言論・出版・表現の自由の真の価値を照射する「言論の自由の歴史」決定版!『ソクラテスからSNS』解説
「言論の自由」は人類三千年の歴史において実際のところどのような役割を果たし、どのような運命をたどって今私たちの手の中にあるのか?
古代ギリシアから啓蒙主義、市民革命などを経てインターネット空間に虚実さまざまな情報が蔓延する現代までを広く俯瞰する話題の新刊が『ソクラテスからSNS ――「言論の自由」全史』(ヤコブ・ムシャンガマ、夏目大訳、早川書房)。本書のテーマを『正義とは何か』などの著書で知られる森村進氏(一橋大学名誉教授、法哲学者)が読み解いた解説を特別公開します。
解説 :「言論の自由の歴史」決定版
森村 進(一橋大学名誉教授・法哲学者)
私は法哲学を研究・教育してきたこともあって、これまで言論・表現の自由に関する書物や論文を読んできた方だし、自分でも簡潔な概説を一冊翻訳したことがあったが(ナイジェル・ウォーバートン『「表現の自由」入門』岩波書店)、このたび翻訳の校正刷りを読ませてもらった本書ほど、興味深くほとんど一気に通読した本は初めてだ。
それにはいくつも理由がある。この大著の何よりの特色は、読者にとって親しみやすい文体に加えて、言論の自由の歴史を三千年近くの長期にわたって述べているという圧倒的な視野の広さ・情報量の豊かさだ。私がこれまで読んできた文献は、自分が法学者であるために〈基本的人権としての言論・表現の自由〉という観点からのものが多く、そうするとどうしてもアメリカ合衆国憲法修正第一条や日本国憲法第二十一条の解釈が中心になり、その観念の歴史も19世紀イギリスのミルの『自由論』、あるいはせいぜい17世紀のミルトンの『アレオパジティカ』にさかのぼる程度であることが多い。本書「はじめに」の冒頭部分を読むと、英米の大学生についても同じようなことが言えそうだ。
(ついでながら、言論の自由は民主政治にとって不可欠だという理由でそれを正当化する法学者がよくいることに私は不満を感ずる。民主政治への貢献だけでなく学問・文化への貢献や個人の自由の発露も言論の自由の等しく重要な意義だし、民主的でない政体でも言論の自由は尊重されるべきだからだ。)
著者ヤコブ・ムシャンガマは、言論の自由が決して西洋近代の産物ではなく人類史全体を通じて進歩・反動・停滞などの栄枯盛衰を繰り返してきた──巨視的に見れば発展してきたが──ことを豊かな例証によって教えてくれる。著者が利用している文献は百ページ近い注にあげられているが、これだけの分量をよく読んで消化したものだ。私は本書を読んでから、興味の赴くままこれらの文献のいくつか(たとえばダーントンの『検閲官のお仕事』)にも手を出してみたところ、著者がその中で一番重要な個所を的確に利用していると感じられた。
本書が展開する歴史の広大なパノラマの中には、言論の自由の擁護者・推進者(時には殉教者)もいれば、批判者・弾圧者もいる。前者の中にはソクラテスやデモステネスやアクバル大帝やスピノザやディドロやマディソンやミルやマンデラといった世界史上の有名人物もいれば、中世イスラムの学者アル・ラーズィーとかイギリス内乱期のレヴェラーズ(水平派)とか18世紀後半のデンマークの政治家ストルーエンセといった、知る人が少ない歌われざるヒーローもいる。(その一方、エレノア・ルーズベルトくらいしかヒロインが出てこないのは残念なことだ。)また、言論の自由の強力な敵対者は古今東西を問わず典型的には国王・皇帝・教皇といった統治者層に多く見られるが、カルヴァンやホッブズのような傑出した知的エリートも多数その中に含まれていた。
著者は言論の自由の観念を、古代ギリシアの「パレーシア」と「イセーゴリア」の概念に表現されるような万人に自由を保障する平等主義的なものと、共和政ローマのキケロに代表されるエリート主義的なものに大別する。この対立は、たとえばフランス革命に対するトマス・ペインとエドマンド・バークの対照的な態度にも体現されている。著者の共感がどちらの側にあるかは明白だ。エリートだけに言論の自由を認めるのでは、その自由は十分実現されないし、自由の「濫用」の禁止という名の下で恣意的な制約を正当化することにもなりかねない。
そして一層興味深いのは、自分が言論の自由を利用したい時にはそれを擁護するのに、いざ権力を持つと自分を批判する言論を抑圧しようとする人が歴史上絶えないという、自然だが憂鬱な事実だ。著者はこのような戦略的態度を「ミルトンの呪い」と呼ぶ。ミルトンの『アレオパジティカ』は検閲制度に対するプロテスタント思想からの雄弁な反論だったが、彼はカトリックには不寛容であり、さらにその後も共和国時代に自身がレヴェラーズの本の検閲を行うことになったのだった。「ミルトンの呪い」に陥った人は、他にもルターとかフランクリンとかジョン・アダムズとかフランス革命のジャコバン派など「多士済々」だ。彼らは自分の考える宗教的・イデオロギー的正しさを守るために言論の抑圧をいとわなかった。合衆国大統領になっても自分自身に反対する言論を抑圧しなかったジェファーソンは「ミルトンの呪い」を逃れた貴重な例外に属する。
「ミルトンの呪い」は現代でも生きている。権威主義体制下の人々はいざ知らず現代の民主主義国の人々の多くは抽象的には言論の自由を支持しているが、そのような中にも、名誉棄損の禁止・ヘイトスピーチ規制・宗教的感情の尊重といった理由で自分の意見と異なる言論の自由の制約を認める、それどころか強化しようとする人は少なくない。
著者は特に第12章でこの傾向に対して警鐘を鳴らす。著者の見るところでは、1970年代終わりから今世紀の初めにかけては言論の自由の最盛期だったが、その後世界的に後退しつつある。この時代、中国やロシアやインドのような大国が国家主権の要求といった名目の下、巨大な権力とテクノロジーを用いて言論の制限を強化しつつあるというだけでなく、アメリカのように言論の自由を保障する憲法修正第一条が尊重されてきた国でさえ、政治的対立の激化に伴って敵の思想と言論に不寛容なキャンセルカルチャーが一般化しているのである。
本書の内容は西洋に中心が置かれていて日本に関する記述はほとんどない。しかし日本の読者は本書を読めばそこから思い当たるところがいくらでもあるだろう。
本書の大部分は歴史記述だが、言論の自由に関する著者自身の見解は「はじめに」と「おわりに」で明瞭に述べられている。言論の自由には確かに無責任な誹謗中傷やデマなど濫用の危険が伴わざるをえないが、自由の抑圧には利益よりも弊害の方がはるかに大きいと著者は考える。たとえば虚偽の言論を禁止しようとするならば、公機関に何が真実で何が虚偽かというしばしば不明瞭な問題について権威的判断を下す権限を与えることになってしまうが、その権限は悪用されがちだというのだ。言論には言論を、というのが著者の立場である。自由な言論は政治的にも文化的にも社会全体に恩恵をもたらす。この立場はあまりにも理想主義的だと思われるかもしれないが、われわれが自分自身も利害関係者であることの多い目先の争いから視野を広げて、海外の事例や長い歴史を見るならば説得力を持つ。
ところで本書では出版の自由に関する「ブラックストニアニズム」と呼ばれる発想がしばしば言及される。これは18世紀イギリスの法律家ウィリアム・ブラックストンが提唱したもので、出版物の事前の検閲は許されないが、出版後の処罰は許されるという趣旨だ。この考え方は「20世紀になってもイギリスやアメリカの言論の自由にある程度の影響力を保っていた」(本書148ページ)そうだ。実はミルトンの『アレオパジティカ』も事前の検閲には反対したが事後の処罰には反対しなかったから、「ブラックストニアニズム」は英米では伝統的に受け入れられていたのかもしれない。
この思想は出版の自由を真に認めているとは言えない。しかしそれでも事後的検閲の方が事前の検閲の制度よりもまだましだろう。なぜなら事前の検閲を受けないと出版できないところでは、検閲側にとって都合の悪い言論がそもそも初めから人々の目に触れないし、またいかなる理由・基準によって検閲がなされるかが往々にして不明である──いやそれどころか、検閲があること自体が一般に明らかにされないこともある──のに対して、事後の検閲だけならたとえ少数の人であってもいち早く公刊時に読めるし、検閲の理由も法治国家ならば明らかにされるはずだからだ。
この事前/事後の検閲という区別は、検閲に関するもう一つの区別と関係する。それは公的機関による検閲と社会的な検閲という区別だ。本書では強調されていないが、「検閲」という言葉は狭い意味でも広い意味でも使われることがある。狭義の検閲は公機関による強権的な表現の調査で、日本国憲法第二十一条二項でいう「検閲」はこれにあたる。広義の検閲はそれだけでなく社会的圧力による表現の抑圧も含む。これはしばしば他からの干渉なしに自発的に行われることもある。
本書は主として狭義の検閲を取り扱っているが、現代に関する部分では広義の検閲も問題にしている。社会的な検閲は公的な強制を伴うものではないから、財力や確固たる信念のある個人やグループならばそれに抵抗できるし、社会的圧力自体が社会のメンバーの自由な活動の結果という面を持つから、公的検閲のように一概に非難はできない。だがそれは豊かなコミュニケーションを妨げ人々の自律と創造力を損なう点ではやはり問題だ。著者は言っている。「民主主義、自由、平等の必要条件である言論の自由に存分にその力を発揮させるには、国家権力による抑圧を警戒するだけでなく、不透明で、自動化、中央集権化された民間の言論統制への警戒も常に怠ってはいけない。」(466ページ)
ところでこの狭義と広義の検閲の区別は、その前で述べた事前と事後の検閲の区別とどう結びつくだろうか? 理論上は、狭義の検閲・広義の検閲とも、事前でも事後でもありうる。しかし今日の民主主義国家では公的な事前の検閲は例外的であり、名誉棄損や誹謗中傷を禁ずるという事後的な検閲しかない(出版の差し止めもあるが)。それに対して社会的な圧力は、言論活動への事後の社会的制裁という形だけでなく、事前の自粛という萎縮効果も持っている。それは表現者だけでなく社会全体の知的活力を弱める。このような理由から、民主主義社会では社会的圧力による広義の検閲に対しても用心を怠らないことが肝要だ。
私がこの解説であげた論点は、本書が触れているトピックのごく一部にすぎない。表現・言論の自由にいくらかでも関心を持つ人なら、誰もがここから多くを学び、そして思考を深めることができるに違いない。
詳しい内容はぜひ本書でご確認ください(電子書籍も同時発売)。
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記事で紹介した書籍の概要
『ソクラテスからSNS 「言論の自由」全史』
著者: ヤコブ・ムシャンガマ
訳者: 夏目 大
解説: 森村 進
出版社: 早川書房
発売日: 2024年3月21日
本体価格: 4,900円(税抜)
著者紹介
ヤコブ・ムシャンガマ (Jacob Mchangama)
シンクタンク「ユースティティア」CEO。ヴァンダービルト大学研究教授。「個人の権利と表現のための財団(FIRE)」シニアフェロー。言論の自由と人権について、エコノミスト、ワシントン・ポスト、BBC、CNN、フォーリン・アフェアーズ、フォーリン・ポリシー、ウォール・ストリート・ジャーナルなどのメディア・専門誌に幅広く寄稿、コメントを行っている。本書が初の著書。