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「歴史改変SF? パラレルワールド物? ウラジーミル・ナボコフ『アーダ』の幻惑的な世界設定とは?」『アーダ〔新訳版〕』若島正・訳者解説、全文公開 Part 2


Part1はこちら

※本書を未読の方のために、一部伏せ字になっております。

ウラジーミル・ナボコフ『アーダ〔新訳版〕』
訳者解説 Part2(全2回) 

若島正

 それではここから、『アーダ』の内容をざっと眺めていこう。
『アーダ』の小説世界は、「アンチテラ」および「テラ」と呼ばれる双子惑星(もしくは兄妹惑星)からできている。物語中の出来事のほとんどが起こるのはアンチテラにおいてであり、アクワをはじめとして、アンチテラの住人のうち狂気に陥った者だけが、妄想として「麗しのテラ」の実在を信じている。しかし、この小説を読めばわかるように、テラは我々が住むいわゆる現実世界にほぼ相当する地理や歴史を持っていて、その観点から見れば、アンチテラのほうが架空の世界である。つまり、『アーダ』の小説世界は現実と虚構の関係を反転させた構造を内包している。これと似た構造を持つ他のナボコフ作品としては、最も典型的なものに短篇「未踏の地」がある。「未踏の地」では、語り手が植物や動物の珍種を求めてアマゾンの奥地を探検するが、その景色を通して、壁紙や肘掛け椅子、ガラスのタンブラーといった物体が視界に侵入してくる。そして物語の最後になって死に瀕した語り手は、そうした譫妄状態で見る幻覚が、実はヨーロッパのどこかの都会にある部屋のベッドの上にいる「かりそめの現実的存在」が顔をのぞかせたものであることを自覚しながらも、この熱帯の空の下にいる自分こそが現実だと自らに言い聞かせるが、その互いに反転し合う現実と虚構のはざまに宙吊りになったまま物語は途切れる。このように、いわば「アンチテラのテーマ」に属するナボコフ作品の系譜というものを考えることも可能であり、その場合には作品世界として設定された「虚構」世界から、狂気または妄想を通していわゆる「現実」世界がちらちらと垣間見えるという構造になっている。付言すると、こうした小説世界の作り方をSFの枠内で眺めれば、『アーダ』はいわゆる歴史改変SF、あるいはテラの実在を仮定すればパラレルワールド物として読める資格を備えているが、ナボコフはこの小説や短篇「ランス」で大衆小説のジャンルとしてのSFを揶揄していることも忘れてはならない。
 われわれの歴史では、13世紀にロシアはモンゴル帝国の襲撃を受け、その支配下に置かれた。これがいわゆる「タタールの軛」と呼ばれるもので、ロシアはその軛を脱するのに16世紀頃までかかった。しかし、この小説におけるアンチテラではタタールの支配が延々と続いていて、そのために大量のロシア人が北米大陸へ移民を余儀なくされた。北極圏からアメリカ本土へと広がるその地域は「エストティ」と呼ばれ、「アメロシア」合衆国の一部を成している。また、ここでは1815年に英国がフランスを合併したため、フランス人の移民も流れ込み、合衆国の内部にフランス領を形成した。『アーダ』におけるアンチテラの地理については、ドイツのナボコフ研究者として高名なディーター・E・ツィンマーが、北米大陸の地図を作成したうえで、ここに出てくる地名を網羅して解説を加えたものをウェブ上に公開している。
 このとんでもない背景設定によって、この小説世界では単に地理的な混交のみならず、英語、ロシア語、フランス語の言語文化が奇妙なハイブリッドを生み出すことになる。英語テクストの表層を覆うおびただしいロシア語、フランス語の氾濫は、言うまでもなく、作者ウラジーミル・ナボコフの生い立ちに負うところが大きい。政治家を父に持つ由緒正しい家系に生まれたナボコフは、ロシア知識人の子息として、幼少の頃から英語とフランス語をそれぞれの家庭教師に習い、ロシア文学だけでなく英文学やフランス文学にも慣れ親しんだ。だから、いかに奇矯な設定に見えようとも、この小説世界はナボコフの世界そのものなのだ。
『アーダ』は絢爛たる文学の文学、言い換えればメタ文学でもある。そのことは、第1部がいきなりトルストイの『アンナ・カレーニナ』(ただし、ナボコフは『アンナ・カレーニン』と呼ぶ)の書き出しのパロディで始まることからも明らかだろう。ちなみに、この第1部の終わりの一文「9月の初め、ヴァン・ヴィーンがマンハッタンを発ってリュートに向かおうとしているときに、彼は妊娠していた」は、ナボコフの自注によればトルストイの文体のパロディだというが、フローベールの『ボヴァリー夫人』のやはり第1部の終わり、「3月にトストを立ち去ったとき、ボヴァリー夫人は妊娠していた」(菅野昭正訳)という一文のパロディでもある。また、物語全体の構図を支えているサブテクストとしては、本文中でしばしば言及される、シャトーブリアンの『ルネ』とプーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』が挙げられる。
 今挙げた作家や作品は、どれもナボコフが高く評価するものだが、その反対に、ナボコフが事あるごとに断罪する作家や作品も、パロディやアナグラムという歪みを伴って、アンチテラという虚構世界に移植されている。ウィリアム・フォークナーとトーマス・マンは合体して「フォークナーマン」になってしまうし、T・S・エリオットは名前と実体が分離して、ユダヤ人の不動産業者エリオット氏(これはエリオットの反ユダヤ主義を皮肉ったもの──ナボコフの愛妻ヴェーラがユダヤ系ロシア人であったこともあり、ナボコフの作品にはしばしばユダヤ人問題が隠されたテーマとして現れる)と、その仲間で、『空地』や『四重衝突』の前衛詩人キサー・スウィーン(この名前はエリオットのスウィーニー詩篇から取ったもの)になる。『ロリータ』を出版したパリのオリンピア・プレスから『セクサス』『プレクサス』を出しているヘンリー・ミラーは、好色本『ポクサス』『クリーシーのクリシェな日々』の作者ハインリッヒ・ミューラーに化ける。『ロリータ』を書評で酷評し、早い時期のSF論『地獄の新地図』を著した英国作家のキングスレー・エイミスは、ヴァンのSF風哲学小説『テラからの手紙』において、狂気に陥った科学者S・グレイミンスキーというアナグラムで登場する。ついでに言うと、ナボコフの『ロリータ』そのものも、セルフパロディによって、ここではベストセラー『ジプシー娘』となり、その作者はヘルボス(ボルヘスのアナグラム──ボルヘスはしばしばナボコフと並べて論じられることがあった)である。こうしたお遊びは、読者のためのお楽しみとして、『アーダ』のいたるところにちりばめられている。
 すでに述べたように、ナボコフはこの『アーダ』を当初『時間の織物』という仮題の下に構想していた。ブライアン・ボイドの評伝によれば、その頃ナボコフは本文中にも言及のあるJ・W・ダンの有名な著作『時間の実験』で論じられている予知夢についての記述を自らも確かめてみようと、見た夢を書き留めていたらしい。時間の逆転に関心を寄せる、いかにもナボコフらしいエピソードである。本書の第4部を執筆するために、ナボコフにとって最も大きな助けとなったのは、こちらもしばしば本文中で言及されているアンリ・ベルクソンの主著『時間と自由』であり、空間化された時間ではなく時間そのものをとらえようとするヴァンの議論は、いわゆる「純粋持続」を説いたベルクソンの主張と重なる部分も多い。ベルクソンだけではなく、ナボコフが古今の時間論を読み漁った形跡は歴然としていて、古くは聖アウグスティヌスの『告白』における時間論から新しくはアインシュタインの相対性までがテクスト中に取り込まれている。ここでは、そうした哲学的な議論に立ち入る余裕はないが、時間をめぐる考察の結果として、この小説がいわばわたしたち読者の目の前で形作られていくさまに注意をうながしておきたい。語り手のヴァンは、アーダとともに、この年代記を書くことで過去を再構築しようとする。それは決して事実を単に時間軸に沿って並べたものではない。記憶とはすなわち想像力の謂(いい)だと考えるナボコフにとっては、主観的に認識され、再構築された過去こそが時間の手触りを与えるものなのである。そしてその再構築された(つまりは、どの程度かは判断しがたいが、なにがしかの虚構を含んでいるはずの)過去が、いわば現在に追いつき、溶け合って輝き出す瞬間こそが、第4部で時間論を執筆しながら、アーダとの再会の場へと車を走らせ、そしてホテルの部屋でアーダからかかってきた電話を受ける場面なのだ。ナボコフは手紙や電話という小道具の使い方にきわめて意識的な作家だった。『アーダ』はその最たるもので、この小説世界では「電気」という言葉と実体が禁じられ、そのために電話も電気ではなく水路によって発話を伝える「水路伝話」なる奇妙なものに置き換えられている。その水路伝話では水流の影響で相手の言葉がはっきりとは聞き取れないが、第4部でヴァンがアーダと再会する場面では、電話器が復活していて、アーダの声が「過去を蘇られせそれを現在と結びつける」役目を果たすことになる。
 それにしても、本書の構成で特異なのは、第1部から最後の第5部へと進行していくとき、それぞれのパートの分量がほぼ半減を続けていくことである。この上下巻では、第1部だけで上巻を占める。これが、「飛んでいる矢は止まっている」という、いわゆるゼノンの逆説における論法に対応していると論じたのは、若手のナボコフ研究家マリエータ・ボゾヴィチである。これは鋭い指摘だと思う。言い換えれば、「時間の矢先(アーディス)」を逆説の形で体現しているのが『アーダ』という小説だというわけだ。実を言うと、今年で65歳(ナボコフが『アーダ』を構想した年齢)になったわたしには、この感覚が実感できるような気がする。この歳になると、少年時代の記憶が模造記憶となって大きく膨れ上がり、その逆に、この十数年の記憶はどんどん縮んでいく。おそらくは、それが死を意識せざるをえなくなったナボコフの実感でもあったのだろう、と想像してみたくなる。『アーダ』に流れているのは、時間の単位によって計測できるような直線的時間ではない、「生きられた時間」なのだ。
 上巻を占める第1部は、ヴァンとアーダとの、上品に言えば牧歌的ロマンス、あるいは本書のタイトルを借りて言えば愛欲絵巻が描かれている。●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
 アーディスの領地で繰り広げられるヴァンとアーダのロマンスは、楽園としてのアーディスを想わせる。この小説を性的至福に満ちたものとして読みたい向きには、第1部を読めば充分かもしれないし、作者ナボコフもエロスを全開にしてその部分を書いていることもまたたしかである。しかし、その光に満ちているはずの楽園には、暗い影が射している──ちょうど、アーダの発明した遊びが、光と影の戯れであったように。
 ナボコフ自身も認めているように、『アーダ』の中心的な構図は、ヒエロニムス・ボッシュの名画「悦楽の園」に似せたものである。3枚続きの絵である「悦楽の園」の中央のパネルには、現世の快楽に興じる男女たちが主に描かれている(ちなみに、ここには蝶も描き込まれているのが、『アーダ』執筆当時に『芸術における蝶』という著作を準備していたナボコフの興味を惹いた理由の一つではないかと思われる)。右翼のパネルには、人間たちが悪魔の群れによって責め苦を受ける地獄が描かれている。楽園に接した地獄の存在は、『アーダ』という小説世界においても無視するわけにはいかない。
 英語期の三大傑作である『ロリータ』と『青白い炎』、そしてこの『アーダ』には、共通する点がいくつか認められる。そのうちのひとつは、一人称の語り手がいずれも己の幻想や執着に溺れるあまりに、他者の痛みや悲しみにまったく無頓着なところである。『ロリータ』の語り手ハンバート・ハンバートは、少女愛という病に取り憑かれ、ドロレス・ヘイズという生身の女の子から「ロリータ」という幻想のニンフェットを作り上げてしまうが、両親を亡くした生身のドロレスの痛みにはあえて目をつむっていた。また『青白い炎』の語り手チャールズ・キンボートは、自分が王国ゼンブラの国王だったという妄想に取り憑かれ、ゼンブラを歌ったものだと思い込んでいる長詩「青白い炎」の草稿を手に入れようとして、その作者である詩人ジョン・シェイドの娘を失った悲しみに気づかない。それと軌を一にして、『アーダ』の語り手であるヴァン(そしてアーダ)も、自分たちの幸せばかりを追求するあまりに、2人の輪の中に巻き込まれたリュセットが、最後には豪華客船の甲板から飛び込み自殺をしてしまう(ジョン・シェイドの娘ヘイゼルも同じように入水自殺を遂げた)。言い換えれば、2人の幸せは他人の犠牲のうえに得られたものである。読者には、ハンバートやキンボートといったおぞましい語り手を前にして、華麗な幻想や文章に酔いながらも彼らの怪物性にも目を向けるという態度を、『アーダ』のこのうぬぼれで鼻持ちならない語り手に対しても取らなければならないだろう。
 そもそも、『アーダ』というタイトルそのものが、すでに「地獄」という意味を含んでいる。「アーダ」(Ada) はロシア語で地獄を表す「アート」(ad) の生格形なのである。そして、ナボコフのロシア語時代の代表作である『賜物』(雑誌初出1937―38年、単行本1952年)のロシア語題名 Darは、逆さまに読めばその地獄(ad)を含んでいた。『賜物』がロシア文学の伝統の総決算をしながらも、自らの文学をヨーロッパ・モダニズムの中に位置づけようとする試みであったのと対応するように、ナボコフは『アーダ』において現実と虚構が反転するナボコフ的な世界の中で、英語のみならずロシア語やフランス語が淫らに交配した新種の蘭を作り上げた。それはおそらく、ナボコフ以外のどんな作家にも達成できない偉業だった。
 この翻訳は、京都ナボコフ読書会で1ヵ月に一度集まり、読書会のメンバーと一緒に『アーダ』を読むかたわらで進められた。読書会では、これまで10年以上かけたはずだが、まだ『アーダ』の第2部の途中までしか行っていない。おそらく読み終わるのにあと10年はかかるはずだ(それまでわたしが生きていられるかどうか……)。集まって『アーダ』を読み、そのたびにあっと驚く発見をして、ナボコフの奥深さに感嘆する、その繰り返しである。翻訳の草稿に目を通し、誤訳の指摘からロシア語、フランス語の表記に至るまで、細かいチェックをしていただいた読書会の仲間たち、とりわけ後藤篤、中田晶子、橋本知子、メドロック麻弥の諸氏に感謝したい。また、日本ナボコフ協会の会員であり、蘭の愛好家でもある日本画家の中村恭子さんには、素晴らしい表紙絵を描いていただいた。これまた感謝。
 ナボコフを翻訳するたびに思うことだが、ナボコフを読み、そして翻訳する旅に終わりはない。そして、それを最も実感させられたのが、この『アーダ』だ。長い年月をかけた仕事だったが、すべてを理解したという気にはまったくならず、むしろ今でもわからないところだらけだという方が正しい。読み直しては書き直す、その作業を繰り返すばかりで、これではヴァンが死ぬまで延々と手直しをしていた『アーダ』の草稿に似て、終わりが見えない。この翻訳は、あくまでも現時点でわたしがこれだけしか理解していないという証明であり、それ以上でもそれ以下でもない。本書に接することによって、一人でも多くのナボコフ愛読者、『アーダ』愛読者を得ることができれば、訳者としてそれにまさる喜びはない。
 最後に、いささか個人的な感慨を綴ることをお許しいただきたい。これから引用するのは、初めて出した論集『乱視読者の冒険』(自由国民社、1993年)のあとがきの結びで、わたしが書いた文章である(訳の引用は、当時に書いたもののままにしてある)。今から25年ほども前のことで、文字どおりの若書きであるという恥ずかしさはあるが、そのときからわたしにとって『アーダ』が特別な書物だったことがよくわかる。今では、ここに書いているような、『アーダ』が幸せばかりの書物だとは思わなくなったが、そこに読む幸せが無限に詰まっているという思いだけは変わらない。そして、この拙い翻訳と解説を終えるにあたって、結びの言葉はこの最後の一文しかない。

 5年ほど前の夏、ヨーロッパを旅行したときも、わたしは鞄に『アーダ』1冊だけを入れていった。その旅の主な目的は、ナボコフが晩年を過ごしたスイスのレマン湖のほとりにあるモントルーを訪れることだった。列車が次第にモントルー駅に近づいたとき、その窓から古城のような風格を備えたモントルー・パラス・ホテルが見えた瞬間の、あの興奮は今でも忘れられない(『ロリータ』の大成功で金銭的余裕を得てアメリカを去ってから、ナボコフはそのホテルの最上階の部屋にずっと住んで世界を見つめていたのだ)。しかし、それよりも忘れがたいのは、モントルーで紹介された安宿にたどりつき、そこの2階の部屋に入って、鎧戸の窓を開けたときの眩暈にも近い感動だった。そこには、山並みを背景にしたレマン湖と、その周囲の遊歩道の景色がまるで絵画のようにひろがっていた。そして、その景色を目にした瞬間、ナボコフもこの同じ景色を目にしていたのだ、ナボコフもこの同じ空気を吸っていたのだという思いが、電撃のようにわたしの身体を貫いた。一瞬わたしは霊界のナボコフと交感したかのような幸せな錯覚をおこしたのだ。
 モントルーからイタリアに向かう列車の中で、辞書編纂を仕事にしているというあるフランス人と同室になった。これからイタリアの別荘に行くところだという彼は、日本に興味があるらしく、別荘で読書を楽しむために持ってきた『源氏物語』や近松をわたしに見せた。ところでおまえはどんな本が好きなんだと訊ねるので、わたしは『アーダ』を取り出して、長旅にはこれ1冊に決めていると答えたら、相手はびっくりした。なんと彼も、文庫版の仏訳『アーダ』を連れてきていたのだった。

 ナボコフの縁で結ばれた幸せな出会い。わたしは『アーダ』を開けると、いつもそのヨーロッパでの体験を思い出す。わたしにとってナボコフとは幸せの作家である。そして『アーダ』にはその至福が無限に詰まっている。この長い小説を通読したことは実は数回しかないが、その結びの文章はこうである。

微妙な絵画的細密描写は年代記の大切な装飾である。格子造りの回廊。彩色をほどこされた天井。小川の勿忘草の中にからまったかわいい玩具。ロマンスの余白を縁取る蝶や蝶蘭。大理石の石段から眺めた靄にかすむ彼方の景色。領地の公園でこちらをじっと見つめる雌鹿。そしてもっと、もっと多くのものが。

 この最後の一文に出会うために、わたしは『アーダ』を読むのかもしれない。1冊の小説を読み終わっても、まだ「もっと、もっと多くの」小説がわたしたちとの出会いを待っている。そして、1冊の小説の中にも、「もっと、もっと多くの」ものがわたしたちとの出会いを待っている。小説を読むわたしたちの旅に、終わりはないことを信じよう。ナボコフの言葉にならって。
 And much, much more.


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