんを心配させると悪い。給食がない日なので、お腹も空きはじめていた。それに、半日、学校にいるだけで、結構疲れてしまった。そういえば、校長先生が宇宙人って話、結局、聞きそびれた。でも、いいや、って思うくらいだった。
 学校の校舎の裏は、背の高い赤い岩山だ。駆の里親さんの家は、その向こうにある別の丘にあった。駆は、間に広がった水田をぬう道を進んだ。カエルが水路でぴちゃっと跳ねるのを何度も見た。ふだんならそこで夢中になるのに、それでも駆は先を急いだ。太陽は高く強く、これでまだ四月だというのだから、くらくらした。もう前だけを見ることにして、一歩一歩足を先に進めた。
 すると、目に入ってきたものがある。
 空が広く青い。
 ビルに切り取られることもなく、ただひたすら広く、少しだけ浮かんでいる雲をのぞけば、目に見えるほとんどが青だ。これは単純にすごいなあと思う。
 東京では、下ばかり見ていた。上を見ても建物があるだけだから、地面や植え込みの中にいる虫を探した方が楽しかった。
 でも、ここでは、空が見えるんだ……。
 それがきょう一番の発見だったかもしれない。
 河童とロケットの浮き彫りがある不思議な橋を渡ると、家にたどり着く前にひとつだけ曲がらなければならない交差点がある。その先で、おやじが待っていた。
「よう、早いな」
 ぼそりと言って、すたすた歩いていく。
 おやじは、口数が少ない人で、ぼそっと話す。そのせいもあって、いざ口を開くと、自然と集中して言葉を聞いてしまう。穏やかで、不思議な雰囲気がある人だった。
 駆は後ろからついていった。おやじの髪の毛はかなり白くなっている。それでも、まだおじいさんというほどでもない。駆自身の父さん母さん、そして、おじいちゃんとおばあちゃんの中間くらいだ。里親さんというのは、駆にとって、親でも祖父母でもない、でも、他人でもない、不思議なかんじの大人だった。
 おやじの背中は、広い。黙々と歩くものだから、なんとなく気詰まりだ。わざわざ迎えに来てもらわなくてもよかったのに、と駆は思う。ちゃんと家に帰り着く自信はあった。だって、例の交差点を曲がれば、緑の丘の途中に立っている大きなアンテナが見えるからだ。駆がこれから一年を過ごす茂丸(しげまる)家は、アンテナのすぐ近くにある。
「茂丸さんは、きょうは仕事はいいんですか」とうっかり名字で呼びかけてしまった。
「朝、ちょっと沢歩きしてきた。おやじって、呼んでくれ」
「ああ、ごめんなさい、おやじ」
「あやまることはない」とぼそっと言って、「おかあが、昼飯を作って待ってるぞ」と続けた。それだけで、駆はお腹がぐーっと鳴った。育ち盛りの小学生の腹の具合を、よく知っている。
 駆にとって、今から一年間、お世話になる里親さんだ。最初に「おやじ」と呼んでくれと言われた時には、面食らった。「一度、呼ばれてみたかったのよねぇ」と大声で笑ったのは、おかあで、おやじはその間むすっとしていた。
 おやじの仕事は漁師だ。海に出ることもあるけれど、多根島では珍しい川漁師をしている。沢を歩いて川の生き物をとる。
「きょうは、なんかいましたか」と駆はおやじに聞いた。
「カニ籠(かご)にウナギがはいった。まだ小さいから放しておいた」
「わあ、見たかったなあ!」
「今度、来っか?」
「行きます!」と元気よく返事した。一緒に川に行くなら、網を持っていってヤンマのヤゴとか、水棲昆虫を捕まえてみたかった。
 会話が途切れて、しばらく黙々と歩いた。坂をどんどんのぼっていくと、いったん木立にさえぎられたアンテナが見えてきた。
「おやじ、あのアンテナは、なんのためにあるんですか」
 どう考えても、テレビ受信用ではなさそうだ。茂丸家がある集落は郷上(さとがみ)というのだけれど、集落全体の電話とかネットとか全部をこのアンテナでつないでいるのかな、と思っていた。
「あれは、宇宙港のものだ」とおやじ。「ロケットの追尾をやっているそうだ」
「へえっ」と言って、それで話題は終わった。おやじ自身、それほど興味がありそうではなく、駆も正直、ロケットの追尾というのはよく分からなかった。
 おやじは、家を通り越して進んだ。ええっ、昼ご飯は? と思ったけれど、駆はそのままついていった。
「学校、どうだ」とおやじはぼそっと聞いた。
「普通、です」
「さっき、暗い顔しとった」
 なんか、鋭い。
 駆は、心配させるのは嫌だ。せっかく多根島でのんびりするために来たのに、心配されるのは一番嫌なことだから、それは避けたい。
「空、広くて青くてすごいなあって思いました」
 駆は明るい声で言った。駆がきょうの帰り道で、一番、心動かされたことだ。すげーっ、と思ったのは間違いない。あと、学校の行事に鯉くみや、ウミガメを飼うのも楽しみだった。
 そうだ、楽しいことはたくさんある。ちょっと元気すぎる新しい友だちに圧倒されて疲れただけだ。もっと楽しいことを考えて、明るい顔をしていなきゃ。
 やがて、アンテナの前を通り過ぎた。
「あっち」とおやじが指さした。
 家から見るとアンテナの反対側はきれいに切りひらかれていて、菜の花畑になっていた。さえぎるものがないから、海まで見渡せた。
「うわあ」と駆は歓声をあげた。
 なにか、もやもやしていた気持ちが吹き飛ぶみたいだった。
「この眺めは、地元のもんしか知らん」
「うん、すごい!」
 青緑色の海、深い青の空、そして、大型ロケットの射点がまるまる見えた。丘の途中でまわりには木が生えているのに、ここだけ畑になっていて、見晴らしが良い。海と空と、ロケットの射点。こういったものが、一緒に見えるなんて、本当にすごい。おまけに、ここは、駆が一年間を過ごす家のすぐ近くなのだ。
「あ……」と駆は声をあげた。
 見晴らしがすごいのとは別に、心をざわめかせるものに気づいた。
 声も出ないほど、駆は目を凝らした。
 菜の花の黄色のあいだをふわりと飛んでいるぼんやりした白いかたまりだ。それは雲みたいに漂っているようで、時々、しゅっしゅっと素早く動いた。白いとはいっても、ちょっと透けるようでもあって、つかみどころがなかった。小さな生き物が集まったものだと駆はすぐに分かった。
「春先、きょうみたいな天気がよくて湿っぽい日に出る。おまえさんなら興味があるだろう」
「……うん」
 駆の返事は、まるで上の空だった。
「家の前から、見えてたんでな。腹減ってるかもしれないが、これだけ集まってくるのは珍しい」
「うん」
 上の空の返事を繰り返しつつ……あ、来た、と思った。
 時々、すごいものと出会うと、駆は自分をおさえられなくなる。発作みたいなものだ。久々にそれがやってきた。
 穏やかな海と空とが融け合って、どこが境界なのかよく分からない。
 大型ロケットの射点の手前に見える鮮やかな黄色い花畑の中で、白いものが地上に降りてきた雲のようにふわりふわり飛び回る。
 蝶? それも、一頭や二頭ではない。数えきれないほど。
 それらがぎゅーっと集まってひとつの群れになると、まわりの菜の花の黄色に縁取りされて、くっきりとした白いかたまりになる。なにかの拍子にばらけると、今度はもやもやっとした綿菓子だ。菜の花が切れたあたりに生えているタンポポが、たくさん綿毛を飛ばすから、目の中に入るものがますます白いふわふわに見えた。
「おやじ、しばらく見ていたい」
 駆はきょうはじめて、自分の意思をはっきりと口にした。
「すぐにメシだからな」とだけ言って、おやじは家の方に歩いていった。
 薄白い生き物はあいかわらず、集まっては散り、散っては集まった。
 そのたびに、空と海と菜の花畑の色が、白くかき乱された。
 海から吹き上がってくる風に、駆は気づいた。
 ふーっと最初は優しく、次第に強く、また優しくなったかと思うと、ふたたび強く。
 小さな生き物が集まったり、散ったりするのには、風が関係しているようだった。
 そして、ひときわ強い風が吹いた。白いかたまりは、菜の花畑からいっせいにふわっと浮き上がった。地上に近い小ぶりの雲みたいでもあったし、輪郭がぼやけたひとつの大きな生き物になったみたいでもあった。
 そいつは風に乗った。ぐんっと押し上げられて、こっちに迫ってきた。
「うわっ」と駆は声をあげ、そのまま黙り込んだ。
 タンポポの綿毛ごと、ぶつかりそうな勢いで迫ってきて、思わず息を止めた。
 そいつは頭の上を、すごい勢いで通り過ぎた。この近さから見ると、白いかたまりではなくて、透きとおっていた。風の向きに引き伸ばされて、細長い川になって、きらきら輝きながら頭の上を流れていった。あまりに速くて、一頭一頭は見えなかったけれど、羽ばたきの音は聞こえた。
 我に返って、去っていった方を振り向き、行方を探しても、もう見つけられなかった。あっけなくいなくなってしまった。
 どこから来たんだろう。どこに行くのだろう……。
 駆はしばらく、同じ場所にたたずんで、そいつが消えていった方向を見ていた。
「すごいもん見たなあ」と男の人の声がした。
 おやじではなく、もっと若い声だった。
「あれはなんだ。もやっとしてよく見えなかったが。カゲロウかなにか?」
 青いつなぎ服を着たおじさんが、すぐ近くに立っていた。無精髭(ぶしょうひげ)をはやして不審者ぽかった。でも、駆はこの人がどういう仕事をしているのかすぐに分かった。青い服には、この島に来たらあちこちで見かける、JSAのロゴが胸に入っていたからだ。日本宇宙機関という意味だそうだ。
「宇宙機関の人ですか」と駆は聞いた。
「まあね」と男の人は答えた。「さっきのはすごかった。追尾アンテナのところから見てたんだが、あいつら、海を渡ってきたんだぜ。それから谷沿いをすーっと上がってきて。風任せなんだろうな」
「本当ですか! すごい! 海から来たんですね」
 駆はまた胸がドキドキしてしまい、途中で舌を噛みそうになった。
「ぼくには蝶みたいに見えました。蝶が海を渡るって聞いたことあります」
「そうか。おれの近くには来なかったんだ。ちょうど、君の上を飛んでいっただろう。だから、そっちの言うことの方が正しい」
「でも、ぼくも自信ないんです。ちゃんと見えたわけじゃない」
「スカイフィッシュとか、そういうのだったらおもしろいな。でも、まあいい。おれたちは、もっと高いところまで旅をするんだ。海と空の間、つまり、大気圏を抜けてもっと遠くへ」
 男の人はさっと手を上げて、空を指さした。
 駆は意味が分からず、まじまじと見た。
 変な人だ。いきなり大気圏を抜ける話って……。
 ああ、そうか、宇宙機関の人だからだ、としばらくしてやっと気づいた。指さす空の先は、宇宙。
「雲を破って、天を突く。地上ではない遠いどこかへ、今すぐ旅立とうぜ、我が友よ! と言いたいところだが、大人の世界には、いろいろ事情もある。次の大型ロケットの予定は、なかなか厄介だ」
 やっぱり本当に変なおじさんだった。JSAのマークが入った制服を着ていなかったら、駆はとっくに逃げていたかもしれない。
「きみも、宇宙好きなんだろ。天羽駆くん。天を駆ける、いい名前だな」
 肩をぽんと、叩かれて、駆は、あ、と声を出した。学校にいる間、それも初日だけつけるはずの名札をそのままにしていた。「宇宙遊学生」という文字も大きく書いてある。
「興味があってこの島に来たのなら、ここはいいところだ。少なくとも一年くらいなら」
「あ、はい」と駆は思わず答えた。
「おれはカセ。加えるに勢いで加勢だ。残念ながら、今のところ名前ほどの勢いはない。きっと、また会うだろう、宇宙少年」
 男の人は背を向けたまま手を振って、近くに停めてあった車で走り去った。
 駆はしばらく、その場に立っていた。通学路で感じていた心のもやもやが、また戻ってきた。
 でも、さっきまでとはちょっと違う気がした。
 駆がずっと感じているもやもやは、居心地のよくないものだったけれど、これからは、ひょっとすると、時々、胸ときめくような白い生き物の群れがつくるあのもやもやも混ざってくるのかもしれない。だとしたら、悪くない。
 ちょうど、「ごはんだよぉ」とおかあの大声がして、駆はそっちに向かった。
「かける! 早く戻っておいで!」
 おかあは、もう駆のことを呼び捨てにしている。そして、駆もこれから一年間、瓦葺(かわらぶ)きの一階建てのこの家を「うち」と呼ぶ。
「早々に、白影を見るとは縁起がいい」
 おやじが玄関の前で待っていた。
「すごかった。でも、シロカゲって……蝶?」
「さあなあ。白影は、いろんな形で出てくる。そのうちに川でも見るようになる」
 また、おかあの「ごはんだよぉ」の声が明るく響き、おやじはそのまま家に入った。後を追うと、廊下の床がぎしぎし鳴った。
「子どもが走ることなんてなかったからねぇ」と台所のおかあが目を細めた。
 低いテーブルの前にあぐらをかいて座り、仏壇にちーんとやってから、「いただきまーす」と声をあげてみんなで昼ご飯を食べた。
 刺身と焼き魚と野菜とご飯。魚はおやじが前の日に海でとってきたもので、野菜はおかあが家の裏庭に作っている菜園でできたものだ。お腹が空いていたので、ぜんぶおいしかった。
 午後はもう何もやる気が起きなかった。子ども部屋には、学習机があって、駆は母さんと父さんと、弟の潤に手紙を書こうかと考えた。
 でも、やめた。
 まだ一日目だ。早すぎる。
 駆は、暖かな午後に、机につっぷして、少しうとうとした。
 はじめて会ったクラスの友達や、宇宙探検隊だとか、青い空と青緑の海とか、白い生き物の大群だとか、変なことを言う不審者みたいな宇宙機関の人とか。新しいことがたくさんありすぎて、やっぱりもやもやしてる雲の中で、駆はとりあえず心地よい午睡の中にいた。
    *
 加勢遙遠は、カウンターの向こうでアブサンのボトルを開けるジャスティン・ニーマンの指先を見ている。
 身長百九十センチ近い大男だが、身のこなしは繊細だ。傾けて持った小さなグラスに、粘りけのある透明な液体を注ぎ込む一連の動きには、一切の無駄がない。最後にグラスをテーブルの上に置くと、揺れる液面に細長いイグナイターを寄せた。ふわっと青白い炎が立ち上がった。
「アルコール度数七十パーセント、だったっけ」と遙遠は言った。
「たぶん八十パーセント以上でしょうね。これ、うちにある中で一番いいやつだから」
 ジャスティンは流暢な日本語で応えた。やや女性的で柔和な抑揚は、日本人女性と結婚して、配偶者から日本語を習ったからだと聞いている。
「なんか、本当にロケット燃料に使えそうだな。かなり純粋なエタノール」
「南山(なんざん)酒蔵のおっさんの道楽なのよ。ベースはウォッカじゃなくて黒糖焼酎の・なんちゃってアブサン・ね。でも、ニガヨモギは島内産。危険な味よ」
 ジャスティンは青白い炎の上から、ガラスの蓋をして火を消した。そして、遙遠の前にある大きなグラスに、注ぎ直した。大きなグラスには氷が入れられており、透明だったアブサンはすぐに白濁した。
「シュガーキューブ代わりの黒糖はいる?」
「いや、いらない」
 遙遠はグラスから、白濁した液体をくいっと飲んだ。
 むせた。さすが八十度。ロックにしたからといって度数が急に下がるわけではない。
「はい、チェイサーにどうぞ」
 ジャスティンがミネラルウォーターを入れたグラスを差し出した。
「ほどほどにね。この前も、あなたのところの上司、部下にかつがれて帰っていったよ」
「じゃあ、メニューに載せておくなよ。ロケット燃料(フュエル)とか書いてあると、うちの会社や打ち上げで島に来た連中、みんな頼むだろ」
「それが狙いよ」
「二日酔いじゃすまないぞ、この度数は。そりゃあぶっ倒れるやつもいるさ」
「あと、アルコール依存ね。ロートレックもゴッホも、これで身を持ち崩したのよ。本当はこういうものは、ロケット燃料にして燃やしてしまえばいいと思うけど」
 ジャスティンは、多根島南部ではもっとも垢抜けたバー「ムーンリバー」の店主であり、バーテンダーであり、自称アーティストでもある。照明を落とした店内は、宇宙をイメージさせる趣向が凝らしてある。所々に掲げられたジャスティン自身による絵やポスターは、打ち上げの瞬間を描いたものなど、宇宙にかかわるものが多かった。結構な腕前だが、オリジナリティには乏しい。ことごとく既存の名画風。ゴッホのタッチで描かれたロケットの離昇や、ロートレックのキャバレー画に似せた月面上の“MOON RIVER”のポスターなど。
 黒い天井から、月やアポロ宇宙船のモビールが垂れ下がり、カウンターの片隅にはバイキング計画のランダーが並んでいた。今、開発が進んでいる火星有人宇宙船のモデルもあった。そして、ちょっとマニアックな宇宙探査機が、少し高いところにあるボトルの棚に置いてあった。マニアックだと分かるのは、遙遠ですらその名を知らなかったからだ。
「あれ、通信衛星じゃなくて探査機だよな。パラボラが二つあるのはともかく、変な方を向いている。あまり見ない形だ」
「そう、あれはWMAP(ダブリュマップ)というマイクロ波宇宙天文台よ。だからパラボラがあるわけ」
「ほう」と遙遠は口を丸めた。
 WMAPはNASAの科学探査機で、日本ではあまり有名にならなかったが、現代宇宙論を変えるほどの革命的な成果を挙げたと聞いている。たしか、宇宙マイクロ波異方性探査機、というのだったか。
「じゃあ、あのパラボラは、差分検出法か。通信衛星じゃありえない形なわけだ。要は、二つのパラボラを別の向きにしておいて、入射するマイクロ波の差分をひたすら見たわけだよな。それで宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の精密なマップを作ったのだっけ」
「さすが、ハルト。よくご存知で」
 ジャスティンも宇宙テイストのバーをやっているだけあって、時々、あなどれない。ウケ狙いでやっているのとは、一味も二味も違う。だから、遙遠は時々ここに来る。
「それで、きょうはいいことあったわけ?」とジャスティン。
「ないよ。どっちかというと、よくない日だったかな」
 やたら忙しかった。そして、自分がやりたい計画にはまったく着手できなかった。室長にオーケイをもらうには、相当の理論武装が必要だとよく分かった。「デモフライト+(プラス)計画? それ、広報の仕事か?」と言われてしまえば、ぐうの音も出ない。
「ハルトは、ムズカシイ顔ばかりしているから、ラッキーが逃げていくのよ。笑う門(かど)には福来たると昔の人は言いました」
「うるさい。酒を飲みに来たところで、また言われたくない」
「ほう、職場でも言われているわけね。そりゃあそうね」
 ジャスティンが笑うのを聞きながら、遙遠はますますムズカシイ顔にならざるをえなかった。
「あ、そうだ。さっき聞いたけど、次のローンチは、ちょっと遅れるって?」
 二週間後に迫っている大型ロケット打ち上げのことだ。JSA、日本宇宙機関の職員は、現地採用の者をのぞいて、だいたいはこの中心街、真中(まなか)のあたりに住んでいる。特に遙遠のような単身者は、宿舎住まいが基本だ。宿舎の職員は、ほぼ毎夜、定食屋や居酒屋やバーに行くわけで、情報は筒抜けになる。広報担当としていちはやく情報に接しているはずの遙遠よりも、ジャスティンの方が先に知っていることは結構ある。
「直前になって不具合が見つかってな。さっきプレスリリース出たよ」
 遙遠はそのために残業していたのである。東京の広報本部が対応してくれているが、現地情報とすりあわせる必要がある場合、遙遠はその面倒をみることになる。
「そういえば、この前、ゾノさんが言ってた。余剰品の小型ロケットエンジンが──」
 ジャスティンが途中まで言いかけたところで、空気が動いた。
「やっぱり、加勢さん、ここなんだ」と女性の声。
「ナナちゃん、いらっしゃい」とジャスティンが即座に言った。
 ジーンズにシャツを着たふわりとした髪型の女性は、同僚の大日向菜々(なな)だ。この島にいると、どの店にいても同僚と鉢合わせる可能性がある。
 しかし、よりによって菜々とは。遙遠は軽くため息をついた。担当は違うものの同じ部署で、場合によっては憎まれ口をたたき合う関係だ。
「ジャスティン、ごめん。きょうは、ちょっとのぞいただけなの。加勢さんがきっとここだろうって。いつもの柑橘ジュース、一杯だけもらえるかな」
 そう言うと、菜々は遙遠の方を見た。
「みんな、カラオケ・エイミーにいますよ。加勢さんがいるなら、合流するように言ってこいって言われたんですけど。あ、わたしは、もう帰るとこですけどね」
「分かった。気が向いたら行く」
「気が向かなくても、行った方がいいですよ。行ったら行ったで、気が向いてくるかもしれないじゃないですか」
 遙遠は「ロケット燃料」のグラスを揺らしながら、今度は大げさにため息をついた。
 大日向菜々は熱心で優秀な広報である。しかし、職務に熱心すぎるのとお節介なのが玉に瑕(きず)。遙遠は職場でもしばしば閉口している。いや、彼女の場合、職務だけではなく「趣味」にも熱心で、滔々(とうとう)と語られるとその方面に関心がない者には結構きつい。
「ナナちゃん、宇宙港ネイチャーツアーの次回分、開催できそう?」
「島の柑橘ジュース」のグラスを滑らすように差し出しながら、ジャスティンが聞いた。
「微妙。打ち上げが延びて、立ち入り禁止地区の解除が遅れそうだし」
「じゃ、うちのお客さんに言っとく。何人かナナちゃんの案内で行きたいって人がいるのよ。噴射で焼け焦げた荒れ地のパイオニア植物ってテーマに食いつくのってどんだけマニアなのかしら。そうだ、そこのムズカシイ顔をした同僚さんが『ロケット燃料』を気に入ってくれてね。漬け込んでいるニガヨモギとか、またナナちゃんに探してきてもらわないと」
「まったく、訳の分からないことを……」
 と言いつつ、遙遠は菜々が「島のアブサン」を作っている南山酒蔵の親戚かなにかだったと思い出した。彼女は島で生まれ育ったので、地元に血縁者が多い。そして、アブサンを作るのに必要な薬草、ニガヨモギを探してきたのが菜々というわけだ。菜々は大学で植物学だったか生態学だったか進化生物学だったか、とにかくその系統の勉強をしており、今でも「宇宙港ネイチャーツアー」を企画している。宇宙港の企画として、それを立ち上げてしまったのだから、ずいぶんな馬力だ。
「あ、そうだ。宇宙授業の件ですけど、打ち上げが延びた分、日程に余裕ができたみたいです。通しちゃっていいですよね」
「問題なし」
「では、進めます。じゃ、わたしは帰りますから。もう一度言いますけど、カラオケ・エイミーでみんな待ってます。加勢さんも、一人でムズカシイ顔をしてるより、歌った方がいいですよ。それで、デモプラの件だって、室長に取り入るといいんです」
「うるさい」と遙遠が言い、ジャスティンがふふっと笑った。
 遙遠は「ロケット燃料」を口に運んだ。氷が融けてようやく度数が下がりつつあったが、それでもやはりむせた。同時に、体が火照(ほて)った。
「コンビニでも寄って、水買って、帰る」と遙遠は腰を浮かせた。
「あら、カラオケは?」とジャスティン。
「まったく、加勢さん、社交性ゼロ」と菜々が言い、「島の柑橘ジュース」を飲み干した。
「それで結構。エヴリバディの『島の水』一・五リットルがおれを呼んでいる」
 ムーンリバーから数十メートルでコンビニ「エヴリバディ」があり、さらに数分歩けば宿舎だ。宇宙港までは車で通勤する距離だが、いずれにしても半径数キロの小さな世界が、今の遙遠の生活圏だった。ひどく気疲れしており、この小ささがむしろありがたかった。
 遙遠は、バーの天井からぶら下がっている月と月着陸船を指さした。そして、むしろ自分の指先をじっと見つめた。小さい世界で満足している自分ってのは、どうだろう。今ようやく動き出している火星有人計画に参加したいと思っていた頃が、遠い昔に思える。
 宇宙港は地球上から宇宙に開いた窓。しかし、ここにへばりついている生活では、地べたを這いながら毎日数キロの距離を行ったり来たりするだけで、窓の外には手が届かない。宇宙港勤務と言っても、遙遠は自分でロケットや人工衛星や探査機や有人宇宙船を作っているわけではない。ロケットを打ち上げる射場の整備をするわけでもない。まったくもって、ぱっとしない。
「すごいですよね、アポロって、わたしたちが生まれるずっと前に月に行っているんですものね」
 菜々が言うのが、なぜか心にしみた。
「水、どうぞ」
 なにかを察したジャスティンが、新しい水が入ったグラスをすっと差し出した。遙遠は自分が、半端に立ち上がったまま、放心していたことに気づいた。

(続く)


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