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正常としての異常な世界を生きること、あるいは異常者=正常者のためのセルフヘルプ 樋口恭介

「『闇の自己啓発』とは、自己啓発の言葉を文字通りに実践することで、自己啓発の枠組みを、半ば自動的に破壊してしまった、過剰性の書物である」——SF作家の樋口恭介氏による書評=思想をお届けする。

闇の自己啓発

正常としての異常な世界を生きること、
あるいは異常者=正常者のためのセルフヘルプ

樋口恭介


世界とはさまざまな症候の総体であり、その症候をもたらす病いが人間と混合される。文学とは、そうなってくると、一つの健康の企てであると映る。――ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』


一つの巨大な健康ではなく、無数の小さな健康を。
あるいは想像可能なすべてのセルフヘルプを探索するために。

木澤佐登志の論考に、「生に抗って生きること : 断章と覚書」というものがある。そこに、「生はその本来性において、どこまでも無根拠、すなわち無底である」という文がある。本稿は『闇の自己啓発』の書評として書かれているが、ひとまずこの引用から始めてみたい。なぜならこの一文こそが、『闇の自己啓発』という奇妙な思考の集積体を導くための、よき水先案内人になりうると考えるからだ。

私の読みではこの論考は、「すべてが無意味で、すべてに価値がないからこそ、優劣は何ものにもなく、そのためすべては平等に存在していてよい」というようなことを言っている。著者が本当にそう言いたかったかどうかはわからないが、少なくとも私はそう読んだ。私はそう読みたかった。だから私はそう読んだ。そして私は、私がそのように読めたこの文章が大好きだ。そこには生に対する肯定も否定もない。ただ、存在へのまなざしだけがそこにはある。すべてに価値がないのと同様に、私には価値がない、だから私は存在していてよい。私は生きていてよい。なぜなら存在とは論理的に、積極的に肯定されることも否定されることもないものなのだから。

生に抗って生きること。その主張の中には、後ろ向きのまま前向きに生きるような、アクロバティックなねじれがある。思えばそもそも人生とは、そうしたねじれをかかえて進んでいくものだ、というようなことを考えさせられる。私は、ただ単に存在するように生きていきたいと思う。私はここに在る。ゆえに私は在り続ける。私は生きているのだから、私は生き続ける。この無底の生、どこまでも無根拠な生を。

生は無価値である。しかし社会はそれを許容しない。社会は生に価値を与える。ゆえに無価値と価値のあいだで人は揺れる。人はみな、ねじれをかかえて生きている。人はねじれをかかえざるを得ない。人はねじれからは逃れ得ず、そのため人は、一貫性のある・責任を持った主体として生きることはできない。主体の一貫性とは幻想である。責任とは幻想である。人はつねに、ねじれの中で引き裂かれながら、その場しのぎの選択を積み重ねて生きている。生きていくこととは、その場しのぎの選択の積み重ねである。それが人をかたちづくる。体系的な思考とは幻想である。しかし、異形のものとしての思考の体系は、人それぞれ、各々固有のパターンとして形成される。

人は過剰性の生き物である。人の思考は過剰である。思考はつねに余剰を生む。言葉はつねに余剰を生む。あらゆる場所に余剰がある。なぜなら人は、あらゆるものに余剰を見出す生き物だからである。

一方で、社会は余剰を想定しない。社会は余剰の存在を許容しない。社会は、余剰を排除するよう人々に働きかける。だから私たちは、人であることによって、人でありながら社会の中で生きることによって、苦しみをいだく。役所暁の言葉を借りれば、社会は「他者そのものを理解でき」ず、コミュニケーションを円滑化させるために「単純なレッテルを貼」る。それは人の持つ過剰性に反しており、人の自然の在り方を抑圧しようとする、「異常」な営みであると私は考える。社会は異常である。この世界は異常である。この社会で生きること、この世界で生きることは、つねに必ず苦痛を伴う。しかし私たちは社会から逃れることはできず、世界から逃れることはできない。私たちは、私たちの生から逃れることはできない。ゆえに、私たちには「生に抗って生きる」というねじれた生が求められる。私は生に抗って生きている。あなたは生に抗って生きている。好むと好まざるとにかかわらず、あらゆる生はそのような構造を伴っている。だからあなたは一人ではない。本書のまえがきで、役所暁は次のように書いている。「この本を手に取ってくれたあなたは、決してひとりではないのだということを伝えたい。そしてもし、少しばかりでも本書の内容に触発され、面白いと感じてくれたなら、学び、思考し、発信することで、あなたの打ち破りたい何かに抗ってみてくれると嬉しい。思考の種を播き、ともに「開花」の時を待とう。/これが私たちの、闇の自己啓発だ」

本書『闇の自己啓発』は、社会がもたらすあらゆる抑圧から、絶対に逃れ得ないその構造から、少しでも逃れ、独自のアジールを築こうとする、傷ついた四人の語り手たちによる、逃走/闘争の物語である。それはカウンターの物語だが、単なるカウンターというわけでもない。確固として存在する既存の軸に、別の新たな確固たる軸をぶつけるというよりも、軸に向かって無数の異質さをぶつけているというような――束にすることのできない、異質なものの断片を、丸腰で、徒手空拳で、一つずつ拾い上げてはぶつけているというような――そんな印象を受ける物語である。おそらくそうした印象は、社会に虐げられ、社会に傷つけられながらも、社会に適応しようと努力してきた/努力しつつある語り手たちの、思考/志向の過剰さゆえにもたらされている。例を挙げればきりがない。帯を見るだけでその過剰さは伝わってくる。人格の廃止、加速主義百合SF、墨子、『天気の子』、まだ脳で消耗してるの?、統合失調症のゴリラが描いた絵、フィストファック、北一輝、反出生主義、チェーホフのLSD、神新世、ミュウツー、世界に「充満」する岩倉玲音、「未来は子ども騙し」、統治功利主義、『すばらしい新世界』、アシッド・コミュニズム、良心的納税拒否、常に0.5秒遅れている世界、『ジョーカー』、意識は「出力」にすぎない、ダークウェブ、痛みを感じるロボット、光速の限界が〈外部〉を生む、「天理」としてのアルゴリズム、ソラリスの海、胎内記憶説、通常の3000倍の快楽を甘受する人間、淫夢、薬やめたい、究極の人工知能、変性意識状態、資本主義リアリズム、健康ディストピア、報酬系の自主管理、ヒトのインターネット、宇宙はExitの味方です、不妊虫放飼、死の欲動、バ美肉おじさんたちのユートピア、「考え得るすべての害悪」、地球平面説――。そうした「謎の塊」と化した無数の情報群が、縦横無尽に、考えうる最高速度で駆け巡る。放言に次ぐ放言。言いっぱなしを言いっぱなすこと。その場限りで思考し、想像し、対話し、共有することで、瞬間の自由を確保し、瞬間の生を体現するということ。自己啓発とは別の仕方で、自己を啓発させてゆくこと――それが闇の自己啓発だ。

ところで、一般に自己啓発書と呼ばれる書物は、私たちに優しく語りかける。自己啓発は私たちに、「あなたがあなたのままであるように(しかし社会には適応しなければならない)」と語りかけ、「あなたが生きやすく生きられるように(社会でうまく生きていくためのスキルを身に着けよ)」と語りかける。

『闇の自己啓発』とは、「あなたがあるがままにあるように」という自己啓発/セルフヘルプのクリシェをなぞり、「私たちがあるがままにあろうとしたために」、結果的にセルフヘルプのクリシェを超えていった、自己啓発の鬼子である。よりよく生きること。よく学び、よく訓練し、成長し続けること。そうして得た知識や技術を社会に還元してゆくこと。耳障りのいい命令を文字通り受け取った者たちは、逆説的に社会から逸脱し、社会そのものへの破壊に向かう。あらゆる制度は、その制度が命じる規律を文字通りに実行されると、その制度自体が内的に破壊されてしまう、という性質を持っている。『闇の自己啓発』とは、自己啓発の言葉を文字通りに実践することで、自己啓発の枠組みを、半ば自動的に破壊してしまった、過剰性の書物である。私はそうした、本書にまとわりついた「気分」を共有している。

ここで唐突な自分語りをお許しいただきたい。私はいまではSF作家として活動しているが、子供の頃からSFを読み漁ってきたからこうなっているというわけでは決してない。白状すれば、私のルーツは自己啓発書にある。特に中谷彰宏『大学時代しなければならない50のこと』からの影響は大きい。この本の中に「一日に必ず5本映画を観ることをノルマにしていた」というエピソードが出てくる。私は本書のそうした記述を真に受けて、一日に本を10冊読もうと思ったことや、岩波文庫を全部読もうと思ったことがあり、実際に行動に移したことがある。私はいままでそうやって、自分自身にノルマを課して、自分自身を社会化させるよう努めてきた。私はより「社会的に優れた存在」になることを、「社会に歓待される存在」になることを、日々の規律訓練によって目指して生きてきた。ルーティンとして数をこなすということは、抗い難く、甘美な、成長という夢を私に見せた。私はいつも、その夢を追い続けてきた。

文筆活動をする中で、私は「成長を否定せよ、努力なんてするな」と主張することが多くある。それはもちろん嘘ではない。しかし、それでは私自身はどうかと言えば、日々努力をし続けている。自らにルーティンを課し、毎日何かを読み毎日何かを書いている。『大学時代しなければならない50のこと』は、いまも私の中に息づいている。私はとても自己啓発的な人間である。社会的な人間である。けれども、社会とうまくなじめているかと言えばそうでもない。一方で、社会とうまくなじめていないと主張する人々の中にも、うまく入り込めているわけでもない。私には友達が少ない。私は自分を抑えるのがとても苦手だ。リアルでもネットでも、異常な発言を繰り返してしまう。私は落ち着きがない。唐突に奇声を上げたくなる。抗いがたい破壊衝動に襲われることがある。しかるべき病院に行けば、なんらかの病名がつくと思う。私は空気を読むことができない。建前と本音を区別することができない。社交辞令を本気にしてしまう。言外にこめられた意図を読み取る能力が著しく欠けている。職場ではたぶん気持ち悪いやつと思われている。真面目なSF作家やSF批評家、SF読者たちからは、「なんか違うやつ」と思われているだろう。調子に乗って評論集なども出してしまったからか、よくわからない批評家や知識人や批評家志望の大学院生などから、インターネットで意味不明な悪口を言われることも少なくない。私は自分がどこに所属している人間なのかわからない。私には居場所がないと思う。ただ、家庭はある。妻がいて娘がいる。けれどそこですべてが癒やされるかと言えばそうでもない。もちろん、こういう発言で嫉妬する人や顔をしかめる人がいることも知っているが、本当にそう思うのだから仕方がない。私は自分を属性で語ることができない。自分の来歴を要約することができない。肩書などの記号をもって、自分はこういう者ですと、端的に自己紹介することができない。私とは、私でしかない。私は私として、この生に怒りや悲しみをいだきながら、なんで自分はこんな人間なんだと嘆きながら、成長を求めてもがいている。前に進むことを求めて、同じ場所をぐるぐると動き回っている。

ところで、私は私の妻を尊敬している。なぜかと言えば、彼女は純粋な楽しみのために読書をし、映画を観、音楽を聴いているからだ。彼女は聡明な人である。彼女の発言は私に霊感を与える。私は彼女に、きみは何かを書くべきだ、とよく進言する。しかし彼女はそれを拒否する。なぜか。それは、「何かを書くのは生産的な態度だからだ」と彼女は言う。

私は本当は私の妻のように生きたいと思う。私は生産を否定したいと思う。私は非生産的な人間になりたいと思う。しかし、私はそうはなれていない。おそらく今後もそんな風にはなれないだろう。私は生産をして、誰かに影響を与え、何かの仕方で他者に貢献をしたいと感じている。それは私の思想に反する感情である。そして私はその感情から逃れることはできない。私はそうした矛盾をかかえながら、いまも何かを書いている。自己啓発書を読むことで、多少なりとも影響を受け、認知が歪み、もう元には戻れず、そうした自分を引き受け、そうした自分に愛憎をいだきながら、私はそうした自分とともに生きていかなくてはいけない。それはとても苦しいことだが、私は苦しみながら生きていかなくてはいけない。私は私の生に、抗いながら生きていかなくてはいけない。

話がだいぶそれてしまったような気がする。『闇の自己啓発』の書評に戻ろう。

本書は四人の異常者による、異常者のための自己啓発書である。異常者であるとはつまるところ、自分自身であることを意味している。自分自身である人はみな、社会にとっては余剰であり、異常であるからだ。だから、私もあなたも本質的に異常者である。普段はそれを隠しているだけだ。

本書は座談形式で語られる。座談形式とは言っても、一つのテーマに対して厳密な論点を持ち寄って議論を深めていくような、普通の座談ではまったくない。言葉を選ばずに言えば、本書は終始、言いっぱなしの掛け合いによって進行していく。議論が深堀りされることはない。「(あなたのことは知らないが)私はこう考えた」「私はこう思った」「私はこう感じた」「こんなことをふと、思いついてしまった」といった、普段の生活にあって生まれては消えていくような着想の断片が、議論のストーリーラインなど知ったことかとばかりに、ぽんぽん放り出されてはただ、断片的なままに積み重ねられていくのである。そこでは、江永泉、木澤佐登志、ひでシス、役所暁という四人のむきだしの人間の、むきだしの思考の流れが、ただ淡々と記録されている。そこでは雑談の雑さが、純粋な雑さをもって、何の忖度もなく、何らの権力の侵入も受け入れず、どこまでも自由に雑であり続けている。

唐突ながら、雑談とは一つの生命体である。あるパターンを描く、情報の動的な流れを生命とするのなら、雑談は偶然の創発を孕む一つの生命なのだと言える。むろんそれは私の妄想めいた霊感に過ぎず、そんな定義はどこにもない。これは私の単なる私見であって、本書のどこにもそんな着想はないが、私は経験的にそう考えているし、本書を読みながらその考えを強めるに至った。頭のおかしい人だと思われるかもしれないが、勇気を持って言い切ってしまおう。雑談とは、再現性のない、その場限りの、瞬間の生命の輝きである。

雑談とは、一種の生まれ変わりである。木澤佐登志の言葉を借りれば、それは「私の身体をこことは異なる地点に接続させる回路をつくること、私の身体をいまとは異なる時制に接続させる回路をつくること」である。一瞬ごとの生まれ変わり。雑談によって、死が与えられ、そして新たな生が与えられること。ゆえに雑談には切実さが伴う。誰かの言葉ではない言葉をどれだけ出せるか。その流れの中でしか考えつかないことがどれだけ考えられるか。どれだけ、生まれ変わりのための飛躍ができるか――そうした闘争が、雑談の場にはある。だから雑談にはつねに、その場しのぎでありながらその場限りでしかない、不穏な緊張感が漂うことになる。そこには社会から逸脱する何かがある。そこには危険な香りがある。雑談は一般によくないものとされているが、それは、雑談が危険なものだからだ。雑談がなぜ危険か。それは、雑談が余剰を孕むものだからだ。雑談は予測不可能なものであり、コントロール不可能なものである。そこには事前に定められたスコープもなければイシューもない。目的もなければゴールもない。思考はあらかじめ志向されたものから逸れていき、闇の中を進んでいく。終わりの見えない思いつきの羅列。疲弊によって、終わらないままに終えられる奇妙な営み。結論などは出るはずはなく、振り返れば無数の謎だけが連綿と放り出されている。何も生み出すこともなければ、何も得られることのない、生き延びとしてのその場しのぎ。生産性の欠如。効率性の対極にあるもの。むき出しの無意味さ。取扱いに困るもの。純粋な逸脱。純粋な余剰。それが雑談である。ここでもまた、本書の核である「余剰として生きること=あるがままの人であること」の構図が反復される。雑であること。予定調和を拒否すること。それが本書を貫徹する態度であり、雑談という生命を生み出し続ける四人の話者たちに、あらかじめ共有された思想である。
 
本書は私たちに語りかける。あなたは何を思ってもよい、なぜならあなたはそう思ってしまったのだから。あなたは何を考えてもよい、なぜならあなたはそう考えてしまったのだから。あなたは何を感じてもよい、なぜならあなたはそう感じてしまったのだから。あなたは何を話してもよい、なぜならそれが、あなたの思ったことなのであり、考えたことなのであり、感じたことなのであって、それを話すことが、あなたがあなたを社会に問うということなのだから。

むろん、これは反社会的な態度であり、そうした反社会性をまとった本書は、政治的に不適切な主張をも時に辞さない。

本書には反社会的な側面がある。不道徳な側面がある。私の(社会的な規範から少しずれた)倫理観から言っても、引用するのがはばかられるような発言もある。目を覆うような事例が紹介され、吐き気を催すグロテスクなイメージが無責任に放り出される。それは、倫理や道徳といった視点からは批判されてしかるべきだろう。しかし、そうしたことを学ぶこと、想像すること、語られること自体は許容されるべきだと私は考える。そうした余剰は、そうした余剰自身の自由を確保するとともに、そうした余剰を敵視する者の思考の自由をも確保するからだ。

私の感覚、私の思考、私の想像力は社会にそぐわない。あるいはあなたもそうかもしれない。あなたは自分が「当たり前」ではない存在だと思っているかもしれない。自分のことを、日陰者のように、つまはじき者のように、異常者のように、人でなしのように、キチガイのように、化け物のように感じているかもしれない。

しかし、それがどうしたというのだ。江永泉は言っている。「「私」は、何もかもわかるような光の下にいるのが耐えられなかった。生で始まり死で終わるような配役「私」の台本が、どうしてもしっくりこなかった。だから闇を求めた。それが魔の手でもよかった」

私も江永に同意する。私は何よりもまず、私が私であることを肯定する。あなたがあなたであることを肯定する。話されるべきすべての話は、そこから始まる。それが私の考えだ。

「生はその本来性において、どこまでも無根拠、すなわち無底である」。そこには優れたものもなければ、劣ったものもない。あなたはただ、あなたであるだけだ。めいっぱいに日陰者であれ。つまはじき者であることを誇れ。異常者であることを恥じるな。人でなしであることは少し悲しんだほうがいいかもしれないが、なんとかがんばって生きていけ。キチガイと呼ばれようが、化け物と呼ばれようが関係ない。俺を見ろ。俺だって、ヤバイんだ。

自分自身であり続けろ。

自分自身であり続けることを恐れるな。

本書を読んで、自分を許すための枠を広げろ。

生に抗って生きること。

それこそが、あなたができる、あなたのための、闇の自己啓発だ。

(了)

樋口恭介(ひぐち・きょうすけ)
2017年、投稿作「構造素子」が第5回ハヤカワSFコンテストで大賞を受賞し、作家デビュー。著書に『構造素子』(早川書房)、『すべて名もなき未来』(晶文社)。


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