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SFとは、世界を創造することだ――劉慈欣『三体0 球状閃電』著者あとがき

一昨日の21日に発売日をむかえた劉慈欣『三体0 球状閃電』。さっそくご購入いただいたみなさま、ありがとうございます!
本日は著者・劉慈欣による本書のあとがきを掲載します。2001年、まだ『三体』を生み出す前の劉慈欣はなにを思い本作を執筆したのか。2019年の来日時の写真とあわせてお楽しみください!

著者あとがき


 ある雷雨の夜のことだった。青い電光がきらめくと、窓の外の雨粒が一瞬だけその姿をくっきりと見せた。嵐は夕方はじまり、それ以降、稲妻と雷鳴の間隔はどんどん短くなっていった。目が眩むような稲妻の一閃のあと、大きな木の下にそれが出現した。空中をゆらゆら漂いながら、オレンジ色の光で降りしきる雨を照らし、塤(シュン)の調べを奏でているかのようだったが、十秒あまり経つとそれは消えてしまった……。

 以上は、SF小説の話ではない。1981年の夏、河北省邯鄲市で、降りしきる雷雨の中、作者が実際に目にしたものだ。場所は中華路の南端、当時のそこは辺鄙で静かなところで、少し前に進めばもう大きな畑が広がっていた。

 同じ年、アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』『宇宙のランデヴー』の二冊が中国で出版された。それ以前にも、ジュール・ヴェルヌやハーバート・ジョージ・ウエルズの作品は翻訳されていたものの、この二冊は、英米の現代SFの名作が中国語で読めるようになった初期の例だった。

 この二つの出来事は、わたしにとってたいへん幸運なことだった。というのも、球電を見たことがある人はだいたい百人にひとりだし(原注:この統計的数字は中国国内の気象学雑誌に掲載された論文によるものだが、この比率は高すぎるのではないかとわたしは疑っている)、中国で前述の二作品を両方とも読んでいる人は一万人に一人もいないだろうからだ。

 この二作品は、わたしのSFに対する理想を確立してくれた。それはいまに至るまで変わっていない。この二作品に出合う前のわたしは、ジュール・ヴェルヌの小説から、未来に実現するすごいマシンを予言することこそがSFの本分だと信じていた。しかし、アーサー・C・クラークはわたしのそんな考えを一変させた。SFのほんとうの魅力は、イマジネーションの中の事物(『2001年宇宙の旅』のモノリス)や世界(『宇宙のランデヴー』に出てくる異星文明の巨大建造物ラーマ)を創造することだと教えてくれたのだ。このようなイマジネーションの創造物は、過去にも現在にも存在しないし、未来にも存在するはずがない。べつの観点から言えば、SF作家がそれらを想像した段階で、それらはもう存在していて、さらなる証明や他人からの承認など必要ない。逆にもし、そんなイマジネーションの創造物が現実のものになれば、その魅力はかえって失われてしまう。アーサー・C・クラークに関して言えば、もっとも読者を惹きつけてやまない創造物はモノリスとラーマだろう。それに対し、現実となる可能性のある宇宙エレベーターが人々に与える印象はそれほど強烈ではないし、すでに現実のものとなった通信衛星に至ってはさらに魅力を失っている。

 主流文学が見せてくれるのが個性豊かな人物像のギャラリーであるように、西洋のSF小説も想像の世界のオンパレードである。アーサー・C・クラークのラーマのほか、アイザック・アシモフの広大な銀河帝国やロボット三原則をもとに構築された精緻なロボット世界、複雑な関係性が交錯するフランク・ハーバートの砂の惑星、ブライアン・W・オールディスの熱帯密林世界、ハル・クレメントの物理法則によって造られた世界、さらには自然科学と歴史の両面から見て実在はしていなかっただろうバベルの塔。そういうイマジネーションの世界の造形は精緻で生き生きしていて、べつの時空に実在しているのではないかと読者にいつも思わせてくれる。

 では、中国SFはどうだろうか。いちばん残念なのは、そういう想像の世界をまだ見せられていないことである。自分の世界を創造することに対し、中国のSF作家はそれほど意欲的ではない。だれかがすでに創造した世界の中で自分のストーリーを展開していくだけで満足してしまっている。われわれのSF小説では、そのような世界はすでに当然のものになっていて、残るはストーリー性だけというわけだ。

 たしかに、すべてのディテールについて生き生きした想像の世界を創り出すのはかなりむずかしい。深遠な思想が必要だし、マクロ的にもミクロ的にも見ることのできる、パワーと余裕を兼ね備えた想像力も必要だ。さらに、創世記に出てくる創造主のような、無から有を生み出す気概も必要だろう。後者二つは、中国の文化には足りていない。しかし、世界をまるごと創造するにはまだ力不足だとしても、次善の策として、まずそのうちのひとつを創造するくらいは可能ではないだろうか? これこそがわたしがこの小説を執筆した目的だった。

2019年10月、初来日時に科学技術館にて電気の展示を楽しむ劉慈欣氏(禁転載)
(c) Hayakawa Publishing Corporation

 球電はいまも科学における謎のひとつである。しかし、すでに実験室の中では生み出すことが可能になっている(平均して七千回に一回やっと成功するくらいの確率だが)。この謎が完全に解明される日も近いだろう。そのとき、なにがわかるにせよ、これだけは確実に言える。球電の正体は、この小説で描かれたものとはまったく異なるだろう。そもそも球電の真実の姿を解明することはSFの役目ではないし、わたしはそんな能力を持ち合わせていない。われわれSF作家にできるのは、自分の想像したものを描くことによって、SF的なイメージを創造することだ。主流文学と違って、そのイメージは人物に関するものでもない。

 わたしが球電を目撃してからの二十年近くの歳月で、知らず知らずのうちに球電に関するさまざまな想像を蓄積してきた。この小説で描いたのはそんな想像のひとつだ。ただそれは、わたしがもっとも真実に近いと思っているものではなく、もっとも面白味があってロマンティックだと思うものだ。これはたんなる想像の産物である。エネルギーがあふれる曲がった空間、あるようでないような空泡、サッカーボール大の電子。この小説の中の世界は灰色の現実世界だ。慣れ親しんだ灰色の空と雲、灰色の山河と海、灰色の人と生活。しかし、この灰色の現実世界には、だれの注意も惹くことなく、ある非現実的なものが漂っている。それはまるで、夢の国からこぼれ落ちたひと粒の塵のようだ。その塵は、広漠たるこの宇宙が不思議に満ち、そこにはわれわれの現実とはまるで違う別世界が存在するかもしれないという可能性を暗示している……。 

2001年1月11日 劉慈欣

  

 

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