『名作ミステリで学ぶ英文読解』刊行記念 越前敏弥さん×阿部公彦さん トークイベント「海外ミステリで読解力をみがく」(前篇)
『名作ミステリで学ぶ英文読解』(ハヤカワ新書)の刊行を記念し、今年10月に青山ブックセンター本店で開催された、著者の越前敏弥さんと英文学者の阿部公彦さんによる対談を特別公開します(前篇)。海外ミステリは英文読解のテキストとしてなぜ最適なのか、また原文から見た作家の特徴などについて語っていただきました。第一線で活躍する文芸翻訳者と英文学者によるトークイベントをぜひご堪能ください!
教えることは上達への近道
越前 今回の『名作ミステリで学ぶ英文読解』も阿部さんのこれまでの著作も、「大人になってからも学ぶ」というのが一つの大きなテーマですよね。僕も大学時代にはあまり勉強していなかったのですが、大人になってもう一度英語をやり直して自分自身も学び直す機会があったので、今日はそういうお話ができればいいなと思います。
阿部 越前さんは翻訳家をされながら翻訳指導もされていて、かつその前には予備校や塾で教えられていましたよね。今、ご自身が学ばれることに興味があるとおっしゃっていましたが、人に教えるために学ぶということはありますか。
越前 ありますね。
阿部 いざ説明しようとすると、意外と自分がわかっていなかったことに気づきますよね。私も、『名作ミステリで学ぶ英文読解』を読んだ時にそれをすごく感じました。越前さんの解説を読みながら、果たして私はこれだけの説明ができるだろうかと考えましたが、かなり勉強をしないといけないだろうなと思いました。
『名作ミステリで学ぶ英文読解』は、英文読解ファンとミステリファンのどちらにも刺さるように作られているという印象を受けました。英文読解ブームとはいかないまでも、かなり根強い英文読解ファンは一定数います。越前さんのこの本はクイズが付いていて、ミステリファンだけではなく、英文読解ファンの層を盛り上げられているなという風に思ったんです。
越前 日本人って、ゲーム感覚で問題を出されたときに「答えを出したい」「正解したい」というエネルギーが大きいんじゃないかなと思うんですよね。
阿部 予備校講師ならではの視点ですね。実は私も予備校で働いていたことがありますが、大学受験って実はそんなに文法を完璧にやらなくてもある程度はなんとかなると思うんです。でも、いざ受験勉強をしている生徒の質問に答えようとすると、かなり辞書を読まないとできない。かつ、予備校に来る学生っていうのは生意気な生徒が多くて、すごくイヤなことを聞いてくる(笑)。こっちもだんだんムキになって、どんな質問がきても答えられるようにと、すごく勉強をして準備していましたね。あの時が一番、英語の文法を勉強したなと思います。
越前 僕もそうですね。自分が受験の時はそれなりに英語が得意な方ではあって、文法的にわからないことはないと思っていたのだけど、いざ教えはじめると初歩的なことが区別できていないことに気づいたりしましたね。たとえば同格名詞節のthatを形容詞節、つまり関係詞の仲間と思っていたとか。生徒に教えるなかで鍛えられました。
セミコロンが文章の良しあしを左右する!?
越前 最近、若い人たちとLINEをする時に、句点をつけるとおじさん構文と言われることがあります。だから相手に合わせて、句読点を打ったあとに消すことがある。変な感じがするけど、絵文字とかをいれるともっとおじさんっぽくなっちゃうし(笑)
阿部 私も、間の悪い絵文字を背伸びして入れていますけど、なんだか変な感じがします。日本の句読点には厳密なルールがないですよね。意味の切れ目で読点を打つタイプの人と、呼吸で打つタイプの人がいます。たぶんどちらでもいいんです。学校で習った通りに、「私は」のあとで読点を打つと、文章としてはちょっと間延びしてしまう。日本では句読点は不安定で、歴史も百年ぐらいと浅いですよね。
越前 明治からですかね。それより前には句読点は使われていなかった。
阿部 英語ではパンクチュエーション(英文の句読点)はすごく大事で、英米圏の大学に勤められている先生は、パンクチュエーションをみると教養がわかると言うんです。学生がちゃんと英作文を書けるかどうかをパンクチュエーションでチェックする。コロンとセミコロンの違いとか、ダッシュと三点ドットの違い、イタリック体の意味なんかは、普段ペーパーバックとかをたくさん読んでいる人でもなかなか意識しないことだと思います。もちろん、英語のパンクチュエーションのルールがある程度確立したのもそんなに前のことではないですが。
越前 セミコロンは、それだけで一冊本が出るくらいですね〔編集部注:セシリア・ワトソン、荻原大輝/倉林秀男訳『セミコロン かくも控えめであまりにもやっかいな句読点』(左右社、2023年9月刊)〕。
阿部 そのあたりの基礎が押さえてある本はまず信用できます。
越前 セミコロンは日本にはない表記法なのに、学校の英語の授業で教えてもらうことはほとんどないですよね。
阿部 教える先生もあまり意識していないのでしょうね。コロンはイコールでよく使われるとか、セミコロンはコンマよりちょっと切れ目が深いとか、それぐらいの基本だけでも押さえているといいと思います。
越前 セミコロンが印象的に出てくる英文をストックしているんですけど、つい最近ヘミングウェイの「父と子」の中に典型的なうまいセミコロンの使い方を見つけました。ヘミングウェイは、セミコロンとカンマをきちんと使い分けられているので、教材向きかもしれません。
阿部 『名作ミステリで学ぶ英文読解』でも、セミコロンに関する質問がけっこう出てきますよね。
越前 セミコロンがでてくるたびに生徒に尋ねていたんですが、知らなくて答えられない人も多い。大事だなと思うので、英文に出てくると必ず設問をつけるようにしています。
作品の読みどころが実は英文読解の肝でもある
越前 この本では、ミステリとしてのおもしろさがあるかどうかと、英文読解のポイントとして設問を4、5問つけられるかどうかという基準で抜粋する箇所を選びました。
阿部 越前さんの問いを見ていると、英語はここを読まなきゃいけないんだよという、こだわりどころが見える気がしました。
越前 それってミステリの読みどころでもあると思うんです。そういう意味で、英文読解の教材として、ミステリを使うといい。今回この本を書いたのも、最初は早川書房だからミステリというのもありましたけど、せっかくやるのであればミステリの勘所でやりたいなという気持ちになりました。エラリイ・クイーン、アガサ・クリスティー、コナン・ドイルの英文を選んでみたのですが、違いは感じられましたか?
阿部 ドイルは皮肉を利かせるのがうまいですよね。比較級を用いた表現で、ホームズ自身が勘違いをするという話がありました。正確に言うと勘違いしているふりですかね。非常に微妙なところで、なんの気なしに読んでいると気がつかないと思います。あそこはすごく精妙にできていて、解説しがいがありそうだと思います。
越前 ホームズとワトソンの関係がわかっていればすぐわかるところだとは思うんですけど。クイーンもまわりくどいところが多いですね。ホームズは基本的にワトソンの一人称で書かれていてるのに対し、クイーンの場合は、基本は三人称なのだけど、作者と探偵が同じ名前で出てきて、探偵の活躍を作者が後から書いているという二重構造になっていることもあり、余計にワンクッション入る難しさがあると思います。クリスティーはどうでしょうか。
阿部 とくに『アクロイド殺し』は、語り手にひとくせあるじゃないですか。最終的にそれがポイントになるんですけど。
越前 あまりくわしく言っちゃいけないですね(笑)
阿部 いわゆる業界用語でいうとUnreliable narrator。信頼できない語り手の典型です。信頼できない語り手って、読んでいて味があるんですよ。わかりやすい例で言うと、カズオ・イシグロの『日の名残り』(早川書房、2001年)の執事の語り。『アクロイド殺し』の場合は微妙にずれているので、読んでいてつっこみをいれたくなるところがある。そこが味わいでもあるし、人間味がにじみ出しているとも言える。ああいう文章を書ける作家は、読み甲斐があると思います。
越前 英語そのものはすごくシンプルなんですけど、ミステリの仕掛けと文体が直結している面白さがありますよね。
助詞や指示代名詞を理解することはなぜ重要か
阿部 英語の勉強にはいろんなレベルがあると思いますが、二つの大きな柱があると思うんです。ひとつの基本は、切れ目がわかること。熟語や単語はおぼえないといけないんですけど、文章の切れ目さえわかれば、文法は基本的におさえられる。逆に言えば、切れ目がわからないと入試問題は解けない。でも、入試問題で切れ目がとれているか自体を問うのは、採点の都合上難しいので、他のチェックポイントを問うことになります。本当はリスニングの練習をもっと増やして文章の切れ目の感覚を身につければ上達が早いと私は思うのですが、試験問題が目の前にあると、どうしてもそれに向けた練習をしてしまいます。それは、英語学習として損をしているかなというのはありますね。
その一方で、itは日本語話者にとって鬼門になることが多いので、入試ではよく問われます。ネイティヴスピーカーの人に、このitは何を指しているのですか、どういう機能ですか、と訊くとはじめは「え?」と言われたりする。もちろんわかっていないわけではないけど、いちいち意識していないということです。日本語でも、非日本語話者にとって難しい「が」と「は」の違いって、日本語話者には直感的にわかっても説明はしにくいものですね。この直感的にわからないというのが一番よく出るのが、英語では冠詞とか、thereとかitとかthatといった一見、単純な語の使い方です。
このあたりに共通しているのは、位置関係・指示関係がかかわるということです。つまり、「その前に出てきたものとどういう関係にあるのか」ということです。theの使い方は「が」と「は」の問題と重なるといわれています。itもそうですよね。その前に出てきたものをどうとらえるかというのは、かなり空間感覚に近いものがあって、言語によってすごく違う。空間感覚や身体的な距離感というのは幼児期の言語習得前後に身につける部分も大きいので、なかなか言語化されにくいのかなと思います。しかも言語によってちがうので理解するのが簡単ではない。机上でいくら考えたところで、なかなかわかるものではありません。それで英語学習のひとつのハードルになっているのだと思います。
越前 thatやitが何を指すかというのは、母語話者はゆるやかにしか意識していないかもしれないけど、それは、外国人であるわれわれとしてはある程度ていねいに分析した方がいいんじゃないかなと思っているんです。
阿部 われわれは感覚で理解することができないからこそ、しっかりと何を指しているのかを言語化していくのが大事だということですね。
越前 「が」と「は」の違いを外国人に説明するときに、どうするか考えるのもトレーニングになりますね。普段使っていない頭の領域を使わないと説明できない感じなのだけど、それをやることで、外国語をしっかり習得することにもつながってくるような気がしています。theとaの問題も含めて。
阿部 そこには意外と面白味がありますよね。考えていくとある程度理詰めで説明できることがわかると思います。
越前 100パーセントは説明できないのだけど、「が」と「は」だけで一冊本が出ているくらいですからね。『「は」と「が」』(野田尚史、くろしお出版、2023年11月刊)とか。
阿部 ミステリは、ある種理科の実験みたいな特殊なジャンルです。「さあみなさん、この文章を読んでください。部屋がこうなっていまして」と、探偵や視点人物が、現場に遭遇するところから始まりますよね。あらゆる細部に意図が込められていて、普通の小説とはだいぶ違います。
20世紀の小説は一般的に逸脱が非常に多くて、意味があるのかないのかわからないというのが作品の持ち味になっているものも多いですが、それをミステリでやると成立しないですよね。「殺したのか殺していないのかよくわかりませんでした」では話にならない。小説とミステリは、そこが典型的に違います。
よく言われるのが、1920年代、30年代のミステリのゴールデンエイジと呼ばれている時代は、まさに大戦後で人々が不安をかかえていた頃で、逆に探偵小説のようなしっかりとした理詰めの解決があるという世界が不安定な社会を生きる人々に癒しを与えたということです。殺人が起きる割には心温まる感じがして、殺人事件なのにこんなに安心しちゃっていいんだろうかという気持ちもありますね。
越前 理詰めという部分でさらに言うと、僕が翻訳を始めた頃、英語のミステリを読むことは勉強であると同時に楽しい謎解きでもありました。andが何と何を結んでいるかとか、理詰めで英文読解をしていくから、数学的といえば数学的なのかもしれないなと思います。あるいは事務的なのかもしれません。阿部さんが最近出された『事務に踊る人々』(講談社、2023年9月刊)にからめて言えばそうですね。ちなみに僕は、事務作業はわりと好きな方です。
阿部 事務作業っていろいろな側面があると思うんですけど、探偵小説を読むことは完全に事務の世界ですよね。事務好きな人こそ、ミステリが好きな人が多い印象があります。事務能力のうちの文書主義がミステリを読む際に生きてきますよね。
英文読解=断片からの再構成
阿部 もうひとつミステリを読むときに必要なのは、断片へのこだわり。探偵小説の殺人の証拠って、だいたい切れ端の形で描かれているじゃないですか。そこが実は英文読解と重なるところだと思うんです。つまり、コンテクストから切り離されているものをしっかり読んで、どうコンテクストを想像していくかというところです。コンテクストを解き明かすためのヒントが、断片に込められている。ミステリを読むときは、足跡や切れ端が残っているとか、薬品の一滴が残っていたとか、そういうものを元に想像力をめぐらせて、犯人像を組み立てていきますよね。英文読解も同じです。コンテクストを再構築する喜びがある。『名作ミステリで学ぶ英文読解』のように英文読解の教材としてミステリを読むことも、断片に過ぎないものを通して作品全体を構築していく気持ちよさを味わえます。越前さんがこの本の中で教材として選んでいる英文も、ミステリを読み解いていく断片として魅力のある箇所のように思いました。
越前 そういう箇所は、挿入句がいっぱい入っているような、複雑な構文から成り立っていることもけっこうありますね。
阿部 教材として断片を選ぶ時は、大事なところを探しますよね。そして大事なところは、複雑になりがちです。なぜかというと、大事なことを言おうとすればするほどに、書いている時に力が入ったり、文章に負荷がかかったりするからです。短いものでは十分に言いたいことが言えないので、2~3行となるし、複文になったりするし、関係詞節を入れていろいろと輻輳的な意味を説明することになる。だから読んでいてペースが落ちるし、難しくなる。そういうところであればあるほど、文章のコンテクスト全体を背負いこむようなものになりがちなのです。ただ、越前さんが選ばれた箇所でも、必ずしも事件解明と直結しない断片もありますよね。
越前 作品の魅力や、探偵のキャラクターをうまく説明しているところはもちろん選んでいます。構文について言えば、阿部先生の『英文学教授が教えたがる名作の英語』(文藝春秋、2021年)で特に興味深く読んだのは、ヘミングウェイについて書かれた章です。ヘミングウェイはandの使い方が非常に特徴的だと書かれていましたね。
阿部 等位接続詞、つまりandとかbutとかforとかそういうものの使い方が特徴的ですね。
越前 andがつづくと、へたをするとだらだらしてしまうのだけど、逆にandが効果的に使われると、ある種の緊迫感が出るとか、そういうふうにあの本では説明されていて、「なるほど、そういうことなんだ」と。でも、うまくやらないとだらだらしているように読めてしまいますよね。その辺の違いはなんだろう、ヘミングウェイがだらだらしないのはなんでなんだろうというのは、僕はまだ完全には答えが出せていないんです。微妙にレベルの違う何種類ものandを使い分けているから、というのはありますけど。
阿部 ヘミングウェイは、実験的なほどの緊張感がありますよね。尋常ならざる感じが漂っていて、これはただごとではないという感じがします。ダニエル・デフォーはだらだらしているというか、この人はこういう書き方が好きなんだなと思ってつい読んじゃうところもなくはない。ヘミングウェイは明らかにわざと、意味ありげにやっているので、なにかこれは来るぞと読みたくなりますね。
越前 andが一段落に8つ入っていたり、すごい例があったりする。『英文学教授が教えたがる名作の英語』では「尋常ならざる心理状態」という言葉で説明されていましたね。
阿部 文学一般にいえると思うのですが、尋常ならざる地点を表現するというのは大事ですよね。それをどう表現するかは作家によって違うのだけど、ヘミングウェイの場合はすごく平易な言葉、どうということのない言葉を使って、どうということのない構文を使っている。それでいて、言っている内容はどうということがなくはない。『老人と海』の主人公の老人のように、ごく普通の言葉しか使わない人が尋常ならざる極みに到達する……、すごいなと思います。
越前 ヘミングウェイの色々な作品を読んでいて思ったのは、初期の作品ではひとつのセンテンスが短かったのが、中期ぐらいになるとずいぶん長くなるということです。長くて、andでつないでいるところがすごく多い。「父と子」という作品の冒頭部分って、10行以上ピリオドがないんです。過去の訳書では、たいがいそれを7つか8つの文に分けて翻訳されていて、とても歯切れがいいんですが、ほんとうにそれでいいのかなと疑問に思っていて。日本語も長いセンテンスのままで同じような効果を出せないか試行錯誤しているところです。
阿部 職人の域ですね。
越前 この場合は、訳文がなめらかすぎてもいけないんです。
阿部 『名作ミステリで学ぶ英文読解』にはそのへんが書いてありますね。
越前 センテンスの切れ目を原文と訳文でなるべく合わせるというのが原則で、短く切ると訳文のリズムがよくなるのだけど、ほかの大事なものを失ってしまうから、安易にそうはしたくないというのは自分のこだわりとしてあります。今回ヘミングウェイというビッグな題材をあたえていただいて〔編集部注:ヘミングウェイ、越前敏弥訳『老人と海』が角川文庫から2024年1月に刊行予定〕、ヘミングウェイの硬質な文体を長いセンテンスのまま表現したいなと思っているところです。
阿部 50年以上前の翻訳家は、いかにこなれた日本語にするかというので勝負していたのですが、日本の翻訳はすごくレベルが上がってきていて、さらに次の段階に行っています。原文の「におい」をいかに日本語で伝えるかという。日本語で変にうまくなろうとしないところが、うまい翻訳者であればあるほど、身につけられている。
越前 でもこわいですけどね。ただのへたくそだと思われるかもしれない(笑)
阿部 ある程度、世に認められた人でないとなかなかやりにくい。ひとつそういうときに、私も気がかりなのは、日本語と英語はリズムがだいぶ違うということです。英語のリズムは基本的に並列的にモノを並べていく。and・andというのがごく自然にはまっていくし、同格を4つ5つつなげても口語としてもナチュラルになる。日本語はもともとそういうリズムがありません。翻訳が出回って、ある程度日本語でもそういうリズムで書かれることが増えたとはいえ、ナチュラルな日本語は長短の長さのバリエーションでリズムを作ると思うので、そこをどうするか。
越前 そこは翻訳のさまざまな技巧を使って、文の構造が異なっても全体の印象が変わらない日本語を紡ぎ出すしかない。切れ味のよい短文や体言止めを濫用せずにね。
阿部 体言止めの使い方も、やりすぎると雑誌記事みたいでちょっと安っぽくなりますよね。半分宣伝のような調子のいい文章になってしまう。
センテンスの長短――途中でやめる、または過剰さについて
阿部 ヘミングウェイやウィリアム・フォークナーもそうかもしれませんが、「途中で言いやめる人」が出てくるのは20世紀の小説に多いと思います。きちんと調べていないですが、18, 19世紀、たとえばジェイン・オースティンの作品などだとあまりそういう人はいないと思うんです。途中で人の話を遮るとか、しゃべるのをやめていなくなっちゃうというのではなくて、わりと最後まで理詰めで、下手をすると1ページずっとしゃべる人が出てきたりします。
それがヘミングウェイぐらいになると0.2行しかしゃべらないというのが平気で出てくる。人の話を遮る人というのは、一般的にいくらでもいると思いますけど、小説のなかで人の話を遮るようになるのはいつぐらいからだろうというのを調べてみると面白いと思います。印象に残っているのは、E・M・フォースターの『ハワーズ・エンド』で、作中で人の話を遮りまくる人物が多く出てきて、そこでいろいろと誤解が生じたりコメディタッチになったりしています。
越前 ミステリだと、どのあたりまでが長台詞なのかはちょっとわからないですね。少なくともゴールデンエイジに関してはそういう傾向はないと思います。
阿部 ミステリで話を遮ると、大事なことを言っているかもしれないのでまずいですよね。そうすると、長台詞がゆるされがちなのか、あるいは尻切れにならないように短めが多いのか。
越前 探偵の最後の長台詞は当然ありますけど、それ以外のところではないかなと。それは、たとえばハードボイルドのあたりで極端に短くなったり、ヘミングウェイの後ぐらいだと思います。
英文読解の話にもどると、ミステリに限らず、他の名作も読んでもらいたいですね。『英文学教授が教えたがる名作の英語』では、ジョナサン・スウィフト『ガリヴァー旅行記』が載っていました。ガリヴァーは、4~5年前に読んだ時に、小説が小説になる前の形みたいなもの、ある種の異形というか、今の感覚でいうと過剰な部分がめちゃくちゃ面白いなと思いました。
阿部 変な小説ですよね。
越前 小説と言っていいのかもわからない。
阿部 独特の淡々とした感じもいいですよね。変なことが起こっているのに、妙に静かで。
越前 ガリヴァーって、多くの人は子供向けしか知らないですよね。僕も大人向けのガリヴァーを数年前に、三省堂の『世界物語大辞典』を訳した時に読みました。ほかに面白いなと思ったのは、ドン・キホーテですね。小説ができかかっている時代の頃の作品。
阿部 18世紀あたりの、小説なのか小説じゃないのかわからない時期ですね。言葉にいろいろな可能性が残っている時代。一番有名なのは『トリストラム・シャンディ』。それは日本語もそうだと思うんです。明治・大正の頃の、現在の日本語の文学言語が出来る前の微妙な領域、ぎくしゃくした時代というのは面白いですね。一番それがよくでているのは萩原朔太郎の詩だと思います。詩の言葉がまだどこにいくのかわからないときにいろいろなことをやっていたような感じ。漱石も小説ごとに違う書き方をしていたりします。チャレンジングな感じが出ている時代って面白いなとあらためて思います。
(2023年10月24日、青山ブックセンター本店にて)
(後半に続く)
越前敏弥『名作ミステリで学ぶ英文読解』(ハヤカワ新書)は好評発売中です!