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日本一決定戦まであと8日! レースのために1週間も競輪場に缶詰? 公営ギャンブルだからこそ公正であるべし! 選手のストイックな生活

『グランプリ』(高千穂遙)第1章冒頭掲載、2回目の更新です。競輪の選手は、どんな生活をしているのでしょうか? その実態は、こちらが思っている以上に「公正であること」が最優先されていて……


グランプリ

第一章 日本選手権競輪(承前)

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 指定練習走行から検車場に戻ってきた。
 他の選手たちとともにバンクを周回し、一汗流してきた。三月に入って、暦(こよみ)の上では春になっているが、季節はまだ移っていない。冬型の気圧配置が二月末からつづいていて、きょうもきれいに晴れわたっているのに北風が強い。立川競輪場の最高気温は十度を切っている。
「どうですか? 八十嶋さん」
 同じ山梨の涌山(わくやま)大輔(だいすけ)が声をかけてきた。二十六歳の若手だ。この日本選手権競輪が初GⅠ戦になる。
「ギヤが合わない」八十嶋は小さくかぶりを振った。
「少し下げてみる」
 競輪で使われるピストという自転車には、固定ギヤが用いられている。一般的な自転車に装着されているフリーギヤとは異なり、このギヤは逆回転させると、そのまま車輪も逆回転する。当然、足を止めることはできない。走っている間はまわしつづけている必要がある。変速機能もなく、ギヤ比を変えるためには、クランク側のチェーンリングか後輪側のスプロケットを交換しなくてはいけない。
 八十嶋は歯数が五十三丁のチェーンリングと、十四丁のスプロケットで検車を受け、指定練習に臨んだ。ギヤ倍数は三・七八五だ。
 検車場の一角にピストを置き、八十嶋は作業をはじめた。倒立台にひっくり返したピストを載せ、チェーンを外す。
「失礼します」
 横に誰かがきた。首をめぐらすと、覗(のぞ)きこむように松丘蘭子が八十嶋を見ていた。
「俺?」
 八十嶋はきょとんとなった。けいりんキングの新人記者が、自分のところに取材にくるとは思っていなかった。
「インタビュー、させてください」
「綾部くんは? もういいの?」
「なんか、だんだん答えてもらえなくなっちゃって」
 そうだろう。
 八十嶋は内心でうなずいた。
「あたし、嫌われちゃったんでしょうか?」
 不安げな表情を浮かべ、蘭子は言う。
「ちょっと違うな。綾部は、あまり人にものを教えるのに向いていない性格なんだ。天才肌で、直感的。今回は落車の怪我で欠場してるんだが、弟の俊博(としひろ)も競輪選手だ。あいつがデビューしたころ、しきりに嘆いていたよ。にいちゃんはなんにも教えてくれない。指導してやるって練習をはじめたのに、いつの間にかひとりで走りまくっている。俺はいつも置いてけぼりだって」
「はあ」
「よく言えば、集中力が半端じゃないってことだな。練習に入ったら、何も見えない。他人のことは何も考えない。悪く言えば、自分勝手ってやつだ。長所でもあり、欠点でもある」
「ということは」
「たぶん、途中からあんたの話はまともに聞いていなかったと思う」
「そうなんですか」
 蘭子はため息をついた。
「インタビューは受けてやるよ」八十嶋は言葉を継いだ。
「なんでも訊いてくれ」
「ありがとうございます」
 蘭子の声が明るくなった。
「赤倉さんが言ってたよ。競輪のことは何も知らないんだって?」
「はい。知りません」
「…………」
「自転車でレースをしているというのは知ってます。あと、ギャンブルだってことも」
「綾部くんには、何を訊いた?」
「なんで、ブレーキがないのかとか、レースは何人で走るのかとか、きょうはなんのために集まっているのかとか」
 チェーンリングの留めネジを六角レンチで外そうとしていた八十嶋の手が止まった。
「それは、たしかに綾部くんも逃げちゃうね」
 短い間を置いて、言った。首をめぐらし、蘭子を見る。
「いま、たくさんの選手がそこで走ってましたよね。もしかして、あれがレースだったんですか?」
 蘭子が言った。
「いやいや」六角レンチを握る右手を、八十嶋は左右に振った。
「きょうは前検日。レースはない。あれは指定練習だ」
「…………」
「レースにはグレードがある。FⅡ、FⅠ、GⅢ、GⅡ、GⅠ。あとに行くほど格式が高くなり、賞金も高くなる。もちろん、出場できる選手も限られてくる。これからはじまる日本選手権競輪は、ダービーとも呼ばれていて、格式もめちゃくちゃ高い。勝った選手は、ダービー王だ」
「GⅠなんですね」
「そう。毎日、盆も暮れも正月もなく、日本のどこかでおこなわれているレースは、そのほとんどがFⅡ、FⅠ戦で、三日開催になっている。初日が予選。二日目が準決勝、最終日が決勝戦。ダービーはGⅠだから、ちょっと長くて、六日開催。その開催日の前の日に、選手は競輪場に集合する。そして、検車を受ける」
「さっきやってたことですね」
「ピストや用具を検査するんだ。競輪は公営ギャンブルだから、常に公正でなくちゃいけない。それで、ピストのフレームやパーツに歪(ゆが)みや傷がないかなんてことをしっかりと調べる。お客さんが大金を賭けた選手のピストが、レースの途中でいきなり壊れちゃったら、話にならない」
「そんなの、あたしも怒ります」
「というわけで、きょうはレースがない。検車のあとは練習して、記者会見なんかがあって、宿舎に入る」
「選手全員が?」
「全員だ。最終日まで、宿舎暮らし。競輪場の外には一歩もでられない」
「近くに住んでいる人は、家に帰っちゃうとか」
「できない。さっきも言ったように、競輪はギャンブルだ。選手が客と接触するのはご法度(はっと)になっている。公正さを保つためには、選手を宿舎に入れて缶詰にしておくしかない。外にでたら、誰とどこで会うか、いっさいチェックできないだろ。当然、携帯電話も預けることになる。インターネットも使えない。テレビは見られるけどね」
「じゃあ、今回は一週間、競輪場に入ったきりになるんですか?」
「長いんだなあ」
 チェーンリングの交換が終わった。五十三丁が五十二丁になった。これでギヤ倍数は三・七一である。少し軽くなった。後輪を装着し、チェーンをかける。
「奥さん、さみしがりますね。お子さんも」
「…………」
「あ、すみません」かすかに曇(くも)った八十嶋の表情を見て、蘭子があわてた。
「お独(ひと)りじゃないと思って」
「そうだよ」グリスで汚れた手をウエスで拭(ぬぐ)いながら、八十嶋は言った。
「独り身じゃない。一応、嫁がいる。子供はいないけどね。たしかにさびしがっているかもしれないなあ。でも、それは結婚する前からわかっていたことだ。競輪選手の生活がどういうものか承知の上で、うちにきた」
「たいへんですねえ。競輪選手は」
「競輪だけじゃない。競馬もオートレースも競艇も、みな同じさ。この仕事は、こういうもの。何日かを宿舎の四人部屋で仲間とともに過ごし、開催が終わったら、またつぎの競輪場に向かう。開催と開催の間は、ひたすら練習だ。それが一年中つづく。俺は、もう二十年以上、この生活だ」
「八十嶋選手、まもなく特選の共同インタビューです」
 ダービーの専用ジャケットを着た執務員が、八十嶋に声をかけた。
「おっと、もう時間だ」
 工具をまとめ、八十嶋は立ちあがった。ダービーではシード選手二十七人が、特別選抜予選を走る。開催初日に一レース、二日目に二レースが予定されている。二日目の第十レースが八十嶋のでる特別選抜予選だ。初日はレースがない。
「共同インタビュー、行くかい?」
 八十嶋が蘭子に訊いた。
「…………」
 蘭子はきょとんと首を傾けた。
 言われたことの意味すらわかっていない表情(かお)だった。

――――

『グランプリ』高千穂遙

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