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【お得な120ページ試し読み】城平京氏推薦! 大好評ファンタジー×ミステリ第2弾『錬金術師の消失』

12/17刊行の紺野天龍『錬金術師の消失』、第2章まで(約120ページ、6万字)の試し読みを公開します!

■書誌情報

錬金術師の消失_帯

紺野天龍『錬金術師の消失』
ハヤカワ文庫JA 本体価格940円+税
カバーデザイン:團夢見(imagejack)
カバーイラスト:桑島黎音
(電子版同時配信)
※書影はamazonへリンクしています※

■あらすじ

アスタルト王国の錬金術師テレサとエミリアは、セフィラ教会の聖地の塔へ調査に赴いた。《始まりの錬金術師》が遺した神秘が眠り、"神隠し"の噂が囁かれる水銀製の奇妙な塔には、隣国バアル帝国の錬金術師ニコラ・フラメル、教会聖騎士団や巡礼者らが集まっていた。だが突然の嵐で塔は孤絶。一夜明け、転がったのは聖騎士の首無し死体。やがて次々と犠牲者が……鮮烈な論理と奇想に彩られたファンタジー×ミステリ第2弾

■前作『錬金術師の密室』試し読みはこちら↓↓

■新作『錬金術師の消失』試し読み

※前作『錬金術師の密室』の結末に一部触れる部分があることをご了承ください。
※図版、傍点、ルビは省略しました。
※参考・引用文献は書籍版巻末に記載しています。

-----------------------------------以下本文-----------------------------------------

太陽がその父であり、月がその母である。
風はそれを己の胎内に運び、大地が育む。

これが全世界の完成の原理である。
その力は大地に向けられる時、完全なものとなる。

──《エメラルド板》より 

第1章 水銀塔への誘い

1

「きもちわるい……」
 蒸気自動車の助手席で、テレサ・パラケルススは今にも死にそうな声でそう呟いた。
「もうすぐのはずですから我慢してください」運転席のエミリア・シュヴァルツデルフィーネは、慌ててアクセルを少し緩める。「窓を開けると少しは気分が和らぐはずです。腹式呼吸を意識して、あと視線をなるべく遠くへ。それでも耐えられないようであれば車を停めますので言ってください」
「……がんばる」
 珍しく言われるまま、テレサは窓を開けると、窓枠にぐったりともたれ掛かった。墓穴から蘇ったばかりの死者でさえもう少し元気がありそうだ。
「やっぱり停めて休憩しましょうか」
「……いや、行ってくれ」長い黒髪を風に揺らして、テレサは苦しそうに唸る。「今は一秒でも早くこの苦痛から逃れたい……」
「……わかりました、少し急ぎますね」
 エミリアは再びアクセルを踏み込む。この車は、蒸気機関で発電してモータを回す最新式のものではなく、蒸気で直接駆動輪を回す昔ながらのタイプだった。ボンネットの中のボイラは今ごろ稼働限界まで過熱されていることだろう。蒸気を放出せず再利用するための復水器を搭載しており、水の補給が目的地まで不要なのは幸いだったが、テレサにとってはある意味、不幸だったかもしれない。
 道と呼ぶのもおこがましい荒野を、二人を乗せた車は猛然と進んでいく。
 王都エテメンアンキから、高速蒸気列車に揺られること約三時間。そこから辻馬車に乗り換えて手近な軍基地へ向かうこと一時間。さらに軍基地から蒸気自動車を借り受けて二時間ばかり。王都を出発してからすでに六時間は経過していることになる。
 産業革命後も田舎ではまだ当たり前のように馬車が我が物顔で往来を行き交っているが、その姿すらまばらになり、ついにはただ荒野だけが延々と広がるばかりとなって、いよいよ田舎を通り越して秘境の領域に差し掛かりつつあることをエミリアは肌で感じていった。数カ月まえまで彼が所属していたザグロス山脈奥地のアワン前哨基地でさえもう少し文明の匂いがあったが、この辺りはもう完全に未開の土地という印象で、早くもエミリアは気が引けてしまっていた。
 また基地から借り受けたこの車がかなりの年代物であり、サスペンションやシートの耐久性が極めて怪しく必要以上に揺れるのも、やる気が削がれる一因となっている。
 さらに空は気持ちが重たくなるほどの曇天。晴れていれば少しは気も紛れるだろうに、とエミリアはテレサに同情する。軍学校で正規の軍人として教育を受けたエミリアは、多少の悪環境に対して耐性があるが、軍事教育を受けておらず、おまけに引きこもりのテレサにはこの未整備の悪路をひた走っている現状というのはかなりつらいものがあるだろう。
 横目でちらりとテレサを見やると、いつの間にか軍服の胸元を大胆にはだけていた。女性であるにもかかわらず男性用の軍服を着込んでいるので、苦しいのかもしれない。普段憎らしい上司とはいえ、弱っている女性の胸元をじろじろと眺めるのは紳士的ではないので、エミリアは意識的に視線を前方に固定する。
「もう最悪だよぉ……」テレサが悲しいくらい情けない声を上げる。「あのヒゲおやじ本当に許さないぞ……」
 ヒゲおやじ、というのは軍務省情報局のヘンリィ・ヴァーヴィル局長のことだろう。エミリアたちの直属の上官であり、彼らが現在、車に揺られてひた走っている原因を作った人物でもある。
「そもそも私は、こういう今にも嵐になりそうな日は具合が良くないのだ……何故延期にしなかったのだ……」
 延々とぼやき続けるテレサ。エミリアは運転に集中しながら話半分に応じる。
「一日でも早く、という指令なのですから仕方がないでしょう。第一、僕らにそんなわがままを言う権利はありません」
 彼ら二人だけが所属する軍務省国家安全錬金術対策室──通称《アルカヘスト》は、発足からそろそろ二カ月が経過しようというところだが、未だにほとんど何の成果も挙げておらず、存続の危機を迎えている。厳密に言えば、一カ月まえに起こった《メルクリウス・カンパニィ》の事件を解決するという大変な実績を積んではいるのだが、アルカヘストは事件捜査機関ではなく、あくまで錬金術の研究機関なので、実績として数えられていないというのが現実だ。つまり、外部から見ればただの税金泥棒にすぎない。
 おまけに軍内部でのテレサの評判が著しく悪いこともあり、軍基地に立ち寄っても良質な車両どころか運転手すら貸してもらえず、廃車同然のポンコツを押しつけられる始末。
 さすがのエミリアも文句くらい言いたいところだったが、肝心のテレサが珍しく弱り切っているので、彼としても怒るに怒れない。
「世知辛いなあ……」まるで他人事のようにテレサは呟く。「どうしてこの国の軍人は、この私をもっと大事にしないのだろうか……。何度も言うが私は人類の至宝だぞ?」
「はいはい」
「雑に聞き流さないで……実のない話で気を紛らわせてないと心が折れる……」
 いつもは憎らしいくらい弁が立つテレサだが、今はそのまま消え入りそうなほど儚い。何ともやりにくいので、仕方なくエミリアは雑談に応じる。
「ところで、僕らの任務はどうしてこう、いつも政治絡みが多いんでしょうか」
「……まあ、錬金術自体が国家間の火種になりやすいというのはあるかもね」苦しげに、それでも律儀にテレサは答える。「特に先のメルクリウス騒動以降、アスタルト王国とバアル帝国の関係は微妙だ。王国側の落ち度ではあるが、それを理由に戦争を仕掛けようとしていた向こうも、結局不発に終わってとんだ赤っ恥だったろう。両者面目丸つぶれで落とし所もなく、おかげで未だ不満が燻っている状態だ。両国の上層部が今回の一件に躍起になるのもわかる。さらに今回は宗教国家シャプシュまで絡んできているから面倒くさい。主導権をセフィラ教会に握られるってことだからな」
「不幸中の幸いだったのは、海上移動共和国ヤムが今回の一件に無関心だという点ですかね」
「連中は、メルクリウス騒動のとき関税引き下げという上手い落とし所で、漁夫の利を得てるからね。今回は様子見なんだろう。さすが商業国だけあって損得の判断が的確だ」
 今回は、何の利益も得られないどころか他国との関係性を悪化させる怖れすらあるハイリスクな案件だ。堅実な商売を信条としているヤムが関わるべきではないと判断したのはある意味予定調和といったところか。
 しかしながら、ハイリスクであるとわかった上でなおも、エミリアたちには拒否権もなく、任務に当たらなければならないので何とも気が重い。そもそもこんな面倒なことになってしまったのも、テレサの日常的な勤務態度にその原因が求められるわけで、エミリアとしては意趣返しに皮肉の一つでも言ってやりたくなってくる。
「それにしても、車にも弱いとは知りませんでした。意外と弱点多いですね」
「完璧超人の私に弱点などない……」
「高いところも苦手ですよね?」
「ぜ、全然そんなことないぞ……高いところ大好きだし……」
「そうですか? じゃあ、次に任務で遠距離移動するときは航空機使いましょう。列車や車は時間が掛かっていけません」
「ま、待てエミリアちゃん。のんびりした旅路もなかなか捨てたものじゃないぞ……?」
「僕ら別に旅行しているわけではなくて、仕事で行ってるんですけど……」
「旅情のわからない朴念仁だなあ。そんなだから、いい歳して彼女の一人もいないのだ」
 少しイラッとしたので、わざと進行方向の石に乗り上げてガタン、と車体を揺らす。
「……ごめん嘘だよ怒らないでエミリアちゃん」声を震わせてテレサは謝る。「女の子にモテることだけが人生のすべてじゃないから気にしないほうがいいよ。まあ、きみと逆に私は非常にモテて困っているくらいなんだけどね」
 ──ガタン、と再び石に乗り上げる。
「なんでぇ!? 謝ってるのに!」
「喧嘩売ってますよね?」
「売ってないよ! 世紀の大天才たるこの私が、きみのような究極凡夫に対してここまで殊勝な態度を取ることなんて、きみのちんけな生涯においてきっと今以外に存在しないのだから、滂沱の涙を流しながら拝聴してしかるべきだと思うのだが!」
「……あなたがどういう人間なのかを失念していました。少し飛ばします。揺れますので舌を噛まないように注意してくださいね」
「お、おい待てエミリアちゃん! 少し落ち着いたほうが──」
 焦りを見せるテレサを無視して、エミリアはアクセルをべた踏みする。シートに押しつけられるほどの加速とともに、車体が荒馬のように飛び跳ねる。
 助手席のテレサが言葉にならない悲鳴を上げるが、気にせずハンドルを握りしめて運転に集中する。
 しばらくそんな無茶な運転を続けると、やがて前方に白銀に輝く塔のようなものが見えてきた。まだ結構距離があるはずなのに、それは不自然なほどの輝きを放っている。
 どうやらようやく目的地へ着いたようだ。
 エミリアはいつの間にか悲鳴すら上げなくなっていたテレサに声を掛ける。
「ほら、先生。見えてきましたよ」
「……助かった……死ぬかと思った……」覇気のない声でテレサは呟く。
 少しずつ鮮明に、その尖塔は視界の先で像を結ぶ。
 世界で唯一の現存する神秘。《神の子》ヘルメス・トリスメギストスが建造し、《始まりの錬金術師》アルベルトゥス・マグヌスが住み着いたと言われるセフィラ教会聖地。

 表面が液体水銀で覆われた奇跡の塔──通称《水銀塔》。

 冷然とそびえ立つ神秘の尖塔を遠目に眺めながら、エミリアは自分たちに与えられた任務を再確認するため、ここ二日ほどの間に起こった出来事を脳裏に描き出す──。

2

「──しかし、実際のところどうなんだ?」
 アスタルト王国軍務省が入居する第三合同庁舎食堂テラス席の片隅で、唐突にイーサン・ロジャーズは、声を落としてそんなことを尋ねてきた。対面するエミリアは、瞬時に発言の意図を察したが、あえて気づかない振りをしてとぼける。
「どう、とは何のことかな? それより、このフィッシュアンドチップスはなかなかに美味だね。ビネガーとの相性も抜群だ。ほら、きみも冷めないうちに食べたほうがいい」
「はぐらかすな」イーサンは語気を強める。「あの女錬金術師のことに決まってるだろ」
 イーサンの言葉に、エミリアの顔が引きつる。せっかくのランチだというのに嫌な話題を振ってくる。無意識に天を仰ぐと、空には初夏の太陽と一番星《ニビル》が浮かび、いつものようにエミリアを見下ろしていた。《ニビル》は、創世神話において《神》のいる星と言われ、いつも空の同じ位置から、王国の人々を見守ってくれており、その変わらぬ様子に少し元気づけられる。
 イーサンは、大きな身体を不機嫌そうに揺すりながら言った。
「テレサ・パラケルススの悪評は、今や軍全体にまで広がりつつあるぞ。勤務中に酒を飲んで酔い潰れる、いつの間にか庁舎の女性職員全員に粉を掛けている、逆に男性職員にはあからさまに態度が悪い──などといったクレームを毎日耳にする上、さらには肝心の錬金術研究のほうは何の進展もないと聞く。我々軍人は、国民の血税を頂いて仕事をしているのだという自覚があまりにも足りていないのではないか?」
「ちょっ……声が大きいぞ」
 水の入ったグラスをテーブルに叩きつけて憤るイーサン。エミリアは慌てて宥める。
 イーサン・ロジャーズは、身体も大きいがそれ以上に声が大きい。軍学校時代からの親友だが、昔から彼のこの悪癖に、エミリアはよく迷惑していた。しかし、今回はエミリアを思ってのことなので、あまり強くも出られない。
 確かに彼の言うとおり、エミリアの上司であるテレサ・パラケルスス大佐は、色々と問題の多い人間である。他人に迷惑を掛けても何も思わないというか、むしろそれこそ己が天命だとでも言わんばかりに、おおよそ軍人とは思えない型破りな振る舞いを日常的に繰り返している社会不適合者であり、そのせいで軍内部から日々批判が絶えない。おまけに、テレサが未だに錬金術師らしい成果を挙げていないのも体裁が悪い。
 軍務省公安局に所属しているイーサンが、テレサに対して苦言を呈するのも当然だ。
 仕方なくエミリアは、彼に顔を寄せて答える。
「実際問題、僕がアルカヘストの配属になってから、クレームの数は減ってるはずだ。勤務中の飲酒も止めさせたし、女性職員への手出しも注意して控えさせてる。錬金術研究のほうはさすがに耳が痛いが、そもそも真理の探究には時間が掛かるものなんだ。きみが気を揉むのはわかるが、もう少し様子を見てもらうわけにはいかないだろうか」
「いや……俺が心配してるのはまさにそこなんだ」イーサンは、プレートランチの肉塊を咀嚼しながら眉をひそめる。
「正直な話、俺はおまえが中央に戻ってくるという話を聞いたとき、我が事のように嬉しかった。軍学校卒業早々、北部前哨基地に飛ばされたおまえが、自力で手柄を上げてヴァーヴィル情報局長の直下に就くなんて……さすがは俺が見込んだ男だと鼻が高かった。だが、北部から戻ってきたおまえは、局長直下というポストを蹴ってまでアルカヘストなんて怪しい部署へ転属願いを出した。はっきり言って意味がわからん。だから正直に言ってくれ。もし、あの毒婦に誑かされたり、脅されたりしているのなら、公安局のほうで速やかに対処する」
 真剣な表情で、イーサンはエミリアを見据える。どうやらこの親友は、エミリアの転属が自分の意思によるものではないと考えているらしい。昔から思い込みの激しい性格ではあったが、それに加えて今回は色々と気を揉ませてしまったようだ。
「僕のことを心配してくれるのは嬉しいけど、本当に大丈夫だよ。アルカヘストへはちゃんと自分の意思で転属願いを出した。錬金術に興味があったからね」
 わざと素っ気なく答えてから、エミリアは昼食を再開する。昼休みは一時間しかないので、早く食べないとすぐに終わってしまう。すっかり冷めてしまった付け合わせのフライドポテトを嚥下したところで、イーサンが低く唸った。
「……まあ、エミリアが納得してるならそれでいい。しかし、もう三年の付き合いになるが、おまえがそこまで錬金術に興味を持っていたなんて初耳だぞ。学生時代はむしろ避けてたくらいだった気がするが」
「……そうかな?」
 一瞬動揺するが、すぐに平静を装って答える。錬金術師とは浅からぬ縁のあるエミリアだが、少なくとも学生時代はそれを隠して過ごしてきたつもりだ。しかし、もしかしたらそれゆえに無意識に遠ざけるような素振りを見せてしまっていたのかもしれない。
「どちらかというと、アイツのほうが錬金術師に興味津々だっただろう」
 言ってから、イーサンはしまった、という顔でエミリアを見る。
「……すまない。嬉々としておまえに話すことじゃなかった。反省している」
「気にしてないから、そんなことで謝らないでくれ」エミリアは苦笑する。
「そう言ってもらえると助かる」イーサンは、頬を掻きながらどこか照れくさそうに言う。「女々しい言い訳だが……俺にとって学生時代の思い出ってのは、おまえやアイツとの思い出とイコールなんだ。鮮烈で眩しい、俺の一生の宝物さ。それくらい、俺にとって二人は憧れの存在だったんだ。おまえと──アナスタシアは」
 イーサンは、過去を懐かしむように、穏やかな表情でエミリアを見つめる。
 アナスタシアとは、軍学校でエミリアやイーサンと同期だった少女だ。卒業を数カ月後に控えたある日、バアル帝国のスパイ容疑を掛けられ、そのままどこかへ姿をくらませてしまった。そしてその余波で、エミリアは軍部からしばらく冷遇されることになる。
「過去を美化しすぎだよ。第一、僕ら三人の中で一番真っ当に出世してるのは明らかにきみだろう。僕はきみが思ってるほど大した人間じゃないよ」
「おまえは相変わらず自己評価が低いな。俺は学生時代、おまえたちのせいで万年三位だったんだぞ。まあ、アイツがいなくなってからは一つ繰り上がったが……」
 そこで話が逸れていることに気づいたのか、イーサンは咳払いをして話題を戻す。
「──しかし、おまえほどの男が局長直下のポストを蹴ってまで選んだということは、パラケルスス大佐というのは噂されているような問題人物ではなく、もっと偉大な人間ということなのだろうな。うん、俺も安易な噂などに惑わされず、自分の目で人の才を見抜ける人間でありたいものだ」
 本当は噂どおりのトラブルメーカなのだが、エミリアがテレサの下に就いたのは、人に話せない事情があってのことなので、彼の自己解決は正直助かった。
「そういえば、いつも国内外を飛び回ってるきみがこの第三合同庁舎に何の用だい? まさか僕を食事に誘うためだけにわざわざ王都へ来たわけでもないんだろう?」
 イーサン・ロジャーズは、公安局外事課──つまり主に国外からの脅威にいち早く対応するための部署に所属しているので、普段王都にいることはほとんどないと聞く。
「さすが鋭いな。もちろん、おまえと久々に話がしたかったというのはここへ来た大きな理由でもあるんだが……それだけじゃない」
 プレートランチの最後の肉塊をほとんど丸呑みしてから、イーサンは声を落とす。
「これは機密事項だから内緒にしてもらいたいんだが……実は今、情報局と公安局の極秘共同任務を敷いていてな。今日はその経過報告に来たんだ」
「共同任務?」意外な言葉にエミリアは目を丸くする。「ウチと公安──しかも外事の共同ってのは、穏やかじゃないな……。まさか戦争の予兆でもあったか?」
「いや、そこまでじゃない。ただ放置しておくと火種くらいにはなりそうな問題なんで、優先的に動いてる感じだな。メルクリウス・カンパニィ凋落の余波は、みんなが認識している以上に大きかったってことだ」
 メルクリウス・カンパニィ──エミリアたちの住むアスタルト王国に本社を置く世界的なエネルギィ関連企業だ。次世代エネルギィ資源《エーテライト》を世界中に販売することで莫大な利益を上げていたが、先日発生した殺人事件の影響で《エーテライト》の安定供給が滞り、また会社が秘密裏に非人道的な人体実験を行っていたことなども明るみに出てしまったため、現在大変な非難が集まっている。
 一カ月ほどまえ、エミリアと上司のテレサは、メルクリウス・カンパニィで行われたとある錬金術の技術公開式に王国の代表者として派遣された。そしてその際、メルクリウスの顧問錬金術師フェルディナント三世が、何人も侵入することのかなわない三重密室の中で他殺体として発見された。最有力容疑者として錬金術師であるテレサが疑われたが──彼女はその天才的な頭脳で事件を解決し、自らの無実を明らかにした。
 そして、肝心要の錬金術師を失ったメルクリウス・カンパニィは、同時に暴かれた会社ぐるみの犯罪のこともあり、絶頂を誇っていた社会的地位を失ってしまったのだった。
 不可抗力だったとはいえ、メルクリウス凋落の件でイーサンが大変な思いをしているとなると、関係者としてエミリアも申し訳ない気持ちになる。
「……何か困ってることがあったら言ってほしいな。可能な限り僕も力になるよ」
「その言葉だけで百人力だよ」イーサンは満足そうに笑って立ち上がった。「だが、望むと望まざるとにかかわらず、おまえはいずれこの一件に関わることになるだろうな。何せこれは、おまえ向けの案件なんだから」
 それはつまり、錬金術関連ということか。詳しく尋ねようとしたが、イーサンは時間だ、と言ってランチのトレイを持ち上げた。
「久々に話ができて嬉しかったぞ。やはりおまえは変わっていないな。俺も学生時代に戻ったような気持ちになれた。礼を言おう」
 エミリアは同じように立ち上がり、彼の顔を見上げて微笑む。
「いや──僕のほうこそ、わざわざ会いに来てくれて嬉しかった。今日は少しせわしなかったが、落ち着いたら酒でも飲もう」
「ああ、それはいいな」イーサンは破顔する。「もしも叶うのであれば──いつか、アナスタシアも入れて三人で酒を酌み交わしたいものだな」
 過去を愛おしむように空を見上げて、イーサンは呟く。
「──アイツは今頃どこで何をしてるんだろうな」
 エミリアは何も答えられなかった。

3

 食事を終えてから、エミリアは庁舎地下のオフィスへ戻る。『国家安全錬金術対策室』というプレートが取り付けられた扉の先が今の職場だ。
「──ただいま戻りました」
 ノックもせずに扉を開けて、エミリアは部屋の主に声を掛ける。しかし──。
「すこー……すこー……」
 目的の人物は、ソファに寝転んで寝息をたてていた。
 ──テレサ・パラケルスス。
 彼女は現在、このアスタルト王国唯一の錬金術師──ということになっている。

 錬金術とは、神秘を再現する奇跡の力だ。
 創世神話によると、大昔、天に輝く一番星《ニビル》に《神》が降臨した。《神》はこの惑星に人類を作り、そして人類を超越した七名の《天使》を遣わしたのだという。《天使》たちは人知を超えた不思議な力を用いて、人々を正しい道へ導いたと言い伝えられている。
 しかしいつしか《天使》たちもいなくなり、残された人類は互いに争い始め、やがて存亡の危機を迎えつつあった。
 そんな折、今から二千年ほどまえのある日、突如として《神の子》ヘルメス・トリスメギストスが現れた。ヘルメスは、かつての《天使》たちと同じ人知を超えた不思議な力を用いて、人々を導いていった。
 さらにヘルメスは、《神》に至るための《七つの神秘》を人類に授けた。それはヘルメスが操るものと同質の、大気に満ちた不可視のエネルギィ《エーテル》を用いて、科学を超越した神秘を再現する異能だった。
 それから千年以上もの長い年月、人類は神秘の再現に心血を注いできた。やがてエーテルを操作する能力を備えて生まれてくる者が現れると、いよいよ人類は神の領域に手を伸ばすのかと皆色めき立った。
 しかし──それでも神秘の再現には至らなかった。エーテルを操作してできることは、物質の状態や形状に変化を加えることまで。その先に待つ最初の奇跡である《第六神秘・元素変換》──つまり、卑金属を貴金属に変える奇跡はどうしても実現できなかった。
 やはり《七つの神秘》は、《神の子》にのみ許された神の御業なのか。そう人類が半ば諦めかけていたところで、一つの変化が起こった。
 今から百年まえ、何の前触れもなく、ありふれた農村に《第六神秘》を再現する子供が生まれたのだ。人類で初めて神秘の再現に成功した者の名は、アルベルトゥス・マグヌス。彼の者の登場により、神秘には《錬金術》、神秘の体現者には《錬金術師》という名が与えられることになる。
 同時に、それまでエーテル操作を実現していながら神秘の再現には至らなかった技術には《変成術》、その行使者には《変成術師》という名が与えられた。
 一般的には、誰にでも理解しやすいように『鉛を金に変えることができるのが錬金術、できないのが変成術』などと表現される。
 錬金術も変成術も、基本であるエーテル操作能は、生まれついての才能に依存するが、その本質はまったく違う。そして錬金術もまた生まれつきの才能であり、その才をもって生まれなかった変成術師は、どれだけ生涯を掛けて研究を続けたところで、錬金術師にはなり得ない──と言われている。
 さらに錬金術師は、この世界に同時に七名しか存在しないとされており、錬金術師の存在は大国間のパワーバランスにさえ影響を与えるため、政治的にも極めて重要な要素になっている。一つの軍事力としても強力であるが、メルクリウス・カンパニィのように錬金術を使って大儲けすることも可能なので、どの国も皆躍起になって自国に錬金術師を所属させようとあれこれ画策している。特に今は四大国であるアスタルト王国、バアル帝国、ヤム共和国、そして宗教国家シャプシュがそれぞれに一名ずつ錬金術師を擁している状態なので、このタイミングで如何にして他国を出し抜くか、というのは今後の趨勢を左右する重大問題となっている。

 エミリアは改めて、目の前で寝息を立てている人物を見やる。
 テレサ・パラケルススは、その錬金術師の一人であり《人類の至宝》とさえ呼ばれているわけだが──実はその認識が誤りであることを、軍内ではエミリアだけが知っている。
 そもそもテレサは、錬金術師ではない。
 今代の本当の錬金術師は彼女の妹である。しかし、十六年まえ《異端狩り》に巻き込まれて命を落としてしまったため、それ以来、妹の仇を取るために錬金術師を騙っている。錬金術師の詐称は本来であれば極刑に値する重罪だが、そのリスクを覚悟のうえで今こうして国の中枢に潜り込み仇討ちの機会を虎視眈々と狙っているのだった。《異端狩り》とは、その昔社会問題にもなっていた、集団変成術師殺害事件である。
 そして紆余曲折を経て、彼女の迷いのない生き方を知り、その心意気に感化されたため、エミリアはアルカヘストに異動願いを提出した。その判断は、今でも間違いではなかったと思いたいのだが……。こうして勤務時間内だというのに、緊張感なく緩んだ口元から唾液さえ垂らして健やかに眠り続ける上司の姿を見ていると、また決意が揺らぎそうだ。
 温厚なエミリアもさすがに少し腹立たしく思う。
 絹糸のように艶やかな長い黒髪、頬に翳る睫毛、真っ直ぐ通った鼻梁に、花弁のような小さな口唇。そして作りもののように整った顔の下には、男性用の軍服に包まれたスタイルの良い肢体がだらしなく投げ出されていた。胸元を押し上げる双丘が規則的に上下しているところからも、すっかり熟睡してしまっていることが窺える。
 まったく神様は不公平だ、とエミリアは内心毒づく。
 天才的な知性という唯一無二の才能を与えていながら、同時に反則的なまでに美しい外見をも、この不真面目な上官に与えたのだから。
 いい加減我慢の限界だったエミリアは、黙って室内を進みソファの背側に回り込むと、底に手を掛けて容赦なくひっくり返した。
 ぎゃん、という情けない叫び声がソファの下から響く。しばらく経つと、床との隙間からもぞもぞと何かが這い出てきた。
「……びっくりしたぁ……何事だよ……」
「おはようございます、先生」何事もなかったかのように声を掛ける。
「んあ、エミリアちゃん……」床に這いつくばったままエミリアを見上げ、テレサは眩しそうに目を細める。「……何してんの?」
「すみません、先生を起こそうとしたら、手違いでソファをひっくり返してしまいました」
「おっちょこちょいって次元じゃないな! 絶対わざとだろう!」子供のように頬を膨らませてから、のっそりと立ち上がる。「用があるときは優しく起こせといつも言ってるだろう!」
「よだれを垂らして無警戒に眠りこけている女性に触れるのは、王国紳士として如何なものかと思ったので、触れずに起こす方法を模索したら結果的にこうなりました」
「寝ている上官を力業でたたき起こす以外の方法も絶対あったろ!」
「僕の知恵では思い浮かびませんでした、すみません」
 ソファを元に戻しながらエミリアは事務的に答える。文句を言いたげな様子のテレサだったが、これ以上何かを言っても無駄だと察したのか、ふん、と鼻を鳴らすと、再びソファにどかりと腰を落とした。
「──先ほど、昔バアルで密かに行われていた洗脳の人体実験の記録を見つけた。この記録によると、酒や薬品によって被験者を酩酊状態に陥らせ、その間に嘘の情報を刷り込むことで、都合の良いように被験者の思考や思想を操れたらしい。今度、きみを泥酔させて、私をもっと尊敬するよう刷り込んでやろう」
「……やめてください」
 さすがにやり過ぎたかな、と反省したエミリアは、壁際の蒸気湯沸かし器でお湯を沸かすと、手早く二人分の紅茶を淹れて一つをテレサの前に差し出す。
「……相変わらず如才なくて腹立たしいなきみは」憎々しげにエミリアを睨み、テレサは紅茶に口をつける。「……美味いな。許す」
「ありがとうございます」胸をなで下ろしつつ、エミリアものんびりと紅茶を啜る。
 勤務中とは言いつつも、基本的に彼らに仕事らしい仕事はない。
 エミリアがアルカヘストに入ったばかりの頃は、散らかり放題だった部屋の片付けや、溜まり放題だった書類整理などで忙殺されていたが、ここ最近はそれらも一通りの片が付いてずいぶんと暇になってしまった。
 言ってしまえばこのアルカヘストというのは、錬金術師を軍に所属させておくだけの閑職なのである。もちろん、表向きには神秘の探求という目的もあるが、今のところ成果らしい成果もない。
「──《第五神秘・エーテル物質化》の研究のほうはどんな感じですか?」
「大きな進展はないな」テレサはお茶請けのクッキーを頬張りながらぞんざいに答える。「こんなことならメルクリウス本社へ行ったとき、フェルディナント三世にもっと詳しく話を聞いておくべきだったなあ」
 口惜しそうにテレサは虚空を睨みつける。
 フェルディナント三世は、メルクリウス・カンパニィの顧問錬金術師だ。世界で唯一、彼だけが到達した《第五神秘・エーテル物質化》。その技術により次世代エネルギィ資源《エーテライト》が生まれ、その結果、蒸気機関が進化して世界的な産業革命が興った。
 テレサとエミリアは、メルクリウス・カンパニィ本社へ赴いた際、少しだけフェルディナント三世と話をしているのだが、そのときは《第五神秘》を超越したさらなる神秘を見せつけられて、《エーテル物質化》のことを話す余裕はなかったのだった。
 その後メルクリウスの社長の命を受けた顧問変成術師のレイラ・トライアンフという女性に殺されかけるなど、色々印象的な出来事が多かったせいで意識にも上らなかったが、考えてみればかなり惜しいことをしたのかもしれない。
 いずれにせよ《第五神秘》の再現は、目下の最重要課題であり、世界中が着目している錬金術的問題なのである。
 テレサは難しい顔のまま続ける。
「《七つの神秘》が各神秘を段階的に進んでいくしかない以上、《第五神秘》の解明は必ず通らなければならない道だ。そしてこれまでだって、世界中の錬金術師が《第六神秘・元素変換》の次なる目標として最優先で研究を続けてきた。だが、マグヌスが《第六神秘》を再現し、錬金術という言葉が生まれて百年が経過しようとしているのに、未だフェルディナント三世以外、公的に《第五神秘》の再現に成功した者がいない」
 つまり、それほどの難題ということか。エミリアは改めて問題の困難さを実感する。
「きみのほうはどうなんだ? 何か進展はないか?」
 水を向けられて戸惑うが、エミリアは正直に答える。
「……すみません。今のところは何も」
 申し訳なく思いながら、エミリアは目を伏せて紅茶を啜った。
 テレサが錬金術師の詐称という秘密を持っているように、エミリアもまたテレサ以外の誰にも言っていない秘密を抱えている。
 実は彼は──世界初の後天的な錬金術師である。
 本名をエマ・ローゼンクロイツといい、彼は没落した変成術の名家ローゼンクロイツ家の生き残りなのだ。ローゼンクロイツ家は、変成術の研究だけでなくその先──つまり、変成術師が錬金術師となる方法についても深く研究を続ける一族だった。
 本来、錬金術師として生まれなかった者が後天的に錬金術師となることは、世界の理に反するためあり得ない。だが、長年の研究と彼自身の血の滲むような努力の結果、奇跡的にエミリアは錬金術師となったのである。元来ローゼンクロイツは、女性を家長とする一族であるため、秘伝継承者には『エミリア』、そして悲願である《第六神秘》に到達した者には『エマ』という名が称号のように与えられることになっていた。
 エミリアが男性でありながら女性名を付けられたのも、そういった事情からだ。もっとも、母から譲り受けた名を捨てることができなかったため、彼は未だに『エミリア』を名乗り続けているのだが。
 彼の母は─テレサの妹と同様《異端狩り》によって殺された。そしてその《異端狩り》を裏で操っていたのは、ゾシモス・オアンネスという流浪の錬金術師だった。
 共通の敵を持つエミリアとテレサは、互いの秘密を守るため、引いては最愛の人の仇討ちをするために、二人でアルカヘストを運営し、情報を集めることにしたのである。
「──焦っても仕方ない。のんびりやろう」テレサはエミリアを労うように肩をすくめる。
「しかし、軍上層部が目の上のたんこぶであるアルカヘストに最後の期待を寄せているのが《第五神秘》の再現です。これがもし、他国に先を越されてしまったら、今度こそ本当にアルカヘストはおしまいです」
「それはわかってるけどさあ……」テレサも気まずそうに視線を逸らす。
 先ほどイーサンにも釘を刺されたが、現在アルカヘストはかなり危機的な状況に置かれている。このままでは、仇を探すという肝心の目的を果たせなくなる可能性が高い。
 しかし、焦ったところでどうなるものでもない。おかげでエミリアは何とも言えない切迫感に追われるようにここ数日を過ごしている。テレサも同じような心持ちだろう。
「そもそもエーテルの本質がわからないのが問題だ」テレサはおもむろに足を組んでから、人差し指を立てる。「エーテルを物質化するためには、まずエーテルそのものを理解、分析しなければならない。だがエーテルに関して現状我々が知っていることは、大気に満ちる不可視のエネルギィ体であること、そしてそれが、何らかの超常的な力を媒介して錬金術や変成術を実現するという二点だけだ。この理解は、少なくともこの二千年の間、ほとんど変わっていない。だが──そんなことがありえると思うか?」
 不意に問われて、エミリアは閉口する。冷静に考えてみれば、奇妙な状況であるように思える。変成術師や錬金術師は、一般人と比較しても知能が高い人が多い。おそらくエーテル操作能に長けた人はその分、脳の処理速度にも優れている、ということなのだろう。
 そんな優れた頭脳集団が、二千年もの間、関連研究を続けているにもかかわらず、エーテルの本質にすら至れていないというのは不自然だ。
「つまり、我々は何か根本的な部分を見落としていると?」
「あるいは、基礎の部分で致命的な間違いを犯している──とかね」
 そう言ってテレサは、ろうそくの火を消すように、立てた人差し指に息を吹きかけた。
「いずれにせよ、他国だって状況的にはウチと同じようなものだろう。そう易々と先んじられるようなことはないはずだ。焦る気持ちもわからんでもないが、焦ったところでどうにもならないのだから、もっと泰然と構えてろ」
「そうは言われても……」真面目なエミリアは、テレサの言葉を受け入れられない。「なら、どうにかして《第五神秘》を飛ばして一気に《第四神秘》を解明してしまうというのはどうです?」
「それこそ不可能だろう」テレサはこれ見よがしのため息を吐く。「《エメラルド板》に示された《七つの神秘》は、《第六神秘・元素変換》から順に、一段ずつ上り詰めていかなければならない。つまり、階層を飛ばして上位の神秘をいきなり再現することは不可能ということだ。何故だかわかるか?」
「そういえば……何故でしょうね?」エミリアは首を傾げる。
「それはね、下位の神秘が上位の神秘を再現するために必須となるからだ」
 テレサは興が乗ってきたように人差し指を回す。
「ヘルメスがわざわざ段階的に提示したのだからそう考えるのが自然だろう。だから、《エーテル物質化》には必ず《元素変換》が絡んでくるだろうし、《魂の解明》には《エーテル物質化》が絡んでくる──はずだ。未だ人類が《第五神秘》を超えられていない手前、何を言っても仮説でしかないがね」
 確証はないが、その仮説は理に適っているようにエミリアは感じる。
「大体そうじゃなきゃ、この二千年の間に誰かしらが《賢者の石》くらい作ってるだろう。水銀と硫黄と神霊(プネウマ)を混合してアタノールで加熱すると、《エメラルド板》にその製法が記されているのだから」
《賢者の石》──それは、《第三神秘》に予見される万能の結晶体だ。《完全実体》《ニビルの石》とも呼ばれる。エネルギィを自在に操り、不老不死を実現させ、果ては無から有を作り出すことすらも可能とする、伝説上の存在──。
 確かにテレサの言うとおりだ。人類には初めからすべての答えが《エメラルド板》として提示されているのだから、それが実現できないということは、技術的な問題があると考えるしかない。
「理解してもらえたかな? だから、エーテルの本質がまだ解明されていない以上、それほど焦る必要もないのだ。無論、先を見越して生体錬金術や《賢者の石》について勉強しておくのも決して悪いことではないけどね」
 テレサの言葉に納得しつつも、エミリアは一つの疑問を抱く。
「そういえば以前、テオセベイア・ルベドが《第四神秘・魂の解明》に一番近い、みたいなこと言ってませんでしたっけ?」
 メルクリウスの一件の際、テレサがそのようなことを言っていたことを思い出す。
 テオセベイアは、世界最大の宗教勢力セフィラ教会の総本山、宗教国家シャプシュの代表をしている錬金術師だ。《無極転生者》と呼ばれる特殊な存在で、死後も記憶を保ったままセフィラ教会関係者の元に転生できると言われている。
「ああ……うん、まあ、そうだね」テレサは妙に歯切れ悪く頷いた。「確かにテオセベイアの《無極転生》は、擬似的な不老不死の再現であり、それにより彼女は、《第四神秘》、さらには《第三神秘・賢者の石の錬成》に最も近い存在であると言われている。だが、それは別に上位神秘の研究を進めているから、という理由じゃない。単純に、彼女の存在そのものが、上位神秘解明に直結している可能性があるからだ」
「どういうことです?」
「普通、人の《魂》は死後、《魂の座》である《アプス》に還り、やがて再びこの世界に別人として生を受けることで戻ってくると言われているだろう?」
「はい」
 セフィラ教会が提唱する一般的な死生観だ。《魂》自体は消えることなく、この世と《アプス》を巡り続ける。ただし、その都度前回の生の情報は失われてしまうため、記憶を持ち越すことは不可能であると言われている。
「だが、テオセベイアだけがその生死のサイクルの中で特異的だ。つまり、《アプス》に戻っても《魂》に刻まれた情報が削除されない何らかの理由があるわけだ。その理由が判明すれば、《魂の解明》にも確実に近づく。さらには彼女の擬似的な不老不死は《賢者の石》にも通じるものがある。まったくの無関係ということはないだろうから、《第三神秘》の再現にも一役買いそうだ。だからテオセベイアは、他の錬金術師よりも優位な立場にあるわけだね。無論、教会上層部も彼女の重要性を再認識して、今代のテオセベイアは教会最奥から外へ出してもらえないようだけどね」
 テオセベイアは、十六年まえ《異端狩り》によって殺されてしまったと聞く。今代の、ということはつまりその後無事に転生を果たしたということか。記憶を持ったまま転生するというのは、常識的な思考を持つエミリアにはにわかに信じがたい。
 それからテレサは、残っていた紅茶を一気に呷って話題を変える。
「それよりこういうときは気持ちを切り替えるのが大事だぞ! どうせ夜は暇だろう? 特別に奢ってやるから飲みに行こう!」
「……またですか」エミリアは些か辟易する。「一昨日行ったばかりじゃないですか」
「何なら毎日でもいいくらいだ! むしろきみの財布事情を鑑みて毎日誘わないだけでも、私の優しさに打ち震えてほしいものだね!」
「はいはい」いい加減テレサの扱いにも慣れてきたので、こういうときは下手に逆らわないに限る。「わかりましたよ、付き合いますから今日も大人しく仕事してください」
「仕事って言ってもなあ」テレサは退屈そうに大あくびをする。「どうせ大してやることなんかないんだから、今日はさっさと店じまいしてそのまま飲みに──」
 そこで不自然にテレサは言葉を切る。彼女の顔を見ると、驚いたように目を見開いて入口のほうを見つめている。視線の先が気になってエミリアは振り返り──そして固まる。
「──勤務中に酒宴の話とは、ずいぶんと羽振りが良さそうだな」
 扉の前に立っていた人物。
 それは、彼らの上官であり軍務省情報局トップでもある、ヘンリィ・ヴァーヴィル局長であった。

4

「──古狸がこんな穴蔵に顔を出すとは珍しい。だが、ここは関係者以外入室禁止の聖域だ。あと個人的にヒゲの生えたおやじの入室も禁じている。さっさと出て行きたまえ」
 ヘンリィを視野に収めた瞬間、バネのように素早く立ち上がって敬礼をするエミリアを余所に、テレサは座ったまま傲岸不遜に応じる。ヘンリィ・ヴァーヴィルといえば軍内では誰もが認める有力者だ。そんな大人物を前にして何故いつもどおりの軽口が叩けるのか。やはり頭がおかしいのかもしれない。
「相変わらずの様子だな、ホーエンハイム」渋面を浮かべるヘンリィ。
「……私をその名で呼んで良いのは身内だけだ」
 テレサは牙を剥くほどの勢いでヘンリィを睨みつける。
 ホーエンハイムとはテレサの真名であり、本名をテレサフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイムという。テレサ・パラケルススというのは、仕事用の名義のようなものだ。
 エミリアならば反射的に謝ってしまいそうなほど殺気のこもったテレサの眼力も、百戦錬磨のヘンリィには大して効果がなかったようだ。まるで何事もなかったようにエミリアに向き直り、穏やかに語りかける。
「やあエミリア。少し邪魔をさせてもらって良いだろうか」
「し、失礼いたしました! どうぞこちらへ!」
 慌てて敬礼を解き、エミリアはヘンリィを室内へ招き入れる。来客用のソファに彼を誘い、急いで紅茶を給仕する。
 テレサは面白くなさそうにそれを眺めていたが、さすがにヘンリィを追い出すわけにはいかないと思える程度に分別はあるらしく、押し黙ってじっとしていた。
「突然押しかけてすまなかったね」
 エミリアがソファに腰を下ろしたところで、ヘンリィは語り始める。
「本当はスケジュールを調整してから声を掛けようと思ったのだが、少々急を要することでね。申し訳ないとは思ったが、こうして直接足を運ばせてもらった次第だ」
「な、何か問題でも……?」
 アルカヘストの解体が正式に決定したのか、とエミリアは、最悪の事態を想定する。
「まあ、問題といえば問題だな」思わせぶりに呟いて、ヘンリィは紅茶を啜る。「実はきみたちに内密に頼みたいことがある」
「──我々は小間使いではないのだ。不穏当なことには巻き込まないでもらいたいね」
「知ってのとおり、きみたちアルカヘストは、軍内のお荷物だ」テレサの不平を無視してヘンリィは淡々と語る。「多くの人間がここを早く潰したくてうずうずしているところ、私が手を回しているおかげでかろうじて存続できているのだ。感謝しろとまでは言わないが、もう少し自分たちの立場を自覚してほしいものだね」
「……神秘否定派の狸が、何を企んでいる?」
「企むなんて人聞きの悪い。私はただエミリアの経歴に傷をつけたくないだけだ。ここを潰したあと、エミリアは私が引き取るのだから」
 ヘンリィははっきりと、いずれアルカヘストを潰すと言ってのける。忘れかけていたが、彼は元々、テレサを軍から追い出すつもりで色々と画策していたのだ。錬金術をはじめとした神秘全般を不確実なものだと嫌っているらしい。
 再び紅茶を啜ってから、さて──、とヘンリィは話題を戻す。
「時間が惜しいので、早速本題に入ろうか」手にしていたカップをテーブルに戻し、わずかに声を落とす。「──きみたちには《水銀塔》の調査に向かってもらいたい」
 意外な言葉に、エミリアは眉をひそめる。
 この広大なバビロニア大陸を治める二大国家、アスタルト王国とバアル帝国を南北に分かつ巨大河川であるイディギナ川。その最大川幅を誇る地点にぽつんと存在する中州に、水銀塔はひっそりと屹立している。
 高さ五十メートルほどのこの不可思議な塔は、外壁が液体水銀で覆われているため水銀塔と呼ばれていた。
 詳細は不明だが、二千年まえに《神の子》ヘルメス・トリスメギストスが錬金術を用いて建造したものらしい。当時バビロニア大陸は一つの巨大な超国家が治めていたため何も問題はなかったのだが、それから数百年が経過してイディギナ川を挟んで国家が二分されると、国境上の緩衝地帯に位置するということで、当然どちらの領土とするかで揉めた。
 そのため、両国の諍いの芽を摘むために中立的な立場である宗教国家シャプシュがこの一帯を管理することになったらしい。水銀塔は、《虹の都》《金剛洞穴》などとともにセフィラ教会七大聖地の一つに数えられている。
「──どうして今さら水銀塔の名前が出てきたのか、詳しく教えてもらおうか」
 ようやく話に興味を持ったらしいテレサが不満そうに腕組みをしながら尋ねた。
「結論から言うと、バアルが水銀塔を狙っているからだ」ヘンリィは淡々と答える。「順を追って説明しよう。先のメルクリウス・カンパニィの騒動以降、世界中で《第五神秘》再現の機運が再び高まってきたのは、きみたちもよく知るところだろう」
 テレサと顔を見合わせてから、気まずく思いつつエミリアは頷く。先ほどイーサンとの話題にも出たメルクリウス凋落の余波、というやつだろう。
「水上蒸気都市トリスメギストスにおいて独立自治を認めていたとはいえ、メルクリウスは、実質的には我が国に属している。言い換えるなら、彼らが占有していた《第五神秘》もまた我々王国の財産ということになる。だからそれが今後、国外で再現されるというのは面白くない。そこで公安に、各国の《第五神秘》再現状況を内密に調べさせていた」
 ヘンリィは紅茶で口を潤して続ける。
「そんな折、水銀塔に関する奇妙な噂を耳にしてね。何でも水銀塔のどこかに《マグヌスの遺産》と呼ばれるものが隠されており、どうやらそれは《第五神秘》再現の重要な手がかりになっている可能性が高いそうだ」
 マグヌスの遺産、という言葉を、エミリアは初めて聞いた。
 錬金術の世界においてマグヌスと言ったらそれは、《始まりの錬金術師》であるアルベルトゥス・マグヌスを指す。彼の偉業を讃え、錬金術行使時の可視光発散現象には《マグヌス・オプス放射光》という名前が付けられているほどだ。
 だが、この状況で何故マグヌスの名前が出てくるのかわからない。助けを求めるようにテレサに視線を向けると、彼女は難しそうな顔であごに手を添えて呟いた。
「あまり一般的には知られていないが、マグヌスはその晩年、水銀塔を拠点として生活していたらしい。彼は錬金術師であると同時に敬虔なセフィラ教会信徒だったからな。司教として七大聖地の一つである水銀塔を管理していたそうだ。だから水銀塔にマグヌスの遺産がある、というのは十分に可能性のあることだと思う」
 テレサは顔を上げて、ヘンリィを見やる。
「しかし、それが《第五神秘》再現の手がかりに繋がるというのが解せない。よくある信徒集めのために、過去の聖人を祭り上げる妄言なのでは?」
「その可能性は否定できない。が、セフィラ教会が当時の資料を整理していたら、マグヌスが晩年《第五神秘》再現に成功していた、という記述を見つけたらしい。眉唾ものではあるが、少なくとも教会はそれを信憑性の高い情報と見なして動き出しているし、同様にどこから漏れ聞いたのか、バアル帝国もまた水銀塔への調査準備を進めているようだ。これらは信頼の置ける情報筋からのものなので、ほぼ事実としていいだろう」
 なるほど、とエミリアはそこで合点がいく。イーサンが情報局と公安局の共同任務と言っていたのは、このことだったようだ。そして先ほど情報を受け取ったヘンリィが、緊急性を考慮して早速アルカヘストにこの話を持ちかけてきた、というところか。
 視線のわずかな揺れだけでエミリアが事情を察したことに気づいたようで、ヘンリィは満足そうに微笑む。
「そこできみたちには可及的速やかに噂の真偽を探ってきてほしいというわけだ。真実であれば、マグヌスの遺産とやらを余所へ渡すわけにはいかないし、嘘ならばそれはそれで構わない。いずれにせよ、これは失敗しない限りアルカヘストの実績になる任務だ。私としてもそろそろ何らかの実際的な成果がなければ、ここを庇いきれないのでね」
 そうだろう? とあくまでも余裕の表情でヘンリィは腕を広げる。
「……ちなみに断ったらどうなる?」テレサは悔しそうに顔を歪めて尋ねる。
「本日をもってアルカヘストは解体。エミリア・シュヴァルツデルフィーネ少尉はそのまま情報局預かりに、テレサ・パラケルスス大佐は不敬罪と背任罪の容疑で軍法会議に掛けられる。もちろん──そんな愚かな選択はとらないだろう? パラケルスス大佐?」
 狡猾な笑みを浮かべるヘンリィ。
 早々に逃げ道を封じられたテレサは、項垂れて、ただ一言呟いた。
「──地獄へ落ちろ」

第2章 榛色の再会

1

 アスタルト王国側の川岸から船を渡してもらって、エミリアたちはようやく水銀塔のそびえる中州に足を踏み入れる。中州は小高い丘のようになっており、水銀塔はその頂上に立っていた。早朝に王都エテメンアンキを出発して六時間以上が経過している。さすがのエミリアも疲労困憊だ。
 改めて、間近で水銀塔を見上げる。
 遠目に見たときは光り輝く神秘的な塔という印象だったが、目前で見上げる水銀塔は、異様と形容するしかない不気味な巨大建造物であった。高さは五十メートル以上、幅も二十メートルはありそうだ。
 水銀の外壁は、不規則に光を反射してぬらぬらと波打っている。それがまるで巨大な蛇の鱗のようにも見え、正直気持ちが悪い。
 そもそも垂直方向に対して液体が揺蕩っている様子が、あまりにも非常識であり、生理的にも受け入れ難い。じっと見ていたら鳥肌まで立ってきた。
「……なんかこうして見ると、気味が悪いですね」
「……気味悪いどころか私は気分がすこぶる悪いよ」青白い顔でテレサは呻く。「何でもいいから早く中で休ませてもらおう……私はもうダメだ……」
 エミリアの肩を支えにしてかろうじて立っていたテレサは、その場にずるずるとへたり込んでしまう。さすがに少し休ませたほうが良さそうだと感じて、エミリアは慌てて辺りを見回して入口を探す。
 しかし、塔の表面は継ぎ目一つなくなめらかで、どうやって中へ入ればいいのかもわからない。念のためぐるりと周囲も見て回ったが、円柱状の塔はどこも変わらず均質に水銀で満たされている。どうすれば良いのか見当もつかない。見上げると、空は暗黒を煮詰めたような曇天。いつも王国民を見守ってくれている《ニビル》の姿も窺えず、いよいよいつ雨が降り始めてもおかしくはない。
 テレサがへたり込んでいるところまで戻り、どうしたものかと途方に暮れていると──突然、目の前の壁面が左右に開き始め、ぽっかりと入口が現れた。
 そして中からゆっくりと歩み出てくる一つの影。
「──ようこそ、聖地《水銀塔》へ。あなた方敬虔な巡礼者を心より歓迎いたします」
 質素ながら仕立ての良い祭服に身を包んだ白髪の女性は、エミリアたちの前で立ち止まると、柔和に微笑んだ。その尋常ならざる気配に、エミリアは圧倒されて言葉を呑む。
 老境に至るような見事なまでの白髪だが──実年齢は二十代後半くらいだろう。コバルトのように蒼く澄んだ瞳から、確たる知性の光が窺えるとても美しい女性だった。
「水銀塔の管理者をしております、ソフィア・アシュトン司教です。険しい道のりを、お二人ともよく頑張りましたね。主もあなた方の来訪と信仰を、お喜びになっております」
 エミリアたちを受け入れるように、女性──ソフィアは両腕を広げて語る。溢れんばかりの愛で人々を包み込む、さながら聖人のような女性だった。普段、どうしようもなく自堕落な女性の世話をしていることもあり、エミリアはこれほど清らかな人間が存在したのかと、ある種の感動すら覚える。
 そこでふと我に返る。とにかくまずはテレサを休ませなければならない。
「丁寧な歓待、感謝いたします、アシュトン司教。早速で申し訳ないのですが、実はこちらの女性が体調を崩していて──」
 エミリアがテレサのことを説明しようとしたまさにそのとき、それまで地面にへたり込んでいたテレサが、突然すごい勢いで飛び出してソフィアの足下に屈み込んだ。
「──お初にお目に掛かります、司教様。私のように愚鈍で怠惰な人間をお導きくださったこと、心より感謝申し上げます。巡礼によりわずかなりとも徳を積もうと不敬な考えを抱いて参りましたが、司教様のお姿を拝見した瞬間、そのような不埒な思考は霧散いたしました。司教様こそまさしく信仰の現し身。神々しいまでに美しい司教様とは対照的に、私はこの穢れに満ちた身を恥じるばかりでございます」
 声すら震わせて、テレサは感情的に熱く語る。どうやら先ほどまでの体調不良は、美女を見た瞬間どこかへ吹き飛んでいったらしい。よくもまあ、そんな次から次へと口から出任せが出るものだとエミリアは呆れるが、テレサの態度に心打たれたように、ソフィアは項垂れるテレサを優しく抱きしめる。
「お顔を上げてください。どうやら正しき道を見出されたようですね。誤りを正すことに遅いということはありません。どうかその身を卑下することなく、強き誇りと自信を胸に、これからの信仰の道を歩んでください」
「司教様!」
 感極まったように叫び、テレサはソフィアに抱きつく。美女の胸に飛び込んできっと今頃、陶酔に緩んだ顔か、あるいはとてつもなく邪悪な顔をしていることだろう。美女と酒に目がない利己主義の極致にいるテレサ・パラケルススという女性は、おそらく世界で最も信仰から遠い人間に違いない。
 それからソフィアは、テレサの手を引いて彼女を立ち上がらせる。
「お疲れでしょう、お入りになってください。普段、あまり人がお見えになることがないので、こうしてたくさんの方にいらしていただけるのは、賑やかで嬉しいですね」
 柔和に笑ってそう言うと、ソフィアは塔の中へ向かって歩き始める。しかし──。
「あうっ!」
 数歩歩いたところで、彼女は盛大に転んだ。
「お怪我はありませんか、司教様!」
 慌ててテレサとエミリアはソフィアに駆け寄る。綺麗に地面に伸びたソフィアは、エミリアたちを見やり、照れたように頬を染める。
「……いえ、私は大丈夫です。それより、お二人とも中へ」
 エミリアたちはソフィアに手を貸してそっと立ち上がらせる。体重はほとんど感じられなかった。そのどこか超然とした外見も相まって、この世の存在ではないのかもしれない、とエミリアはバカなことを考える。
 数歩進み、三人が塔内に入ったところで扉は自動的に閉じていった。後には、継ぎ目すらない水銀が揺らめいているばかりだ。
「あ、ソフィア様!」
 中に入るや否や、鋭い声が飛んでくる。声のほうへ視線を向けると、ゆったりとした修道服に身を包んだ小柄な少年が立っていた。年の頃は、十二、三歳だろうか。短い金髪のクセっ毛が愛らしい、少女と見紛うほどの美少年だった。少年はソフィアに駆け寄る。
「お一人で外へ出られたのですか! 危ないので来客の出迎えはいつも私が代わりますと言っているでしょう!」
「外と言ってもすぐそこです。まったくアルフレッドは心配性ですね」
「あなたは何もない道端でも転ぶのですから、心配するに決まっているでしょう!」
「人のことを粗忽者みたいに言わないでください」
「何もない道端で転ぶ人は粗忽者でしょう」
「確かに」
 コロコロと楽しそうに笑ってから、ソフィアはテレサたちに向き直る。
「──お見苦しいところをお見せしました。こちらは、アルフレッド。この水銀塔で修道士をしてもらっています。ちょうど良いところで会いました。アルフレッド、こちらのお二人にお部屋のご用意を。エリザにも伝えて」
「──かしこまりました」
 アルフレッドと呼ばれた少年は、恭しく頭を下げると早々に去って行った。小さな背中を見送ってから、改めて視線を巡らせる。
 ようやく足を踏み入れた水銀塔の内部は、想像どおり奇妙なものだった。
 内部の壁もまた水銀でできているようで、ゆらゆらと四方様々な角度からエミリアたちの姿を反射していた。入ってすぐの正面に、弧を描くような凸型鏡面の壁が見える。内部もまた円柱の構造をしているのだろうか。自分たちの動きに呼応して蠢く巨大な鏡像の姿は、まるで化け物に監視されているようで落ち着かない。
 床には、モスグリーンの絨毯が敷かれている。上を見上げると、天井はかなり高い。四、五メートルはあるだろうか。床同様に天井も鏡面加工されていない、ごく一般的な白塗りのものだった。見慣れたものを見ると少し安心してしまう。
 自分の小心さに呆れつつ、エミリアは尋ねる。
「あの、こういうことを伺うのは失礼であると重々承知しているのですが……この建物の内部は安全なのでしょうか?」
「安全、とは?」ソフィアは不思議そうに首を傾げる。
 透きとおった、子供のように純粋な瞳に見つめられると、己の卑小さに赤面しそうになるが、平静を装ってエミリアは続ける。
「その……にわか知識で恐縮なのですが、元々水銀は、生物の神経系に重篤なダメージを与える猛毒です。中でも深刻なものは中枢毒性であり、神経細胞が破壊されるため、運動機能や認知機能に障害を与えると言われています。さらに常温でも容易に気化するので扱いが難しく、また気化したものは通常の金属状態よりも数倍毒性が高まります。水銀に囲まれているこの建物は、素人目にはとても危険なもののように思えるのですが……」
 宗教家の化学に対する温度感がわからなかったので、エミリアは言葉を選び、極力相手が傷つかないよう注意を払う。しかし、特に気分を害した様子もなくソフィアは笑った。
「確かに。それは当然の疑問ですね。──どうぞこちらへ」
 ソフィアに導かれるように、エミリアたちは水銀の壁の前に立つ。近くで見るとより鮮明に自分の姿を像に結ぶ。ただし緩やかな凸面なので横に引き延ばされて少し滑稽だ。
「見ていてくださいね」
 ソフィアはゆっくりと手を伸ばしていき、鏡面に触れる。彼女が触れた部分は、手の形に反発しながら沈み込んでいた。ただの液体に触れたときとは明らかに異なる光景。
 エミリアも鏡面に触れてみる。柔らかな抵抗感を伴いながら、ゆっくりと手が沈んでいく。まるでこねたてのパン生地を押しているような不思議な感覚だ。
 一見すると液体でありながら、その境界は明らかに固体であった。
「へえ……これは面白いな」躊躇なく両手を鏡面に突っ込みながら、興味深そうにテレサが唸る。「液体の特性を保ちながら、本質的には固体として振る舞っているのか。ガラスと似たようなイメージかな」
「ガラスですか?」水銀の壁に触れながらエミリアが尋ねる。
「ガラスは、一見すると固体だがわずかに液体としての性質を持っているのだ。だから古いステンドグラスなんかは、下のほうが少しずつ分厚くなっていく。非晶質と言ってな、特定の結晶構造を持たないために、液体と固体の中間のような振る舞いをするのだ。おそらくこの水銀塔を建てたヘルメスは、水銀を非晶質のように加工したのだろう。分子の自由度が制限されているから気化もしないし、当然、水銀原子が人体へ移行して毒性を示すこともない。念を入れて、人体へ移行しないよう表面をエーテルでコーティングしてあるようだしね。本来錬金術において、水銀の加工というのは非常に難しい技術なのだが、それをいとも容易く、おまけにこれだけ膨大な規模で実現してしまうのだから、さすがは《神の子》というところだな」
 つい興奮していつもの調子で喋ってしまったことに気づいたのか、テレサはばつが悪そうに言い繕う。
「素人が失礼いたしました、司教様。錬金術に少々興味がありまして……」
「いえ、良いのですよ」ソフィアは柔らかく笑う。「むしろ好奇心と向上心があって素晴らしいことだと思います。私も見習ってもう少し勉強しなければなりませんね」
 ソフィアは水銀の壁から手を放し、壁面に添うように少しだけ横に移動する。するとちょうど胸くらいの高さの壁面に、そこだけ水銀ではない部分があることに気がつく。よく見ると小さな機械のようなものが埋め込まれている。エミリアは似たようなものに見覚えがあった。数カ月まえにメルクリウス本社の地下で見た、扉開閉用のパネルだ。
 ソフィアはパネルに右手を押しつける。すると突然、エミリアたちの前の壁面の一部が横にスライドして、その先に新たな通路が現れた。
「──形に囚われない液体としての性質を利用して、壁を扉にしているのか」
 驚いたようにテレサが呟く。ええ、と誇らしげにソフィアは頷いた。
「マグヌス様が遺された素晴らしい技術です。この水銀塔には所謂目に見える『扉』というものは存在しません。各所にこのようなパネルがございますので、手を押し当てていただければ、そこに扉が出現します。扉は自動的にまた閉じていきますのでご安心を。一階は共用スペースなので、どこでも自由に扉を開けられますが、二階から上はすべてプライベートスペースになっており、割り当てられた部屋のパネルしか反応しません。後ほどお二人にも、お部屋の認証を行っていただきますのでご協力をお願いいたします」
 ソフィアは再び歩き出す。エミリアも興味深く周囲を観察しながらそれに続く。揺らめく鏡面に突如現れた二メートル四方程度の入口は、あまりにも非現実的だった。壁面がスライドした、というよりは『流れていった』というイメージのほうが正しい。おそらく壁面の水銀の全体量は変わらず、引き潮のようにこの通路に面した部分だけ、水銀が他所へ引いていったのだろう。壁が存在した床の部分には、水銀が満たされている。壁の厚さは二十センチといったところか。
 入口から三メートルほど進んだ先には、また同じように凸曲面の水銀の壁が立ちはだかっていた。先ほど同様、ソフィアは脇に設置してあるパネルに手を当てる。すると再び、壁の一部が変形していき、入口が現れた。その先には、大きな空間が広がっていた。
「こちらがラウンジとなります。段差があるので気をつけてくださいね」
 十センチほどの段差を、ソフィアはテレサの手を借りて降りる。足音がわずかに変わる。床材は煉瓦のようだ。
 そこは直径十メートルほどの円形の空間になっていた。吹き抜けになっており、上は塔の最上部であろうガラス張りの天井が覗いている。周りは、水銀の壁面により円形に囲まれていた。
 何となくだが、エミリアはこの建物の構造がわかってきた。おそらく水銀塔は、外から見える外壁と、その一つ内側の内壁、そしてこの中心壁という三つの水銀円筒で構成されているのだろう。
 一見して不可思議な建造物である水銀塔は、内部構造まで徹底して奇妙だった。
 半面、ラウンジは、周囲を取り囲むように花の咲いた鉢植えが目一杯並べられ、とても華やかだった。これまでの殺風景なイメージとは明らかに異なり、憩いの場という印象に落ち着いている。中央には、大人数が利用できる長テーブルが置かれていた。
「驚かれたでしょう?」ソフィアは得意げに微笑む。「このラウンジには、お日様の光が常に降り注ぐので、植物の育成に最適なのですよ」
「ほう……これは見事ですね」植木鉢に歩み寄り、テレサは感心の声を上げる。「チューリップにカーネーション、ヒヤシンスにアネモネと華美な花が多いですね。天井から入った光が、周囲の鏡面に反射して床まで降り注ぐことに加えて、ちょっとした温室のようにもなっているのでしょうか」
「ええ、しかも陽光を適度に調整できるので、様々な季節の植物を同時に育成できるのです。ここは私のような園芸趣味の者には、天国のようなところです」
 満足そうに微笑んでから、ソフィアはエミリアたちをテーブルに誘う。
「どうぞお掛けになってください。長旅でお疲れでしょう。今紅茶を淹れますね」
 ソフィアは、嬉しそうにテーブルの一端に置かれていたティーセットに手を伸ばす。
「司教様! どうかお気遣いなく!」
 慌ててテレサは止めようとするが、やんわりとソフィアに断られる。
「いえ、何もないところなのでお茶くらいはおもてなしさせてください。なかなか外の方とお会いする機会がないので、私も嬉しいのです」
「ここは七大聖地の一つですよね? 巡礼者の方がたくさんいらっしゃるのではないのですか?」言葉に気をつけながらエミリアは尋ねる。
「いえ、実はあまり……ご存じのようにここは僻地にありますし、何よりも二大国の国境に位置し、政治的にも少々複雑な問題を抱えておりますので」
 特に今は、メルクリウスの件で両国の関係が緊張状態にあるためなおさらなのだろう。
 どこか愁嘆を感じさせる声でソフィアは答えるが、すぐに明るさを取り戻して続ける。
「ですが今は、これまでにないほど水銀塔も賑わっていて、とても嬉しく思います」
「そういえば先ほども、たくさんの人がいる、というお話をされていましたね。我々の他にも来訪者がいるのですか?」
 さりげなく手伝いをしながらテレサが尋ねると、ソフィアは、ええ、と頷く。
「あなた方のほかにも巡礼者の方や、バアル帝国の軍人さんなどがいらしています」
 バアル帝国の軍人、というところで、テレサは一瞬顔を引きつらせる。このタイミングでの水銀塔来訪。間違いなく、先方も目的はマグヌスの遺産だろう。どうやら恐れていたとおり、アスタルトとバアルによる本格的な《第五神秘》争奪戦に発展しそうだ。
 エミリアは、テレサと顔を見合わせる。こうなってはもう身分を隠すことに意味はない。彼女も渋々といった様子で頷いた。
「──司教様。実は、我々は巡礼のためにここへ参ったわけではないのです」
 テレサが言いにくそうだったので、代わりにエミリアが真の目的を告げる。
「我々は、アスタルト王国の軍人です。こちらは国家安全錬金術対策室のテレサ・パラケルスス大佐。私は部下のエミリア・シュヴァルツデルフィーネ少尉と申します。このたびはこちらの水銀塔に、アスタルト王国の安全を脅かす、ある錬金術的遺物が存在する可能性があるとの情報が寄せられましたので、査察に参りました」
 水銀塔や中州を宗教国家シャプシュが管理することになっても、イディギナ川という国境に位置する以上、緩衝地帯とはいえここはアスタルト王国の領土だ。ゆえにこの聖地、水銀塔にも事前通告なく査察に入る権利を持つ。
 ただしそれはあくまで建前上の話。実質的には、シャプシュの管理地へ王国軍人が乗り込んでいくというだけの話であり、その無神経な横暴さにはエミリアも胸が痛む。
「──自己紹介が遅れてしまったことは、心よりお詫び申し上げます」テレサはソフィアの手を取って謝罪する。「ただ、司教様を謀る意図があったわけではないことだけはご理解ください。少しその、タイミングを逸してしまいまして……」
「……そう、でしたか」少し残念そうにソフィアは息を吐く。「軍服を着ていらしたので、もしやとは思いましたが……。しかし、王国の軍人さんであれ、この水銀塔へいらしてくださった方は、皆大切なお客様です。どうかお気に病まず、存分にこの水銀塔を見て回ってください」
「ありがとうございます、司教様」テレサは深々と頭を下げる。「不信心ものではございますが、これでもセフィラ教会信徒の端くれです。此度の聖地巡礼にて、真の信仰を見出せるよう励みたく存じます。寛大な機会を頂けたこと、心より感謝申し上げます」
 相変わらず口から出任せが上手いとエミリアは呆れるが、少なくとも今回の査察において、水銀塔の代表者であるソフィアと友好な関係を築くことは任務上重要ではあるため、下心丸出しであろうがテレサの行いに文句は言わないでおく。
 三人分の紅茶を淹れ終えたソフィアが、エミリアたちの前にカップをそっと置く。
「──ただし、一つだけ約束してください」
 ソフィアは声を低くする。無意識にエミリアは背筋を伸ばして彼女を見つめる。
「あなた方がアスタルト王国の軍人さんなのであれば、バアル帝国の軍人さんと折り合いが良くないであろうことは、政治の素人である私でも想像できます。しかし──あくまでここは、国際法で定められた宗教国家シャプシュの管理地です。どうかこの場では、我々セフィラ教会の戒律に従って、争い事はお控えくださいませ」
「無論ですよ、司教様」テレサは胸に手を当てて朗々と告げる。「我々は争いに来たわけではないのですから。それに私は比類なき平和主義者。何があってもこの水銀塔内で争い事は起こさないことを、《神の子》ヘルメスに誓いましょう」
 また適当なことを言って、と少し呆れるが、それでソフィアが納得してくれるのであればエミリアとしても文句はない。せっかくの機会なので、エミリアもソフィアに質問する。
「よろしければ、セフィラ教会のことを少しご教示いただけませんか? 司教様がとても偉い方であることはわかるのですが、水銀塔の管理者とはいったいどのようなお仕事なのかよくわからなくて……」
「ええ、勿論です」ソフィアは柔らかく微笑む。「一般の方にはわかりにくいですからね。まず、司教というのは教会における位階の一つです。聖職位階の最上位ではありますが、特別な強い権力などはありません。主に司教は、教区と呼ばれる一定区域の監督を任じられます。教区内にはいくつかの教会が存在するため、各教会を束ねて連携を図ることが司教の主な仕事になります。実際に現場で教会を切り盛りするのは、司祭と呼ばれる位階の方々です」
「では、こちらの水銀塔にも他に司祭様がいらっしゃるのですか?」エミリアは尋ねる。
「いえ。ここは聖地ですので、この水銀塔だけで特別教区、という扱いになります。つまり、司教の私が直接この水銀塔を監督、管理していることになります。実質的には、他の教会の司祭と同じ役割ですので、実は私は偉いわけではないのですよ」
 穏やかに笑いながらソフィアは小首を傾げてエミリアを見やる。
「おまけのこの水銀塔は七大聖地で最も僻地に存在するので、巡礼者の方もそれほど多くはいらっしゃいません。司教一人と、修道士二人だけでも十分に切り盛りできます」
「なるほど……勉強になります」エミリアは素直に感心する。
「私も良い刺激になります」ソフィアは楽しそうだ。「仕事柄、熱心なセフィラ教会信徒の方とお話しすることがほとんどなので、一般の方の視点や疑問はとても新鮮です。あなたはとても真面目で誠実な方なのですね、ヘミリア様」
「……エミリアです」
 肝心のところで名前を間違えられていた。失礼しました、とソフィアは頭を下げる。すかさずフォローするようにテレサが言った。
「しかし、その若さにして聖地の管理を任されるなんて、ソフィア様はさぞ敬虔な信徒なのでしょう。私は心より尊敬申し上げます」
 きらきらとした眼差しをソフィアに向ける。彼女は照れたように頬を染めた。
「ありがとうございます。私も、《神》への信仰心が認められて嬉しく思います。布教の旅や聖地巡礼のときには、とても信仰心を試されましたから……」
 そう言ってソフィアは、思い詰めたような表情を浮かべる。女性による布教の旅は、きっとエミリアなどでは想像もつかないほど過酷なものであったに違いない。無関係のエミリアがあまり踏み込んで良い話ではなさそうだ。
 知りたかったこともわかったので、とっさに話題を変えようとしたそのとき。
「おや、ソフィア様。新しいお客様ですか」
 エミリアたちが入ってきた入口のほうから男性の声が響いた。
 慌てて視線を向けると、そこには二人の男女が立っていた。二人ともバアル帝国の軍服を着用している。おそらく、話題に出ていた軍人だろう。
 一人は短髪を撫でつけ丸眼鏡を掛けた、如何にも学者然とした壮年の男性だった。背は高いが温厚そうな雰囲気を醸し出しており、あまり軍人には見えない。
 そして、もう片方の女性へ意識を向け──エミリアは固まった。
 端的に言い表すならば、一振りの剣のような女性だった。
 真っ直ぐで、鋭利で、触れただけでこちらが怪我をしてしまいそうな、研ぎ澄まされた刃のような空気をまとった特別な存在。
 猫のように大きくて丸い榛色の瞳と、几帳面に編み込んでまとめられたプラチナブロンドの髪。テレサよりも一回りは小柄だが、存在感では決して引けを取っていない。
 そんな一度見たら忘れられない、強烈な印象の美女に──エミリアは強い既視感を抱いた。
 相手方の女性もエミリアと同様に驚いたようで、元々大きな瞳をさらに見開いて彼のことを見つめ返す。しかし、すぐに真顔に戻って落ち着いた声色で男性に告げた。
「──少将。おそらくお二人はアスタルト王国の軍人でしょう」
「おや、そうでしたか。相変わらず目敏いですね、あなたは」
 喜色を浮かべながら男性は、エミリアたちに歩み寄る。そしてテレサとエミリアの顔を興味深そうに見つめて、ふむ、と息を吐く。
「──なるほど。どうやら目的は我々と同じようですね。ということは、あなた方が最近王国軍に編成されたアルカヘストということですか。我々と同じ目的でここに来ているのだとしたら、錬金術にある程度深い造詣を持っていなければ意味がないですからね。メルクリウスの一件以来、ご活躍はかねがね聞き及んでいます。お目にかかれて光栄です、王国の錬金術師テレサ・パラケルスス大佐」
 そう言って男性は、嫌味なくテレサに微笑みかけた。
「おっとこれは失礼。考えごとに集中すると周りが見えなくなるのが僕の悪い癖でして。自己紹介が遅れましたが、僕はニコラ・フラメルと言います。こう見えてバアル帝国軍錬金術研究部所属の──錬金術師なのです」
 男性は、軍服の右腕をまくり上げる。その日焼けしていない前腕部には、鋭角的な直線で描かれた『 *(アスタリスク) 』のような紋様が刻まれていた。それは錬金術師の証──《神印(ディンギルいん)》。テレサの右眼にも同じものが刻まれている。
 あまりにも自然な自己紹介だったので、エミリアはその意味するところの理解に数秒もの時間を要してしまった。しかし、脳がその情報を受け入れた瞬間、息を呑んで驚いた。
 まさかこんなところで新たな錬金術師と出会えるとは。
 そもそも錬金術師は世界に七名しか存在しないため本来であればおいそれと出会えるものではない。しかし、幸運にも彼が軍に入ってからそのうちの二人にはもう出会っている。そして今回が三人目──。
 錬金術に関連した軍の部署に所属しているとはいえ、この三カ月で三名もの錬金術師に会えるというのは、幸運を通り越して運命的なものを感じてしまい正直薄気味悪い。
 だが幸か不幸か、バアルの錬金術師ニコラ・フラメルは、エミリアが探している錬金術師ではなさそうだった。というか、これまでエミリアが会ったことのある二人の錬金術師は、共に独善的で他人のことなど路傍の雑草程度にしか考えていない唯我独尊の人間であっただけに、温厚そうで人ができた印象の錬金術師らしからぬニコラは少々奇異に映る。
「──丁寧な挨拶痛み入る」
 椅子から立ち上がり、テレサはニコラを睨み返すように彼の前にふんぞり返る。テレサも女性としては長身だが、さすがに男性のニコラを前にしたら頭一つ分ほど小さい。しかし、そんな身長差など感じさせないほど威圧的な口調で告げる。
「だが、ご高説を賜るまでもなく我々がアルカヘストであることは自明であろう。帝国が虎の子の錬金術師を水銀塔へ派遣したのであれば、当然王国もまた同様の措置を執るであろうことは火を見るよりも明らかなのだから。わかりきったことを長々と説明するのは老化の始まりであるぞ、フラメル。そちらの美しいお嬢さんも呆れている」
 急に水を向けられた女性は、わずかに躊躇いを見せながらも平然と応じる。
「私は慣れています。少将の話が長いのはいつものことですので」
「これは手厳しい」ニコラは苦笑する。「気分を害したのであれば謝罪します。いえ、僕も悪い癖であることは重々承知しているのですけれどもね。なにぶん、子供の頃からこうだったもので……三つ子の魂百までとはよく言ったものです」
 テレサの横柄な物言いも特に気にした様子なく、ニコラは快活に笑う。それから傍らの女性の背に手を添えて、エミリアたちに示す。
「紹介が遅れました。こちらは、アイゼナッハ中尉です」
「シャルロッテ・アイゼナッハと申します」一歩前に進み出て女性は一礼する。「帝国軍情報部第九課所属、現在はフラメル少将の特別補佐官をしております。この場では、帝国軍に王国と争う意思はありませんのでご安心ください」
 一瞬呑まれそうになるが、それでもこのタイミングしかないと思いエミリアも名乗る。
「国家安全錬金術対策室所属、エミリア・シュヴァルツデルフィーネ少尉です。王国も事を荒立てるつもりはありませんので、その旨ご理解いただければ幸いです」
 表面的には穏便に、それでも言葉の裏では牽制し合う、儀式のような挨拶を終える。
「──ニコラ様。私に何かご用でいらしたのですか?」
 それまで様子を窺っていたソフィアが不思議そうな顔で尋ねた。
「ああ、いえ。ソフィア様のお手を煩わすほどではありませんよ」慌てたようにニコラは両手を振る。「ただ少々疲れたので、コーヒーブレイクでもと思いまして。普段、本に埋もれた生活をしているもので……いけませんね、体力の衰えを感じます。せっかくなので、ラウンジで植物を観賞しながら頂こうかと思って参りました。こんなに素敵なラウンジがあるとわかっていれば、僕もシャルロッテくんも多少は植物のことを勉強してから来たのですけどね。そこの綺麗なアサガオくらいしかわからず、まったくもって口惜しい。あ、厨房を少しお借りしますが、我々のことはお気になさらずお話を続けてください」
「いや──我々もちょうど辞そうと思っていたのだ」残っていた紅茶を飲み干してテレサは立ち上がる。「司教様、美味しい紅茶をありがとうございました。おかげで長旅の疲れが吹き飛びました。これから色々と塔内を調べさせていただきますが、プライベートスペースには立ち入らないよう傾注いたします」
「そう、ですか」ソフィアは少し残念そうだ。「お仕事がお済みになりましたら、是非私のお部屋に来てください。お見せしたいものもありますし」
「喜んで」テレサは胸元に手を添えて恭しく頭を下げる。「これほど徳の高い方とお話しさせていただける機会などそうそうありませんからね。──ということだ、フラメル。私はもう失礼するので、気兼ねなくラウンジでコーヒーを楽しみたまえ」
「お気遣い感謝いたします。では、カップの後片付けはこちらでやっておきますので、パラケルスス大佐たちは、早速お仕事に取りかかってください」
「そうか、助かる」
 一切の遠慮を見せることなくテレサは歩き出す。隣を歩きながら、ラウンジを出たところでエミリアは尋ねる。
「しかし、珍しいこともありますね」
「何がだ?」テレサは不機嫌そうに、エミリアのほうを一瞥すらせず歩みを進める。
「アイゼナッハ中尉ですよ。先生が、若い女性を見ても粉を掛けないなんて……。やはり敵国の女性は口説かないという程度の分別はあるのですね、見直しました」
「何を的外れなことを言っておるのだきみは」呆れたようにテレサはため息を吐く。「私は全世界の女性を平等に愛している。国籍など関係ない」
「……だったら何故?」
「とぼけて言ってるのかそれは」苛立たしげにテレサはエミリアを睨む。「自慢ではないが、私は見た目が良いので女性にとてもモテる。第一印象が良いからな」
「……存じております」不承不承ながらも同意する。
「だから初対面の女性に嫌われることはまずない。だが、あのシャルロッテちゃんは違った。間違いなく初対面であるにもかかわらず、この私に対して敵意に近い感情を抱いていた。敵国の錬金術師に対してのものだとしても、あの反応は過剰すぎる。本人は隠しているつもりのようだったがね」
「彼女が、敵意を……?」
「そしてその一方で、彼女は会話中ずっとエミリア、きみのほうに意識を配っていた。気も漫ろになるほどにね。こんなことは初めてだったので、対応に困ったのだ。きみ、もしかして彼女と過去に会ったことがあるんじゃないか?」
 テレサの鋭い問い掛け。エミリアは肩をすくめて答えた。
「──いえ、初めてです。まったく、世の中には不思議なことがあるものですね」

2

 水銀塔の出入口のすぐ側に金属の板が填め込まれており、そこには建物の簡単な案内図が描かれていた。テレサ曰く、水銀の壁に完璧に密着しているので、これもマグヌスが設置したものだろう、とのことだ。妙に凝った意匠が施され、各階層の数字部分だけがエンボス加工になっている。ボタンなのかと思って触れてみるが、当然何も起こらなかった。
 案内図によると、この塔は四階建てらしい。構造的にはさらにその上があるようだが、五階に繋がる階段とその先は水銀の壁で封鎖されており、現在のところ進む方法が発見されていないと書かれていた。下階にある水銀の壁を扉のように開くためのパネルなども設置されていないので、どうやっても上階へ行くことはかなわないらしい。四階以下はすべて同じ間取りになっており、内壁と中心壁に囲まれたスペースが六等分され部屋として使われているようだ。
 エミリアたちは、とりあえず一階を中心に調べることにする。南にある塔の出入口を基準として、水銀塔全体を真上から見ると、中央のラウンジを囲むように、十二時方向に厨房、二時方向に礼拝堂、四時方向にボイラ室、八時方向に図書室、十時方向に倉庫がそれぞれ配されていた。六時方向にあるのはラウンジへの通路だ。また通路以外にも、ラウンジへは十二時方向の厨房を経由して向かうことができるらしい。
「どこから回りますか」
「うーん、とりあえずは図書室かなあ。資料探しは研究の基礎だしな。面倒だけど」
 テレサは重たい足取りで歩いて行く。
 内壁は当然水銀で構成されているため、扉が閉まった状態ではどこが部屋なのか、そしてそもそも自分が今居る場所すら見失ってしまいそうになる。それを防ぐためには、各部屋の前に設置されているプレートを目標にするほかない。
 エミリアたちは、《図書室》と記載されたプレートの前までやってくる。テレサがパネルに手を押し当てた。すぐに目の前の水銀が蠢いて入口を作る。人の移動を感知しているのか、通り抜けたらまたすぐに水銀は壁に戻ってしまう。内側にも表側と同様の開閉パネルが付いていた。
 図書室では、一人の男が本を読んでいた。ハンチング帽を被ったひょろりと細長い男だ。男はエミリアたちの入室に気づくと、狐のように細い目を大きく見開いて飛びついてくる。
「その軍服! 王国軍の方ですね! 何か事件ですか! はっ! まさか、あなたは王国の至宝、美貌の錬金術師と噂のパラケルスス大佐なのでは……?」
 身を乗り出して顔を覗き込んでくる男に、テレサは露骨な嫌悪感を示す。
「……なんだきみは。如何にも私がパラケルススだが、それ以上近づいてきたら問答無用で殴るぞ。私は男アレルギィなのだ」
「たっはー! そうですかそうですか! これはまた失礼いたしました!」
 失礼な物言いに気を悪くした様子もなく、わざとらしく額を叩いて戯けてみせてから、男は一歩半後ずさって、懐から二枚の名刺を取り出す。
「私、エテメンアンキに本社を置く『クイーンズ新聞社』の記者をしておりますレオン・ウィンディと申します。以後お見知りおきを」
 差し出された名刺に、テレサは手すら伸ばそうとしなかったので、仕方なくエミリアが二枚とも受け取る。
「記者さんでしたか。初めまして、エミリア・シュヴァルツデルフィーネ少尉です」一応礼儀としてエミリアは頭を下げる。「その、パラケルスス大佐をご存じで?」
「当然でしょう!」レオンは意気揚々と鼻息を漏らす。「春から王国軍に編成されたアルカヘストと言えば、我々ブン屋の注目の的ですよ! いったいどのような活動をしているのか定かではないものの、ただ漏れ聞こえてくるのは恐ろしく美しい錬金術師がいるという噂のみ。先ほどお姿を拝見して、すぐわかりましたよ。この方こそ、噂の錬金術師パラケルスス大佐に違いないと」
 力強く言って、レオンは拳を握る。アルカヘストという錬金術対策機関が設置されたという話は広く公表されているが、その実体については国益を損なう危険性がある、という理由から厳重に秘されている。新聞社の記者が強く興味を抱くのも当然と言えよう。
 一方的に捲し立ててから、レオンはまたわざとらしく額を叩く。
「これはまた、私ばかりが失礼いたしました! して、お二人がいらしたということは、何らかの錬金術的な任務なのでしょうか? さきほどバアルの錬金術師さんともお会いしましたし、あるいは大事なのではないかと愚考します。もしよろしければ、少しだけでもお話いただけるとすごく嬉しいのですが」
「……残念ながら、極秘任務ですのでお話できることは何もありません」
「ははっ、それはそうですよね」レオンは快活に笑ってハンチング帽に触れる。暖色のタータンチェック柄。それは近頃王都で流行し始めているデザインだ。さすがは記者、世相には敏感らしい。
 内心ではどう考えているかわからないが、ここまでフランクだとつい余計なことまで話してしまいそうだなと、エミリアは警戒する。
「ウィンディさんは取材でいらしたのですか? 何か調べ物をしていたようですが」
「ええ、まあ。少々気になる噂を小耳に挟みまして。そうでなければこんな辺境の地まで一人で来たりしませんよ」そこでレオンは、不意に手を叩く。「そうです! せっかくお近づきになれたのですから、とっておきの情報をお教えしましょう。実はですね──」
 エミリアに顔を寄せ、レオンは声を低くして言った。
「──この水銀塔では、《神隠し》が起きるらしいのです」
「……神隠し?」
「ええ。巡礼者の方がね、立て続けに謎の『消失』に遭っているんです。ま、あくまでも噂ですけどね。でもどうやら何かと胡散臭い話もあるようで──おおっと、ここから先は勘弁してください。こちらとしても飯のタネなんでね」
 そう言ってレオンは、唐突に話を打ち切ると狐のような目をさらに細めて笑った。

3

 図書室を出たエミリアは、とりあえず礼拝堂へ向かってみることにした。礼拝堂は図書室のちょうど反対側だ。各部屋の前のパネルを目印に歩いて行く。
 一人だった。図書室に置いてある本は大半が錬金術か宗教に関するものだったので、あまり詳しくないエミリアが調べても肝心の情報を見落としてしまう可能性がある。
 一応は錬金術師であるエミリアだが、彼の専門はあくまでも《第六神秘》だ。だからそれ以上の神秘のこととなると、知識量はほとんど一般人と変わらない。錬金術全般の研究を続けてきたテレサとでは、知識量に圧倒的な差がある。そういった事情により、調査をテレサに託してきた次第だ。
 怪しげなゴシップを追いかけてきたレオンと二人きりにするのは少しだけ心配ではあったが、さすがに軍人相手に下手なことはしないだろう。
 目的地に到着する。エミリアはパネルに触れて入口を開く。その先には、荘厳な空間が広がっていた。
 礼拝堂の最奥の壁には、杖のようなものが飾られていた。
 二匹の蛇が8の字に絡みついた、一対の翼を持つ杖。
 ヘルメスがその左手に携えていたと言われている杖──カドゥケウスだ。
 一般に、セフィラ教会では偶像崇拝を禁じている。《神》は実体を持たない高位の存在であるからこそ尊いものであり、それをこの世界の物質で形作ってしまうことは不敬である、という教えによるものだ。誤解されがちなのは、ヘルメスはあくまでも《神》と人類を繋いだいわば仲介者であり、《神》自身ではない。セフィラ教会では、ヘルメスは《神》が人類へその意思を伝えるために遣わした存在──すなわち《神の子》であると考えられている。
 それはともかく、偶像崇拝を禁じられても人々は目に見える心の拠り所を求めるものである。そこでヘルメスの携えていた杖をモチーフとすることで、《神の子》の偉業を讃えつつ、間接的に《神》への信仰心を確認するスタイルが確立した。それが現代にいたり、スタンダードな信仰の形となったらしい。
 いずれにせよ、セフィラ教会では徹底して『信仰は己の中に見出すもの』であると説いているのは興味深い。
 軍学校時代に習った基礎宗教論を思い出しながら、エミリアは赤い絨毯を踏みしめて礼拝堂を進んでいく。入口から奥へ向かって真っ直ぐに通路が伸びており、通路の左右には木製の長椅子が並んでいる。突き当たりには重厚な質感の聖卓。卓には簡素な燭台が飾られ、今も蝋燭が炎を揺らしていた。
 聖卓の手前には、先客がいた。
 背後からではよく見えないが、どうやらその人物は杖に向かって跪きじっと祈りを捧げているようだ。集中しているのか、エミリアの入室にも気づいていない様子だ。
 エミリアはそんなひたむきな敬虔さに呑まれ、しばし目を奪われる。
 やがてその人物は祈りを止めて立ち上がり、ゆっくりと振り返った。高齢の女性のようだ。年齢は七十代くらいになるのだろうか。髪にはもうずいぶんと白いものが混じり始めているし、顔には深いしわも刻まれている。しかし、その表情はどこか満たされたように穏やかで若々しい。
 その女性はエミリアの姿を認めると、とても嬉しそうに微笑んだ。
「あらまあ、可愛らしい方だこと」
 年齢とは裏腹に、女性はしっかりとした足取りでエミリアの元まで歩いてくる。足首まで丈のあるゆったりとした白いチュニックに、肩に掛ける黒い外衣を羽織っている。典型的な巡礼者の装いだった。
「お若いのに巡礼の旅なんて立派なのね」
 あまりにも邪気のない瞳に見上げられてエミリアは面食らう。
「いえ、その……」一瞬言葉に詰まるが、ここは正直に事実を伝えることにする。「……実は私はセフィラ教会の信徒ではないのです。アスタルト王国の軍人でエミリア・シュヴァルツデルフィーネと申します。今回は任務でこちらへお邪魔しています。その……敬虔なセフィラ教会信徒の方とお見受けいたしますが、ご期待に添えず申し訳ありません。それと、我々は決して不当にこの水銀塔やセフィラ教会に圧力を掛けに来たわけではないので、どうかご安心ください」
「あら、そうなの」特にショックを受けた様子もなく女性は笑う。「ごめんなさい、早とちりしちゃったわ。お若いのに立派ね。軍人さんが身を削って働いてくださるおかげで、私たちは今もこうして平和に暮らせているわ。本当にありがとう。主も《ニビル》からいつも見守ってくださっているわ」
 彼女は胸の前で8の字を切る。それはセフィラ教会における祈りのジェスチャだ。
 一般市民に面と向かって感謝されたのは初めてだったので、エミリアは戸惑う。
「素敵よ、あなた。きっと純粋なのね。私は結婚しなかったから子供もいないのだけど……孫がいたらこんな感じなのかしらね」女性はまた屈託なく笑う。
「その……光栄です」あまり年配の女性と話す機会のないエミリアは、どういう顔をしていいのかわからず曖昧な笑みを浮かべた。
「あらやだ、私ったら自己紹介もまだだったわね、ごめんなさい。私はイザベラ・ピルグリム。これでも女王陛下を敬愛する王国民よ」
「王国の方でしたか。それはそれは……ここへ来るのはさぞ大変だったでしょう」
 ここまでの道のりの過酷さを思い、エミリアは尊敬の念を抱く。
 基本的にセフィラ教会信徒による聖地巡礼は、徒歩によって行われる。聖地とは、二千年まえにヘルメスが世界を回った際、奇跡を遺した場所のことだ。そこを巡るということは、《神の子》が歩いたとされる聖地までの道のりを自身で体験し、信仰の理解を深めることに他ならない。それゆえに、敬虔な信徒ほど、徒歩による聖地巡礼に拘る傾向にあると言われている。ただし、一部海上ルートもあるため、一概に徒歩のみということではないようだが。
 特に巡礼は、ヘルメスの教えの一つでもある『真なる結果を望むならば、困難を恐れてはならない。その困難が大きければこそ、より大きな結果に繋がる』という思想の影響もあり、一層徒歩によるものが好ましいという認識になっているようだ。困難を乗り越えた先にこそ真に価値のある結果が待っている、と信徒たちはよく口にする。
 もちろん、それほど敬虔ではない信徒や観光者などは当たり前に自動車や汽車を利用するようだが、ことこの女性──イザベラに関してそれはないようだ。
 イザベラは恥ずかしそうに腿のあたりを撫でる。
「さすがに年寄りには堪えたわ。水銀塔はヘルメス様が最後に訪れた聖地と言われるだけあるわね。ここだけ並外れて僻地にあるのだもの。でもこれで、七大聖地はすべて巡礼できたから、もう思い残すことはないわね」
「なんと……巡礼を終えられたのですか」エミリアは目を丸くして驚く。「敬虔な信徒でも、生涯で四つ五つ回るのが精一杯であると聞き及んでいます。ピルグリムさんは、本当に信仰心の篤い方なのですね。尊敬します」
「ふふ、ありがとう。でも、私なんかよりもソフィア様のほうがすごいわ。あの方は、あの若さでもう、徒歩による巡礼を終えているのだから」
 生涯を掛けても巡礼を終えられない人が大多数の中、二十代前半で巡礼を終えるというのは、規格外すぎて理解が及ばない。
「ソフィア様は、来る日も来る日も歩き続けたのだわ。途中で体調を崩したこともあったでしょうに、それでも休みなく歩き続けた。こういうことを言うと失礼かもしれないけれど、女性の一人旅というだけでも危険なのに、あの若さと美貌でしょう? きっと道中で何度も危険な目に遭っているはず。それでも──巡礼を止めなかった。ソフィア様の信仰心は、紛れもなく本物よ。私は七十をすぎたお婆ちゃんだけれども……本当に、心の底からあの方を尊敬しているわ」
 胸元に手を添えて、イザベラはそっと目を閉じた。
 ソフィアの偉業を、称えるように。
「──ごめんなさい。信徒ではないあなたには、退屈なお話だったわね」
「とんでもない。司教様の偉大さを知ることができて良かったです」
「それなら良かったわ」イザベラはまた優しく微笑んだ。「ちなみにあなたは、水銀塔以外の聖地へは行かれたことがあるの?」
「いえ、恥ずかしながら不信心者でして……この水銀塔が初めてになります」
「なら、乗り物を使った観光でも良いので、是非いくつか巡ってみると良いわ。《虹の都アドニス》や《鉄幕海峡》は、本当に涙が出るほど壮大で素晴らしいところだから」
《虹の都》は、文字どおり常に虹が架かった小さな町だ。百メートルを優に超えた巨大な《杖(カドゥケウス)》がそびえ立つ町としても有名だ。《鉄幕海峡》は、ヤムの管理海域にある海底に設置された、巨大な鉄のカーテンだ。その総距離は、二十キロメートルにも及ぶと言われている。何でも、複雑な海流を調節するために作られたとか。
 いずれにせよ《七大聖地》は、どこも観光名所になっているのでこれから行く機会もあるだろう。
「ありがとうございます、近いうちに見て回りたいと思います」
「ええ、是非」念を押すようにそう言ってから、イザベラは再び腿を撫でた。「それじゃあ、私はそろそろお部屋に戻りますね。年寄りの長話に付き合ってくれてありがとう。私はまだしばらくここに泊めてもらうつもりだから、もし良かったらまたお話しましょうね」
「こちらこそ貴重なお話をありがとうございました」
 エミリアも微笑み返す。エミリアたちは日帰りのつもりだったが、図書室のあの様子だと、もしかしたら調査に二、三日は掛かるかもしれない。
 最後にイザベラは、満足そうな笑みを浮かべて立ち去っていった。

4

 結局、礼拝堂の中でも、めぼしいものは見つからなかった。そもそもマグヌスの遺産とやらがどういうものなのかもわからない以上、探しようがない。
 紙媒体なのか、あるいは別の錬金術的手法により記録された何かなのか。
 そのあたり、錬金術に多少覚えのある程度のエミリアではどうしようもないというのが正直なところだった。
 一旦、テレサの元へ戻って指示を仰いだほうが良いだろうか、などと考えながら礼拝堂を出て廊下を歩く。
 そして倉庫の前を通りかかったところで、突然内側から扉が開かれた。
「あ」
「……へ?」
 予期せずばったりと鉢合わせてしまったその人物は、エミリアの顔を認めると、もの凄い勢いでいきなり彼を倉庫の中に引きずり込んだ。声を上げる間もなく、そのまま壁際まで追いやられる。倉庫は薄暗く、木箱や脚立などが無造作に置かれていた。
 その人物──シャルロッテ・アイゼナッハは、壁に手を突いてエミリアの逃げ道を塞いでから、榛色の双眸で彼を睨み上げる。
 エミリアとしても何故このような不当な扱いを受けているのか抗議したいところではあったが、この状態ではさすがに気持ちが引けてしまう。
「……中尉殿。先ほど司教様から王国と帝国で争うなと厳命されたはずですが」
「ここにはあなたと私しかいないわ」
 質問には答えず、シャルロッテは冷たい口調で言う。その何とも懐かしい声に、エミリアは苦い記憶を呼び起こす。王国軍人であるという今の立場さえ忘却して、再び尋ねる。
「──どういうつもりだ、アナスタシア」
 アナスタシア・フォード。それが、エミリアが知る目の前の女性の名前だった。軍学校時代、トップを競い合った女性であり、ある日突然彼の前から姿を消した女性でもある。
 シャルロッテはくすりと笑う。
「懐かしい響きね。音が綺麗だったから、結構気に入っていたのだけど。でも残念。それは偽名なの」
 それからシャルロッテは耳元まで顔を寄せて甘い声で囁く。
「──久しぶりね、エミリア。まさかまたあなたに会えるなんて思わなかったわ」
 まるで魂に直接語りかけるような声に、エミリアは身震いする。その反応を愉しむように離れ、再び至近距離で彼を見上げながらシャルロッテは言う。
「言いたいことは色々あるけれども……この世で一番会いたくない人間がいるとしたら、それはあなたよ」
「……それはこっちの台詞だ」声が上ずらないよう注意を払ってエミリアは対抗する。「これまで何をしていた──なんて質問は野暮だな。バアルのスパイだったってのは、どうやら事実みたいだ」
「あら、わずかでも私の無実を信じていてくれたの? 相変わらず優しいのね」
 小馬鹿にするようにシャルロッテは口の端を吊り上げる。
「その後の話は聞いているわ。私を庇ったせいで、あなたまでスパイの容疑を掛けられたらしいわね。損得勘定ができないのかしら。本当に……甘い男」
 エミリアは何も反論できない。それがどうしようもなく事実であることを自分自身で認めてしまっていたから。
「……何も言わないのね。恨み言の一つや二つ甘んじて受け入れるつもりでいたけれども……あなたにそんな甲斐性はなかったわね」
 ようやく壁から手を放したシャルロッテは、腕を組んで改めてエミリアを見上げる。
「まあ、いいわ。別に昔話に花を咲かせるためにあなたをこんなところへ連れ込んだわけではないし」
「僕に、何か用か」
「ええ。単刀直入に言うわ。マグヌスの遺産は諦めてさっさとあのいけ好かない女とここを立ち去りなさい」
 予想していた言葉だった。エミリアは落ち着いて切り返す。
「それは聞けない。僕らには僕らの任務があってここに来ている。きみも軍人ならその意味がわかるだろう」
「じゃあ、軍人を辞めなさい。あなたには向いていない」
「それも聞けない。僕には僕の目的があって軍にいる。きみの個人的な感想を聞き入れる義理はない」
「……っ!」
 シャルロッテは怒りを滲ませてエミリアを睨む。学生時代は《氷の女帝》なんてあだ名があったくらい、感情を表に出さない人形のような少女だったのに、今では随分と人間らしくなったものだ。この半年ばかりで、何か心情の変化があったのだろうか。
「なら、せめて錬金術とは関係のない部署へ移りなさい。あなたの実力ならどこでだって引く手数多でしょう」
「それも無理だ。残念だけど、僕の目的はアルカヘストでしか果たせない。というか、きみは何が言いたいんだ?」
 話の展開がわからずエミリアは困惑する。しかし、対照的にシャルロッテはますます苛立たしげに眉を吊り上げる。
「あなたのことを心配してるのよ。あなたは軍人に向いていないし、錬金術の世界だってあなたが思っているような華々しい世界じゃない。むしろ常に命を狙われるような、ある意味、最前線よりも危険な世界なの。あなたみたいな甘い人じゃ、すぐに命を落とすわ」
「かもね」
 相手が興奮するほど逆に冷静になっていくというエミリアの性格が幸いして、今は落ち着いて会話を進められる。
「でも、僕の目的はそんなふうに命を危険にさらさなければ果たせないくらい困難なものだから。心配してくれるのはありがたいけど、放っておいてもらえるかな」
 あえて突き放すように言う。これは信条の問題であって、他人の意見など聞き入れる余地のないことだから。にもかかわらず、シャルロッテはまだ食いついてくる。
「学生時代は、錬金術なんか興味もないって言ってたのにどうして……。──まさか、あの女に誑かされたの?」
 予想外の言葉に、エミリアは思わず吹き出す。
「イーサンにも同じことを言われたよ。でも、答えはノーだ。僕とあの人はそういう関係じゃない。第一、僕の好みはもっと真面目でお淑やかなタイプだ」
 その言葉に、何故かシャルロッテは目を丸くして黙り込んだ。わずかに頬が赤らんで見えるのは、倉庫内が蒸し暑いからだろう。水銀塔の部屋の中には窓がないためか、天井には通風口が設置されているがあまり暑さの軽減には役立っていないようだ。長居すると熱中症になるかもしれない。
 エミリアは、早々に会話を切り上げてシャルロッテの脇を抜けて歩き出す。
「──ここでの会話はなかったことにしよう。僕はきみに会わなかったし、きみも僕に会わなかった。それがお互いのためだよ、アナスタシア」
「待ちなさいエミリア! まだ話は──」
「そうだ、もしできるならイーサンに手紙の一つでも書いてあげなよ。きみのことをとても心配してるみたいだから」
「お願い、待って! 私は本当にあなたのことを──」
 背中の声を無視してエミリアは扉を開ける。すると廊下が騒がしいことに気がついた。シャルロッテもすぐに気づいたようで、倉庫から顔を出して外の様子を窺っている。
 一度顔を見合わせてから、二人は騒がしい正面入口のほうへ小走りで向かった。

5

 正面入口の前では、六人もの男女が何やら言い合いをしていた。少なくともエミリアは、全員初めて見る顔だった。
 入口側に立っている五人は何やら物々しい雰囲気だ。代表して前に立つ二人は、首から下をプレートメイルで覆い、腰には長めの両手剣を携えていた。明らかに完全武装だ。片方は角刈りでひげを蓄えた中年の男性で、もう片方は、金髪に褐色肌の若い女性だった。
 彼らの後ろには、白いローブをまとった男女が一人ずつ控えており、さらにその背後には黒いローブをまとい、目元を隠す白い仮面を被った不審者が立っていた。全員ずぶ濡れの様子なので、外はもう雨が降っているのかもしれない。
 彼らに対峙するのは、修道服を着た赤毛の少女だった。十五、六歳ほどだろうか。集団から一方的に何か言われているのを、怯えながら必死に耐えているように見える。
 あまり穏やかな状況ではなさそうだったので、エミリアは割って入る。
「──失礼。事情はわかりませんが、ひとまず落ち着きましょう。彼女も怯えています」
「なんだきみは突然!」いきなり横から邪魔をされて、男性は不快そうにつばを飛ばす。「悪いがこれは我々の問題である! 部外者は引っ込んでいてもらおうか!」
「申し訳ないのですが、そういうわけにもいかないのですよ」
 激昂する男性とは裏腹に、エミリアはあくまでも落ち着いた口調で答える。
「私は、アスタルト王国軍のシュヴァルツデルフィーネ少尉です。ここがアスタルト王国とバアル帝国の緩衝地帯であることはご存じのはず。いくらシャプシュの管理地とはいえ、国際法上は王国、ないし帝国の領内となりますので、少なくとも王国法には従っていただかないと困ります。そして王国法では、市民の揉め事に際し、軍の強制介入が認められています。もちろん、女王陛下の許可が必要な案件ではありますが……事をそう荒立てるのは、あなた方としても不本意なのではありませんか? 今ならば私の権限の範囲で、収めることができます。もしよろしければご協力いただけると幸いです」
 淡々と述べるエミリアに圧され、男性は口ごもる。さすがに軍人と騒ぎを起こすつもりはないらしい。背後のシャルロッテが、「相変わらず口の上手いこと」と呟いたが聞こえなかった振りをする。
 それからエミリアは、萎縮して小さくなっていた修道服の少女に向き直る。
「もう大丈夫ですよ。怖いことは何もありませんから、安心してくださいね」
 少女は涙目でエミリアを見上げ、何度も頷いた。シャルロッテに少女を託して、エミリアは改めて男性たちに視線を向ける。
 子供を怯えさせてしまったことに気づいたのか、ひげ面の男性は気まずそうに頭を掻く。
「──我々は、セフィラ教会聖騎士団である。そちらの少女に、司教への取り次ぎを願い出たら拒絶されてしまったのでな……それで少々熱くなってしまった。そちらの少女を責め立てる意図はなかったのだ、許してほしい」
 男性が頭を下げると残りの面々もそれに続く。ただし、仮面の不審者だけは素知らぬ顔で突っ立ったままだった。
 セフィラ教会聖騎士団と言えば、教会を代表するテオセベイア・ルベド直属の特殊部隊だ。世界各地から選りすぐりの精鋭が集まっており、こと純粋な戦闘能力においては、王国軍や帝国軍の特殊部隊をも凌駕すると噂される文字どおり世界最強の騎士団でもある。見るとプレートメイルの胸には、聖騎士団の証としてセフィラ教会のシンボルである《杖(カドゥケウス)》が刻まれている。
 男性に続いて、武装した金髪の女性が口を開く。
「私たちはテオセベイア様直々のご指示で、水銀塔の管理者であるアシュトン司教に話を伺いに参ったのだ。それなのにそこの修道女が、我々には会わせられないなどと言うものだから、何かやましいことでもあるのではないかとこちらも勘繰って少し語気を荒らげてしまったのだ。決して弱い者いじめをしていたわけではない、ということはご理解いただきたいものだな」
 不機嫌さが言葉の端々からにじみ出ていた。聖騎士団からすれば非難される謂われはないのだから、エミリアに仕切られているこの状況はあまり面白いものではないだろう。
 続けてエミリアは修道服を着た少女に視線を向ける。
「どうして司教様に会わせられないのですか?」
「い、いえ、違うのです……」少女は声を震わせながらも、シャルロッテに肩を抱かれて勇気づけられたのか、一生懸命に答える。「その、この水銀塔は、武器の持ち込みが禁じられておりますので、剣を外へ置いてきてくださらなければ、司教様にお取り次ぎすることはできませんとお伝えしたのですが……」
「……ああ、なるほど」エミリアは事情の厄介さを理解する。
 一般にセフィラ教会では暴力全般を禁じている。だから、人を傷つける怖れのある武器の類をこの水銀塔に持ち込ませないという決まりは十分に理解できる。
 しかし、教会聖騎士団というのは、そもそも教会におけるいわば超法規的部隊なので、場合によってはセフィラ教会の戒律にも従わなくても良いとされている。そうでなければ、暴力を禁止しているセフィラ教会が、自らを守るためとはいえ暴力装置である聖騎士団を持てなくなってしまうからだ。
 理想と現実、本音と建前。
 身勝手な大人の世界の理屈に、きっとこの純粋な少女は困ってしまったのだろう。
 この場を収めるにはどうしたら良いだろうかとエミリアは考える。しかし、具体的なアイディアを思いつくより先に、新たな声が響き渡る。
「おや、賑やかですねえ。皆さんお揃いでどうしました?」
 ちょうど二階から降りてきた長身の影。バアルの錬金術師ニコラ・フラメルだった。彼は悠然とした足取りでエミリアたちの元へやってくると、顎に指を添えて、ふむと呟く。
「──なるほど。教会騎士団の方々とこちらの修道女エリザさんとの間で揉めていたところを、うちのシャルロッテくんと、アルカヘストのエミリアくんがお節介にも仲裁しにいったというところですか。見たところ、武装解除をするしないが争点ですかね」
 一目見ただけで状況を把握してしまう。錬金術師は知能が桁外れに高いと言われるが、その例に漏れずニコラもまたテレサ同様、人類を超越した頭脳を持っているようだ。
「さすがのご慧眼です、少将」シャルロッテはすっかり元の軍人然とした様子で答える。「もしよろしければお知恵をお借りできればと思うのですが」
「わかりました。では聖騎士の方。一旦、剣を僕に預けていただいてもよろしいですか」
 何か考えでもあるのか、ニコラは両手を差し伸べる。武装した二人は、一度顔を見合わせてから、渋々といった様子で言われたとおりそれぞれ腰から外した鞘ごと剣を差し出す。受け取ったニコラは、「おお、業物ですねえ」などとあくまでも余裕の様子だ。
 一瞬の沈黙。
 直後、彼が両手に持っている剣が目映い光を放つ。
 エミリアは思わず目を剥く。あの光は紛れもなく、錬金術における余剰エネルギィの発散を示す《マグヌス・オプス放射光》だ。
 光が止んでから、ニコラは何事もなかったかのように剣をそれぞれの持ち主へ返す。
 先ほどまで金属光沢を放っていたはずの柄からは光沢が消えている。
 恐る恐ると言った様子で、聖騎士たちは剣を抜く。すると本来、そこにあるはずの鋭利な刃物は、何やら柔らかい素材に作り変わっていた。
 言葉を失う一同に、ニコラは満足そうな笑みを浮かべる。
「お二人の剣を錬金術でゴムに変えておきました。これでは、人を傷つけることはできないので武器とは呼べませんね。お帰りの際にお声掛けいただければすぐ元に戻しますのでどうかご安心を。ようこそ、水銀塔へ。先客として歓迎いたしますよ。ほら、エリザさん。ソフィア様にお取り次ぎを」

6

 聖騎士団の面々が四階にあるソフィアの自室まで呼ばれて行き、ニコラとシャルロッテもどこかへ消えてしまったので、手持ち無沙汰になったエミリアは一旦図書室へ戻る。
 最初は気持ちが悪かった合わせ鏡のような内装も、いい加減慣れてきた。しかし、重力を無視して地面に対し垂直方向に水銀が揺らいでいる不気味さには慣れる気がしない。
 図書室では、テレサが床にたくさんの本を広げて並べ、一心不乱にそれらを読みふけっていた。いつの間にか、レオン・ウィンディは姿を消している。
「先生、調子はどうですか」
「──悪くないね」声を掛けられてようやくエミリアの存在に気づいたらしく、顔を上げたテレサは身体を大きく伸ばす。
「歴史的に見ても価値の高い資料が山のようにある。普通、錬金術書の類は暗号化されていたり、特別な集団しか見ることができなかったり何かと秘匿されるものだが、少なくともアルベルトゥス・マグヌスに、神秘を自分だけのものにしてしまうつもりはなかったようだ。もっともこの場に残された本は、セフィラ教会上層部によってある程度検閲されて、大衆に知られても問題がないと判断されたものなのだろうけどね」
「《第五神秘》に関する情報は何か見つかりましたか?」
「それはまだ何とも。ただ水銀塔に関しては、色々と面白い事実がわかった」
「面白い事実?」話が長くなりそうだったので、エミリアは適当な椅子に腰を下ろす。
 テレサは開いた書物を慈しむように撫でながら言う。
「この水銀塔という建物は、《ニビル》の真下に建造されたものらしい」
《ニビル》は、この星の自転速度とまったく同じ公転速度をもつため、常に空の同じ位置に輝いて見える不思議な星だ。
 古来、その不思議な特性から人々の関心を集め、セフィラ教会の神話によると太古の時代、《ニビル》から七人の天使が舞い降りてきたことが人類文化の始まりであり、七人の錬金術師はその天使の生まれ変わりであるとされている。
 酷いこじつけであるが、今では人類の大半がそれを支持しているのだから仕方がない。
「真下、ということは、ちょうどラウンジの中心から空を見上げれば常に《ニビル》が見えるということですか?」
「そういうことだろうね。現にラウンジから見える水銀塔の天井は、透明なガラスでできている。それも《ニビル》を見上げるための仕組みだろう。天井は開閉もできるらしい」
「セフィラ教会で《ニビル》が特別神聖視されるのは理解できますが……まさかその真下で《ニビル》を崇拝するためだけにこんな大規模な施設を?」
「さあ……そこまでは書いてないな。第一、水銀塔を建造したのはあの《神の子》ヘルメス・トリスメギストスだぞ。その真意を計り知ることなど、おいそれとできることではないだろう。少なくとも今のところ確認できる資料では、マグヌスも色々と疑問を抱いて調べてはいるようだが答えらしい答えには至っていないようだ」
 言われてみれば、《始まりの錬金術師》であるマグヌスは、あくまでもこの水銀塔に住み着いただけだ。もちろん、この不可思議に満ちた水銀塔を調べたいという気持ちがあって住み着いたのだろうが、だからといってすべての秘密を解き明かしたとは限らない。
「じゃあ、せっかくだしこのあたりで少し、水銀塔の構造を確認しておこうか。この建物は、外壁と内壁と中心壁という三つの水銀の円筒で構成されているのはわかるね?」
 エミリアは先ほど頭の中でイメージしたことを想起して頷く。
「水銀壁はどこも大体二十センチほどの厚さで、居住スペースは、各円筒によって囲まれたそれぞれの領域ということになる。たとえば、外壁と内壁に囲まれた空間は廊下になっていて、内壁と中心壁に囲まれた空間は、この図書室のような所謂『部屋』になっている。そして中心壁の内側はラウンジ、といった具合にね。逆に言えば、各領域の隙間に壁となる水銀が満たされていることになる」
「そう、ですね。何となくわかります」
 エミリアは頭の中で、《眼》のようなイメージを思い浮かべる。眼は、白目と虹彩と瞳孔から成っている。この場合、瞳孔がラウンジ、虹彩が各部屋で白目が廊下部分、そしてそれぞれの境界に水銀が流れている、と考えると理解しやすい。
 もしかしたら、ヘルメスは《ニビル》を水銀塔全体で『見上げる』ために、この《眼》のような構造にしたのかもしれない──というのは、少し考えすぎだろうか。
「資料によると、廊下部分と部屋部分は完全に独立した建造物らしい。つまり、物理的には繋がっていないということだね。間に満たされた水銀が壁の役割を果たして、互いの建物をくっつけているようだ」
「ということは、仮に水銀が今のように重力に逆らっていられなくなったら……?」
「この塔はあっさり崩壊するだろうね」
 恐ろしいことを平然と言うテレサ。そんな不安定な建物の中にいるのかと、エミリアは少し不安になる。
「まあ、そこは《神の子》を信じよう。それより、ここに興味深いことが書かれている」
 言って、テレサは手にしていたハードカバーを少し掲げる。
「パネル操作で扉を出現させる機構を設置したのは、ヘルメスではなくマグヌスらしい」
 てっきりヘルメスが作ったものだとばかり思っていたのでエミリアは意外に思う。そういえば、先ほどソフィアもマグヌスが遺した、というようなことを言っていたか。
「たぶんヘルメスは《神の子》だから、水銀操作なんて息をするのと同じくらい簡単だったのさ。だから水銀壁を通り抜けるために、わざわざ扉のように動く機構を設置しなくても錬金術で自由自在に通り抜けられたのだろうね。でも、マグヌスは違った。《始まりの錬金術師》ではあるが、あくまでも彼は人の子だ。錬金術で水銀壁に穴は空けられても、それは些か手間だった。そこで、例のパネルの機構を設置したというのが真相のようだ。まあ、おかげで錬金術師以外でもこの水銀塔で自由に生活ができるようになったわけだから、マグヌスの功績はセフィラ教会から見れば計り知れないものになるだろうね」
 水銀塔の中をセフィラ教会の司教が管理するようになったのは、マグヌス以降と言われている。そもそもそれ以前は、中に入る方法すらわからなかったと、以前何かの本で読んだ気がする。
「あと、もう一つ不思議な特徴があるんだが、何でもラウンジの床は回転するそうだ」
「床が……回転?」
「うん。水平方向に、まるでメリーゴーラウンドのようにね。回転といってもそんな速いものではなく、分速で最大三回転程度らしい。これも、ヘルメスではなくマグヌスが独自にこの水銀塔を改造したもののようだ。地図にボイラ室が書かれていたと思うが、あれはこの回転機構のためにマグヌスが設置したものらしい。ほかにもパネル機構だけじゃなく、水銀塔内部に張り巡らされた通風口や水道、下水管なんかもマグヌスが自身の生活のために設置したと書かれている。ボイラ室はそのあたりの動力源も兼ねているようだ」
「しかし、そもそも何のために床が回る仕掛けなど作ったのです……?」
「さあ、そのあたりのことは何とも。検閲されたのか、あるいは未だにわかっていないのか、それすらも定かではない。少なくとも、レクリエーションのためではないだろうな」
 冗談めかしてから、いずれにせよ──と、テレサは話題を締める。
「ここにある書物の中に、マグヌスの遺産が隠されているということはないだろうね。そんな簡単な隠し方ならば、テオセベイアがとっくの昔に見つけてることだろうから」
 確かに、教会関係者であればこの水銀塔に所蔵されているすべての書物をじっくり時間を掛けて精査できるのだから、本の中に《第五神秘》へのヒントが隠されているのであればとうに気づいているはずだ。
 あるいは、教会はマグヌスの遺産の存在に気づいたうえでなお、《第五神秘》に到達できていないだけなのかもしれないが……そればかりは推測の域を出ない。
 ともかくエミリアたちの任務は、他国を出し抜いて《第五神秘》に関する情報を持ち帰るということなので、そろそろ何かしらの具体的な方策を定めたほうが良いだろう。
「では、僕らはこれからどうすればいいのでしょうか?」
「うーん……そうねえ」テレサは腕を組んで考え込む。「そもそもマグヌスの遺産というのがどういった種類のものなのか、そしてそもそもそんな重大なものの存在が、何故マグヌスの死後百年近くも経った今になって取り沙汰されているのか、そのあたりのところから探っていったほうがいいかもな。どのみち、一朝一夕でどうにかなるものでもなさそうだし、しばらくは水銀塔に泊めてもらうことになるだろうね。きみも一応着替えくらいは持って来たのだろう?」
「……ええ、まあ」
 日帰りの予定ではあったが万が一に備えて数日分の着替えは持参している。
「さっきまであの賑やかな記者が一人で騒いでいたが、外は今、大嵐らしいぞ。あの記者も日帰りのつもりだったみたいだが、風が強すぎて船が動かないんで、司教様のところへ宿泊許可を取りに行っているようだ。ついでに我々の分もお願いしてくれるらしい」
 エミリアは、先ほど正面入口前にいた一団がびしょ濡れだったことを思い出す。おそらく彼らの便がぎりぎり船が動かせる限界のタイミングだったのだろう。ということは、図らずもエミリアたちはこの水銀塔からしばらく動けないということか。
「……こんなそこら中が鏡みたいになってる建物の中に閉じこもってしばらく生活とか、頭がおかしくなりそうですよ」
 少しだけげんなりしてエミリアは弱音を吐く。しかし、逆にテレサは嬉しそうだ。
「私は結構快適だぞ。しばらく酒が飲めないのがつらいが、複数の美女と一つ屋根の下というのは、それだけで心が躍る」
 複数の美女というのは、ソフィアとシャルロッテのことを言っているのだろう。相変わらず本能に忠実だとエミリアは呆れる。
「そういえばさっき、新たに五人ほどこの水銀塔に来てましたよ。少なくとも内二名は確実に女性でした」
「そいつは朗報だな!」テレサは指を鳴らして上機嫌に笑う。「このタイミングで嵐を呼んでくれた気まぐれな神様に感謝だな!」
 どうやらテレサは、今回の任務をまるでレクリエーションか何かだと捉えているらしい。前回の任務のときのように、酒が飲めないことで不機嫌になられても面倒なだけなので、本人がこの状況を楽しんでいるのであれば何よりだ。
 実際には、エミリアたちの命運を懸けた、帝国とあるいは教会すら巻き込んだマグヌスの遺産の争奪戦なわけだが……。
 何故いつも自分に宛がわれる任務は、斯様に国家の大事に直結してしまうのか。
 己の星の巡りの悪さに、エミリアは胃のあたりに疼痛を覚えた。

7

 午後六時を過ぎたところで、アルフレッドが図書室にやって来た。夕食の準備が整ったのでわざわざ声を掛けに来たらしい。
 テレサは喜び勇んで、エミリアはそんな彼女に呆れながらラウンジへ向かう。
 ラウンジにはすでに、現在水銀塔内にいるすべての人が集まっていた。エミリアたちを入れて合計十四人。こうして見ると、思いの外多くの人がこの水銀塔内にいることに驚く。
 長テーブルの端に着いた、水銀塔管理者であるソフィア。
 そして滞在者たちに紅茶を給仕している二人の修道士。アルフレッドと、先ほど正面入口の前で会ったエリザと呼ばれていた少女。
 テーブルにはテレサとエミリアの他に、帝国からの来訪者であるニコラとシャルロッテ、王国からの来訪者である記者のレオン、巡礼者のイザベラが着いている。
 もちろん、聖騎士団の面々もいる。
 プレートメイルに身を包んだ中年の男性がジェイラス・サンスコット。
 同じくプレートメイルの褐色肌の女性がカトリーナ・ホーソーン。
 それから胸元に《杖(カドゥケウス)》の刺繍が施された白いローブを着た、短髪の真面目そうな印象の男性がスタンリー・ウェイマス。
 同じく白いローブの、柔和な雰囲気をまとった女性がサラ・グランド。服の上からでもわかるスタイルの良さと、艶やかな口元のほくろが印象的で、きっとテレサの好みのタイプだろうとエミリアは勝手に納得する。
 ジェイラスがこの部隊の隊長で、カトリーナが副長、そしてスタンリーとサラが変成術師なのだという。ジェイラス・サンスコットといえば、エミリアでも名前を聞いたことがあるほど有名な英雄だ。これまでその豪剣で教会に仇なす危険因子を星の数ほど粛清してきた、テオセベイアの懐刀とも呼ばれる人物であり、王国情報局でもいざというときには障害になり得るとして重要視している豪傑だ。
 そして問題はもう一人。正面入口で見かけた仮面を被った謎の不審者は、聖騎士団の関係者ではなくただの巡礼者で、どうやらたまたまジェイラスたちの乗る船に便乗してここへやって来ただけらしい。名前は、ジェーン・スミス。顔も年齢も不詳だが、女性であることは確かなようだ。
 全員の自己紹介が終わったところで、管理者のソフィアが口を開く。
「──改めまして、水銀塔の管理者をしておりますソフィア・アシュトンです。一度にこれほど多くの方にいらしていただくことは初めてですので、私もとても嬉しく思っております。嵐という不運に見舞われてのことではありますが、気兼ねなくここまでの険しい道中の骨休めとしてこちらを利用していただければ幸いです。我々も皆様の生活に不自由がないよう尽力いたしますので、ご用の際には何でもお申しつけくださいませ」
 立ち上がりソフィアは礼をする。彼女の背後に控えていた二人の修道士もそれに続く。
「急なことだったので質素なものしか準備できませんでしたが、お食事のご用意もございます。ただ、そのまえにこの水銀塔内で快適に過ごしていただくため、いくつかの諸注意をお話しいたします。すでに一度耳にした方もいらっしゃるかと思いますが、しばしのご辛抱をお願い申し上げます」
 一度ゆっくりと周囲に視線を向けるソフィア。全員の視線が集まっていることを確認したのか、彼女は穏やかな口調で続ける。
「まず、二階と三階に皆様のお部屋をご用意いたしました。部屋の前のプレートにお名前を記しておきましたので、後ほどご確認ください。二階から上は全室プライベートルームとなっております。一階の共用スペースのように誰でも自由に出入りができるわけではないのでご注意ください。お部屋の出入りには、鍵の代わりに皆さまの『手』をお使いになってください。指紋認証、と言い換えればわかりやすいでしょうか」
 どこからともなく驚嘆の声が漏れ聞こえる。大企業メルクリウス・カンパニィの本社ビルなどでも採用されている最新の防犯設備と同等のものが、まさかこんな二千年もまえに作られた遺物の中にもあるというのだから、驚くのも無理はない。
「皆さまにご用意いたしましたお部屋は、それぞれ皆さまの『手』の認証でしか開きません。一階に設置された扉を開くためのパネルと、外見や使用感の違いはありません。単純に共用スペースでは指紋を認証せず、プライベートスペースでは指紋を認証する、というシステム上の差があるだけです。また一度開かれたお部屋は数秒で閉じられますが、内側からであれば、認証なしでパネルに手を当てるだけで開くことができます。このあたりは一般的な施錠と同じですね」
 確かに普通、外から中へ入るときには鍵が必要だが、中から外へ出るときには鍵が必要ない(内側から施錠を外せる)場合がほとんどだと考えればわかりやすい。
「また、パネルに備え付けてあるボタンを押しますと、プライベートスペースの内側と外側で音声通話を行うことが可能です。プライベートスペースを訪問する際の呼び掛けにご利用ください」
 水銀で隔てられているためか、ここでは壁一枚挟んだ向こう側の音さえろくに聞こえない。だから壁越しに会話ができる設備はありがたい。
「そしてもう一点。午前零時から午前六時までは、水銀塔全体で防犯装置が作動します。その間は自由に塔内を動き回れなくなりますのでご注意ください」
「防犯装置、ですか。それは具体的にはどのような?」ニコラは興味深そうに尋ねる。
「午前零時を過ぎますと、自室から出られなくなります」ソフィアは落ち着いた口調で答える。「全プライベートスペースがロックされて内側から扉を開けられなくなる、ということですね。部屋の滞在者の方も、そうでない方も、開閉パネルが作動しなくなります」
「しかし、それならもし零時までに自室に戻ることがかなわなかった場合、一晩廊下で過ごすことになりませんか? 防犯という意味では、そちらのほうが危険かと思いますが」
 さすがは帝国の錬金術師、すぐに疑問点を指摘する。しかし、その疑問も想定内だったようにソフィアは穏やかに続ける。
「ええ、まさにおっしゃるとおりです。ですので零時を過ぎても、部屋の滞在者であれば外側から通常どおりの指紋認証で扉を開くことができるのです。ちょっと図書室で本などを読んでいて、お部屋に戻るのが遅れることなどはよくありますからね。ちなみに、零時を過ぎるとラウンジの扉も封じられます。正面入口からのものと、厨房のものの二つですね。一応、ラウンジのほうは、零時まえに私が見回りをいたしますので、もし零時近くまでこちらにいらっしゃった場合は、速やかにお部屋へお戻りください。午前零時ちょうどに、塔全体に鐘の音が聞こえますので、そちらを合図としていただければ幸いです」
「ふむ……」ニコラは思案するように顎に手を当てる。「つまり、基本的に夜中は自室でじっとしていろ、ということなのでしょうか? 来訪者が自室から出られない状態こそが、この水銀塔における一番の防犯でしょうし」
「いえ、そこまで直接的には……」ソフィアは困ったように手を振る。「これらはすべて、マグヌス様がご用意なさった仕掛けですので、その真意は私のような未熟者には推し量ることがかないません。セフィラ教会では、規則正しい生活を送るよう指導しておりますので、その一環なのやもしれませんが」
「いえ、僕も嫌味を言うつもりはないのですよ。ただ、思ったことがすぐ口に出てしまうというか、人の心がわからないといいますか……。とにかく他意はありませんので、ご気分を害されたのであれば謝罪いたします」ニコラは頭を下げる。
 人に頭を下げることができる錬金術師が、この世に存在したのかとエミリアは驚く。
「──諸注意は以上となります。多少のご不便をお掛けいたしますが、『決まり』というよりもこの水銀塔の『仕組み』ですので、何とぞご理解いただければ幸いです。また各部屋には内線電話が設置されておりますので、ご用の際はお気軽にご利用くださいませ」
 ソフィアは今一度深々と頭を下げた。
《神の子》ヘルメスが建造し、《始まりの錬金術師》マグヌスが改良して住み着いた、この水銀塔という特殊な建物が当たり前のように存在し、エミリアたちはそこに間借りさせてもらっているだけなのだから、そういう仕組みの建物なのだと理解する以外に道はない。
 幸い、一般的ではない生活習慣を強要されるという類の話でもないし、普段よりも少し気を遣って生活するだけで良いのだから、それを拒絶する理由もないだろう。
 夜型のテレサは少し不満そうではあったが、さすがにこの場で不平を述べるほど愚かでもないらしく、黙ってソフィアの言葉に耳を傾けていた。
「では、長々とつまらない話を失礼いたしました。早速お食事の用意をいたしますので、今しばらくお待ちください」
 そう言ってソフィアが立ち上がったタイミングで、聖騎士団の四名も立ち上がった。
「──アシュトン司教。せっかくのお申し出ですが、我々は遠慮させていただきます」
 代表して隊長であるジェイラスが、わずかに敵意を滲ませて告げる。ソフィアは何か言いたげだったが、事情があるのか寂しげに目を伏せて、そうですか、と呟く。
「……致し方ありませんね。では、何かご要望がございましたら、いつでもお申し付けください、サンスポポビッチ様」
「サンスコットです!」
 ジェイラスは肩を怒らせ、残りの三人を引き連れてラウンジを出て行ってしまった。気まずい沈黙が周囲に満ちる。何か気の利いたことでも言えればいいが、残念ながらエミリアはそれほど器用な人間ではない。
 すると突然、テレサが立ち上がって殊更明るい声で言う。
「司教様! 恥ずかしながら私は、酷い空腹を覚えています! 是非ともわたくしめに食事の用意のお手伝いをさせていただけたらと思います! そしてあわよくば私の分だけ少し大盛りでお願いいたします!」
 天然なのか道化を演じているのか、正直エミリアには判断がつかなかったが、それでもソフィアは曇らせていた顔を晴れやかにして微笑んだ。
「ええ。それでは、急いでお食事の支度と参りましょう。テレサ様のお口に合えば良いのですが──」

8

「うぅ……肉を食べないと力が出ない……」
 図書室の床の上で、再びたくさん本を広げて読んでいたテレサは突然唸った。
 向かいで本を読んでいたエミリアは、またかと思いながら顔を上げ、肩を落として項垂れるテレサに言う。
「いい加減諦めてください。むやみな殺生を禁じているセフィラ教会の施設で肉料理なんて食べられるはずないでしょう」
「これは思わぬ誤算だった……あんな草食動物の朝食のような健康メニューがこの先も続くようなら私は死んでしまうかもしれない……」
 この世の終わりのような顔でテレサは呻く。先ほどソフィアが夕食として振る舞ってくれた食事は、マッシュポテトとサラダと豆が少し、というとても質素なものだった。肉が大好物のテレサにとっては物足りなかっただろう。
「ああ……ソーセージの入ったプディングが食べたい……エミリアちゃん作って……」
「材料があれば何かしらは作れるんですけどね……残念ですが何もないので無理です」
 きっぱり言い切って、エミリアは本に戻る。テレサは、「世知辛いよぉ……」とまだ泣き言を言っている。
 夕食が終わってからもエミリアたちは塔内の調査を続けたが、やはり大した成果は得られず、やむなく図書室で本を漁りながらヒントを探すという地道な作業に戻っていた。その間も何度か人の出入りはあったが、基本的にはエミリアたちが図書室を占領している状態だった。
 正直言って望み薄ではあったが、今は他にやることもない。しかし、確かにテレサの言うように、あれだけの食事ではさすがのエミリアも少し物足りず、早くも空腹を覚え始めていた。おかげで、集中力も持続せず、調査の効率も悪くなりつつある。
 仕方なく雑談で、気分転換を図る。
「そういえば、先生。先ほどの司教様のお話、理解できました? 結構複雑でしたけど」
「……私を馬鹿にしておるのか、きみは」やる気なくテレサは半眼を向けてくる。「私は人類の至宝だぞ。あの程度の話、複雑でも何でもなく十全に理解できたわ……まあ、事前に資料で読んでたから知ってたんだけど」
 テレサは、床の上に山と積まれた本の中から一冊を選び出してエミリアに見せる。
「……この資料によれば、最初マグヌスは、パネルを操作するとパネル横の水銀壁が扉のように開く機構だけを設置していたらしい。その後、防犯の意味合いも兼ねてプライベートスペースに個人認証のようなものを付けたと書かれている」
「へえ、後付けなんですか」それは初めて聞く情報だった。「そもそも個人認証ってどういう機構なんでしょうね?」
「……パネルを操作するための権限のようだね」ハードカバーをパラパラと捲りながら面倒くさそうにテレサは答える。「つまりパネル操作の権限を個人に限定することで、プライベートスペースを保護しているそうだ。そうすれば、それが部屋の鍵のようになる、ということだね。ただ、あくまでもパネルは元々横の水銀壁を扉のように開くための機構であって、厳密な意味でのその部屋の鍵というわけではない、という点は注意が必要だ」
 テレサの言っていることの意味がわからず、エミリアは首を傾げる。
「それはどう違うんですか?」
「……水銀壁はそもそもきみの部屋を施錠しているわけではない、ってことだよ」面倒くさそうにしながらも、テレサはちゃんと答えてくれる。「パネルはただ機械的に、権限のみでパネル横の扉を開くか否かを判断しているだけなのだ。部屋が誰のものだとか、中に誰がいるだとか、そういうのは一切関係なくね……」
 それだけ言うと、テレサは飽きたように大あくびをした。空腹のせいか、そろそろ集中力も限界のようだ。ソフィアに言って何か食べ物をもらったほうが良いだろうか、とぼんやり考えていたところで、図書室の扉が開く。
「おや、ここにいましたか。探しましたよ」
 人の良さそうな笑みを浮かべてやってきたのは、バアル帝国の錬金術師ニコラだった。途端、テレサは不機嫌そうな顔で彼を睨む。
「……何の用だ。我々はこう見えて忙しいのだが」
 しかし、ニコラはまるで気にした様子もなく、笑顔のまま続ける。
「折り入って相談があるのですけれども……お二人とも料理の腕に自信はありますか?」
「料理……ですか?」意外な言葉にエミリアは、テレサと顔を見合わせる。「簡単なものでしたら、多少は」
「それは良かった」喜色を浮かべてニコラは手を叩く。「いやあ、実は、先ほどいただいた菜食中心の食事では物足りなかったので、持って来ていた干し肉を使って何か作ろうかと思ったのですが、僕もシャルロッテくんも料理の腕はからきしでしてね。せっかくなので、美味しいものが食べたいではないですか。なので、料理の得意な方を探していたのですよ。ああ、もちろん帝国の連中と関わり合いになどなりたくないとおっしゃるのでしたら、早々にこの場を──」
「肉!」それまで機嫌が悪そうだったテレサが突然目を輝かせる。「肉があるのか!」
「ええ、しかも結構良い肉です。厨房を使う許可はもらっていますので、調理をお願いできるようでしたらご馳走させていただきますけれども」
「いけ好かない奴だと思っていたが、存外良い奴だな、きみは!」
 先ほどまで力なく床にへたり込んでいたはずのテレサは、水を得た魚のように元気よく立ち上がる。
「何をのんびりしておるのだ、エミリアちゃん! 早く厨房へ行くぞ!」
「……あの、まだ僕、料理するとは言ってないんですけど」
 不満を漏らしながらも断る理由はなかったので、エミリアは立ち上がる。
 正直なところ、エミリアはまだこの錬金術師らしからぬ人の良さを滲ませているニコラ・フラメルという男の評価を決めかねていた。印象どおりの好人物なのか、あるいは裏で謀略を巡らせる策士なのか。この誘いも、罠と言えば罠に思えなくもない。現時点でその意図までは推し量れないが、警戒するに越したことはない。
 厨房では、軍服の上からエプロンを着けたシャルロッテが鍋の前で腕組みをしていた。
「ちょっとシャルロッテくん、何やってるんです?」慌てたようにニコラが声を掛ける。
「何って、少将が席を外している間に料理を完成させて驚かせようかと思って」シャルロッテは真顔で答えた。
「いえ、そういうサプライズは結構ですので、そこに座っていてください」
「こう見えて料理は得意なのです」胸を張るシャルロッテ。
「わ、わかっています。ですが、今回はエミリアくんにお願いしたいと思いますので。ね、エミリアくん?」
 妙に必死な様子でエミリアに話を振るニコラ。ニコラの焦りの理由はエミリアにもわかる。学生時代、シャルロッテは絶望的な料理センスを彼の前で何度も披露していたから。しかも、当の本人は自分が料理上手だと思っているので始末が悪い。仕方がないので、エミリアは一歩前に進み出る。
「──中尉殿。僭越ながら少将より調理の任務を承りました。この場は、私にお任せを」
 慇懃なエミリアに何か言いたげなシャルロッテだったが、結局恨みがましく睨みつけただけであっさりとその場を譲ってくれた。彼女もまた、エミリアが料理上手であることを知っていたからだろう。
 少しだけ野菜も借りて、エミリアは手早く干し肉をふんだんに使ったスープを作る。
 テレサは大喜びでスープに堅くなったパンを浸して食べる。
「生き返る……これで蒸留酒でもあったら最高なのになぁ……」
「贅沢言わないでください」
 テレサをいなしてエミリアもスープを飲む。ニコラの言うように良い干し肉だったこともあり、出汁もよく出て手早く作った割には美味しいものに仕上がった。先ほどの料理に不足していた動物性タンパク質がまた美味しさを引き上げている。
「いやあ、大したものですねえ。お声掛けして正解でした」ニコラも嬉しそうにスープを啜る。「エミリアくん、確か苗字はシュヴァルツデルフィーネでしたよね。響きがバアル系だったのでご両親のどちらかはバアル出身なのかと思っていたのですが、味付けはしっかりアスタルト系なのですね」
 不意打ちで鋭い言葉が飛んできたので一瞬焦る。確かにエミリアの出身であるローゼンクロイツ家は、元々バアル帝国の名家だった。
「お褒めいただき光栄です」エミリアは平静を装って答える。「先祖がバアル地方の出身らしいのですが、ここ数代はずっとアスタルトの出なのでおそらくはその影響でしょう」
「なるほど……。バビロニア大陸の二大国家は、元は一つの大きな国でしたからね。二国に分かれた後も、それぞれの文化は意外と根強く混在してしまっているのでしょう。名前なんてその最たるものです」
 ニコラの言うとおりだ。王国にもバアル系の名前を名乗る人はたくさんいるし、逆に帝国にもアスタルト系の名前を名乗る人がたくさんいる。だから、それほど問題ないだろうと思って、シュヴァルツデルフィーネを名乗り軍学校に入ったが、結果的にそのせいでバアルのスパイを疑われてしまったので、文化以上に人々の偏見というものは厄介だとエミリアは学んでいた。
「──名前といえば」エミリアはさりげなく話題を逸らす。「今夜この水銀塔には結構たくさんの人がいますけど、先生、ちゃんと名前覚えられましたか?」
「んあ?」テレサは熱中していたスープから顔を上げる。「いや、全然。そもそも覚える気もない。女性陣は完璧に記憶したがね」
「……胸を張って言うことではないです」
「はは、面白い方ですね、パラケルスス大佐は」
 ニコラは楽しそうに笑う。彼の言う面白いは、おそらく興味深い、という意味なのだろうが、エミリアからすればテレサは滑稽というほかない。
「僕も人の顔や名前を覚えるのはとても苦手なのですけどね。でも、今回は偶然にも名前が覚えやすくて助かりました」
「覚えやすい、ですか?」エミリアは首を傾げる。
「ええ、名前のイメージが湧きやすいですからね。イメージと人物を直結させて覚えるのは、記憶術の基本ですよ」
 一度スープを啜ってから、ニコラは上機嫌に続ける。
「たとえば、『ソフィア』は古代語で『神の叡智』を意味する言葉です。セフィラ教会の司教であるソフィア様にはぴったりのイメージです。アルフレッドくんの『クラーク』は『聖職者』を語源としていますし、これもまた覚えやすいですね」
「ではエリザ・フォルモントは、『満月』ですね」突然シャルロッテが会話に参加してくる。「バアル語で『フォルモント』は『満月』を意味しますから」
「満月ちゃんか……名前のイメージどおり可愛らしいから覚えやすいな」テレサが感心したように頷く。「カトリーナさんの『ホーソーン』は確か『サンザシ』か。サンザシは白くて可憐な花を咲かせるが、寒さにも耐えるとてもたくましい植物だ。強く美しい彼女にはよく似合っている。サラさんは『グランド』だから『大地』か。母なる大地なんて表現もあるが、母性溢れる彼女にはぴったりだ。イザベラさんの『ピルグリム』は、確か『巡礼者』という意味だったか。敬虔な彼女にはこれまた相応しい」
「では、ジェーン・スミスさんはどうです? 普通のよくある名前な気がしますが」
 エミリアは少し意地の悪い質問をしてみる。
「ジェーン・スミスはそのまま『正体不明』を意味する隠語だよ。ミステリアスな魅力を持つ彼女にはあつらえたように合っている」
 さすがはテレサ。仮面で顔を隠してほとんど喋らない謎の人物に対しても、ただ女性であるというだけで好感度が高いらしい。続きをニコラが引き継ぐ。
「ほかにも『スタンリー』というのは古代語で『岩の多い草原』を意味するので、硬派なイメージの彼にはよく合っています。ジェイラスさんは『サンスコット』ですから『太陽』ですかね。明るくハキハキした方なのでイメージどおりです」
「暑苦しいしな。私の苦手なタイプだ」テレサは肩をすくめる。
「あとは……レオンさんか」エミリアは頭の中で滞在者を数える。「確か『ウィンディ』でしたか。直訳すると『風』ですけど、最新の情報を得るために飛び回る記者という職業をイメージすると覚えやすいかもしれませんね」
「ほら、イメージというのは重要でしょう?」
 そう言ってニコラは得意げに笑ってまたスープを啜った。

 午後十時過ぎに夜食を終えると、エミリアたちはまた図書室へと戻った。ニコラたちは倉庫のほうを調べると言って去っていった。
 図書室にはまたレオンが来ていて興味深そうに本を読んでいた。邪魔をしないように、エミリアたちも静かに調べ物を続ける。
 しばらくすると、午前零時を知らせる鐘の音が響き渡った。正直言うとまだ調べたりなかったが、門限ならば仕方がないとエミリアたちは本を片付け、図書室を後にする。レオンはもう少しだけ本を読んでいく、と言って図書室に残った。自室へ戻れなくなることはないとしても、熱心なことだ。
 二階へ上がったところの廊下で、ジェイラスとカトリーナと鉢合わせた。彼らはこんな時間だというのに相変わらずプレートメイルを着用していた。いったい何をしているのだろうか、と疑問に思ったが、エミリアが挨拶をするまえに、二人はそそくさとそれぞれ自室へ入っていってしまった。彼らもまたマグヌスの遺産を探しているのだとしたら、明日、少し探りを入れたほうが良いかもしれない。
 そんなことを思いながら、エミリアはテレサと別れて与えられた自室へと戻った。

 そして翌朝──ジェイラス・サンスコットの首無し死体が発見された。

(続きは書籍版でお楽しみください)


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