『AIを生んだ100のSF』第一章:暦本純一「思考のストッパーを外せ」特別公開
数々のSFの名作がもたらした影響について研究者にインタビューを重ね、SFとAIの関係について探った〈S-Fマガジン〉の連載企画「SFの射程距離」。それに松尾豊さん×安野貴博さんの対談など数篇を追加し再編集した『AIを生んだ100のSF』(ハヤカワ新書)が大好評発売中です。刊行を記念し、今回の記事では本書の第一章、東京大学大学院情報学環教授・暦本純一さんへのインタビューの一部を特別公開いたします。
『サイボーグ009』が研究に与えた影響、「接続された女」とVTuberの関係、『ソラリス』と知性のありかた——など、様々な切り口からSFとAIの関係性が語られます。
第1章
思考のストッパーを外せ
暦本純一
■サイボーグ009と人間拡張
──まずは、暦本先生が研究されている「人間拡張」というテーマに出会われたきっかけ、それにまつわるSF体験について教えてください。
東京工業大学の情報科学科を修士で出て、そのあとNECの研究所に就職しました。5~6年経った頃に海外留学をしたいと思い、カナダのアルバータ大学に客員研究員として入ります。当時、ちょうどバーチャルリアリティ(VR)の第1次ブームがあり、アルバータ大学ではVRを使ったビジュアライゼーションの研究をやっていました。
しかし、当時はまだまだヘッドマウントディスプレイの性能が悪く、午前中に実験をするともうお昼が食べられないくらいVR酔いをしてしまう。そこで、VRよりもオーグメンテッドリアリティ(AR)を使って「視覚を拡張する」という概念にのめり込んでいくことになります。それがAR研究を始めた最初の体験、1992年頃の話です。
1993年に日本に帰ってきて、ソニーコンピュータサイエンス研究所(CSL)に転職をします。そこでつくったのが、「NaviCam」というハンドヘルド型のARデバイスでした。ここでもコンセプトになっているのは、視覚の拡張。SF映画には必ず出てくるような、現実の視界に情報がわーっと表示されるようなものをつくりたかった。その後さらに、ポジショントラッカー付きの液晶カメラを使って、現実空間のなかにCGが浮かんで見えて何人かで共有できるようなデバイスもつくっています。
いま思い返せば、子供の頃は『サイボーグ009』が好きだったので、ああやってアタッチメントを付けたり、時間を止めたり、あるいは見えないものが見えたりするといったキャラクターの能力は、いま行っている「人間拡張」のアイデアにつながっています。研究の最初のルーツは『サイボーグ009』だったんじゃないかと思います。
──子供時代には、ほかにどのようなSF作品に触れていましたか?
最初は小学生の頃ですね。筒井康隆の『かいじゅうゴミイ』などの子供向けのSF作品から入って、小松左京の『日本アパッチ族』を読んだり、小学4年生のときに〈S-Fマガジン〉を初めて買ったことを覚えています。日本SFの“御三家”でいえば、星新一はほぼ全作品読んでいると思います。中学校の感想文ではそうしたSFばかりを取り上げて書いていて、国語の先生に「もっとまともな本を読め」「たまにはちゃんとした文学を読め」と言われた記憶があります(笑)。いちおう漱石も読んでましたけどね。
──海外SFではどのような作品を読みましたか?
最初にはまったのは、マイクル・クライトンの『アンドロメダ病原体』。それからロバート・A・ハインラインの『夏への扉』や『宇宙の戦士』もはまりましたし、アーサー・C・クラークやアイザック・アシモフも当然読みました。高校生の頃は人生のなかで最もSFを読んでいた時期ですが、一時期は「青背」が出るたびに全部買っていたくらいです。SF好きの友だちと競争しながら読んでいたので、その頃はほぼえり好みなく出る順に読んでいます。
高校時代には英語の勉強と称して、カート・ヴォネガットやジェイムズ・ティプトリー・ジュニアを英語のペーパーバックでも読みました。ヴォネガットはノーベル文学賞を獲ってほしいと思っていました。文学として面白いですよね。ギミック的なSFではない世界があるということを知りました。学校の先生が言う「ちゃんとした文学」には違いない。そしてティプトリーといえば、いま僕たちの研究室で行っている人間と人間をテレプレゼンスでつなぐ研究、ウィリアム・ギブスンから借用して「ジャックイン」と総称しているプロジェクトの本当のルーツは彼女の「接続された女」(『愛はさだめ、さだめは死』所収)にあると思っているんです。
あの小説では、「世界一のブス」と作中で描写される女性が、超絶的な美人ではあるけれど意思をもたない人造人間にジャックインして操りますよね。これは『宇宙の戦士』の機動歩兵のようなものと似ているようで、ちょっと違う。ロボットをテレプレゼンスで動かすときには、ロボットは完全にスレイブ(奴隷)ですが、「接続された女」ではスレイブ側も、操られているとはいえ生身の人間である。そこが面白いと思ったんです。大金持ちの男がその女性を見初めちゃうんだけど、それは果たしてどっちを見初めたんだろうと。いまでいうバーチャルYouTuber(VTuber)にも通ずるところがありますよね。
また考え方として最も影響を受けたのは、スタニスワフ・レムの『ソラリス』や『砂漠の惑星』です。一つひとつは非力で小さな虫みたいなロボットが、集まることで全体として大きな力をもつ、あるいは海が知性をもってしまうといった概念には、非常にアンチヒューマノイド的なところがあって。たとえばアシモフの『われはロボット』は完全にヒューマノイド的な機械の世界ですが、『ソラリス』がそれとは全く異なる世界を提示していることに衝撃を受けた。人間以外の知性体がいるという世界観には非常に影響を受けましたね。
──そのほか幼少時代に影響を受けた体験はありましたか?
やっぱり大阪万博はすごかったです。1970年、小学3年生のときに行きましたが、僕にとってはリニアモーターカーも動く歩道も、プッシュフォンやライトペン、サークルビジョン(360度映像)といったすべてが万博で初めて見たもの。思い描いていた未来がすべてあるという体験は、現在にいたるまであそこでしか体験できなかったことですね。
■フィクションが現実を追いかけた時代
──大学の研究室ではSFの話をするようなことはあったのでしょうか。
ちょうど僕が研究室に入った頃は、マウスが世の中に出現し始めた時期だったんです。テキストだけしか扱えなかったコンピューターがグラフィックも扱えるようになり、UNIXのようなOSも日本に入ってきた。コンピューターの形がどんどん変わっていった時代だったので、研究室のなかでの話も、SFよりは実際のコンピューターについてのものが多かったと思います。
SFのなかでのコンピューター描写という点では、『2001年宇宙の旅』には影響を受けています。最初に観たのは高校生の頃ですが、いまはなきテアトル東京で、当時はまだ入れ替え制ではなかったので朝から3回続けて観るといったことをやっていました。先ほどの『ソラリス』にも通じる話ですが、『2001年宇宙の旅』のHAL 9000もヒューマノイドではないんです。コンピューターが知能をもっているんだけど、それをあえて人型ロボットとして描いていない。
──ニュースタブレットのような『2001年宇宙の旅』でのコンピューター描写は、『ブレードランナー』のような後続の作品よりもむしろナチュラルに人の生活に溶け込んでいるように思います。技術的にコンピューターを使えない時代だったからこそ、特撮を駆使してより進んだ未来をイメージすることができたのかもしれません。
そうですね。『2001年宇宙の旅』では、おそらく本当に2001年にできているであろうテクノロジーを予測して描いているから、HAL 9000以外はある意味、非常に順当な技術進化をイメージしていたように思います。コンピューター描写の観点で面白いのは、『2001年宇宙の旅』には手を使ったダイレクトマニピュレーションが出てこないこと。タッチスクリーンを飛ばして、音声で操るコンピューター、つまりいまのアレクサに近いものをすでに描いているんです。
『2001年宇宙の旅』が公開された1968年当時、GUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)はまさに研究されていた最中なので、きっとキューブリックはsketchpad などのダイレクトマニピュレーション的なコンピューターの存在を知らなかったんじゃないでしょうか。ニュースタブレットのシーンでも、実は人間はほとんどデバイスを触っていない。「何かニュースを出せ」とHALに頼み、言語をインターフェースとしてコンピューターを操っています。
──いわゆる入出力系の分野では、実世界の研究が先行して、逆にSFが追いついたといえるかもしれません。たとえば『マイノリティ・リポート』の映画ではジェスチャーで操作できるスクリーンが登場しますが、あれもMITの研究者が技術監修をしたといわれています。
それは正しい理解かもしれないですね。アシモフのロボットのような「話せる機械」という概念はもっと昔からあり、現実の技術が想像に追いつけない時代が長らくあった。一方でVRやダイレクトマニピュレーションは技術が先に生まれて、後から映画のなかに入ってきたような印象をもちます。
だからサイバーパンクが誕生する前は、いわゆる「ロボットSF」しかなかったんですよね。当時のフィクションのなかで描かれるコンピューターといえば、大型計算機のようなイメージか、あるいはものすごく擬人的なロボットかの二択しかなく、その中間が抜けていた〔編注:ティプトリーやジョン・ヴァーリイの個々の作品では描かれることはあっても、大きなムーブメントとして扱われることはなかった〕。それがウィリアム・ギブスンなどが登場する80年代になって、コンピューターサイエンスの知見がちゃんとSFのなかにも入ってくるようになったといえるのかもしれません。
もうひとつ、SF映画に出てきそうであまり出てこないのが携帯電話です。一般の人々が携帯を持っているという世界観がなく、描かれたとしてもいきなり『ディック・トレイシー』のような腕時計型デバイスにまでいってしまう。だから、SF的な想像力が技術開発を引っ張っていった面ももちろんありますが、逆に作家たちが思いつかなかったものを技術者がつくり、あとからフィクションが取り入れたものもあるのだと思います。
【中略】
■ドラえもんの願望カタログ
──エンジニアや研究者に対して、想像力を広げてもらうためにお薦めしている作品はありますか?
『ドラえもん』はよく勧めていますね。『ドラえもん』のすごいところは、最初のアイデアが必ずしもうまくいくわけじゃないということを示しているところ。ドラえもんに出してもらった道具を使っても、必ずのび太が失敗するじゃないですか。つまり、技術には使い方によって良い面・悪い面があるということを示しているわけですよね。
それから「どこでもドア」はつくれないかもしれないけどテレビ会議なら実現できるというように、あるいは「タケコプター」はつくれないけどドローンにジャックインすることはできるというように、ドラえもんの道具はちょっと視点をずらすと、がぜん現実的な話になるんです。一見すると実現不可能な道具に見えても、現実の世界にあるどんな技術ならのび太の「願望」を叶えることができるかを考える題材になります。
研究をするにあたって人間の願望はすごく重要で、『ドラえもん』では一つひとつの道具が「願望カタログ」にもなっている。たとえば、本棚をつくるためには釘を打たなくてもボンドを使えばいいかもしれない。そうした「そもそも本当にやりたい願望は何だろう?」という問いを考えるきっかけになる作品だと思います。CSLには「研究参考図書」として買った『ドラえもん』が全巻揃っていました(笑)。
──最後に、暦本研究室に将来入りたいと思うような大学1年生にお薦めするSF小説を教えてください。
本当に時代を超えてすごいと思うのは『ソラリス』です。単なるギミックとしてのSFではなく、人間について、ものすごく大きなスケールで考える視点を与えてくれる。SFというジャンルにもそういう小説があるんだよということは、伝えたいですね。国語の先生にも納得してもらえるのではないでしょうか。
◆書籍概要
監修・編:大澤博隆
編:宮本道人、宮本裕人
監修:西條玲奈、福地健太郎、長谷敏司
出版社:早川書房
発売日:2024年4月24日
本体価格:1060円(税抜)
◆監修者・編者略歴
大澤博隆(おおさわ・ひろたか)
「AIxSFプロジェクト」主宰、慶應義塾大学理工学部准教授、筑波大学客員准教授、慶應SFセンター所長、日本SF作家クラブ第21代会長。博士(工学)。専門はヒューマンエージェントインタラクション。
宮本道人(みやもと・どうじん)
空想科学コミュニケーター。北海道大学CoSTEP特任助教、東京大学VRセンター客員研究員。博士(理学)。著書に『古びた未来をどう壊す?』、編著に『SF思考』、『SFプロトタイピング』など。
宮本裕人(みやもと・ゆうと)
フリーランスの編集者・ライター・翻訳家。ミスフィッツ(はみ出し者)のストーリーを伝える出版スタジオ「Troublemakers Publishing」としても活動中。
西條玲奈(さいじょう・れいな)
哲学者。東京電機大学工学部人間科学系列助教。博士(文学)。専門は分析哲学、フェミニスト哲学、ロボット倫理。共著に『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ――私と社会と衣服の関係』など。
福地健太郎(ふくち・けんたろう)
明治大学総合数理学部教授。博士(理学)。情報処理学会会誌『情報処理』副編集長。専門はインタラクティブメディア、ユーザーインタフェース、エンタテインメント応用など。
長谷敏司(はせ・さとし)
小説家。関西大学卒。代表作に『BEATLESS』(2018年アニメ放映)、『My Humanity』(第35回日本SF大賞)、『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(第54回星雲賞[日本長編部門]および第44回日本SF大賞)。