_少女庭国_

ここは本当に、いまは、あなたとわたしだけの世界……〔少女庭国〕の番外編――〔百合SF掌編〕

〈ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n-m=1とせよ〉

この不条理な卒業試験を突きつけられた、中3少女たちの人生を微細に描出した異次元異色作『〔少女庭国〕』。百合SFフェアのラインアップに入り注目が集まる本書の、書き下ろし特別番外編を掲載しました。静謐なしかし濃密な少女たちの関係性をお楽しみください。

(画像をクリックでAmazonページへジャンプ)


〔浅川綾子〕

「夜は」
「ナイト」
「雨は」
「レイン」
「暗いは?」
「ダーク」
「夢は」
「ドリーム」
「六千六百八十九万一千五百二十九は?」
「シックスティーシックスミリオン。……エイトハンドレット。ナインティーワンサウザント。ファイブハンドレット。テンティーナイン」
「はーすごい」指先で綾子は拍手した。「天才じゃん」
「そうでしょ」町子は自分の二の腕を叩いた。「すごい?」
「すごいよ。すごいは?」
「グレート」
「先生は?」
「ティーチャー」
「グレートティーチャーオニズカは?」
「漫画」
「エクセレント」綾子は褒めた。「エクセレント町子」
「アイアム」町子は胸を張った。「アイム、グレートスチューデン」
 しばらく綾子は拍手を続けた。町子は賛辞に笑顔になった。拍手の音が四角い部屋に響いた。二人の笑顔と拍手だけが続いた。
「すごい成長。天才じゃない」
「へ、へ」町子は真っ赤になった。右手で自分の右脛を撫でた。「もっと問題、出していいよ」
「本当?」石製の床に綾子は座り直した。「じゃあいくね。水は?」
「ウォーラー」
「夕飯」
「ディンナ」
「本は?」
「本は嫌!」町子はいった。「本は嫌。違うのにして」
「ごめん」綾子は両手を重ねた。少ししてから指先をずらした。「ねえ、やっぱり一回休憩しない」
「いいよ」ぱっと町子の表情が晴れた。「待ってね」
 対面に座っていた町子は膝立ちで歩き出し、石の床を移動して綾子の横に座った。
「今からね」
「はい」綾子が休憩を宣言して、町子が綾子の腕にもたれた。町子が肩で綾子を押して、綾子は町子の頭頂部を撫でた。
「何故撫でる」
「偉いから」指で綾子は町子のつむじをねじ込んだ。手頂戴と町子がいうので綾子は町子の手を探した。「覚えが早いね、努力家なんだね」
「へ、へ」町子は一頻り照れ、思い出したようにありがとうといった。「さきちゃんのお陰。教えるの上手だからさきちゃん」
「そうかね」綾子は返事を返した。
 自分の指で町子の頭髪をパスタ巻きしていると、繋いだばかりの指を町子が自分から離してきた。立ち上がった町子がドアの方に行くので、綾子は慌てて呼び止めた。「どこ行くの」
「枕欲しい」ドアを素通りして町子は部屋の隅へ向かった。ぱかぱか上履きの音が響いた。「枕使っていい?」
「寝るの」
「寝ないよ」戸惑った顔で町子は綾子を見た。「今は夜?」
「どうだろうね」
 休憩の始めは町子が決めて、休憩の終わりは綾子が決めることになっていた。
 部屋に娯楽の類いがないので、町子も綾子も休憩には飽き気味だった。
「町子」
「うあい」
「私のことまだ好き?」
「んーうん多分」町子は笑った。「さきちゃんは花をくれるし。怒ると怖いけど」
「そうかい」綾子はいった。「お花萎れてしまったね」
「お花ある?」
「今は持ってないよ」綾子は立ち上がり屈伸をした。「勉強しよっか」
「いいよ」町子は枕を投げた。部屋の隅でからからと骨が音を立てた。「次は何?」
「数学をするよ。今日から難しい所に入るよ」
「レベルどれくらい?」
「高三くらいかな」
「高校三年生レベル?」
「そう」
「えー。へえ」
「中三の町子じゃついてこれないかも?」
「判んないよ」さきちゃんだって中三じゃんと強気に町子は口にしていた。「問題出して」
「問題です」綾子は諳んじた。
「a+b=15、a+c=10、b+c=11。a、b、cは、それぞれいくつ?」
「簡単じゃん」町子が笑った。「aは7。b8。cは3」
「何で?」
「何で?」町子は言い淀んだ。「顔」
「顔?」
「顔が見えた」
「数字の顔?」
「数字の顔?」何の話か判らないという顔を町子がしたので、怖がらなくていいと思い綾子は手を振った。「ごめんなさい」
「ふーんすごい」真顔で綾子は拍手した。「合ってるよでも」
「本当?」褒められにぱっと町子ははねた。「すごい?」
「すごいすごい。ていうか早い。え、ちょっと頭いいね」
「えーへ」町子は照れて笑った。「超簡単じゃん」
「全然簡単じゃないよ。私だったら秒じゃ解けない。もうちょいかかったかも」
「本当?」町子はけたけた笑った。「さきちゃんばかだね」
「あっ悔しい。馬鹿にしたな?」
「だって町子すぐ判ったよ?」
「どうせ私は馬鹿だよ」綾子は笑い、綾子が笑うと町子も笑顔になった。「町子はどんどんかしこになるね」
「賢くなったらどうなる?」
「きっと誰かを殺したくなるよ」足を崩して綾子は安座になった。「じゃあ次ね」
「さきゃん。休憩したい」
「さっきしたじゃないの」
「お腹空いた。なんか食べたい」
「本当いってる?」綾子は頭を掻いた。聞いてというので耳を澄ませば町子の腹がぎゅんぎゅん鳴った。怒りたいところだったが怒っても仕方ない話だった。「判ったよご飯休憩ね」
「うん」
「ほら、袋かぶって」
「はい」町子はポケットから黒い布袋を取り出し自分の頭に被せた。「ああああああああああーああ! あああああああああーああ!」
「今は別に歌わなくてもいいよ」綾子は食事の支度を始めた。
 一つ前の部屋へ食材を取りに行った。食材は古く傷み始めていた。ナイフを使って食材を切り、食べやすい大きさに細かくちぎったり、たたきにしたりした。色も褪せぐずぐずとしていて、どこも腐敗が酷かったが、臭いをかいだり口に入れて噛んでみたりして、比較的悪い部分だけ捨てて、残りを手に抱えた。「これはもう駄目だな」
「まだ?」
「もうすぐ。大変なんだよ」ドアストッパーを扉に挟み、綾子は町子の元へ戻った。町子の被る黒い袋の口元だけをめくり上げた。「ほらいいよ。口開けて」
「あ」「いいよ。指噛まないでね」「い」「よく噛んで食べな。まだあるから。まだいる?」「んああい」
「この前夜中テレビ点けたら何かアニメがやっててさ。あなたみたいな子がいっぱい出てたよ」
「おえ」咀嚼をした後町子はゆっくり肉を嚥下した。「これ嫌い」
「贅沢いわんよ」
「すごい臭い。違うの食べたい」
「違うのって?」
「おにぎり」
「ないもんおにぎり。あったら上げるよ。お願いだから我慢してよ」
「お菓子ない?」
「あるわけないでしょ」
「保健室にはあったのにな。保健室にはいつもあったよ。毎日お菓子たくさんくれた。絹田先生優しかったなあ」
「ないものはしょうがないでしょ」
「おせんべい食べたい」
「じゃあいいよ。二度と食べなくていい」綾子が少しの大声を出すと町子は黙った。
「ごめんね無理いって。もう臭い物食べさせないね。ごめんね余計なことして。全部私一人で食べるから」
「ごめんさきちゃん。ごめんなさい」
「いいよ」会話を回すのが億劫で早々に綾子は感情を引き取った。「私もごめん」 
 二人で黙って食事を続け、食事の後は昼寝に決まっていた。
 枕を抱えて町子は眠り、糸を使って綾子は縫い物をした。
 制服はとても丈夫だったが長く使うとほつれも出た。
「国語しよっか」
「いいよ」うとうとしていた町子が目覚めた。起きた町子が寄ってきたので綾子は町子のリボンを直した。
「ありがとう」町子は微笑んだ。
「読解力を付けて欲しいの」綾子はブレザーのポケットから文庫を取り出した。
「本は嫌!」町子が強い剣幕でいった。「本は読まない!」
「そうなの。でもこれ面白いよ」努めて軽くいったが町子は大袈裟に後ろの壁際まで下がっていった。引いていく波を気にしないようにした。「『くるぐる使い』っていうの。かわいいでしょ。こんなところで手に入るなんて思わなかったな。こないだ拾ったんだけどさ。昔はこういうのがSFマガジンに載ってたんだね。今でも載ってるのかな。あんま知らないんだけど」
「読まない!」町子はもうじき泣きそうに見えた。教科書ぽくない本ならと思っただけだったが、諦めて自力で町子と向き合うことにした。
 町子の反応は随分滑稽で、少しだけ愉快で、気持ちよさの漸減していく感覚の中で、もう少しだけこの嫌がらせを続けたいなと、ほんの少しだけ綾子は思った。
「ねえ、どうして町子は本が嫌なの」
「本は嫌! もう読みたくない」
「何でよ」
「何で?」怖い顔をした。「さきちゃんいってた。本を沢山読むと自分で本を書くようになるんだって。本を沢山書いてしまうと、その人もいつか本になるんだって」
「あ?」綾子は困惑した。「何その、それ」
「本当だもの」
「万事がそんなうまくはいかんし。何かをあんたは勘違いしてるよ」
「本はもう嫌なの」ぐずるよう町子が泣き出した。「読むの辛いの。読めないと怒られるのも嫌なの」
「ふうん」
「私が本を読まないでいるとさきちゃんがすぐ打つの」
「そうなの」
「本読まないで勉強したい」
「いいよ」ペンと紙とを取り出した。
「さきちゃんが本を読ませるの。さきちゃんは私に勉強を教えてくれるの」町子はまじまじ綾子を見た。「さきちゃんじゃないね。あんた誰?」
「浅川綾子っていうの」何度目か判らない自己紹介を綾子は口にした。「漢字の勉強しよ」
「いいよー」
「何と読むでしょう」
「判んない!」
「判んないことねえだろ。答えはね、はんちゅう」
「どういう意味?」
「意味は範囲だと思えばいい。範囲は何かに含まれるということ。例文を書くね。『お肉はお菓子の範疇とする』これはどういう意味?」
「肉が、お菓子に含まれる」
「そう。そうよ」
「違うと思う」
「いいのよこれは。文章の問題なの。覚えればいい。次はこれ判る?」
「これ? 難しい」
「そんなわけないよ。これはごうひ。合格と不合格のことを合否というの」
「初めて聞いた」
「何度もいってるだろ。『合否は明日判る』っていったらどういうこと?」
「明日判る」「何が?」「合否」「合否って何?」「合格と不合格のこと」「つまりどういうこと?」「合格か不合格か明日判る」「そう! 判ってるじゃん! やれば出来るじゃんか! じゃあこれは? 読んで!」
「無制限」
「すごい読めるじゃない! すごい! 意味は判るの? 町子? え?」
「制限がない。こと」
「つまり『おやつは無制限とする』といった場合、おやつに制限がないってことなのよ!」綾子は町子を見た。「どうかしたの?」
「どうして泣いてるの?」
「知らない」綾子は目元を拭った。「泣いてないじゃない」
「さきちゃん平気? どこか痛いの?」
「うん」部屋の隅の方へ行き使わない布で綾子は洟をかんだ。「めんね」
「いいよ」
「次は何の勉強をする? 英語にする?」
「さきちゃんトイレ。トイレ行きたい」
「もう?」綾子はドアのある壁の方を眺めた。
 部屋にはドアが二つあり、綾子の見た方のドアにはドアノブがなかった。
「一人で行けるから」町子はいったがそういう訳にはいかなかった。町子にトイレの準備をさせて、トイレの支度が出来ると綾子はドアのストッパーを確かめた。「行くよ」
 トイレは少し戻った場所だった。手を引きトイレに行くと決まって町子は綾子に謝るのだった。ごめんねなどといいその内小声で泣き出すのだった。「ごめんなさいさきちゃん」恥を掻かせたいわけではなかったし、いい加減慣れろとも思ったが、町子は駄目だった。単に怒られるのが怖いのかも知れなかった。
「ハンカチ使いな」綾子は町子にハンカチを渡し、トイレの次の部屋で待った。ドアを町子は閉めたがったが綾子はそれを許可しなかった。
「トイレ嫌でしょ?」隣の部屋から綾子は訊いた。「卒業したらトイレに行けるよ」
「トイレ卒業?」
「違うよ」綾子は微笑んだ。「トイレだけじゃないよ。映画にも買い物にもディズニーランドにも自在に行けるよ」
「三井アウトレットパーク入間にも?」
「阿佐ヶ谷アニメストリートにも行けるよ」綾子は頷いた。「どこにでも行けるよ。どう。卒業したい?」
「うん」町子の声が途切れた。綾子は扉の横に座った。
「ねえ町やん。校長先生てどんな人だった」
「どうして?」
「保健室によく来てたんでしょ」
「判らない。来てた」
「怖い人。優しい人なの」
「判らない。普通の人」
 出てきた町子に綾子はハンカチをちゃんと捨てたか訊いた。町子はしつこく恥を掻いたが、構わず手を繋いで元の部屋に戻った。
「あのハンカチはさきちゃんのなの?」
「拾ったの」綾子は答えた。
 町子がいびきを掻きだしてから綾子も一人で便所に向かった。ストッパーは外してドアを閉め用を足した。
 トイレに行くと死にまつわる繰り言が止まらなくなるのが不思議だなあといつも感じていた。戻ってから町子の寝姿に見とれた。「起きて町子」
「嫌だ。まだ寝ていたい」
 町子がいうので綾子は黙った。
 部屋はぼんやりいつまでも明るかった。
「最後の授業はテストです」休憩が明けて綾子はいった。「これが授業の総浚いです」
「テスト」
「うん」綾子は内ポケットから一枚の紙を取り出した。
 綺麗に畳んでいたそのA4の印刷物を、綾子は広げて町子に見せた。
「これは何?」
「試験の内容です。読んで」
 町子は紙面の文章を読んだ。「卒業試験の実施について。下記の通り卒業試験を実施する。記。ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n-m=1とせよ。時間は無制限とする。その他条件も試験の範疇とする。合否に於いては脱出を以て発表に替える。以上」
「これが卒業試験なの」
「どういう意味?」意味判んないと町子はいった。「何これ?」
「ちゃんと勉強したでしょう。覚えてるでしょ。覚えていたら町子は解けるよ」
「判んない」考えもせずに町子がいうので危うく綾子はぶん殴りそうになった。「意味判んない」
「教えて欲しい?」
「教えて」
「あなたは私を殺すのよ」綾子は一歩膝歩いた。「それが卒業試験」
「何で?」
「知らないよ」綾子はいった。「でもそうしないとここを出られないの」
「どうすればいいの?」
「手を貸して」差し出された町子の両手を綾子は自分の首筋に当てた。「握って。握り潰すの」
 いわれた通りに町子はしたがふざけているとしか思えない間抜けな握力だった。
「もういい?」町子が簡単にいった。町子をどかせて綾子は息を吸った。何度も咳き込んで口を拭った。「痛くなかった?」町子が訊いた。
「ナイフにするか」綾子は町子にナイフを渡した。「私の心臓がここ。強く押して。刺すの!」
 町子は刃先を服に当てたがまったくそこから押し込めなかった。お前の今している力の無意識の加減を止めろと綾子はきつく命じたが、自分の無意識の止め方を町子は判らないみたいだった。
「ごめんねさきちゃん」町子は詫びた。「何か変だよ」
「やらなきゃ死ぬならどうだ」町子の首を締めた。「私かあんたどっちか死ぬぞ。私がお前を殺してやろうか?」
「痛い」首を締めると町子は抗議したが綾子は綾子で手が震えて力が入らなかった。何度も何度も実践を重ねたのに無意識の手加減をどうしても止められなかった。「泣いてるの?」
「死ね!」綾子は町子を突き飛ばした。ひっくり返って町子が泣き出した。
「ひどいよ。優しく教えてよ」
「うるさい」
「さきちゃん怖いよ」
「さきちゃんじゃない!」
「じゃああんた誰?」
「仲直りしよ! ごはんにするよ!」綾子は叫んで町子に袋を被せた。「歌え馬鹿! 大声を出せ!」
「でっかいびいだまおおおおおおおおひろおおうゆめをみたああああああああああ」耳目を塞いだ町子が大声で叫び始めたので綾子はノブのあるドアに近付き扉を開けた。扉の向こうに変わらず部屋があり同じ間取りでの部屋の中央には自分たちと同じ制服の女子が寝ていた。寝ていた女子は近付く綾子の足音で目を覚まし、目覚めた女子の感情に構わず綾子は馬乗りになってその首を握り潰し、元居た部屋まで死体を引き摺った。隅の辺りに死体を放ると所持品や胸ポケットの花を引き抜き、袋を被ったままの町子の手を取って立たせ、一緒に次の部屋まで移動した。
「まっすぐ歩く」歌いながら町子は泣いていたみたいだった。「何泣いてるの?」
「のごがいたい」しゃくり上げて町子はいった。隣の部屋に行き手を離すと町子はしゃがみ込んだ。
「どこへ行くの?」
「行けないよどこにも。試験をしないとどうにも出来ない。最後の一人しかここを出れない。読んだことないそういう本」
「本は嫌」町子はいった。
「じゃあもうどうしようもないよ。私はあんたを殺せないもの。あんたが私を殺すしかないよ。ねえ話聞いてるの?」
「何をいってるの?」
「あんたも私を殺せないなら、二人でここで生きるしかないよ。そんなのは嫌でしょう? どうすればいいか判るでしょう?」
「何をいっているの?」町子は顔を上げなかった。今回の試験も失敗のようだった。あと何回同じことをして、あと何回違う方法を試さねばならないんだろうと綾子は考えた。
「ごめんなさい」町子が謝った。「私賢くなりたい」
「もういいよ」
「さきちゃんが好き。さきちゃんだけなの。他にいないの。私のこと嫌いになんないで。もっと勉強頑張って、さきちゃんのいってること判るようになりたい。今よりもっと賢くなって、さきちゃんに褒めて貰いたい」
「もういいよ。判ったよ」綾子は町子の眼前にしゃがみ、手に持つ花をそこにかざした。「ごめんね町子。仲直りしよう。これあげるよ。お願いだから泣き止んでくれない」
「ごめんなさい」
「顔上げて」
「何」町子が視線を上げた。少し驚いたみたいだった。「花だ。どっから出したの」
「ポッケからだよ」
「さっきはないっていったよ」
「拾ったんだよ」綾子は町子と膝をつき合わせた。「『何をいっているの?』」
 町子はきょとんとした。
「何いってんの、は、こういうの」綾子は町子の前髪を掻き、髪の向こうの目を見ていった。「ワダユトーキンカバウ?」
「ワダ」
「ワダユトーキンカバウ。セイ」
「ワ、ワダ、ワダユトーキンカバウ?」
「完璧じゃん」綾子は笑った。綾子が笑うと町子も笑った。
「寝よっか」
「いいよ」町子が頷いた。「今は夜?」
「どうだろうね」
 綾子のあげた花を眺めて、町子は気分を一人でよくした。ひなげしか何かそのような類のそれを、枕の中に町子は押し込んだ。縫い目のほつれが大きくなって枕の中身の花の束が見えていた。「縫い直さなきゃね」
 同じ枕で二人は眠った。花の匂いと、隣室で死体の垂れる糞尿の匂いがした。
「さきちゃん」町子の喉がいった。髪が乱れて町子の顔がよく見えなかった。「問題出して」
「夜は」
「ナイト」
「雨は」
「レイン」
「暗いは」
「ダーク」
「夢は」
「ドリーム」
「六千六百八十九万一千五百三十は?」綾子は聞いたが返事がなかった。「夢を見れそう? 明日また勉強をしよう」
「賢くなったらどうなるの」
「きっと私を殺したくなるよ」
「さきちゃんは花をどうしたの」
「どうしたと思う?」綾子は目を閉じた。
「きっと」きっとと町子は呟いた。目を閉じて、半分寝かけた温かい体で、唾液も舌も足らない口調で頭の足りない考えを口にしていた。「きっとあなたのポケットの中に、大きい庭があるんだと思う」
「どれくらい」
「無制限」
「制限のない?」
「制限のない広さの庭から、どこか遠くの暖かい国から、魔法か科学の力を使って、あなたがこの花を摘んできてくれたんだと思う」いうと町子は枕に顔を埋めた。「おやすみ」