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【試し読み100ページ】新たなるサーガ、誕生――新世代の大河ファンタジー戦記 森山光太郎『隷王戦記1 フルースィーヤの血盟』

3/17発売の森山光太郎『隷王戦記1 フルースィーヤの血盟』。発売に先駆け、試し読み100ページを公開します。ファンタジー界・歴史時代小説界最注目の新鋭、ご期待ください。本作は全3作でのシリーズ化が決定しています(2巻=2021年夏、3巻=2021年末予定)。

隷王戦記1_帯

■あらすじ

「降るか、滅びるか」――東方世界(オリエント)を血で染めた覇者(ハーン)エルジャムカは草原の民三十万余へ選択を迫った。次期族長アルディエルは民を護るため降り、剣士カイエンは想い人の神子フランを救うため抗うも敗れ去る。流れ着いた世界の中央(セントロ)、砂漠の都バアルベクで軍人奴隷となったカイエンはやがて、神授の力を行使する英雄たちと、彼らを擁する強大な諸国間の戦乱に身を投じていく……。壮大なる大河ファンタジー戦記、全3巻開幕

■著者紹介

森山光太郎(もりやま・こうたろう)
2018年、第10回朝日時代小説大賞史上最年少の27歳で受賞し、翌年『火神子 天孫に抗いし者』でデビュー。他の著書に『漆黒の狼と白亜の姫騎士 英雄讃歌1』『王立士官学校の秘密の少女 イスカンダル王国物語』などがある。

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ルビ・傍点は一部省略しました。


プロローグ 追憶の挽歌

 儂(わし)の命が尽き果てるまで、あとどれくらいの時が残されているのじゃろうか。手の甲には深い皺が刻まれ、息を吸うことも吐き出すことも苦しくなって久しい身体だ。もはや、いくばくもない命であることは分かっている。
 分かっているからこそ、儂は自分の人生を振り返り、それを後世に伝えることが、わずかに残った使命なのだと信じている。
 なに、そんなに畏まらなくてもよい。儂に諸侯(スルタン)としての力があったのは、遠い昔のことじゃ。これから話すのは、そうさな、二つの英雄譚と言えば良いのかな。
 カイエン・フルースィーヤとエルジャムカ・オルダ。君もよく知った名であろう。その名を聞けば世界中の誰もが、瞳を大きくして憎悪の炎を燃やすはずだ。
 ふむ。その反応を見る限りでは、そのどちらに対しても好意と呼べる感情は持っておらぬな?
 よいよい。儂が彼らに近しい人間であることを知っているがゆえ、気を遣ってくれているのであろうが。そんな優しさを向けられるほど、儂は良い人間ではない。儂も彼らと同じく、世界へ咎を背負った身だ。
 この話を最後まで聞いた時、世界の仇として君が儂を憎むのであれば、その腰の短剣で刺してくれても構わないが……その決断は全ての話を終えてからにしてもらう。これは老人の我儘というものではなく、君が復興されゆく世界を生きるうえで必要なことだからだ。
 儂の意思を継いでほしいなどという大それた願いではない。ただ、もう二度と修羅の入り乱れる世界にせぬためにも、全てを知る者がいなければならない。
 だから、まずはそこに腰かけるといい。一晩では語り終わらぬほどの物語だ。なぜ彼らがそう呼ばれるようになったのか。なぜ、彼らがそうならなければならなかったのか。
 神の力を授けられた〈守護者〉と、神の力を奪いし〈背教者〉。
 竜巻ほどの業火を自在に操る者がいたかと思えば、人の感情を操る者や、木々を従え大地を自在に創りかえる者もいた。
 今となっては、おとぎ話のようにしか思えぬ光景ではある。
 だが、この二つの瞳は、彼らの人智を超えた戦いをいまだに焼き付けておる。彼らのもたらした、いや、彼らを使役して神がもたらした災いの一部始終をな。
 ああ、これか? この話を誰かにしたことはないが、つぶさに語ってゆけば、私はきっと泣かずにはいられない。老いぼれのむせび泣く醜悪な姿を君に見せるのはしのびないからな。せめてこの手拭いで顔を隠すようにと手に持っておるだけだ。
 一つ大事なことを言い忘れておった。この話を全て聞き終え、もしも君が誰かに同じように語ることがあれば、この物語の表題だけは私の言った通りにしてほしい。
 どこかへと姿を消した薄情な友の、最後の言葉だ。
 神を殺した英雄譚──。
 私もこの題はどうかと思うが、事実、彼らの物語を表してあまりあるものではあるのだよ。ただ願わくは、私のつけた副題も添えてくれると嬉しい。それはこの話の最後に言うとしよう。
 まずは二人の邂逅からであろうな。カーヒラ暦一〇九四年……春の芽吹きの頃じゃ。全ての物語の始まり。それがなければ、世界がここまでの混沌に包まれることもなかったであろう、出会いの物語だ──。


第一章 邂逅の大地

    Ⅰ

 地を這う大河をはりつけたような雲が流れていた。
 太陽は中天に輝き、心地の良い風が柔らかな草の匂いを運ぶ。うららかな春の陽気の中、遥か地平線まで見渡せる小高い丘の頂上をめざして、二つの人影が足早に歩いていた。
 前を歩く青年は端整な顔立ちをしているが、その鋭すぎる目つきが険のある印象を際立たせている。中肉中背、草原の民らしく俊敏な身体を持ち、右腕には黒い布を巻きつけている。
 青年の張り詰めた空気につられてか、後につく少年の顔はやや強張っている。肩まで垂らした銀髪は太陽の光でよく目立つが、それ以上に目の覚めるような美しさが際立っていた。丁寧に仕立てられた絹の上衣を見れば、前を行く目つきの悪い青年よりも暮らし向きは裕福なのだろう。
「ねえ、カイエン。歩くのが速い」
 先に沈黙に耐えきれなくなったのは、後ろを歩く銀髪の美少年だった。丘の麓ではゆっくりと歩いていたはずだが、頂上の石柱が見え始めた頃から小走りに近い速度になっている。
「そんなに急いでも逃げやしないよ。それに疲れた状態で挑んでも、勝ち目はないだろ。ねえ、聞いてる?」
 無口な姉フランとは対照的に、銀髪の美少年は喋り出すと止まらない。このまま無視すれば、彼は頂上まで、ひたすら一方的に喋りかけてくるだろう。
 不本意ながら、目つきの悪い青年は立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。草と土の匂いが、胸いっぱいに広がる。
「そんなに速かったか? タメルラン」
「息切れしているのが何よりの証拠だろ」
「していない」
 呼吸を隠すように口をつぐんだカイエンに、タメルランがにやりとした。
「カイエンでも緊張するんだね。草原のはみ出し者なんて言われて、気に入らない奴を五人、六人ぶちのめして土下座させても平気な人でなしなのにね」
 人らしい感情を垣間見られて嬉しいよ。そう肩を竦めるタメルランに、カイエンは舌打ちして、銀髪を軽くはたいた。
「だれが人でなしだ」
「いずれ義理の兄になる人だよ」
 楽しそうに喋るタメルランに、カイエンは小さく呻いた。
「いずれ、というところにお前の性格の悪さが滲んでいるな。もうすぐと言えよ」
「そう言いたいのはやまやまなんだけど。さすがにアルディエル相手では、僕も楽観的な物言いはできないからさ」
 天と地を結ぶようにそびえる石柱を丘の上に見つめ、カイエンは年少の美少年の言葉に不承不承頷いた。
「なんだってあんな化け物がフランの〈守り人〉なんだ」
「それは姉上だからでしょ。まあ僕としては、これまで隔離されてきた姉上の、初めての我儘なんだ。カイエンには姉上と結ばれてほしいよ」
「アルディエルは手を抜いてくれないかな?」
「どうだろうね。アルディエルも姉上の願いが叶うことを祈っているだろうけど、姉上を護ることができない者に負けるつもりはないだろ」
 餌を求める雛鳥のようによく喋るタメルランとは対照的に、その姉フラン・シャールは口数の少ない乙女だ。
 憂いを帯びた瞳は、人の心の奥底までをも見通すように感じる。初めて出会った時に向けられた視線は、それこそ心臓を凍りつかせるような冷たいもので、世界を拒絶しているようにも見えた。
 フランは父である現族長ジルカ・シャールの命で、幼い頃から草原の民と隔離されて育ってきた。だからだろうが、その原因となった彼女の人ならざる力について、カイエンはよく知らなかった。
 問い質そうとしても、フランは寂しげに首を横に振るだけで、何かを知っているのであろうアルディエルやタメルランもそれを口にしたことはない。
 故郷を追放同然で飛び出し、風の吹くままに流浪している一年前のことだった。深い森に鎮座する古びた社は、小鳥のさえずりに包まれ、時を止めたかのようにそこにあった。
 草原から離れた神颪(かみおろし)の森で出会った少女は、木漏れ日の中にたたずむ姿こそ神々しさを感じさせた。だが、話すようになってみれば口数の少ない普通の少女であり、民が恐れるような力を持っているとは到底思えなかった。
「アルディエルを倒せば、族長は俺にもフランの力を教えてくれるんだよな?」
 息も落ち着いてきた。それを感じてか、タメルランが微笑んで頷いた。
「年頃の女性には〈守り人〉がつけられ、〈守り人〉を倒した者がその女性の夫になる。草原のしきたりに倣えば、夫になるカイエンにも知ってもらう必要がある」
 ただまあ、とタメルランが丘の頂上を見上げた。
「姉上のことを抜きにしても、アルディエルはカイエンに負けたくないんじゃないかな? 不世出の麒麟児と言われてきたアルディエルは、一年前のあの日にカイエンと出会って、初めて好敵手と呼べる相手を見つけたんだ。いつも言っているよ。あいつだけには負けないと」
「はた迷惑な対抗心だな」
「顔が嬉しそうだよ」
「そんなわけあるか。それに、あいつは一度俺に負けているよな?」
 タメルランが考え込むように目を細め、苦笑した。
「一年前のこと? あれはまあ、不意打ちというかね。ただそれ以来、カイエンはアルディエルに一度も勝ててないでしょ」
「……負けてもないだろ」
 いつも一言多い少年の肩に拳を突きつけ、カイエンはゆっくりと頂上への道を歩き出した。

 膝のあたりまで伸びる草に覆われた草原にあって、無造作にそびえる六本の石柱は、どこか場違いなものを感じさせる。人力では到底動かせないほどの巨岩は、いつ誰がここに運び込んだのかも知られていないが、円形に配置された石柱は、古来より神前の儀式の場として守られてきた。
 先ほどの会話でほどけたはずの緊張が再び込み上げてきたのを感じながら、カイエンは短く息を吐き出した。
 見上げた石柱から視線を外し、カイエンは中央に立つ一組の男女へとその鋭い瞳を向けた。
 流れるような銀髪を腰まで伸ばし、白い綾衣をその身にまとう少女は、初めて見た時から少しも変わっていない。白磁のような肌には、しかし隠しきれない陰がある。幼い頃から両親と弟、そしてアルディエルとしか喋ることを許されず、孤独に生きてきた少女の瞳には、深い憂いがあった。
『カイエン。私も貴方と同じ。帰る場所を知らない渡り鳥』
 かつて彼女がこぼした渡り鳥という言葉は、少女の精一杯の強がりだったのだろう。人の目に触れず、一生を森の中で終えることを宿命づけられた少女の、淡い憧れだ。
 警戒していた少女がカイエンを名前で呼ぶようになり、そして微笑みを初めて見せてくれた時、流浪の中にようやく現れた止まり木のようにも感じた。帰る場所にはなれないかもしれない。だが、自分も少女が心を安らげる止まり木になれれば──。
 少女への想いが、癒やすことのできない病だと気づくのに時間はかからなかった。
 ようやく告げることができる。
「待ったか?」
 声は震えていない。そんなことを気にしてしまうのは、本当に緊張しているからなのだろう。待ちに待った瞬間であることは確かだが、そのために乗り越えなければならないアルディエル・オルグゥという高すぎる壁に、自分は呑まれているのだろう。
 風になびく金色の髪が、太陽の光で煌めいている。半身ほどもある剣を地面に突き立て、こちらを見つめる碧眼の青年が、ゆったりと微笑んだ。
「相変わらずだな、時を違える癖は。怯えて逃げ出したのかと思ったよ」
「アルディエル、お前には聞いていない」
「つれないな」
 微苦笑とともに肩を竦め、アルディエルが身体をずらすと、フランの瞳がまっすぐカイエンを見つめていた。
「カイエン……」
 少女の声はいくぶん震えている。〈守り人〉との決闘は、その者の守護する女性の父が許さなければ認められない。当初、流れ者であるカイエンの挑戦を認めなかった族長ジルカに抵抗したのは、フラン自身だった。
 生まれて以来、父親の言いつけを従順に守ってきた少女の初めての抵抗だった。認められなければ草原を捨てて逃げ出すという頑なな意志に、族長も頷かざるをえなかったという。
「フラン、心配しなくていい。すぐにその金髪を倒して、君の手を取る」
 鋭すぎると自覚している瞳に、精一杯の優しさを込めた。アルディエルの微苦笑の向こうで、フランが拳を握りしめている。
「……私は」
 期待と不安がない交ぜになったような今にも泣き出しそうな表情だ。胸が締め付けられるようだった。駆け出したくなる気持ちを、吐息と共に吐き出した。
 表情の理由は、カイエンがアルディエルに勝てるかどうか、ということばかりではないのだろう。
 族長ジルカ・シャールが、フランを草原の民から隠すようにして育ててきた理由──。知ってしまえば、誰もが恐れて逃げ出すか、利用しようとする。人ならざる力を持っているがゆえに、フランは恐れているのだ。カイエンが勝利しフランの秘密を知った時、離れていくのではないかと。
 そんなわけはない。何度も口にした言葉だが、十七年間孤独に生きてきた少女にとっては、容易に信じられないであろうことも理解できた。
 だからこそ──。
「アルディエル。俺は、お前に勝つよ」
「今日は、一年前と違って不意打ちは使えないぞ?」
「まだ根に持っているのか」
「戦いの中で膝をついたのは初めての経験だったからな」
 揺るぎない自信を漲らせ、アルディエルが苦笑した。
「姫、お下がりください。ここからは、私とカイエン二人だけの場です。タメルラン、お前も下がりなさい」
 姉弟への言葉は丁寧であり、だが有無を言わせぬ威厳に満ちていた。いずれ三十万余の草原の民を統べる男の言葉だと思えば当然だろう。フランが石柱の傍に下がり、背後でタメルランが遠ざかっていく気配を感じた。
〈守り人〉との戦いは、どちらかが敗北を認めるまで決着しない。
 それは巧妙なしきたりでもあった。想い人の前に立ちはだかる〈守り人〉は、挑戦者にとって時に殺したいほど憎い存在になりうる。だが、殺してしまえば〈守り人〉が敗北を告げることはできず、挑戦者は永遠に勝利することはできない。殺さずとも圧倒できるだけの力を、挑戦者は求められるのだ。
 静かに闘志を漲らせてゆく金髪の青年の姿に、カイエンは背に負った剣の柄を握った。
 本気で戦えば、どちらかが死ぬ。
 出会った瞬間からお互いに抱いている相手への評価だ。
 本気にならなければ勝てない相手に、敗北を認めさせる。それがどれほど難しいことであろうと、負けるつもりはなかった。
「合図は……」
 アルディエルが言葉を区切り、視線をタメルランへ流した。
「タメルラン」
 振り向かずとも、年少の美少年が唾を呑み込むのが分かった。
 唸るような風が、アルディエルの黄金色の髪を舞い上げる。あまりにも強い碧眼の光に魅入られそうになった刹那、緊張で糸を震わせたような甲高い声が響いた。
「始め!」
 タメルランの叫びと重なったのは、地面を穿つような炸裂音だった。
 一瞬前まで間合いの外にいたはずのアルディエルの顔が、息が触れるほどの距離にある。先の先へ仕掛けてくる強気は、どこまでもこの男らしい。
 だが、その程度で先は取らせない。
 アルディエルの意思がその剣に伝わる直前、カイエンは無造作に踏み込み、アルディエルの剣を鞘の中に押し込んだ。察していたのだろう。燕のように飛んできたアルディエルの拳を鼻の先で躱すと、すれ違いざま、カイエンはその背中を突き飛ばした。
 フランとの間に遮るものがなくなった。
 白い綾衣の少女は、両手を胸の前で結んでいる。鳶色の瞳が、まっすぐに自分を見ていた。口にしたことのない言葉があるの──。少女の声が聞こえた気がした。
 掟ゆえに口にできなかった言葉だ。唇を噛む少女に、カイエンは頷いた。
 分かっている。伝えるために、俺はここに来た。
 今すぐにでも駆け寄り、抱きしめたい。込み上げてきた感情は、だが、それを許さない背後からの闘志によって覆いつくされた。その男を倒さねば、この想いを伝えることはできない。背に負った長剣を抜いたカイエンは、ゆっくりと振り返った。
 立ちはだかるアルディエルに、鈍色に光る切っ先を向けた。
 風によってなのか、彼自身がそう見せるのか。逆立った金色の髪の下でこちらを見据える碧い眼光は、王の裁きを下さんとする獅子のようにも見える。太陽の熱さなのか、血の滾りなのか、身体の内側が燃えるようだった。
 ──この男に勝ちたい。
 心の奥底から聞こえてきた。生涯でたった一人、勝てないかもしれないと思った男に勝ち、フランの柔らかな手を握る。
 自然と口が開いていた。
 腹の底から湧き起こる感情が口から漏れ、雄叫びのようになった時、二人は同時に駆け出していた。
 詐術のようだった。左右から同時に迫るようにも見える一振りの剣を無視し、渾身の突きを放った。歯を食いしばる。左腕に焼けるような痛みを感じた瞬間、カイエンの剣から肉を抉る感触が伝わってきた。
 天からまばゆい斬撃が降ってきた。垂れこめる曇天を切り裂くように、剣を振り上げる。全身が痺れるような金属音が響き、目を眩ませる火花がアルディエルの顔を茜色に染めた。
 よく知ったアルディエルの顔が、そこにはあった。
 俺だけは知っている。フランの父である族長に拾われたお前が、恩を返すために草原を背負うと決めたことを。
 そして、フランへの妹へ向けるようなまなざしの中に、他の色合いが混じっていることも。決して叶わぬ想いだと、お前がそれに気づくまいとしていることも、俺は知っている。
「……同情はしない」
 声にした言葉の意味は分からないだろう。だが、アルディエルの瞳に、怒りに似たものが滲んだ。
 刹那、剣が離れた。飛び退りながら放った剣閃は、見事に撃ち落された。
 互いに間合いの外に出た。
 冷たいはずの風が熱く感じる。アルディエルから向けられる闘志に呼応して、身体が燃えるように熱い。左腕から血が流れている。痛みはなかった。向かい合うアルディエルの右肩にも血が滲んでいるが、その傷が剣を鈍くすることはないだろう。
 ──本気になれば、どちらかが死ぬ。
 次の一撃で勝負は決まるかもしれない。だがその結末は間違いなく自分か、アルディエルの死によってもたらされる。
 二つの鼓動が重なり、どちらともなく地面を蹴ったその時──。
「離れな!」
 肌を弾けさせるほどの言葉が、草原の風と共に吹き抜けた。アルディエルは左に、カイエンは右へと身体を転がし、そして向かい合った。
「──イスイ。何をしたのか、分かっているのだろうな」
 いつも冷静沈着なアルディエルからは想像できないほどの怒気を向けられたのは、カイエンたちの決闘を妨げた言葉の主だった。イスイと呼ばれた女は、腰に手をあてて立っている。
 下肢は足元までを毛皮で覆っているが、上半身は目のやり場に困るほど露出が多い。首元の青い襟巻は、族長側近の一人である証だ。歳は、二十を超えた程度だったはずだ。長い黒髪を後ろにまとめ、あらわになった二の腕に刻まれる蛇の入れ墨が蠢く様は、妖艶さを感じさせる。
「イスイ──」
「今すぐ長の村(コルム)に戻ってこいと、族長が仰せだよ」
「儀式を妨げたからには、相応の理由があるのだろうな」
 どこか冷静さを失ったかのようなアルディエルの言葉に、カイエンはおやと思った。普段であれば、ここで怒る役と、なだめる役は逆のはずだ。
「あんたは次期族長だろう。らしくない熱さはよしな。そんなのそこのはぐれ者だけで十分だ」
 さりげなくカイエンへの蔑みを放り込んできたイスイに何と言うべきか迷い、カイエンはひとまず舌打ちをしてみせた。
「何が起きた」
「カイエン・フルースィーヤ。ぞんざいな口調で話しかけられるほど、あんたと仲良くしたつもりはないよ」
 表情一つ変えず吐き捨てたイスイに、カイエンは再度大きめの舌打ちをした。
「おい、アルディエル。族長の忠実な僕(しもべ)は、俺とは口を利きたくないそうだ。普段の間抜け面が見る影もないところを見れば、それなりに深刻なことが起きているんだろ」
 静かな息を吐き出したアルディエルの顔が次期族長のものへ変わり、その身体をイスイへと向けた。
「何が起きた?」
 イスイが口をつぐみ、カイエンへと視線を向けた。
「いい。もしも闘争が必要であれば、カイエンの力は必要だ」
「……よそ者だろう」
「私の友だ」
 有無を言わせぬ言葉に、イスイが観念したように頷いた。
「──滅びの使者が、長の村(コルム)に現れた」
 吐き出そうとした言葉が崩れ、カイエンの口から漏れていく。急激に体温が下がったようにも感じる。イスイの言葉は、それほどに衝撃的なものだった。
 長い沈黙を破ったのは、草原を率いる責務を持ったアルディエルだった。
「……極東の覇権争いは、エルジャムカの勝ちか」
「十日で決着したそうよ。敗れた極東の王アテラは、二十万の大軍と共に生きたまま穴埋めにされたというわ」
「容赦ないな……」
 わずかに上ずった声は、この場にいる五人の中で、最も若いタメルランのものだ。言葉の震えは、それが草原の民に降りかかる運命かもしれないからだった。
 エルジャムカ・オルダという名を知らぬ者はいない。
 世界は、十二の大国が不気味な均衡を保つ西方世界(オクシデント)と、無数の群雄が入り乱れる大乱の世界の中央(セントロ)、そして史上初めて覇者(ハーン)と呼ぶべき者が現れた東方世界(オリエント)に大別される。
 エルジャムカが牙の民の王として、世に姿を現したのはわずか十年前のことで、まだ齢三十にもなっていないはずだ。
 遥か北辺の土漠で旗を掲げた深紅の瞳を持つ王は、誰も予想しえないほどの早さで極東を斬り従え、そしてかつての友であり、最後の雄敵となった極東の大王アテラを屠ったのだという。
 草原の民の暮らす大地は東方世界(オリエント)の南西に位置し、南北を長大な山脈の壁に遮られている。東方世界(オリエント)と世界の中央(セントロ)を結ぶ交易の道からも大きく外れ、独立独歩を保ってきた(というよりは、あえて草原を攻めようという者がいなかっただけなのだが──)。
「牙の民の王エルジャムカは、向かう先の民に、滅びか服従かを選ばせる」
 確認するように視線を向けてきたアルディエルに、カイエンは頷いた。
「使者に服従を申し出れば、牙の民は素通りする。だが抵抗を選べば、一人残らず皆殺しとなる、だったか?」
「ああ。だが、たとえ服従を選んだとしても、二本足で立つことのできる男は戦の前線に立たされ、残った女子供と老人は寝る間もなく働かされ死んでいく。どちらを選んだとしても、いずれは民ごと消えてなくなる」
「滅びの使者とは、よく言ったものだな」
 そう呟いたカイエンを、イスイが睨みつけていた。
 草原の民が居を構える大地は、東方世界(オリエント)と世界の中央(セントロ)の狭間に位置する。
 極東の覇者となったエルジャムカが、さらに世界の中央(セントロ)をも望むのであれば、避けては通れぬ道だ。三十万の人口を数え、壮年の男だけでも十万を数える草原の民は、エルジャムカにとって兵として垂涎の代物に違いなかった。兵站基地としても、格好の場所にある。
「それで、使者の言葉は?」
 アルディエルの問いかけは、イスイの瞳の光を弱々しくした。
「降るか、滅びるか。返答次第で、草原を囲む百万の兵が裁きをもたらす。そして──」
 言葉を区切ったイスイが、躊躇するように息を吸い込み、ゆっくりと視線をフランへと向けた。フランを見つめる視線には、やはり忌々しげな光が滲んでいる。同時に、少女を恐れるような怯えも混ざり合っていた。
 不気味な力を持つとされる少女が、これまで幾度となく向けられてきた視線だ。
「──フラン・シャールを捧げねば、いずれを選ぼうとも滅びからは逃れられぬ」
 一気に言葉を吐き出したイスイが、フランから視線を外す。
 五人を深い沈黙が包み込んだ。それほどに、イスイの口から響いた言葉は、予想外のものだった。
 極東の覇者が、なぜ辺境の孤独な少女の名を持ち出してくるのか。
 早鐘を打つ鼓動の中でカイエンが見たのは、何かを諦めたかのようなフランの表情だった。驚きも悲しみもそこにはない。まるで、そうなることが分かっていたかのような──。
「フラン……」
 少女にかける言葉を見つけられないうちに、アルディエルの歯切れの悪い言葉が耳朶を打った。
「長の村(コルム)へ戻り、策を立てる」
 そう言って駆け出した彼の背を追うように、カイエンもまた走り出した。ちらりと振り返った時、フランの心配そうな瞳がまっすぐにカイエンを見つめていた。
 気をつけて。少女の口がそう動いたような気がした。

 地平線まで広がる草原に、溢れんばかりのテントが無秩序に広がっている。直径一ファルス(五キロメートル)をゆうに超える円形の柵の中、鞣した獣の皮を重ねて設営されるテントの大小は、そのまま持ち主の権力を示していた。
 丘陵地帯を越えたカイエンの目に飛び込んできた広大な草原の町は、ジルカ・シャールが前任者より族長を引き継いで以来三十年、徐々にその規模を大きくし、今ではここだけで八万を超える民が暮らしている。
 握りしめた拳が、細かい砂でざらついた。
 長の村(コルム)の空気は、舞い上がる砂の匂いと極度に緊張した人の放つ体臭とで、かつてないほどに荒々しくかき乱されている。家財の全てを馬に積み逃げ出そうとする者がいれば、それを阻止すべく甲冑を着込み制止する者もいる。
「……まずいな」
 背後からアルディエルの呟きが聞こえた。ぬかるんだ草原の道を一ファルス(五キロメートル)も駆け通してきたせいで、すぐ先ほどまで荒い息をこぼしていた。だが、村の混乱に肺の苦しさを忘れてしまったようだった。
「さっきの今で、なぜここまで混乱しているんだ……」
「今日は祝祭日だ。族長の生誕日は、一族をあげて祝うことになっている。長の村(コルム)にもっとも人が集まる日だ」
「牙の民の使者は、それを狙ったかな」
「知るか」
 容易に収拾できないであろう事態を前に、アルディエルの声は珍しくなげやりなものだった。
「カイエン。軽騎兵五百を率いて逃げ出す者を封じてくれ。村の治安がこれ以上崩れるのを避けたい。巡邏隊は四隊から十二隊へ。それから、五百の小隊を長の村(コルム)から二ファルス(十キロメートル)四方の地点に配置」
「軍の召集は?」
「南の村(アスルム)に三万を。十七の全ての村長に出向くよう伝令を」
「了解。北の村(バラム)に関しては、村長不在を衝かれぬよう、ガヤの盗賊の牽制に二千騎送るぞ。それからフランの護衛にも五百を割く」
 指示の穴を補強するように付け加えると、アルディエルが浅く頷いた。
「手配を終えれば、お前も族長のテントに来い」
「族長の嫌そうな顔が目に浮かぶ」
「非常時だ。そう邪険に扱いはしないさ」
 どうだかと肩を竦め、カイエンは遠目に見える一際大きな紅白のテントへと目を向けた。六十歳をいくつか超える族長は、柔軟さの欠片もない男だった。フランを草原の民から切り離し、孤独に育てることを決めたのも、彼が人ならざる力を忌んだからだ。
「儀式は中断されたが、お前には話しておく必要がある」
「何を?」
 問いかけに、アルディエルは一瞬躊躇うように口を閉ざし、黄金色の髪をかき上げた。
「──フランの力についてだ」
 必ず来いよ。そう言い残したアルディエルが踵を返して駆け出していった。

    Ⅱ

 その臭いは、族長のテントに入る前から漂ってきていた。
 あまりにも強い血の臭いに、アルディエルの心臓の音が速くなった。族長を護るはずの衛兵たちが、その巨躯を丸めて怯えきっている姿を見れば、異常な事態が起きていることだけは確かだった。
「アルディエル・オルグゥ、入ります」
 返答がないことを予想して、三数えたアルディエルはテントの中に身体を滑り込ませた。
 自分を見つめる無数の瞳に、思わず息を呑んだ。
「……これは」
 三十は超えているだろうか。地面に所狭しと並べられた生首の群れにアルディエルが二の句を継げないでいると、奥座敷に足を投げ出して座る族長ジルカ・シャールが力なく項垂れた。血の臭いに混じって、酒の匂いが漂っている。
「北辺の民じゃ。二日前、牙の民に抵抗し皆殺しにされたのだという」
「我らに対する脅しですか」
「服従せねば我らもこうなると」
 常に厳しい表情で草原の民を率いてきた族長が、全身に弱々しさをまとっていた。
 牙の民の軍勢は百万を超えるとも言われる。抵抗すれば、女子供を合わせても三十万ほどの草原の民に勝ち目はないだろう。兵は七万しかおらず、それにしても歴戦の牙の民の兵とは比べものにならない。
 民を率いる者の苦悩は、手に取るように分かった。
「どうされるおつもりです?」
 齢六十を超えてその判断力も鈍ってきている今、草原の民の存亡をかけた決断を迫られることになろうとは思ってもみなかっただろう。
「どうするとは?」
 まるで想定していなかった言葉を聞いたとでもいうような族長のオウム返しに、アルディエルは嫌な汗が流れるのを感じた。
「牙の民の使者が来たということは、我々に残されている選択肢は三つです」
 族長の瞳の揺れに、アルディエルは続けた。
「牙の民に抵抗し滅びるか、服従し滅びるか、それともこの地を捨てて逃げのびるか」
「抵抗はいかん」
「ならば服従するか、逃げのびるか。ですが、ご存知でしょう。服従した民の男は、戦の最前線で牙の民を護る盾として死ぬ。女子供は前線の兵たちの空腹と肉欲を満たすため、ろくに食べ物も与えられず衰弱死するまで働かされる。服従もまた滅びと同義です」
 逃げのびるしか、草原の民が生き残る道はない。そしてその機会を生かす時はほんのわずかしか残されていない。
「もしもこの地を捨てるならば、今すぐにでも──」
「待て、アルディエル。彼らは条件を出してきた」
 震えるように遮った族長が、首を大きく横に振った。
「条件?」
「フランを差し出せば、草原の民は、牙の民の譜代の臣下として扱うと」
 縋るような族長の言葉に、血の気が引いていくのを感じた。もしもここにカイエンがいれば、族長を殴り飛ばしていたかもしれない。
「……何を言っているのか、分かっておられますか?」
 思ったよりも怒気を孕んでいる言葉に、族長が肩を震わせた。
「あなたもお分かりのはずだ。牙の民がなぜフランの力を欲するのか」
 フランの力を畏れ、少女の表情を奪ったのは族長だった。
『……私はいらない子なの?』
 十二年前、俯く少女からこぼれた言葉は、今も覚えている。
 一年のほとんどを、民が近寄ることを許されぬ神颪の森で過ごしていた。傍に仕えるのは声を失った老婆のみで、年に一度だけ長の村(コルム)へ帰ることを許されていた。父母の抱擁を恋しがるような歳だ。だが、抱きしめられることを期待した少女に父母が向けたのは、まだ生きていたのかというあまりに冷たい瞳だった。
 娘の死を願う両親の瞳に、少女は口を歪めて涙を流していた。もう一年我慢すればきっと抱きしめてくれるはず。そう言って、アルディエルの手をきつく握りしめながら、孤独が待つ神颪の森へと帰っていく。毎年、繰り返してきた。
 だが、少女のほんの些細な願いが叶えられることはついになかった。その言葉からも、いつしか疑問符は消えた。
 その力を使えば、容易な願いだったろうと思う。だが、少女は本物が欲しかったのだ。
 笑顔を失い、徐々に口数も少なくなっていく少女に、アルディエルは何もしてやることができなかった。だからこそ、カイエンと名乗るまっすぐな青年が、何度も何度も少女に拒絶されながらも毎日違う花を持って現れ、ついに微笑ませた時は、見つからぬよう木の陰で嬉し涙を流した。
 人への期待を失った少女が見せた十二年ぶりの笑顔だった。
 ようやく笑顔を取り戻した少女から、再び奪おうというのか。
 握りしめた拳が、悲鳴をあげていた。
「──あなたは、姫に史上最悪の殺戮者になれとおっしゃるのですか?」
 こぼした言葉に滲む悲痛は、自分でも予想していなかったものだ。
 もしも牙の民がフランの力を手中にすれば、世界中に悲劇をもたらすだろう。
 古い伝承に伝わる〈鋼の守護者〉の名は、一つの民を滅ぼした者の名だった。笑い合う友の胸に剣を突き立て、愛する人の喉を締め上げる。突如として狂乱した十万の民による同胞殺しは、最後の一人となった〈鋼の守護者〉の死によってようやく終わりを迎えたという。
 伝承の悲劇を思い浮かべ、アルディエルは首を左右に振った。
「姫の力は、人の心を操ります。極東の覇者がそれを知って欲するとすれば、使い道はただ一つ。兵の心を操り、人を殺すことに何の罪悪感も抱かせぬようにすることでしょう。世界の中央(セントロ)に挑もうとするエルジャムカの瞳は、その先の西方世界(オクシデント)すら見据えているはずです。強大な覇者に統率された、心を持たぬ百万の兵は、間違いなく世界の災厄となりましょう。あなたは、姫をその元凶にしようと言うのですか?」
 責める言葉を遮るように族長が掌を突き出してきた。その目には言い訳するような光が滲んでいた。
「……どうしようもないのじゃ。百万を超える牙の民の軍は、すでに草原を遠く囲んでおる」
「はったりかもしれません」
「じゃが、そうではないかもしれん。アルディエル。三十万の民の命がかかっておるのじゃ。甘い考えで判断することはできぬ。フランを差し出すことで守ることができるのであれば、儂は……」
 こぼすような族長の瞳に、アルディエルは唇をかみしめた。
 族長の言葉は、長の言葉としては何一つ間違っていない。
 長になって以来三十年、民を愛し護り続けてきた目の前の男が、忌むべき娘と引き換えに民の命を守るべきだという判断を下すであろうことは理解できる。
 だが、これは草原の民だけに留まる話ではないのだ。
 口の中に、血の味が広がった。
「……その決断は覆らないのですね?」
 族長の目には頑なな光が浮かんでいる。三十年、身を粉にして民のために生きてきた男だ。年齢以上の深い皺が刻まれている顔を見て、アルディエルはゆっくりと息を吐き出した。
 妹のようなフランの〈守り人〉として、その頬に浮かぶのは笑顔であって欲しいと願う自分がいる。フランを微笑ませることのできる友の、まっすぐな恋慕を尊重したいと願う自分がいる。
 フランが人への期待を二度と失わぬよう、アルディエルはカイエンにとって高い壁であり続けてきた。何度も挑むカイエンの姿を、フランの目に焼きつけてほしかった。こんなにも想ってくれる者がいるのだと。アルディエルの想いは知らなかっただろうが、カイエンも決して屈することなく自分に挑み続けた。二人の幸福を心から願っている。
 だが──。
 鋭い痛みに拳を見ると、爪が皮膚に食い込み、肉が裂けていた。
 孤児だった自分を育てあげてくれた族長の助けとなりたいと願う自分もいる。自分を慕う民を護りたいという想いもある。
 いくつもの願いに、身体が引き裂かれそうだった。だが、ここで自分の願いを叶えるために動くことは、決して許されないこともまた、不世出の麒麟児と呼ばれる青年は知っていた。
 誰もが皆、自分の身に降りかかる未来に怯え、混乱している。自分までもが降りかかる運命に呑み込まれれば、この世界は闇に包まれてしまうことを、アルディエル・オルグゥだけは知っていた。
「──牙の民との交渉は、私に一任してください」
 瞳を開いた族長から、アルディエルは少しだけ顔を背けた。
「次期族長として、民を想う気持ちは同じです。フランと引き換えに民の命が護られるのであれば」
 言葉が喉に絡まった。尊敬してきた男に嘘をつくことに躊躇っているのだろうか。それとも、言葉にすれば後戻りできないことを恐れているのか。
 長く息を吸い、目を閉じた。
 自分の決断がいかなる結末をもたらすのか。
「病魔に侵された身体で、牙の民と話し合うのは無理でしょう。次期族長として、私が交渉の場に立ちます」
 妹のように思ってきた少女を、自分の手で殺すことになるかもしれない。友を、絶望の中に殺すことになるかもしれない。
 これは賭けだ。
 瞼を開いた時、そこには震えながら泣く老人の姿があった。

    Ⅲ

 底の開いた桶を塞ごうとするようなものだった。長の村(コルム)から逃げ出そうとする民を宥めすかし、時に脅して秩序を守ろうとする行為にどれほどの意味があるのか。恐怖に支配された民衆を、上から抑えつけることは難しい。下手を打てば流血沙汰になり、かろうじて保たれている秩序は崩壊するだろう。
 吹き抜けた風に、季節外れの肌寒さを感じた。
 長の村(コルム)の門には、外に逃げ出そうと列をなす民の群れが、延々と続いていた。俺たちを殺す気かとまだ若い男たちが怒鳴り声をあげ、五百の衛兵が必死で塞いでいる。
 すぐそばで、衛兵の隙を衝いて老人が馬に飛び乗った。すかさず衛兵の一人が飛びつき、老人を引きずり下ろした。
 痛そうだなと呟いたタメルランの肩に、カイエンは右手を乗せた。
「タメルラン、あの御老公には温かなスープでも飲んで落ち着いてもらえ。あとは任せる」
「カイエンは?」
「アルディエルのところに行く。村長たちの招集を待っている暇はない。このままでは、今夜にでも暴動が起きるぞ」
 姉とよく似た美貌を悩ましげに歪め、タメルランが見上げてきた。
「どうするつもり?」
「どうもこうもないな。牙の民の使者が来た時点で、滅びるか逃げるかしか選択肢はなくなっている。俺はフランを攫ってでも逃げるよ」
「でも、そんなことをしたら牙の民は草原を滅ぼすんじゃ……」
「だからだ」
 タメルランに背を向け、カイエンは吐き捨てた。
「フランを攫えば、草原の民も逃げざるをえないだろう。抵抗しても服従しても滅びの運命は変わらないのであれば、とっとと逃げ出した方がまだ目はある」
 フランが服従の条件となっていることを民は知らない。もしも知れば、今まで畏れ蔑んできた少女を人身御供にすることを、草原の民は諸手を挙げて賛同するだろう。そうなる前に、連れ出す必要があった。
「逃げ出す準備だけはしておけ」
 そう残し、カイエンはタメルランの返答を待たずに駆け出した。
 赤と白に塗り分けられた族長のテントは、長の村(コルム)のどこからでも視認できるほどに巨大だ。贅沢華美を嫌う現族長はもっと簡素なものを望んだというが、周囲が許さなかったという。確かに、有事の際に指針を示す者がどこにいるか、一目でわかることは重要なのだと今更ながら感じていた。
 アルディエルであれば、時の猶予がないことは分かっているはずだ。もはや全ての民を救うことはできない。草原の民全てが逃げ出せば、その大半は牙の民の追手に殺されるだろう。だが、それでも確実な滅びよりは遥かに良い。アルディエルは痛みを伴う決断をできる男だと、カイエンは信じていた。
「アルディエル」
 ちょうどテントから出てきた金髪碧眼の青年の姿に、思わず叫んでいた。うずくまる衛兵の群れの中に駆け込み、カイエンは荒い息を吐き出した。
「カイエン」
 頭上から降ってきたアルディエルの硬い言葉に、鼓動が大きく鳴った。息を整え、顔を上げる。
 そこにあったのは、次期族長としての姿だった。
「草原の民は、牙の民に降る」
 耳を疑う言葉だった。
「……聞き間違いでないならば、お前は今、草原の民を滅ぼすと言ったように聞こえたが、それは言い間違いだろうな」
 言葉の後半は叫び声のようになっていた。カイエンの言葉に、衛兵たちがざわめきだしたが、目の前の碧い瞳には、欠片ほどの動揺も浮かばなかった。
「この馬鹿野郎」
 思わず突き出した拳が、アルディエルの鼻の先で受け止められた。摑まれた拳の影から、アルディエルの瞳が現れた。
「フランを捧げれば、草原の民は牙の民の譜代の臣下となる。外様の臣下に待つのは過酷な滅びだけだが、譜代として扱われれば民の繁栄にも繋がる」
「お前、本気で言っているのか」
「私が冗談を言わないことぐらい知っているだろう」
 見る者を凍りつかせるほど冷たい光が、アルディエルの瞳に滲んだ。
「フランの護衛には新たに四千騎を向かわせた。お前の行動は読める。攫おうとしても無駄だ。お前の力ではどうにもならない」
「これ以上、フランを犠牲にするつもりか」
 身体がかっと熱くなった。
「譜代の臣下として扱うなど、お前は真に受けるのか。いや、たとえそうなったとしても、草原の民が優遇されるという保証などはどこにもない。そんなことも分からないお前じゃないだろう。アルディエル。族長は──」
「カイエン、もう茶番はやめよう」
 不意に、アルディエルの頬に皮肉気な笑みが浮かんだ。
「なんだと?」
「言ったろう。姫の力を教えるから、ここに来いと」
「何が言いたい」
「お前が姫にこだわる理由など、初めから存在しないんだよ」
 何を言っている。
 口にした言葉と同じものを心の中で繰り返した時、アルディエルの瞳がすっと細くなった。
「姫の力は、人の感情を操る」
 それはカイエンだけに聞こえる、囁くような声だった。
 背中に冷たい汗が流れた。
「お前の中にある姫への想いは、孤独に倦んだ姫が作り出したものにすぎない。いいかカイエン。これは友としての忠告だ。姫はお前に救いを求めたのではない。自分の力で救われようとして、たまたまお前がそこにいただけのことだ。お前が姫を慕う気持ちは、紛い物なんだよ」
 それは、はっきりとした言葉だった。
「だから──」
「やめろ!」
 叫び声と共に突き出した拳が、アルディエルの頬を強かに打った。だが、その言葉を遮ることはできなかった。
「姫が犠牲になろうとしているからといって、お前が怒る理由はどこにもないんだよ。そんな紛い物のために、私はお前に命を失ってほしくはない」
 アルディエルが悲しげに微笑み、そして腕を組んだ。
「牙の民の王、極東の覇者にまで上り詰めたエルジャムカ・オルダが、なぜ姫を名指しして欲しがったと思う。お前が信じようとしなくとも、それが答えだろう」
 身体中から力が抜けていくようだった。
 アルディエルの話は到底信じられるものではないが、極東を制した強大な牙の民が、フランを欲しているという事実は動かしがたいものだ。
 だが、フランへの想いが紛い物と言われることだけは許せなかった。自分の想いが偽物のはずがないし、フランがそんなことをするとも思えない。いや、仮にそうだったとしても、それまで孤独に生きてきた少女を誰が責められるというのか。
 孤独を癒やすべき相手としてカイエンを選んでくれたのだとすれば、その事実だけでいいとさえ思った。
 作り話でカイエンの暴発を防ごうとしたのならば、下策も下策だ。フランを犠牲にしてありもしない平穏に飛びつくようならば、自分は全てをかけてフランを攫う。
「明日の朝、一万の兵でフランを護送する。もとはこの村の民でないお前を、草原の民の運命に巻き込むのは忍びない。だから、今夜にでも逃げ出せ。友として、それを言いたかった」
 哀れむような表情を浮かべるアルディエルに、心の底から怒りが込み上げてきた。どこまで、俺を見損なえば気が済む。
「友としての忠告は聞いた。が、友とは対等な間柄のことだな」
「私もそう思うよ」
「ならば、お前の言葉に従うかは俺次第ということだ」
「馬鹿な真似はやめておけ」
 吐き捨てたアルディエルに背を向けた。
「遮るのであれば、友でも斬る」
 そう呟き、カイエンは歩き出した。

    Ⅳ

 愚直なひたむきさに、自分は惹かれたのだろう。去り行く友の背に、アルディエルは慣れない狡猾な表情を崩した。
 カイエンと入れ違うようにして、タメルランを呼び出した。日頃、アルディエルが起居するテントに現れたタメルランは酷く困惑していた。
 椅子を二つ、テントの中央に向かい合わせで置き、タメルランに座るよう促した。小声で喋れば、たとえテントの外で聞き耳を立てている者がいたとしても聞こえない。
「時がない。手短に話す」
 座ると同時に、アルディエルは話すべき内容と、そうではない内容を整理した。タメルランの動き方次第で、この策は破綻する。草原にあって唯一対等な友と、幼い頃から見守ってきた姫の、ほんのわずかな希望の光。
 まだ幼さをいくらか残すタメルランの顔を見据えた。
「タメルラン。お前は姉のことを護りたいと思っているな」
「いきなりなんだよ」
「いいから答えろ。時がないんだ」
 喋り方がどこかカイエンのようになっていることに気づき、アルディエルは心の中で笑った。
 即断即決、そうと決めたら鬼神も避けるような勢いで突き進んでいくのがカイエンという男だ。自分はどこまでいっても冷静で、必ず勝てる勝負でなければ、場には立たない。次期族長として、民を危険に晒すわけにはいかず、自分でも鈍重と感じる判断も、時に必要なことだと信じていた。
 自分にないものをふんだんに持っている。だからこそ、自分はカイエン・フルースィーヤという男に魅せられたのだろう。追い越されまいと、見えないところで血反吐を吐くほど鍛錬してきた。どれほど鍛錬しても、カイエンもまた強くなる。出会って一年、ずっとその繰り返しで随分と腕も上がった。
 この策は次期族長としての判断ではない。アルディエル・オルグゥ個人としての策であり、それにはカイエンのような果断こそが最善のはずだった。
 気圧されたようにタメルランが頷いた。アルディエルも力強く頷き、タメルランの肩を摑んだ。
「草原の民は、姫を牙の民に捧げ、その臣下となることが決まった」
「それって……」
「黙って聞け。明日の朝、私は牙の民との交渉の場、ハザル湖へ出立する。姫も一緒だ。姫を迎えに、牙の民の王自ら出向くという」
「自ら?」
「ああ。それほどに牙の民は、姫の力を欲しているのだろう。極東を制したといえど、世界の中央(セントロ)の軍は強力だ。私がエルジャムカの立場でも、姫の力を手にしようとする」
 それほどまでに、フランの力は強大なものだ。
 世界に恐ろしい混沌をもたらさぬためにも、フランに史上最悪の殺戮者の咎を背負わせぬためにも、打てる手は一つだけだ。
 いつの間にか肩を摑む手に力が入っていたのか、タメルランが小さく呻いた。
「いいか。機会はハザル湖に向かうまでの道だ」
 口からこぼれる言葉は祈りに近かった。
 もしもフランが覇者の元へ辿り着けば、その瞬間、アルディエルは少女を殺さねばならない。フランのもたらす災厄は、草原三十万の民の滅びどころではない。これはもはや、草原の民だけの話ではなかった。
「すぐに南の村(アスルム)へ行け。すでにイスイを向かわせた。草原の民は牙の民へ抗戦すると、イスイに触れ回らせている」
「なんでそんなことを?」
 何が何だか分からないというように、タメルランが首を振った。
「アルディエルは姉上を連れてハザル湖に向かうんだよね。それなのに南の村(アスルム)の兵を蜂起させるのはなぜ? 機会がハザル湖に向かうまでの道って……もしかして、カイエンがアルディエルを襲う機会ってこと?」
 タメルランはよく頭が回る。理解して欲しいことをしっかりと理解しているようだった。
 頷き、その肩から手を放した。
「姫を救うにはそれしか方法がない」
「そんな……今から皆で一緒に逃げれば」
「長の村(コルム)にもとっくに監視の目がついている。全員で脱出の準備でもしようものなら、日が暮れる前に牙の民の軽騎兵が姿を現すことになる」
「けど……」
 俯いたタメルランが言葉を区切り、目を怒らせた。
「カイエンが姉上を攫うことに成功したとして、残されたアルディエルたちはどうなるの?」
「滅びる時期が、明日に早まるだけだ」
 それにと微笑み、アルディエルはタメルランから身体を遠ざけた。
「カイエンに必死の抵抗をしたことがエルジャムカに伝われば、見逃してもらえるかもしれない」
 タメルランが喉を鳴らし、睨みつけるように目を細めた。自分の言動がはたから見れば滅茶苦茶であることは、アルディエル自身が気づいていた。
「心配するな。姫は今まで何一つ報われることなく孤独に生きてきたんだ。最後くらい報われる機会があってもよいだろう」
 言葉に込めた半分も、自分の真意は伝わっていないだろう。
 カイエンには操られた感情と言った。しかし、少女がその力を使っていないことを、アルディエルは知っていた。孤独に生きてきたフランは、当初、カイエンという男を拒絶した。好意を向けられてなお、父母の愛を知らぬ少女は、カイエンの想いを疑っていたのだ。
 そんな少女の凍りついた感情が溶けていく様子を、自分は見てきた。
 いつしか二人の間には、長年傍で見守ってきた自分でさえ、立ち入ることのできない絆ができあがっていた。それを羨ましいと思ったこともある。だが、カイエンを前にして、初めてフランが笑顔をこぼした時、自分の気持ちはどこまでも些細なものだとアルディエルは思ったのだ。
 フランが幸せになってくれるならば、それでいい。
 フランを失うことによって草原の民が滅びたとしても、彼らが少女を畏れ蔑んできたことを思えば同情する気にもなれない。アルディエルの願いは、カイエンがフランを攫い、風のようにどこかへ消え去ることだった。
 だが、もしもそれが叶わぬ時、フランの傍につき従い、少女の胸に銀の刃を差し込む役を果たす者がいる。それは、自分にしかできないことだった。
 いつの間にかタメルランの瞳から怒りが消え、今にも泣き出しそうな気配を孕んでいた。
「アルディエルは、独りで犠牲になろうとしている」
「そんな格好いいものじゃないさ。私は次期族長の務めを果たしているだけだ。どう転んでも草原の民が滅びるのであれば、カイエンは私にとって唯一の友で、姫は大切な妹で、お前は大事な弟だ。少しぐらい希望のある結末があってもいいと思っただけだよ」
 泣くなと笑い、アルディエルは少年の頭を力強く撫でた。
「カイエンには言うなよ」
 子ども扱いするなとばかりに手を振り払ったタメルランが、立ち上がった。
「カイエンと一緒に戦えば──」
「言ったろう。残される草原の民がエルジャムカに慈悲を乞うためには、カイエンと死闘を繰り広げたという事実が必要だ。そのためにも、カイエンが本気で私を襲う必要がある」
「けど……」
 いつになく、けどと言うタメルランに、アルディエルは微笑んだ。
「カイエンは目つきも言葉も、ついでに言えば態度も悪いが、本当は心優しい男だ。知ればその矛先は鈍るだろう。儀式では決着しなかったのだ。私は本気で戦うぞ、タメルラン。迷いのあるカイエンでは、私に勝つことはできないだろう」
 そうなれば、フランも救われない。そう言って立ち上がると、アルディエルはテントの入口までタメルランを送り出した。
「アルディエル、本当に──」
「あと一度だけ会えるさ」
 お別れはその時に。
 背を押して送り出した時、遥か地平線に夕陽が沈んだ。

    Ⅴ

 今にもこぼれ落ちてきそうなほどの満天の星空だった。
 いつも通りの夜空と言ってしまえばそれまでだが、もしかすればもう二度と見ることはできないかもしれない。見上げる空に寂寥を感じてしまうのは、しかたがないことだとカイエンは思った。
 すぐ後ろにはもう一騎の馬蹄が響いている。タメルラン・シャールのもので、まだ疾駆しながら風景を楽しむほどの熟練はない。いまも、走ることで精一杯のはずだ。
 なだらかな丘を駆け下ると、カイエンは暗い草原の中で一か所だけ赤く燃えている南の村(アスルム)へと馬首を向けた。
 フランを攫う機会は、一度きり。一万の草原の民の兵に守られ、ハザル湖へ北上する道すがら襲うしかない。ハザル湖へ着いてしまえば、牙の民の軍勢がどれほど待ち構えているかも分からなかった。
 手綱を握りしめる拳に、力が入り過ぎていた。
 あの馬鹿……。
 心の中の罵倒は、人の運命を背負った気になっている金髪碧眼の青年に向けられたものだった。不世出の麒麟児として、幼い頃から民の期待を一身に背負ってきた。本人もまた、重圧に圧し潰されることなく、負荷が強くなるほどかえって大きく成長してきた。
 民の全てを背負うという強烈な自負が、アルディエル・オルグゥという男を誰もが次期族長として認めさせているとも言える。だが、そんなものは捨ててしまった方がいいとカイエンは思っていた。
 アルディエルの考えなど、タメルランから何を聞かずともお見通しだった。
 生涯で唯一対等に向かい合えた友だからこそ、その想いは言葉にせずとも伝わる。
 唇をかみしめた時、門の前で槍を交差させた衛兵が誰何(すいか)の声をあげた。
「カイエン・フルースィーヤ。長の村(コルム)より指揮権引き継ぎのために来た。先刻イスイが着陣しているはずだ」
 ゆっくりと開き始めた門に、馬足を落とすことなく突っ込んだ。衛兵が慌てて左右に散った。
 すでに兵たちの武装は終わっていた。兵站を司る者として族長の右腕をつとめるイスイの力量を考えれば、驚くことではなかった。
 巨大な焚火を囲む兵士たちの中に、見るだけで肌寒いイスイの妖艶な姿を見つけ出し、カイエンは馬上から飛び降りた。
「状況は?」
 投げかけた言葉に、イスイが忌々しげな表情でこちらを睨みつけてきた。族長の子飼いであるイスイにしてみれば、外から来たカイエンが一軍を任されるほどに族長に信頼されているのは気に食わないことだろう。
 だが、今はそんなことに気をまわしている暇はなかった。
「集まった兵は三万。アルディエルに言われるままに戦備は整えたけど。どうするつもり?」
「フランを攫い、そして全軍で逃げる。ことは単純だ」
「はあ?」
 頓狂な声をあげたイスイが、周囲の兵の視線を気にしてか、声を落とした。
「アルディエルはフランを伴って牙の民に降伏するんでしょう。今更そんなことをして何の意味があるの?」
 怪訝な表情のイスイに、カイエンは彼女を兵の中から連れ出し、テントの陰に引っ張った。
「お前はフランの力を知っているんだったな?」
 こくりと頷き、イスイが視線を兵たちに向ける。
「民のほとんどは、族長の作った“目を合わせれば魂が吸い取られる”という作り話を信じているようだけれど。姫の本当の力を知っているのは、傍で守るアルディエルとタメルラン、そして私だけよ」
「ならば想像できるだろう。アルディエルはフランを殺すつもりだ」
「なんですって?」
 予想外の言葉だったのだろう。驚愕したようにイスイが瞳を見開いた。思わず響いた大声に、カイエンは舌打ちした。
「声を落とせ」
「そんなことをすれば、降伏しても草原の民は滅びるだけじゃない」
 イスイの言葉は、大方の民と心と同じくするものだ。自分の命を最上と思う者の声。当然と言えば当然だし、それが非難されるべきことだともカイエンは思わない。
 だが、アルディエルの見ているものは、もっと大きなものなのだ。
 南の村(アスルム)へと駆ける馬上で気づき、そして未だに信じられないことではある。だが、アルディエルという青年の碧い瞳は、間違いなく世界を見ている。
「フランの力が本当なら、優しさや罪悪感も操ることができるだろう」
「それは、たぶん……」
「考えてみろ。ただでさえ狂暴な牙の民の兵から、人間らしい感情が消えればどうなるか。人を殺すことを躊躇しない百万の殺戮人形が、覇者の下にできあがる」
 イスイの身体が小さく震えた。
「冗談じゃない。アルディエルは草原の民を犠牲にして、これから牙の民が向かう先の民を救うつもりだと?」
「アルディエルの道は二つ。エルジャムカに降ってその目の前でフランを殺すか、フランを俺たちに攫わせて牙の民の目が届かない場所に連れ去らせるか。どのみち草原の民は滅びる。それならばと、アルディエルはフランと俺たちが生きることのできる道を残したんだよ」
 どの時点でそう考えたのかは分からない。だが、自分を犠牲にして大切なものを護るという決断は、アルディエルならば容易くできるものだ。
「イスイ。お前の家族はこの村にいたな。すぐに出立の用意をさせておけ。長の村(コルム)は牙の民の監視下にあるが、ここはまだ逃げ切れる可能性もある。フランを攫えば、牙の民の軍は俺たちを追うだろう。その隙に各村の民を脱出させるんだ」
 友の命を懸けた決断を無下にすることはできなかった。
 頭を抱えるようにして項垂れるイスイが、首を横に振った。
「だから、アルディエルは……」
 聞こえてきた言葉は、小さく震えていた。イスイの腕に刻まれた蛇の入れ墨が、物の怪のように蠢いている。
「長の村(コルム)を出る時、アルディエルは今までありがとうって……私は」
 いつの間にか、その双眸(そう ぼう)から涙が流れていた。イスイがアルディエルを慕っていたことは知っている。だが、あの碧い目はフランしか見ていなかった。
「友だから、俺はあいつの決断を無下にはしない。だが……あいつの思い通りにも動かないさ」
 俯くイスイの頭を撫で、カイエンは笑った。
「それはどういう……」
 イスイの言葉には答えず、その頭から手を放し歩き出した。
 すれ違いざま、イスイの顔がこちらに向くのを感じた。いつもの敵意がない分、少しばかり調子が崩れるが、珍しいものを見たと思えば自然に笑えた。
 歩き出した先に待つのは、カイエンもよく知る者たちの顔だった。無数の焚火が火の粉を上げる中で、三万の兵が今か今かと指揮官を待っている。
 カイエンは右手を振り上げた。
「アルディエルの策だ。全て上手くいく。全員で生き延びるぞ!」
 喚声が、夜空に浮かぶ星をいくつか落とした。

    Ⅵ

 朝日を右頬に受ける一万の行進は、断頭台へ進む罪人の行列のようにも見えた。罪なき彼らの罪の名を知る者として、最後尾で指揮を執るアルディエルは、彼らの最期を目に焼きつけようとしていた。
 イスイとは別に送り出していた斥候が、夜明け前にカイエンたちが南の村(アスルム)で挙兵したことを伝えてきた。長の村(コルム)の兵は本陣を固めるため重装の歩兵で構成されているが、遊撃を担う南の村(アスルム)の兵は騎兵が中心。遅くとも太陽が天頂に辿り着くまでには現れるはずだった。
 三万の騎兵に襲われるとは知らない一万の同胞を前に、アルディエルは深く息を吐き出した。
 抵抗しようとも、降ろうとも、滅びる運命は変わらない。そう確信しているからこそこの道を選んだが、今日、ここで死ぬ運命を彼らに与えるのはアルディエル自身だ。
「何を畏れているの」
 不意に響いた声は、フード付きの旅装束に身を包み、顔を黒いヴェールで隠すフランのものだった。
 それまで沈黙していた彼女の声が響いた瞬間、周囲の兵たちが怯えるように隣の兵と寄り添うのが分かった。この十七年間、フランの声を傍で聞いた者はほとんどいない。
 兵たちに前後左右に二十歩の距離を取るよう命じた。
「あなたはどこまでも優しいのね」
「それは、兵を遠ざけたことを言っていますか?」
 フードの中で、フランが笑ったようだった。
「誰しもを人と思い、人として接していることよ」
 フランの言葉には隠しきれない侮蔑が滲んでいるが、それがアルディエルに向けられているわけではないことを知っていた。
「私は姫の〈守り人〉であると同時に、彼らを率いる者です」
「私が貴方の心に気づいていないとでも?」
 今度は侮蔑の色はない。だが、代わりに滲んだのは、どこまでも悲しげな響きだった。二の句を継げないでいると、フランは苦笑したようだった。
「べつに責めてはいないわ。貴方がその決意を正しいと思うのならば、好きにすればいい。草原の民を想い、そして私をずっと護ってきてくれたのは貴方なのだから」
 少女が右手で黒いヴェールの端をつまむと、銀色の髪がこぼれてきた。隙間から、その左目がこちらを見つめている。
「貴方に殺されるならば、私は構わない」
 フランは全てを見抜いている。アルディエルは〈守り人〉として誰よりも彼女の傍にいた。言い換えれば、フランは誰よりも深く自分のことを知っている。
 アルディエルが見つめているものが草原の民の命運などではないことに、少女は気づいているのだ。それは同時に、少女もまた自らが歩むかもしれない未来を知っているということだった。
 人としてまともに扱われてこなかった少女だ。もしもエルジャムカの傍に立つことになれば、少女はその力で世界を滅ぼすことを躊躇しないだろう。
 言葉を濁すのは簡単だ。だが、少女にだけは、嘘で固められた言葉を吐きたくはなかった。
「私はカイエンを信じています」
 少女の力を畏れることなく、フランへの想いが作られたものだと罵倒されてなお彼女を救うために動き出した友を、アルディエルは信じていた。
「成功したとして、アルディエル、貴方はどうなるの?」
 草原の民と聞かないところが少女らしかった。
 遠巻きにこちらを盗み見る兵たちを見渡し、アルディエルは拳を握った。
「カイエンが成功するには、私とここにいる一万の兵を殺す必要があります」
「ともに逃げることはできないの?」
 一万の死という言葉にもフランは動揺していない。ただ選択の余地はないのかという疑問だけがその言葉にはあった。
「長の村(コルム)には逃避行に耐えられない老人や子供が多くいます。一万の死は、牙の民の王が彼らに慈悲を与えるための供物です」
 カイエンがフランを奪い去った時、覇者は激怒し、草原の民の滅びを告げるだろう。だがカイエンに抗った累々たる一万の屍を見れば、残った民だけは──。
 束の間、フランの瞳に宿る光が強くなり、しかし次の瞬間黒いヴェールで隠された。
「本当に、みんな……」
 その言葉の先に何を続けようとしたのか。だが向けた視線は先ほどよりも厚く感じるフードによって遮られた。再び殻に閉じこもった少女から目を離し、アルディエルは雲一つない空を見上げた。

 もうじき太陽が中天に昇る頃だ。
 変わりやすい草原の天気には慣れているつもりだったが、恐ろしい速さで太陽を覆い隠した曇天に、アルディエルは嫌なものを感じていた。
 かすかに雨の匂いを感じた。
 ほんの少し前までは、草原のいたるところに雲の隙間から光芒が降り注いでいたが、一つ、また一つと消えてゆき、今や不気味な暗さに包まれている。北へ歩き続ける一万の兵も不安を感じているのだろう。革鎧にサーベルのみ。戦備えとしてはかなり軽装である。牙の民に敵意がないことを示すためだったが、同時にカイエンの勝利を容易くするためでもあった。
 気配を殺すような息遣いが聞こえてきた。目的のハザル湖までは、九ファルス(四十五キロメートル)ほど。このままの速度で進めば、到達するのは夜半になりそうだった。
 南の村(アスルム)からの距離を考えれば、すでにカイエンの放った斥候がこちらを見つけていてもおかしくない。副官を呼びよせ、後方に向けて警戒を増やすよう指示した。
 そう簡単にフランをカイエンに攫わせるわけにはいかない。草原の民には、ここで必死の抵抗をしたという事実が必要なのだ。カイエンが率いる騎兵は三万。こちらは軽装の歩兵一万。カイエンの指揮能力を考えれば、決着にはそれほど時はかからないだろう。
 できれば向かい合う相手としてではなく、味方としてその力を揮いたかった。心残りがあるとすれば、それだけだった。もしも草原の民が十分な兵力を持っていれば、自分はカイエンと共に牙の民に抗うことを選んだはずだ。
 人は生まれた場所で、生まれ持った条件で、手にした力で生きていかなければならない。
 これが、自分の運命ということだ。自分やカイエン、フランの。
 勝負をもっと容易く決める方法もある。
 少女の力で一万の兵の戦意を喪失させれば、決着は一瞬だ。抗うことすらできず、アルディエルはカイエンの刃を受け入れることになるだろう。
 運命を少女に握られているような気がして、思わず視線を外した時だった。
 二の腕に、雨が一滴落ちてきた。
「ようやく来たか」
 さらさらと視界を包む霧雨の向こうで、丘陵の稜線上に黒い染みが溢れ始めていた。数万にも及ぶ馬の嘶きが、天地を揺らしているようでもある。
 碧い目を細めたアルディエルの視界に映ったのは、三万の騎兵よりも遥かに多い主なき軍馬の群れだった。自分たちを乗せて逃げるつもりなのか。
「……馬鹿だな、やはり」
 こぼした言葉は、友の優しさへの感謝でもあった。だが、それを受け取ることはできない。南へ向けて円陣を組むように指示し、迎撃の命令を下したアルディエルは、少女へと視線を向けた。
 銀色の髪が雨に濡れていた。フードをはずし、顔を隠していた黒いヴェールを取り去っている。兵たちの前では頑なに隠していた顔を見せたのは、カイエンに見つけてもらうためなのか。
 だが、少女の強い憂いを帯びた瞳は、全く別の方角を見ている。
 つられるようにフランの瞳が見つめる先へと視線を動かしたアルディエルは、その瞬間、霧雨の中に人ならざる者の姿に気づいた。

    Ⅶ

 霧雨の舞う草原が、角笛の重苦しい音色に圧し潰された。
 なだらかな斜面の上に一人立ち、深紅の瞳を持つ男は世界を見下ろしていた。漆黒の鎧を豪奢な白銀の外套で包むその姿は、絵画の中から出てきた英雄のようでもある。青年の放つ覇気は、人類史にかつてないほどの情熱と野望のうねりであり、決して大柄でない彼を巨人のようにも見せていた。
 次の瞬間、黒曜の髪の隙間に深紅の瞳を燃やす青年の両側から、溢れんばかりの騎兵が前進を始め、またたく間に〈鋼の守護者〉を護送する一万の兵を包み込んだ。
 なぜ、自分は今ここにいるのか──。
 霞がかった自我に、牙の民の王エルジャムカ・オルダは瞼を閉ざした。
 あまねく世界を統べることが、己の唯一の使命だ。人の世界を自らの名の下に統一し、永遠の平穏をもたらすことだけが、自分の生きる意味──。
 誰にそれを誓ったのか、誰がそれを定めたのかは分からない。脳裏におぼろげな微笑みが浮かんだ時、頭に鋭い痛みが走り、エルジャムカは歯を食いしばった。
「……邪魔だな」
 南の稜線上から凄まじい勢いで近づいてくる数万の騎兵に、エルジャムカはただ一言そう呟いた。眼下の一万ほどの草原の民は、十万の牙の民の兵に囲まれて、もはや何もできないだろう。
 彼に並ぼうと前に出てきた牙の民の全軍総帥(コールガル)ダラウトに下がれと合図し、エルジャムカは広げた右手を、大地を揺るがす騎兵へと向けた。
 失うものがあるがゆえ、お前たちは畏れ、そして怒りに囚われる。
 怒りは果てなき争いの種子となり、またたく間にあまねく大地を覆う世界樹となる。怒りこそ、人の持つ最大の罪だとエルジャムカは信じていた。
 迫りくる三万の騎兵は、そのどれもが憤怒で顔を歪めている。
「その罪は私が全て背負おう」
 それは王の、余りにも残酷な慈悲だった。
 エルジャムカが右手を振り上げた瞬間、全軍総帥が痛切な悲鳴を上げた。
 おやめくだされ。その力の代償を知る老将の声に、若き覇者は拳を握りしめた。
「……邪兵(エルリク)よ」
 エルジャムカの小さな呟きは、彼の姿を遠目に見る敵の耳にもはっきりと聞こえただろう。
 彼らの喉に流れる唾が、ゆっくりと腹の中に落ちた瞬間、世界が一変した。
 無数の竜巻が天地を繋ぎ、深緑の旗を次々に昏い空へと吸い上げる。立っているのもやっとの暴風が砂を巻き上げ、三万の喚声が悲鳴へと変わった時──。
 唐突に、世界から音が消えた。
 吹き荒れていた暴風がぴたりとおさまり、世界が静寂に包まれる。何が起きたのかと、草原の民の怯える様が手に取るように分かった。
 三万の騎兵の先頭で、こちらを見上げている青年がいた。
 不安そうに左右を見渡す者たちの中で、たった一人、エルジャムカを見据えている。草原の民に潜り込ませたイスイの報告でしか知らないが、あの青年が鍵であることをエルジャムカは確信した。
 絶望的な状況の中で、牙の民を出し抜こうとした二人のうちの一人だ。カイエン・フルースィーヤとアルディエル・オルグゥ。イスイからの報告がなければ、〈鋼の守護者〉たるフラン・シャールは自分の手からこぼれ落ちていたかもしれない。
 牙の民の兵に囲まれ、近づいてくる銀髪の少女を一瞥し、エルジャムカは掌をゆっくりと握りしめた。
 それは大地から蠢きながら次々に立ち上がり、ゆっくりと人の形を成していく。
 現れた邪兵(エルリク)の姿は、まさに異形と呼ぶべきものだった。
 血で染め上げたかのような朱色の身体を持ち、表面は液体のように波紋を広げている。目や鼻はなく、敵を貪るためだけに用意された口からは嗚咽がこぼれている。槍や剣や斧、血で象られた武器は様々だが、全てに共通するのは、そのものたちを決して殺せないだろうという予感だった。
 覇者の深紅の双眸が鋭く光った。
「滅びを、与えよう」
 大地に立つ全ての者に聞こえた声は、裁きの言葉だった。
 その瞬間、斜面を埋め尽くす五千の邪兵(エルリク)が耳をつんざく雄叫びを上げた。ちぎれそうなほどに首を上下させながら敵に突進していく邪兵(エルリク)の姿は、この世のものとは思えぬほど悍ましい。
 草原の民の戦士たちが、矢をつがえては天へと打ち放つ。三万の斉射は、曇天をさらに黒く染めたが、邪兵(エルリク)にとって小雨ほどの妨げにもならなかった。草原の民の瞳に恐怖が広がり悲鳴が束となった時、五千の邪兵(エルリク)がそれぞれ最初の獲物へ飛びついた。
 それは一方的な殺戮だった。
 異形の兵が剣を振るうたび、草原の民の鮮血が宙に舞う。だが、草原の民の剣は邪兵(エルリク)の動きを止めることはなく、果敢に挑んだ兵は瞬きのうちに胴と足とを引きちぎられ宙に舞う。
 眼下の惨劇に、歴戦の牙の民全軍総帥でさえ目を背けていた。
「余が、恐ろしいか?」
 腹の底を震わせるエルジャムカの声に、老いた将が唾を呑み込み小さく首を振った。
「我が君(きみ)の覇望には必要な勝利でございます」
「言いたいことがあるのであろう」
 どこからこれほどの声が出ているのか。まだ二十代半ばを過ぎたばかりのエルジャムカだが、その前では百戦錬磨の老将ですら首肯するばかりとなる。
 抵抗すれば皆殺し。
 世界の中央(セントロ)へ向かう征西の中で、エルジャムカの道を妨げるものは赤子に至るまで土くれとなった。
 東方世界(オリエント)の辺境にあって、些細な平穏を摑むために立ち上がった自分が、全てを滅ぼす災いのようになったのはいつの頃か。幼き頃からエルジャムカを見守ってきた老将の望みは、自分が世界を救う英雄となることだと知っている。
 だが、それはもはや望めぬことだ。
 眼下の殺戮へ目を向け、エルジャムカは瞳を細めた。
 ダラウトが横に並び、苦しげに口を開いた。
「我が君の力は、為政者にあるまじき力にございます。頼らずとも、我が君には三百万を超える兵がおりましょう」
 力を使えば、エルジャムカにも、民にも災いが降りかかることを知っているからこその言葉だった。エルジャムカは静かに首を横に振った。
「牙の民の血は、無二のものだ。こんなところで流させるわけにはいかぬ」
「……されど、我が君の顕現させた五千の邪兵(エルリク)。それと同数の者がこの世から命を失います」
「死ぬのが我が民の者とは限るまい」
 覇者の力により現出した邪兵(エルリク)には、槍も剣も銃弾すら効かない。体力が尽きることもなく、主がその命を取り下げるまで決して止まらない。
 引き換えに、血の兵が使命を遂げた時、血の兵と同数の命が地上から消える──。
 それが〈守護者〉たちの王、〈人類の守護者〉たるエルジャムカ・オルダに与えられた力だった。力を使うほど、民に無差別な死が降り注ぐ。為政者たりえない力であることは、自分が一番よく分かっていた。
 だが、もはや人が望みうる平穏は、等しい滅びしかない。親を殺し、友を殺し、愛する人を殺してなお止まぬ戦乱に青年がそう自答した時、宿命を与えるものは現れた。
 小さく息を吐き出した時、同じ宿命を与えられた少女が、目の前に連れてこられた。
 流れるような銀色の髪を腰まで垂らし、その肌は白磁のようにきめ細やかだ。神話の女神をも思わせる姿は、だが強い孤独を感じさせる。草原の神子として、人と交わってこなかったがゆえだろう。
 自分と同じく、人ならざる力を与えられた少女──。
「〈鋼の守護者〉よ。汝の使命が何か、もう分かっているはずだ」
 呟いた言葉に、少女が身体を震わせた。
 守護者たる者は、人を滅ぼさねばならない。
 俯く少女から視線を外し、エルジャムカは邪兵(エルリク)の中心で未だ剣を振るう青年へと目を向けた。
 三万の騎兵だった草原の民は、すでにその大半が原形をとどめぬ肉塊になり果てている。その中で頑強に戦い続けるのは、一人の青年に率いられた数百の部隊だった。
 敵ながら、惜しい男だ……。
 邪兵(エルリク)に囲まれながらも、一歩、また一歩丘の上に近づこうとするカイエンの姿に、エルジャムカは目を細めた。
 勝てないと分かりながらも、〈鋼の守護者〉のために命を懸けるその姿は、何か昔の記憶に重なるようだった。何と重ねているのか。思い出そうとした途端、記憶の扉に跳ね返され、脳に激痛が走った。
 全軍総帥の不安そうな顔に、エルジャムカは大丈夫だと頷いた。
「アルディエルという男を呼べ」
 呟きは即座に伝達され、数瞬後には、金髪碧眼の美丈夫が目の前に跪かされた。その碧い瞳には、憎悪というには生温い光が滲んでいる。
「いい目だ」
 アルディエルのみに聞こえるよう声を落とした。
「だが、まだ全てを見通すには足りぬ。イスイ」
 エルジャムカの呼びかけに、蛇の入れ墨を雨に濡らすイスイが現れた。
 イスイはエルジャムカが〈守護者〉を探すため、世界各地に潜ませた者のうちの一人で、彼女は十年にわたって草原の民の中で生きてきた。微苦笑を滲ませるイスイに、絶望の正体を悟った銀髪の少女が拳を握り締めたようだった。
 だが──。
 常人であれば驚愕し怒りに震える場面だろうが、目の前の青年は唇を結び表情一つ変えていない。
「イスイから全てを聞いた。これは、汝の差配だな?」
 フランの視線が、眼下で剣を振るう青年へと落ちた。
「……何のことでしょうか」
 たいした男だ。ようやくこぼれてきた言葉にも、やはり動揺はなかった。アルディエルの胆力に心満ちるのを感じ、エルジャムカは笑った。
「咎めはせぬ。むしろ余はお主を高く評価もしておる」
 ──アルディエルという男は、草原の民ではなくもっと大きなものを救おうとしている。そして、あわよくば覇者たる自分を出し抜こうともしている。
 イスイの報告を受けた時の衝撃は、いまだにはっきりと覚えていた。三十万の命をごみ屑のように捨てる決断を下したのがまだ二十もいかぬ青年と聞いて、エルジャムカは自らここまで出向くことを決めたのだ。
「だが……」
 その時、ひときわ大きな咆哮が戦場を貫いた。
 五千の邪兵(エルリク)の声が一つに集束し、大地を震えさせている。大地には無数の亡骸が積み重なり、強すぎる血の臭いが風と混じり合った。
「残るは、ただ一人」
 三万の兵を殺し尽くした邪兵(エルリク)に囲まれ、五千の刃を向けられてなおこちらを見上げているカイエン・フルースィーヤの強烈な殺気に、エルジャムカは邪兵(エルリク)に重ねた掌を拳へ変えた。
 その瞬間、糸が切れた人形のように五千の邪兵(エルリク)が崩れ、一瞬のうちに大地に赤い染みを作って消え去った。
 残されたのは累々と重なる草原の民の亡骸であり、幻の死神が巨大な鎌で薙ぎ払ったかのようでもあった。
「汝の策によって、無数の民が死んだ」
 アルディエルの口元に血が滲んだ。平静を装っているが、その心は憤怒と自責に焦がされているだろう。犠牲を下す決断はできるが、実際に目の当たりにすると、まだ心が揺れるということか。
 もう一人、骸の中心に立つ青年に目を向けると、その瞳には未だ強い光が宿っていた。その身体は斬り刻まれ、今にも力尽きてしまいそうにも見える。
 だが、一歩一歩、前に進むたびに瞳の光は強くなる。
「見事なものだ」
 すぐ傍で、銀髪の少女が歯を食いしばり、そして項垂れた。
 ──あの者を、救いたいか?
 そう続けようとした言葉を呑み込んだのは、それまで俯いていた少女が立ち上がったからだった。
 戦場に似合わない純白の綾衣をまとい、銀色の髪を風に流す姿はよく目立つ。遠くから見上げるカイエンも、フランの姿を見つけたようだった。
 カイエンが剣を握りしめた。
 駆け出した青年の姿に、それまでいかなる感情も滲ませなかったアルディエルの顔が、苦しげに歪んだ。
 エルジャムカは思わず頬が吊り上がるのを感じた。
「フラン」
 アルディエルの声に、少女が首を振った。
「二人とも、もういい」
 草原の民の殺戮に一言も声をあげなかった少女の言葉は、何かを裁くような響きがあった。歩き出した少女は同胞の亡骸を無感動に一瞥し、戦場に背を向けた。
 たった一人で世界を滅ぼすほどの力を持つ少女を前に、牙の民の屈強な将軍(ガル)たちが喉をならした。それは〈守護者〉たる覇者の力を知る者であれば当然のことだろう。
 少女が短剣を逆手に構え、切っ先を己の胸に向けた。
「私の力と引き換えに、カイエンとアルディエルの命を」
「それは、三万の民が死ぬ前に言うべき言葉ではなかったのか?」
 問いかけたエルジャムカの言葉に、フランが皮肉げに微笑んだ。
「私を孤独に追いやった人たちの命なんて、私にはどうでもいい。そんな命よりも、私はカイエンの命が愛おしい。カイエンさえ生きていてくれれば、私は……」
 心の底からの声だということは、問わずとも分かった。
 人ならざる力を持った者が、どのような生を送るのかはエルジャムカ自身が一番よく知っている。同胞から恐怖の剣を向けられた自分には、師であるダラウトがいた。この少女には、カイエンとアルディエルという二人の友だけがいたということだろう。
 短剣を持つフランの拳が、小さく震えていた。だが、エルジャムカが首を横に振れば、まるで呼吸をするかのように、右手に持った銀の刃で胸を突き刺すだろう。
 フラン・シャールの〈鋼の守護者〉としての力は、この先世界を統べる戦の鍵となる。ここで少女を失えば、不可能とは言わぬが、先々の戦は想定したものよりも苦しいものになる。
「よかろう」
 しかし、そんな理屈を超えたところで若き覇者は頷いた。
 黒髪の青年が生き延びたとしても、エルジャムカにとって災いになることは不可能だ。毒にも薬にもならぬ、ちっぽけな命一つ、生かしておいても害はない。何かを成し遂げられるとも思わない。
 それでも……。
 何かが起きるかもしれない──。
 東方世界(オリエント)の覇者たる自分に無謀にも抗ってきた眼光鋭き青年と、全てを背負い降ってきた金髪碧眼の青年を見ていると、なぜかそんな期待が胸の中に滲んできた。
 これは滅ぼすと決めた、人という存在への渇望なのか。
 覇者の口元に微苦笑が浮かんだ時、少女の頬に涙が一筋流れ、その身体が駆ける青年へと向けられた。
「カイエン……死んでは駄目」
 少女の呼びかけが届いたかどうかは分からない。だが、カイエンの瞳には間違いなく銀髪の乙女が映っている。
 やめろ。
 青年の金切り声が聞こえてくるようだった。
 少女が俯き──。
「さようなら」
 風に紛れた別れの囁きは、人には決して抗えぬ〈鋼の守護者〉の言葉だ。青年の瞳が大きく見開かれ、次の瞬間、光を失った。
 地面に倒れた青年から目を背ける少女に、エルジャムカは束の間、痛みと安堵がない交ぜとなり、そして痛みだけが消えていった。
 ──これが、定めなのだ。抗うことはできぬ我らの定め。
 全ての〈守護者〉は、その王たる〈人類の守護者〉に従わねばならない。そして王は──。
 草原の空を鳴動させた雷光に、深紅の瞳が鋭い光を放った。
「──人を、終わらせよう」
 王として、エルジャムカはそう呟いた。


第二章 水 都

    Ⅰ

 甲高い大鷲の鳴き声が、無数に響き渡った。
 延々と続く砂の大地は、灼熱の太陽に熱せられて蜃気楼を生み出している。草木の侵食を徹底的に拒み、死さえ感じさせる大地とは対照的に、雲一つない真っ青な空は希望の鳴き声に満ちていた。
 砂漠を棲処とする猛禽たちは、夏になると遥か西の故郷を目指して大空を舞う。いつも孤独な彼らが群れとなり飛んでいく様は勇壮であり、砂漠に住む者たちへ暦を教える役割を担っていた。
 王たちの帰還。そう称される大移動は、これから始まる過酷な夏の兆しだ。
 それを境に、広大な砂漠に点在するオアシスでは地下水路(カナート)の点検が始まる。一年を通してほとんど雨が降らず、地上の水が干上がっていくだけの砂漠では、この地下水路(カナート)を維持できるかに生死がかかっている。
 特に夏場以降は、東西を結ぶ交易商人たちの動きも活発になり、供給すべき水の量も格段に増える。交易商人は砂漠で手に入らない食料をもたらすため、彼らに心地よく過ごしてもらうこともまた、オアシスの住民にとっては重要な使命だった。
 西の空が、茜色に染まる。
 空を舞う王たちの鋭い瞳が左右に動いた。羽を休めるべく、地上へと向けられた彼らの瞳が捉えたのは、砂漠を蟻のように進む人の群れだった。
 東から西へと向かって、延々と連なっている。
 疲れた身体で地上に舞い降りれば、即座に彼らに踏み殺されてしまうだろう。空の王たちにそう恐怖させるほど、その人の群れは絶望に満ちていた。
 それは奴隷たちの葬列だった。

 東方世界(オリエント)にエルジャムカ・オルダという覇者が現れて以来、砂漠の交易路は奴隷を運ぶ道へと様変わりした。服従か死か。向かい合う者に対してそう迫る覇者は、敗れた者を決して赦さない。
 壮年の男たちは前線で死ぬためだけの死兵として戦わされ、熟練の技を持った者たちは赦され俸禄を得ることもあるが、そんなことは稀だ。死兵としても使えず、何の技巧も持たぬ男と女子供たちは奴隷商人へと売り払われ、遥か西へと追い立てられる。
 足には重い鎖を巻き付け、一日に口にできるのは乾燥させたいくばくかの棗(なつめ)と、ほんの少しの水だけ。一ファルス(五キロメートル)行く間に、二、三人は砂の上に倒れ込むのは当たり前の光景で、奴隷商人はもちろん、他の奴隷たちが倒れた者を救うことはない。
 そうして死んだ者は、天空の旅に飢えた王たちの腹を満たす糧となる。
 この数年、砂漠で死んでいった者は数万を超えるが、非難の声をあげた者は誰一人いなかった。
 東方世界(オリエント)の覇者は、どこまでも用心深く周到である。東西の情報が集まるオアシスでは広く知れ渡ったことで、深紅の瞳を持つ若者が世界中に密偵を忍ばせていることは周知の事実だった。
 彼を非難すれば、明日は我が身かもしれぬ──。
 そう思えば、オアシスの柵を踏み出して少しも歩かぬ間に、幼い少女が乾いた砂の上で命を失おうと、顔を背けることしかできなかった。
『しょうがないことなのだ』
 心の中で口々にそう囁き合い、自分たちにできることは、せめて彼らの苦しみを悲しんでやることだと言い訳し合った。オアシスの民も、死の行軍を続ける者たちもただ目の前の現実を、苦渋を浮かべて受け入れることしかできなかった。
 だが、ほんの一握り、彼らとは違う考えを持つ者たちもいる。
 満面の笑みで奴隷の群れを眺め、彼らが生み出す莫大な黄金を夢想する者たちだ。砂漠を越えた先、世界の中央(セントロ)へのとば口とも言えるサマルカンドの街では、日々入城してくる奴隷を品定めする商人で溢れていた。
 鐵(てつ)の民や戰(いくさ)の民、はては西方世界(オクシデント)の商人たちも集う街は人種の見本市と皮肉られていたが、集う商人たちにとってはまさにその通りだったろう。多くの商人が悪びれもせず、見本市だからこそ俺がいるのだと言い切った。
 男の奴隷は、職人の日給にも満たぬ銀貨三枚ほどで取り引きされ、女子供はそれよりも少しだけ高い。見た目や体格の良い者は高値で取り引きされることもあるが、それでも職人の月給を超えるほどの者は稀だ。
 そうしてサマルカンドで値をつけられた奴隷たちは出立し、そのまま西へ進む者と南北に道を変える者とで分かれる。それぞれが別の買主に購われた家族にとっては、そこが永遠の別れの地となり、後に涙涸れの地とも呼ばれることになる広大な四叉路は、来る日も来る日も奴隷たちの咽び声で満ちていた。
 南北への道は世界の中央(セントロ)を迂回し、西方世界(オクシデント)へと繋がっている。
 北の大氷雪地帯を貫く北原の道(アイスロード)を進めば、西方世界(オクシデント)最強の武力を誇るウラジヴォーク帝国へ辿り着き、南は瀛(うみ)の民によって香辛料航路(インセンスロード)を経由して、世界最大の海運国サンタレイン大公国へと運び込まれる。前者は寒さと飢えによって、後者は猛暑と疫病によって西方世界(オクシデント)に辿り着くころには半数以下となる。だが、それでも世界の中央(セントロ)へ繋がる西への道に向かう者と比べれば、誰もがましだと口にする。
 世界の中央(セントロ)は、二百年にも及ぶ大乱が続く地である。
 圧倒的な技術力によって興隆し、三人の諸侯(スルタン)が治めてきた鐵(てつ)の民。太古より練り上げられた戦の術を膨大な血で実証し続け、四人の諸侯(スルタン)が治めてきた戰(いくさ)の民。大乱の始まりは、二つの民の対立であったという。
 大乱初期には、それぞれの民から英雄と呼ばれる者も現れ、統一を目前としたこともあるというが、英雄は新たな英雄によって殺され、そして新たな英雄もまた毒に殺された。終わりなき戦が続いて二百年、今や七人の諸侯(スルタン)たちは権威の衣を残し、権力という剣を失っている。
 力なき諸侯(スルタン)に変わって力をつけたのが各地の太守(アミール)であり、彼らは諸侯(スルタン)の権威を我が物にしようと、血で血を洗う戦を繰り返してきた。そこにもはや民と民との戦はなく、隣で力を持つ者を引きずり下ろす下剋上だけが残されている。
『世界の中央(セントロ)に流れた血で、レド海は満たされた』
 そんな言葉が人口に膾炙するほど、尽き果てぬ戦が求める血はもとから住まう民のものだけでは到底足りなかった。
 世界の中央(セントロ)に辿り着いた奴隷たちはその日のうちに戦場の最前線に送られ、ほとんどが最初の戦で殺される。中には初戦を生き抜き、次の戦で奴隷を率いる指揮官となる者もいるが、そうして生き延びた者にしても三つ続けて生き残ることはほとんどなかった。
 商人たちは、ともすれば足を止める奴隷たちの背中を鞭で打つ。肉が弾け、血が飛び散る様は、まともな精神状態では決して耐えられぬものだ。
 ただ、西へ、西へと急がせる商人たちにも言い分はあった。
 故郷の戦場に新たな兵を送り届けなければ、祖国が滅ぶかもしれない。商人たちは自らを故郷の守護者と位置づけ、人を売買する罪に正当な理由をつけて罪悪感を紛らわせていたと言っていい。
 繰り返されてきた歴史は、正義のために、人はどこまでも残酷になれるということの証なのだろう。
 そして、彼らに罪を犯すことを許しているのは、祖国の権力者たちだった。

※続きは書籍版でお楽しみください。

隷王戦記1

森山光太郎『隷王戦記1 フルースィーヤの血盟』
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(担当編集:小野寺真央

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