【試し読み】『裏世界ピクニック』6巻 埼玉の大学生、謎の金髪美人と出逢う。
TVアニメも大好評放送中、宮澤伊織『裏世界ピクニック』最新6巻の冒頭を30ページほど公開します。主人公の事情により、既刊5巻を読んでいなくてもたぶん問題のないお試し版です。17日(水)発売、どうぞお楽しみに。
1
アパートのドアを閉めて、慌ただしく鍵を掛け、私は大学へと走り出した。
起きてからぼんやりしていたら、出るのが遅れた。今日の講義は午後からだからと油断していたのも悪いけど、目の調子が悪いこともあって、身支度に思ったより手間取ってしまった。
大学までは徒歩十分。家を出るとき既に、講義が始まるまで八分だった。住宅街の狭い道を曲がって、曲がって、車を避けて、バス通りに出て、息を切らして走る。まだ四月の上旬だというのに暖かくて、この分だと遅刻せずに滑り込んだとしても汗びっしょりだろう。でかい教室なら後ろの方で目立たなくしていればいいけど、よりによって狭い研究室で、少人数のゼミなのだ。
私の名前は、紙越空魚。埼玉に住む、ごく普通の大学生だ。
この四月で、三年生になった。
入学当初から漠然と考えていた通り、三年次から選択するゼミは、文化人類学コースにした。先週最初のゼミがあって、講師や他のゼミ生との顔合わせを済ませた。人見知りだからやっぱり緊張してしまった。何を話したか、よく覚えていないくらいだ。
大学の正門を走り抜けて、バスロータリーを突っ切り、いつもの教養学部棟へ──。
「あっ……!」
焦って走っていた足の爪先が、車止めの段差に引っかかった。立て直す間もなく、前のめりに倒れ込む。
その身体が、思いがけず、ふわっと抱き留められた。
「わっ、大丈夫?」
「す、すみません──!?」
うろたえながら視線を上げた私は、危ないところで助けてくれた恩人の顔を見て、思わず絶句してしまった。
流れるような金髪に、色白の肌。長い睫毛の下から覗く藍色の瞳。すらりと伸びた腕と脚は、服の上からでも完璧な曲線を描いているのが見て取れる。絵の中から出てきたみたいな、めちゃめちゃな美人だった。なぜか左手にだけ黒革の手袋をはめているのが目に付いた。ミステリアスで、妙に似合っている。
──きれいな人……。
お礼を言うのも忘れて、ぽーっと見とれてしまった。私を見下ろす彼女の眉が、心配そうにひそめられる。
「空魚、その目、どうしたの」
そう訊かれて、右目の眼帯に無意識に手が伸びた。先週から急に霞んで、見えづらくなってしまったのだ。片目の生活はなかなか慣れなくて、さっき転びかけたのもそのせいだ。
「や、なんでもないです。平気です」
「“平気です”……?」
彼女の眉間の皺が深くなった。
「ほら! やっぱり変なんですよ、紙越センパイ」
金髪の彼女の後ろから現れたショートの子が言った。先週末、学食で急に話しかけてきた学生だ。私のことを先輩と呼んでいるけど、心当たりがない。人違いだと言っても理解できないという顔をして、しつこくつきまとってくるので、怖くなって逃げたのだ。
「電話にも出てくれないし……それは前からですけど。直接顔を合わせても、知らない人みたいに素通りするし。最初ほんとに人違いかと思ったくらいで。声かけてもぽかんとしてるし、逃げちゃうし、記憶喪失にでもなったみたいに……」
あっ、と何かに思い当たったように目を見開いて、ショートの子が口を押さえた。気持ちひそひそ声になって続ける。
「……もしかして、あの裸踊りのこと、まだ気にしてました? だったら……あの、大丈夫ですよ、ほら、お酒入ってましたし、みんな酔っててあんまり憶えてないですから」
裸踊りって何? 絶対誰かと間違えてる。私がそんなことするはずがない。
「ど……どいてください、遅刻しちゃう!」
私が押しのけると、金髪の子は意外と素直に道を空けた。誰と勘違いしてるのか知らないけど、関わり合ってる暇はない。ともかく、気を取り直してまた走り出した。学部棟の入り口でちらっと振り返ってみると、見知らぬ二人はその場に立ったまま、困惑したような顔で私を見つめていた。
困惑してるのはこっちの方なんだけどな。
幸いエレベーターが来ていたので駆け込んで、研究室のある三階のボタンを押した。扉が閉まって、ぐったり壁にもたれる。短い上昇時間のあいだに息を整えようとしながら、今の出来事について考えた。
先輩呼びの子だけじゃなくて、あの金髪の子まで私を知ってるみたいな態度だった。どういうことだろう? 誰かそっくりな人がいるのかな。そう解釈するのが一番納得できる。
でも──
──空魚、その目、どうしたの。
あの子、私の名前を呼んでた。
ショートの方も、紙越先輩って。
どこかで……会ってる?
「そんなわけ、ないよなあ……」
いくら私がぼんやりしてて、他人に関心がなかったとしても、あんなめちゃめちゃな美人、一度会ったら忘れるはずがない。現に、さっきちょっと見ただけの顔が、すっかり脳裏に焼き付いてしまっている。
目を閉じると、瞼の裏の暗闇に、心配そうに私を見つめる彼女の姿が浮かぶ。自分の中の記憶にすぎないのに、落ち着かなくなって目を開けた。そんな風に見られても、私にはどうすることもできない……。
エレベーターが三階に着く。扉が開ききる前に飛び出して、廊下を走り、開きっぱなしの戸口から研究室に飛び込んだ。壁にかかった時計が指しているのは一三:三〇ぴったり、なんとかセーフ──とはいえ教授も学生ももう席に着いていて、慌ただしく駆け込んだのが恥ずかしい。でも、入っていったときにちらっと視線を集めただけで、別に何も言われなかった。ほっとしながら、空いている席に私も座った。学生の数は、私を入れて十二人。
窓が広くて室内は明るい。私の背後の壁は、床から天井まで全面を占めるスチールの本棚になっていて、ほとんど隙間なく和書洋書で埋め尽くされている。私たちは四角く組んだ長机を囲んで、それぞれパイプ椅子に座っていた。
トートバッグからノートや筆記用具を引っ張り出して、ようやく人心地が付いた。それを見計らったように、砕けた口調で教授が言った。
「時間になったかな。始めようか」
教授は名前を阿部川といって、この大学の文化人類学研究室のトップだ。スーツにネクタイを締めた壮年の男性で、髪を撫でつけて銀縁の眼鏡をかけている。一見すると大きな会社の役員みたいだ。ただ、顔が日焼けしてやたら黒い。野外で過ごした時間の長さが窺えるようだった。
「前回の顔合わせでは、われわれ講師陣からの話が主になってしまった。皆さんにも簡単に自己紹介してもらったけど、それぞれの興味や関心に関してはちょっと触れるだけの時間しかなかったね。この文化人類学演習では、皆さんの持っているテーマを掘り下げていって、最終的には卒論に繋げていくことになるわけだが、せっかく他の学生の意見を交えて議論できる機会だから、どうか遠慮なく発言してほしい。ぼくに対してもそうだ。それじゃ、さっそく一人一人、どういうテーマを深めていきたいか聞いていこうかな。ぼくから時計回りに。どうぞ、座ったままでいいよ」
「あっ、はい!」
いきなり指された学生が、びくっとして答えた。おっとりした感じの男子で、見るからに文化系という感じだ。
「荒山です。あの、まだぜんぜん漠然としてるんですが」
「構わないよ」
「はい、あの、僕はアフリカの文化に興味があって、特に料理なんですけど……」
「そう言ってたね。どういうところから関心を持ったの」
「はい、高校で同じクラスにルワンダからの留学生がいて、文化祭の出店で向こうの料理を作ってもらえないか聞いたら、すごく困られたんですよ。わざわざ食べさせるようなルワンダ料理がないって。詳しく聞いたらそんなことはなくて、ちゃんとルワンダらしい家庭料理とか教えてくれたんですけど、でもなんかあんまり納得してない顔してたんですよね。例えば僕が外国に行って日本料理作れって言われたら、何かしら思い浮かぶと思うんですよ、寿司とかすき焼きとか。それで、僕と彼が持ってる郷土料理の概念ってぜんぜん違うのかもって思って、それがきっかけですね」
「ふんふん。面白いね。荒山君はアフリカの料理に興味を持ったのに、料理人になろうとは思わずに文化人類学に来たわけだ。それはどうしてだろう」
「えっ……言われてみればそうですね……考えたこともなかったです」
「そこは大事なポイントかもしれないね。君にとって料理とは、第一義的には“作る”ものではなかったわけだ。では、それは何だろうか……。同じ日本人でも、荒山君の考える〈料理〉と、毎日家族の食事を用意しているお母さんの考える〈料理〉はまったく違う概念かもしれない。日本人の考える料理、ルワンダ人の考える料理という枠組みで捉えるとつまらない話になってしまう。皆さんも一年二年の基礎過程でさんざん聞かされたと思うけど、文化人類学の調査手法であるエスノグラフィは、調査者個人の体験や反応に大きな意味を見出す。そこが社会学や、現代社会を研究対象にしている他の学問分野との何よりの違いだ。だから、荒山君にとって〈料理〉がどういうものかというのは、単なる個人の感覚を越えた、このテーマのコアの部分でもある。面白いテーマになると思うよ」
文化としての料理についてしばらくディスカッションが続いた。現代ではラーメンやカレーもすっかり日本料理だけど、海外で日本料理を紹介するとき頭に浮かぶ? とか、でも海外に行くと日本料理としてラーメンが出店してるよ、とか、ルワンダは大虐殺があったからそれで食文化に影響があったのでは、とか、いや中国でも文化大革命で伝統料理がかなり弾圧されたけど、完全に失われたりはしなかった、とか……。ひとしきり話が広がってから、次の人の番になった。
学生たちが順番に、興味のあるテーマについて語ったり、他の人の話にコメントしたりするのを聞きながら、私は黙って座っていた。みんなよくそんなに喋れるな、と感心してしまう。最初の料理の話だって、漠然としてるとか言ってたわりに、興味のきっかけになるエピソードとかちゃんとあったし……。
緊張して待つうちに、とうとう私の番が来た。
「じゃあ、次──」
「あ……紙越です。私も、まだすごく漠然としてるんですけど……」
「うん、どうぞ」
「かわいいものの研究ってどうかなって……。文化によってかわいいと思う対象って変わるじゃないですか。キャラクターのテイストとか国ごとに全然違いますし。でも最近は日本製のキャラクターもよその国で人気が出てたりしますよね、キティちゃんとか。それって何か、昔に比べて変化があったのかなって思って──」
えっ、という空気が流れるのを感じた。それまで私に対して目立った関心を示していなかったはずの学生たちが、明らかに意外そうな視線を私に向けている。阿部川教授までもそうだった。さすがに戸惑って、私は話をやめた。
「あの……なにか?」
「君、紙越君だったよね?」
「そうですけど」
「怪談はいいの?」
「え……?」
「先週の自己紹介で、君、実話怪談に興味があるって言ってたじゃない。妖怪をやりたいって学生は毎年いるんだけど、今年の妖怪担当はちょっと新鮮で面白いねって、他の先生とも話してたんだよ」
「そう……なんですか?」
前回そんなに語ったんだっけ? 緊張していたせいだろうか、なんだか記憶が曖昧だ。
「かわいいものの研究は、それはそれでいいテーマになると思うけど、実話怪談はずっと興味を持ってるテーマなんでしょう? 何か心境の変化でもあった?」
「えっと……」
「民俗学の研究者の中には、民俗学イコール妖怪と結びつけられるのにうんざりして、うちでは妖怪研究はできませんとか言っちゃう人もいるみたいだけど……ここではそんなことは言わないし、人間のやることをなんでも研究対象にできるのが文化人類学だからね。自分で納得してテーマを変えたならともかく、もし何か悩んでいるようなら、じっくり考えた方がいいかもしれない」
机を囲む学生の何人かが、教授の話に同意するように頷いた。
「前回話聞いてて、私も面白そうだと思ってました」
「だよね、実話怪談ってジャンルがあることすら知らなかったもん」
「昔ネットの怖い話まとめすごい読んでたから、懐かしかったですね」
まったく予想もしなかった肯定的なコメントに、私は面食らってしまった。てっきり変人扱いされるだけだと思っていたのに。
確かに私は実話怪談に興味があった。みんなの話からすると、先週のゼミの段階ではそれを自分の口から述べていたらしい。なのにいつの間にか、研究テーマの候補から外していた……。
なんで?
手が無意識に、右目の眼帯を撫でていた。
何かがおかしい気がする。この目、いつから悪くなったんだっけ?
先週からだ。
先週のいつ?
──いつだっけ。わからない。ゼミの日はどうだった? その前は?
こんなことあるだろうか。利き目が見えなくなるなんて大ごとなのに、はっきり憶えてないなんて。
脳裏にまた、あの金髪の美人の顔が浮かぶ。
私を知っているような口ぶりのあの子。
もしかして、先週会ってたりするのか?
先週のゼミの後、私に何か起こった?
だとしたら、何が……?
混乱していた私は、ふと視線を感じて顔を上げた。
斜め向かいの席に座っている学生が、じっと私に目を向けていた。
髪を短く刈った男子学生だ。妙に姿勢がいい。見覚えがあるのは、前回のゼミにもいたからだと思うけど、他の学生よりなんとなく印象が強い気がする。話したことあったっけ? ゼミが終わって教室を出るときに、何か言われたような……いや、あれは夢か?
目が合うと、彼はぱちぱち瞬きをしてよそを向いた。
なんだかぼんやりする。頭の一部に霞が掛かっているようだ。それでも思い出そうとしていたら、記憶の底から、あるフレーズだけがぽっと浮かんできた。
そうだ。彼は確か、自分を寺生まれだと言っていた──。
2
寺生まれ……寺生まれ……?
学部棟の廊下を歩きながら、私は首をひねっていた。
なんだ寺生まれって。寺生まれだからどうだっていうんだ?
前回のゼミで、自己紹介とかしたんだっけ。したような気もする。ていうか普通に考えてするだろう、初回なんだから。だとしたらそこで言ってたのかな。
寺生まれだから宗教テーマでやるとか? いや、でも、今日のゼミでは別にそんなこと言ってなかった。もっとなんか、普通の──
「あれ……?」
私は困惑して立ち止まった。
なんて言ってたんだっけ、あの人?
他の人がどんなテーマについて語っていたかは、思い出そうとすれば思い出せる。どれも結構面白そうだったから。
最初の人がアフリカの料理でしょ、次の男の子が美醜の概念の差異についてで、社会人学生の人が派遣と正社員の文化、えーと次が……異なる文化圏の交点としてのツイッター、とか言ってたかな。次がアジア各国の男性アイドルファンコミュニティ、で私が喋って、それからコミュニケーションツールとしてのゲーム、その次があれで、その次が……。
「ええ? あれ、なんだっけ?」
思い出せない。寺生まれの彼が何を喋っていたのか、記憶がない。
前後の人が話したことはちゃんと憶えている。でも、その間に挟まれた彼は……?
みんなが会話している中で、あの寺生まれの彼だけが黙って座っている絵が思い浮かんだ。まるで周りの誰にも見えていないみたいに。
いやいや……。
目をぎゅっとつむって、あのときの情景を記憶から呼び起こそうとする。一人だけ飛ばされるはずがない。何か言ってたはずだ。
彼がみんなに向かって口を動かしている様子を思い浮かべる。「僕は……」いや「俺は」か? それとも丁寧に「私は」だった? とにかく自分の関心の方向性やテーマについて語ったはず。それを受けて、教授や他の学生たちはどう反応したっけ?
…………何も思い出せない。
想像の中で情景が変化して、今度はさっきとは逆に、彼だけが喋り続けて、他の全員が無表情に虚空を見つめている様子が思い浮かんだ……。
気味が悪くなって、私は目を開けた。
「……変なの」
ぶるぶる頭を振る。勝手に思い浮かべた情景で、勝手に動揺してしまった。
昼でも薄暗い学部棟の廊下には、もう私ひとりしかいなかった。なんだか落ち着かない気分で歩き出し、足早に階段を降りる。
こんなことなら、講義が終わってから寺生まれくんに話しかけてみればよかったかもしれない。でも、なんて話しかける? 「こんにちは、寺生まれの人でしたよね」とか? なんだそれ。まあ、実際には寺生まれくんはさっさと出て行ってしまったから、いずれにしても無理だったけど。
一階まで降りて外に出た。人のいる場所に少し安心したものの、すっきりしないのは変わらない。何か忘れているのだろうか。そういえば、講義前に出くわしたあの二人のこともよくわからないし──
「あっ」
下を向いて歩いていた私は、慌てて顔を上げて周囲を見回した。うっかりしてた。あの二人が私を誰かと間違えているなら、また絡まれるかも。講義が終わる時間に待ち伏せていてもおかしくない。
予想に反して、二人の姿はどこにも見えなかった。諦めたか、誤解が解けたならいいんだけど。これ以上変なことが起こらないうちに帰ろうと、私は足を速めた。今日出なければならない講義は、さっきのゼミだけだ。
学食で遅い昼食の山菜そばを啜って、売店でおやつに菓子パンを買った。財布の中身が思ったより豊かで、あれっと思った。万札が五枚も入ってる。下ろしたばかりだっけ? いつもこんなに持ち歩いてたかな、私。そういえば口座に今いくらくらいある? ぱっとは思い出せないけど、そこまで追い詰められてる気分じゃないな。
あれ?
そんなんだっけ? 私……。
「んん……?」
首をかしげながら校門を出て、バス通りを家に向かう。郊外の幹線道路で、いつも交通量が多い。大型のトラックが車道をビュンビュン通り過ぎていく。
考え事をしながら歩道を歩いていくと、向こうから真っ赤なワンピースの女性が歩いてきた。綺麗な人だったので、なんとなく気になった。でも、それを言うなら、あの金髪の子の方が美人だった。にしても、赤いワンピース目立つなあ。似合う自信がないと着られない色だな、あれ。
近づいてくる女性に注意を引きつけられていた私は、突然後ろから聞こえた車のクラクションに飛び上がった。
気付かないうちに、いつの間にか私は、大きく車道にはみ出して歩いていた。焦って歩道に戻った私の横をすれすれで通り過ぎたでかい高級車が、ウインカーを出してすぐ先に止まった。
しまった、ぼんやりしてた。今のは怒られても仕方ない……。
謝るつもりで見ていたら、運転席側のドアが開いて、背の高い男がぬっと降りてきた。痩せてるけどひよわな感じのしない、しなやかな印象の男だ。仕立てのよさそうな三つ揃いのスーツを着て、大きな両手には入れ墨がびっしり……。
……ヤクザ!?
ヤバいことになったと血の気が引く。歩み寄ってきた男が、私を見下ろして言った。
「ご無事ですか?」
「すっ、すみません! 不注意でした!!」
「いえ、紙越さん──」
「え、はい!?」
また名前を呼ばれた! なんで!?
うろたえていると、今度は後部座席のドアが開いて、もう一人出てきた。さっきの金髪だ! つかつか近づいてきて、ヤクザの前に割り込むようにして私の前に立ち塞がる。
「一緒に来て」
「へ? 何を」
「いいから」
彼女は私の腕をむんずと掴んで、車の方へ引っ張った。拉致られる! 私はとっさに足を踏ん張って抵抗する。
「やめて! 離してください!」
「お願い、空魚、落ち着いて話を──」
私は肩から滑り落ちたトートバッグの紐を掴んで、そのまま相手に向かって叩きつけようとした。本やら何やら入れっぱなしで重たいから、当たれば少しは怯ませられるかと思ったのだけれど、その重量のせいでたいして持ち上がらずに、バッグは予定よりだいぶ低い軌道で弧を描いて、相手の腰の辺りにドスッと当たった。
「うっ……」
金髪は呻いたけど、手を離そうとしない。もう一度振り回そうとしたとき、勢いの付いたバッグの中から何かが滑り出て、路上にガチャッと落ちた。
アスファルトの上で黒光りする金属の塊に、視線が吸い寄せられた。
カーキ色のホルスターから半分はみ出したそれは、銃だった。
…………銃?
いま、私のバッグの中から、銃が出てきた?
状況についていけず私が硬直している間に、ヤクザがさっと屈んで銃を拾った。一瞬撃たれるのかと思ったけど、ホルスターに入ったまま抱え込んで、周りから見えないようにしているだけだ。
「なんで銃が……?」
呆然と口走った私に、金髪が言った。
「空魚の銃だよ、それ」
言われている意味がわからず、私はぽかんと相手の顔を見返した。恐ろしく真剣な表情で、金髪は続けた。
「聞いて。空魚はいま、正常な状態じゃない。記憶喪失になってるんだと思う」
「きおく、そうしつ……」
「私、空魚の敵じゃないから。信じて」
すがるような表情で私を見つめる彼女から目を離せないまま、私はしばらく呆然としていた。
記憶喪失? 私が──?
確かに、言われてみれば腑に落ちる部分はある。というか、そうとでも言わないと説明の付かないことが多すぎる。気付いたら見えなくなっていた右目、いつの間にか変わっていた研究テーマ、一方的に私を知っている見知らぬ人たち……とどめに、なぜか鞄に入っていた銃。
考えをまとめようとしながら、私は慎重に口を開いた。
「じゃあ、あなたは……何?」
「え?」
「敵じゃないなら、あなたは私の、何なの?」
私の腕を掴んだ手に力がこもる。怒ったように彼女は言った。
「…………《この世で最も親密な関係》」
「えっ……」
思ったより重い返事だったので、私はたじろぐ。
「……あなたと? 私が?」
「そうだよ!!」
突然キレられた。なんだこいつ……顔はいいけど怖いな。やっぱりヤクザの家の娘かなんかなのかな。
引いている私を苛立たしげに睨んで、金髪はもう一度私の手を引いた。
「いいからさっさと乗って! 病院で診てもらうから!」
「いや、でも……」
「でもじゃない! 頭とか打ってたらヤバいでしょ、早く!」
いくら頭を打ってたとしても、言われるままにヤクザの車に乗るほど馬鹿じゃない。さっさと逃げるか人を呼ぶのが普通だろう。病院に行くにしたって、その気になれば自分で行けるのだ。
でも、私にそれを躊躇わせたのは、彼女の視線だった。私の言動に苛立っているようだけど、下がった眉毛と潤んだ瞳に、私のことをひどく心配している気持ちが表れていたからだ。
「……わかった」
躊躇いながらも頷くと、相手の身体から力が抜けるのがわかった。
「乗って……」
もう一度促された私は、手を引かれて、おそるおそる車の後部座席に腰を下ろした。
ヤクザが運転席に戻って、丁寧な口調で言った。
「銃はお預かりしておきます。記憶が戻ったら、お返ししますので」
「は、はあ」
ドアが閉まり、ロックが掛かって、車は滑らかに走り出した。
金髪は手を握ったままだ。私が逃げるのをまだ心配しているようで、横顔にずっと視線を感じる。ヤバそうだったら信号で飛び降りるつもりでいたから、その心配は正しい。
「手、痛いんですけど」
文句を付けてみると、彼女はもっと心配そうになって、何も言わずに握る力を強めた。余計なことを言わなければよかったかもしれない。
私の名前は、紙越空魚。埼玉に住む、ごく普通の大学生だ。
そのはず、だったんだけど。
いったい私、どうなっちゃうの……?
3
車は途中から高速に乗り、迫力のあるエンジン音を響かせながら飛ばし続けた。カーナビの画面を見るに、都心の方を目指しているようだった。金髪もヤクザも黙りこくっているので、ひたすら気詰まりな時間を耐え続けるうちに、四十分くらい経ってようやくどこかのビルの地下駐車場で停車した。
「どうぞ」
ドアのロックが開いて、ヤクザが言った。自分で降りろということらしい。車から出て、殺風景なコンクリートの上に立つ。私の手を掴んだまま、金髪も降りてきた。
ヤクザが先に立ってエレベーターに行き、私と金髪が乗るのを待って、閉ボタンを押した。小さな鍵で階数ボタンの下のパネルを開けると、中のボタンを操作する。エレベーターが上昇を始めると、パネルはまた元通りに閉じられた。
「病院……なんですよね?」
ビルに入るときに窓の外に見えたビルの看板には、健康保険なんたらと書かれていた気がするけど、地下駐車場には他にあまり車が止まっていなかったし、あまり病院っぽくない作りだ。
「プライベートな医療施設とでも言った方が正確でしょうね」
ヤクザが丁寧な口調で答える。
「病院じゃなかったんですか」
私が硬い声で言うと、金髪がかぶせるように口を挟んだ。
「大丈夫だから」
「何が、どう──」
「ここには、空魚の敵はいないから。信じて」
懇願するような言い方に鼻白む。
なんの根拠もなく、信じてとか言われても困るんだけど……。
エレベーターが止まった階は、白い壁に蛍光灯が明るく照り映えていた。薬品のにおいが鼻を突く。少なくとも医療施設であることは嘘ではないようだ。
「こちらです」
促されて入ったドアの中は診察室で、デスクについていた白衣の男が顔を上げた。頭がつるっとした、眼鏡の中年男性だ。格好からして医者なのだろう。
「やあ、紙越さん。どうぞ、座って」
医者が気さくな感じで声を掛けてきた。勧められた椅子にそろそろと腰を下ろして、私は訊ねた。
「あなたも……私を知ってるんですか」
「うん。何度か診察してるよ。記憶がないんだって?」
「と、言われました」
ヤクザと金髪は出て行かずに、部屋の壁沿いに立って私を見ている。視線を感じて落ち着かない。
「その目、どうしたの」
「見えなくなって……」
「いつから?」
「たぶん、先週……?」
「それも記憶にない?」
「よく憶えてないです」
「病院に行った?」
「行ってないです、まだ」
「どうして?」
私は曖昧に首を振った。どうしてだか自分でもよくわからなかった。見えなくなった理由が不明だから、人に説明するのが億劫だったのかもしれない。
「ちょっと見せてもらっていいかな。眼帯外せる?」
「あ、はい」
眼帯を外した私の顔を、横から金髪が覗き込んできたかと思ったら、はっと息を呑む声がした。
「目の色が……!」
「ふうん」
医者が難しい顔で唸って、ペンライトを私の右目に近付けてきた。眩しさを感じない。
「右の虹彩から色が抜けている……あんなに青かったのに、灰色だ」
「青かった?」
「うん。ちょっと前までは、こうだった」
大判の写真で見せられたのは、作り物のような深い青色をした瞳だった。
「これが、私の──?」
「先週からということだけど、ぶつけたりした? 痛みや違和感は?」
「ないです、何も」
廊下をバタバタと走る音が近づいたと思うと、診察室の扉が勢いよく開いて、背の低い女性が飛び込んできた。子供かと思ったけど、着ている服は大人っぽい春物のコートだ。
振り返った私の顔を見て、ぎょっと目を見開く。
「空魚ちゃん、どうしたんだそれ!」
また私を知ってる人が出た。
「あ、どうも……」
とりあえず頭を下げてみると、女性はますます動揺したみたいな表情になった。何か対応を間違えただろうか。
「全然連絡つかないと思ったら、こんなことに……。なんで電話出なかったんだ? 記憶がなくたって、電話くらい出られただろ?」
金髪もしきりに頷いている。二人とも連絡してくれていたのだろうか。
「ごめんなさい、あの……怖かったので……」
「何が?」
「スマホ、知らない名前と番号しかなくて、すごく怖くて。電源切ったまま置きっぱなしなんです」
「だからか……」
金髪が腑に落ちたように呟いた。
診察室が騒がしくなったところで、医者が手を挙げて言った。
「話はあとにして、まずいくつか検査してみよう。紙越さん、いいかな?」
「お金いくらかかりますか?」
私の質問は意表を突いたようだったけど、医者はすぐに、大げさに声を潜めて答えた。
「今ならタダ」
「じゃあ、お願いします」
他の人がみんな部屋から追い出されて、検査が始まった。ガウンみたいなのに着替えさせられて、まずは採血や血圧測定、レントゲンといった定番の健康診断。それからいくつかの部屋を連れ回された。ドーナツ状の大きな機械で頭の断面図を撮影されたり、レンズのついた機械を覗き込んで光を当てられたり、眼球にプシュッと空気を吹きかけられたり……。どこからともなく現れた女性の看護師が手伝ってくれていたので、検査の合間に、私を知っているかと訊ねてみた。
「はい、もちろん。何度もお会いしてます」
「そうなんですか……」
「銃を持って助けに来てくれたこともあったんですよ。かっこよかった」
……何をやったんだ私?
すべての検査と問診を終えるまでに一時間以上かかったと思う。また診察室の椅子に座って、医者に向き合う私の周りに、金髪、ヤクザ、背の低い女性がみんな集まってきた。
ディスプレイの検査結果を睨んでいた医者が、眉を寄せたまま私に顔を向けた。
「目に関しては……右目の視力が失われてるね。不思議なのは、虹彩の色以外には眼球に異常が見つからないことだ。傷も付いていないし、水晶体や視神経、結膜にも病変はない。ただ色が抜けて、失明している」
「失明……」
改めて言われると重い言葉だ。
「異常が見つからないのは目以外もそうだ。脳出血、血腫、卒中……そういったものの兆候はないし、頭部に打撲の痕もない。前に診たときもそうだったけど、健康そのものだ」
「でも記憶はなくなってるの?」
金髪の問いに、医者は難しい顔で頷いた。
「問診したところ、ここにいる全員の記憶もないし、DS研の存在自体も忘れ、UBLに関連することは何も憶えていないようだった。しかし、大学や日々の生活については特に問題なく記憶している。部分的な健忘──というより、恣意的と言ってもいいくらいだ」
「原因は?」
「脳損傷ではないし、片目だけ視力が失われているものの、その他の麻痺は見られないから血管性でもなさそうだ。物事の理解力や判断力が少し低下しているのをどう見るかだけど……。外傷が残っていなくても脳震盪が起こることはあるから、それだったら回復を待てばいいんだが、若年性の認知症という可能性もある。難しいけど、診断を下す必要があるなら、レビー小体型認知症の疑いで精密検査かな」
「認知症……!?」
さすがにショックだった。視力を失っただけじゃなくて、認知症? この年で??
「空魚……」
金髪が近づいてきて、椅子に座った私の手を取ると、潤んだ目で見つめてきた。心細い思いで、私はその顔を見上げる。
「私のこと、全然思い出せない?」
「うん……」
正直にそう答えると、金髪は泣きそうに表情を歪めた。すごく心配してくれている──私のために。こんな綺麗な子が私と親しかったというのは未だに信じられないけど、彼女が私に向ける目や接し方の端々から気遣いがあふれ出ていて、どうも嘘をつかれているわけではなさそうだ。
背の低い女性も眉間に皺を寄せて、苦い顔をしている。こちらも心配しているようだけど、怒っているようにも見えた。私に対してだろうか? わからない。
「あなたと私、すごく仲が良かったんだね」
私がそう言うと、金髪が息を呑んだ。
「…………そうだよ」
「ごめんね、思い出せなくて」
「ううん……」
首を横に振る金髪。私は考えをまとめようとしながら続けた。
「この世で最も親密な関係……って言ってたけど」
「うん」
「それって、その、つまり……」
唾を飲み込んで、私はおずおずと訊ねた。
「もしかして、私たち、付き合ってたりした?」
―――――――
いったいどうなってしまうのか?
続きは書籍版でお楽しみください。