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持続可能で、無理のない、静かで、まっとうで、身の丈にあった生活の大切さ──『羊飼いの想い イギリス湖水地方のこれまでとこれから』訳者あとがき(濱野大道)


600年以上続く羊飼いの家系に生まれ、名門オックスフォード大学を卒業した作家/羊飼いであるジェイムズ・リーバンクスが、その故郷イギリス湖水地方の美しい自然の姿を描きつつ、持続可能な方式の農業・牧畜・生活のため奮闘を続けるさまを綴った世界的ベストセラー『羊飼いの想い イギリス湖水地方のこれまでとこれから』が本日発売しました。
本書の翻訳は前作『羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季』に引き続き、濱野大道さんにご担当いただきました。
今回の記事では、ジェイムズ・リーバンクスが描き出す作品の魅力と価値を知り尽くした濱野さんによる「訳者あとがき」を特別公開いたします。


ジェイムズ・リーバンクス[著]濱野大道[訳『羊飼いの想い イギリス湖水地方のこれまでとこれから』(四六判・上製)/刊行日:2023年3月23日(電子版同時配信)/定価:2,750円(10%税込)/ブックデザイン:田中久子/カバー写真:©James Rebanks/ISBN:9784152102218
ジェイムズ・リーバンクス[著]濱野大道[訳]
『羊飼いの想い イギリス湖水地方のこれまでとこれから』(四六判・上製)
刊行日:2023年3月23日(電子版同時配信)
定価:2,750円(10%税込)
ブックデザイン:田中久子
カバー写真:©James Rebanks
ISBN:9784152102218


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訳者あとがき


「50年後にも読み継がれているだろう革新的な作品」
──ジュリア・ブラッドベリー(英国のジャーナリスト、テレビ司会者)

 本書は、イギリス湖水地方で農場を営む羊飼い作家ジェイムズ・リーバンクスの最新作 English Pastoral: An Inheritance の全訳です。リーバンクスが自身の半生と羊飼いの日々の生活を描いたデビュー作『羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季』は2015年にイギリスで発売された直後から大きな話題を呼び、英国内でベストセラーとなっただけでなく、16カ国語に翻訳されて世界各国で出版された。リーバンクスはイングランド北部の湖水地方の農場で生まれ育ち、のちに実家を離れてオックスフォード大学に進学、ユネスコのアドバイザーなどを兼業しつつファーマーとして仕事を続ける異色の経歴を持つ羊飼い/作家である。デビュー作の手記がベストセラーとなったことで、彼は一躍イギリス(おそらく世界)でもっとも有名で、もっともツイッターのフォロワー数が多い羊飼いになった。著者のツイッター(@herdyshepherd1)の現在のフォロワー数は16万人近くにのぼる。

 第2作目の長篇となる今作『羊飼いの想い イギリス湖水地方のこれまでとこれから』は2020年秋に本国イギリスで発売されると瞬く間にベストセラーとなり、リーバンクスは正真正銘の人気作家であることをみずから証明した。イギリス版アマゾンにおける評価の件数は1700を超え、平均4.7というきわめて高い評価を受けている。また、新聞各紙が発表する2020年の「ブック・オブ・ザ・イヤー」の一冊にも選出された。アメリカでは翌年に Pastoral Song:A Farmer’s Journey というタイトルで発売された。著者のツイートなどによると、日本にくわえてオランダやフランスなどですでに翻訳出版され、今後もノルウェー語、デンマーク語、中国語、韓国語などに翻訳される予定だという。

 2021年に本書は、自然をテーマとした作品が対象となるウェインライト賞(英国ネイチャーライティング部門)を受賞した。審査委員長を務めたジュリア・ブラッドベリーは「50年後にも読み継がれているだろう革新的な作品」と激賞した。また同年には、政治をテーマとした作品に贈られるオーウェル賞(ポリティカル・ライティング部門)の最終候補にも残った。自然と政治系の両方の賞にノミネートされたのを不思議に感じる方もいるかもしれないが、それこそが『羊飼いの想い』の最大の特徴であり魅力だといっていい。この作品は、前作と同じように著者の農場での生活や家族史を描きつつも、同時に「持続可能な農業」とは何かという世界に共通する壮大な環境問題に迫る意欲作なのである。

 前作『羊飼いの暮らし』は、「夏」「秋」「冬」「春」という季節ごとの農場の移り変わりを縦糸、「家族史」を横糸として織り込みながら物語を進める構成だった。今作では「家族史」という横糸はそのままに、農耕牧畜の過去から現在への変遷、そして未来への展望が縦糸として織り込まれている。前作が湖水地方の季節をたどる物語だとすれば、今作は農耕牧畜の過去、現在、未来をたどる時間と継承の物語だといっていい。第1章の「郷愁ノスタルジア」では、おもに祖父が中心となって湖水地方のフェル・ファームとイーデン・ヴァレーの借り農場を家族で運営していた著者の子ども時代の様子が語られる。第2章の「進歩プログレス」では、祖父亡きあとに父親が農場を引き継ぎ、借金苦から脱出するために殺虫剤と化学肥料を活用して規模を拡大し、それを失敗だと考えるに至るまでの過程が描かれる。この時代のイギリスでは大規模な集約農業が急成長し、農業の著しい工業化が進んだ。第3章の「理想郷ユートピア」は、父親が亡くなり著者が農場を継いだ前後の過程、そして農耕牧畜の未来予想図を示す最終章である。現在リーバンクスは河川保護団体と手を組み、農薬の使用をほぼ取りやめ、小川をむかしの姿へと復活させ、農場全体をより自然の姿に戻す試みを続けている。本書を構成する3章はそれぞれがファーミングの過去、現在、未来の時間旅行の物語であり、イギリス版の副題 An Inheritance が示すとおり、祖父、父、著者、子どもたち四代のファーマーの継承の物語である。

 全体的に無駄がなく、描写が美しく詩的でありながらもてらいがなく、冷静かつ理知的な筆致がこの著者の文章の特徴だ。また、章ごとに世代が移り変わっていくストーリーテリングの構成は見事としか言いようがない。小さな農場の日々の様子を描きながらも、それを大きな社会問題へと落とし込んで読者を惹き込む手法が鮮やかかつ卓越している。また、もはやリーバンクスの代名詞といっていい美しく圧倒的な自然描写には、今回も多くの読者が心を大きく揺さぶられるはずだ。前作よりも文章や構成はさらに洗練されてシンプルになり、著者はむずかしい単語の利用をほぼ排除し、眼前の自然や動物の姿をありのままに描こうとする。

 前述のように、今作は羊飼いとしての手記と家族史であると同時に、農業の工業化や環境問題に関するポピュラー・サイエンスや社会派ノンフィクションとしての側面も強い。日々の農場の様子や自然の描写では美しい文学的な表現が使われる一方で、畜産の近代化や生態系保護の説明に用いられる表現はじつに実用的で現実的である。このふたつの異なる文体が違和感なく融合しているのは、この著者だからこそ実現可能な唯一無二の筆致だといっていい。

 本作の校正作業中に改めて読んでみて個人的に驚かされたのは、農耕牧畜と家族の長い歴史について描かれているにもかかわらず、2001年の口蹄疫などの未曽有の出来事をのぞき、年代を特定するような数字がほとんど出てこないという点だ。前作同様、過去の話だからといってかならずしも過去形が使われているわけでもなく、時間軸は縦横無尽に行き来し、過去形と現在形の文章が意図的かつ複雑に絡み合う。あたかも過去、現在、未来は、永久とわに続く農場の歴史の一部であり、細かな年代や数字には意味などないといわんばかりだ。

 著者のリーバンクスは本書をとおして一貫してこう訴える。大企業とスーパーマーケットが中心に据えられた現在の大量消費主義を見直し、いまこそ持続可能な農業へと立ち返り、イギリスの田園風景を守るべきだ──。イギリスと日本の農業事情や食糧自給率は異なるため、本書の説明が一概に日本に当てはまるとはかぎらない。だとしても、彼の文章に驚くべき説得力があるのは、これが農業のみの範疇に収まる話ではないからにちがいない。本書を読んでいると、農業が世界最古の「仕事」であるだけでなく、農耕牧畜による食糧生産は人間社会の基礎であり、社会そのものが農業を映す鏡のような存在であることがわかる。農耕牧畜について考えることは、人類のこれまでの歩みや未来について考えることでもあり、すべての社会に通底する数々の教訓が本書には含まれている。今作で使われている「農業」「ファーミング」という言葉は、「社会」「共同体」などに置き換えて読むこともできるはずだ。著者はたびたび、今後の農業に必要なのは多様性なのだと訴える。殺虫剤や化学肥料に過度に頼らずに生き残るために必要なのは、生物および植物の多様性がある場所なのだ、と。大量生産された安価な市販品に頼らない、持続可能で、無理のない、静かで、まっとうで、身の丈にあった生活を送ることが大切なのだ、と。私の耳には、それはあたかも現代の社会全体への警鐘であるように聞こえた。読んで感動する本は数多くあるとしても、「50年後にも読み継がれているだろう革新的な作品」に出会うことはそうそうないはずだ。なぜこの本が将来にわたって読み継がれるべき、、、、、、、、なのか、ぜひ読者のみなさんもご自身でたしかめてみてほしい。

 2023年2月


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◆書籍概要

『羊飼いの想い イギリス湖水地方のこれまでとこれから』
著者: ジェイムズ・リーバンクス
訳者: 濱野大道
出版社:早川書房
本体価格:2,500円
発売日:2023年3月23日

◆著者紹介

ジェイムズ・リーバンクス(James Rebanks)
1974年生まれ。イギリス湖水地方の東部に暮らす羊飼い。オックスフォード大学卒業。2015年に発表した初の著書『羊飼いの暮らし』(早川書房刊)は《サンデー・タイムズ》紙のNo.1ベストセラーとなり、《ニューヨーク・タイムズ》紙などでも絶賛された。本書も多数の有力紙誌からの激賞を受けたほか、2021年のウェインライト賞(英国ネイチャーライティング部門)を受賞。Twitterアカウント @herdyshepherd1 のフォロワーは現在約16万人。

◆訳者紹介

濱野大道(はまの・ひろみち)
翻訳家。ロンドン大学・東洋アフリカ学院(SOAS)タイ語・韓国語学科卒業、同大学院タイ文学専攻修了。主な訳書にリーバンクス『羊飼いの暮らし』、ロイド・パリー『津波の霊たち』(以上早川書房刊)、グラッドウェル『トーキング・トゥ・ストレンジャーズ』などがある。