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妊娠するため男を「食べる」女たち――衝撃作がついに文庫化! 【対談】小野美由紀×アンナ・スペッキオ

繁殖と殺し合いに明け暮れる遠い未来の女たちをセンセーショナルに描きだした、早川書房note歴代アクセス数第1位の衝撃作、小野美由紀「ピュア」。本作をはじめ、性と人間のありように鋭く切り込む全六篇を収録した短篇集『ピュア』の文庫版を11月20日(月)に刊行します!
本欄では、SFマガジン2023年12月号に掲載された、10月に刊行された本書のイタリア語版訳者のアンナ・スペッキオ氏と著者の対談を再録します。

左から、小野美由紀氏、アンナ・スペッキオ氏。

■ピュア

小野 「ピュア」は女性が男性をカマキリのように食べるという話で、その設定自体がエロティックでグロテスクだから話題になった部分もありますが、なぜその設定にしたのかというと、男性と女性のコミュニケーションの断絶を書きたかったんです。食べちゃうということはコミュニケーションできなくなるわけです。食べた相手がどんな人だったのか、本当に自分は相手のことを好きになれたのかはわからない。性的な対象なのだけど、コミュニケーションが取れていないことって社会的にすごく大きな問題ですよね。
スペッキオ 面白いですね。女性作家の小説のなかでは男性と女性が食べているシーンが多くて、それらの作品では食事から恋が始まるのですが、「ピュア」では食べたら終わりになるので、恋の順番が逆になる。
小野 確かにそうですね。面白い!
スペッキオ 死と性が、食べることによって人生とつながってくる。
小野 私は食べるのが大好きで二四時間食べることを考えています。「ピュア」も、最後にエイジをユミが食べるのだけど、自分が生きるか死ぬかという究極の状態で、本当に食べたいものを食べるというのは絶対に快感だろうなと思って書きました。
スペッキオ エイジはかわいそうですが、ものすごい満足感が出ていますよね。
小野 私もこれぐらい毎回の食事で満足したいなと。
スペッキオ 女性がすごく積極的というのも面白いです。普通の小説ではあまりないですよね。日本人作家の小説でも、女性はあまり積極的ではなくて、積極的な女性が出てきたのは八〇年代、九〇年代です。こんなに積極的に男性を〝食べる〟のは山田詠美さんの作品が思い浮かびます。
小野 私もそのような作品が書きたくて。
スペッキオ かわいそうだなと思ったのは、性交一回だけで死んでしまうことです。
小野 性の喜びも生きる喜びもない。でも今の世の中と全く違うかといえばそうでもない気もします。
スペッキオ 男性が獲物で。
小野 男性にどう読まれるのかはわからないのですけど。生物学者の福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』を読んでいて、人間の臓器で言うと、子宮は外側に当たるから内臓ではないと。男性とセックスしても、それはべつに自分の内部に入ってくるものではないんだと書かれていたのがものすごく印象的で、絶対小説にしようと思ったんです。でも、今だったらこういう書き方はしないだろうなというところも結構あります。「子宮が命令するのよ」という一文がありますが、今なら女性に行動を起こさせるのは子宮だとは絶対書かないですね。子宮はただの袋なので。
スペッキオ それが、ヒトミが言う「オトコだってコドモだって、私たちの身体の中に、入ることなんてできないんだよ」という台詞になるんですね。
小野 日本では、女性は妊娠出産によって生き方を変えざるを得なくなる場合が多い。文化や社会制度的に家族や家父長制が優先されがちで、女性は子供を育てるのが役割と未だに見られがちです。母性という言葉がありますが、男は男だし、子供は子供だし、自分と違う存在であって、母親になったとしても女性はずっと個人のままじゃないかというのを、福岡先生の本を読んで納得しました。
スペッキオ ウーマンリブにもつながるテーマです。女性が産む性としてしか見られなかったことに対して、ウーマンリブの活動家は、子宮は自分のもので、身体は女のもので、ほかの男も関係ないというような発言をしていました。「ピュア」は、ウーマンリブの世界のなかで、産みたい社会を作ろうとしたじゃないですか。でも一方で、産みたい社会ではなく、産まないといけないような社会になっている。ヒトミさんの発言とどのようにかかわっているのでしょうか。
小野 私の主張はヒトミの言葉を借りて言わせたところもありますが、「ピュア」の世界観は、そのまま今の社会を反映していると思って書いています。日本における女性の地位は、世界からみればまだまだすごく低い、社会に出てはいるのだけど、一方で、産まなければいけないというプレッシャーがあったりします。日本で今、セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(編集部註:性と生殖に関する健康と権利)の運動が盛んになっていますが、たとえば経口中絶薬は最近薬事承認されたけど、普及までの道のりがとても遠そうです。手術と同じだけの高い値段になりそうなんです。それだと十代のお金がない女の子は処方を受けられないですよね。手術よりも簡単なのに、わざと高い金額にするのは、女性が自分で産む権利を持たないようにしているのではないかと思います。
スペッキオ 今の日本で、女性の身体に権利があると思いますか?
小野 全然ないと思います。日本全体というよりも、世界でもまだまだセクシュアル・リプロダクティブ・ヘルスの権利が女性のものになっていないと思いますし、日本はさらにそうだなと。たとえば中絶に関しても、中絶の同意書に書類上は父親である男性の名前を書かなければならない。
スペッキオ 父親が、自分の子供じゃないと言ったときは、女性はどうするんでしょうか?
小野 困りますよね。子供の父親がダメでも、女性の父親もOKだけど。それも変な話です。
スペッキオ 望まぬ妊娠をした若い女性たちは、自分の親には知らせたくないと思いますし、若い男性だと自分の名前を書きたくないということもありますよね。
小野 そこがすごく今問題になっています。教育の面でも法的な整備でも、産む産まないを決める権利が全然整っていないと思っています。そういう世界を極端に書いたら「ピュア」の社会になる。「ピュア」の世界では女性がすごく強くなって、女性が統治しているのだけど、肉体的にも男性より強いのに、国を存続させるために女性に産ませているという。
スペッキオ 作中、産むのは自分のためではなくて国を守るためにしているイメージがあるので、誰が国をコントロールしているのか聞きたかったんです。
小野 「ピュア」の世界では国は象徴的、概念的な存在で、誰が管理しているのかという主体がないのだけど、集団を生きのびさせるためにそうしなければならないと命令している大きな存在になっている。日本語でいうと同調圧力。個人じゃないものというイメージで書いていて、英語版の翻訳者の方にも、ネイションなのかカントリーなのかと聞かれました。
スペッキオ 「ピュア」の世界では、日本だけでなく他の国の女性たちも男を食べている。このままだと産む人たちはどうなるんでしょう。
小野 そこなんですよね。なんのために戦っているかも彼女たちはわかっていないわけです。
スペッキオ オーウェルの『一九八四年』みたいですね。
小野 そういう感じですね。
スペッキオ 将来的に国もわからなくなって、自分たちがどうしてこんなことをしているのかもわからないまま、でもするしかないという。そのなかでユミだけがアウトサイダーのように、他の選択肢があるのではないかと自問し始めますよね。ユミは恋をしましたが、彼女には家族の概念がない。もし彼女に家族の概念があれば家族を作りたくなるのではないかと思っています。というのも、ユミは自分が生きている世のルールから外したくて、違うルートを探求しようとしているのではなかろうか。
小野 それは面白いですね。なるかもしれない。でも食べたい気持ちがあるからそれは難しいという。「ピュア」への批判として、結局ユミは男性と恋愛をして、家族にあこがれをもっていて子供を作るから、それは母性を肯定しているのではないかとか、家族、男女の恋愛が素晴らしいということを言いたいのではないかと捉えられたことがありましたが、私は全然そういうふうには思っていません。あくまでもユミは、社会から押し付けられている女性はこうあるべきという姿に反抗したうえで、自分の欲望に従って最終的にこういう結末を迎えたので、家族や母親って素晴らしいというふうにはあまり読んでもらいたくないですね。
スペッキオ 「ピュア」の世界では女性が強くなったり、食べる方になったり、パワフルに見えても結局、国のために産んだり戦ったりしていますよね。ユミはそのシステムに従って生きづらく、自分に自由がないと自覚しています。そのため、自分のために産んで、自分と守りたい子供のため戦います。それはおそらく自己決定が欲しかった証拠になるのではないかと思われます。つまり「ピュア」には、女性が自分に自己決定がない世界では息苦しさを感じる、というような読み方もあります。生理の話も出てきますね。「生理が来るごとに、私は一ヶ月前と代わり映えのしない自分を発見してブルーになる。毎月毎月、命にならない細胞片を脚の間から吐き出して、一体なんの意味があるのだろう」という文章がありますが。
小野 ユミが言っていますね。ユミが、この世界では子供を産まなければいけないという命令に従わないといけないと自分で思っているからこそ、生理についてネガティヴに思っています。生理が来るということは妊娠していないということだから、女として評価されていないというふうに思ってしまう。そういう意味で書きました。

『ピュア』イタリア語版
(カバーイラスト:佳嶋)

■幻胎

スペッキオ 『ピュア』の収録短篇である「幻胎」にも生理に関しての文章がありますね。私は、「幻胎」は「ピュア」の次に面白かったです。いろんな面で読めると思います。フロイトのペニス願望とか、ファーザーコンプレックスの面からも読めますが、SFとしてなら、より良い人間をつくる話にもつながるのではないかと思います。つまり、優生学の面からも読み取れます。
小野 「幻胎」は思い入れが深くて、「ピュア」の他の短篇のなかだと一番書きたかった話です。
スペッキオ 絶滅した人類の精子が残されていて、それが現代人の卵子と結合することで新しい人間をつくる話が出てきますが、人間がこれからどのように生存戦略していくのかという話はとても文明的です。また、父と娘の話にもつながっていきますね。
小野 家父長制というものに対して女性がどう反抗していくのかということを込めました。生殖の医療、最先端のことをやっている一方で、主人公の父親は、昔ながらの家父長制に囚われていて、女性を道具みたいに扱っている。それに対して女性がやり返すという話が書きたかった。でもそこには愛なのか恋なのかわからないけど、男女の気持ちが絡み合っているという状態で。
スペッキオ 主人公のゼスが、家父長制に反対したいのだけど、自分の父親が好きで反対できないという感じがわかるような気がします。子供のころから美しい父親が自分のすべてとして育った女性の話なので、家父長制的な支配があっても自分の父親にあこがれてしまう。だからこそ父親から離れることができない。こういった女性なら、父親に似ている相手を探すのではないかというイメージがあるのですが、この話の中では、ゼスのお相手のシンが全然父親に似ていなくて面白かったです。
小野 ゼスはシンのことを本当は愛していないんです。外の世界に出るための道具として使っている。彼女は父親のことを愛しているから、父親の代わりを探す必要がなかったんです。
スペッキオ でも、父親から逃げたい。
小野 そうですね。両方あると思います。
スペッキオ 父親から逃げたい気持ちがあれば、外で父親に似ている男性を見つけたほうが楽なのではないかと。
小野 ゼスは父親に支配されているから、これまで父親から自立できなかったんです。
スペッキオ なるほど。ラボで命を作るという、一九二〇年代によく振られたテーマを取り戻したのも面白かったです。ゼスは子宮を残さないんですが、卵子がまだ残っていて、卵子提供者になることで、母親のようになる。人工子宮のなかにいる子供たちを見て、「私の子じゃない」と言いますよね。それは母性の話につながると思うんですけど、母性を感じないというのは、子供たちが自分の身体の中にないからでしょうか。それとも自分の意志によらないからでしょうか。
小野 二番目ですね。ユミは自分で選んで自分の子供を妊娠したけど、ゼスは父の欲望に従って母になっているので、自分の子供と思えない。今、人工授精は一大マーケットになっていて、アメリカでもビジネスとして盛り上がっています。子供がほしいという欲望を分解してみると、それはなんでなのだろうと。子供がいるのが幸せだと思うからか、社会からそう思われているからか。さらにそれが人工的に子供をもつというビジネスとむすびつくと曖昧になってしまって、自分が何を欲しているかを知ることがすごく難しい社会になっていると思うんです。ゼスはそういう意味で、自分が何を欲しているのかわかっていない存在として最初に出てきます。
スペッキオ ゼスの場合は子宮がないから、家父長制が作った「女=産む性」にあたらないのに対して、人工子宮があるからこそ「女=産む性」になれる。しかし、それは自己決定ではなく、ゼスの父が決めたことなので改めて家父長制の暴力が読み取れる。
小野 なるほど。〝産む性〟になりたかったというよりは、お父さんに認められる自分になりたかった。
スペッキオ お父さんを犯すシーン、面白いですね。犯すことによって対になるような。
小野 息子が父親を殺す話は多く書かれているのに、娘が父親を殺す話はなぜ書かれないのかと思って、小説にしたんです。

■イタリア文学と日本文学

小野 アンナさんにお聞きしたいのですが、イタリアでは文学におけるジェンダーの問題はどのようなものがありますか? 女性作家が評価されにくい、とか……。また、日本のSFは人気がありますか?
スペッキオ 女性作家が評価されていないというわけではないですが、作家によって評価されていない人がいるのは確かです。というのも、家父長制についてうるさく言ったりするので。でも評価の高い女性作家もいます。ジャンルの問題ではなく、その人の問題ではないかと私は思っています。日本のSFジャンルの評価は低くないです。どの国でもSFの評価は高いのではないかと思います。もともと日本のSFというと『AKIRA』や『攻殻機動隊』のようなサイボーグ的な話ばかりではないかというイメージがありましたが、現在の日本SFは、近未来の日本での社会や女性、家族のあり方が描写されているものもあるので、昔のイメージとは違うのではないかと思います。現代の常識を反対にしているような話も出ていて面白いですね。サイエンスフィクションというよりもスペキュレイティブフィクションと言ったほうがいいかもしれません。自分の想像力を使って社会を創造したりするけれど、必ずしもロボットが出てくるわけではない。サイボーグっぽい主人公が出ても人間的な感情があったりするので、どこまでがサイエンスフィクションで、どこまでリアルな現在を反映しているのか、境界線がよくわからないですね。
小野 そうですね。現代社会のあり方を考えるうえでSF的な設定を使う、思考実験の道具としてのSFという捉えられ方が増えてきたように思いますし、SFプロトタイピングなどもその文脈で流行しているのではないでしょうか。イタリアで近年話題になった小説はありますか?
スペッキオ SFではないですが、エレナ・フェッランテという作家がいます。彼女が書く『ナポリの物語』四部作。幼なじみの二人の女の子が、だんだん生き方が分かれていって、反発しあったりしながら大人になっていく話で、三島由紀夫の『豊饒の海』のように、どこから読んでもいい。男性作家ではパオロ・ジョルダーノも。あと、シモーナ・スパラコの『誰も知らないわたしたちのこと』。妊娠数か月で子供を失う女性の話なので。悲しいですが、たいへん素敵な小説です。イジャーバ・シェーゴもかなり人気ですよね。
小野 今のイタリア文学界のトレンドのようなものはありますか。
スペッキオ イタリアの文学といえば、リアルをそのまま描いているような気がします。なのでリアルな話のほうがイタリア人は読みたいのではないかと思っていましたが、最近はそうでもないかなと。コロナ禍になって、ディストピアの話がよく出ていたんです。自分たちもディストピアのなかに生きているのではないかということで、イタリアだけでなく世界的にもディストピア小説がとても人気があります。イタリアでは隔離政策で三ヵ月も家のなかにいたので、飼い猫以外に誰とも会わずにいるのはつらかったですね、ディストピアじゃないかと思って。Netflixの作品でも、ディストピアもののドラマの人気が出ていました。パオロ・ジョルダーノのエッセイ『コロナの時代の僕ら』のように、コロナについての読みものも出ていました。日本でも桜庭一樹さんの『東京ディストピア日記』が出ましたね。小野さんは、女性作家ではほかにどんな作品を読まれていますか?
小野 川上未映子さんですね。『乳と卵』がすごく好きです。あとは西加奈子さんや山崎ナオコーラさんもとても好きですね。読んできたものは純文学のほうが多いです。海外文学だとジュンパ・ラヒリさんや、イーユン・リーさん。
スペッキオ まだ読まれていなければ、ナオミ・オルダーマンの『パワー』をお薦めします。『ピュア』みたいな設定というか、女性が男性よりも強くて、自分の手から電気が出てるんです。『ピュア』も『パワー』も、女性が怪物のように描かれるのだけど、もともと男性にとって女性は怪物ではないかと思うんです。日本の古典文学を読んでいてもそう思いますね。女性が怖いもののように映っていたのではないかと。サイエンスフィクションのなかで、未来に設定されていても、女性があくまでも不思議な存在だからこそ、怪物のようなものなのではないかと。
小野 不思議ですよね。私もナオミさんも女性ですが、女性を怪物のように描く。
スペッキオ もちろん、いい意味での怪物ですよ。だって、女性は自分に自信があれば恐ろしいものになれるのではないかと思うんです。
小野 それはそうですね。
スペッキオ 女性にはすべてができる力があるのですけど、家父長制がまだ残っているためにできないのではないかと。ぜひ『パワー』を読んでみてください。マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』にもつながる話ですけど、それに反対する話にもなっています。
小野 日本文学がイタリアでも注目されているという話を聞きますが、なぜだと思いますか。
スペッキオ 三十年前までだと、吉本ばななと村上春樹ぐらいしか翻訳されていなかったのですが、おそらくもともとアニメを見ていた人たちが大人になって研究者になって、自分の好きな作家と漫画を翻訳して、イタリアの読者に届けるようになったからではないかと。
小野 そういう世代が翻訳出版に関わるようになってきたと。
スペッキオ 私もそうなんです。
小野 イタリアで自分の作品を出していただけるのは意外でした。フランスだとありそうだなと思っていたんですけど、どういうところが面白いと思ってもらえたのかなと。現実的な話ではないので、通用するのかなと思っていたんです。
スペッキオ 面白いです。とくにイタリア人が気に入っているのは「ピュア」と「幻胎」と「To the Moon」じゃないかと。
小野 私は正確に翻訳してほしいとはあまり思っていなくて。言葉は生きものですし、翻訳が入ると私だけのものではなく訳者さんと二人の作品になるので、私に合わせてほしいとはあまり思わないです。
スペッキオ イタリアの読者に届くような語にすればそれで、と。
小野 アメリカ人の方に翻訳していただくときは、「ピュア」に出てくる〈国〉という言葉は、新しい単語を作ってイタリックにして大文字にしてもらったんです。
スペッキオ パトリア(Patria)にしてもいいかなと。日本語だと国になりますが、ナショナリズムをふくめたニュアンスなんですよ。愛国のために戦う、というような。
小野 そんな感じですね。クニとカタカナで書きましたが、愛国者が言う国のイメージで書いていたので。ユミは全然思っていないのだけど。
スペッキオ 特別ですね。その世界においてのクィアですね。イタリア語版と文庫版に収録される短篇「身体を売ること」も面白かったです。自分の身体を健康状態が良くない女性に売って、自分の身体を守るためにその人に近づく。自分の身体が他人の身体になっているところで世話をする。なぜ自分の身体だったときに世話をしていなかったのか? それは貧乏だからですが。
小野 これはコロナがあったから書けた話ですね。人と触れ合えなくなって、もしみんながサイボーグになって機械の身体になったら、私たちはセックスしたり、家族同士でハグをしたり、手をつないだりを一切しなくなるのかなと考えて。そういう状態で恋愛や友情は築けるのかと考えたんです。
スペッキオ やはり、リタは自分の肉体にやさしくできるのは自分だけだと悟りますね。コロナ小説といえば、金原ひとみさんも『アンソーシャルディスタンス』を書かれていますね。
小野 どんな作家さんをこれまで訳してこられたのですか?
スペッキオ 林真理子さん、今村夏子さん、八木詠美さん、桜庭一樹さん、本谷有希子さん、岩城けいさん、松浦理英子さん、李琴峰さん。東野圭吾さんの翻訳もしました。新美南吉さん、川村元気さんも。でもメインは女性作家ですね。
小野 日本の小説を翻訳したいというアンナさんの情熱はどこからくるのでしょう。
スペッキオ もともと大学に入った時に漫画を翻訳したいと勉強し始めたんです。安野モヨコさんの『さくらん』『鼻下長紳士回顧録』『バッファロー5人娘』を訳しました。ほかにボーイズラブも翻訳しています。流行っていますね。
小野 マンガだとどんな作品がイタリアで人気があるんでしょうか。
スペッキオ ボーイズラブはなんでも流行っていますね。私は、ずっと漫画は読んできたんですが、大学三年ぐらいになって小説も面白いなと思いはじめたんです。日本の小説にはどんな作品があったのかわからなかったので、小川洋子さんを読んで、日本の小説も面白いと思って、そこから読み出しました。漫画だけじゃなくて小説も翻訳したいなと思うようになった。そこで、翻訳学科に進みました。博士課程のときに、師匠にあたるジャンルーカ・コーチ先生から小説を翻訳してみないかと言われて、ぜひお願いしますと答えたんです。翻訳の才能があるとほめられて、それからずっと携わっています。初めて依頼されて訳したのは東野圭吾さんの『手紙』でした。そのあと東野さんの『白夜行』を訳して、それを読んだもう一人の編集者が、うちの会社でも翻訳してみないかといわれて、そこからどんどん他の作品も訳せるようになって。本当に翻訳は楽しいですね。
小野 すごく不思議です。日本ってマイナーな国なので。
スペッキオ イタリアもマイナーじゃないですか。イタリアと日本は似ているところも多いし、日本は文学の面で長い歴史もあります。日本文学は、世界の文学のなかでも一番好きですね。
小野 そういわれると誇らしい気持ちになります。イタリアで日本文学が読まれているのは意外だなと思っていましたが、関わりができるのは嬉しいですね。
スペッキオ 落ち着いたらぜひイタリアに来てください。
小野 絶対行きます。イタリア人読者から、直接私の作品や、日本文学について感じることを聞くのを楽しみにしています。


ボローニャの女性センターで行われた、イタリア語版『ピュア』刊行記念イベント(日本語あり)

イベントを企画した文化協会「NipPop」のサイトに掲載された、Marta Fanasca氏による『ピュア」イタリア語版の書評

【小野美由紀氏とアンナ・スペッキオ氏によるイタリアでの講演会】
10月13日
トリノ大学外国言語文学及び現代文化学部
10月17日
ボローニャ女性センター(パオラ・スクロラヴェッザ氏との鼎談)
10月18日
ローマ日本文化会館 (ステファノ・ロマニョーリ氏との鼎談)