自然とはなにか。別の種の生きものと「ともに生きる」とはどういうことか——『キツネとわたし』訳者あとがき(梅田智世)
生物学者である主人公「わたし」と野生の〈キツネ〉が結んだ友情を通じて、ロッキー山脈の豊かな自然を描きつつ、人間と自然の関係のありかたの理想が示される感動のエッセイ『キツネとわたし ふしぎな友情』が好評発売中です。本書はいわゆるネイチャーライティングであるとともに著者のメモワールでもあり、その両面が海外では高く評価されている、多様な魅力の詰まった一冊となっています。
今回の記事では、そんな『キツネとわたし』の読みどころを、梅田智世さんによる「訳者あとがき」を通じてご紹介いたします。
訳者あとがき
山あいの人里離れた谷にぽつんと立つ、小さな青い屋根のコテージ。そこで孤独な生活を送っていた「わたし」はある日、一匹の野生のキツネと出会い、『星の王子さま』を読み聞かせるようになる。それが一風変わった友情のはじまりだった──。
ロッキー山脈の大自然を舞台に野生のキツネとの友情を綴った本書は、キャサリン・レイヴンによるメモワールFox and I : An Uncommon Friendship の全訳である。著者レイヴンはグレイシャー、マウントレーニア、イエローストーンなどの国立公園でパークレンジャーとしてはたらいたのち、モンタナ州立大学で生物学の博士号を取得。モンタナ州の山中に建てたコテージで単身生活を送りながら、バックカントリーのガイドやパートタイムの大学講師、イエローストーン国立公園での野外講習で生計を立てていたころに〈キツネ〉と出会い、思わぬ転機を迎えることになる。
本書の大きな魅力は、なんといってもロッキー山脈の自然や動植物の描写だろう。このあたりの自然環境はきわめて厳しい。著者のコテージからそう遠くないモンタナ州ウェスト・イエローストーンの平均最低気温は、真夏の七月で摂氏七度、真冬の一月で摂氏マイナス一三度。降水量の少ない高地砂漠なので、みずみずしい緑は乏しく、岩がちの「薄墨毛色と黄麻布色の野原」が果てしなく広がる。そんな過酷な環境でたくましく生きる動植物たち──キツネはもちろん、カササギ、シカ、ハタネズミ、木や草花、著者をてこずらせる雑草までもが、日常的に触れあっている人ならではの親密さで、独特のユーモアまじりに生き生きと描きだされている。そこから浮かび上がってくるのは、ときに競いあい、ときに協力しながら同じ土地で生きる動植物たちの姿だ。
本書にはキツネと人間の友情のほか、友情とはいかないまでも、キツネとカササギ、カササギとキツツキ、アリとアブラムシなど、さまざまなかたちの共生が登場する。そして、そのすべてが絡みあい、ひとつの生態系をかたちづくっている。人間である著者も例外ではない。著者が建てたコテージや世話をする草花は、好むと好まざるとにかかわらず、周囲の環境と動植物に影響を与える。いっぽうの著者も雑草やネズミやジリスに悩まされ、でも折りあいをつけながら暮らしている。著者の言葉を借りれば、そこは「自然がときどき、人間にあれこれ指図されるのを拒む場所」だ。自然のなかで、別の種の生きものたちと「ともに生きる」とはどういうことなのか。ロッキー山脈の動植物に囲まれた著者の暮らしからは、そのひとつのありかたが垣間見える。
本書はおおむね著者の一人称の語りで進むが、ところどころでキツネなどの動物や想像上の人物の視点から描かれるパートが挟まる構成になっている。この部分はもちろん著者の創作だが、キツネやほかの動物の目には世界はこんなふうに映っているにちがいない、と思わせるだけの説得力がある。それは著者の観察力と共感力、そしてなによりも自然に対する愛のなせるわざだろう。著者が言うように「現実の世界と想像の世界がともにぐるぐると渦を巻き」、フィクションとノンフィクションの垣根を自由にとびこえているところも、本書の独特な魅力のひとつだ。
〈キツネ〉と出会い、友情が育まれていく経緯を語る前半には、野生動物の擬人化をめぐる著者のためらいが色濃くにじんでいる。生物学の博士号を持つ著者には擬人化をタブー視する科学界の常識がしみついていて、そのせいで〈キツネ〉との友情をすんなりと受け入れることができない。科学の世界で擬人化が忌避されるのには、もっともな理由がある。人間を基準にしたものさしで測ると、それぞれの生きものの本質を見誤ってしまいかねない。その反面、著者が周囲から再三言われるように、擬人化の否定が「人間とそれ以外の動物はそもそも違う」という含みを持つこともある。でも、ほんとうにそうだろうか? 人間だってまぎれもなく動物だ。それなのに、どうして人間とほかの動物とのあいだには越えがたい溝がある(とされている)のか? キツネやカササギをはじめとする数々の動植物との暮らしをつうじて、ときに悩んだり失敗したりしながら、著者はその問いに対する自分なりの答えを、そして〈キツネ〉との関係の意味を探っていく。
もうひとつ、本書で投げかけられている大きな問いが、「自然」とはなにを意味するのか、というものだ。「パンサークリークの子ジカ」の章では、その問いがとりわけ強烈に突きつけられている。当時、マウントレーニア国立公園でレンジャーをしていた著者は、イヌに襲われてけがをした瀕死の子ジカを見つける。だが規則上、野生動物を助けることは許されない。その理由は、「自然ではない」から。でも、けがをした子ジカが人間に助けを求め、人間がその子ジカを助けたいと思うのは、自然なことなのではないか? 苦しみながら死んでいく動物を見物するのが自然なのか? そこから生まれた疑問は、著者の人生の針路を大きく変えることになる。
キツネとの友情をつうじて人間と自然とのかかわりを描く本書は、人生の道に迷い、孤独と向きあうひとりの女性の物語でもある。著者は物理的に周囲から切り離された僻地で暮らしているが、精神的にも人間社会から切り離されている。一五歳で家を出て以来、独力ではたらきながら大学に通い、ひとりきりで生きてきた。詳しくは語られないが、両親(とくに父親)から虐待を受けていたことをうかがわせる記述がところどころに出てくる。その生い立ちは著者の人間関係に影を落とし、人と深くかかわらない生きかたを選ばせてきた。人間との交流がなくても、自然と触れあっていれば、そして空想上の友だちであるサン゠テグジュペリや『白鯨』の語り手イシュメールと語らっていれば、孤独を感じずにいられた。それでも、社会に加わり、人と交わりたいという思いは、つねに心のどこかにあった。パートタイムの仕事だけでは経済的にも苦しい。せめて医療保険に入れるくらいの「ちゃんとした職」につきたい。でも、自分が街での暮らしになじめるとはとうてい思えない──そんな迷いを抱えて次の一歩を踏みだせずにいた著者は、〈キツネ〉との紆余曲折を経て、人生の目的と進むべき道を見いだしていく。その過程は、手探りでおそるおそる人生を歩み、自分にとって大切なものを見極めようともがくすべての人に訴えるものがあるのではないかと思う。
ここでひとつだけ、訳語について説明しておきたい。〈キツネ〉の表記は、原著では頭文字が大文字のFox となっている。この訳語をどうするかはかなり悩んだが、カササギの〈テニスボール〉やビャクシンの〈トニック〉には固有の名前をつけた著者がキツネだけは一般名詞と同じ名で呼んでいたことには、本人が意識していたかどうかはわからないが、少なからぬ意味があると思う。そのため、日本語でも一般名詞と同じになるように〈キツネ〉とし、一般名詞のキツネと区別するためにヤマカッコでくくることとした。
本書で引用されている文献については、既訳を引いた際には本文の初出時に出典を明記している。なかでも言及の多い本は、とくに次の版を参考にさせていただいた。訳者のみなさまに深く感謝する。
また、訳文をていねいにチェックして貴重なご意見をくださった早川書房編集部の石川大我さんと校閲担当の山口英則さんにも心よりお礼申し上げる。
人間が自然を破壊し、野生の世界との結びつきが消えかかっているいま、わたしたちは自然との関係のありようを考えなおす必要に迫られている。自然とはなにか? 別の種の生きものと「ともに生きる」とはどういうことか? そんなことを考えながら、ロッキー山脈の厳しくも美しい自然とそこに生きる動植物たちとの暮らしを著者とともに体験してもらえればさいわいだ。〈キツネ〉との出会いが自然や人生に対する著者の見方を変えたように、〈キツネ〉や〈テニスボール〉や〈トニック〉たちの織りなす生のドラマが、わたしたち人間の進むべき新たな道を見つける一助になってくれることを願っている。
二〇二三年二月
◆書籍概要
『キツネとわたし ふしぎな友情』
著者: キャサリン・レイヴン
訳者: 梅田智世
出版社:早川書房
本体価格:3,300円
発売日:2023年4月24日
◆著者紹介
キャサリン・レイヴン (Catherine Raven)
サウス大学教授。モンタナ州立大学で生物学の博士号を、モンタナ大学で動物学と植物学の学位を取得。アメリカン・メンサとシグマ・サイの会員。グレーシャー、マウントレーニア、ノース・カスケード、ボエジャーズ、イエローストーン国立公園で公園管理官を務めた経験を持つ。本書はニューヨーク・タイムズ・ベストセラー、クリスチャン・サイエンス・モニター年間ベストブックに選出されたほか、ノーチラス・ブック・アワード金賞など多数の賞を受賞した。
◆訳者紹介
梅田智世 (うめだ・ちせい)
翻訳家。主な訳書にウィン『イヌはなぜ愛してくれるのか』(早川書房刊)、サラディーノ『世界の絶滅危惧食』、エルボラフ&ブラウン『世界から忘れられた廃墟』、パルソン『図説 人新世』、オコナー『WAYFINDING 道を見つける力』、リーバーマン&ロング『もっと!』など。