【10月6日(金)発売】『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』(ガブリエル・ゼヴィン/池田真紀子訳)書評家の石井千湖さんによる巻末解説を公開
10月6日(金)、早川書房から、ゲーム制作に青春をかけた男女二人の友情の物語『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』(ガブリエル・ゼヴィン/池田真紀子訳)を発売いたします。本note記事では、巻末に掲載されている、書評家の石井千湖さんによる解説を公開いたします。本書の魅力から、隠された意味まで、小説を読む前にチェックしておけば10倍小説が楽しめる解説をお楽しみください。
解説
ガブリエル・ゼヴィンはブッキッシュな作家だ。代表作『書店主フィクリーのものがたり』は、小さな島で書店を営む偏屈な──それでいてチャーミングな男の話だった。目次には実在する名作の題名が並び、内容とも密接に結びついている。文学の知識をひけらかしているわけではなくて、登場人物にとって本は生きるために必要不可欠なものになっているのだ。喜びも悲しみも、本とともにある。
本書『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』は、ゼヴィンの十作目の小説だ。タイトルは、シェイクスピア『マクベス』の名台詞から来ている。エピグラフにはエミリー・ディキンソンの詩。書物との関わりは感じさせるが、読者ではなく創作者を主人公にしている。
『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』は、セイディとサムの四半世紀以上にわたる関係を描いてゆく。作中の記述から考えると、ふたりが出会ったのは一九八六年。十一歳の少女セイディは、姉を見舞うため病院に来ていた。十二歳の少年サムは、交通事故で重傷を負って、セイディの姉と同じ病院に入院していた。サムの保護者は、ロサンゼルスのコリアンタウンでピザ屋をやっている祖父母だった。ユダヤ系のセイディの家は、高級住宅街のビヴァリーヒルズにあった。対照的な家庭環境で育ったふたりをつなぐのは、一九八五年に日本でリリースされ、いまだにグローバルな人気を博しているゲーム〔スーパーマリオブラザーズ〕だ。ポップカルチャーとしてのビデオゲームの歴史と、やがてゲームデザイナーになるセイディとサムの青春が重なり合う。
ちなみに、この解説を書いているわたしは一九七三年生まれ。ふたりとほぼ同世代だ。スーパーマリオの爆発的ヒットはリアルタイムで目撃している。ところが、わたしはスーパーマリオをプレイしたことが一度もない。家にファミコン(ファミリーコンピュータ。一九八三年に発売された任天堂の家庭用ゲーム機)はなかった。半世紀生きてきて、遊んだゲームの本数は片手で足りる。ゲーム文化かなり疎いので、この作品を楽しめるかどうか少し不安だった。もし同じような心配をする人がいたら、杞憂だったと伝えたい。
まず引き込まれるのは、セイディが病院のゲーム・ルームでスーパーマリオをプレイする少年(゠サム)を見つけるくだりだ。サムはセイディがまだできない技を使い、最初のステージのボスを倒す。
そのあとのやりとりがいい。
子供には似つかわしくないハードボイルドな会話だ。子供だからこその率直な会話でもある。セイディは、ガンを患い死が間近に迫っているかもしれない姉に、理不尽な怒りをぶつけられたばかり。サムはシングルマザーだった母親と死別し、足の骨を二十七カ所も折って動けない。生の儚さを知り、孤独を深めていたという点で、ふたりは似た者同士だった。プレイヤーとしてお互いを自然に尊重できていたこともよかったのだろう。セイディとサムは最高の遊び友達になった。セイディがサムにあることを隠していたせいで、ふたりの交友は途絶えてしまうのだけれど。
彼らにとって一緒にゲームをプレイした時間は、かけがえのないものだった。おそらく大人になったセイディの視点で、こんな述懐が挿入されている。
誰かと同じヴィジョンを共有しながら、自分を解放することができる。ここにゲームならではの素晴らしさがあらわれている。サムがセイディのために迷路を描いていたというエピソードにも心掴まれる。自分の問いを作品にして、相手に渡し、 大学時代にセイディとサムは再会し、セイディはサムに大学のゼミの課題として作った〔ソリューション〕というゲームを渡す。
セイディの祖母の体験をもとにしたという〔ソリューション〕は、文字で読むだけでもかなりダークな内容だ。セイディと同じゼミの学生が〈プレイする人の人格を否定するような不愉快なゲーム〉と批判したのもわかる。セイディの数少ない理解者のひとりがサムだ。サムは〔ソリューション〕の意図を汲み取り、高く評価した上で、細かく分析して改良点も考える。そして、セイディと一緒にゲームを作りたいと思う。ふたりは紆余曲折を経て、海に流された子供が家に帰るまでを描いたゲーム〔イチゴ〕を完成させ、〈アンフェア・ゲームズ〉という会社も立ち上げる。
シェイクスピアの『あらし』やジョイスの『ユリシーズ』、葛飾北斎の『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』など、さまざまな文学やアートの要素を取り入れた、主人公の性別を限定しない言葉の物語〔イチゴ〕は、知的好奇心を刺激すると同時に感情も揺さぶるゲームだ。〈自分を解放し、さらけ出し、傷つく覚悟〉を持っているふたりだからこそ、世界の見方が変わるゲームを生みだすことができるのである。ただし、商品化するときにはどんな天才クリエイターも、現実に直面しなくてはならない。お金の問題、ゲームの買い手である大衆に支持されるかどうか。なんとか妥協点を見つけて〔イチゴ〕は大ヒットするものの、セイディとサムの関係はおかしくなる。
最高のパートナーなのに、愛し合っているのに、うまくいかない。ふたりの関係を象徴しているのが、エピグラフに引用されているエミリー・ディキンソンの詩だ。
この詩は、セイディが大学に入って最初に作ったゲーム〔エミリー・ブラスター〕に出てくる。アメリカを代表する詩人の作品をゲームにするという発想に驚いたけれども、ディキンソンの詩はゲームと相性がいいのかもしれない。たとえば現実でも、二〇〇五年三月にサンフランシスコで『ゲーム開発者会議』が行われた。「WIRED」の記事によれば、『ザ・シムズ』の制作者ウィル・ライト氏、『ブラック&ホワイト』のデザイナーのピーター・モリニュー氏、『トム・クランシーシリーズ スプリンターセル』の主任デザイナーのクリント・ホッキング氏が、ディキンソンの詩のゲーム化についてディスカッションしたという。ディキンソンの詩に対する酷評から着想したものなど、大物クリエイター三人が発表したアイデアはどれもユニークだ。
セイディも負けていない。〔エミリー・ブラスター〕は、画面のてっぺんから落ちてくる詩の断片を、画面の最下部を左右に移動する羽根ペンの先から発射されるインクの弾で撃ち落とし(!)、エミリー・ディキンソンの詩を完成させるという内容だ。〔ソリューション〕と比べてもゼミでの評価は散々だったのだが、サムは楽しんでプレイする。
作中でサムも指摘しているとおり、〈愛こそすべて〉ではじまる詩は謎めいている。〈荷〉と〈溝〉は何をさすのか。〈荷が溝と釣り合っている〉とはどんな状態なのか。本書全体が、この四行で終わる短い詩の投げかける問いへの答えを、セイディとサムと一緒に模索するゲームになっている。小説でしか表現できないゲームだ。
荷とセットになる溝といえば、荷車の車輪がつくる跡、わだちを思い浮かべる。わだちは荷車が通ったあとにしかできない。荷が愛の負担ならば、溝は愛の記憶なのかなと考える。溝は愛の残す傷跡、とも解釈できそうだ。
ゲームの世界でふたりきりで生きられたなら、荷と溝は釣り合っていたのだろう。身体の存在を意識しなくていいから。サムの足が不自由なことも、セイディが女性であることも、重荷にはならない。対等なプレイヤーとして、愛と信頼を与え合うことができる。でも、現実にある身体は重すぎるし、大好きなゲームも仕事にすれば責任をともなう。ふたりはお互いを愛する以上に深く傷つけてしまう。
時代の価値観も周囲の人間関係も激変するなかで、セイディとサムの荷と溝が釣り合うのかどうか、最後まで予断を許さない。悲しい出来事も起こるけれど、ふたりの作るゲームの豊かさが、出会ったことの尊さを証明している。愛という荷は重くても、運ぶこと自体に喜びがあるのだと思う。くっきりと刻まれたわだちは美しい。
書誌情報
書名:トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー
著訳者:ガブリエル・ゼヴィン/池田真紀子訳
ISBN:978-4152102737
本体価格:2420円(税込)
判型:四六判並製
装幀:田中久子
発売日:2023年10月6日