リラとわたし_帯

日経新聞、朝日新聞にて紹介! ひりひりする嫉妬まじりの憧れと友情。世界中の女性が夢中になっている『リラとわたし ナポリの物語1』公開vol.1

ナポリ出身の謎の覆面作家によって書かれた『リラとわたし ナポリの物語1』。ヒラリー・クリントン、グウィネス・パルトロー、ジュンパ・ラヒリといった女性著名人をはじめとした世界中の女性の心を掴み、全世界で累計550万部を突破した本書は、早川書房の社員が6月に欧州へ出張にいった際も、行く先々で話題となり本書について語る女性たちの熱量に驚いたといいます。

早川書房でも5月から読者モニターさんを募集したところ、「まるで自分のことが描かれているよう」「はやく続きが読みたくてたまらない」など多くの感想が寄せられました。

実は、『リラとわたし』というタイトルも、当初は原題を直訳した『私の賢いお友だち』という仮題だったのですが、読者モニターさんからの案を採用して現在のタイトルとなりました。

本好きで真面目な「わたし」ことエレナと、奔放で誰よりも頭の切れるリラの生涯にわたる友情を描いた本作。

ぜひ皆さまも、自分にとってのリラを思い浮かべながらご一読くださいませ。


序章  痕跡を消す

1

 今朝、リーノから電話があった。また金の無心かとすぐに断るつもりでいたら、別の用だった。母親がどこにもいないという。
「いつからなの?」
「二週間前から」
「それで今ごろ電話してくるなんて、どういうこと?」
 わたしの声はとげとげしく響いたようだ。実のところ腹立たしくもなんともなく、軽く皮肉を言ってみただけなのだが。リーノは何やら反論しようとしてしどろもどろになり、母親はいつものようにナポリのどこかをうろついているだけだと思っていたと、方言と標準語をごちゃ混ぜにして答えた。
「夜もうろついているって言うの?」
「あのひとが普通じゃないのは知ってるだろ?」
「もちろん。でも二週間も帰らないなんて、いくらなんでも変でしょ?」
「そうでもないんだ。ずいぶんと会ってないだろうから、わからないかもしれないけど、前よりひどいよ。まるで眠れないらしい。夜だって家を出たり入ったり、やりたい放題だ」
 それでも最後にはリーノも母親が心配になった。みんなに行方を尋ねて回り、病院を巡り、警察にも行ってみた。だが手がかりはなく、母親は見つからなかったという。なんという孝行息子だろう。図体ばかり大きな四十男。まともに働いたことなど一度もなく、怪しげな取引と浪費しか知らぬ放蕩息子だ。探したと言っても、どうせいい加減なものに違いなかった。頭は空っぽで、そもそも自分のこと以外、関心の持てない男なのだ。
「本当はそっちにいるんじゃないか?」リーノは突然、言った。
 彼女がここ、トリノにいる? リーノはそんな訳がないのを重々承知で、言ってみただけなのだろう。旅行好きなのはむしろ息子の彼のほうだ。少なくとも十回は、誰も呼んじゃいないのに、うちに来ている。母親が来てくれるものなら大歓迎だが、彼女は生まれてこの方、ナポリを出たことがない。
わたしは答えた。
「いないわよ」
「本当に?」
「あんたくどいね。いないと言ったらいないの」
「じゃあ、どこ行ったんだろう」
 リーノが泣きだした。わたしは彼のお芝居を止めなかった。嘘泣きがやがて本物の涙に変わり、泣きやむのを待ってから、わたしは言った。
「お願いだから、今度だけは彼女の思いどおりにさせてあげて。そう、探しちゃ駄目」
「何言ってんだよ?」
「お聞きのとおりですよ。探すだけ無駄なんだから。あんたもひとりで生きてみなさい。これからはわたしのことももう当てにしないで」
 わたしは電話を切った。

2
 リーノの母親はラッファエッラ・チェルッロという名だが、みんなは昔からリナと呼んでいる。ただわたしは違う。どちらの名で呼んだこともない。六十年以上前からずっとリラだ。いきなりわたしにリナとか、ラッファエッラなんて呼ばれたら、リラはきっと、わたしたちふたりの友情が終わったと思うはずだ。
 少なくとも三十年は前からリラはわたしに、跡形もなく姿を消したいと言っていた。その言葉の意味をよく知っているのはわたしだけだ。リラに失踪するつもりはなかった。身分を偽って生きるつもりもなければ、どこか遠い場所で人生をやり直すつもりもなかった。自殺を考えるはずもない。リーノに自分の亡骸の世話をしてもらうなんてぞっとするといつも言っていたのだから。彼女はもっと別のやり方を望んでいた。消滅だ。すべての細胞を消滅させ、跡形もなく消え去りたい、リラはそう願っていた。わたしは彼女をよく知っている。少なくともそう信じている。だから自然とこう思える。リラはきっと、この世界のどこにも、髪の毛一本残さず消える方法を見つけたのだろうと。

3
 それから幾日も過ぎた。わたしは電子メールをチェックし、郵便受けも確認したが、期待はしていなかった。わたしはよくリラへ手紙を書いたが、彼女はまず返事をくれない。それが昔からのふたりの習慣だったからだ。むしろ電話か、わたしがナポリに行った時、夜通しおしゃべりするほうが彼女は好きだった。
 家の引き出しをひとつひとつ調べ、雑多なものをしまっておいた金属製の箱もみんな調べた。たいした量ではなかった。わたしはこれまでにずいぶんと色々なものを捨ててきた。なかでもリラに関するものは率先して捨てた。彼女もそのことは知っている。実際、何もなかった。彼女の写真一枚なかった。挨拶のカードも、ちょっとした贈り物すらなかった。自分でも驚いた。これだけ長いつきあいだというのに、リラは思い出になるようなものをわたしに何もくれなかったのだろうか。それともひょっとして、わたしのほうがそうしたものを何ひとつ大切にせずに来てしまったのだろうか。あり得る話だった。
 わたしはリーノに電話した。嫌だが仕方なかった。家の電話にも、携帯電話にも出なかった。夜になってようやく向こうからかけてきた。その声にはこちらの同情を買おうとする気配があった。
「電話くれたみたいだね。何かわかった?」
「いいえ。そっちはどう?」
「まるで駄目だ」
 それからリーノは支離滅裂な話を始めた。俺、テレビに出て、尋ね人を探す番組で呼びかけたいんだ。ママにこれまでの一切合切について許しを請う。そして、帰ってきてくれと頼むつもりだ。
 辛抱強く耳を傾けてから、わたしはひとつ尋ねた。
「彼女の部屋のタンスは見た?」
「なんのために?」
 当然、リーノは真っ先にすべきことをしていなかった。
「いいから見てきて」
 そしてリーノはタンスの中に何もないことを知る。母親の服は夏服も冬服も一着もなく、おんぼろのハンガーがあるばかりだった。わたしは次に家中を調べさせた。靴もすべて消えていた。元々わずかだった本が一冊もなかった。写真もビデオもすべて消えていた。愛用のコンピューターもなければ、昔の古い磁気ディスクもなく、電脳魔女であったリラの人生を示すものは何ひとつ残されていなかった。彼女は六〇年代の終わりにはもうコンピューターを使いこなしていた。パンチカードの時代だ。呆然としているリーノにわたしは言った。
「急がなくていいから、もっと探してみて。それからまた電話をちょうだい。そして針一本でも彼女のものが見つかったら教えて」
 翌日、リーノから電話があった。ひどく動揺していた。
「何もないんだよ」
「本当に何ひとつ?」
「ああ。俺と一緒に写った写真もみんな、ママの部分だけ切り抜いてあった。俺が小さかった時の写真までだよ」
「よく探したんでしょうね」
「隅々まで探したよ」
「地下室も?」
「もちろん。書類の入っていた箱もなくなってた。ほら、昔の出生証明書とか、電話回線の契約書とか、振り込みの証書とかさ。どうなってんだ? 誰かがみんな盗んだのか? だとしたら、何が狙いなんだ? 俺とママをどうしようって言うんだ?」
 わたしはリーノに安心するように言った。そもそも彼の何かをほしがる人間などいようはずもない。
「しばらくそっちに厄介になってもいいかな?」
「駄目」
「頼むよ、まるで眠れないんだ」
「自分でなんとかなさい、リーノ。わたしにはどうしようもないわ」
 わたしは電話を切った。リーノはかけなおしてきたが、出なかった。それから机に向かった。
 まったくリラらしい。わたしは思った。彼女、また大げさにやるつもりなんだ。
 リラは痕跡という概念を限りなく拡大しようとしていた。六十六歳の今の自分が姿を消すだけでは事足りず、過去の人生のすべてをかき消そうとしていたのだ。
 わたしは無性に腹が立ってきた。
 今度は負けないわ、見ていなさい。わたしは心でそうつぶやくと、コンピューターを起動し、わたしたちふたりの物語を記憶の限り、何もかも詳細に記していった。

幼年期  ドン・アキッレの物語

1
 リラとわたしは、ふたりで一緒に真っ暗な階段を一段また一段と上り、踊り場から踊り場へと上って、ドン・アキッレの部屋まで行こうと覚悟した時から、親友になった。
 団地の中庭を紫がかった光が包み、春の生暖かい夕べのにおいがしていたのを覚えている。母親たちは夕餉の支度の最中で、子どもは家に帰るべき時刻だったが、リラとわたしは外に留まり、互いに口は利かず、どちらが勇敢かを競いあっていた。いつからか、学校でもどこでも、わたしたちは肝試しばかりをするようになっていた。リラがどぶの蓋に開いた黒い口に手を入れ、腕を丸ごと突っこめば、わたしもすぐにそうした。ゴキブリが腕を登ってこないか、鼠に噛まれやしないかと胸はどきどきだった。リラがアパートの一階にあるスパニュオロ夫人の部屋の窓によじ登り、干し物のロープをかける鉄棒にぶら下がって、体を揺らし、歩道に飛び降りれば、落ちて怪我をするんじゃないかと心配だったけど、わたしもすぐに真似をした。リラがいつだか道で拾い、妖精にもらった贈り物ででもあるかのように大切にポケットにしまっていた錆びた安全ピンをわざと自分の皮膚に刺した時も、金属の尖った先端が彼女の手のひらに白っぽいトンネルを掘るのをわたしは見届けた。そして彼女がピンを抜き、こちらに寄こせば、やはり真似をした。
 やがてリラは目を細め、あの独特な据わった目つきでわたしを見やると、ドン・アキッレの住んでいた棟へと向かった。わたしは恐ろしさに血も凍る思いだった。ドン・アキッレは童話に出てくる人食い鬼だった。近づくことも口を利くことも決して許されず、まともに見ることはもちろん、こっそり見ることさえ、わたしは禁じられていた。彼もその家族もまるで存在しないかのように振る舞えと言われていた。我が家に限らず、ドン・アキッレはみんなから恐れられ、憎まれていた。ただ、そうした感情がどこから生まれたものか、当時のわたしにはまだわからなかった。父さんがドン・アキッレのことをあんまり恐ろしげに話すものだから、わたしのなかで彼は、落ちついた偉いひとを思わせる「ドン」という敬称にもかかわらず、凶暴な存在に膨れ上がっていた。とにかく大きくて、不気味な紫色のできものだらけで、鉄やらガラスやらイラクサやら訳のわからないものでできている。そのくせ生きていて、やたらと熱い息を鼻と口から吐き出す怪物だ。遠くからちらりと見ただけで、ドン・アキッレはわたしの目に何か鋭く、ひりひりするものを投げつけてくるだろう。そう信じていた。彼の部屋のドアに近づくなんて馬鹿なことをすれば、殺されてしまうはずだった。
 リラが考えを変えて戻ってくるのを期待して、わたしは少し待った。彼女の考えはわかっていた。あのことは忘れてくれやしないかと祈っていたが、やはり無駄だったようだ。街灯はまだ点かず、階段の照明も点いていなかった。家々からは母親たちの苛ついた呼び声が聞こえていた。リラを追うならば、夕闇に青みがかった中庭を去り、アパートの暗い扉の中に入っていかねばならなかった。ついに決心して扉をくぐると、最初は何も見えず、やたらとかび臭くて、殺虫剤のにおいがするばかりだった。目が暗がりに慣れると、階段の一段目に腰かけるリラの姿が見えた。彼女は立ち上がり、わたしたちは階段を上り始めた。
 わたしたちは壁側に身を寄せて階段を上っていった。リラが二段前だ。二段遅れて進むわたしは、彼女との距離を縮めたものか、広がるに任せたものかと迷っていた。よく覚えているのは、ぼろぼろの壁にこすれる肩の感触、そして、自分の棟に比べて階段の一段一段がやけに高いという印象だ。体が震えていた。耳に入る足音とひとの声はどれもドン・アキッレのそれに思えた。後ろから、あるいは前から、ドン・アキッレが近づいてくるのではないか。その手には、雌鶏の胸を開くあの長いナイフが握られているのではないか。揚げたニンニクのにおいが漂っていた。ドン・アキッレの妻、マリアが油の煮えたぎるフライパンにわたしを入れるつもりなのだ。ドン・アキッレの息子たちに食べられてしまう。うちの父さんが小魚を食べる時みたいに、ドン・アキッレはわたしの頭の中身を吸うのだろう。
 わたしたちは何度も足を止めた。そのたびわたしはリラが撤退を決めてはくれぬものかと期待した。わたしは汗まみれだった。彼女のほうはどうだったかしれない。リラは時々上を見上げるそぶりを見せたが、何を見ていたのかわたしにはわからなかった。踊り場ごとにある窓の灰色のシルエットぐらいしか見えなかったからだ。階段の照明がいきなり点いた。ただし埃っぽく頼りない明かりで、危うげな影に包まれた部分も多く残された。わたしたちは警戒した。スイッチを入れたのはドン・アキッレかもしれないと思ったのだ。でも物音ひとつしなかった。足音もなく、どこかでドアが開閉する音もなかった。そこでリラはまた上りだし、わたしもあとに続いた。
 リラには正しいこと、やるべきことをしているという自負があった。わたしのほうはそうした理屈はすっかり忘れ、彼女が一緒だったからどうにか踏ん張っていただけだ。ふたりはゆっくりと上っていった。当時何よりも恐れていた存在に向かって。わたしたちは怪物の前に身をさらし、あることを問い質すつもりだった。
 二階に着いたところでリラは思いがけぬ行動に出た。わたしが追いつくのを待ち、手をつないでくれたのだ。彼女の差し出した手はふたりの関係を永久に一変させた。


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エレナ・フェッランテ
飯田亮介・訳
本体価格:2,100円