そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第27章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。

本日は第27章を公開。

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『そして夜は甦る』(原尞)

27

 成城の向坂晃司邸は、二十一世紀の未来都市の住宅のようにも見えるし、十九世紀のヨーロッパの監獄のようにも見える、石造りの大きな建物だった。日本よりも外国での評価が高い、有名な建築家が設計したものだそうだ。夕方の渋滞気味の甲州街道と環八通りのお蔭で、神谷惣一郎のシルバーグレーの4ドアのジャガーにあまり離されずに、七時前に向坂邸の駐車場に着いた。停まっている三十数台の車の様子はさながら外車ショーの特別会場で、いちばん目立つのが真ん中の濃いワイン色のロールス・ロイス、次ぎが私の動くスクラップだった。兄の向坂知事はパーティには七時頃から一時間位しかいられなくて、また都庁に戻って公務が残っているという話だった。
 宇宙服か囚人服が似合いそうな、墓石をいくつも積み重ねたような石造りの玄関に立つと、昼間と同じスーツ姿の神谷会長も私も異次元からの迷子のように場違いだった。私たちが前に立っただけで、玄関のドアが音もなく横に開いた。二十才そこそこのタキシード姿の美少年が、いらっしゃいませと挨拶した。テレビの男性化粧品の宣伝で見憶えのある顔だから、晃司氏のプロダクションに所属している俳優なのだろう。私たちが建物の中に入ると、背後でドアが閉まった。
「神谷様ですね? しばらくお待ち下さい」美少年は振り返って、後方にいる誰かを探していた。
 玄関ロビーはちょっとしたホテルなみの広さで、遠く左手の奥にパーティ会場の入口が見えた。そこから、演奏中の明るい音楽と、パーティ客の明るい話し声が流れてきて、明るい照明を浴びた正装の男女が垣間見えた。
 美少年は、正面の石造りの階段の脇で話している二人の男たちのほうに声をかけた。「専務、ちょっと失礼します。東神の神谷会長がお見えになりました」
 二人の男はすぐに話を切り上げた。頭脳労働者か肉体労働者か見分けのつかない、ラフな服装の男が近づいて来た。もう一人の勝新太郎によく似た小柄でがっしりしたタキシード姿の男は、パーティ会場のほうへ去って行った。あるいは本人だったのかも知れない。
「しばらくでした、神谷会長」と、専務と呼ばれた男が挨拶した。「知事と社長が二階でお待ちしています」
「どうも、お邪魔します」神谷会長は私たちを引き合わせた。「こちらは、電話でお話しした沢崎さんです。こちらは向坂プロの専務の滝沢さん」
「ご案内しましょう」と言って、滝沢は正面の石造りの階段へ向かった。二階に上がって、パーティ会場のほぼ真上に当たる方角へ進んだ。その間に、神谷会長が滝沢専務は映画会社に所属していた時代の晃司氏の出演作品の大半を監督した人で、晃司氏が向坂プロを設立したときに、会社を辞めて行動を共にしたのだと教えてくれた。東神電鉄が後援したヨット・レースの撮影も彼が手がけたのだそうだ。滝沢が今夜のパーティは向坂プロの創立十周年とテレビの新番組の発表を兼ねたものだと言った。
 材質の分からない真っ白なドアの前に来ると、滝沢はノックなしでドアを開け、私たちを中へ案内した。その部屋は、設計者が書斎や客間は書斎や客間らしく見えてはいけないという建築哲学を持っているのであれば、間違いなく書斎兼客間だった。不思議な凹凸のある間取りに、不思議な形をした大きなデスクと不思議な色の組み合せの応接セットがあった。デスクの向こうと応接セットのソファに、それぞれ男が一人ずつ坐っていた。彼らは壁の凸面の一つを占領している特大のヴィデオ・スクリーンの映像を見ていた。
 スクリーンには三人の男が映っている。音声はない。彼らは大型の車の屋根につくられた台上に立っている。カメラが中央の人物に近づいて大写しになる。彼は白い手袋をはめた手にマイクを持って、何か熱心に喋っている。名前入りのタスキを肩から斜めに掛けている。演説中の向坂晨哉のようである。急に画面が揺れる。向坂氏の姿が消える。脇に立っていた男の一人が、倒れようとする向坂氏を支えている。もう一人の男がどこかを指差して何やら怒鳴っている。向坂氏を抱きとめている男──弟の晃司氏──が、兄の左の胸部を押さえて何か叫んでいる。その手の周辺が急速に赤く染まっていく。また、画面が激しく揺れる。驚き騒いでいる群衆、走る警官、明かりのついたビルの窓、夕暮れの空などが支離滅裂な感じで映し出される。一台の黒っぽい乗用車が急発進するところが映される。車の窓は何かで着色加工されているらしく、車内はほとんど見えない。車はすぐに画面の外に消え、その車を指差し騒ぐ人たちが映る。また画面が二、三度大きく揺れ、急に途切れて暗くなる──事件当時、テレビのニュースで何度も見せられた映像だった。
 デスクの向こうの男が、遠隔操作でヴィデオのスイッチを切り、私たちのほうへ近づいて来た。たった今見たばかりの画面では、主役を兄に譲って珍しく脇役を演じていた向坂晃司だった。
 映画俳優として成功し、青年実業家として成功し、現在は東京都知事の弟であり、ブレーンの一人であり、近い将来の政界入りは既定の事実であるかのごとく噂されていた。〝俳優は男子一生の仕事にあらず〟というのが彼のお得意の科白だそうだ。新知事の得票数のうち、女性票の五十一パーセントは晃司票であると書いている評論家さえいた。
 彼は神谷会長の前に来ると、その手を取って握手した。身長百八十数センチで、私よりも七、八センチ高く、中背の神谷会長を遙かに見おろしていた。真紅のタキシードの上衣が決して気障に見えず、その下にトレード・マークの長い脚がすらりと伸びていた。
「先日はどうも」と、晃司氏は言って、精悍な顔にスクリーンやブラウン管でお馴染みの笑みを浮かべた。「兄貴はちょっと席をはずしていますが、すぐに現われます……こちらが電話のお話の、渡辺さんという探偵の方ですか」
「いや、ええ、そうですが──」と、神谷会長は口ごもった。
「渡辺探偵事務所の、沢崎です」と、私が訂正した。
「向坂晃司です。よろしく。電話があってから、またあの時のヴィデオを見ていたところです。兄貴がすっかり回復した今でも、あの瞬間を見るとぞっとします」彼は自分の右手を、まだ兄の血に染まっているかのように見おろした。だが、顔を上げたときは再びスターの顔に戻っていた。
「さァ、どうぞこちらへ。専務も一緒に」彼は私たちを応接セットのほうへ案内した。
 そこにいたもう一人の男が立ち上がった。禿げ上がった頭と鋭い眼と分厚い唇が目立つ五十がらみの男で、固太りの身体を地味なダークスーツに包んでいた。今見たばかりのヴィデオで、車上に立っていた三人目の男だった。
「紹介します」と、晃司氏が言った。「副知事の榊原誠氏です。兄貴の入院中は知事代理として任務を代行していただいたので、皆さんもご存知でしょう。知事選のときは選挙参謀として見事な采配ぶりを発揮してもらいました。兄貴の今日があるのも、ひとえに榊原さんのお蔭なのです。こちらは、東神の神谷会長。それから、さっき話した電話の件でおみえになった──」
「沢崎です」と、私が補足した。
 榊原は神谷会長に挨拶した。「お噂はかねがねうかがっています。お父上の惣之助氏には十年ほど前にお眼にかかったことがありますよ」榊原は私に視線を移した。「知事はまもなくおみえになります。それから、お話をうかがいましょう」
 私の記憶を昨夜の新聞記事で補えば、この男は向坂知事と同じ自民党の所謂タカ派に所属し、都議会議員と参議院議員を一期ずつ務めたあと、二年前の〝田中審判選挙〟で東京二区から衆議院に立候補したが僅差で落選していた。向坂氏が知事選出馬を決めるまでは、むしろ保守系推薦の有力候補の一人だったはずだ。政界に入る前は警察に二十年いて、最後は警視副総監の地位に昇っている。さらに〝浅間山荘事件〟の前後にさかのぼると、公安部長の職にあって持ち前のタカ派的手腕を揮っている。だが、私がこの男の名前を最初に耳にしたのは、元パートナーの渡辺の口からだった。渡辺の息子が学生運動で逮捕されたとき、まさに辞表を書いている最中の渡辺に「辞表を書け」と電話で命じてきたのが、公安一課長時代の榊原だったそうだ。安酒場のテレビで、榊原が参議院に当選してダルマに目玉を入れるところを見ながら、渡辺はこいつも出世したもんだなと話しはじめたのだった。
「大変失礼だが、身体検査をさせていただきます」と、榊原が言った。洋服屋が仮縫いをさせてくれと言うくらい平然とした顔つきだった。「こういうことを知事は非常にお嫌いになるが、われわれには東京都民に対する責任があります。あんな事件が起こる以上はやむを得ない措置であることをご理解いただきたい」
 神谷惣一郎は「どうぞ」と答えたが、生まれて初めての体験に戸惑いを隠しきれなかった。榊原は洋服屋が仮縫いをするように手際よく、神谷会長はすばやく、私は念入りに身体検査をすませた。身体と衣服の要所を探りながらも、相手の顔から眼を離さないプロらしいやり方だった。身体検査が終わると、晃司氏のすすめで私たちはソファに腰をおろした。
「実はね、沢崎さん」と、晃司氏が言った。その場の雰囲気を和らげるような笑顔だった。「ぼくは映画会社に所属していた頃に、一匹狼のやけに恰好いい探偵役を演じたことがあるんですが、本物の探偵さんに会うのは今日が初めてなんですよ。考えてみると、まるで経験も知識もない職業の人間を平気な顔で演じるんですから、俳優なんて実にいい加減なものですよ」彼はお得意の男子一生云々の科白を付け加えた。
「あの作品は社長の主演作では不入りのほうでしたね」と、滝沢が言った。「日本では、探偵物と言えば明智君か金田一さんだから仕方がない」
「東宝だったかな」と、晃司氏が言った。「高倉健さんの主演でアメリカの探偵物をやろうとしているが、映画化の権利が取れなくて難航しているとかいう話を聞きましたね」
「そうらしいですね」と、滝沢が相槌を打った。「『初秋』だったかな……ご存知ですか、スペンサーという名前のあなたの同業者を」最後の問いは、私に向けられたものだった。
「いや。阪急のスペンサーなら知っていますが──南海の野村に三冠王を取らせるために八打席連続敬遠された」
「プロ野球と言えば、神谷会長にお訊きしなきゃならない」と、滝沢が言った。「東神がプロの球団経営に乗り出すというのは本当でしょうか。密かに南海やヤクルトを相手に交渉中だという噂ですけど」
 神谷会長は微笑んだ。「いいえ、そんな話はありませんよ。どうぞ、ご安心を」
「また野球の話ですか」と、晃司氏がうんざりしたような声で言った。「野球の話題ならいつも市民権を得ていると考えるような傾向は、ぼくはどうも感心しないな。他にも話題にすべきスポーツは山ほどあるというのに……」
 晃司氏と滝沢の話を聞き流していた榊原が、顔を上げて晃司氏の後方に眼をやった。私たちが入って来たのとは別の、デスクの奥のドアが開いて、向坂知事が入って来た。知事よりは少し年長の、黒い診療鞄のようなものを持ったダブルのスーツの男が一緒だった。
 向坂知事は年齢四十五才、東大卒業後、オックスフォード大学留学中に作家としてデビューし、新文学の旗手と騒がれて文壇で華々しく活躍した。演劇界にも関わって戯曲作家、演出家としても才能を発揮し、弟晃司氏の映画俳優としてのスタートにも手を貸している。三十才で参議院議員に当選して政界入り、二年前には史上最高得票で衆議院に転じて、既に自民党の若手有力者の地位を築きつつあった。今年の夏、革新系の矢内原知事の三選を阻むために議員を辞職し、当初立候補に反対した自民党を脱党して、都知事選に出馬したのだった。外人俳優にも引けを取らない弟の体格に較べるとさすがに一まわり小さいが、百八十センチ近い長身とスマートな容姿は従来の政治家の貧相なイメージを払拭するものだった。容貌は、映画スターは美男スターという当時の常識を破った晃司氏の個性的なマスクに較べても、一枚上の端整で知的な好男子だった。
 向坂知事は私たちのほうへ近づいて来た。脱いだ上衣を小脇に抱え、ワイシャツの袖をまくった二の腕を揉んでいた。
「どうも、皆さん、お待たせしました。椎名先生に退院後の定期検診をしていただいていたものですから……先生の診察では、胸の傷のほうはもう完治しているそうで、あとは何か異常でもない限り検診は不要だということだった」
「それはよかった」と、晃司氏が言った。「これでぼくらも一安心だよ、兄貴」
「胸の傷のほうというと、ほかに何か……?」榊原が椎名と呼ばれた医師と知事の顔を交互に見ながら、訊ねた。
「いや、ご心配なく」と、椎名が答えた。「単なる過労です。あれだけのオペをやれば、知事のように頑健な身体でも術後は相当な体力を消耗しています。加えて、新知事としての大変な激務です。おうかがいすると、執筆のほうも再開されたということですから、過労は当然です。ま、無理な注文をしても聞かない方だから、毎日三十分の余分な睡眠を約束させて、週二回ヴィタミン注射の処方を都庁の医務室宛てに出しておきました」
 向坂知事はワイシャツの袖をおろし、国産では見られない渋い色合いのダークグリーンのスーツの上衣に袖を通した。
「椎名先生は私の診察なんか二の次ぎでお見えになってるんだから、早くパーティ会場にお連れして──。何しろ、人気女優の麗子君のデビュー以来のファンだそうで、今夜は彼女と話ができてサインがもらえるという条件で、こんな所まで診察の出前を引き受けて下さったんだから。晃司、頼むよ」
「都知事の命を奇蹟的に救ったお医者様に会えるというので、彼女も楽しみにしてますよ」晃司氏が椎名に言った。
「私が社長に代わってご案内します」と、滝沢が言って席を立った。「神谷会長や皆さんをお待たせしていますから、お先にどうぞ用件に入って下さい」
 椎名医師は挨拶をすませて、滝沢と一緒に部屋を出た。
 向坂知事は榊原と弟のあいだに席を取ると、まず神谷会長に就任パーティに列席してもらったときの礼を述べた。
「こちらは──」と、晃司氏が口調を改めた。「さっき電話で神谷会長からのお話を説明したときの、探偵さんで──」
「渡辺探偵事務所の、沢崎です」と、私は三度言った。今夜は永久にこれが続くのではないかと思った。
「向坂です、よろしく。今日はわざわざおいでいただいて恐縮です。ご用件をうかがうことにしましょうか」
「初めに、ぼくから説明します」と、神谷会長が言った。「沢崎さんはぼくの姪の依頼で、彼女の夫に関する調査を引き受けて下さっているのです」
「姪とおっしゃると、更科修蔵氏の?」と、知事が訊いた。
「そうです。義兄とぼくの姉夫婦の娘です。姪といっても、五つ年下の妹のようなものですが」
 神谷会長は、佐伯直樹の失踪と彼が失踪前に行なっていた調査について、東神ビルの地下駐車場で私と打ち合わせた線に沿って説明した。
「それはご心配でしょうね」と、知事は顔を曇らせて言った。「その佐伯さんという行方不明のジャーナリストの方が、私に関わりのある二つの事件を調べておられたというのが事実だとすると、これは他人事とは思えない。私たちでお役に立つことがあれば、何なりとおっしゃっていただきたいものです。ただ、その前に──」知事は榊原のほうをちょっと振り返った。「あの二つの事件に関する警察の捜査報告を聞いておきたいのです。それらについては何度か報告を受けてはいます。だが、私自身はあの二つの事件をあまり意味のあるものとは考えていないのですよ──私がこうして現に生きていて、知事に就任している以上は。副知事や弟は神経をとがらせていて、私のことをあまりに楽観的だと非難するのですが……正直いって、私としては山積している東京都の難問題と取り組むので精一杯なのです。ご承知のように、矢内原都政は行き当たりばったりの八方美人でしたから、その跡始末は財政から何から根本的な立て直しが必要なのです。そんなわけで、警察の報告も聞き流していたような次第ですが、あの事件がそういう波紋を起こしているとなると、私としても等閑視するわけには行きません」知事は再び榊原を振り返った。「警察の捜査は現在どこまで進んでいるのですか」
「残念ながら、実質的には十月以降は何も進展がありませんね」榊原はテーブルの上の書類ファイルを手にした。「警察は、七月十二日の立川駅頭での狙撃事件とそれに先立つ怪文書事件の二つの捜査本部を設けて、捜査を進めています。しかし、非常に遺憾ながら、この二つの捜査本部はすぐにも合流できるだろうという安易な考えで、楽観的な見込み捜査を行なったようです。というのも、狙撃事件の犯人とみられる溝口宏と怪文書に書かれている銀座のクラブのママ、溝口敬子が姉弟であることから、この二つの事件は簡単に底が割れると見て、お互いに相手の捜査本部を当てにしていたふしがあります。元来、怪文書事件は実害の大きいわりには悪質ないたずら程度の犯罪と見なされがちで、印刷者や配布者を特定できても主犯までは究明できないのが実情です。これに対して、狙撃事件は紛れもない重罪ですが、犯人がすでに逮捕され死亡しているので、捜査本部としてはもう一つ差し迫ったものがない。もちろん、狙撃が溝口宏の単独犯でなく、背後に首謀者が存在する可能性はあるのだから、その追及を急ぐべきなのですが。結局のところ捜査は溝口の死体から一歩も進んでいないようです」榊原はファイルを閉じて、説明を続けた。「知事の当選が決まって、怪文書事件は単なる中傷以上のものではなくなった。さらに、知事が一命を取り止められて、狙撃事件も怪文書の内容を軽率に信じた溝口宏による未遂事件ということになった。しかも、現に今もおっしゃったように、知事自身が回復後の第一声で、これらの事件はそれほど深刻なものとは思わないという感想を述べられている。少なくとも、あの二つの事件を政治的に重大なものと考えている人間はいないのではないでしょうか。そういう世評にどっぷり影響されて、捜査の士気はほとんど地に堕ちている──それが現状ですね」
 知事は苦笑した。「私が落選していたか、あるいは死んでいたら、捜査本部も張り切っていたろうにと言わんばかりですね」
「遺憾ながら、そういうことになりますか」と、榊原が言った。「結局、二つの捜査本部は当初見込んでいたような合同捜査にはほど遠く、狙撃事件については溝口宏の背後関係は一切不明のままです。怪文書事件については、何らかの関わりを持つと見てマークしていた溝口敬子の愛人、野間徹郎を狙撃事件の後のどさくさで見失って以来、こちらも何の進展もない有様です」
 専務の滝沢監督が六人分のウィスキーの水割りを銀盆にのせて戻って来た。グラスを配って、彼も晃司氏と私のあいだのソファに腰をおろした。グラスに手を伸ばす者はなかった。
「私が受けた報告は、以上のようなものです」と、知事は言った。「警視庁は都知事の管轄下にありますから、捜査に対してはそれなりの関与の仕方もあるでしょう。副知事や弟たちはもっと厳しい態度を取るべきだと言うのですが、私はこの二つの事件は所詮は私事の領域を出ないような気がするのです。いえ、私事といっても、溝口姉弟や怪文書の発行者と私とのあいだに私的な関係があるという意味ではありません。申し上げたいのは、その二つの事件が解決しようとしまいと、都政には何の影響もないということです。そんなことに警察官諸君を奔走させるよりも、ほかに優先すべき問題がいくつもあるはずです。榊原さんに、この件に関する警察の捜査状況の追及はくれぐれも控え目にとお願いしてあるのは、そういう気持からなのです」知事はゆっくり眼を閉じ、ゆっくり眼を開けた。「そんなわけで、お話をうかがった佐伯さんという方の失踪について、私たちが一体どれほどお役に立てるものか、はなはだ心もとないのですよ。佐伯さんが怪文書の発行者や狙撃事件の真犯人を突きとめていた可能性があるとお聞きして、私たちはむしろ寝耳に水で驚いている始末なんです」
 向坂知事は私を数秒間冷ややかに見つめ、それから神谷会長に視線を移して微笑んだ。彼の表情には私への不信の念が明らかだった。神谷会長の紹介があるので、やむをえず時間をさいているのだということらしかった。神谷会長は落ち着かない顔で、私を振り返った。
 現在、新宿署と中野署と二つの捜査本部が合同でどういう捜査活動を始めているか、そこでの私の立場がどういうものかを説明すれば、知事の信用を得ることは難しくなかった。だが、警察と私の関係を明らかにするためには、この部屋の中に佐伯直樹の身柄を拘束している者、もしくはその人物に通じている者は一人もいないという確信がなければならなかった。探偵の仕事は人に信用されることではない。
 榊原が咳払いして言った。「率直に申し上げて、多少捜査方針に万全でないところがあったにしても、あれだけの捜査態勢と機動力を擁している日本の警察が手こずっている事件を、一ジャーナリストが究明しつつあるという話はにわかに信じ難いのですよ。別に自分の古巣である警察を弁護しようというつもりはありませんが」
 私はポケットからタバコを出して火をつけた。晃司氏がデスクへ行って、灰皿を取って来た。黒い六角立方形のセラミック製の灰皿で、宇宙船専用の痰壺のように見えた。
「その点では、佐伯氏は偶然にも恵まれたようです」と、私は言った。「佐伯氏が突きとめたことの真偽はしばらく措くとしても、彼がすでに一週間近くも消息を絶っていることは事実なのです」
 榊原はパイプを取り出し、滝沢は〝キャメル〟の両切りのタバコに火をつけた。向坂知事と晃司氏が水割りのグラスを取って、口をつけた。神谷会長もつられたようにグラスに手を伸ばしたが、車で来たことを思い出したのか、口へは近づけずにテーブルに戻した。
「少し質問をさせていただきたいが、構いませんか」と、私は訊いた。知事と三人の紳士を見まわした。
「どうぞ」と、知事があくまで穏やかに答えた。
「狙撃に使用された拳銃は発見されていますか」
「そのはずですが──」知事は榊原を振り返った。
「もちろんです」と、榊原が代わって答えた。「溝口宏が逃走の最後に車で転落した、日野市の高幡不動付近の浅川から、彼の死体や車と一緒に回収されていますよ」
「知事の肺から剔出された弾は、その拳銃から発射されたものですか」
 榊原はファイルを取って、書類を探した。「鑑識の調べでは完全に一致しています。あの弾がその拳銃以外の銃から発射された可能性はコンマ〇一の確率だという報告が出ている。われわれが溝口宏以外に真犯人がいるというお説に懐疑的なのは、主としてこの物的証拠があるからです」彼は攻め合いは一手勝ちと読み切った碁敵のように、ファイルから顔を上げた。
 私はうなずいた。私の問いに榊原がどう答えるかは事前に分かっていた。夕方事務所に戻ったときに錦織警部から電話があって、狙撃に使われた拳銃に関する捜査の詳細を聞いていたのだ。溝口宏従犯説に水を差すような情報には違いないが、錦織も私も必ずしも決定的だとは考えなかった。
 私は質問を続けた。「その拳銃がどのメーカーのどういう銃だったのか、公表されていますか」
「いや、それは捜査本部の方針で公表されていません」
「しかし、私はその拳銃が〝銃身の長いルガーP08〟だということを知っていますよ」
 榊原は驚いて知事を振り返った。知事は晃司氏と顔を見合わせた。
「警察の情報漏れを耳にしたんでしょう?」と、晃司氏が訊いた。
「そんなことはありえないはずだが──」と、榊原が眉をしかめて言った。「そのことは捜査本部では厳重な部外秘になっている。少なくとも、今日の午前中に本部長と電話で話した時点ではそうだった。情報漏れなどということはないはずです」
 知事たちは私に注目して、次の言葉を待った。
「私が〝銃身の長いルガーP08〟という銃のことを最初に聞いたのは、佐伯氏が狙撃事件の真犯人と見ている男とこの四カ月間同棲していた女性の口からなのです。その男が自分の所持している銃の名前と特徴を彼女に教えたのです」
「単なる偶然の一致ということもあるでしょう」と、滝沢が言った。「その男が狙撃に使われた拳銃と同じ型の銃を持っていたからといって、何かが証明されるわけではないのではありませんか」
 榊原が眉を上げた。「偶然で片づけてしまうほどありふれた銃ではないが、もっと肝腎な点を忘れていますよ。剔出された弾と一致する銃は、警察が溝口の逮捕現場から回収したルガーです。もしその逆であったら、その男が真犯人であるという説は非常に有力になるでしょうが……それとも、あなたは鑑識の言うコンマ〇一に賭けてみるつもりですか」
「そんなつもりはありません」と、私は言った。「狙撃者は周到な人間で二挺の銃を用意していたのかも知れない。オートマチックは故障が多いと言われています。万一にそなえて予備の銃を用意していたとしても不自然ではない」
 誰も反論しなかったので、私は先を続けた。「彼は狙撃に使用した銃を車内に残し、予備の銃を持ち去ったのかも知れない──狙撃に使った銃を持ち去って、溝口以外に犯人がいることを教えたければ話は別だが」
 晃司氏が榊原に訊いた。「あの車に乗っていたもう一人の人物が逃走するなどということが、あの状況で実際に可能だったんですか」
「その可能性は否定できないのです」と、榊原は浮かぬ顔で答えた。「捜査本部長の話では、追跡中のパトカーは問題の車を日野市内で約三十秒間見失っています。浅川に車が転落した直後の監視も万全とはいえなかったらしい……あの車に共犯者が乗っていた可能性を否定できないので、実はそのために拳銃の名前を公表していないのです。あの狙撃事件の真犯人は自分だと称して出頭してきた者や電話をかけてきた者がすでに若干名あるのですが、すべて拳銃に関する証言でガセだということが確認されています」
 向坂知事がゆっくりとうなずいた。「どうやら、沢崎さんのお話は筋が通っているようですね。私は、あなたがもっとあやふやで根拠のないことをタネに、ここへ押しかけられたのではないかと思っていたのです。いや、本当に失礼しました。私にはあなたのご職業に対する抜き難い偏見があったようだ。神谷会長の紹介があるにもかかわらず、です。神谷会長は実業界の若きリーダーの一人ですから、人を見る眼に誤りがあるとは考えませんでしたが、身内の方へのご心痛のあまり多少冷静さを欠いておられるかとも思ったのです。しかし、それは私の間違いでした。謝罪させて下さい」知事はそう言って頭を下げた。
 神谷会長は恐縮していたが、私を振り返った顔にはほっとした表情があった。
 私はタバコを消した。「私の話ではなく、佐伯氏が究明しようとしていたことに筋が通っているのです。ということは、佐伯氏の身柄を拘束している者は、彼が究明しようとしていたことを公表されると安全が脅やかされる人間──つまり、怪文書事件の犯人か、狙撃事件の首謀者と見ることができるのではないでしょうか。そして、その人物は知事の〝敵〟と呼んでも差し支えない人物のはずです。私がお訊ねしたいのは、狙撃を計画したり怪文書を発行したりする可能性を持っている、知事の〝敵〟の名前なのです」
 かなり時間をむだにしたあげく、やっと私はここを訪れた目的を口にすることができた。しかし、その答えとして四名の人物の名前を訊き出すまでには、なお十数分の時間を費やさなければならなかった。晃司氏が兄には〝敵〟などいないと主張するので、別の適当な言葉を探さなければならなかった。榊原がそれらの人物の名誉毀損の問題を心配したので、こちらは彼らが佐伯氏を監禁している可能性を穏便かつ合法的に探るだけに行動を限定すると約束しなければならなかった。さらに、この情報の出所として向坂知事の名前を絶対に持ち出さないことを約束させられた。
 訊き出した四名の人物のうち、最初の男は向坂知事とはかねてから犬猿の仲で知られている自民党の国会議員だった。彼は向坂氏の知事選への出馬や衆議院議員の辞職を党利に背くタレント政治家的発想だと痛烈に批判し、向坂氏の落選は火を見るよりも明らかだと公言していた。しかも、この男の従弟に法律違反をものともしない利権屋がいて、かつて向坂氏に〝刺青がないだけの暴力団〟と叩かれたことがあるらしい。彼らが二つの事件の背後にいたとしても少しも不思議はないということだった。
 二人目は、矢内原候補のブレーンの一人で、かつては学生運動のシンパでもあった大学教授だった。数年前、向坂氏とその教授は文藝春秋誌上で長期にわたって環境問題について論争を展開したが、識者の判定では完全に向坂氏に軍配が上がり、教授はそれまでの環境問題の権威としての面目をつぶしてしまったらしい。彼は学生運動家くずれのかなり過激なサークルとのつながりも云々されているので、必ずしも狙撃事件の首謀者としての可能性も除外するには当たらないということだった。ただし、矢内原氏自身は温厚な紳士でどんな軽微な違法行為もできない人柄だから、今度の事件には一切無関係なはずだと知事が断言した。
 三人目は作家だった。デビュー当時はお互いに最も親密にしていた人物らしいが、二人で創刊した雑誌の失敗と経済的な対立がもとで全く相容れない間柄になり、現在では彼の文壇での存在意義は〝アンチ向坂〟の一語に尽きるのだそうだ。彼なら向坂氏が溝口敬子の銀座のクラブに足を運んだことがあるのを知っていたし、怪文書の文体も彼のものと考えられないこともないらしい。ただし、彼の場合は他に資金的な黒幕が必要だし、狙撃事件には無関係だろうということだった。
 最後の一人は、向坂氏の大学の同窓生で、当時三年後輩の女子学生だった現在の知事夫人を、向坂氏に横取りされたと思い込んでいる被害妄想狂だった。在学中から現在までの二十二年間に、約三百通の殺意をほのめかした脅迫状を向坂氏宛てに送り続けているそうだ。それ以外には何の実害もなかったので今日まで放置しておいたが、二十二年目にして脅迫を実行に移した可能性がないとは言い切れないということだった。
 私の手帳は、この四人の容疑者に関するメモで数ページが真っ黒になってしまった。私は直感的な判断を信用しなかったが、この四人に限っては直感的にシロだと判断した。

次章へつづく

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