悲劇喜劇2019年9月号

鈴木忠志が語る浅利慶太――「浅利慶太は演劇の未来を創れた」(悲劇喜劇9月号)

悲劇喜劇9月号では、没後一年をむかえた浅利慶太を総特集。
浅利慶太は、言わずと知れた劇団四季の創設者。演劇の裾野を日本全国に広げました。「キャッツ」「ライオンキング」などをご覧になった方や、自分の初めての演劇体験が劇団四季だという方も多いのではないでしょうか。

今回は、一九五〇年代にアヌイやジロドゥなどのフランス現代劇を上演し、寺山修司・谷川俊太郎などに新作戯曲を委嘱していた、前衛的な時代の浅利慶太に光をあて、稀代の演出家の全貌に迫ります。演出家のみならず、プロデューサー、教育者の位相を読み解くことで見えてくる、浅利慶太の真の顔とは。
日本を代表する演出家・鈴木忠志のインタビューを一部公開。

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***以下、本文です***

浅利慶太は演劇の未来を創れた

鈴木忠志(演出家)

 富山県利賀村から、世界に向けて演劇のあり方を問い続けている演出家・鈴木忠志。浅利慶太とは別の側面から、「演劇を生業としていくこと」を実現させた演劇人である。浅利との個人的な思い出、その功罪、日本の演劇システムに至るまで、今だからこそ言える話を聞いた。

浅利慶太との思い出■
 私と浅利が一番接近したのは、新宿に『キャッツ』のテントが初めて建てられたとき(一九八三)。朝日新聞の扇田(昭彦)から、浅利と対談してくれって電話がかかってきた。対談前に、浅利は青山劇場で同時期にかかっていた『ハムレット』を観てほしかったらしいんだけど、私は『キャッツ』を選びました。ジュリアード音楽院に教えに行ったときに『キャッツ』は観ていたから、日本のミュージカルの役者のレベルを知りたかった。予想よりはよかったけど、感想を聞きたくて入口で待っていた浅利には「おう」って言っただけで帰っちゃった。後日、扇田から電話で感想を求められて、「『キャッツ』ではなく『モンキー』のようだ」って言ったんだよ(笑)。そしたら扇田はそれを浅利に言ったようで、浅利は怒って、対談はナシになった。それからしばらくして、オープンした自由劇場も気になったから、三島由紀夫の『鹿鳴館』を観に行った。下手な新劇やアングラよりも台詞は明晰に聞こえるし、良かったですよ。一時期、四季節と批判されましたが、日本語の特性を実によく踏まえていて、感心しました。劇場は観にくくて作るのが下手だなあと思ったけど(笑)。

(鈴木忠志/於利賀スタジオ)

第二国立劇場問題■ 
 浅利は「新国立劇場はどうにかしないといけない」とよく言っていました。新国立は開館から二十年経っても外国から完全招待されるような演目を作っていない。我々(SCOT)は何回も外国から招聘されていますよ。それなのに、いい加減な演劇研修所なんか作っている。浅利が怒るのも当然です。
 私は東京の演劇界の生臭い人脈には距離を置いていましたが、浅利は孤軍奮闘していた。新国立が出来たのは浅利の努力に負うところが大きい。新劇系の劇団協議会の演劇人と違って、浅利は政治家や行政のことをよく知っていた。ところが浅利には唯我独尊のところがあったから、オペラもダンスも全部自分で取り仕切る芸術総監督になろうとしたんだよ。オペラ界やダンス界は業界が小さく結束力が強い。演劇界は右から左までいろんな意見が飛び交っていたから、まとまらなかった。熾烈な争いの末に浅利は新国立から手を引くことになりました。
 その当時、文化庁長官から、「浅利先生と鈴木先生で新国立を何とかうまくやれないものでしょうか」と電話がかかってきたことがあった。私はこの利賀村に国立劇場よりもすごい環境を作っている自負があったから、新国立に関わるつもりはなかった。でも、新橋のあたりでJRから劇場を借りている浅利の立場からすれば、新国立が魅力的なのはよくわかったし、私は割と浅利を応援していました。
 当時の正副芸術監督だった藤田洋と渡辺浩子が訪ねてきて、新国立のオープニング作品の演出を手掛けてほしいとオファーされたこともありました。團伊玖磨がヤマトタケルのオペラを作るので(『建・TAKERU』/一九九七)、私には「万葉集」をやってほしいって言うからびっくりしちゃったよ。「万葉集」って戯曲じゃないだろ(笑)。一応、「スズキ・メソッドで訓練されている俳優は同じようなトーンで一斉に台詞を言えるから演出をお願いしたい」なんて理屈をこねる。本音はどうなんだって聞いたら、ある官僚が「鈴木さんに頼めば大蔵省からたくさん予算が出るかもと言った」と白状しました。そんなことがあるはずもないんだけど。彼らも芸術家であるはずなのに、芸術家を金のために利用しようとするなんてさ。喜ぶ人はいるかもしれないけど、私は喜びません。
 浅利には、「俺が新国立をやれば儲かる」という、実績に基づいた自信があった。私にも、新劇の若い演出家たちがあの劇場を使いこなせるわけがないという思いがあった。批判する観点は違えども、「反新国立劇場」という点では気持ちを共有していました。

日本の演劇教育システムの欠陥■
 私は浅利に、「最後に学校を作ったら。ミュージカルだけの教育じゃなくて、演劇学校を。」と言ったことがある。新国立の研修所なんて劇団が附属されていないから、優秀な人がスターになって主役を張るシステムになっていない。育てたところで、頭を下げて芸能事務所に所属させるしかない。私はスズキ・メソッドという訓練方法を作って教育活動をしています。世界中から毎年若い役者がたくさんやって来る。劇団員向けの教育システムも作り、優秀な人は劇団員として採用するし、それが俳優たちのモチベーションにもなっている。浅利も、四季の劇団員のための訓練方法を作りました。ミュージカル俳優をたくさん育てましたし、制作者やプロデューサーも養成した。浅利が果たした教育的成果は確かにあります。しかし、演劇界全体のことを考えて、学校を作ろうという意識を持たなかったのは残念だと思います。
 あれだけのお金を儲けたんだから、例えば学校を作って三十人ほどの生徒を募集して、徹底的なエリート教育を受けさせて、ミュージカルも歌舞伎もストレートプレイもできる人間を育てればよかった。官僚を見ればわかるように、日本には天才はあまりいないけど秀才はたくさんいる。芸術というものは最終的には精神性とか感受性の問題になってくるから、教育によって素晴らしい人材が育つかはわからない。技術的にものすごいレベルに到達できたとしても、日本人には不利なところがある。そういうことを踏まえた上で、世界を視野に収めた教育ができた可能性のある人物は、浅利慶太しかいない。蜷川(幸雄)では駄目です、彼の作品が受けたのはアングロ・サクソンだけでしょう。外国の教育システムとかを知らないし、実際に世界で教えてもいない。私はジュリアード音楽院で三年間教えていましたから、外国のシステムがどこが素晴らしいか、どういう財務システムで寄付を集めているか、どんな国からどう講師を招聘しているか、よくわかる。アメリカは本当に凄い教師を連れてきて、少数精鋭で徹底的に教育をする。私も、二週間教えただけで半年暮らせるお金をもらったことがありました。日本にはこういうエリート教育がない。芸能界を見たってよくわかる(笑)。グループにならないともたないバイプレーヤーしか育たないから、韓国の子たちにも敵わない。今やアメリカや中国、韓国と比べても日本は人材教育ができていません。
 指揮者は、モーツァルト、ベートーヴェンからジョン・ケージまで知っていて、初めて世界的に認められる。日本の演出家は自分の作曲した曲だけを指揮しているようなものだから駄目だね。俳優も、「これが持ち役です」と誇れるような作品選びができるシステムになっていない。ヨーロッパやアメリカの俳優のバイオグラフィーを見れば、どの先生に教わったかすぐにわかります。ロシアではチェーホフ、イギリスではシェイクスピア──それも『ハムレット』や『リア王』のようなタイトルロールを演じていれば相当な俳優だということがわかる。歌舞伎なら、『勧進帳』の弁慶の役をすれば、それがスターの証拠になる。劇団のシステムがちゃんとしていた頃は、杉村春子は『女の一生』を、山本安英は『夕鶴』を何十年もやった。
 浅利はスカラ座で演出をしているし、オペラ歌手の一流とはどの程度なのかわかっていた。私もミュンヘンやボリショイで演出した経験がある。でも日本の演劇人にはそういう経験がない。利賀には合掌造りの劇場も、ヨーロッパ的な劇場もあるし、世界二十カ国以上の人が出入りしているからいろんな交流ができる。こういう自由な空間を作らないと人材は育ちません。私がドイツで演出したときには、十人ほどの演出助手がつきました。自分の話を聞いてもらうためには、とにかく自信をもって威張っていないといけない(笑)。日本人の美学に反すると感じる人もいるだろうけど、「威張れる」っていうのは大事なことなんです。私は自分でたくさん劇場を持ち、劇団を率いていることが説得力になりました。大抵の日本の演劇人は私とは逆で、外国に行くとコンプレックスを感じて帰ってくる。何故かというと、劇場を自分で持っていないからです。日本には、親分を育てるシステムがない。例えば、外国の劇場の芸術総監督というのは大きな部屋はあるし威張っていられる。どんな人が来ても対等に付き合える。劇場を持っていれば技術的にも美意識的にも積み上がっていく。知識ではなく実技を教えるなら、学校には劇場がないと駄目です。それを満たして、本当の意味での教育をできる可能性があったのは浅利しかいません。

(つづきは本誌でお読みください。)

●プロフィール

鈴木忠志(すずき・ただし)1939年生まれ、静岡県出身。早稲田大学政治経済学部卒業。66年早稲田小劇場を創立。76年富山県利賀村に本拠地を移し、SCOT(Suzuki Company of Toga)へと改称。1982年より、世界演劇祭「利賀フェスティバル」を毎年開催。岩波ホール芸術監督、静岡県舞台芸術センター芸術総監督、舞台芸術財団演劇人会議理事長を歴任。シアター・オリンピックスならびにBeSeTo(Beijing、Seoul、Tokyo)演劇祭創設者。主な演出作品に『トロイアの女』、『世界の果てからこんにちは』、主な著書に『内角の和』(而立書房)、『演劇とは何か』(岩波書店)ほか。

[今後の予定]第9回シアター・オリンピックス/8月23日~9月23日=富山県利賀芸術公園ほか〈お問い合わせ〉0763-68-2356。