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意識が生成したフィクションとしての現実を生きるということ――伊藤計劃『ハーモニー』#闇のSF読書会②

闇の自己啓発会による#闇のSF読書会 。今回は伊藤計劃『ハーモニー』を取り上げます。『闇の自己啓発』でも度々言及されてきた作品ですが、この作品を読んで自分に刺さった箇所、想起したこと、そして意識の消失について、各人が自身の感想を熱く語り合いました。その模様をご紹介していきます(ネタバレ全開ですので、未読の方はご注意ください)。

*前回はこちら

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■ゼロ年代的「中二病」のモードが歴史化されている

江永 それでは『ハーモニー』を。始めの章「<part:number=01:title=Miss.Selfdestruct/>」が、すごく印象に残っています。謎めいた少女ミァハと出会った13年ほど前の高校時代を回想しながら、その後の章のきっかけとなる大事件(旧友キアンが自分の目の前で亡くなる)までを語り手トァンが提示していく部分です。私の感覚で言えば、ゼロ年代的「中二病」のモードが、ここに歴史化されている感じがする。例えば始めのあたりで、「この学校やセカイ」とか「全書籍図書館[ルビ:ボルヘス]」とか「変わり者[ルビ:スプーキー]」とかいった表現が出てきて、私はライトノベルの「ブギーポップ」シリーズやアニメの『serial experiments lain』みたいな1990年代末のオカルト伝記ジュブナイルとでも呼べそうな諸々、例えば奈須きのこ『空の境界』のボキャブラリを思い出しもします(あるいは小栗虫太郎、夢野久作、また西尾維新、ゆずはらとしゆきなど、自分が触れたことのある諸々の作品群の語彙を)。
 とすれば、ゼロ年代に創刊された雑誌『ファウスト』で用いられた語「新伝綺」などに話を繋げるべきなのだろうと思いつつ、例えば「Fate」シリーズなどは、これまた私的な感覚ですが、並行世界系の架空戦記ものを書く村上龍とか「スーパーロボット大戦シリーズ」とか、あるいはもっと遡って山田風太郎とかに近い色味の方が強く印象に残っており、そういうわけで、この語に超人対決エンタメ的な感じを覚えてしまうので、「新伝綺」と自分の言いたいフレーバーとのズレを私は感じたりします(とはいえ、異能者と陰謀は例えば上遠野浩平や西尾維新などの十八番であるのも確かなのですが)。私の脳内に浮かぶのはむしろ、一方ではラヴクラフトを参照したり『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書いたりする村上春樹などであり、他方では都市伝説やスピリチュアル的なものや陰謀論とモダン・ホラー的意匠とをまぜこぜに扱うような1990年代の(スーパーファミコンやプレイステーション1の)ホラーゲームであったりします。
 ただ、これが「セカイ系」とかになると、自分の感覚ではコーマック・マッカーシーなどとも並べて受容できるというか、あるいは伊藤計劃がノベライズする「メタルギア」シリーズともしっくりくるような、危機のさなかに交流して人間性を問う(あるいは暴力とエモのセット)みたいな雰囲気が前面に出てくるか、もっと穏やかなら、例えば景山民夫『遠い海から来たCOO』や、よしもとばなな『アムリタ』みたいに、すこしふしぎな要素(怪獣や未来予知など)のある成長モノや家族モノ(すごく雑に言えば映画版のドラえもんやクレヨンしんちゃんと似た主題が志向されていると思っています)になっているかしている、というのが自分の臆見です。意匠の違いに過大な意味を帰せしめているだけかもしれませんが、ざっくり言えば「セカイ系」のフレーバーは「情愛」と「戦争」、「新伝綺」は「驚異」と「競技」みたいに括れると思っていて、そして私が言いたいのは多分「虚仮」とか「不穏」です。ゼロ年代「中二病」モードの浪漫趣味でも耽美嗜好でもない(重なっているかもしれませんが)部分で、例えばぴろぴとや花蟲の作品、あるいは今敏『妄想代理人』に色濃いような「中二病」感です(と私自身では思っています)。「<part:number=01:title=Miss.Selfdestruct/>」という章の終わりは――実際にはその後の謎が渦巻く探求のきっかけなのですが、仮にここで途切れていたら――不条理ホラーの結びみたいでもあると思います。
『ハーモニー』の冒頭では谷川流(「涼宮ハルヒ」シリーズ)や舞城王太郎(『好き好き大好き超愛してる。』)を想起させる形容が現れもして、2008年に刊行されたこの作品のゼロ年代風味を回顧的に味わったりします(ちなみに「涼宮ハルヒ」シリーズは、アニメED曲や劇中歌の浸透によって、踊りとオタクトークで知られる『らき☆すた』やライブと部活で知られる『けいおん』のあいだに置かれても違和感ない、学園ものの後光を帯びて映る気もしますが、自分にとっては『絶望系』の作者の作品でもあるので、なんというか暗いシニカルさを勘ぐってしまう面もあります)。『ハーモニー』にあるような「お互いが慈しみ、支え合い、ハーモニーを奏でるのがオトナだと教えられて育ってきた」ことへの屈託(例えば、紛争地で体制側のエリート監査官を務めつつ、物語世界ではスキャンダルの種になる飲酒や喫煙ほかの不謹慎行為を裏取引しつつ続けている28歳のトァンという、ゲームめいた意匠や世界観の中で表現される「オトナ」なる基準へのコンプレックス)が、それなんじゃないかと、個人的には思っています。いま頭の中でAdoの唄う『うっせぇわ』(曲・詞:syudou)と『レディメイド』(曲・詞:すりぃ)が流れています(どちらも2020年の楽曲ですが)。トァンやキアン、ミァハはこれらの曲を聴いたら、どう感じるのだろう。ふと、そう思いました。
 言い訳と補足です。私は「中二病」というスラングをかなり雑に使っています。この類のものの主要な担い手は中学生ではないと思います。また、この語で何かをディスっているつもりもありません。強がりを言えば、そういう「中二病」が下らないのだとすれば、およその物語というものは(私にとって)およそ下らないものの範疇に入ります(神話や古典も、歌も、世人の日常雑感も含め)。「中二病」などを腐して自分や他人の留飲を下げる作業に従事するよりは、思わず真に受けてしまうような「中二病」を創りだしたいものだ、とも思っています(私個人は)。もちろん、ひとの留飲を下げさせるのは各々の日常の維持に役立つと思いますし、生活の安寧を真剣に求めるのも立派な生き方だと思います。
 すいません『ハーモニー』から遠く離れてしまいました。いや全部「中二病」の話なので(私の中では)、繋がってはいるんですが。戻します。ミァハのマッドサイエンティスト感には、また己が従っている規則の”穴をさがす”とか、そのために自前の発明ないし改造をする姿勢とかには、つい読んでしまうところがあります(物語の終盤でトァンが交流する監査官の同僚ウーヴェの、強かに楽しく生きていたんだろうとなと察せられる感じと似ています)。また、子供時代のミァハ、トァン、キアンを覆う閉塞感と、あがこうとする姿に思い入れたり、そのあがきを逆から見れば自前で現行社会のゲームテスター(デバッガー)を演っているようでもあることも意識させられ、アンビバレントな心持にもなります。それとトァンの述懐、内心のなじめなさを意識しつつ「生まれた社会システムから離れることができない」とか、「逃げ込む場所があると言ってくれただけで、わたしには充分だ」という、当人が手痛いと思っているのであろう失敗に裏打ちされた内心には、感じ入るところがあります(突き放して言えば、結局トァンは挫折を引きずり、自己憐憫に浸って、「こっそりと、ずる賢く」生きているわけですが)。
 トァンが自分で「しくじった」と捉える生き様に興味があります。それこそ最初に「敗残者の物語」、「脱走者の物語」、「つまりわたし」と畳みかけるような表現で示すメンタリティには。敗北や挫折で言うと、近代文芸評論の嚆矢のひとりとされている北村透谷は評論「厭世詩家と女性」で「想世界と実世界との争戦より想世界の敗将をして立籠らしむる牙城となるは、即ち恋愛なり」と言っていたりします。で、「理性を有し、希望を蓄へ、現在に甘んぜざる性質ある」けれど物を知らない「小児」が「小児」でいられなくなって(「敗将」になるわけですね)、「浮世又は娑婆」にある「不調子」と悪戦苦闘する中で、唯一残る理想の「恋愛」に走る、と述べています。「恋愛は現在のみならずして、一分は希望に属する者なり、即ち身方となり、慰労者となり、半身となるの希望を生ぜしむる者なり」っていう一節もありました。書き手が「男性」目線で書いているし、単婚制をプロモートする恋愛論として切り捨てることもできそうなんですが(ただし透谷の恋愛至上主義は、調和ある家庭の形成とかを理想として描けてはいません。その社会性の崩れや個の衝動ありきに思えるところで詮議がなされているようです)、私はここでいう「半身」をトァンが言う「同志」と重ねてみたい気持ちがあります(かつてミァハがトァンの手の甲にしたという口づけや、長じてから自分がミァハのドッペルゲンガーになったみたいだとする、トァンの述懐も踏まえつつ)。透谷自身が明治18年(1885年)頃に企てられた朝鮮でのクーデターへの加担(金玉均で知られる独立党を支援する資金集めのための銀行強盗)への誘いを断って、後年文筆で名を馳せたという経歴なのもあって、色々考えさせられます。私は「中二病」的なパッションというのは、ここまで極端でないにしろ幾何かは「実世界」の「不調子」(全然「教えられて育ってきた」通りになっていない歪な「ハーモニー」)と折り合いをつけようとする欲望に通じている気がするので、そういう意味で冒頭のトァンの姿に関心を持ちます。もっとも、事件が起きて自分の居場所の概ね全てを覆っているように映った「生府」による社会が揺らぐというか壊れる(トァンの目の前で)ところから、本筋になる話が始まるので、私の思い入れは偏っています。物語全体の骨子や主題ではない、もっと(たくさん・古今東西の書を)読んでいるひとからすれば(そうでなくとも)、その作品でそこにわざわざこだわらなくてもいい、という判断が妥当なところを(片言隻句を)抜いて気焔をあげているだけかもしれません。

 往々にして、本の主題以外のところが響くということはありますね。

江永 そうですね。作品は、書き手が意図した任意のメッセージやオピニオンに没入させるとか、狙いの知識を面白く身につけさせるとか以外の(それ以上ないしそれ以下の)反応も引き起こすし、それ込みであるから作品という気もします。あと、「ミァハが4人に分身して読書会をやっているようだ」という『闇の自己啓発』の感想を見て、そう映るんだなと思ったのもあります。それはミァハさんに対して失礼なんじゃないか、という躊躇も若干あるんですが、なるほどと思いました。

 僕も知人から「闇の自己啓発、お前が影分身してるのかと思った。こんな人間が4人も同時に集まるなんてありえん。選ばれし子供たちだってもうちょっとばらつきがあるぞ」と、似たようなことを言われたので、同じような感想が来るのだなという感じでした。

江永 逆に言うと、もし私から然るべきノイズをすべてとりのぞいて、知性や色々をエンハンスメントしたらミァハみたいな「イデオローグ」がつくれるのかも(それはもう私の原形がないというか、誰が元でも仔細ないかもしれないですが)。そのほうが全体にとってはいいのでしょうか……いや、よくないですね、たぶん。

木澤 そういえば、伊藤計劃がインタビュー(「伊藤計劃インタビュー」『伊藤計劃記録Ⅱ』所収)のなかで、自分はイデオローグを書くのが大好きで、ミァハは映画『ファイトクラブ』のタイラー・ダーデンの女の子バーションをイメージした、みたいなことを言っていて、なんとなくいろいろと腑に落ちたことを思い出しました。なるほど、『ハーモニー』は百合版『ファイトクラブ』なのか、と。

■社会性と、「からだ」に対する向きあえなさ

ひで ミァハの思想って、幼少期の心地よかった時代に戻りたいという失われたノスタルジーを追い求めるという個人的な欲求もありますけども、基本的には個人より先に“社会”を念頭に置いているじゃないですか。でもぼくらは(少なくともぼくは)、人間より先に社会を持ってこないですよね。例えば今までの読書会で自分の意識を消そうとしたり、苦しみを解き放とうとしたり、人間性を消去しようという話をしたときにも、それは社会のためにこれが正しいんだと思って主張するわけではない。まずもって自分自身のために、からスタートしている。ミァハは、「人類皆のために」ということを強く意識していて、社会性がある。むしろ彼女の思想には社会性しかないとも言えるんですよね。

江永 ミァハ自身にとって、人類のため、がどこまで本気だと意識されていたのか、という問いの余地はありますが、当人がトァンに語るところだと、概ね、みんなのためでしたね。息苦しさから極端な選択をする人々がたくさんいて、それはあってはならない行為だからと選んだ人々自身をも軽蔑する風潮があり、それは「おかしい」と思った、「毎年無為に命を落としていく何百万の魂のために、魂のない世界を作ろうとした」のだ、というのがミァハが自発的に語るところの主要な動機ですよね。この見方だとミァハは、実は「生府」とそんなに違う立場でもなくて、ただ、「魂」があるのは健康に悪い、「魂」とは「意識」とか「意志」のことなので、これを「治療」しようと言っている、ということになる(しかも、かつて自分が「意識」を実験で「消滅」させてもらっていたとき「幸福」を覚えたからそう考えている?)。
 社会の都合か個の意識かという対立構図はそのまま、ただ、是非がくるっと入れ替わったのだ、以前は社会のインフラであるこの身体を破壊するみたいに考えていたが、今日では社会と身体をおかしいと思わざるをえない意識の在り方がおかしいとわかったのだ、といった"転向"を理解する形で話が済むのだろうか、と疑ってしまう気持ちもあります(ちなみに、個人的にエピローグは滅茶苦茶不気味で、ナノマシンによって「意識」を消失させる指令の実行という出来事、それは作中だと「WatchMeがオンラインになり、無意識が「降ってくる」」と記されているんですけど、それが起こった日が「人類の意識最後の日」であるかのように書いてあるんですよね。その時点では、居住地域や年齢によってはナノマシンが身体に入っていないホモ・サピエンス個体も存在していたはずなので、一夜にして残りの全員に投与したのか、残りのホモ・サピエンスは人類ではないという定義になったのか、ちょっと大袈裟に言っただけで、実際には漸進的にナノマシン未投与個体が消滅したのか、などとあれこれ考え込んでしまいました。よく指摘が入る箇所のひとつみたいですが)。外界からの入力で立場がくるくるかわっていて、意見がグラグラに映る気もする。内側に(脳に幾度か何らかの操作をこうむっているとはして)、実は一貫したモチベーションがあったんでしょうか。

ひで まーたしかにロシア兵に凌辱されて怒りのスイッチが入った、っていう可能性もあるのか。「許さんぞ、この世界」というような。

 どうなんだろう。ミァハ自身は意識がない部族の人間だったのに、つらい体験を経て意識が芽生えてしまって、意識なんていらなかったのに……だからみんなの意識も自分の意識もすべて消してしまおう、という方向に至ったのだと解釈していました。

ひで 私のよかった幼少期をみんなにお裾分け、ですね。

江永 最後、ミァハ自身が何に重きを置いていたのかちょっと測りがたく感じたところがあって。十数年経って再会したトァンに、あなたは自分が「意識」がなかった頃に「戻りたかった」のかと問われて、ミァハは「そうなのかもしれない」とも言っている。かつて「イデオローグ」だったときの「カリスマ」性はどこにいったんだろうと若干ショックだったりしました(また、いくら「自己正当化」ではないかと書かれているとはいえ、どんなつもりでキアンにあんな内容のメッセージを送ったんだろう、というのもありました。すでにミァハは社会に合わせて意識を消す立場に、いわば転向していたはずなのに)。一般に、言葉は、いつだってウソをつけるというか、ひとつのことだけでなく、複数のことを同時に言うことができるので、どんな(幾つの)動機の説明が含まれているように映るか、どの説明がもっとも説得的と感じるか、というのは、言葉を発した側と受け取る側ではズレうるものですよね。

 ミァハのなかにはいろいろな脳内アプリがあって、世界を良くしたいというのと、おまえらマジで許さんからな、というのが両方あったのかも。

江永 物語の設定上、ミァハは概ねトァンと大差ない形で「意識」があるらしいので、内面はぐちゃぐちゃだったかもしれないですね。作中でも「多くの欲求がわめいている状態」を「意志」と呼んだり、「進化は継ぎ接ぎ」で「すべての生き物はその場しのぎの集合体」であり、「感情や意識という機能を必要とする環境が」今日もはやないとすれば「糖尿病を治療するように、感情や意識を「治療」して脳の機能から消し去ってしまうことに何の躊躇があろうか」と書いてあったりしました。
「進化は継ぎ接ぎ」で思い出しましたが、個体の成長はどうなんだろう。自分が始めの章にこだわってしまうのは、「おとな」と「こども」の話を、「からだ」に焦点を当てながら書いている面もあるからでした。例えば「こどもがおとなになると、言葉になる」と「おとながしびとになると、泡になる」いう最初のほうのくだり。ふたつの文が然々の禁止として語りなおされてから、個々人の身体に投与されているナノマシンや完備された情報通信網とそこに備えつけられた物質合成装置などに支えられた身体の保守点検システムが覇権を握りつつある(薬物投与からフィルタリング、相談やカウンセリングまで。もちろん常時モニタリングし、健康度や社会的評価がスコアで表示される)どこか息苦しい社会という設定が、するすると物語に沿って開示されていきます(ちなみに、作中での国際社会や地域の選ばれ方、描かれ方には、ゼロ年代日本で国際秩序を考えるとき、こんな風だっただろうか、というような隔世の感も覚えます)。
 この作品では、個体の成長、社会体制の完成、生物の進化、本の書き上がり、それらがどこか重ねられつつ、「完成」への何か捻じれた愛憎が描かれている。その混乱、アンビバレントが、いわば「からだ」に対する向きあえなさ、「わたし」というものの扱いがたさとして、括られて提示されているようにも感じます。本作だと「こども」は「おとな」の「からだ」に向かって急速に(「恒常性」なんてあり得ない)、「おとな」は死んだ「からだ」に向かってゆっくりと「恒常性」を保ちつつ変化している、となっているんですが、このへんは身体改造やエンハンスメントの技術や捉え方がどうあるのかにもよりそうだなと思いました。

ひで 冒頭で「WatchMeは駆け足のからだには、入れない。なぜって、WatchMeは恒常性を見張るものだから」って書いてありましたね。

江永 キアンがミァハやトァンと一緒に絶食した結果「カラダが生きてて、変化するもので、永久とか永遠なんてものはなくて、生きるって苦しくて痛いものなんだ、ってはじめて実感した」と語ったり、それで怖くなったと打ち明ける作中の挿話も思い出します。あるいはミァハと初めて出会った場面でトァンの思い出していた「官能的に揺れる赤い糸の光景」、キャンプで沢に落ちて怪我をし、足からの血が水を流れる場面なども、また。後者は、作業に集中していると怪我に気づかない瞬間があるように、関心の寄せ方次第で「痛み」が後景化する(だから「痛み」は技術的に消しうる)という研究者エーディンの話(物語後半)とリンクするように思われもします。私は4歳の頃、片足を自転車のスポークに巻き込まれてかかとが切れた(針で縫い、しばらくギプスしていた)ことがあるんですが、怪我の直後、出血していると言われ、血で濡れた靴下を目にしたとき、一瞬だけ驚きで痛みが引いた記憶があって、そういう自分事も思い出して印象深くなります。一般に幼児の頃は自分より1メートル近くデカイ生物に囲まれたりすることも多かったんじゃないかと思います。そのときの感覚って、どれくらい今日まで引きずられているものなのだろう、と思ったりします(私は、3歳以前の記憶は、これがそれだと確信できるエピソードがパッと思いつかないです)。ふだんの周囲との相対的な体格差で決まる面が大きいのでしょうか。

 自分は今も身長が低いので、周りの人間たちはデカいな、と思いながら過ごしてますね(基本的に人と目が合わないので首元あたりを凝視してます)。逆にデカい人の気持ちがよくわからない……。ただ、同時に規格外の体を持つ不便さについては、デカい人と共有できることがあります。僕は電車の棚に手が届かないけど、デカい人は吊革に顔がぶつかる。ささいなことではありますが、想定される規格を外れてしまう不便さは共有できるねと話しています。
 規格外の身体を持つことでもっと深刻な問題に直面している人も大勢いるわけで、そういう問題の解消につながる取り組みを少しでもやっていければ、と常日頃思っています。

江永 作中でも身体に「標準」が想定されることへの拒絶感みたいなものは描かれていましたね(体型の多様性を考えるみたいな文脈でしたが)。身長差だと、「子供」用の公園遊具とか。また一般に、空間の設計自体が特定の身体を標準としているという議論は、いろいろありますよね。例えば歩行できる身体を前提にした階段の問題など、いわゆるバリアフリーの話がありますね。また、むかし見聞した話ですが、オランダの座らずに使う小水用便器がオランダ国内の平均身長とされるデータに合わせて設計されているので、特にオランダより平均身長が低いとされる国(例えば、日本)から来た人が使えない場合も間々あったらしい、みたいな話も問題の根は通じ合っているでしょうか。もっとも、これもユニバーサルデザイン的な観点から批判が出てきていそうです。

■意識はすでに消失している?

江永 さっき『ハーモニー』の最初の章に個人的な執着があると話しましたが、その後の展開は、嫌いというわけじゃないけど、思っていたのと違う方向に行ったような感じがしています。

ひで 後半のストーリーはどうあったらよかったなと思いますか。

江永 作劇上のよしあしではなく、私の好みを言えば、「敗残者」や「脱走者」という自意識を抱えつつ生きるトァンや、キアンやウーヴェのような人物も実は存在している、作中の社会で起こる細やかな営為が見たかったんだろうと思います(大事件が起きて、世の中と人々が大規模に変化することが主眼の物語に、要望すべきものではないのですが)。あとは「自意識」や「内面」とざっくり同一視される「意志」や「意識」の話を、自分がうまく飲み込めなかったのだろうというのもあります。人々の諸々の意思決定を「双曲割引」で解説しているという行動経済学者エインズリーの『誘惑される意志』を読んでいれば、もう少し見通しがついたのかもしれません(改めて確認しておけば、『ハーモニー』でいう「意識」は上の諸々のみならず、「感情」や「魂」みたいな語ともごたまぜになって使われており、「無意識」や「死の欲動」みたいな語まで記されています。全部を拾って著者本人の首尾一貫した思弁として理解するのはかなり骨が折れます。そもそも物語を読むとはそういう行為であったか、そういう行為であるべきなのか、という問いは残りますが)。
 物語の展開上、『ハーモニー』はトァンが悟り(?)を得るまでのマニュアルみたいになっている(ように私には映る)ところがあり、最初の章で「ミァハの影」(トァンの脳内ミァハ、語る内容のどこまでが過去のミァハ通りなのかは不明瞭)の述べるアイディア、例えば「意志なんて、単に脊椎動物が実装しやすい形質だったから、いまだに脳みそに居座っているだけ」などが、その後にトァンが体験する一連の対話というか講義――トァンの父と旧友である大学教授の冴木、父の研究助手のひとりだったエーディン、そして父のヌァザによる――で理屈立って補強されていくかのような構成になっている(と解しうる)んですけど、そこで展開される理屈と、ゴールで提示されるビジョンに、私はうまく乗れないところがありました。「意識の消失」で「天国に近い状態」になるというのが、望むところは推察できる気もするけれど、その理屈でそうなるのだろうか、など。
 あと、さっき触れた「糖尿病」になりやすい身体が寒冷な環境では世代を重ねるのに役立った話と「意識や感情」を接続するところで、「かつて人類には、わたしがわたしであるという思い込みが必要だった」とあるんですけど、それだけなら習慣を改めるだけでも色々変わる気もしました。例えば一人称を廃止したり(感覚の表現時には個別に特定可能な名前を使うことにする)、何かしかるべき前提の下で教育していけば、現行社会でも何らか、この本で言う「意識の消失」に近いこともできる気がする。あるいは、なんだかんだ言おうが「意識」と呼ばれるべき何かがある、から話をスタートする所作の、その裏返しとして、実はもう「意識」は消失している、というより「意識」なんて語を使わずに物事は語れる、から諸々を考えてみる、というのは今すぐできるかもしれない(あるいは、双方が無根拠な思い込みから出発しているという話になるのかもしれないですが)。

ひで 被験者が「手首を曲げよう」と意識した瞬間よりも0.3秒前の段階で脳は行動に向けた準備を開始しているっていう、リベットの実験があります。この実験の例が全ての意識的な活動についても言えるのならば、私たちの行為は全て直前の脳状態によって決定されることになる。意識は行動する身体に取り憑いた幽霊みたいなものなのかも知れない。

江永 その話、海猫沢めろん『明日、機械がヒトになる』でも紹介されていましたね。この新書だと「意識は行動の0.5秒後に発生しているようなのです」等とまとめてありましたが(249-250頁)、現に手が動く約0.2秒前に被験者は「手を動かす」と意識していたけれど、被験者の脳内の運動準備電位は約0.5秒前に測定された、という感じらしいですね。木島泰三『自由意志の向こう側』によると、この実験の解釈の定見はまだ定まっていないようですが、いくつかの留保の上で、手首を動かすという「自分自身の決意をやや遅れて、錯覚的に理解した、という以外にはないと僕には思える」(271頁、太字省略)と、リベットの当該実験で起きたように思える事態がまとめられていました。もっとも日常会話で「意識している」とか「意志を強く持つ」みたいな表現を用いるときは「肩がこる」とか「エモくて震える」とかと一緒で、自分にとってそれなりに馴染みある語を、普段はなんとなく通じるから、自身の体性感覚なり何なりと結びつけてカジュアルに用いているだけではないかと思っています。少なくとも日常会話で使われる「意識」は「精神」や「心」と同じ程度には雑多性がある(けれど現にやり取りの中で用いられている)。例えば「苦手意識」「精神論」「心配り」などの表現を、観念の濫用として摘発して禁止したりはしない(もしかすると、そこで摘発し禁止する方が、啓蒙的な振る舞いなのかもしれませんが)。
 もちろん、つねに同じ辞書と百科事典と測定器具などを個々人に備え付けた状態でコミュニケーションをしていたら、勘違いや混同はもう少し減らせるのでしょうが、現にそうするのは大変だし、現にそうではないから起こる事態をも利用しつつ日々をやりくりする訓練かつ実践として、一般にひとは自然言語で日常会話なることをしているのだろうとも私は思いがちです(もちろん、専門用語の「濫用」は困るという話にもなりますが、突き詰めると、言語使用を免許制にしてみるとか、日常会話は意思疎通用のテンプレート、またデフォルトの顔文字を介してのみ行ってみるとか、そういう不穏な話題に近づく気もします)。

ひで ぼくの意見では、意識というのは、線形代数でいう「Y=αx+β」からはみ出てしまういわゆる「+ε」の差分だと思うんです。外部環境からある一定の情報が与えられても、皆が同じ行動を取るわけではなくて違う行動を選択するやつもいる。つまりエラー項ですよね。で、意識がないというのは、そういう他者との偶然的な行動の違いがないということですよね。小説の最後には「エラーが起こらなくて、みんなが社会生活を普通に営んでいるようにみえるけど、その状態はみんなが意識をもっておらずロボットがやっているのと同じだ……」みたいな喩えがあったと思うんですけど、そういうエラーがない状態を「意識の消失だ」といっていた。そこに「感動」を感じる主体があるかどうかはわからないですよね。

江永 ロボットの喩えは、「意識の消失」後のホモ・サピエンスが書いた設定であるはずの、エピローグの箇所で出てましたね。「人々は哀しみがあるように泣き、怒りがあるように怒声を発した」ともあって、「感情」なるもののデフレ化が強調されている。「社会学と経済学は完全な純粋理論と現実の一致を見た」という、すごい表現もある。さながら全員BOTないしNPCになったみたいなイメージ。このあたりの描写を読むと「哲学的ゾンビ」という語も私は思い出します。もっとも『ハーモニー』で提示される「意識の消失」した人類は、稲葉振一郎『ナウシカ解読【増補版】』にあるように、「少なくともデビッド・チャーマーズ的な意味での哲学的ゾンビではまったくない」(382頁)ということになりそうですが。ただ、後でふれるディックしかり、「外面上は、その人間に意識があるか、意識があるかのように振る舞っているかは、全く見分けがつかない」みたいな、自分とそっくりなはずなのに自分と同じではないものへのオブセッションという水準では、この類の思考実験由来の「ゾンビ」のイメージに、すごく馴染むところも覚えます。目の前のキャラクターに自分みたいな「心」がある(ことにできる)なら、逆に目の前のホモ・サピエンスに自分みたいな「心」がない(ことにできる)場合も想像はできる(すべきかどうかは別ですが)と思ったり。
 個人的に妄想したりするのは、例えば、私が私以外の人間は全員たしかに「意識」があるが(あるいは「あなた」にだけ「意識」があるが)、私には「意識」がないし、私は(そしてもしかすると「あなた」以外の全員が)そう振る舞っているように映るだけである、などと「ゾンビ」宣言をしたら、少なくとも私が実は「ゾンビ」ではないと証明することはできるのか、みたいな事柄です(誰も面倒でそんなことをする気にならない、で話は終わりかもしれません)。実は、私「意識」ないんですよ、と話し始める、とか。

 江永さんの仮定で意識がないと主張されたとして、それって失礼ながら社会にとってあまり良い存在ではなさそうですよね(笑)。僕の中では、ミァハの意図するものは、社会にとって都合がいい意味での意識の消失なのかな、と思っていました。たとえば、僕は今、社会にとって都合のいい人間のふりをするために血反吐を吐きながら苦労しているわけです。でもミァハみたいになれば、みんな自動的に意識のない状態でうまく社会を動かしていけるようになるのだと思うので、今のような苦労は要らないわけです。それはポジティヴでもあり、同時にネガティヴでもある。周りと齟齬のある状態で意識を持ち続ける今の僕たちは、社会にとって害悪なのではないかと思うこともあるのですが、その意識すらも失わせてもらえるのであれば、僕はミァハの世界はいいなと思いました。まあ、そういう世界でイノベーションとか闇の自己啓発は生まれなさそうですが…。

江永 作中の描写だと、そのあたり、じゃっかん不明確にも感じました。一方では「ぼんやりとした幸福に包まれて、恍惚だけを体験した」とミァハが述べていたらしいし、その夢見心地で今まで同様にするべきことをしていたという話になっている。私個人も「ロボット」になる、みたいな表現に、疲れ知らずでやるべきことに楽しく没頭する何者かというイメージを託す作法は馴染みがあります。トァンの父は「意識の消失」を「すべてが当然であるような行動の状態」みたいに表現していました。全部既定事項で「迷いも、決断も、選択も存在しない」ゆえに(?)個々へのストレスが可能な限り少ない社会である、という感じ。けれども、表面上は同じ生活が続く。とすれば、それこそ傍からは生きづらいように見えているが実は(?)「恍惚」としており「意識」はない、然るべきタイミングで事の必然として泣いたり笑ったりしているだけ、みたいな話もできてしまう気がする。なにか、捻じれを感じもします。いうなれば、悟っているらしいが安心立命を体現するようには映らないとか、内面はないという気づきを内面で得たとされるが現にあくせくしながら生きているとかいった類いの。そう考えると、「意志」があるあいだは自己抑圧に使っているリソースを他に割けるようになるからよい、みたいな比較の話になってくるのかなとも思います。

■自己と世界との間の「ハーモニー」

木澤 少し話が前後しますが、リベットの実験は伊藤計劃が小説やエッセイのなかで繰り返し言及しているお気に入りの主題でもあります。たとえば小説では、やはり意識がテーマである中編「From the Nothing, with Love」(『The Indifference Engine』所収)のなかでリベットの実験について言及されています。エッセイでは、「人という物語」(『伊藤計劃記録Ⅱ』所収)のなかで(ちなみに『ハーモニー』において、意識と糖尿病を、ともに進化の過程においてその場しのぎで追加された機能という側面からアナロジカルに語るシーンがありましたが、このエッセイ中でもほとんど同じ趣旨の記述があります)。他にも「「Anima Solaris」著者インタビュー」(『伊藤計劃記録Ⅱ』所収)といったインタビューの中でもリベットの実験について言及されています。ちなみに、このインタビューでは、ピンカーの著書やデネットの『自由は進化する』、マイケル・ガザニガの『脳のなかの倫理』、さらにはジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』にも間接的に言及されるなど、伊藤が進化心理学や認知考古学に対して並々ならぬ関心を抱いていたことが伺えます。ところで、伊藤はエッセイ「人という物語」において、リベットの実験や意識受動仮説に言及しながら、意識とはあくまで「後付」の感覚であって、しかも脳はそれが「後付」であることを意識できない上、意識の受け取っている現実は何分の一秒かの処理時間を経て統合された幻にすぎない、という趣旨のことを述べています(これと同様の趣旨はトール・ノーレットランダーシュが『ユーザーイリュージョン』のなかでも展開しています)。私たちの脳には「今ここ」という「現実」そのものは与えられない、それはあらかじめ無意識的プロセスによって編集されたフィクションにすぎない、と。それでは、意識とは人類にとって(あるいは伊藤にとって)何のために存在しているのでしょうか。伊藤は、それは「物語を紡ぐためだ」と卒然と答えています。意識は現実から生成した現実を一続きの「物語」へと編纂するために存在するのだ、と。意識は現実というフィクションを生成する、換言すれば、私たちは不断にフィクションを生成しており、それであるがゆえに私たちはフィクションから逃れることはできない。そして、フィクションはフィクションであるがゆえに、物語として他者に伝えていくことができる。ここでは『ハーモニー』のミァハと異なり、意識に対して肯定的な価値付けが行われているように思えます。おそらく伊藤は自身でもミァハを乗り越えようとしていたのだけど、それを充分に果たすことができず逝ってしまったように僕には思えて。ところで、僕は今回『ハーモニー』をちゃんと読み返す時間が取れず、記憶が少しあやふやな部分があるのですが、『ハーモニー』では具体的に意識をどのようにして消すんでしたっけ。

江永 身体に投与しているナノマシンを使って、脳をいじるんだった気がします。

ひで ナノマシンにバックドアが仕込まれているんです。中央の指令を受けてWatchMeをインストールしたときについでにミァハが仕込んでおいた、ミァハ製のプログラムをバックドアでキックできるんです。

江永 そのプログラムによって、個々の意識を、なんというか、いつでも「合理的」な選択がなされるように、整える。しかし、「完璧な調和とは、何も意識しなくてよいという結果に必ずつながってしまうだろう」。このあたりに関する作中の説明では、行動経済学でいう現在バイアス性や、時間的な不整合ないし動的な不整合の議論に関連して登場する用語(双曲割引など)を借りた説明が展開されていますが、私の理解度の問題で、うまくまとまりそうにありません。それらの説明に代えて、「意志」は「いろんな『欲求のモジュール』」による「脳内会議」であり(冴木)、「会議に参加する者の意見がすべて同じで、相互の役割が完璧に調整されていれば、会議を開く必要そのものがない」(ヌァザ)という作中のたとえ話を引かせてください。いつでも「合理的」な選択がなされるというのは、いつでも、どこでも、ただひとつの目標だけがあるということだ、という話になっているのだと思います。WatchMeで結ばれる人類全体が、ひとつの「社会」としての経済合理性しか考えなくなった、みたいな感じでイメージされているのだと思います。ただ、そこでどういう関数が用いられ何が最大化されようとしているのか、私はよくわからなくなりました。ここでもう一度『ナウシカ解読【増補版】』から引かせてください。そこでは、人類は「意識」を失っても「おそらくミァハの言う「恍惚」の中で、目先の快苦に惑わされず長期的な利害を最大化し続けるのだ。――しかしその「長期的利害」とは何か?」(稲葉前掲書382頁)とあります。『ハーモニー』は、こういう理屈の部分と、あるがままに行動し思い煩わずに済むという「恍惚」のビジョンとの接続が、私自身ではうまくできず、気になってしまいました。

ひで ミァハに関しては、そもそも文化的に意識がない種族だから、大脳の一部で意識をシミュレートしているみたいな話がありませんでしたっけ。

 ありましたね。

江永 リドリー・スコット監督の『G.I.ジェーン』で参照されてもいるD・H・ロレンスの詩「自己憐憫」を踏まえた表現だと思うんですけど、「木の枝で凍えて落ちる鳥は、惨めさを知らない」ってトァンが述べている箇所があり、近くには「動物たちは人間に比べてどうにも幸せそうだと思えることがある」ともあるんです。でも、ここでいう「動物」と「合理性」と「社会化」の話が作中で合流してしまう。「完璧な判断力を有する人間には、意識は必要ないし存在しない」とトァンが言うので、その通りであれば「意識」なしに「判断」はなされることになる……?
 すみません、話を変えて、ナノマシンが何をしているとされるのかを見てみます。個々人の「意識」による自己管理はストレスがかかるので、ナノマシンで脳を調整する方がコスパがいい社会維持のやり方だ、みたいな雰囲気ですよね、『ハーモニー』は。「報酬系」をめぐる説明は繰り返し登場しますね。それが「その選択を繰り返し行いたくなる動機付けを与える領域」みたいに説明されてから、動機づけられるところの多種多様な「欲求」が擬人化され、「会議」の参加者に擬えられる。

ひで 「そして人間は、報酬系によって動機付けられる多種多様な要求のモジュールが競って選択されようと調整をおこなうことで最終的にくだす決断を意志と呼んでいるわけだ」というあたりですね。そしてその後、「ヌァザは、その欲求に与えられる報酬系の諸要素をいじることで、人間の意志を整除することが可能だと踏んだんだな」という冴紀教授のセリフに続く。

江永 読み返していて思いましたが、素人(トァン)に専門的な内容をかみ砕いて説明するという体裁で、発話者自身がわかりやすさのために概括したと述べている、喩えまじりかつ相互に食い違う説明が三者から(冴木、エーディン、ヌァザ)なされているので、細部を総合するのが大変なんですね(ミァハも加えると四者から)。ただそれらの大本の動機自体は、数十年前の大規模な社会動乱と核戦争の反省として、「人間が再び非合理的な混沌に還ってしまうことのないよう、セーフティネットを設定しなければならない」と思った人々がいたことに由来するとされている。そのための技術革新や探求に拠って、さらに踏み込んで「意識」を消す方向を目指す「異端」が現れてきたという話になっている。「異端」のスタンスとしては、ミァハの言葉を真に受ければ、「相互扶助」の制度とハウツーの体系が十分に備われば、「意識」で個々人に自己管理させるのはコスパが悪いし、現に「意識」を用いるよう強いられるせいで苦しむ人々がいる、みたいな主張になっている(そこで、作中では実験により、「意識」がないのが「幸福」で「恍惚」な境地だと示唆されているのが利いてくる)。

木澤 たとえば、法学者のキャス・サンスティーンと経済学者リチャード・セイラーは、ある主体が選択する際の無意識的な心理的メカニズムを「選択アーキテクチャ」と呼び、またそれを利用した無意識的な誘導を「ナッジ(nudge)」(背中をそっと押すこと)と呼んでいます。そこでは、ビッグデータやアルゴリズムによる選択環境をアーキテクチャの側で構築して、主体の選択を「ナッジ」で誘導してやることで当人の福利を向上させることが目指されるわけですが(このようなサンスティーンらの立場はリバタリアン・パターナリズムと呼ばれています)、ミァハはおそらくそれを脳の内部で直接やろうしている感じでしょうかね。そして、その脳の環境構築の過程で、意識が不要なものとして自然消滅していく、と。

ひで ハーモニープログラムは物理的に何を行うことなのかを具体的に記述すると、医療分子で中脳の報酬系を制御することなんですね。

江永 混乱してきた。社会にとって完璧に合理的だと、「意識」と呼ばれるものはない、という感じでしょうか。

木澤 より正確には、自己と社会の接点、その界面における摩擦がゼロになると、意識は立ち上がらなくなる。意識は自己が外界との間にある種のギャップを認識した際にのみ現れる。たとえば神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは『あなたの知らない脳』のなかで、意識を無意識下で作動している複数のサブルーチンシステムを制御する(企業における)CEOのようなものとして捉えています。これは『ハーモニー』における「報酬系によって動機付けられる多種多様な要求のモジュールが競って選択されようと調整をおこなうことで最終的にくだす決断を意志」とする記述とも重なり合う部分があります。イーグルマンの挙げている例に、自宅のドアの取手を誰かが少し上に取り付けなおした場合の思考実験があります。ドアの取手がいつもの場所にあれば、ドアを開ける作業は無意識に行われるでしょう。この経験にまつわるものすべてが、すでに脳内の無意識の回路に焼き付いているからです。ドアにまつわることはあらかじめすべて予期されていたので、意識が介入する余地がなかったのです。しかし、ドアの取手がいつもより少し高い位置にあった場合、すぐさま違和感を覚え、ドアの取手の異常に気づくでしょう。予期が裏切られたからです。意識が立ち上がるのはこの時点であって、そして次に何をすべきか、すなわち選択と判断の必要性に迫られる、というわけです。この場合は、ドアノブがいつもより少し高い位置にあったことが自己と世界との間における「摩擦」であると解釈できないでしょうか。そして極限すれば、この「摩擦」のない状態こそが調和、すなわちハーモニーということなのでしょう。

 なるほど。皆さんの『ハーモニー』や意識についての想いが伝わってきました。僕は本作については、意識の消失に加えてトァンのミァハへの感情が結構好きでした。父を奪われた衝撃、天才である彼女への複雑な感情、社会への強烈な違和感など、共感できる部分が結構ありました。若い頃に読んだ感想なので、今読むとまた違う感想になるかもしれませんが。
 余談ですが『ハーモニー』のアンサーとして、冲方丁さんがつくったのが映画『HUMAN LOST 人間失格』なのではないかと思っています。みなさんは観ましたか。あれは『人間失格』のオマージュとしては微妙でしたが、『ハーモニー』のアンサーとしては出来が良いと思います。同作は『ハーモニー』のように人がみなが医療ナノマシンを入れていて、環境破壊が進んだ最悪な状況の日本が舞台です。開発を優先して汚染されきったひどい環境ではあるけれど、人々はナノマシンをいれているから防護服なしでも普通に出歩くことができるし、ナノマシンが体内をきれいにしてくれるから二十四時間働き続けることもできる、というような限界日本が描かれています。そのナノマシンが人を治す際には、基準となる健康体を参照しているんです。でもじゃあ、その基準となる健康な人間って何? という疑問が浮かぶんですが、そいつらが「人間合格」した人たちです。それをもとにナノマシンは動いているのだけど、そのシステムを書き換えようとする悪い人間が現れるます。システムを書き換えると、人間はあるべき人間の姿を参照できず、姿を維持できなくなって化け物になってしまう。それでいろいろ胸糞悪い戦いが起こって…という話です。これを観ていると、ナノマシンで修復できるようになってしまった人間はそもそも人間と呼べるのか? と考えたりもして。そういう意味では『ハーモニー』へのアンサーなんだなと思いましたし、興味深かったです。『人間失格』的なお話とは違いますが、「人間合格式」などのパワーワードが連発される感じが面白い作品でした。

ひで 『ハーモニー』でいうナノマシンで身体を絶えず治療するという設定は、大気汚染がひどい地域の人たちがビタミンCのサプリメントをたくさん飲むということの延長でもあるように思えますね。ただ、ナノマシンがさらに個人の身体を超えて外部とも通信して、人間の基準に近づけるようにナノマシンが絶えず人間を改造している…という設定は、たしかに『ハーモニー』の延長なのかも。

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闇の自己啓発

江永泉・木澤佐登志・ひでシス・役所暁『闇の自己啓発

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