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父を亡くした作家がスペシャルウィークの血統を辿る物語。「ひとすじの光」試し読み

文庫版が刊行された小川哲『噓と正典』から、競馬小説「ひとすじの光」の試し読みを掲載します。

小川哲『嘘と正典』好評発売中

ひとすじの光

 作家になって五年目の秋、十五年ぶりに父と会った。京都の病院から連絡があって、父が末期ガンだと言われたのだ。気は進まなかったが、死後の手続きに関していくつか話があるということで、仕方なく病院へ向かった。五分ほど病室に顔を出してから、病院を出てすぐに東京へ帰った。
 父が死んだのはその三日後だった。僕がスランプに陥っていたのは不幸中の幸いで、そのため差し迫った締め切りもなく、父の葬儀に専念することができた。
 親族によるささやかな葬儀が終わったあと、事後処理のため僕は実家に残った。ずいぶん久しぶりにひとりで寝泊まりしながら、僕はノートにやらなければならないことを書きだした。子どものころからの習慣だった。ものごとを忘れると父が烈火のごとく怒ったので、些細なことでもノートに書き留める癖がついたのだ。請求書の処理や四十九日法要の準備、相続関係の処理など、リストは数多くあったが、どれかひとつでも忘れたら、この世にいないはずの父に怒鳴りつけられるような気がした。
 新作の打ち合わせのために一旦東京に戻る日の朝、実家に二つの段ボール箱が届いた。ひとつは清和サラブレッドクラブという法人からで、もうひとつは父が入院していた病院からだった。
 十五年前に家を出たときと同じ、すっかり古くなった旧型のコーヒーメーカーに豆を入れながら、僕はまず清和サラブレッドクラブの段ボールを開けることにした。そこには青と黒が縞になったサテン地の服が入っていて、その下には書類の入った封筒があった。書類には「父の所有馬の処遇を決めてほしい」という旨のことが書かれていた。父が競馬好きだったことはよく知っていたが、馬主をしていたというのは初耳だった。書類によると、父の所有馬は「テンペスト」という名前で、段ボールに入っていた服は父の馬が走るときの勝負服のようだった。どうやら僕は父の馬主資格を引き継いでテンペストの馬主になることもできるし、テンペストを清和サラブレッドクラブに無償で譲渡することもできるらしい。
 父は死ぬ前に、相続に関する手続きをほとんど終えてしまっていた。僕が生まれ育った実家にはすでに買い手が見つかっていたし、二十年乗り続けた軽自動車は廃車にしていた。わずかに所持していた株券も、若いころに集めていた腕時計も、家中に積み上げられていた大量の資料も、シェイクスピアについての何冊かの学術書の著作権も、すべてが適切な金に変わっていた。父は死ぬ前に、六十四年の人生で積み上げてきたものをすべてミキサーに押しこみ、ミンチにしたのだ。ミンチには値札がつけられ、一人息子である僕の両手に託された。
 そこまで周到だった父が、テンペストの処遇に関して僕に選択権を残していたのは不思議だった。書類にはテンペストの情報が記されていた。五歳の牡馬で、一度も聞いたことのない父と一度も聞いたことのない母から生まれた、ひどく凡庸なサラブレッドだった。地方競馬で十二回出走して未勝利。新馬戦で四着になって以来、掲示板に入ったこともない。高校野球で言えば、地方大会の初戦で敗れるチームのベンチに座っているような馬だ。そんな馬でも管理には金がかかる。飼料代も、調教費用も、すべて馬主が支払わなければならなかった。書類によれば今後も賞金を稼ぐ見込みのないテンペストという馬に、父は毎月二十万円ほど支払っていた。
 クラブに馬を譲渡するべきだと頭では理解しながらも、何か釈然としない気持ちを抱いていた。父がこの駄馬を所有していたのには、何か理由があるに違いない。それに、競馬は僕と父を繋ぐ細い糸だった。クラブに馬を譲渡してしまえば、父の人生は完全に骨と数字だけになってしまうだろう。
 スイッチを入れるとコーヒーメーカーがガリガリと豆を挽きはじめ、道路工事のような騒々しい音がした。子どものころ、この音が鳴り響く中で何度も父に怒鳴られた。僕にとってそれは指導というよりも、否定に近いものだった。父の口癖は「死ぬ気でやれ」だった。「馬でさえ、いつも死ぬ気で走っている」
 そんなとき、僕はいつも心の中で「人間は馬じゃない」と反論していた。声にすればさらに怒られるとわかっていたから、僕は一度も口に出したことはなかった。
 父は短気で気難しかった。いつも不機嫌そうにあたりを見渡し、世界のどこかに自分が怒る原因が落ちていないか探し回っているようだった。一度だけ母と会えるなら、どうしてこんな相手と結婚したのか聞いてみたかった。二人が乗馬クラブで出会ったという話を聞いたことがあったが、馬が二人を結びつけたのだろうか。
 生前の父と最後に話をしたときも、馬の話をした。
 十五年ぶりに会った父は、すっかり髪が白くなっていた。もともとそれほど太っていなかったが、痛々しいほどに痩せ細っていた。骨格が剥きだしになった顔から、ギョロリと眼球が飛びでていた。
 病室に着くと、父は表情を変えずに小さく「来たか」とつぶやいた。僕の近況や、二人の間に横たわっていた十五年間について質問することもなく、一方的に葬式や相続について語った。最後に書類を僕に渡してしまうと、父は沈黙した。
 しばらく無言が続いてから、僕は「どこか痛む?」と聞いた。
「そりゃ色々痛い」と父は答えた。
 僕は原稿用紙とペンがベッドの後ろに置いてあったのを見つけて「本でも書いてるの?」と会話を続けることにした。
「ああ。ある馬について書いている」
「どの馬?」
「無名の馬だ。そういえば、昔、一度だけお前と競馬場に行ったな。覚えてるか?」
「覚えてるよ」と僕は言った。「メインレースはスペシャルウィークが出走した京都大賞典だった」
 当時中学生だった僕は父に連れられて京都競馬場に行き、スペシャルウィークが負けるところを見た。
「ひどい負け方だった」と父が言った。
 僕が「うん」とうなずくと、会話の糸口は煙のように消えてしまった。僕は何度か口を開きかけて、その度にやめた。「じゃあ」とだけ口にして、書類を手に病室を出た。
 スペシャルウィークは僕が競馬に興味を持つきっかけとなった馬だった。でもそれは、彼がスターホースだったからではなかった。僕にとって彼は、日本ダービーを勝った馬でも、天皇賞を春秋連覇した馬でも、ジャパンカップでモンジューを破った馬でもなかった。競馬場の人々の期待を裏切って、京都大賞典で負けてすべてを失った馬だった。
 スペシャルウィークは一九九五年、日高の牧場で生まれた。新馬戦から順調に勝ち上がり、一九九八年に日本ダービーを五馬身差で圧勝した。その勝利で、鞍上の武豊は十度目の挑戦にしてようやくダービージョッキーになった。翌年も順当に天皇賞・春に勝利したが、宝塚記念でグラスワンダーに完敗したことで暗雲が立ちこめた。
 その次のレースが京都大賞典だった。父と京都競馬場にいた僕は、生まれて初めてレースを生で観戦した。
 大声援の中、スペシャルウィークは見どころもなく七着に惨敗した。父は一番人気だったスペシャルウィークを軸に馬券を買っていた。こっぴどく損をしたようで、帰り道もずっと不機嫌だった。電車の中で「あいつはもう終わったな」と口にした。「もうダメだ」
 僕は何も知らないくせに、心の中で「そんなことない」と反論していた。父の期待に応えられなかったスペシャルウィークに自分を重ね合わせていた。スペシャルウィークの気持ちがわかる気がした。競馬のことはよくわからなかった。でも、一度や二度負けたくらいでそんなに悪く言われたら、落ちこんでしまうのではないか。スペシャルウィークが傷ついたらどうするんだ。そんな気持ちだった。
 もっと彼のことが知りたい──そう思って、スペシャルウィークについて調べた。サンデーサイレンスという優秀な父がいることを知った。母は彼を出産した直後に亡くなっていて、スペシャルウィークは母の顔を知らなかった。僕の母も、僕を産んだ直後に亡くなっていた。当時は、その符合が偶然には思えなかった。
 
《スペシャルウィークの母はキャンペンガールである。そのキャンペンガールの母──つまりスペシャルウィークの祖母──はレディーシラオキという。そのさらに祖母のシラオキは現役時代に日本ダービーで二着になったほか、重賞を含めて九勝している。シラオキは二十世紀初頭に輸入されたフロリースカップから続く名牝の母系にあり、つまりスペシャルウィークはフロリースカップの末裔に連なっていることになる》
 病院から届いたもうひとつの段ボールには、病室で父が書いていた原稿と、その資料が入っていた。原稿は十数枚ほどの束になっていて、右上がクリップで留められていた。見た目にも性格にも似つかわしくない、丸っこくてバランスの悪い、ぎこちない字が原稿用紙いっぱいに埋められていた。
 父の字を見るのは久しぶりだった。初めて買ってもらった自転車に、父が僕の名前を書いたときのことを思い出した。父は油性マジックで新品の自転車の泥除けに僕の住所と名前を書いた。どういうわけか、そのとき、とても誇らしい気持ちになったのだった。
 二年後に鍵をかけ忘れて自転車が盗まれたとき、父は僕の頬を叩いた。それから二度と自転車は買ってもらえなかった。僕はその自転車の色も形も思い出せなかったが、父が書いた僕の名前は今でもはっきりと思い出すことができた。
 僕はたしか、その自転車にトウカイテイオーという名前をつけていた。トウカイテイオーが勝った有馬記念で儲けたという理由で、父は自転車を買ってきたのだ。
 父の原稿はスペシャルウィークの系譜を遡るところから始まっていた。これがトウカイテイオーだったなら、僕にも理解できた。トウカイテイオーは父にとって特別な馬だったからだ。だが、父にとってスペシャルウィークは、京都大賞典で大損させられた呪いのような馬だったはずだ。
 父はどうしてスペシャルウィークの系譜を遡ったのだろうか。遡ることにどんな意味があったのだろうか。
 僕はコーヒーを飲みながら続きを読んだ。
 
《フロリースカップは、一九〇七年、馬匹改良を目的に三菱財閥の小岩井農場がイギリスから輸入した二十頭のサラブレッドのうちの一頭である。日清・日露戦争を通じて、日本陸軍は軍馬の質で西洋に著しく劣っていることを自覚していた。長らく戦争のなかった日本では、馬とは主に観賞用や儀礼用であり、軍事作戦に従事することがなかったのである。当時の内国産馬は背が低くて気性も荒く、戦場ではそれが仇となった。たとえば一九〇〇年の義和団事件では、列強国から「日本は馬のような形の猛獣に乗っている」と笑われたほどだ。そこで、良質な馬を生産することを目的として、国を挙げて競馬に力を入れた。フロリースカップは、ちょうどそんな時期に輸入されたイギリスのサラブレッドだった。
 フロリースカップの孫であるフロリスト(現役時代の馬名はフロラーカップ)は、牝馬ながら帝室御賞典(現在の天皇賞)を含む十勝を挙げ、繁殖牝馬としてもスターカップ、ハクリュウ、ミナミホマレなどの優秀な競走馬を産んだ。このうちのスターカップの孫がシラオキで、その孫がレディーシラオキである。つまりフロリースカップはスペシャルウィークの祖母の祖母の祖母の曾祖母にあたる。
 フロリストの活躍によって、フロリースカップの血が優秀な競走馬を産みだすと、当時の馬産者たちの間で話題になった。だが、フロリースカップの血族は三菱財閥の岩崎久彌が所有する小岩井農場によって管理されており、市場に出回ることはなかった。様々な馬産者が、どうにかしてフロリースカップの血を手に入れようと躍起になった。
 長野県で間宮農場という小牧場を経営する間宮昌次郎もそのうちのひとりだった。彼が特別だったのは、フロリースカップの血に対する執着に並々ならぬものがあった点である。外国の血統書と国内の馬産、レース結果などから独自の血統理論を編みだしていた昌次郎は、日本一の競走馬を生産するために、フロリースカップの血が二十五パーセント必要だという結論に至った。そこに間宮農場で一番の種牡馬「メグロ」を掛けあわせれば、間違いなく帝室御賞典で勝てる馬になる。彼はそう確信していた。
 だがどうやって、フロリースカップの血を手に入れたらいいのだろうか。
 昌次郎は思案した。第一回の日本ダービー(当時は「東京優駿大競走」)が開催される五年前、一九二七年のことである。
 日本中の牧場を廻り、イギリス大使館にまで足を延ばした昌次郎は、根岸競馬場で紹介された小岩井農場の元厩務員の男から「フロリースカップに妹がいる」という情報を得た。その妹はフロリースカップの全妹で、つまりまったく同じ血が流れている。妹を手に入れることができれば理想の競走馬を生産できると知って、昌次郎は興奮した。
 男の話によると、フロリースカップの妹の存在は一九一一年あたりから牧場内の一部で知られていたらしい。一度イギリスの牧場主に問い合わせたことがあったが、フランスの牧場で出産されたらしく、第一次世界大戦以降は行方がわからなくなっているという話だった。
 その話を聞いた昌次郎は、牧場と二人の子どもを妻の八重に任せ、単身フランスへと向かった。人間と違い馬の寿命は短く、悠長に構えている暇はなかった。昌次郎は三カ月かけてフランス中の牧場や競馬場を探し回り、ようやくフロリースカップの妹である「ミスカノン」の馬主ブロシャールを見つけた。
 だが、残念なことにミスカノンはすでに亡くなっていた。現役時代の彼女はフランスのG・ディアヌ賞で三着にもなった優秀な競走馬で、繁殖入りしてからも期待されていたが、戦争が彼女の未来を奪った。繁用されていた牧場にドイツ軍がやってきて、ミスカノンを含むすべてのサラブレッドが軍馬として徴用されてしまったのである。終戦後、ブロシャールが牧場に戻ると何頭かはすでにいなくなっており、妊娠したまま放置されたミスカノンは疝痛に苦しんでいた。獣医とともになんとか出産させることはできたが、ミスカノンはそのまま死んでしまった。
 残されたのは、父親が誰なのかもわからない、ミスカノンの娘だけだった。「その娘を見せてくれ」という昌次郎に、ブロシャールは戸惑ったという。「父親がわからない」という言葉は、サラブレッドにとって重い意味を持っていたからだ。サラブレッドは血がすべてである。なぜならその定義は「両親がサラブレッドであること」だからだ。イギリスで血統登録の始まった十八世紀以降、すべてのサラブレッドは血統書とともに管理されており、その管理から外れた馬はサラブレッドと認められない。
 だがそれでも、昌次郎は「娘を見せてくれ」と粘った》
 
 そこまで一気に読んで、僕は一旦原稿を置いた。父が僕と競馬場へ行ったときの話をした理由が少しだけわかった。死を前にした父が調べていたのは、スペシャルウィークの先祖についてだった。
 父は学者らしく、原稿に細かく脚注をつけていた。たとえば、昌次郎が根岸競馬場でフロリースカップの妹の情報を得た経緯は、一九四一年の『馬事月報』四月号「フロリースカップの血を求めて」という記事の中で、昌次郎本人が語っている。フランスでブロシャールと会ったときの話は昌次郎の手記からの引用だ。
 父の段ボールには『馬事月報』や昌次郎の手記のコピーの他にも、『競馬年鑑』、『ダービー馬スペシャルウィーク』、『伝記・岩崎久弥』、『第一回東京優駿』、『馬匹改良』など、古いものから比較的最近のものまで、様々な資料が詰めこまれていた。
 コーヒーはすでに冷めていた。
 僕はスマホを使って、原稿に書かれていたことを調べてみることにした。間宮昌次郎の名前は検索にかからなかったが、だからといって彼が実在しなかったとは言い切れない。戦前の牧場主の名前がインターネット上に残っているとは思えないからだ。
 一方、フロリースカップの名前はすぐに見つかったし、ウィキペディアも存在した。スペシャルウィークの血統を調べて、その先祖にフロリースカップの名前を見つけることもできた。
 ミスカノンについては難航した。二時間ほど格闘して、当時のフランスの新聞記事のデータベースから、ようやく一九一二年のディアヌ賞の結果を見つけた。三着に「Miss Canon」という名前がある。彼女は一九〇九年生まれだ。騎手や馬主、血統の情報はないし、「Miss Canon」が他にどんなレースに出たのかもわからなかったが、フロリースカップが一九〇四年生まれなので、ミスカノンがその妹だったとして年代的に矛盾はない。第一次世界大戦の開戦は一九一四年だから、引退したミスカノンが牧場で繁用されていてもおかしくはないだろう。
 父はシェイクスピアの研究者で、競馬の研究者ではなかった。父がなぜスペシャルウィークの先祖について調べようと思ったのか、依然として僕にはわからなかった。
 
《ミスカノンの娘はレティシアという名前だったが、これは昌次郎の勘違いによるもので、実際にはブロシャールの娘の名前である。「娘を見せてくれ」と昌次郎が頼むと、ブロシャールは放牧地に出て「レティシア!」とハンドベルを鳴らした。すぐに馬に跨がった若い女性が現れた。馬上の彼女こそがレティシアだったのだが、昌次郎には栗毛の美しい馬体しか見えていなかった。
 ミスカノンの娘は乗用馬となっていた。気性も穏やかで頭も良く、脚の長さや腿の筋肉はミスカノンによく似ていて、きっと素晴らしい競走馬になっていたはずだ。それだけに、血統がわからなかったのでレースに出せず、繁殖させてやることもできないのが残念でならない、とブロシャールは話した。
 昌次郎は「日本でなら彼女の血を残すことができる」と断言して、ブロシャールに迫ったようである。まだ競馬の制度が完全に整っていない日本でなら、レティシアの子どもをレースに出すことができると考えたのだろう。実際に、血統のよくわからない馬が帝室御賞典に勝ったこともあったし、日本の競馬界を席巻したオーストラリア産のミラ号も両親が誰であるかわかっていなかった。
 ブロシャールは、娘が乗用馬として大切にしているという理由で、一度は昌次郎の提案を断った。だが、昌次郎も簡単には引き下がらなかった。レティシアの子どもをレースに出し、緑色の芝生を思い切り走らせてやることができるのは自分だけだと言った。馬産家としてその言葉に思うところがあったのか、最終的にブロシャールはレティシアを昌次郎に譲ることに決めた。
 昌次郎とブロシャールは「契約」を交わした。その内容は「ミスカノンの孫をレースに出し、思い切り走らせてやる」というものだったという。昌次郎はブロシャールに二百フランしか支払わなかった。その二百フランすら、ブロシャールは受け取るのを渋ったそうである。
 翌年の夏、レティシアが間宮農場にやってきた。その日のことを昌次郎は以下のように顧みている。
「八月十一日、検疫を終えたレティシアが間宮農場にやってきた。長時間の輸送で多少の疲れが見えたが、毛艶もよく、栗毛の馬体が光り輝いていた。餌係の茂が飼葉を与えると、一口で平らげてしまった」
 茂は昌次郎の長男である。実はこの日、茂は突然暴れだしたレティシアの後ろ脚に蹴られ、左腕を骨折している。昌次郎は怪我をした茂に対して「馬の視野が広いことが何を意味するか、わかるか?」と問いかけたという。
「自分の後ろまで見ることができる」と茂は答えた。
「そうだ」と昌次郎はうなずいた。「そのせいで、馬は自分が周囲すべてを見ることができると思いこんでいる。だが実際には、真後ろだけは見えていない。ゆえに、真後ろから何かが現れたとき、馬は何もなかった空間に突然物体が発生したように感じる。そうして馬は驚いて暴れる」
 昌次郎はこういった問答を好んだようである。どんなことでも可能な限り合理的に説明しようとしていたのだ》
 
 僕はそこで再び原稿を置いた。
 東京に帰る時間が迫っていた。僕は父の原稿とサラブレッドクラブの書類に加えて、段ボールに入っていた資料のいくつかを鞄に詰めて実家を出た。
 新幹線の中で僕は父の原稿を一度開いてから、隣に座った人の目が気になってすぐに鞄にしまった。父の特徴的な字で書かれた原稿を見られるのが恥ずかしかった。代わりに『ダービー馬スペシャルウィーク』という本を読むことにした。
 すぐに「もしかしたらこの本は、子どものころに僕が調べたときに読んだ本かもしれない」と思った。僕はこの本に書いてある事実についてよく知っていた。スペシャルウィークには母がいなくて、ばんえい馬の乳母があてがわれたこと。乳母の気性が荒く、幼いころのスペシャルウィークが苦労したこと。そのせいもあってか、スペシャルウィークはサンデーサイレンス産駒にしてはおとなしく、また人間をとても信頼していたこと。武豊が絶賛した乗り味の秘密は、彼の生い立ちにあったのではないか、ということ。
 母のいなかった僕の面倒を見たのは母方の祖母だった。スペシャルウィークの乳母と違い、祖母はいつも優しかった。よく夕方に電車を乗り継いで僕の家までやってきて、食事を作り、洗濯をして、夕食が終わると洗濯物を干してから帰っていった。祖母は僕が九歳のときに亡くなった。どういう経緯で亡くなったかは忘れてしまったが、葬儀で大泣きしたことはよく覚えている。
『ダービー馬スペシャルウィーク』は薄い本で、新幹線の車内で読み終えてしまった。おそらくスペシャルウィークが日本ダービーを勝ったあとに急いで出版された本だったのだろう。その本にはスペシャルウィークが日本ダービーに勝つまでの経緯が記されているだけで、その後の活躍についても、スランプについても触れられていなかった。
 やっぱり同じだ、と僕は思う。僕もスペシャルウィークと同じで、デビューしてしばらくは順調だった。いくつかの賞をもらい、本も売れるようになってから、突然小説が書けなくなった。様々な不義理をして、多くの人に迷惑をかけた。気がつくと、それまで僕の周りにいた編集者はほとんどいなくなっていた。
 スランプの原因はわからなかった。ある日突然、自分の文章に自信が持てなくなったのだ。何を書いてもつまらない気がして、一日の終わりにその日書いた文章をすべて消去した。何度も繰り返すうちに、何も書けなくなった。
 スペシャルウィークは京都大賞典で大敗したあと、天皇賞・秋とジャパンカップに勝った。父は「終わった」と見切りをつけたが、彼は終わっていなかった。僕のスランプにも、いつか終わりが来るのだろうか。スペシャルウィークのように復活を遂げることができるのだろうか。
 東京に着くと、小さなレストランで編集者と話をした。「最近何か本を読みましたか?」と聞かれ、僕は父が残した原稿の話をした。編集者は思いのほか興味を示した。
「まだ最後まで読んでないですが、多分未完なんです」
「それなら、続きを書いてみたらどうでしょう」と編集者が口にした。「何かのリハビリになるかもしれません」
 僕は「まずは最後まで読んでみます」とだけ答えた。何杯か酒を飲んでから、具体的な話が何も進まないまま編集者と別れた。
 文章が書けなくなってから、本を読むのも億劫になっていた。そんな僕が、父の原稿を久しぶりに夢中になって読んでいる。続きを書くかどうかは別にして、何かのきっかけになるかもしれない。
 自宅に着くと、僕はすがりつく思いで父の原稿を手にとった。


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続きは書籍にてお楽しみください。

「魔術師」全文公開