シャーリーA4ポスター

高殿円著『シャーリー・ホームズと緋色の憂鬱』文庫電子版発売記念、短篇特別公開!

シャーリー・ホームズと緋色の憂鬱』(高殿円著)の文庫電子版の発売を記念して、同書収録の短篇「シャーリー・ホームズとディオゲネスクラブ」を特別公開します。シャーリー・ホームズって何? という方には、まずは雪広うたこさんによる紹介コミックをご覧ください。

キュートでかっこいい女性二人組、シャーリーとジョーが、現代ロンドンを舞台に活躍します。今回、掲載する「シャーリー・ホームズとディオゲネスクラブ」には、政府の要人にしてシャーリーの麗しのお姉さま、マイキーが登場します。お楽しみに!

「シャーリー・ホームズとディオゲネスクラブ」

高殿 円著

 ──私ことジョー・ワトソンが六年間のご奉仕兵役を終えてアフガニスタンから帰国したのは、前述(『緋色の憂鬱』参照のこと)のとおり二〇一二年の七月のことだった。
 その当時金なし職なし男なし、将来への展望はおろかなにかを始める気力もない荒れた生活を送っていた私は、ほんのささいな偶然ときっかけによってシャーリー・ホームズに出会った。女性としてはだれしもが満足するであろう容姿と最先端技術の結晶である人工心臓をもち、王室の推薦によってスコットランドヤードの顧問探偵を務める女性である。
 私たちがベイカー街221bのアパートでフラットシェアを始めてからひとつ季節が過ぎ、そろそろロンドンはメインストリートがクリスマスの電飾に彩られるころ、私と彼女の関係はあるひとつの転機を迎えた。
“麗しのディオゲネスクラブ事件”である。

『おかえりなさいませ、ミス・ワトソン』
 ドアノブに手を掛けると、自動でロックが解除される。ただの年代物の真鍮ノブにみえるこれは、一瞬で触ったものの指紋ばかりではなく手の汗から遺伝子情報まで盗み取る高性能セキュリティの接触端末だ。
「ただいま、ミセス・ハドソン。シャーリーは?」
『お嬢様はご在宅です。本日の起床時刻は午前十時七分。現在はカウチの上でなにごとか考え事をなさっておいでです』
 私の質問に答えてくれたのは柔らかい年配の女性の声だが、その姿はどこにもない。おそらくこの建物のどこを探しても見あたらないだろう。
「あっそ。なんか食べてた?」
『朝食は主人がお運びしました。蜂蜜入りのヨーグルトとコーヒーをブラックで。M&Mを補充してあります』
 人間の頭部ほどもあるでっかい空き瓶にぎっしり詰まったM&Mはシャーリーの非常食だ。あのカラフルコーティングされたチョコレートを口に運んでいると、美しさを極めたアンドロイドがただカプセルの燃料を補給しているように見える。
「ありがとう、いつも優秀だね」
『My pleasure(どういたしまして)』
「一階に、コーヒーを頼んでもいいかな」
『夫に伝えます』
 声の主は数年前に他界した、一階のカフェ『赤毛組合(Redish Guild)』のオーナー、ミスター・ハドソンの奥方、ミセス・ハドソンの合成ボイスである。カフェの店名のごとくつやのある赤毛が印象的なミスター・ハドソンは元々シャーリーの実家の使用人で、ウィルトシャーにあるという広大な邸宅に夫婦で住み込みで働いていた。それが不幸な事故によって夫人が他界すると、気力をなくして執事の職を辞してしまった。
 そんな彼がロンドンの古いアパートの一階で夫人のレシピを元にした小さなカフェを始めたのがこの『赤毛組合』。
 そして、亡くなった夫人の人格をできるだけ忠実に再現しプログラムされたのが、この221b専用AIである『ミセス・ハドソン』なのである。
(そう言えばミセス・ハドソンのカメラは寝室にはないって聞いてたけど、なんでシャーリーの起床時刻がわかるんだろう……)
「…………」
 思わずいやな想像をしてしまう。
 ポリッシュで磨かれた手すりに手を掛け、奥の階段を上がっていると、深煎りコーヒーのいい香りが漂ってきた。私がここを気に入って、できれば結婚するまで出て行きたくない理由の一つは、ミスター・ハドソンが淹れてくれるコーヒーがとても美味しいからだ。朝は決まった時間にミセス・ハドソンが起こしてくれ、二階に下りていくと、たった今淹れたばかりのコーヒーと日替わりの朝食が用意されている。サンドイッチは寝坊して時間のないときは包んで仕事場に持って行けるようになっているのがなんともすばらしい。
 朝食がすばらしいと、たとえ昼食をとりそこね夕食が缶詰の豆とコーンビーフだけであっても救われる気がするのは気のせいだろうか。しかし医療に関わる者として、英国の二割以上を占める肥満体にはなりたくないから、朝だけであっても規則正しい食事を摂取できることはありがたかった。
 それに、たまにシャーリーと夜中華料理に飽きて『赤毛組合』を訪れると、なにもいわなくてもシャーリーの好きなメニューを出してくれる。コーヒーの香りを楽しむために、ロンドンのカフェでは珍しい店内禁煙。ロンドンでここ以上の下宿を私は知らない。
「ただいま、シャーリー」
 二階に着いた。我々のフラットの玄関にたつと、不用心にもドアは開いていた。シャーリーはハドソン夫妻を信用しすぎだ。
「シャーリー、寝てるの?」
 室内の空気は完全に停止している。だれかの呼吸の気配はない。
 ただ、カウチの上に不自然に浮いたいくつもの青白いホログラム・ディスプレイと、ピッピッという電子音だけが沈黙を乱しているように思える。むろんホロなのでそれらにはフレームも、液晶画面すらない。どこかからバッテリを引いている様子もない。空中にぽつんと浮かんでいるだけだ。どうやらこの家の主であるミセス・ハドソンがシャーリーを管理するためにやっていることらしいが、以前どういう仕組みになっているんだと聞いた際彼女がしてくれた説明が皆目わからなかったので、最近はそういうものなんだとスルーしている。
 ひとつはシャーリーの心電図と血圧等を示したもの。そしてもう一つは……
(地図…?)
 ホワイトホール近辺の地図、それからハロッズ近辺のガイドマップ。今日のロンドンの天気。外気温、曜日。政府発表記事のみ抜粋した新聞数種……、それからここ三日間のロンドン市場の動向。タブロイド紙面まで広げてあった。
 彼女はいったい何を調べようとしていたのだろう。
(ちょっと体温が低いな)
 ということは、もう一時間以上もあの状態なのだろうな、と推測できる。シャーリーの意識はここにはなく、電脳世界にアクセスしたまま、あの無限の海に深海魚のように深く深く潜り込んでいるのだ。あの状態では当然視力もないし聴覚も一時的に麻痺しているのだろう。
 ミセス・ハドソンはシャーリーのための優秀な電脳家政婦なのだが、こうして見るとシャーリーのほうが巨大なマザーコンピューターの人型端末のように見える。
 私は杖をマントルピースに立てかけると、仕事場近くのスーパーで買ったソックスの入った袋をテーブルの上に置き、夜食にと求めたエッグタルトを冷蔵庫に放り込んだ。アフガンで足の甲を敵兵に打ち抜かれて以来、私の日常は常に杖とともにある。もっとも私が彼の地で陥った状況に鑑みるに、足の甲ひとつで済んだのが奇跡であったろう。これが手でなくてほんとうに良かったと思ったが、それでも長い間立ちっぱなしの外科医としての仕事はみつからず、いまはヘルスセンターでごくふつうの診療の仕事をしている。最近はもっぱら胃腸風邪を患った子供の相手だ。
 一人掛け用の椅子に腰を下ろして、私はぼんやりとシャーリーの心脈が描き出す波を見ていた。この部屋のインテリアは私が入居してきたときにはすでに揃えてあったので、寝室以外に私の趣味が反映されているところはない。大きな窓が二つあり、そこにかかっているカーテンも年代物で、ロンドンに多くある築百年以上の石造りの家にふさわしいクラシックな重厚感をそなえていた。キッチンはやや近代的で、驚くことに冷蔵庫もランドリーも最新式のもの。食洗機まで備わってある。ちなみに私の部屋はこの上だ。
 シャーリーが起きる気配はない。
 時計を見るともう午後七時近かった。今日は非常勤医の仕事が早番だったというのに、なんの収穫もないまま一日が終わってしまったことに、私は非常に残念さを覚えた。せめてこんな日はお酒が飲みたいものだ。
(安いワインでも買ってくればよかった)
 もう一度出るのもおっくうだが、キッチンのありとあらゆる場所を探してみてもアルコール類のストックはなかった。こうなるとお酒を飲まなければ人生負けだという気さえしてくる。
 コーヒーはやめだ。出かける際に一階に寄って、オーダーをキャンセルしないと。
 私は、カウチの上で百年眠り続けるヴァンパイアのごとく身じろぎしない彼女に声をかけた。
「シャーリー、帰ったばかりで悪いんだけどちょっと出てく──」

「必要ない」

 ようやく声がした。
 私は視線をカウチのほうへ投げた。あいかわらずシャーリーは霊安室の遺体そのものだったが、唇だけが動いている。
「まったく行く必要はない」
「……もしかしてワインがあるの?」
「ない」
 ふいに彼女の上に浮かんでいた青白いホログラムのディスプレイが消える。
「なあんだ。じゃあ買ってこなきゃ」
「いま、それはジョーの人生に必要ない」
 言うと、いきなり両手を真上につきだし、そのままのポーズで墓場から起きあがったゾンビのように上体を起こした。私は見慣れているのでなんとも思わないが、初めて会ったときは度肝を抜かれたものだ(初めてバーツのモルグで会ったとき、彼女は遺体袋に入っていた)。
 私はもう一度ストールを首に巻き直した。
「……えーっと、シェイクスピアみたいな台詞をどうもありがとう。でも私飲みたいんだけど。もちろんいまから。ううんいますぐに」
「“いま”“すぐに”」
 長く、ゆんわりと巻いている黒髪に縁取られた青白い顔。そして青い目がこちらを見た。シャーリーの目の色は一言では形容しがたい。あえて言うなら、自然色にはないネオンブルー、だろうか。金属イオンがとけ込んだ温泉水というか、およそ温かみのある色ではない。
 そして私よりも背が高く、初めて彼女に会ったとき、私は、ああSF映画で宇宙人や超能力者がしている目だなと思ったものだった。
「一本三ポンドの安ワインを“いますぐに”求めなければならないことに、君の人生において高尚な意味が?」
 監視カメラがピントを合わせるような目で見つめてくる。
 シャーリー・ホームズは二十七歳の女性である。職業は、自称“探偵”。警察が扱うような事件専門のコンサルタントだと彼女は言う。私立探偵といっても多くの推理小説のヒーローたるような、依頼人が来てその事情を聞き、事件を解決するといったようなたぐいのものではない。彼女にはどうも仕事を請け負うための専門の窓口があり、そこからしか事件を請け負うことはないらしい。
『たとえていうなら、僕は、このロンドンの治安維持システムのようなもの』
 連絡を受けてすぐさま現場へ駆けつけようとするシャーリーに、私は足を引きずりながら問いかけたものである。いったいなぜ、警察でもなんでもない君がここまでするのか。ろくに金銭も受け取っていないのに。
 それに対するシャーリーの返答が上記だ。あるいは彼女はこうも言った。
『社会組織の欠陥から起こる比較的浅はかな犯罪事件であっても、僕が自分の能力をもてあましてそのほころびを広げる側にいかないようにするにはいい退屈しのぎだ。それに、そうしていれば自分の人生がかならずしも無益ではないとそのつど思い知るよ、実にいい気分なんだ』
 特にスコットランドヤードの敏腕女性警部であるグロリア・レストレードからのコールを彼女は決して逃さない。どんな時間にかかってきても、それが彼女の大好物の五段に積み上げたハニーホットケーキにナイフを入れる瞬間であっても、彼女は『My pleasure(喜んで)』と召喚に応える。
 けれど、いくら事件が解決したといっても、彼女は警察のみんなでバーに飲みにいったりすることはなかった。少なくとも私と出会ったころのシャーリーは、突然携帯に舞い込む依頼を、ただたんたんと受けては結果を報告したり、レストレード警部と協力したりするぐらいで、専用の居心地のいいガラス瓶の中で、琥珀の中で息絶えた虫のようにひっそりと存在しているだけだった。彼女の日常は、ミセス・ハドソンの電子ボイスで起こされ、ミスター・ハドソンの淹れたコーヒーで目を覚まし、その後は頼まれた事件を解決するために現場に出かけるか、私と出会ったバーツの研究所で蜂の遺伝子の研究をするか、それともアパートの屋上にある蜂の巣箱の世話をして(そして研究と称して蜂の巣の前でヴァイオリンを弾きまくるか)、蜂の巣のブロックを攪拌機の中にほうりこむか、どれかしかなかった。
 もちろん私としてはそのような彼女の非常識な日常に異議を唱えずにはいられなかったし、彼女に請われて現場に同行するようになったあともことあるごとにケンカをした。彼女のあまりにも世間知らずな箱入りぶりにうんざりして何度目かの家出を試みたこともある。その家出先で、私とシャーリーは心ならずもあの新聞の一面を騒がせた『バスカヴィル家の狗』という、名門バスカヴィル家に何百年ものあいだ隷属させられている不幸な一族の反逆事件に巻き込まれることになったのだが……
「ジョー。残念ながらそういう運命なんだよ。ワインはなし。今日はそういう運命だ」
「どうしたの、やけに絡むね今日は」
 シャーリーは紫色のシルクのガウンを着て、M&Mのぎっしりと詰まった大きなジャム瓶を手近な場所に据え、昨日まで研究していたらしい新聞となにかの論文の束をくしゃくしゃと山のようにそばへ積んでいた。あんなに没頭していたというのにもうその関心はそこへはないらしく、なにかべつのことに心を奪われている。
「君がお酒が飲みたいと切望しているところをすまないと思う。しかし今日はみんながそういう運命なんだよ。これがごくふつうの依頼なら君の三ポンドの楽しみをわざわざ奪ったりしない。最初に社会の俗悪さにさいなまれた誰かが事件を起こし、優秀なるレストレードを頼って、彼女が次に僕を頼る、そして僕が君に頼るという順序だ。だけど今日はそんなんじゃない」
 これは運命なんだ、と繰り返す。
 シャーリーはそう言うと、ひどく難しい顔をしてまた黙り込んでしまった。その様子があまりにもいつもの彼女とは違うので、私は少々心配になった。
 私は諦めて、シャーリーの勧めるままに、いつも彼女がとぐろを巻いているカウチに向かい合った肘掛け椅子に座った。
「運命なんて、君の口から出てくるとは思わなかった。どうしたのいったい。事件でも起こったの?」
「事件じゃない運命だよ。……いや、事件とも言えるな。こうなる運命だったとしか思えない。ともかく君は今日仕事がはやく終わったのでイーストロンドンへ足を伸ばした。冬物のジャケットかぱりっとしたトレンチコートを買うつもりだった。職場の仲間に新しいジャケットを買ったことを自慢されて、そうだ私も医者なんだからいつまでも大学のロゴの入ったジャージを部屋着にするのも、アフガンまで持って行った色あせてファスナーの壊れたままのピーコートを着ているのもはずかしいと思い、いま流行のショーディッチに向かう。あそこはもともとインド系の下町で物価も安いし、ちょっとこじゃれたファッションブランドのアンテナショップも増えてきているから、きっと手頃な服が手にはいるだろう、そう思った」
「えっすごい、どうしてわかったの!?」
 もはや頭の中から半分酒を買いに行こうと思っていたことは飛んでいた。私はシャーリーの座っているカウチに歩み寄り、彼女が視線を合わせてくれるのを待った。
「なんだってわかってる」
「それは知ってる。だからその根拠は?」
「言わない」
「そんな」
「……言うと、ジョーは『なあんだ』ってバカにしたみたいに言うから言わない」
 いつも女優のエヴァ・グリーンが演じているアンドロイドのような顔が、だだっ子のようにぷうとふくれるのがおかしくて、私は言った。
「言わない、言わないよ。だから教えて」
「本当に言わないね?」
 何度も念押しして、シャーリーはカウチの上でとぐろを巻いたまま、
「今日君が靴下を買ってきたドラッグストアは、仕事場のヘルスセンターから見てこことは逆の方角だ。帰り道に立ち寄る場所じゃない。だから仕事を終えた君はどちらの方角に向かったかはわかる。君が上着を気にしていたのは、今朝ミセス・ハドソンのモーニングコールを聞いて叫んだから。─たしかこうだ『うそ、そんなに寒いの、いやだ!』そうだったねミセス・ハドソン」
『おっしゃるとおりです。シャーリーお嬢様』
 優しげなハウスキーパーの声がこだました。有能この上ない完全無欠の電脳家政婦ことミセス・ハドソン。この221bの真の主。
「ミセス・ハドソン、今朝、ジョーにかけた言葉を再生」
『承知しました(My pleasure)。
 ──おはようございますジョー様。十二月一日午前七時、今朝のロンドン外気温は摂氏八度、本日の予想最高気温は十九度、湿度は四十四パーセント。くもりです。帰宅が日没時になるようでしたら厚手のコートとマフラー類をご持参ください。
 …以上です』
 うんうん、と私は頷いた。たしか寝ぼけていたがそのようなことを言われた気がする。
「これからアフガンから帰国して最初の冬、そう沢山衣料ももっていないはずだ。君は新しい上着が欲しくなった。イーストロンドンへ出かけ、セレクトショップをいくつかのぞいたがあまりの高さに手が出なかった。結局ドラッグストアでソックスだけを買って帰宅した。君のわびしい財布の中身で買えそうな上着ならチャリティバザーをのぞくかeベイを利用するしかないだろうが、君はめったに古着を買わない。理由は自分で繕い物ができないからだ。たかだか爪を切るのを怠って靴下に穴が空いただけだったのに、君は自分で繕わない。裁縫が苦手だから。外科医なのに。だから古着を買ってもし何らかのダメージがあっても自分で着られないので用心しているんだ」
「どうして古着を着ないって」
「君と一緒に暮らし始めてから四ヶ月、君がバザーに出かけるのを見たことがない。ネットオークションの郵便物で服を買うのも。いつも質のいい古着よりユニクロかZARAだ」
 そういうシャーリーは、家の中では紫色のシルクカシミアガウンを着ているか、白のスリップ姿だ。夏も冬も朝も夜もこの姿なので、私はたまに季節を見失う。
 もっとも、シャーリーの普段着は、たとえそれが新品ではなくブリッツロンドンのヴィンテージショップに並んでいても、私のお給料では手が届かないだろう。彼女のよく着ているシンプル無地の黒ニットワンピースはボッテガヴェネタだし、細身のパンツはバレンシアガだ。いったいだれのチョイスかというと、彼女の姉らしい。政府機関に勤めるお役人さんであるシャーリーの七つ上の姉は、ストレスが溜まるとボンドストリートで買い物をし、しかし自分はもうたっぷり服を持っているので妹のところに送りつけてくる。
 わが221bにあり得ない量のブランド品が届くと、それはホームズ姉が政府の中心で雄叫びを上げていることを意味するのだ。つまり英国の危機だ。
 その、姉からのプレゼントというよりはストレス解消の副産物である高価な衣服を、シャーリーはまったく気にすることもなしに次々に着倒している。フラットに備え付けられた洗濯機はほぼ私だけが利用している状態だ。シャーリーの下着はシルク製品も多いので、ほとんどがランドリーサーヴィスである。まったく信じられない。
 私のスクールの友人も、大学時代の友人もここまでリッチな人間はいなかった。医者を志すとはいえ、医療奨学金を受けてかつかつに生活している苦学生ばかりであった。リッチな人間は自然とそういう者同士で集まるから、私はまさかこの歳になって下着をクリーニングに出す人間と同じ部屋をシェアすることになるとは夢にも思わなかったのだ。
(たしかにベイカー街はロンドンでもいい場所だけど、どうせ住むならメリルボーンにでも住めばよかったのに)
 床に脱ぎ散らかされたシルクの下着を一しながら私は思う。
「まあ、私の行き先が看破された理由はわかったよ。いつもシャーリーの答えを聞くと、なんだそんなことかって思うしそれくらいなら私でもできるんじゃないかって思うけど、実際はそうじゃないんだよねえ」
 私はストールをほどいた。部屋の中は思ったより暖かく保たれている。これもミセス・ハドソンの仕業だろうか。
「ついでに、急に酒が飲みたくなったのは、感謝祭はどうしたとか、クリスマスは一人かとかそういうシングルを悲観するような出来事が職場であったからだ。たぶん同僚の結婚。しかも自分より年下の」
 どきっとした。私が絶句したことをイエスととらえたのか、シャーリーは満足そうに軽く頭を振った。
「今までは戦地にいたから一人で感謝祭もクリスマスも過ごさずにすんだ。家族といっしょに食事できないのは自分だけじゃなかったからね。君は早くに家族を亡くしたせいか結婚願望も強いし、周りに人がいないとすぐに寂しがる。うっとうしいと思いつつリバプールの叔母にカードをかかさないのはこの世で血縁が彼女しかいないから。そもそも医者を選んだのはハイスクール時代にあこがれていた先輩が医大に行ったからで、アフガンを志願したのも同じ奨学金を受けていたボーイフレンドが先にアフガンに行ったからだ。だけど彼が鬱病になって早々に帰国してからは、クリスマスのためにすぐに現地の将校と……」
「あー私の半生をまとめてくれてありがとう。でももういいから」
 ウィキペディアを音読する合成ボイスのようなシャーリーのご高説を手で阻む。
「で、なにが運命って」
「そう運命。君が僕と出かけること」
「出かけないんじゃなかったの?」
「ジョーが一人で出かけないという意味だ。ああ、もうこうやって思い悩んでもしかたがない。君は僕といっしょに来るんだ」
 シャーリーは立ち上がる。五フィート七インチのシャーリーは私より背が高い。彼女は早足でキッチン奥の自室へ戻り、クローゼットからいつもの白シャツ、ニットのセーター、黒パンツをもってきた。そうしてまるで私がそこにいないかのように勢いよく下だけの下着姿になり、
「ジョー、ブラジャー」
「はいはい」
 このお嬢様は、なんと私が指摘するまでブラをしたことがなかったらしい。後ろに腕を回してホックをとめるという技がなかなか自分ではできず、私の出番となる。
「できたよ」
 ブラが留まったと思ったらあっという間に着衣する。この間二分。ブーツに勢いよく足をつっこんだ。
 シャーリーは処女雪のように真っ白なウールコートを着込むと、いつもたくさんの道具が放り込まれているショルダーをたすきがけにかけて、行こう、とドアを開けて振り返った。
「なんなの」
「来ればわかる」
 慌てて私は後を追った。

***

 ロンドンオリンピックが終わったというのに、街中にはいつもより多くの英国旗がはためいていた。行き交う人々の服がやけに目を刺す。明るいブルーやピンク、なにより赤が目立つのが気になった。私は心理学は専門ではないが、不況になると派手な服が流行る、とりわけ明るい色彩を求めるということは知っていた。娯楽もそうだ。深刻なメロディはなりを潜め、あっけらかんとしたヒップホップやラブソングが大人の街ソーホーにまでかかっている。
「ナイツブリッジへ」
 キャブを止めて中に乗り込むと、シャーリーが行き先を告げた。私は少なからず驚いた。ナイツブリッジのあるチェルシー地区はロンドン有数の高級住宅地で、あのハロッズなどの高級店が建ち並ぶストリートだ。あそこを歩くのはほとんど観光客で、ロンドンっ子はめったにうろつかないし用もない。
「ね、どこへ行くの。何しに?」
「困ったことに、姉が君に会いたがってる」
「お姉さん?」
 あの、いつも国家の危機にブランド路面店で衝動買いをしてはうちに送ってくる国家公務員の姉か。
「なんで困ったことなの」
「行けばわかる」
「………、どうして私に会いたがってるって?」
「僕と四ヶ月も一緒に暮らして根をあげず、まだ続きそうだからだろう」
 二十七にもなるのに、同居人になるのに姉の面接がいるのかとうんざりしたが、彼女があのフラットの真のオーナーだと聞いて納得した。
「ミセス・ハドソンはマイキーがプログラムした」
「マイキー?」
「ミシェール・ホームズ。僕の七つ上のほうの姉」
「お姉さん、二人いるの」
 おや、と私は思う。シャーリーとはこの四ヶ月間随分話をしたし、彼女の特異な性格についても理解を深めたつもりでいたが、彼女が親類関係やら、または自分と家族の関係などを口にするのを聞いたことがない。ましてや自分からすすんで(というふうには見えないが)姉に会わせようとするなどとは。
「一番上の姉はウィルトシャーで実家を継いでいる。もっともホームズの資産運用はマイキーがやっている」
「ああ、じゃああの221bも管理不動産のひとつってわけ?」
「あれはマイキーのただのノスタルジック」
 なんでもお姉さんが大学のときに下宿していた部屋らしい。マナーハウスまで所有するホームズ家の娘のくせにほぼ大学時代は勘当同然で、ローズ奨学生だったというから驚きだ。英国政府の官僚になるはずである。
 その後、大人になった“マイキー”はあのアパートのオーナーになり、管理を元執事のミスター・ハドソンに任せた。大学を出てからも働かず、日がなアパートの屋上で養蜂にいそしむだけの妹を心配してあそこに住まわせたはいいが、妹の奇行のせいで空いている部屋が埋まらない。
 初めて彼女に会った日、あれは忘れもしないロンドンオリンピックが毎日のようにローカルチャンネルで放映されていた時──、あれだけ熱心に私をシェアメイトに誘ったのは、ミスター・ハドソンが体をこわし今後医療費がかなりかかるだろうことをシャーリーなりに考慮してのことだった。ミスター・ハドソンの収入はカフェの売り上げとあのアパートの家賃収入なのである。
「それでチェルシーなんかに住んでるんだ。ただの公務員が住める場所じゃないものね」
 ホームズ家もチェルシー地区を開発してぼろもうけしたカドガン伯爵家同様、ロンドンにいくつもの不動産をもっているのだろう。
「できれば、君を姉に会わせたくなかった」
 めずらしく、シャーリーが浮かない顔をする。彫りがくっきり深い顔だちのせいで、まぶたが重たげだとさらに目元が暗くなる。
 キャブが停まった場所はちょうどハロッズを通り過ぎたあたりで、私とシャーリーは観光客の間を縫うようにしてストリートを急いだ。すらりと高い痩身を軍服チックなコートで包み、女優のエヴァ・グリーン似の美貌の彼女を振り返る人間は多かったし、その気持ちはわからないでもない。
「元々はノーサンバーランド大通りのところ、グランドホテルの裏にあったんだけど建物が老朽化してね。結局いい移転先が見つからなくてここになった」
「……ふ、うん……」
「ほんとうはマイキーはハーレーストリートに作りたかったんだ。女が作るクラブならあそこがふさわしいと言って。ペルメル街はオス臭い」
「えっ、クラブ。今から行くところってクラブなの?」
 思わずダールストーンに立ち並ぶクラブハウスを思い浮かべてしまうが、シャーリーは否定した。
「“ディオゲネスクラブ”」
「……ディ、なに?」
「こっちだ」
 プロンプトンロードからガーデンのほうへ少しばかり入ったところに建っていた美術館風の建物に向かって、シャーリーは砲口を定めた戦車のように重厚に進んでいった。もう夜も更けてせっかくの緑もどす黒く景観はまったく楽しめないが、この辺りは緑と博物館の多いいい場所だ。
「ジョー。ここではルールがひとつだけあって、絶対に言葉を使ってはいけない」
「えっ、どういうこと」
「英語もフランス語も、ありとあらゆる言語が否定される。バベルが崩壊した直後の混沌こそ戦争の起源だろう。だからここでは言葉は悪しきものとされる」
「じゃあ、いったいどうやってお姉さんと面会をするわけ」
 ポーターに名前を告げるとドアが開かれた。シャーリーは何の躊躇いもなく奥へ奥へと入っていく。かすかに香りの付いた蒸気が鼻をかすめたことを私は感じていた。部屋を進むごとに空気が濃くなっていくような気がする。
 シャーリーに続いて部屋に入ろうとすると、彼女に目で咎められた。あっちの部屋へ行けと指をさされる。なにがなんだかわからないまま、私はスタッフの女性に連れられて支度部屋らしい小部屋に案内された。しゃべってはならないという規定上からか、女性もなにもいわず、ただ完璧で親しみやすい営業スマイルを浮かべて私を見た。
「あの……」
 思わずここはどこなのか、と聞きかけて、女性が口元に人差し指をもっていくのにルールを思い出す。すると、女性が両手を広げるようにジェスチャーした。なんのことかわからないまま指示通りにした。すると、女性はおもむろに私の背後へと回り、着込んでいたパーカーをずるりと取り去った。
「えっ」
 続いて、目にもとまらぬ早業でシャツのボタンがすべて外されたかと思うと、同様に腕がぬかれブラジャーのホックも外された。やけにすーすーするなと下を見れば、すでにGパンは足下に落ちている。思わず悲鳴をあげそうになった私の口に、女性がおおきく手で蓋をした。私はここでのルールを再び思い出した。
 女性は入ってきた方とは違うドアを指さした。そうしてようやく私はさきほど私の鼻先をくすぐった蒸気や甘い香りの正体を推測することができた。かすかに水音がする。
(まさか、温水プールなの)
 だとしても、裸で入るというのはおかしい。トップレスが原則のビーチというのは聞いたことがあるが、会員制というからにはここも同様なのだろうか。それにしたって悪趣味である。
(いったいシャーリーはどういうつもりで……)
 物腰は柔らかだが視線はキツい女性スタッフに背中を押されるかたちで、私は湯気が流れてくるドアの向こうへ足を踏み入れた。開けたとたん、思った通りわっとこだまする水の音と蒸気が私の聴覚と視覚を奪う。
 湯気がゆっくりと下降し、やわやわと開けていく視界の中ではっきりと浮かび上がってきたのはグリーンだった。名前は知らないがいかにも南国風の背の高い植物がそこかしこに見られ、まるで熱帯の植物を収集した温室に足を踏み入れたようである。
 ぼうっとつっ立っていると、一人の裸の女性が私の前に立った。そこへ行けと指をさす。巨大な六角形の大理石だ。どれくらい大きいかというと、高さは私の足の付け根まであり、大きさは私の身長の倍はあるだろうというほど。薄いグリーンとオレンジの混じり合った大理石は驚くほど暖かかった。その大理石をとりまくように六本のギリシャ風の柱が立っている。柱だけではなく、そこかしこに見られる内装はアテネの神殿を思わせた。きっとギリシャの遺跡に南国のグリーンとサウナを持ち込んだらこのような景色になるだろうと思われた。
 そして、私はこの風景を知っていた。
(ターキッシュバスだ!)
 オールドストリート駅の近くにあるトルコ風呂に私は通っていたことがあったので、その巨大な大理石を見てすぐにピンときた。なるほどこのロンドンには昔からトルコ風呂の施設がいくつもあり、今でも高級ホテルの一角にサウナを兼ねたトルコ風呂があると聞いていたがここもそうらしい。ということは、この女性はあかすり師(ケサン)だ。
 人肌以上の温度に暖められた石の上にうつぶせで寝ころぶと、あかすり師が私の腕をこすり始めた。すぐにじっとりと皮膚が汗をかいてくる。あまりの心地よさに私は、なぜ自分がこんなところに連れてこられたのか、シャーリーはどこに行ったのかはどうでもよくなり、石の上に頬をつけてうとうととした。この、すぐに状況に流されるのは数ある私の悪癖の中でも、他人によく指摘されることなのだが、どうも私は目の前にどんな受け入れがたいことが突きつけられても、意外とあっさり受け入れてしまう。そして、受け入れすぎる。
 その時も、私のなけなしの警戒心はケサジの巧みなトルコ式マッサージとサウナによって早々に白旗をあげていた。約三十分ほど私は体中をもみほぐされ、最後は髪の毛まで丁寧にシャンプーされ、体中にいいにおいのするバターミルクを塗りたくられて、別の部屋へと案内された。
 ああ、ロンドンにこんな極楽があるなんて。ここがヴィクトリア・ベッカム御用達と言われても不思議ではない。手渡されたソーダ水が最高に美味しかった。

「自白剤入りよ」

私は盛大にソーダ水を吹いた。
「なっ、ぶっ…げほっ…ゴホッ…」
 自分しかいないと思っていた空間に、突然声がかかったのだから、私がいかに驚いたかわかってもらえるだろう。さらに驚愕すべきことに内容が内容だった。
「嘘よ。どうぞお好きなだけお飲みなさいな。薬を使うほどせっぱ詰まってはいないつもり」
 私は、声の主を目で確かめてから、そういえばこの声もシャーリーに似ていると思った。声も、というのは、自己紹介を経ずとも目の前に座っている人間の正体に予測が付いたからである。
 長い黒髪はシャーリーよりは焦げ茶色に近く、瞳は同じ青でもやや薄い。たとえて言うなら顔の造作はやっぱりエヴァ・グリーン似だが、雰囲気が圧倒的にレイチェル・ワイズ。つまりド迫力美人。
(シャーリーに似てるなあ)
 だが、決定的に違うのは少しも隠そうとされていない豊かなバストだ。私の知る限りシャーリーはBカップの域を出ていないから、彼女たちの両親はグラマーとそうでない家系のかけあわせなのだろう。
「貴女が“マイキー”?」
「お初にお目にかかるわ。ジョー・H・ワトソン。ご足労さまね。ところで最近の“ドイツ”とわが大英帝国の様子はどうかしら」
「ああ、えーっと、“ドイツ”のほうは、最近“ギリシャ”の冷え込みで活動がやや鈍っているみたいです。大英帝国のほうは言わずもがなですね。ロンドンオリンピックのおかげで随分植樹もされたのに、たいして生産性は上がっていないみたいですね」
 ちなみに私が話しているドイツとかギリシャとか大英帝国とは国家のことではなく、221bの屋上でシャーリーがそれぞれの国歌をヴァイオリンで聴かせながら飼育している蜂の巣箱のことである。
 マイキーはトルコのスルタンのように、女性マッサージ師に足と肩を揉まれながら色の付いたソーダ水を口に含んでいた。自分も同じすっぱだかであるというのに、私はそのことも忘れてしばし見入ってしまった。長身グラマー美人の生まれたままの姿というのは、同じ性であってもそうそうはお目にかからないものなのだ。
「ここはしゃべってはいけないのでは?」
「扉の向こう側まではそうよ。いらないでしょ、スパで言葉なんて」
「ここは貴女だけのクラブ?」
「普段は百人くらいいる会員が好きに利用しているわ。私も五時十五分前から八時二十分ごろまではここにいる」
 私に会いたくなったら来て、とウインクされて絶句した。なるほど、ここはマイキー行きつけの高級スパということらしい。
「ジョー、あなたがシャーリーと暮らし始めてから四ヶ月経つけれど、まだ221bにいるというのが不思議でね。私のことは聞いている?」
「シャーリーあての郵便物のほとんどは貴女からということなら」
 私が、彼女にまとわりついている二人のマッサージ師にちらっと視線を向けるのを、マイキーはめざとく見定めた。
「この娘たちは生まれつき耳が聞こえない。安心して」
「!」
「ここにいるスタッフは全員そう。きわめて平等な空間よ。もっとも読唇術ができるかどうかのテストはしていないから、下げさせたいときは下げられる」
 マイキーはソーダ水の半分残ったグラスを肩を揉んでいた女性に手渡した。それを合図に、二人は部屋を退出していく。
「えっと、シャーリーは?」
「あの娘はここが好きじゃない」
 天井から吹き出る熱いミストと保温された大理石の腰掛けのせいで寒くはないものの、初対面の相手を目の前に化粧もせず、服も着ずに話すというのは妙な心地だった。見るからに相手はふつうの人間ではない。なのに、心に警戒心がうまく纏えない。
「なるほど、そういうことか」
 マイキーが視線だけで私に続きを促した。
「問答無用で裸にされて、取り繕うこともできない。その上マッサージでリラックスはするし、ずっとこの湿度の高い場所にいたらいやでも頭がぼうっとする。警戒感を抱けなくなる」
「そういう効果もあるわね」
「で、今日はただの保護者面談ですか? ベイカー街のクラシックアパートを破格の値段で貸してくれるのに理由があったということなのかな」
「あら、あなたにあの娘の面倒を見てくれなんていうつもりはないけど」
「それはよかった。シャーリーはもっと自立するべき」
「たとえば?」
 相手がなにを求めているのかわからないまま、私は思ったとおりのことを述べた。もともと腹芸は苦手だし、こんな状態であれこれ頭を使ってしゃべれるほど器用でもない。
「日がな一日、蜂の巣箱の前でモーツァルトを弾いてどうやって生きていける? 彼女がやっている仕事は貴女が与えたものみたいだけれど、彼女は賢いし、意外に優しいところもある。もっと門戸を広げていいんじゃないかな」
「具体的には?」
「……うーん、たとえばホームページを開いてお客さんを受け付けるとか。貴女が割り当てる仕事は凶悪犯罪ばかりだけれど、彼女はもっと身近で人間くさい事件も手がければいいと思う」
「あのシャーリーに浮気相手を探させたり、迷子の猫を追わせたりするの?」
「それは彼女の好きにしたらいい。でも、今のままじゃ人生に対して受動的すぎる」
 マイキーの綺麗な喉がククッと動いた。
「あの娘のスクール時代を思い出すわ。寮に何度も呼び出されて話を聞いた」
「どんな話を?」
「“団体行動ができない”“協調性がない”それから“聞かれてもいないことをしゃべるのはマナー違反”」
 ああ、と息を吐く。
「でも、あの子がもっと一般的な職をもつということに反対はしないわ。きっとジョー、あなたがそのサイトとやらを作って窓口をやってくれるなら、妹は喜んで一般的で俗悪的な日常の謎に身を投じるでしょう。私が彼女に与える機密度の高い事件ではなくね。そのほうがあなたも書きかけのティーン小説のネタになるんではなくて?」
 噎せた。自分の身辺などとっくに調べられているとは思っていたが、そんなところまでチェックされていたとは。
「ど、どうして書きかけって……」
「ミセス・ハドソンは優秀なの」
「…………」
 たしかに私は彼女との出会いから恐ろしい連続殺人事件が解決にいたるまでの過程を『緋色の憂鬱』と題して小説にまとめつつあったが、まだどこにも公開してはいなかった。
(きっと仮アップするためにネットにつないだところを、ミセス・ハドソンに侵入されたんだ)
「ジョー。私はあなたに会うまで、あなたはシャーリーにとって教師か、それとも主治医になるかと思っていたの」
「アスピリンと免疫抑制剤のためですか」
「それもあるわ。あの子の心臓は三つ目なのよ。ミセス・ハドソンは優秀だけれど、そばにお医者様がいてくれるにこしたことはないわね」
「私は移植も循環器も専門外ですよ」
 シャーリーが今までに移植手術を受け、毎日プレドニン、シクロスポリン、ミコフェノール酸モフェティルの錠剤を摂取しなければならないことは、同居をはじめた時に聞いた。あの青白く肉付きの悪い体は彼女の生活スタイルのせいではなく、幼い頃より薬漬けのためであることも。
「でも主治医じゃあないわね。あなたはとってもユニークでラブリーなあの子の“通訳”」
「通訳?」
「あの子の存在を都合良く一般的に翻訳してくれるという意味よ。あなたの小説を読むと、あの奇妙な天使ちゃんの行動がエキセントリックだけど魅力的な探偵そのものに思えてくるから不思議」
「………………」
「でも、あなた達二人の性別を変えて、シャーロック・ホームズとジョン・ワトソンの事件簿として発表するっていうのはいいアイデアだと思うわ。そのほうがブロマンス的でうけるでしょうね。すごく」
「…………ど、どうも」
 この妖艶な美女にあんなクソなティーン小説を読まれていたのかと思うと、サウナの中なのに冷や汗が出そうだった。
「それで、私は通訳として合格なんでしょうか」
 マイキーは、足を組み替え、首を少しかしげた。
「私をわざわざここに呼び出したのは、そういうことも含めてシャーリーのフラットメイトとしてふさわしいかどうかの面談では?」
「面談されたのは私のほうだったけれど、ジョー先生」
 ここに至ってもなお、私はシャーリーの姉がどういうつもりでいるのか、これから自分がなにを言い渡されるのかまったく予測が付かなかった。
「私の身辺調査なんてとっくに済んでるんでしょう。軍にいたときの賞罰も。なにしろ貴女はシャーリーが言うには政府の高級官僚で、何一つ知らないものはない英国のマザーコンピューターらしいから」
「ただの下級役人よ。女だからいいようにこき使われているわ。ただほんの少し人よりパソコンに詳しいだけ」
 パソコンに詳しい、程度の人間が、あんなクラシックなアパートにSF映画もどきの電脳家政婦を常設できるだろうか。
「もちろん、うちの天使ちゃんはいろんな意味で免疫のない子だから、あなたのことは調べさせてはもらったわ。あなたが救った人間の数も、殺した人間の数も」
「外科医で軍医ですから、殺した数のほうが多いですよ」
「そうね。アフガンで六十三人はそれでも多いわ。……ああそれから、ロンドンで一人。こっちはごく最近」
「…………!」
 私は息をするのを忘れた。
 そんな私の反応などマイキーはとっくに承知の上だったようで、そのことについて特に言及はなかった。
「たしかにあなたの言うとおり、私がいつまでも妹の管理をしているわけにはいかない。順番からいうと私のほうが先に死ぬし、それにこんな仕事に就いているから」
「……この英国で、貴女が知らないことなどなにもない?」
「そうだったら、ここにあなたをご招待してたかしら、ジョー・ワトソン」
 なるほど、このスーパー姉上でも見通せない事実が存在するわけだ。
「私はシャーリーの保護者になるつもりはありません」
「賢明よ」
 マイキーは立ち上がった。ゆっくりと大理石の椅子を(私にはそれがずっと玉座のように見えていたが)降りて緑色の茂みのほうへ向かった。
「あの子はああいう子だから今まで友人というものをもったことがないの。でも、素直ないい子よ。私がそう育てた。…もし、手を焼いて言うことを聞かないことがあったら、魔法の言葉をかけなさい」
「魔法の言葉?」
「“祖国と正義のために身を捧げよう”彼女は言うわ。My pleasure(喜んで)、と──」
 瞬間的に、私はなぜか強烈な反感を彼女に抱いた。
「友人に、そんな言葉は言わない」
「友人になれたらね」
 濃い緑色の森の中に、シャーリーよりも肉感的で色づいた肌が消えた。私はその場にうずくまった。水分はとったつもりであるのに、完全にのぼせてしまっていた。

***

 私が服を着て部屋から出てくると、すぐにシャーリーが私を見つけて駆け寄ってきた。その顔は迷子の子供を見つけた親のようで、私は彼女がこんな心配そうに私を見つめてくるのを初めて見た気がした。少なくとも、以前捜査で真夜中のロンドンをかけずり回ったときも、犯人に銃口を突きつけられたときも、こんなに心配してくれなかったと思う。
「ジョー!」
 シャーリーは体をかがめて大げさに私をのぞき込んだ。
「大丈夫だった?」
「大丈夫、とは……?」
「姉になにか言われなかったか。明日ここにこいとか、引っ越せとか、家を提供してやるとか」
 私は笑って手を振った。
「いちおう、君のフラットメイトとしてはギリギリ及第点みたいだよ、引越はない」
「そうじゃなくて!」
 彼女はなにかに怯えるように辺りを見回すと、急に私の手を引いてディオゲネスクラブの外へ連れ出した。私を掴む手にものすごい力が入っているのがわかる。
「メイフェアの2‐5に来いとは言われなかった?」
「メイフェア? ううん、なんで?」
 ほうっと長い安堵の息をシャーリーは吐いた。
「空いてるんだ」
「何が?」
「だから、メイフェアの2‐5が」
「なに、それ?」
「マイキーの妾宅」
 噎せた。私は歩道のど真ん中でえずくほど激しく咳き込み、行き交う人に大きく避けられた。
「な、なに……?」
「僕はバーツのモルグで君に会ったとき、同居に最適な人物だと思った。同性で、医者で、僕の心臓が爆弾もちなことを理解してくれる上、細かいことを気にせず順応性が高い。僕の職業への興味はおそらく君の作家としての仕事に有効だろうし、取材先にもネタにも困らないだろう。ヴァイオリンも蜂も特に苦手ではないようだ。その上、マイキーの好みの顔じゃない」
「えっ彼女は同性愛者なの!?」
 衝撃の展開だった。
「いいや両性愛者だ。彼女には七人の情人がいて、月曜日はなにがし、火曜日はなにがしと通う妾宅が決まっている。毎朝この妾宅からホワイトホールへ通勤して、帰りにディオゲネスクラブへ行き、汗を流して愛人の待つ家へ戻る。毎日これの繰り返しだ。そして現在水曜日の家──メイフェアが空いてるんだ」
「ど、どうして空いたの」
 シャーリーは本当に聞きたいのかという顔をしたので、やっぱりいいと断った。
「僕の知っている限り、マイキーの現在の恋人は二十一歳のオタクな女学生からサッチャーの友人でフォークランド紛争に行った八十一歳のご老人まで多種多様だ。てっきり水曜日の恋人はこの八十一歳かと思ったが調べてみるといまだにご健在だった。マイキーは時として厳格な禁欲的恋愛も好むので好みを把握することが難しいんだ」
「プラトニックか。まあ、八十一歳のおじいさんとはそうなるだろうね」
「その老人はセックス要員だ。だから金曜日なんだ」
 再び噎せそうになった。なにが“だから”だ。
 顔を赤くしたり青くしたり忙しい私の隣で、シャーリーはひどく陰鬱な表情を作り、
「君が帰ってくる前、僕はマイキーから君をディオゲネスクラブへ連れてこいと連絡を受けた。急いで今日のロンドンの株価、気温、彼女の部下がなにかヘマをやっていないか──たとえば官僚のだれかが汚職で捕まったり、軍の機密が漏れていたり、爆弾テロ予告が届いていないかどうか調べた。なのに本日のロンドンはきわめて平和だ。雹も槍も降らないし王室スキャンダルもない」
「……つっこんで聞いたことなかったけど、君のお姉さん、公務員は公務員でもなにしてる人なの?」
「僕も詳しくは知らないが、マイキーは大きな部署に所属しているわけではないらしいんだ。なにしろまだ若いし女性ということもあって、地位はそう高くはない。ただ把握している情報の量がケタ違いなんだ。ありとあらゆる機関と通じている」
「お姉さんのことを、英国政府のマザーコンピューターだと言っていたけれど、あながち誇張じゃなかったってことか」
「彼女は、Ms. DiEとも呼ばれている」
「ははあ、ほんとに007めいてきた」
 私が医者だからわかることだが、DiEとはDiencephalon の略で英語で言うとInterbrain。つまり間脳だ。視床、視床下部、脳下垂体、松果体、乳頭体で構成され、大脳にもっとも近い。
「基本的には多忙を極める役職だ。気まぐれで妹の同居人に会おうなどと言い出す人間じゃない。ひょっとしてジョー、君がなにかの事件の重要参考人なのかもしれないと考えたが、それにしては事件の気配がなさすぎる。奇跡的に市内で交通事故も起きていない。レストレードもきっと定時には保育園に行けるだろう。
 ……ということは、マイキーは思いがけず暇ができたので、いよいよ水曜日宅の人選にとりかかったのだと推測できる。ディオゲネスクラブでスルタンよろしく好みの女を見繕っていればよかったのに、そこに君を連れてこいと言い出した」
「ちょ、ちょっと待って。じゃああのターキッシュバスは、政府のお偉いさんである君のお姉さんが暗殺の心配もなく人と会えるようにするための場所とか、そういうのではなくて」
「単なる姉の趣味だ」
「……………」
 がっくり項垂れた。今頃になって、裸になったのがものすごく損した気分になる。
「でも私はお姉さんの好みではないんでしょ」
「そうだ」
 シャーリーは真面目な顔をして頷いた。
「君はマイキーの好みとは違うけれど、なにしろあの博愛主義者のマイキーのことだ。僕が彼女の趣味を完全に把握しているとは言い難い。確かに君はいろんな色が混じってそうな赤毛に珍しくもなんともない茶色の瞳で背も低く、手足も短くて体型のキープに苦労している。知能は人よりほんの少し高いかもしれないが、いまのところそれを有効活用できているかというとはなはだ疑問だ。特殊な技能や高尚な趣味をもっているわけでもなく、語学の知識も貧困で音痴で声も汚い。まったくマイキーの好みになりうる要素が見られない」
「ちょっと」
「だけど、たったひとつだけマイキーの嗜好に合っている要素があるとすれば、君がきわめてビッ……」
「もう黙れ」
 電子版の使用説明書のようにただ事実を読み上げるシャーリーの口を手で塞いだ。
「ジョー。本当にメイフェアへ来いとは言われなかった?」
「ないよ」
「じゃあ、マイキーはなんのために……」
「さあ。心配になったんじゃないの。かわいい“天使ちゃん”が」
 シャーリーが歩きながらこちらを見ているのがわかった。美しいネオンブルーのカメラアイが私にズームを合わせてくる。
「君が、あそこで姉となにを話したのか興味深い」
「たいしたことじゃないよ。これからも居心地のいいフラットで生活したいなら、君の良き通訳たれって話」
「通訳?」
「ほら、時々君の言ってることをヤードの連中は理解できてないでしょ。私も自分なりに理解し直さないとアウトプットできないし」
「確かに君が僕らの性別を逆転させて書いているブロマンス小説はとても読みやすい」
「………ミステリ小説だよ」
 まさかシャーリーにまで読まれているとは思わず、無言になってしまう。
「とにかく、今度君のお姉さんに会うときは服を着てお願いしたいね」
「服を着ているマイキーは人殺しの命令しかしないが」
「……ハダカのお姉さんでいいです」
 そのとき、シャーリーの左耳に埋まっているイヤホンが軽く振動した。誰かから彼女の携帯に連絡が入ったのだ。
「レストレードだ」
 同時にシャーリーはため息した。
「またビリーを保育園に迎えにいってくれって」
「ロンドンは平和なんじゃなかったの?」
「ロンドンは平和でも、ヤード内でテロは起こる。いまグロリアはトバイアス・グレグスンとかいう無能な男が直接の上役になったせいでストレスの塊だ。彼女が本気を出してグレグスンをロンドン塔送りにするまでビリーは221bで夕食を食べることになるだろう」
「うへえ、早く内戦が終わりますように」
「ミセス・ハドソン。保育園に寄って帰るから、ビリーのための夕食と日本のパンのヒーローアニメーションを用意」
 私はベイカー街への戻り道を早足で歩きながら言った。
「ところで、運命的にメイフェアへ呼ばれなかった私は、今日のためにワイン買って帰ってもいいよね」
 シャーリーは私より一段高いところから彼女にしてはやや弾んだ声で言う。
「ご相伴にあずかれるなら、喜んで」
 そういう“喜んで”は嫌いじゃない、と私は思った。

Fin


【プロフィール】

たかどの・まどか

2000年に第4回角川学園小説大賞奨励賞を受賞し『マグダミリア 三つの星』でデビュー。第1回エキナカ書店大賞受賞作『カミングアウト』をはじめ、『カーリー』『メサイア 警備局特別公安五係』『剣と紅』『主君 井伊の赤鬼・直政伝』『上流階級 富久丸百貨店外商部』『政略結婚』『ポスドク! 』『戒名探偵 卒塔婆くん』など多数著書がある人気作家。2010年に上梓した『トッカン―特別国税徴収官―』で大好評を博した〈トッカン〉シリーズ(早川書房刊)は、続篇『トッカンvs勤労商工会』、『トッカン the 3rd おばけなんてないさ』、そして初の短篇集となる『トッカン 徴収ロワイヤル』と書き継がれ、「トッカン 特別国税徴収官」のタイトルで日本テレビ系で連続TVドラマ化もされた。2014年に発表した『シャーリー・ホームズと緋色の憂鬱』(早川書房刊)は、現代ロンドンを舞台に、コナン・ドイルのホームズ譚のメインキャラたちを女性化しており、目覚ましい独創性と原作への愛に溢れた、新時代のホームズ・パスティーシュとして好評を博した。2019年には〈シャーリー・ホームズ〉シリーズの続篇をミステリマガジンにて連載予定。

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