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「令和のデビュー作五傑」に入ることは間違いない。『サーキット・スイッチャー』解説

安野貴博さんの『サーキット・スイッチャー』が発売! 完全自動運転車が人質を爆弾を載せて首都高を占拠する事件を描く令和最新のAIサスペンス「エンタメ要素の全てを網羅」by小島秀夫監督、「これは数年後のあなたが直面するミステリ」by斜線堂有紀さん、と各所から大絶賛!

発売を記念して、ライターの吉田大助さんによる解説を公開します。

『サーキット・スイッチャー』(ハヤカワ文庫JA)

『サーキット・スイッチャー』解説 吉田大助  

  作家取材や書評を主な仕事としてきた人間として、近年のエンターテインメイト系公募小説新人賞の受賞作には洗いざらい目を通してきた。第九回ハヤカワSFコンテスト優秀賞を二〇二二年に受賞した『サーキット・スイッチャー』は、「令和のデビュー作五傑」に入ることは間違いない。令和がどんなに長く続こうとも、その枠から振るい落とされることはないだろう。

 著者の安野貴博は、AI研究で知られる東京大学松尾研究室出身、未踏スーパークリエータに認定された現役のソフトウェアエンジニアだ。二〇二三年春に首相官邸で開催された生成AIに関するヒアリングでは、AI機器によって自分の声を首相の声に変換するデモンストレーションを行ない、多くのメディアに取り上げられた。また、ベンチャー企業の共同経営者という肩書きも持つ。『サーキット・スイッチャー』には、そうした職能がいかんなく発揮されている。

 目が覚めると完全自動運転を続ける自分の車の中にいた。体は拘束されており、向かいの座席にはスーツ姿の見知らぬ男がいた──。ぐいっ、と問答無用で物語世界に引き摺り込むオープニングだ。

 舞台は二〇二九年の東京。主人公の坂本義晴は、完全自動運転のアルゴリズムの開発者であり、自身が創業したサイモン・テクノロジーズ社の社長だ。職を失った元ドライバーから怒声を浴びせられる……というエピソードが悪夢の一日の幕開けに配置され、AIによる完全自動運転が普及した時代背景がデッサンされていく。と同時に、ちまたでよく言う「AIが職を奪う」論が、本作の主眼ではないことが暗示される。

 坂本は重度の対人恐怖症を患っているため、仕事は全て自動運転中の車内において一人きりで行なっている。この日も「仕事場」でソースコードを書いていたが、突然車が停止し、見知らぬ男が乗り込んできた。意識喪失から復活したのち、「私のことは『ムカッラフ』とでも呼んでください」「イスラム教において、義務と責任ある者──という意味です」と告げる男の説明で、坂本は現状を理解する。これは、カージャックだ。

 そこからいきなり、ハサミで髪を切られる。ヘルメット型の嘘発見器をかぶせる際、センサーの感度を上げるための処置だったのだが、説明が後に来ることで生理的な恐怖を倍増させている。嘘をつけば、あるいは指示に反発すれば、両足につけられた結束バンドから強烈な電流が走る。触覚、痛覚と、五感に広くアピールすることで、主人公と読者の共感の回路を太くすることに成功している。

 首都高を走行中の車はやがて、外部からの通信を遮断する自閉状態スタンドアロンとなる。異常のシグナルを受け取った業界最大手の自動車メーカー・マツキ自動車の関係者、自動車事故に巻き込まれ車椅子ユーザーとなった安藤太一警部補ら警察組織の面々、大手動画配信サイトの日本側の責任者・岸田マリ。多視点をスイッチする形式で、カージャック事件を取り巻く状況の不可解さと深刻さが立体的に表現されていく。車には、爆弾が搭載されていた。車中の様子はインターネットで生中継され、犯人は顔すら隠していない。外部に向けて犯人が発信した、爆発する条件は三つ。

〈その一、他の車両が半径二キロメートル以内に近づいてきたら爆発する。/その二、この車両の時速が九十キロメートルを継続的に下回ったら爆発する。/その三、全ての動画配信が停止されたら爆発する。〉

 犯罪的にもエンジニア視点からも、エンターテインメント的観点から見ても、この三つのルールが、いかに研ぎ澄まされたものであったか。読み進めるうちに三つのルールの凄みがどんどん増していくのだが、要は横槍を入れるなということだ。ムカッラフは言う、「いまから、サイモン社の坂本義晴社長に、隠していることを洗いざらい明らかにしてもらいたいと思います」。第一章のラスト一行は鮮烈だ。「私は今日、坂本社長が殺人犯であることを証明します」。

 この一言を皮切りに、衆人環視のもと、死と隣り合わせの問答が始まる。先の見えない状態が持続するサスペンスから、謎の真相に迫るミステリへとジャンルが大きくシフトチェンジしている。坂本は自動運転アルゴリズムに関する己の罪の告白を強いられるのだが、面白いのは、本人は心当たりが全くないということだ。この男はいったい何者なのか。どんな罪を告白させようとしているのか?

 すれ違う問答を重ねる過程で支配・非支配関係が徐々に変化し、一種のバディものとなっていく展開もスリリングだ。ムカッラフが提供した特別な情報や独自の着想と、車中でパソコンを叩く坂本のプログラミング能力が組み合わさって、とある事実が白日のものとなっていくのだ。そこで、新たな謎が立ち現れる。謎が謎を呼ぶ、とはこのことだ。

 劇場型犯罪を追う一員に、機械音痴の刑事と動画配信会社のトップというコンビを採用したことで、生徒と教師の関係が発生し、専門知識が無理なく盛り込まれている点も素晴らしい。情報技術のリテラシーを高めることで、犯人の知能の高さとカージャックされた状況の深刻さがより実感できるようになる。もちろん、単なる状況説明係ではなく、この二人が行動したからこそカージャック事件の捜査は劇的に進展する。車内の事情と外部の事情とが混じり合い、やがて──。ハリウッド級のカーアクションが勃発する。

 状況設定自体は比較的シンプルなのだ。しかし、数十ページごとに謎やジャンルがガラッガラッと変わる。内包している社会問題の多様さにも驚かされた。例えば、日本のエンターテインメント小説でムスリムが登場することはごく稀だ。本作においては忘れがたい強度で登場し、コロナ禍で注目を集めた「イスラム教と科学」の問題(イスラム教国は非科学的思考による反ワクチン運動がごく少なかった)にも新鮮な角度からアプローチしている。

 先行の物語をアップデートする意思も、物語のはしばしから感じられる。本作の着想の源にあるのはハリウッド映画の『スピード』、および日本映画の『新幹線大爆破』にあることは明らかだが、実はこの二作は犯人の動機面のドラマを掘り下げていない。逆恨みとカネ、でさらっと終わりにしている。そこは軽く触れる程度で抑えるかわりに、暴走する乗り物の制御や犯人の逮捕というアクション面に想像力と時間を割いて、エンターテインメントとしての総合値を高めているのだ。本作は違う。本作が最もこだわっているポイントは、犯人の動機にある。それは二〇二九年の未来社会を舞台に据え、独自の想像を膨らませたから表現することができた、今まで誰も書かなかった種類の絶望だ。

 本作の何よりの美点は、絶望のその先を描き出している点にある。

 アメリカであれば九・一一以降、日本においては三・一一以降に、SFジャンルの内外でディストピアものがどっと溢れ出した。その想像力の根幹にあるのは現代社会の戯画化であり、現代の科学技術や現代人の価値観が進展していった先にあるネガティブな未来像を描くことで、つまりは「この現実こそがディストピアであ(り得)る」という絶望の表現だ。しかし、「この現実こそがディストピアであ(り得)る」ことはもはや、周知の事実なのではないだろうか? むしろ希望を表現することこそが今、作家に求められている想像力ではないか。

 二〇一七年に米国のファンタジー作家アレクサンドラ・ローランドが提唱した、「ホープパンク」という概念がヒントになるかもしれない。端的に言えば、この概念は世に溢れるディストピアものへの反発として生まれた。SF評論家の橋本輝幸は〈残酷な現実を乗り越えるため、共闘する〉〈あきらめずにまっとうさや優しさを貫く姿勢、それがホープパンクだ〉と記している(「SFマガジン」二〇二二年二月号掲載「ホープパンクの誕生──なぜ抵抗が希望なのか」)。

 もっとシンプルに、日本SF黎明期を牽引したレジェンド・小松左京の言葉を引けばいいのかもしれない。「SFとは希望である」(『SF魂』〔新潮選書〕より)。歴史を振り返ってみればSFは本来、より良い未来を描き出すジャンルなのだ。

 それを、どのような質のものとして表現するかも重要だ。実のところ、結末部で主人公がやけっぱちの希望を抱くことによって幕を閉じる、というタイプの物語は少なくない。そのような主観で始まり主観で終わる希望ではなく、反証可能性にさらされた科学的かつ論理的な、リスクや絶望を十二分に踏まえたうえでの希望を描く。そこにこそSFの真髄が宿る、とも思うのだ。

 AIという現代最先端のサイエンスに精通しながら、古き良きSFジャンルの血を自覚的に受け継いだ著者は、デビュー作でその高いハードルを見事にクリアしてみせた。それは一度きりの偶然ではなかったことが、デビュー後にさまざまな媒体で発表した短篇や、デビュー前の幻の短篇(第六回日経星新一賞優秀賞受賞の「コンティニュアス・ インテグレーション」)などから見て取れる。中でも一読をお勧めしたいのは、日本SF作家クラブによるアンソロジー『2084年のSF』(ハヤカワ文庫JA)に収録された短篇「フリーフォール」だ。思考加速技術が発展した未来社会を生きる主人公が、絶対的な絶望の最中で見出したかすかな希望に賭ける──絶望を回避する可能性は数値にしてわずか三パーセント──という展開には、この作家らしさがみなぎっている。

 SFにしてミステリにして、希望の物語。安野貴博の『サーキット・スイッチャー』は、日本のエンターテインメント小説界における「令和のデビュー作五傑」に入ることは間違いない。令和がどんなに長く続こうとも、その枠から振るい落とされることは、ない。



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